さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

スポンサーサイト

Posted by 水市夢の on

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

どこにでも扉

Posted by 水市夢の on   0 comments   0 trackback

   どこにでも扉

 クワバラさんは、いくらか嫌われ者みたいでした。有料老人ホーム「やすらぎ」の定員二十人の入居者さんの中でも二番目か三番目に年長者で、九十三歳の高齢のクワバラさん。この施設があたらしく出来てすぐに入居した古株です。
 嫌われている、と言ってはクワバラさんに対して失礼で、過度かもしれません。介護する職員の手にあまる粗暴なふるまいが頻繁にあり、認知症もかなり進んでいて、幻覚や幻視、幻聴もしょっちゅう。車椅子とベッドを職員の全介助で往復する日々です。
 こう書くと、クワバラさんは、さぞ老衰して、弱々しいひとのようですが、じつはその逆です。九十を超えたひととも思えないほど黒々としてたくさんある髪は、その一本ずつの芯がしっかりと太くて、中年女性の若さを残しています。お肌は、さすがに皺に埋もれてしまったけれど、よく見ると彫りのしっかりとした目鼻だちも上品で、若いころは凛々しいような麗人顔だったかもしれません。大正生まれにしては体格もよく、手足長く、骨太で、しかもかなりの長身です。
 高齢になって失見当するまでは、クワバラさんは陽気な、気の強い、わがままな反面、情のこまやかな女性だったそうです。
 認知症が進むにつれ、性格がひずんでしまい、腹をたてて気に入らない職員をぶったり、理由もなく唾を吐きちらしたりするのですが、一過性の混乱がおさまると、とても無邪気な笑顔を浮かべ、心許した相手には、まるで少女のように甘えたりする愛嬌あるひとなのでした。
 体格がりっぱなだけあって、食欲もなかなか旺盛でした。ただ、箸やスプーンなどはほとんど使えず、手づかみです。機嫌がわるかったり、失調していると、なかなか食べようとはしないのです。
「クワバラさん。朝ごはんデスヨ。」
「ヤダ」
「そんなこと言わないで。ほら、巣籠りたまご、おいしそう。きれいに作ってありますよ」
「アンタ、ジキニウソツクカラネ」
「うそじゃないですよ」
「ブス」
「……はいはい」 
「アンタミタイナノハ、ヤダヨ」
「まあ、そうおっしゃらずに。お口あけてくださいますか?」                 
「オトウサマガネ、オイシイオショクジヲヨウイシテルンダ」
「はい。牛乳一口だけでも召し上がってくださいな」
 午前八時「やすらぎ」の朝食時間。リビング兼食堂では、入居者さん十人が、いっせいに朝ごはんを召し上がります。今朝の献立は、青菜のポットに包まれた巣籠り卵、大根おろし、やわらかめに叩いたきんぴらごぼう、お味噌汁、ご飯、それにヨーグルト、という和食でした。  
職員のメダカちゃんこと亀田紀子さんは、根気よく朝ごはんをクワバラさんにすすめます。メダカちゃんというニックネームをもらうだけあって、亀田さんは小柄な女性でした。年齢はもう四十過ぎ。一昨年離婚して、女手ひとつでふたりのこどもを育てています。施設勤務は身心ともに重労働なのですが、メダカちゃんは小太りの丸顔に笑顔を絶やさず、きびきびと手際よく仕事をこなす働き者なのでした。
 トロミをつけ、適温にあたためた牛乳をスプーンで口元にさしだす、メダカちゃんの手首を、クワバラさんはいきなりむんずとつかんで、叫びました。、
「アソコニアカイ扉ガアルヨ」
「扉ですね。そこにあるんですね」  
「トビラダヨ。アソコニツレテッテヨ」
「朝ごはん食べたら行きましょうね」
 すごい力だなあ、とメダカちゃんは、つかまれた手首を、なんとかふりほどこうとしながら、クワバラクワバラ……クワバラさんが扉が扉がと騒ぎ出すときは嵐の前触れ、あぶないなーと思ったりします。
 案の定、クワバラさんは、みるみるまなじりをつりあげ、メダカちゃんめがけ、ぺっと唾を吐き、それだけでは腹立ちがおさまらないとばかりにいきなり、ガタン、と車椅子からたちあがりかけ、もちろん足腰は立たたないから、ぐずぐずと上半身だけ食器をならべたテーブルに前のめりに倒れそうになりました。
 わっ、と周囲の入居者さんは動揺しました。
「あー、だいじょうぶですよ」
 そこは先読みのベテランメダカちゃんは、クワバラさんの唾攻撃を、ひょいと小太りな体つきに似合わない機敏さでかわし、かわすと同時に、食器を置いたプラスティックのランチョンマットをスプーンを握ったままの片手で、クワバラさんのリーチ可動圏外のむこうがわへとぐいっとおしやり、もう片方の手で、憤激してたちあがろうとするクワバラさんの背中側のズボンのゴムをうしろにひっぱって、車椅子に彼女の重心をコントロールしながら無事着地させるというファインプレーで、ことなきを得ました。
誤解のないように申し上げますと、体重や姿勢を支えるために、高齢者さんのズボンのゴムをひっぱる、などは、正規の介護技術として、じっさい誉められたことではないのですが、やむをえない非常時にはなによりも安全優先で、現場ではやむをえない事態、というのは、かなりしょっちゅうあるのでした。
「まー、よかったわねえ」
 と入居者さんたちは、ほっとしてさんざめきました。  
クワバラさんは、まだぷんぷんしていて、車椅子の足踏み台から両足をはずし、ブレーキがかかっているにもかかわらず、床をしきりに蹴って、鼻息あらく、車椅子ごとどこかへ駆け出してしまいそうなせっぱつまった顔つきです。
(○○かな)
 と、メダカちゃんは、また先読みします。クワバラさんが、こんなふうに焦れるのは、たぶんおなかが苦しいからなのです。おむつはあててありますが、プライドの高いクワバラさんは、大きいほうのときには、ちゃんとトイレで済ませたがるのでした。認知症が進むにつれ、わけがわからなくなってしまう便意の兆す感覚も、まだクワバラさんにはちゃんとあり、ただ言葉でうまく表現できなくなっていて、いつもそうとはかぎりませんが、怒ったり、乱暴な行為をしてしまうらしいのでした。
「スイマセン、ちょっとクワバラさん、お部屋へおつれしたいんですが、その間、ここひとりで見ていてくれる?」
 とメダカちゃんは、早朝勤務の相棒に声をかけてから、クワバラさんの個室に入り、やっこらせ、と自分よりずっと大きいクワバラさんの体を、梃子の原理を用いて上手に便座へ移し、クワバラさんをすっきりさせてあげたのでした。だいじなことを済ませてしまうと、クワバラさんはにっこりと、天真爛漫な笑顔になりました。そうして、こんなふうに職員が自分の不愉快をわかってくれて、助けてくれた、とわかるクワバラさんは、その職員に、きちんと
「アリガトウ」
 とお礼を言うひとなのでした。

