さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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星月夜 vlo9 水晶月

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   水晶月

 三月後半から四月初旬にまたがって、ジンさんのギャラリー〈個室〉で妃翠房の三人展をすることに決まった。期間は一週間。
八幡宮前の花屋の軒先に、フリージアや水仙、梅に桃、ヒヤシンスの小鉢が並び、朱の大鳥居をくぐって参道の真ん中に土を盛り上げた石組みの段かづらを歩けば、早春の大気は一月よりさらに清涼な芽吹きの香気を含んで、銀鼠の曇り空が桜並木の頭上にひろがっている。
如月早々にジンさんは鹿香にやってきて、ダイレクトメールの資料や作家それぞれのコンセプトなどを打ち合わせ、初日のヴェルニサージュと最終日には、小さいパーティを催すことまでを決めた。
ジンさんの手土産はくうやの最中。スタンダードな文化がこのひとの中にある、とわたしは意外な気持ちで菓子折りを受け取る。紗縒もまたひとを尋ねるとき、よくくうやを使った。それからとらや、いずみや。ブランドで気取るのではないが、目上にさしあげる礼儀の品は無難なものがいい、と母は言っていた。ジンさんはもしかしたら紗縒の習慣にずっと倣っているのだろうか。
「展示のタイトルはどうしますか?」
 尋ねられた百合原さんと綴さんは顔を見合わせ、わたしを促した。
「VEXATIONS、癪の種。サティのピアノから」
「へえ。いいんじゃない」
 ジンさんは鼻の頭を赤くしてくしゃみをした。
「あなたがたならもっと女の子っぽいタイトルつけるかと思ったけど」
「べたべたした語感は、あたしたちみんな好きじゃないっていうか…」
 綴さんは言い、ティッシュボックスをジンさんの前に押し出した。ジンさんはハンカチを持っていないようだった。彼はありがたくボックスをうけとり、横を向いて鼻をかんだ。インフルエンザからようやく回復した百合原さんは眉間にかるい縦皺を寄せ、
「お風邪ですか?」
「いや」
 ジンさんは洟をかんだちり紙をまるめてダウンのポケットに突っ込み、、
「煙草の吸いすぎかな。やめようと思ってもやめられないね。禁煙しては復縁」
「ふくえん?」
 わたしは思わず繰り返した。
「煙じゃなく、糸偏のえん。切っても切れない腐れ縁、とまではいかないが、ぼくくらいの年になると、女性も煙草も酒も等位置になるのね」
 百合原さんは即座に
「ということは女性はいつも愛部さんの手の届くところにいらっしゃるの」
「ふうん、いや、値上がりしたからね。昔みたいにチェーンスモークできない。周りの女性はみんな高嶺の花ばっかりだし」
 ジンさんはわたしたち三人を見回してうれしそうに笑った。斜に構えているぼさぼさ頭のジンさんには、色男らしいリアリティがまったく感じられなかった。それでわたしたちも笑った。おだてられて怒る女性はたぶんいない。見え見えのお世辞でも、褒められれば好い気分だ。ことにジンさんなら毒と薬はぷらまいぜろ。
 わたしは、一見うすだらしない不良のジンさんがなぜ憎めないのか、すこしずつわかってきた。彼はおだてた相手から自分の快楽や利益を奪おうとしないから。それでいてかなりあからさまに綴さんや百合原さんに秋波を送る。人妻だって、節度にさしつかえない程度にくすぐられるのはうれしい。
妃翠房のスタッフの二人、乃菜も含めれば三人は、みんなジンさんが気に入ったようだ。ぼくくらいの年齢と言ってもまだ六十三歳。男性としてはデカダンスな年齢だが、枯れるには早い。
「作品はできてるんでしょ、みなさん」
