さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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海の器 vol1

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海の器

    
   ほのぼのと光はるけき朝凪に
         響みわたれる海の器よ
 

潮の匂い。
 部屋にこもる海の体温。
 ひるさがり、ひとびとのひしめく浜辺に聞こえない潮騒は、秘めやかなとばりのかげで、濃い旋律を紡ぐ。
 目の前でゆるやかにひらいてゆく女のからだ。つややかな象牙いろのヴォリュームが揺れ、息づかいがひかる。
 なめて……。
 冴の眸がきらきらと濡れる。黒い髪にかくされたものを、冴はみずからかきわけてゆき、あざやかないろどりを象牙いろの中心に展げた。
 かすかな、にこごりのような澱が、紅玉いろの洞にたまっている。乳かすめいた雫は、冴の欲望の波と正確に呼応していた。
 朱鷺はあかい襞をじっと見詰める。いきもののような襞は、朱鷺に見詰められると、焦れるようにうごめいてふくらみ、怒ったような紫を帯びてゆく。
 いや、と冴はさしせまった声をあげ、朱鷺の背中にながい脚をからめた。いじわる。待っていたのに。
「重いわ。しめころす気?」
 朱鷺はうすいからだを苦しげによじった。冴は残酷な微笑をうかべて、恋びとのほそい腕をつかみ、彼女のからだをひっぱりあげた。
「まだ洗っていないの」
「香水の匂いしかしない」
 朱鷺が嗅ぎ取ったのは、酪の匂いより強いフィジーだった。その香はかろやかで、かげりのないあかるい海に似ている。あまりに透明なので、どこかものがなしい香り。食べることを拒んで死んだアメリカの歌手の声に似た香り。
 冴はほがらかにわらい、少女のふっくらした下唇を舐めた。
「そうよ。あんたが好きな匂いなの。洗っていないなんて嘘よ」
 だから、と冴はふたたび眸をうるませ、朱鷺の指をそこにみちびいた。あいして……。
 ゆたかな乳房が朱鷺の顎をさえぎる。朱鷺は冴の乳首をやわらかく噛みながら、叢にひそませた指にヴィヴラートをかけた。
 ゆるく、はじめはゆるく、ときに小刻みに、風が水面を揺らすよりもこまやかに、はなびらがふるえるように。
 ああ、冴は首をそらせた。ひにさらされない顎のうらがわは、なめらかに汗ばむ。
 朱鷺はひとさしゆびと薬ゆびで二枚の襞をわけ、なかゆびで莢をおしあげた。花の莢ぐらは、彼女のゆびを待たずにもうはじけていて、ひときわ熱い蕊がむき出しになっていた。
朱鷺の指が蕊に触れると、冴は息を詰まらせ、もの狂いのように首を振った。わかい体臭がこの一瞬に燃えあがり、フィジーの華奢な香をおしのけ、なまなましい海の息づかいが朱鷺を包み込んでゆく。
 朱鷺は眩暈をこらえながらヴィヴラートを速めた。オイロピードの血が四分の一流れている冴の肉はしたたかだった。皮膚や目のいろは東洋だったが、輪郭のあざやかな目鼻立ちと同様、冴の骨格は充実していた。感覚の頂点で、冴は朱鷺をぎゅっと抱きしめるのだが、朱鷺はしばしば冴の肉に押しひしがれる恐怖を、快楽のなかであじわう。
 あ、いく。
 冴はがくがくと腰をふるわせた。掌が腿にはさみこまれたまま、朱鷺は冴とくちを重ね舌をからめる。冴の叫びが朱鷺のからだのなかでひとしきり反響する。……。