 介護福祉士のメダカちゃんは、酒癖のわるい御主人と離婚したあと「やすらぎ」から歩いて十分ほどの実家に戻り、お母さんとこども二人の、四人で暮らしています。
 メダカちゃんのお母さんは七十二歳で、自宅で小さな雑貨屋を営み、メダカちゃんの三十年後そのものズバリ、年をとってもあんまり皺の出ないつやつやした丸顔で、ころころと良く笑う楽天的で気さくなおばさんです。
 こどもたちは、上から中学二年の和子ちゃん、四つ離れて小学生の誠くん。ふたりともお母さん思いのよい子ですが、長女の和子ちゃんは、多感な時期に両親のすったもんだやつかみあいの大喧嘩をまともに見て育ったせいか、すこし内向的で、思ったことを周囲になかなかうまく伝えられない、という性格でした。でも、その分、和子ちゃんは、重労働で疲れるお母さんと、雑貨店のきりもりでいそがしいおばあちゃんのかわりに、弟の面倒をよく見るし、ごはんのしたくなども、進んでやってくれるのでした。  
「ただいまあ」  
「おかえりなさい」
 日勤から戻ったメダカちゃんが、玄関の引戸をがらりと開けるなり、台所から、トマトソースでお肉を煮込むいい匂いが漂ってきました。
「ラッキー、今夜はハヤシライスだね」
「はずれ。ビーフストロガノフです!」
 と誠くんが居間から大声で訂正します。
「ビーフ? でもこれポークの匂いだよ」
「半分くらいは牛肉使ってるよね、お姉ちゃん」
「ざんねん、豚100パーセント」
「それじゃやっぱりハヤシライスだ」
 エプロンかけた和子ちゃんが、おたまをにぎったまま、台所から出てきました。誠くんは、居間でテレビを見ながら宿題をすませています。メダカちゃんは上着を脱ぎながら
「テレビか宿題か、どっちかにしたら?」
「んじゃテレビ」
 と誠くんはあっさり教科書を閉じてしまいましたが、画面を見るでもなく、たたみにごろんと横になって、帰ってきたメダカちゃんにうれしそうに話しかけます。
「おかあちゃん、今日学校で作文書いた」 
「どんな?」
「将来の夢」
「へー。なに書いたの?」
「将来なりたいものは何かって」
「マコトは何になりたい? 宇宙飛行士」
「それは、ガキのころで、今はちがいます」
 横からカズコちゃんが口をはさみました。
「今だってガキよ」
「違うよ、俺もう少年だもん」
「少年とガキとどうちがうの」
 とカズコちゃん。
「少年には、ココロザシがあるんだって」
 ええーと、メダカちゃんは、塩せんべいをかじりかけて仰向けにひっくりかえりました。
「ココロザシい?」
「そ。タイシ」
「体脂肪率」
「ざけんなよ。俺、まじめだぜ」
 マコトくんはカズコちゃんをにらみつけました。カズコちゃんはにかっと笑って、舌を出しました。
「ゴメン。じゃ、まじめに聞く」
「フン」
 マコトくんはへそを曲げて口をとがらせ黙ってしまいました。
「ゴメン、おかあちゃんもあやまる。教えて教えて」
「俺、医者になりたい」
 おお、とカズコちゃんは拍手しました。
「マジで? すごい夢。宇宙飛行士よりジツゲン可能な難攻不落」
「難関って言ってよ」
「同じだってば。でもまた何で」
 メダカちゃんは、自分によく似た息子の童顔をまじまじと見つめて尋ねました。
「理由はねえ……」
 マコトはちょっと上目づかいにメダカちゃんを見あげて、
「まともな医者がすくないって、おかあちゃんが歎くから、かな」
 メダカちゃんは、口のなかのお煎餅を、音をたててごっくんと飲み込みました。
「あんたがりっぱなお医者になってくれたら、ほんとにありがたいけど」
 医者かあ、とメダカちゃんの頭のなかで、電卓がすばやくちかちかと、予想学費の数字をはじきだしました。
……モト旦那がイシャリョウ払ってくれても、うちの家計じゃイシャには遠い…。これからおばあちゃんの介護費用もかかるし……。
「おかあちゃん、うれしくないの?」
「そんなことない」
「マコト、もっと勉強しなくちゃだめよ」
「わかってるよ」
「うちには塾に通わせるお金なんかないからね」
 と長女のカズコちゃんは、ぴしぴしと遠慮なく弟に言葉を投げつけます。
「わかってるよ。ぜんぶ公立で行く」
「マジ」
「モチ。めざせ東大」
 ぶっ、とカズコちゃんはおおげさに噴出しました。
「がんばれ、弟」
「ところで、姉ちゃんは将来何になりたいの」
「あんたがお医者なら、あたしは看護師になろうかな」
「それ、いい加減すぎ」
「そうでもない。保育士もいいかも」
「お姉ちゃん、成績いいくせに。ほんとはなんだよ」
「ないしょ」
「ずるい。俺ばっかり言わせて」
「なんで? あたしはまだ具体的にまとまっていないんだ」
「おかあちゃん、ごはんの前にお風呂に入るからね」
 と、姉と弟のやりとりの途中でメダカちゃんはたちあがりました。
 カズコ、かわいそうだなあ、とメダカちゃんは内心ほろほろしました。無邪気にお医者になりたいと言うマコトくんとはちがって、もうずいぶん大人の修羅場を見てしまったカズコちゃんは、家計のありさまをわかっていて、気をつかったのでしょう。
 ほそぼそとはいえ自営業の実家があり、おばあちゃんが元気に働いているメダカちゃんは、普通に暮らしてゆけるだけ、母子家庭の介護従事者にしては恵まれていました。酒乱を理由に離婚した夫は、養育費のびた一文もよこさないかわりに、親権をめぐって争う騒ぎもなく、きれいさっぱりと音信不通が、かえってありがたく、メダカちゃんも仕事と子育てに日々追われ、さびしさを感じる風の吹き入る隙間もありません。
 とはいえ、こども二人を育て上げるには、いろいろ節約しなくてはならず、そんなメダカママの隠れた苦労を、カズコちゃんは、理解できるのでした。
(カズコは四大出してやりたいけれどねえ)
 あんまりガリガリ勉強するタチではないのに優等生のカズコちゃん。メダカママには似ない色白すらりと手足が伸びた細面は誰に似たのか、なかなかの器量よしでもありました。
「翻訳やりたいって、言ってたっけ」
 まる一日働きづめ勤務のあとのお風呂。メダカちゃんは大好きなラベンダーの入浴剤をたくさんいれて、ざぶざぶと顔を洗います。
「翻訳ってことは、外国語を専門にするってことだから、留学とか必要なんだろうなあ」
 こどもたちそれぞれ、良い子で幸せ、でもいっぽうで、片親家庭の母親として胸痛むメダカちゃんでもありました。