「新作も出しますよ、せっかくの機会ですから。それと、ヴェルニサージュのときに、あたしのお弟子さんに、座興パフォーマンスしてもらおうって考えています」
 百合原さんが言うと、
「その子の名前もDMに入れないとね」
 応えるジンさんの言葉遣いは、どこかから敬語ではなく軽い調子に変わっていた。
「どんなパフォーマンス?」
「シンガーです。ユニットで活動しながらうちに来ているの。プロデビューはしてませんが、人気はあるわ」
「女の子?」
「はい。美人風、シャンプーって。名前どおりかわいいの」
「俺知ってるよ。もう何度かうちでやってくれた。シャンプーリンスでしょ。ふたりのどっちがあなたの弟子なの」
「佐久間早織さん」
「シャンプーのほうね。このごろこっちに来ないと思っていたら、そうかあ。あの子…」
 と言いさしてジンさんはにやにや笑いでごまかした。なんだろう。思わせぶりな思い出し笑いだ。いやらしいぞ、ジンさん。
 でも尋ねるのも面倒なので、わたしも百合原さんも知らんぷりした。

 水晶に欲望立つるそのときの喘ぎのやうに響く我かな、魂の半分あるいは一部分を残したのは阿修羅さんかな、とわたしは想像し安心した。安心したその先にまた新しい疑問が生まれた。阿修羅さんははっきり「紗夜の全部が自分のところにとどまったのではない」と言った。わたしが聞き出したのではなく、彼が自分で水品紗夜との係わりを明かしてくれたので、疚しい気持ちにならないですんだ。
 が、そのために前よりいっそう母親の生前の恋物語をひもときたい気持ちが強くなってしまった。世間のモラルからすれば母親はジンさんと結婚していながら、阿修羅さんとつながっていたのだ。いっそ阿修羅さんと一緒になったほうが良かったのではないかと思ったが、わたしより幾つか年上の息子さんがいるのだから、あちらも家庭持ちだったというわけか。
しかし母の歌のとおり、阿修羅さんが独白したとおり、恋人は彼ひとり否ジンさんとふたりだけではなかったと思う。母は自分の魂というか恋心をいくつも分けて、それぞれに与えていたのだろうか。恋物語に点描される個性を持ったその他大勢はどこだろう。
フランスものならサンドにコレット、デュラスに……日本だって珍しくない、歌人なら岡本かの子とか、古くは和泉式部とか。そういえば母は和泉式部と式子内親王が好きだった。情熱のままに男性遍歴を重ねた和泉と、おそらくは架空の恋人に向かって絶唱の恋歌を数多く残した永遠の処女式子内親王とは対照的だが、同心円を描くコンパスの針は、当然ながら宇宙の同じ位置に刺さっている。わたしは和歌が好きだった母の影響で、全部ではないが和泉式部集や新古今を覗いていた。
マダガスカル・プリマヴェーラのミランダはわたしが貰うことにした。香枕のマンションで独り暮らしのわたしには相棒が必要だ。母の魂が彼の中に幾分遺されているなら、なおさら傍にいてほしい。
晩年のコレットはこんなことを言っていた。自分はもう人間の恋人はいらないが、巨大な美しい猫と同棲したい。うろおぼえだけれど、偉大なるダブルスタンダードの遊び人コレットは、その後ちゃっかり若い男を伴侶に迎え、二人の愛の巣に猫がいたかどうか知らない。
夭折するのでもなければ、わたしはまだ晩年という世代には遠いが、ミランダをひきとろうという決心をしてあらためて、自分はなんと恋愛遠い青春を過ごしたんだろうと、ちょっとばかり口惜しくなった。口惜しがっても仕方がない。和泉式部のように空をながめて……つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天降り来むものならなくに……と甘い媚態で誘える対象は、天地がひっくりかえっても突然には現れない。