 貝がひらくようにくちびるを離し、舌先でゆるゆると乳房から腹へとすべり降り、あふれかえる潮にひたされたいきものに、朱鷺はためらいなくくちを寄せた。もう、人工の香料はあとかたもなく、あたたかい粘りがくちに流れこむばかりだった。
 ヴィヴラートの嵐のあとのぬるい凪に、冴は胸を波うたせながら漂っている。きれぎれの喘ぎが澪をひいて、朱鷺と冴のあわいに流れる。
「いいわ、とても」
「さっき強すぎた? ひりひりしない?」
 ううん、と冴は半身を持ち上げ、たゆたうまなざしで恋人を見詰めた。ほっそりしたあかるい肌色の少女。光のかげんで全身の血管が透け、あまりに薄い皮膚のために、海辺に澄みながら、照りつける太陽の下では決して泳がない朱鷺。彼女は漣のような指で、あたしをくるわせる……。
 やがて、朱鷺の舌がせつなくなり、するどい感覚が蕊をなぶって背筋をはしりだす。男とは、男には……と冴は息を吐いた。
 こんなにもゆるやかに、ゆるくそしてなめらかに、なめらかなでこまやかに、こまやかさはときに鋭さをひそめ、刃さながらに感覚のきっさきをなぶる。
(かみそり、花びらの舌。ああ)
 意識が靄のように溶けてゆく。冴はからだをうねらせ、朱鷺の下半身にしがみついた。この少女のからだは、日本人にはめずらしく均整がとれている。ロシアのバレリーナのように、トルソがほそく、腰もちいさい。どういう育ちかたをしたのか、ふくらはぎや膝の曲線もなめらかで、ゆがみがなかった。
 このおしりにひとめぼれしたんだわ。
 冴は朱鷺の腰を撫でた。初めて出会ったサロンで、朱鷺は全身銀色のタイツであらわれ、黒尽くめの衣装をまとうたピアニストの奏でる音楽のなかで、波のように漂うた。それはバレエのムーヴメントに違いなかったが、アカデミックとも思えず、もっとナチュラルで、踊り手の心の動きを原石のように取り出した降りつけのように思えた。ポーズからポーズへゆるく流れながらうつろう姿は繊細で、旋律を予兆させないピアノの韻律と不思議な情緒のきしみをかもしだした。
 きしみはいらだたしさでもあり、自分の眼の前にゆらめく銀色の少女への好奇心、さまざまな逸話に飾られた気難しげなピアニストへの畏怖のようでもあった。鳥の名前を持つ少女が、実年齢としてほんとうに少女なのか、あるいはすっかり成年を過ぎた女なのか、とりとめのない表情の澄んだあどけなさから、推し量れるものではなかった。
 その好奇心が、数ヵ月後、初夏の海辺の夜明け方、ただひとりで海辺をあるいている朱鷺と再会したとき、焼けるような欲望に変ったのだった。
おんなのひとならいいの。
 朱鷺のひとみはあかるいものだった。
 女性とのまじはりならば、自分に許されて(誰に?)いるのだと、朱鷺は髪をほどきながら冴の貌を覗き込んだ。誘った冴のほうがたじろぐほど、朱鷺の表情はなだらかで、うしろめたさのかげりもなかった。
 女が女を愛撫するという行為への倒錯的な湿りけも、この少女にはなかった。彼女にとってはきれいなものを愛するということが大切なので、かたくなな道徳や偏見などは、こころを掠めたりしない、と冴はじきに知った。花々を愛でるように、青空をよぎる雲をながめるように、夕茜にかがよう光に見惚れるように、朱鷺はにんげんを自然の輪廻する現象と等しくながめる……それは口にするのはたやすいが、実際にそのように透明な心象は、修得や気取りで具えられるものではなかった。
 あ、とうめいたのは今度は朱鷺だった。冴は朱鷺の尻をうしろから両手で割り、舌をおしつけるように襞をめくった。朱鷺の髪は淡く、性のかたちも奇跡のようにうすい。彼女の顔立ちがひとつずつはっきりしているのと、この秘められたはなびらの儚さとは、悲哀を含んで調和していた。