 朝勤、日勤、遅出、それから夜勤と、「やすらぎ」のメダカちゃん勤務シフトは、まずまず順調にまわっていました。ターミナルにさしかかった入居者さん数人いて、昼間はナースがいるから心配ないけれど、夜勤では職員対応となります。
 入居者さんの御臨終はさまざまで、御家族の希望と御本人の容態によって、病院へ運ばれたり、また施設で息をひきとる方もいらっしゃいます。
 重態で、高度な医療看護が必要でないなら、慣れ親しんだ「やすらぎ」で、と願う入居者さんがほとんどでした。
 クワバラさんは、この五月にめでたく九十三歳の誕生日を迎え、当日は息子さんとお孫さん、曾孫さんがお祝いにやってきて、クワバラさんの居室でケーキを食べたそうです。
 その日、メダカちゃんはお休みをいただいていたので、状況は人づてにしかわからないのですが、バースデーケーキを、息子さんの介添えで頬ばったクワバラさんは、たぶんパウンドケーキのかけらを喉につまらせて咳き込み、悶絶してしまいました。ただちにナースがかけつけ、ハイムリック法やら何やら、ありったけの適切な応急処置を済ませた後で、救急車で市民病院にかつぎこまれ、数時間後には、けろりとしてタクシーで戻ってきたそうです。
 この節、病院はどこも手いっぱい。ちょっとやそっとでは入院させてもらえません。クワバラさんも、白目を剥いてひっくりかえったわりには、威勢よく復活し、嚥下障害を懸念して、特別注文した刻み食の晩ごはんも、皿のすみずみまで舐めまわす食欲で、全部召し上がりました。
 しかし、夜になると、クワバラさんはご自分の臨死体験が思い出されるのか、ひどく不穏におなりでした。
「コロサレルヨー。コロサレルヨー。ヒトゴロシ。オトウサマタスケテタスケテ」
「マッカナ扉ガアルンダヨー、ソコニアルノ。ヤッテクルカラネー」
「誰が来るんですか、クワバラさん?」
「オニガクル」
「鬼なんか来ませんよ。大丈夫」
「アンタコロサレルヨ。バカナヤツ」
「大丈夫です。心配しないで。ちょっとオシモの交換をさせてくださいね」
「ウルサイネ。トンデモナイヤツダ、アンタ」
 コノブレイモノ、ぼかん、とクワバラさんの握りこぶしが飛んできて職員の頬に当りました。
「ひゃあ、いたい」
 と殴られた職員は大げさに顔をしかめます。クワバラさんは邪険にされると、ますます怒って反抗的になり、おむつを替えようとする職員の手につめをたてたり、両足をじたばたさせて手こずらせるのでした。
「いやねえ。クワバラさん。このごろまた荒れ模様よ」
連日、職員事務室では、クワバラさんの不穏ばなしです。
「とにかく力があるから、暴れだすと、もうたいへん」
「病院へ運ばれたのがショックだったのよ」
「ご家族は付き添ったの?」
「息子さんだけ」
「およめさんは来なかったんですってね、お祝いに」
「仲がわるいからねえ。嫁姑のカクシツっていうの。ここに入居されたのも、クワバラさんの介護をおよめさんがいやだって」
「よくある話じゃない」
「孫嫁さんは来たんでしょ」
「何にも知らないから。いっしょにくらしたこともないみたいだし」
 クワバラさんの居室には、入居当時の、今よりもずっと若くて髪の黒々とした、感情の確かな笑顔のクワバラさんと、そのご家族が、「やすらぎ」の応接室で撮影した写真がありましたが、そこにもおよめさんは入っていませんでした。クワバラさんの息子さんは、システムエンジニアだそうで、眉のきりっとした母親似の長身で、今も背筋のぴんと伸びた素敵な男性でした。美術館のキュレーター権イベントプランナーという不思議な職業のお孫さんはイマドキ茶髪のイケメン。その孫のおよめさんも、ご主人にふさわしく、メイクばっちり女優肌。アイドルっぽい美人です。何枚も何枚も、見るからに裕福そうなご家族の写真に、息子さんの妻はひとつも写っていないのでした。
「全部、いいってことは、まあないのよね」
 とメダカちゃんは、ルーティンワークでお掃除に入ったクワバラさんの居室で、その壁にかざられた美男美女を眺めて思うのでした。入居者さんの個室は、お風呂はついていないものの、壁紙から家具のいっさいがっさい、ご本人とご家族の希望するインテリアが入り、レイアウトも自由です。
 クワバラさんのお部屋は、本人よりは息子さんが揃えたのでしょうが、女性らしい優しいクリーム色の壁紙が張られ、深紅色の遮光カーテン、その下にはフリルレースの薄手のカーテン。部屋の片一方には電動式介護ベッドのほかには、クワバラさんは一度も使ったことなどないかもしれない薄型テレビ、デッキ、使い慣れた古風な桐の箪笥、鎌倉彫の小引き出し。それに、長鏡の立つ漆塗りのアンティークな化粧台。誰かのプレゼントらしいガラスケースに入った薔薇のプリザーブドフラワー。亡くなられた御主人の位牌と遺影のおさめられた、高さ五十センチほどの簡易サイズのお仏壇は黒檀で、埃が積もるのを嫌ってか、観音開きの扉はいつもぴったり閉まっていました。むかし、きっとクワバラさんがお化粧に使った古風な鏡台には、華やかな紫地に宝尽くしの友禅小紋の縮緬がかかっていて、全体としていかにも旧家の、由緒ありげな雰囲気でした。
 それぞれ高価に違いない調度の埃をハタキで落とし、床に掃除機をかけながら、メダカちゃんはちょっとさびしい気もしました。誰かと自分の境遇をくらべて、しめっぽい気持ちになるなんて、メダカちゃんのまっすぐな気性には合いませんでしたが、今後間もなく秀才になるかもしれない息子と、げんに優秀な娘を思うと、ほんのすこしぐらい、しゅんとしてしまうのでした。こどもたちの望む学校に行かせてやりたいけれど、ね。
「お金オカネってやだけど、さ」
 と、かしこいメダカちゃんは、そこらへんで愚痴っぽい考えを追い出し、都合よく鳴りだした別な入居者さんの呼び出しコールに応えて、ころんとした固太りの両腕をわっせわっせと振って、そっちへ駆けてゆくのでした。

 あくる日は夜勤でした。ちょうどクワバラさんのいるフロアづとめです。
「ひさしぶりで三階入るなあ。クワバラさん、どう?」
「低気圧。よくて前線」
「それくらいじゃ悪くないわ」
「あいかわらず機嫌わるくて、暴言多発、唾吐き連発よ」
「食事量は?」
「彼女は相手を見分けるからね。昼間は、若手の見慣れない子がおそるおそる介助したら、手から食器をたたき落としたって」
「…すご……」
「メダカちゃんなら大丈夫じゃない」
「だといいけれど」
 お夕飯のメインディッシュはロースカツにキャベツの千切り添え、人参の甘煮にグリーアスパラのサラダ、お味噌汁、ご飯……。
 お昼ごはんをあまり食べられなかったクワバラさんは、そのせいもあって、お夕食はぱくぱくと進んで召し上がりました。職員の介助も不要なぐらい、自分から積極的に手を出し、カツの油とソースで口のまわりをべとべとにしながら、とてもうれしそうです。人参の甘煮、サラダ、と手当たり次第につかんであっというまに食べきってしまい、最後に食卓に残ったごはんとお味噌汁だけは、職員が介助します。メダカちゃんの食介ではなかったけれど、クワバラさんの晩ごはんは難なくおわりました。
「オショクジハ?」
「たった今、全部召し上がりましたよ」
「オワッター?」
「はい」
「アンタ、アタマイイネ、オネエサマ」
「ありがとうございます」
「オカアサマトオトウサマガゴホウビクダサルンダッテオネエサマ」
「うれしいですう」
 機嫌の悪くないとき、クワバラさんは、ときにはこんなふうに職員を誉めてくれたりします。フロア勤務の相方は、メダカちゃんに目配せして、にやっと笑いました。
「今夜はババアじゃなくてオネエサマ」
「このままストレートに行ってくれると楽だなあ」
「イケるんじゃない。今夜はいい感じ」
「クワバラさんのおなかの調子はどう?」
「ちょっとゆるめ」
「え? 昼ごはんあんまり食べなかったんでしょ。なのに下剤ぬいてなかったよ」
「便秘すると、彼女荒れるからね」
 ……。
 夜勤は、各フロアに職員ひとりずつの泊まりこみでした。食事の後、就寝準備のナイトケアがあり、入居者さんそれぞれ、昼のお洋服から、パジャマに着替えます。必要な方は夜用オムツへ交換を済ませ、このときまで、クワバラさんは上機嫌でした。
「オジョウサマ、ソコニトビラガミエル」
「オジョウサマってあたしのことですか?」
 とメダカちゃんは、手際よくクワバラさんの汚れを清め、ぱっぱっとオムツのマジックテープをとめました。所用時間五分、漏れなしカンペキ。
「ソウヨ。オネエサマ。扉ハイクツモアッテネ」 
(もしかして、あぶない? でもご機嫌なんだけど)
「いくつもあるんですか? 扉」
「イチ、ニイ、サン……」
 四、五、六…とゆっくり大声で数えてクワバラさんは突然大あくびしました。
「ずいぶんたくさん見えるのね、クワバラさん」
「タクサンアル…」
 言いながらクワバラさんは、もう眠りかけていました。
 あんぐりと口をあけて、早くも高いびきのクワバラさんの寝顔をみつめて、ラッキー、とつぶやいたメダカちゃんでした…が。