銀座の三人展には、主に水彩画を中心に十枚くらい出品しようと思う。母と過ごした告知後の半年の間、わたしはそれまでアルバイトで講師をしていた受験予備校をお休みし、妃翠房を手伝うようになっていた。いずれ亡くなることがわかっていたので、母は自分の死後のあれこれを教え込むために、めずらしく彼女からわたしに指図したのである。
その半年は、結局店よりも母親の傍で過ごすことが多く、マンションにいる間、一日のうちの数時間を水彩やデッサンで気を紛らわしていた。題材は、母の姿が多かった。
「モチーフはデルボーの模倣みたいに見えるけれど、水彩だし、こういうカラフルな多色遣いは」
 そこで百合原さんは黙って微笑した。
「お母さんの真似?」
 噤んだ言葉のなかみを補うと、
「今にして思えば、あなたと紗縒さんとの合作をしておけばよかったわね」
 と彼女は上品にかわした。
 デルボーあるいは水品紗縒のレプリカか、とわたしは吐息をついた。せめてレオノール・フィニを連想してもらえたら自慢かな。だけどあんなものすごいテクニック、ちょっとやそっとでできるものではない。ちょっとやそっとでないから天才なんだろう。水品紗縒は独学で、デッサンなどあまりうまくなかったが、裾ぼかしまた裾濃の透明水彩を駆使して、誰でも綺麗と思う花と夢のまぼろしは画面にあふれた。
 二月半ばに阿修羅さんと息子さんは海外へ出発する。初旬出発予定は仕事の都合で遅れた。もうじきミランダをひきとりにまた世田谷に行く。今度は車で行かなくては。そして三月のVEXATIONSには、ミランダの大きな絵を一枚アクリルで描こうと考えていた。水彩ではなく、塗り重ねのできるアクリルは油彩と違って臭気がなく乾きが早いので、今のわたしの精神状態にはぴったりだ。三月の搬入まで、じっくりと一枚、ミランダと紗縒を描こう。わたしの絵筆に天の恩寵でもいただけるなら、ミランダに宿っているという母の魂を絵の中に移せるか……それはないねでも。

星月夜岬沿いのカフェレストランに現れた美於さんは、めずらしくジーンズを穿いていた。そういえばこのひとのスカート以外の姿を見るのは初めてだ。縁にファーの飾りがついているスエードのショートブーツ。雪もよいに、スエードはもったいない気がするが、カジュアルなブルージーンズにキャメルカラーはよく似合っていた。
昨晩遅くから散りはじめた小雪は今朝になってもやまず、時間がたつにつれはっきりとした降雪となった。わたしが香枕を出る昼過ぎには地面は残りくまなく積雪に覆われ、視界を斜めによぎって吹雪のように雪片が踊っていた。昨年のクリスマス以来のまとまった雪だ。一月にも何度か雪の気配は訪れたが、びしょびしょした霰交じりは、寒くて陰気なだけで、純白の雪を慕う楽しさは皆無だった。
 交通機関はちゃんと動いていたので、わたしはバスと江ノ電を乗り継いで星月夜にたどり着いた。バスはのろのろと、そこかしこでしょっちゅう停まり、約束の時間より三十分も遅くなってしまった。美於さんは海沿いの席にのんびりと座り、ロイヤルミルクティを飲んでいた。レストランに駆け込むなり、彼女の方からシナモンシュガーの香りがつんと漂ってきた。
「いい雪景色」
 美於さんはのんびりと言った。昼下がりのティータイムだがウィークデイで、しかも雪のためにお客は少なく、店内に流れているパッヘルベルのカノンがはっきり聴こえた。
「カノンは雪に合うわねえ」
 雪のふりしきる海のほうを眺めてうっとりと美於さんは言う。美於さんの家はこの近くだから、この程度の雪はすこしも難儀ではない。歌でも詠みたいというような夢見る視線が、星月夜駅から小走りに駆けてきたわたしを離れて、真っ白い結衣ヶ浜に泳いでいる。
「バロック音楽って雨や雪に似合いますね、ところで」
 とわたしはコートに被った雪の結晶が、店内の暖かさで六角形に光り、繊維のあちこちできらきらと溶けてゆく様に眼を奪われながら、そそくさと本題に入った。
「寒かったでしょう。何か暖かいものを最初にどうですか」