 淡いはなびらはほのかな紫いろをしてる。冴は夕靄の薄紫のうちがわをさぐる。すると、粘膜のうちらから、目に見えるはやさで夜明けの薔薇いろが滲んでくる。
(まるで、新鮮な貝の呼吸みたいだ)
 やがて、虹いろの粘膜からすきとおった雫がしたたり、冴の唇を濡らし、冴は自分に満ちた磯のとどろきに少女をひきこもうと舌をひらめかせ、朱鷺を中心をついばみ……

         ◇

 竹内蘭、とは男にはあでやかすぎる名前にちがいないのに、ピアニストが、よく整えられた声で、
「ささやかな催しにようこそおいでくださいました」
 とあいさつすると、彼の、おだやかでいながら隙のない物腰と、小柄なからだつきにしては厚みのある大きな手の優雅な手つきからたちのぼる、形容しがたい彩に、皆は目が離せなくなってしまうようだった。
 蘭の会は、不定期に、銀座のあるギャラリーでひらかれていた。天上の高いホールにはちいさなグランドピアノがあり、ピアニストは演奏のあいまあいまに気まぐれに言葉を散らしながら、リナシメントの小品や、印象派の音楽を奏でた。紫いろの蘭を胸にさしたピアニストのかたわらに、朱鷺がいた。朱鷺は水いろの絽小紋を着ていた。
 例によって遅れて到着した冴を見つけると、少女はしなやかに客のあいまを抜けて側に来た。
「蘭さん、いいの?」
「今、画廊のマダムと話をしているから」
 演奏の半ばでカクテルが振舞われる。集まったひとびとは、それぞれに洗練された身なりにつくろうている。もう若い盛りは過ぎていたが、美貌で知られたここの女主人は、崩れぬプロポーションを保ち、灰色の薄絹を幾重にもかさねたマーメイドラインのドレスが似合っていた。夜会巻きに髪をアップしたうなじのすっきりした佳さと、ふくよかな上半身から細腰にかけて流れてゆくラインとが、アール・ヌーヴォーの花瓶のように調和していた。
「あの、マダムはね」と朱鷺は長い睫毛をゆっくりめぐらして微笑した。蘭さんが好きなの。
 冴はちょっと驚いて少女を見た。マスカラを塗らない睫毛はすなおに両目をふちどっていて、朱鷺の透明な視線は水のようだった。少女が竹内蘭と一緒にくらしていることは皆が知っている。ふたりの奇妙な仲らいを表だって取沙汰するようなひとびとは、今ここにはいなかったが、心のどこかではひりひりするような眼差しを感じることもあるだろう。
 冴もそのひとりだった。
「冴は葡萄酒ね」
 紅玉いろのグラスを、冴に向かって朱鷺はたのしそうにかざした。冴が翡翠いろのミニドレスを着ているので、したたるような葡萄酒の彩りが、ことのほか際立ってうつくしいのだった。朱鷺は酒を飲まない。
 これは嫉妬だろうか。冴は自分より頭一つ背の低い朱鷺を横目に見ながら考える。演奏は再開された。ドビュッシーの「雨の庭」
 あっ。
 無数のガラス玉が散らばるようなピアノの流れのなかで、ふいに冴のうちがわがひきつれた。肉じたいはなんの刺激もうけないのに、感覚だけが痙攣し、愛撫の記憶が谺する。冴はしゃっくりをこらえるように、さけびを喉素でおしころす。
 流水に桔梗文様のきものをゆるく着付けた朱鷺は、うすい金いろの檸檬水をすこしずつ飲んでいる。ぐるっと無造作に櫛巻きに結った髪に、みどりいろのびいどろ簪。かすかな、椿油に白檀が混じった香が、冴の欲情を撫でて空間に散ってゆく。
 少女は無心にピアノの調べに身をゆだねている。ながい睫毛に縁取られた瞳は、まばたきも稀に、竹内蘭にそそがれている。冴は衝動的に朱鷺を抱きたくなった。男だったら、と濃い葡萄酒を含みながら思う。