コロサレルヨー、ヒトゴロシ、オニ、アクマ、クソッタレ…
 深夜0時すこし前。最初の見回りの寸前に騒ぎ出したクワバラさんの大声に、メダカちゃんは肩をすくめました。
 やっぱり、始まった。
 このフロアの入居者さんはほぼ全員お耳が遠くて、こういうときは助かります。クワバラさんはふつうでもかなり声が大きいのですが、不穏になると、きっちり閉めた個室のドアを突き抜けてリビングまで彼女のヒステリックな叫び声は聞こえてきます。
「はいはい、クワバラさん、だいじょうぶですよ、鬼なんか来ませんよ」
 とメダカちゃんはおおらかな笑顔で、ベッドのクワバラさんに話しかけました。
「こわくないです。メダカです。おなかのぐあい、悪いの?」           
 匂うな、とメダカちゃんはオシモの気配を察します。昼がほぼヌキで、夜にめいっぱい詰め込んだせいで、おなかこわれたかな?
 ひいひい、とクワバラさんはベッドの転落防止用サイドレールにつかまって、上半身を持ち上げ、こわい顔でメダカちゃんをにらみました。
「ヤダ」
「ごめんね、でもオムツ交換しなくちゃいけないみたいです」
「ヤダ、ヨルナ、イタイ」
「痛くしませんからね、大丈夫ですからね」
 と、やさしくなだめつつクワバラさんの膝を持ち上げかけたメダカちゃんに、クワバラさんは、いきなり、ガツン、と蹴りを入れました。
 わっ、と避けるひまもあらばこそ、全介助とはいえ、骨格しっかりとしたクワバラさんの膝小僧で、もろにアッパーカットを喰らったメダカちゃん、目から火花、そのまま床に尻餅つくぐらい痛かった。
「イタイヨー」
「痛いです、あたしも」
 痛いのはあたしだよ、クワバラさん、とメダカちゃんは、衝撃で自分の顎が外れるんじゃないかと思ったくらいでした。これだから油断大敵雨アラレ…。やっぱり扉がひらいたよ。でも仕事優先。とにかく落ち着け。クワバラさんに怪我ナシ。あー下痢だ。蹴り喰らって下痢の始末。まあ、こういうときもあるよね。うわ、すご。これじゃ騒ぐのも無理ない、とにかく陰部洗浄しなくちゃ。
「あばれないで、クワバラさん」
 オッケー、オッケー。
 メダカちゃんは、しんどいときにはいつも、こんなふうに自分に言い聞かせるのでした。オッケー、なんとかなるよ。
「苦しいんだよね、クワバラさん?」 
 と真顔でクワバラさんの眼を覗きこむと、眉をきつく寄せたクワバラさんの瞳はうるんでいて、その向こう側に、ちゃんとクワバラさんの心があるのが、なんとなくメダカちゃんには感じ取れました。すっかり失見当してるわけじゃないな、とメダカちゃんは、オムツをあてなおしたあと、ゴム手袋をはずして自分の両手をきれいにあらったあとで、そっとクワバラさんの両頬を撫でてあげました。
 メダカちゃんが心をこめてそうしてあげると、不穏なクワバラさんも、たいてい落ち着くのでした。みんながメダカちゃんのようにしているのかは、わかりません。でも、興奮し、総入れ歯を剥き出しに顔を歪めているようなときでも、メダカちゃんは、怖気づいたり、嫌がったりするのではなく、クワバラさんを優しい声と言葉で包み込もうとするのでした。そうして、いつもうまくいくとはかぎらないけれど、メダカちゃんの情愛は、クワバラさんにちゃんと伝わっているようなのでした。
 うりざね顔に中高のクワバラさん。すっきりとおった美形の鼻筋がひくっとけいれんしたか、と思うと、ぽろっと涙がひとすじ頬をながれました。
「あれー。クワバラさんが泣いた?」    
 おどろくメダカちゃん。気位たかい、大オジョウサマのクワバラさんの涙なんて、職員の誰も見たことがない。ほんとかな?
「クワバラさん、だいじょうぶ?」
 泣いたカラスはもう眠い。蹴りの痛みは消えないけれど、こちらの下痢は一過性。出すものを出して、身も心もかるくなったのか、がくんとクワバラさんは枕に頭を落として寝入ってしまいました。こういう急変も、認知症の方にはよくあること、メダカちゃんは、まだじんじんする自分の顎を撫でながら、
「これであたしも仮眠できるかも」