「鈴来さんと同じもので。今日はお願いがあってお呼びだししたんです」
「ケーキかシュークリーム食べませんか」
「いいですね。それならセットで。あの、水品紗縒の拾遺集を出そうという企画を立てているんですが」
「いちごショートか、エクレアか、チョコレートもおいしそう」
 美於さんはケーキセットのメニューに覆いかぶさるようにして品定めをする。
「わたしモンブランにします。飲み物はやっぱり普通のコーヒー。で、三百首くらいを選ぶんですが、母の歌い残しから全部わたしが抜き出すのは気がひけるので」
「なぜ。あなたがなさったらいいじゃない」
 ようやくメニューから顔をあげて、美於さんは返事をくれた。きりっとした声で、
「なぜ遠慮するんです?」
「わたし短歌は素人だから」
「関係ないわよ。プロでなければ短歌を味わえないとしたら、詩歌の世界は窒息してしまうわ。感動にプロもアマもないでしょう」
 そこが問題なのです、とわたしは心の中で答えた。わたしはずっとお母さんの傍にいたから、初々しい読者の感動を失っているのではという気がするの。鑑賞に余計な不純物が混じりそうで。……特に恋歌はしんどいな。自分が恋愛未満で、二十代のあらかたを過ごしてしまった事実を発見したあとは、なおさら、母親の恋歌を選ぶ眼にいじましいコンプレックスでも混じってしまわないだろうか。が、こんな本音は口が裂けても言えない。もっとも酔っ払ったらうかうかと喋ってしまうかもしれない。
「わたし知識もありませんし」
「考えすぎよ。それに、水品さんて、教養はおありだったけれど、味わうのに知識がいるペダンティックな歌は少なかった、いえ皆無だと思う」
「はい、でも没後の総まとめみたいにしたいので、わたし迷ったあげくに、母と親しかった阿修羅炯一さんに御相談申し上げて、何人かの、母と親しかった方に、それぞれ三十首くらいを選んでいただこうかしらと思いついたんです。ご迷惑でなければ、鈴来さんも」
「今まで出版されたもの以外、といっても厖大でしょう。整理する作業だけでも」
「それは、むしろ愉しいかもしれないんですよね。母とは一緒に暮らしていたけれど精神的に距離がありましたから。仲が悪かったわけではなく、むしろ良かったと思うんですけれど、お互い自分の一部分だけ適当に見せ合って暮らしてきたなって」
「よくそんな芸当ができたわね、あたしとても無理だわ、無理だった」
 運ばれて来た三角形のラズベリータルトの真ん中に、美於さんはまずフォークを垂直に立て、それからつつっと左右に動かして、蜜の盛り上がったタルトのかたちを壊さず上手に切った。
「芸当?」
「そうよ。家族の間柄で、自分の見せたい面だけで上手に接して三十年近く波風なしに生活できたなんて、信じられないわ。他人同士なら……相手の存在が自分の損得に係わる職場の上司とか、友人となら、そのくらいの心構えが要るでしょうけれど」
「心構えですか?」
「あなたのびっくりマークのついた今の顔、わたし忘れないわ。初めて知った、一卵性の親子って、つまりそういう…銀河系と銀河系を隔てたみたいな関係だったのね」
「すごい比喩だわ」
「そう、ありえないって喩えよ」
 美於さんはおっとりした声に戻っていた。

雪の日はこころ飾らず道端のポストとなってひとを忘れむ、このひとは誰? 君ではなく「ひと」にしたのはきっと意味がある。恋人を忘れようとしたのか、それとも人間である自分自身を、あるいは人間の存在じたいを忘れて、無機質な赤い郵便ポストになって雪道にぼんやりとたたずんでいたい、と歌ったのか。無機質になってもポストなのだから、誰かれの投函するメッセージを待っていたのだろう。特定しない不特定な対象からの働きかけを。忘れよう、でも忘れないで。アムヴィヴァレントなこころのありかが赤い。
(飾らず……寂しい、と言いたかったの)