 メダカちゃん、メダカちゃん、とやわらかく呼びかけられてウシミツドキ。
 顎の痛みもうすらいだみたい、とねぼけまなこのメダカちゃんは、いやいや仮眠ベッドからおきあがりました。
「サトウさん? 何か緊急…?」
 別フロアの夜勤職員かと勘違いして、瞼より先に返事しかけたメダカちゃんは、まばたきして声をのみこみました。
 簡易ベッドのまむかいにソファ。それは昼間には入居者さんたちがリビングでくつろぐための長椅子。ふわりと座り、両手を揃えて膝におき、背筋ただしくそのまま優雅に会釈したのは、見覚えのある紫友禅の宝尽くしあでやかなお振袖。
「さきほどはごめんなさい」
「え、ええ?」   
 驚きのあまり口をあけたメダカちゃん。顎の打撲か、こめかみに激痛。いっきに眼が覚めました。眼が覚めきったのに、眼の前の美少女は消えない。ということは夢じゃない。
「痛いでしょうね、失礼しました」
 と帯と帯揚げ胸たかだかと結んだ少女は、困ったような顔つきでした。年のころは十七、八。前髪をあげて、うしろでひとつ束ねに赤いリボンを結び、背中にぱらりとたらした黒髪、まるでテレビドラマの主人公みたい。
「あの、あなた、どなた」
「いつもメダカちゃんにお世話になっております。桑原美紗緒です」
 メダカちゃんは、目をシロクロさせました。
何がなんだかよくわからないクワバラクワバラ…。
「桑原美紗緒って、クワバラさん?」
「フルネームで申し上げると、同一人物とは思えませんよね」
 ほほ、と美紗緒さんは白い手で口元を覆って笑い、ちらりと横目でメダカちゃんの動揺をおもしろがるように眺めながら、
「わたし、クワバラミサオ、生霊です」 
「イキリョウ?」
「ええ。もっと正確に言うなら、メダカちゃんにお世話になっているクワバラさんの、あの世の姿」
「なんですか、それ」
「ここで暮らしているクワバラさん、認知症ですっかり《私》を忘れてます。でも彼女が、失ってしまった人生の大部分は、私だったのよ。認知症は、この世からあの世へ渡る前の一時的な変化。そしてあちらがわでは、私はまた私に戻って、こんな姿になれるの」
「はあ」
 わかるようなわからないような……。
「クワバラさんは、まだ生きていらっしゃいますよ」
「だから生霊です。今夜、彼女はうっかりあなたに悪いことをしたわ。私、あなたがお気の毒で、申し訳なくて、謝罪したかったの」
「お気になさらず」
「いいえ。じつはね、彼女はもう半ば、あの世へ行きかけているの。でも、この世にいくつか残す思いがあって、それをどうにかしたいんです。じっさいには何をどうしたいのか、彼女の知性では、もう認識できないのですが、死が近いために、その執念が凝り固まって、今お眼にかかれるようなミサオの姿になっておりますの。生霊って、ひらたく申し上げると執念の凝縮みたいな面もありますから」
「えー。怖い」
 メダカちゃんはぞっと鳥肌をたてました。
「おそろしいばかりでもありません。今幽体離脱して美紗緒が現れたのは、あなたに済まない、ゴメンナサイ、という一念ゆえですからね」
 とミサオさんは涼しい顔でぬけぬけと言うのでした。ほんとうに、こうやって真向かいに見慣れてくると、すべすべした広い額からちょっととがり気味にほそくなってゆく顔の輪郭、女性にしてはきりりと強い眉、まっすぐな鼻筋、一筆書きのカモメを飛ばしたようにかたちよくうねる上唇といい、まぎれもないクワバラさんのものでした。
 クワバラさん、若いころはきっと美人だったろう、と思ってはいたけれど、ほんとにきれい、とメダカちゃんはほれぼれとミサオさんを見つめました。 
「仕方ないですよ。介護やってればこういうことは、しょっちゅう…でもないけれど、ええと、つきものですし。クワバラさんだけ特に問題があるわけじゃないですから」
「でもね、メダカさん、あなたの顎の打撲、ちょっとひどくて、万が一関節症にでもなったらたいへん。明日には青あざになってますよ。だからね、今夜は湯治にでもまいりませんか?」
「トウジ?」
「温泉療法です」
 メダカちゃんはまた眼をむいた。ミサオさんは切れ長な目を品よく細め、たのしそうに、
「ゆっくりお風呂に入りませんか」
「あたし、勤務中なんだけど」
「ご心配なく。実体はここに残してゆきます。メダカさんもあたしと同じように幽体離脱すれば、行きたいところに瞬間移動できます」
「そんな器用なこと!」
「あたしといっしょならできますわ」
「あたし高所恐怖症なんですが」
「眼をつぶってればわかりません。それともおいや?」
「おいやじゃありませんが、ゲンジツとは思えないです」
「わたし、脚があります、ホラ。幽霊じゃないから、両足みえますでしょ」
 とミサオさん、ソファからすっくとたちあがり、ちょいとお着物の裾をまくればどきんとする紅絹の裏。ほっそりと華奢な足首に白足袋、きらきら刺繍かざり鼻緒のお草履もよそゆき。
「そういう問題じゃなくて」
「何処へ行きましょうか」
 ミサオさん強引。しびれをきらしてメダカちゃんの手をにぎる。ひんやりとつめたい。でもしなやかな手の感触。
「そこらの銭湯でいいですよー」
「いまの時刻銭湯なんかしまっています。あなた、欲がないのね。箱根か熱海でいいかしら。あのあたりの温泉旅館とかホテルなら、二十四時間入浴可能よ」
「よくご存知ですね」
「中年過ぎてからしばらく、彼女は温泉マニアだったの」
 とミサオさんはひとごとみたいにクワバラさんの居室をながめました。ながめながら、ゆらゆらとミサオさんは宙に浮かび、華やかな友禅模様のお袖が、蝶々みたいにはばたいて、
「うそでしょ」
とメダカちゃん思わず逃げかけるが、ミサオさん掴んだ相手の手を離さず、ぐいっとひきあげるように、
「こわいんだったら眼を閉じて」
 わー!タスケテヤダコワイ。
 クワバラさんみたいに絶叫するメダカ。でもふんわりと伽羅の香たきしめた紫縮緬のお振袖でミサオさんに顔をつつまれ、あっというまにすぽーんと抜けて幽体離脱。
 ぴちゃーん、と湯煙ほのぼの。
「メダカさん、もう眼をあけてください」
 初夏の夜空に満天の星。都合よくも露天風呂。天然石を組み合わせたひろい湯船に、いつのまにかミサオさんとさしむかいでいい湯かげん。長い黒髪はくるりと手ぬぐいでひとまとめに、ミサオさんは肩までつかって上機嫌。
「ここのお湯はラジウムとか硫黄とか、とにかく打ち身とか腰痛肩凝り神経痛に著効があるの」
 とかとかとか、と効能並べられても、ショックで脳みそ真っ白なメダカちゃん。でもひたひたと漬かったお風呂、温泉なんか来たのは何年ぶりだろうね。
「ミサオさん、モチ肌ですねー。色白なのはわかってましたけれど」
 まあいいや。夢か妄想かわからないけれど、あたふたしたって、どうにもならないし、楽しむだけ楽しもうっと。
 メダカちゃんは両手に星空の移るお湯をすくってみました。くんくん嗅ぐと、鉱物泉の匂いと、何かの芳香剤のまじった、よい香がします。
「メダカちゃん。もっと深くお湯に漬かって。わたしたち幽体だから、溺死の心配ないの。顎からこめかみまで、よくあたためてね」
 ほら、と操さんは ぶくぶくとお湯のなかに沈んでゆきました。水面に手首から上を出して、おいでおいでをしているのが、けっこうブキミです。
 なるようになれ、とメダカちゃんも真似してお湯にもぐりました。あれ、ほんとだ。ちっとも苦しくない。わー。魚のキモチってこんな感じ? ミサオさんがお湯のあちらでゆらゆら笑っている。びじんだなー。スタイルいいなー。あー持病の腰イタよくなりそう。重力がないって気持ちいいな……。
「ここはどこなの」
 水中なのに声もはっきり視界もくっきり。それでいてあたまのてっぺんからつまさきまで、お湯にもぐった快さ。幽体離脱って便利だなあ、とだんだん非現実にはまってゆくメダカちゃんです。
「箱根の老舗。今は観光シーズンだから、うっかりすると宿泊客が途中で入ってきたりするけれど、知らん顔してくださいね。ふつうにお話すれば、向こうもこちらを同じ泊り客と思うだけですから」
「え、普通の人にもあたしたち見えるの?」
「はい。だってわたしたち幽霊じゃないの。
半分はこの世のものですから。でも、もう半分はあちらに行きかけている状態でもあります。だから、もしかしたら、人間じゃなく、幽霊に遭遇したりしますけれど、そういう時には、わたしに任せて、メダカちゃんは決して言葉を交わさないでくださいね」
「ええっ」
「世の中には善悪とりまぜて、いろんなひとがいますけれど、幽霊でも同じなの。この世に思い残しをしたひとが亡霊になって、ときどき、そこらへんをさまよっています。よい霊魂もあれば、タチの悪い霊もいます。それに、わたしみたいに実体がまだこの世にありながら、執念のあまりに生霊になって化けて出たりね。あの世の世界だって、いろいろバラエティなのです」
 クスクス笑うクワバラミサオさん。笑顔になると天真爛漫な、ああ、このひとはほんとにクワバラさんの延長、いや原型とわかるのでした。
 あら、とミサオさんはあわててお湯から浮かび上がりました。
「こんばんは、トヨさん」
「おや、クワバラさん、おひさしゅう」
 なんだか聴き覚えのある声だぞ、と水中からメダカちゃんが顔を出すと、たった今お湯に沈んできたのは三十前後の女性。ふっくらした二重顎、小鼻の脇のほくろに、メダカちゃん、はっと気が付いて
「もしかして、コバヤシトヨさん?」
「あら、カメダさん。まあまあ」
 コバヤシトヨさん。一年前に、「やすらぎ」から他施設に移転されたもと入居者さんでした。移転は御本人よりも、ご家族の希望ということですが、その理由は微妙でした。
「やすらぎ」は有料施設として過度に贅沢ではないものの、入居者さんひとりひとりに個人対応をこころがけるだけ、費用の負担は応分に安くはなく、老後を暮らす長年のうちには、ご家族の経済的な事情が変わることもあり、トヨさんの移転はそうした不本意な経緯のようでした。
「お元気でしたか? あなたにはほんとうによくしてもらったねえ」 
 となつかしそうに言われても、眼の前にはバレーボールふたつならべたみたいな大きな胸元、色っぽいお姉さんのトヨさん。メダカちゃんの記憶にあるのは、八十五歳のトヨさんです。
「ハイ、おかげさまで達者で働いてます。トヨさんこそ、リューマチのほうは」
「リューマチなんかありゃしませんよ。だってあたし、今は二十六ですからね」
「はあ」
「あたしはね、よそへいってから、すっかり寝たきりにされてしまったの。お風呂も機械浴でしょ。ジャアジャアシャワーで洗ってもらって、ハイおしまい。いちにちじゅうベッドに寝ているから、頭がぼんやりして、認知症もどんどん進んでしまって。自分でもあんまり情けなく、悔しい思いがこうじて、どうかして死ぬ前にのんびりお湯に入りたい、好き勝手にもういちど外出したいって思っていたら、いつのまにかこんなことを覚えて、ときどき飛んできてるの」
「あたしたち、幽体トモダチなの、メダカさん」
 とミサオさんが笑います。
「幽体離脱して、夜中に飛び回る認知症のひとって、じつはけっこういるの。もちろん昼間は覚えていません。死が近くなるにつれ、この世の引力が弱くなるのか、離脱しやすくなるようよ」
「みんな、ミサオさんやトヨさんみたいに若々しいんですか?」
「ええ。めいめい、自分のいちばん好ましい時代の姿。ある意味、長年の精神年齢の姿かしら。というよりも、認知症のひとが自分だと思い込んでいる心の年齢ね」
「いいですねー、そういうの」
 現実の高齢を受け入れられず、盛りのころの自分に頭のなかでタイムワープしている認知のひとたち。「やすらぎ」の入居者さんの何人かは、クワバラさんほどひどい失見当はなくても、御自分の年齢や、過去の出来事をもう正確に思い出せません。
「ええ。でも、失認した高齢者が全員、わたしたちみたいに飛べるわけじゃないけれど」
「どうやったら、幽体離脱できるんですか」
「わからないねえ」とトヨさん。「やっぱり執念だろうかねえ」
「トヨさんの執念て」
 トヨさんは、肉づきのよい頬に愛嬌たっぷりのエクボをうかべて何も言いませんでした。
余計なヒトコト、シツレイシマシタ、とメダカちゃんは視線をお湯に落としました。
「あたしは、あさってぐらいに、あの世へゆくんですよ」
 とトヨさんはあっさり言いました。
「もう、思い残すことはなんにもありません。ひるまのいやな点滴や酸素マスク生活ともおわかれ」
「メダカさん、あたしたち、そろそろ帰りましょう」
 じゃぶっと、お湯からあがるミサオさん。日本手ぬぐいで覆った胸からきゅっとくびれた若々しい腰、ながい膝。少女から大人になりかけのミサオさん、品よく見せないボディが、同性の眼にもまぶしく、みずみずしい。
……やだなあ、あたしなんておなかポッコリ、あちこちたるんで、恥ずかしいなあ。
 はやく、と急き立てられて仕方がない。えい、と浴槽のへりをまたいだ。
 と、同時にふんわりとひいやりと、絹の感触が顔を覆いました。伽羅の袖の香り。
「また次の夜勤のときにあいましょうね」
 と快活な少女の声でミサオさん。ミサオさんの精神年齢は、十七歳だったのかなあ。
 チリリリ……と枕元のベルが鳴って眼が覚めました。
 明け方四時。
(やっぱり、夢)
 とおおあくびして、ふっとかすかな顎の痛み。あら、たいしたことなかった、とメダカちゃんは念のために手洗いへ入って顔をたしかめました。トイレの芳香剤は、そこらの市販のジャスミン。それがいつもと違った匂いで急に鼻をつきました。
 まさか、と鏡をのぞくと、きれいな艶のある髪、顔。夜勤の夜は化粧もほどほど。でも人前に出るたしなみとして、眉くらい描くし、口紅だってひいている。仮眠の前に、かんたんたんに洗顔したはずだけれど、こんなにつやつやさっぱりしているのは変だ。
それにこの匂いはなんだろう。腕や胸元を嗅ぐと、はっきり硫黄の臭気に、濃い入浴剤を溶かし込んだ温泉独得の香りがこもっていました。
どきどきして、クワバラさんの居室を覗くと、九十三歳のクワバラさん。総入れ歯をはずした口をあんぐりとあけて熟睡です。部屋はきれいに片付いて、しんとしています。半信半疑で戻りかけたメダカちゃん。壁際の衣類ホックにハンガーで吊ってある日本手ぬぐいに眼がとまりました。それはミサオさんの湯上りの胸元を覆った晒し木綿。古風な楷書で、箱根湯元の○▽旅館のロゴ。まだ乾ききらず、じっとりと濡れて、メダカちゃんの全身に残る硫黄と同じ、露天風呂薬湯の匂いもまあたらしく、やっぱり幽体離脱は夢じゃなかったのでした。