 雪の日、きっと人通りの絶えた道の辺に綿帽子を被っている丸い、あるいは四角い郵便ポスト。寂しいという感情をいつわらず、誰かと、そして自分自身を忘れようとしていたの、これは阿修羅さんではないね。
(だってあのひとはずっとお母さんのこと好きだったじゃない)
 母の拾遺を選んでいただく方は、阿修羅さん、美於さん、それから妃翠房の二人の女友達にそれぞれ十五首ずつ合わせて三十首をふり、美於さんの勧めで、丈流先生にもお願いのお手紙を書いた。メールでは失礼だから直筆で。
星月夜岬で美於さんと会った翌日も、まだ撤退しない低気圧の居座る湘南は雪が溶けずに、道の雪は踏み固められて薄茶色に凍り、転倒事故の報道が朝から頻繁にテレビラジオから流れた。刻み目のある長靴を履いて最寄の郵便局まで出かけたわたしは、雪景色に際立つ真っ赤なポストを見た瞬間、この歌を思い出したのだった。。
わたしは選歌を実の父親であるジンさんに依頼したものかどうか迷っていた。聞くところによると、彼はあるペンネームで知られた現代詩人でもあるらしい。多少は詩を書いているわたし自身それを知らない。名前を聞けばわかると思う。現代詩の人口は短歌に比べてはるかに少ないから。妃翠房に彼がやってきた日にわたしは自分たちの展示について以外の質問をしそびれ、選歌についても決めかねていた。紗縒が嫌がるかもしれない、という気がしたのだった。
なぜだろう。離婚したあとも二人はやっぱりつながっていたのに。母が彼の首に巻いた赤い毛糸のマフラーを、わたしはいつかジンさんに見せてもらおう。それはもしかしたら祖母が母のために編んだ女ものだったかもしれない。
 主だった知人にそれぞれ三十首。選ばれた歌は重複してもかまわないと阿修羅さんは言い、わたしも同感だった。読者に好まれる紗縒の歌がどういうものなのか、わたしも知りたい。歌を選んでいただいた方に、できれば紗縒の思い出として短い散文をつけていただけたらと思った。出版費用は応分に高くなるが、母は自分の遺産のうちに、きちんと死後の雑事のためのものを振り分けていた。拾遺集出版の遺言はなかったが、『紗女集』のあともなお残る未整理の歌群をそのままにしておくのは忍びなかった。
 あっというまに過ぎた一月に比べて、二月はゆるゆると流れていく。湘南一帯を埋めた大雪は一日置いた晴天に日なたの部分はやんわりと溶け、妃翠房の庭先には福寿草や薄雪草、待雪草がむら消えのあわいに咲いた。山桜、染井吉野の大木も、雪のあとの春の陽射しにいっきに樹皮を潤わせ、新芽がつぶつぶと枝先にめぐんできている。桜は莟の薄紅にはまだ遠いが、猫柳や寒紅梅、椿などが濡れた黒土にいきいきと咲き、雪が去ったあとの空の爽やかさは目にしみるように青かった。やがて弥生に至る春の陽射しが、まだ裸木の桜の枝のあいだでふくよかに踊っている。光が踊る大気は新鮮だった。
 お手紙を投函した数日後の夜、丈流さんから香枕に電話があった。
……水品さんの歌について娘さんから御依頼いただくのはうれしいです。よろこんで書かせていただきます。
「ありがとうございます。四月か五月くらいまでに、紗縒の残った歌をできるだけ整理したものを、メールと印刷の両方でお送りしますので」
……たいへんな仕事やね。で、鈴来さんとぼくだけなの、「琰」の中では。
「はい、今のところ」
……ならね、ぼくから言うのも何ですが、擁鬼さんおぼえてらっしゃる? 
「はい」
 グレイストライプのぴかぴかシルクにはレッド・ドラゴンの刺繍。トマス・ハリスのベストセラーサイコホラーをうっかり連想してしまう。だが山田擁鬼は殺人鬼じゃなく、きっとまともで繊細なんだ。デリケートだからせめて名前で武装する。
……彼どうかな。あのとき印象悪かったろうけど、あなたが頼んだら喜ぶよ。水品さんのファンだったからね。よくも悪くも。彼の歌を読みましたか?