以後も、クワバラさんは何事もなかったかのよう。喜怒哀楽、現実と非現実とが迷走し、彼女の機嫌と体調は天気図さながらくるくる変わる。でも、メダカちゃんを含めて、クワバラさんの不愉快や痛みに、せめて寄り添おう、軽減してあげよう、という優しい気持ちのあるひとには、きっとクワバラさんは笑顔を見せるのでした。
(ミサオさん、クワバラさんはもうじき、って言っていたけれど、そんな気配も見えないわ)
 とメダカちゃんは、勤務しつつクワバラさんのバイタルや日常の様子をそれとなくチェックしていますが、クワバラさんは、いっときの不穏もだんだんと落ち着いて、六月初めの梅雨入り前には、むしろ以前より安定し、静かに日々を過ごしているようでした。
 「やすらぎ」夜勤シフトは、コンスタントに各フロア勤務が定まるわけではなく、月ごとに、非常勤職員のスケジュール調整をしつつ組み合わせます。メダカちゃんの夜勤も、しばらく間をおき、次の泊まりは、十日後くらい、六月半ばも近くでした。
 しめやかな五月雨がしとしとと降りつのる深夜0時。最初の見回りで、なんとなくメダカちゃんは、クワバラさんのお部屋をいちばんあとにしました。何かがまた起こるかもしれない、起こってほしい、でもちょっとこわい。ミサオさん現れるかな、幽体離脱なんて、ありえない幻影。出てこなくてあたりまえ。証拠なんてなんにもない。髪や肌に残ったお湯の香りは翌日にはもう消えた。部屋に吊ってあった日本手ぬぐいだって、よくあるお店の御挨拶用品だし…。
 期待半分、怖いもの見たさ半分で、なんだか両手もふるえながら、そろそろと入り口をあけて、よびかけました。
「ミサオさん?」 
 あれ? なんであたしクワバラさんって言わなかったの? とメダカちゃん自身びっくりしましたが、
「はぁい」
 とさわやかに少女の声が返ってきて、メダカちゃんはおどろくよりうれしい気がしました。
 ミサオさんは、クワバラさんのベッドのすぐ傍に立っていて、今夜は振袖ではなく、夏らしく白い木綿のカッターシャツにすらりとブルージーンズをはいていて、どう見ても、ふつうのティーンでした。
「クワバラさんの息子さんに良く似てますね」
「違うわ、メダカちゃん。息子があたしに似ているの」
 とミサオさんは苦笑しました。
「顎の調子はいかが?」
「大丈夫でした。痣にもならないし」
「よかった。温泉の効能書きは嘘じゃなかったのね」
「ありがとうございます。ミサオさん、今夜はまたがらりとイメチェンね」
「はい。誰かに見咎められるとまずいでしょう。もう夏だし、袷の振袖はちょっと暑苦しいから」
「幽体でも厚い寒いは感じるの?」
「感じませんけれど、やっぱりTPOは弁えないとね」
 言葉のおしまいに、ちょっとツン、としたお嬢さまふうの語気がこもって、九十三歳のクワバラさんと重なりました。
「メダカちゃん、今夜も温泉行きますか?」
「もういいです。それより、どうしてミサオさん、幽体離脱して現れたのか教えてもらえる?」
「そうね……。メダカちゃん、あたし、前にもお伝えしましたけれど、あまり、この世の時間が残されていません。でも、おだやかに去ってゆくには、心残りがあります」
「ええ、それがシュウネン」
「そうなの。じつはね」とミサオさんは険しく眉をよせ、いかにも腹立たしげに両腕を組み、拗ねたような表情で壁によりかかりました。
「あたしが亡くなると、財産全部、息子が相続します」
「ええ」
「主人は婿養子でしたから、あたしが親から受継ぎ、ずっと長年住んでいた古い家も、あたしが死んだあと、息子はそれを潰してマンションを建てようか、なんて計画しているんです」
「……」
「日本家屋で、すっかりあちこち痛んでいるから、家のことはもうあきらめているけれど、あの家には、主人がこっそりあたしに残してくれたへそくりがしまってあるんですよ」
「へそくり?」
「そう。貯金じゃなくて、現金」
「どこに」
 とうっかり尋ねて、メダカちゃんはシマッタ、シツレイだったかしら、と首をすくめましたが、ミサオさんはいっこう気にせず、
「お茶室の炉の下に、穴を掘って埋めてあります。今でもかなりの多額よ」
「いくらぐらいですか」            
 ミサオさんが涼しい顔ですらすらと答えた金額に、メダカちゃんは腰がぬけた、いえ、ぬけないまでも、あいた口がふさがらない感じ。お金持ちってすごいなあ、それだけのへそくりを、無用心にも無人の家に壷の中?
「あたしは、老朽化した先祖代々の家屋敷はしようがないとして、夫があたしに残したお金は、一銭もよめには渡したくないのよね」
 とミサオさんは、きっと虚空をにらみつけました。まるでそこに、にくたらしいおよめさんがいるかのように。
「情がないったらありゃしない。かたちだけでも盆暮れのあいさつぐらいはするものを、あのひとったら、ただのいっぺんも見舞いにも来ないんだから。あたしがここに入ったのは、あたしたちの喧嘩でおろおろと板ばさみの息子がふびんで、まあ、だんだん頭もぼけてくるし、体も不自由になるし、どっちみちこんな意地の悪いよめの世話になるのは、まっぴらと決断したからよ」
 かーっと逆上してくると、見慣れたクワバラさんの表情がもろに現れるミサオさんです。まあまあ、とメダカちゃんはミサオさんをなだめて、
「そうは言っても、どうしようもないじゃありませんか。息子さんのオカネになると思えば、許せるでしょ?」
「息子は外で働いて、家内いっさいは悪賢いよめがしきっていますからね。家の整理もよめの手の内、だれも知らない壷に入った現金を、腹黒いよめがみつけたら、息子にも口を噤んでこっそり着服して知らん顔するに決まっています」
「うわー。ナマグサイエゲツナイ話」
「でしょ?」
「考えすぎじゃない?」
「あなたって、おひとよしねメダカさん」
 とあどけなく十七歳のミサオさんに決め付けられても腹も立たない。メダカちゃんはかえって笑い出しました。
「それじゃどうしたいの」
「メダカさんにさしあげたいんです」
 ええっと声も出ないほどおどろいた。
「あたしね、ここに入ってから、ずっとあなたに感謝していました。感情のコントロールができなくなり、職員さんや、あなたのこと、何度もなぐったり、かみついたり、蹴飛ばしたり。いやな言葉でののしったりしても、あなたはがまんして、それどころか、いつもとってもやさしくしてくださったわ。ここの職員さんみんなにこころから、感謝しています。
だから、オカネは、あなたの工夫で、ここの施設のよいように使ってほしいのと、先日あなたをうっかり蹴飛ばしてしまったので」
「あれは、もう大丈夫ですって」
「そう? でも、前歯の義歯が、グラグラしているでしょ。がつんと思い切りつきあげたから」
「よくわかりますね」
「歯の治療って、お金がかかるわ。それに、坊やと娘さんの学費のことで、メダカさん、悩んでいます」
「はあ」
「あたしの隠し財産の半分あれば、上等な差し歯を入れて、将来あなたが総入れ歯になったときも、まあ、悪くない歯をこしらえられるし、お子たちをなんとか学業成就させるくらいの費用にはなるでしょう。もちろん私学医科大は無理ですけどね。がんばれば」
「東大?」
 メダカちゃん、噴出しました。マコトがねえ、どうなるかなあ。嘘から出たマコトって言うけれど、三日坊主かも。
「娘さんの心は、もう大人ですし」
「ええ、カズコなら。ありがたいですよ、それは。でもあたしのしたことなんて、それほどたいしたことじゃないですよ、クワバラさん。仕事ですもん」
「……年をとって、さびしいのはねえ、メダカちゃん。こころから信じて情愛を注げる相手が少なくなることかもしれませんよ」
 と、ミサオさんはせつなそうに顔に降りかかる髪をかきあげました。息子も、それは可愛いけれど、あの子には、へそくりなんてあってもなくても同じなの。孫もね。みんな充分に暮らしていて、地から湧き出たお宝のありがたみなんてわかりゃしません。あたしのことも、いなくなれば、きっとじきに忘れてしまう。
「ともかく、あたしはもうじき成仏か、昇天か、この世においとまします。今夜、温泉めぐりしないのなら、あたしといっしょに古屋へ行って、茶釜を掘り、それを預かってくださいな」
 とミサオさんは気が早くて、メダカちゃんの手をまたぎゅっとつかみました。いやおうもない手っ取り早さで、ミサオさんは、ベッドの反対側の仏壇の観音びらきを開けました。
「ほら、こんなところからも行けるの」
 とミサオさんは、上半身からもやもやとした煙のような姿に縮み、金で縁取りされた両開きの扉に吸い込まれてゆきます。なかには御主人のお位牌や遺影があるはずだけれど、とメダカちゃんは及び腰ですが、しっかり握られた手の先から、雲をつかむようにメダカちゃんの現実感覚は淡くとけてゆき、すうっとミサオさんといっしょに異次元の扉をくぐってゆき……
 さて。
 幽体離脱したミサオさんとメダカちゃんが、旧家のかび臭いお茶室に出現し、降り積もった黴とほこりに咽せながら四角い炉を掘りおこし、そのもっとずっと下の土をかきのけて、苦労して掘り出した壷のなか、丹念に油紙に包まれてしまいこまれた何十年か前のお札というのは、紙幣ではない、御主人からクワバラさんへのお手紙の数々でした。たぶん上等の和紙で、墨くろぐろと個性的な達筆。厚紙にめんめんと綴られたのは、愛妻への思いのたけを尽くした数々でしょうか。
「あら、まあ、なにこれ」
 とミサオさんは手紙の束をひろげて、赤くなったり青くなったり。
「この家を出るころ、もうずいぶんぼんやりしていたから、お金を隠すことばかり考えて、こんなしくじりをしちゃったんだわ」
「しくじりじゃないですよ。お金よりももっとだいじな宝物です、こんなラブレター(でしょ?)クワバラさんにとっては、なによりも大切なものだから、こうなさったのだと思う」
「あたしったら、いつのまにか、それをお金だと思い込んでしまったのね」
ミサオさんは、恥ずかしそうにうつむきました。
「よめのことを、ごうつくばりだなんて悪口を言っていたけれど、主人の手紙をお金と思い込むなんて、あたし、いやね」
 この家にお別れするころには、たぶんかなり健康を損ね、失認もひどかったろうクワバラさんにとっては、きっと御主人の情愛のしるしの手紙が、現実的に価値のあるお札として、心に深く信じ込まれていたものなんだろうな、とメダカちゃんは推測しました。
「ゴメンナサイ」
 ミサオさんは、泥だらけになった顔をこすりながら、泣きそうでした。でも、御主人の思いの残るかけがえのないお手紙をしっかりと抱きしめて、ミサオさんの泣き顔は、バラ色に輝いているようにも見えました。
(やれやれ、ごちそうさまデス)
メダカちゃんは、さっぱりと笑い飛ばしました。
「このお札、いえお手紙へのシュウネンのおかげで、あたしはミサオさんに会えて、たのしい夢がみられたんだから、それでいいです。クワバラさんの幸せそうなお顔が見られたのもうれしいです。でも、とにかくあたしたち泥んこだから、お風呂に入れてくださいな」
「箱根湯本の露天風呂」
「どこでも。お銭湯でもオッケー」
「じゃ、これが最後の露天風呂。執念の消えたあたしは、もうこの世には出てきません。幽体離脱のエネルギーも弱くなるから」
「よかったじゃないですか。見も心もきれいさっぱりと。それどころか、とてもだいじな思い出をとりもどして」
「あなたって、欲がないのね。ちっとも残念そうじゃないのね」
「そうでもないけど、マコトもカズコも、分相応に人生をちゃんと生きていってくれたらそれでいいです」
「あなたらしい」
「これが最後なら、ミサオさん。あたし高所恐怖症なんですが、いっぺん、空を飛んでみたいです。飛べるんでしょ? 振袖じゃないとだめですか?」
「もちろんオッケー」
 海辺を望む星月夜、だったらよかったけれど、あいにくの長雨がしのつく。
「メダカちゃん、雨雲の上まで昇るわよ。しっかりあたしにしがみついていてくださいね」
 ミサオさんは急上昇しました。
 視界いちめん、さえぎるものない、きらきらと澄んだ星空。足元には日本を覆うぶあつい梅雨の雲の床。飛行機に乗れば見える光景ですが、こんなに全方向風いっぱいにはばたいて眺めることなんか誰にもできない経験。離脱した幽体ならでは、寒さも息苦しさも感じません。
「あ、トヨさん」
「まあ、クワバラさん」
 地上からふわふわと昇ってきた青く光る物体。その中心にいるのはコバヤシトヨさんでした。でも、彼女ひとりではありません。仲むつまじく、彼女にぴったりと寄り添う男のひとがいます。
「このひとと、やっといっしょになれました」
「おめでとう」
「ええ、生霊のあいびきも楽じゃありませんでしたよ。あたしが幽体離脱できても、このひとが、もう意識不明だったりして」
 なるほど、とメダカちゃんはトヨさんのシュウネンのありかを知りました。
「あたしは、あのあとすぐに亡くなったの。でも、このひとがすこし手間取りまして。本人が望まない延命治療なんかうけたものだから。でもね、昨晩ようやく、しがらみを抜けてね。ほんとにずうっとあたしのことを忘れずに、あたしを待っていたくれたこのひとと、これでようやく添い遂げられるんです。親が決めたお相手の夫と暮らして、離別もできなかったけれど、いろいろむつかしいことがありました。あたしは何十年たっても、このひとのことが、ずうっと好きだった。どんなに惚れていてもねえ、親が許さなければ、いっしょになれない時代ですから」
 とトヨさんは、さびしそうに、またうれしそうに、メダカちゃんに言いました。ちょっと恥ずかしげに腕を組んだ男性は、見た目で言うなら三十四、五でしょうか。
 トヨさんと恋人。長年の両思いを遂げて、あの世で夫婦かしら。ふたりの姿は見る見る溶けて、青白い人魂になり、そのまま星の一粒へと遠くへきらきらと流れてゆきました。
「すごいなあ。すごい大恋愛です」
 トヨさんさようなら、おしあわせにね、とミサオさんとメダカちゃんは、星めぐりの旅を終えて、あの露天風呂に沈みました。ふたりして岩風呂に勢いよくお湯をざぶりとくぐったせつな、目覚まし時計がなって、もう夜明け。
 執念の消えたミサオさんは、影もかたちもなく、それっきり。
 溺れもせずにお湯にただよう無重力の気持ちよさと、雨夜をつきぬけ、天高く自由自在に飛びまわったいちめんの星空。
 クワバラさんが見せてくれた、これはメダカちゃんだけの誰も知らない異次元の思い出。
 
それからまもなく、クワバラさんは、梅雨あけ前に亡くなりました。それはほんとうに突然の出来事でした。入浴中に、心臓麻痺だったのです。メダカちゃんの非番の日だったので、クワバラさんの最期を看取ることはできませんでした。なんでも、クワバラさんは上機嫌だったそうです。鼻唄まじりに、溺死防止のために、浅く湯を張ったお風呂に漬かっていて、歌い続けていた声がいつしかやんで静かになり、そのまま永眠なさいました。
連絡を受けて、メダカちゃんが施設に駆けつけたとき、クワバラさんのおきよめは済んでいて、ご家族も見えていらっしゃいました。あわただしい次第で、とるものもとりあえず息子さんは仕事さきから普段着のまま。いっぽう御主人の到着からだいぶ遅れて、ようやく初めて施設に顔を見せたおよめさんは、きちんと喪服を着ていらっしゃいました。万事隙のない着こなしの女性で、職員ひとりひとりへのお礼の御挨拶にもそつがなく、涙も適度にこぼして……つまり、欠点のまるで見えない、とてもきれいなひとでしたが、アラがなさすぎるというのも、かえって非人情な印象で、メダカちゃんは、クワバラさんが、このおよめさんを好かなかった理由が、なんとなくわかる気がするのでした
 クワバラさんのお顔はやすらかでした。
 メダカちゃんは、最期に、クワバラさんのかたちのよい唇に、化粧台にしまってあった、お気に入りだったかもしれない濃いめの口紅をひいてあげました。白粉に、口紅、香水やら……おしゃれだったクワバラさんの身をかざった小間物をおさめた引き出しの向こうに、がさりとなにかかさばるものがありました。引き出しを閉めようとしても、そのかさばりで、うまくもとどおりに閉まりません。あれ、とメダカちゃんはいったんその引き出しをぬいて、奥を覗くと、厚みのある重い紙の束。黄色い油紙に幾重にもくるんで、鼻をつく古屋敷に長年沈んだ黴と灰の匂い。まじって、かすかに、とても優雅な伽羅の香りはあの紫縮緬のお振袖のかしら。
 墨と万年筆で、しっかりと、またこまやかに綴られているのはきっと……開けてみなくても中身はわかる。
 メダカちゃんは微笑しました。この世への執念を閉めるだいじな扉があったね、ミサオさん。
 お手紙は、息子さんにお渡ししました。メダカちゃんの耳の底、クワバラさんの声がなつかしく残る。タクサン扉ガアルンダヨ。
 アリガトウ、オネエサマ、とも。

スポンサーサイト

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://donanobispacem717.blog.fc2.com/tb.php/5-ab332e7e
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。