「…はい、すこし」
 声がちいさくなった。丈流さんは笑った。
……思想過多で歌は下手やけどね、批評眼はあるよ。センスはいいんだ。口は悪いけれど、根っからぼんぼんやから、無礼なことはしないよ。あなたが頼みにくかったら、ぼくから言おうか?
「よろしくお願いします」
 丈流さんが薦めるなら心配はいらない。ほっとした。そうだ、紗々雪を醸してくださった京都の社長さんもいた。丈流さんの上方訛りが、珠の光酒造を思い出させてくれた。あちらはわざわざ葬儀にいらしてくださっただけでなく、遺族のわたしをなお心にかけてくださり、新年には吟醸二本を贈ってくださった。海老をさしあげてお返しに鯛をいただき、わたしは恐縮している。
紗縒は年に一度は京都に脚を運び、和紙や絹織物、陶器、櫛簪など、京の工芸を隅々まで眺めて回っていた。ほんとうに京都奈良が好きなひとだった。社長さんは七十五歳、阿修羅さんジンさんは六十三、亡くなった紗縒が生きていれば今年五十七歳。でもまだいる。きっといる。そしてわたしの会いたいあなたは、今まだ名前の知れないあなたなのよ。
 モラルよりもうつくしい世界を見つめて、母は透明ガラスの小部屋のなかで、さらにまた繊細なびいどろを吹いてうたっていた。

「片腕は海に残せり原初より我が族(うから)なる鯱の子のため」
香枕のマンションに移ってくるなり、ミランダはうたった。わたしは耳を疑ったが、純白に朱赤のたてがみを炎のように頭上にたてたミランダは、大きな鳥籠のなかで、悠々と毛づくろいし、エメラルドとルビーの両眼をかわるがわる横顔に見せて、もういちど繰り返した。
「カタウデハウミノ、コセリゲンショヨリウカラ…ナルシャチノコ」
 母がまだ若いころの歌だった。
 葛原妙子さんに憧れて歌い始めたという紗縒は、『原牛』の初版を手に入れ、ずっと座右の書にしていた。母が心酔しているのでわたしも自然に葛原氏の詠草に親しんだ。重厚な歌の速度はどれもゆったりと、語感は古代中国の青銅器のように厚くつめたく、ことに『原牛』は、神話を垣間見る幻想のひろがりがあった。母はこのスケールの大きい歌群に倣って言葉を紡ぎはじめたので、初期の歌語はあきらかに葛原さんを想わせる作品がいくつもある。これもそうだ。たぶん第一歌集に収められていたのではないだろうか。
「シャチノコ」
 ギギギクスクスと、擬音として記しにくい鳴き声のはざまに、ミランダの歌声が聞こえる。わたしは呼吸を詰めて彼の眼を覗き、
「お母さん、そこにいるの?」
 問うてみた。
 鸚鵡のミランダは日当たりのよいリビングの窓辺に置いた。母もわたしも家具をごたごた詰めるのは好きではなかったので、3LDKのマンションのフロアは、住人が少ないこともあってすっきりと広い。鳥籠をぶらさげる骨董品の樫のポール、ミランダと、銀の籠が来ても、インテリアの彩りになりこそすれ、部屋が狭くなったようには感じられなかった。今はもうわたしひとりだ。それはこれからしばらく続きそう。
 鸚鵡のセルリアンブルーのくちばしが、欠伸するように大きく開いて、つやつやした太いピンク色の舌がひらめいた。それはわたしの小指ほどもある。
「ジンさんに会ったのね」
 ミランダは母の口調で話しかけてきた。もう驚かなかった。これで当然、いや自然な気がした。
「そう。だってお母さんが彼に『紗女集』を贈ったから、連絡が来たの」
「透姫子をひとりにしてはいけないと思ったので、本を贈ったわ」
「わたしのため?」
「そう」
「でも彼にだってきっと新しい家族がいるでしょう。結婚していないにせよ」
 あ、とわたしは気づいた。わたしは実父のその後を何も尋ねていなかった。あたらしい奥さんがいるのか子供がいるのか。
「いないわ。家族が持てるひとじゃない」
「わたし阿修羅さんにも会いました」
「……」
「あのひとのほうが男性としては素敵ね」
「そうでもありません」
 泰然としてミランダは笑った、ように見えた。純白の両翼を彼は人間が背伸びをするようにぐいっと半ばまでひらき、薄桃いろの地肌が産毛の下に透けて見える腋を覗かせた。翼をひろげるとミランダはたまご型の籠に納まりきれない。翼の先端のブルーも首周りのカラフルな彩りも、人が染めたような原色だった。彼は周囲の銀の柵に触れない中途半端な羽ばたきを二、三度くりかえし、
「ひとりひとりはひとりひとり」
「わたしがお母さんの恋物語を読み直したいと思うのはいけないことですか」
「やめてと言ってもするでしょう。わたしが嫌がればいやがるほど、あなたの知りたい気持ちは強くなる。でも、何かを見たとしてもそれはもうわたしの物語ではないわ」
「どうして」
「いくつかの事実らしいものを寄せ集めても、結局あなた自身が納得できるようにストーリイを織りなおすから」
「そうかもしれない」
「だから、あなたが受け入れたものが何であれ、他者の人生ではなくあなたの物語に変わってしまっているの。そういう物語を心に置いておくと、快い、という」
「ええ」
「誰だって自分の不愉快なものは部屋に置きたくないでしょう。好きなものを集めるわ。心も歌もそう」
 ミランダは金いろのブランコを揺すり始めた。合金のブランコよりも鋭く光る爪は湾曲してたくましい。たまには籠から出してやってと阿修羅さんに言われたが、この爪でうっかり肩に乗られたら、セーターを着ていても皮膚に食い込み血が滲みそうな気がする。
「鯱の子って、わたしのこと?」
「捧げものよ」
「だから誰に」
 ミランダは横を向いた。緑の瞳に日光が入って、ジンさんがくれた琅玕の珠のように光った。ほんとうに、ちょうどそれと同じ大きさ、彩りだった。
「歌うときは、この世界からいつも遊離しながら生きているの。歌をいただくそのお礼に、わたしは自分の肉体の一部をいつも捧げたわ。腕、脚、胸……」
「痛かった?」
「いいえ。それは」
 ミランダはまたくるりと体の向きを変え、ルビー色の眼をこちらに向けた。光の加減で瞳孔のなかに立つ陽炎が妖しい。
「愛の記憶よ」
 ククク、と鸚鵡の喉が震えて、こまかい襟の産毛がたんぽぽの綿毛のようにふくらんだ。わたしはため息をついた。
「お母さん、うたい始めたときからそんな自覚があったの。わたしにはないわ。こんなわたしがお母さんの過去をさかのぼって物語を紡ぐとしても、どんな疑似体験ができるかしら。愛の記憶なんてわたしにはわからない」
「実人生はこころの姿をなぞるわ」
「波乱も? でもお母さんはわたしに波風を見せなかったわね」
「ひとりひとりはひとりひとりよ。見せなくてよいものは見せません」
「…ジンさんにお母さんの拾遺集の歌を選んでもらうのはどう?」
「おもしろいでしょうね」
「他に誰を頼んだらうれしい?」
「それを探したがっているんでしょう。たくらんでもだめよ、言わない」
「かばうの?」
「秘すれば花」
「世阿弥でごまかさないで」
「悪であることが魅惑だと彼は言っているのよ。無垢デハナク悪」
 ミランダは猫のように首を曲げ、片方の翼の中にくちばしをすっぽり埋め、ブランコに揺られながら、うつらうつらしはじめた。
「眠っちゃうの、ミランダ」
「ヒロオ二シナサイ」
 すっかり鳥の声でミランダはつぶやき、羽毛の中でフフフと笑って会話は途絶えた。

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