(男だったら、物陰へ朱鷺を連れ込んで、このきものをまくりあげて犯せばいい)
 自分の欲求にほろ酔いが拍車をかける。わざとあらけた空想で神経を刺激するのは感情のマスターベーションのようなものかもしれない。
 男の欲情はなんとあっけないものだろう、と冴は、顔を動かさずに周囲の男たちを一瞥した。不機嫌をひそめてめぐらす自分の視線がきれあがり、凄艶を増すのを知っている冴は、異性を魅惑するために、ことさら険しい感情を自分のなかに練り上げたりするのだった。結局それも媚態なのだけれども。
 男の行為なんて……性器と性器をつないで、激情を吐き出せばカタルシスが得られる。だがおんなはそうはいかない。おんなはからだをつなげない。あたしたちの欲望は性器をいじりまわすだけではだめだ。性器は欲望の一部に過ぎないから。
 ながい、指のたわむれ。くちびると舌のからまり。皮膚への執着。ぬるく、やんわりとした触れ合い。たそがれの、あるいはあけぼののあまったるい吐息。漣の睦みあいが、靄のようにおんなたちの欲望を溶かしてゆく。
 女を焦点化しながら刻んでゆくのが男の欲望なら、おんなたちのそれは、点でも線でもなく、ただ拡散しては収縮を繰り返す海の生きもの、あるいは飽かず満ち引きを繰り返す、茫洋としたわたつみそのもののすがたをしているのかもしれない。凌辱も侵犯もない。
 だが、嫉妬はある。
 冴は朱鷺の視線をたどって蘭を凝視した。ピアニストは、黒いドスキンのジレに、こまかい襞のついたシャツを着ていた。どことなく現代とは違う時代のひとのような雰囲気。端正というよりも、異相。西洋人のようにあかるい髪、うすい皮膚、それらは朱鷺に似ていた。ほのかに老斑の見える顔立ちはビアズリー描く牧神そのもので、自己主張の強い鼻梁、つねに微笑しているように上唇がうねり、睫毛のすくない瞳の表情は、人を射すくめる強さをひそめながら、どこかおどけているようで、つかみどころがなかった。
 彼のこころは、現実の肉体からいつも遊離しようとしているかのようだった。彼の周囲に漂うエロティシズム、きらめくように音楽を紡ぎだすとき、彼は少年にさえ見えた。
 ピアニストを凝視する朱鷺のまなざしは恋人のものだった。
 自分の視線も恋をしている、と冴は口惜しくおもった。少女への欲望なのか、蘭への好奇なのか、彼女自身にもさだかではない。
 少女とピアニストの交歓を想い描くことは難しかった。いや、たやすいかもしれない。いや。
 嫌? いいえ……。
 ふたつの感情がいりまじり、冴はひどい渇きにさいなまれ、グラスをひといきにあおった。
 今夜は蘭さんと……。
 睫毛を伏せる朱鷺に、冴は何とこたえたか覚えていない。サロンが終わり、ひとびとは夜の残りをそれぞれのパートナーと過ごすために別れていった。冴は顔見知りの何人かとどこかの酒場に入り、ブランデーをもらった。
 酔ったまま車を運転するのは慣れていた。夜明けの海岸道路を高速で疾駆して鎌倉に戻るころには、たいていの酔いは抜ける。酒に強いのは、ロシア人の祖母の血かもしれない。イリーナ・セミョノワは、スターリンの圧制を逃れてオホーツクを越えた。
 酔ってはいない、と葉山マリーナを過ぎて思った。自宅はとうに過ぎている。潮が寄せる、と冴はつぶやいた。竹内蘭のすまいはすぐそこだ。酔ってなんかいない。
 竹の枝折戸は古風なものだった。朱鷺の水色桔梗の立ち姿が、一瞬四つ目垣のかなたに浮かび、冴は息を呑む。しかし歩みはとめられなかった。
 あたしは嫉妬している。
(でも、誰に?)
 朱鷺のしなやかな肉が欲しかった。鍵盤に燦爛したピアニストのゆび。あのきらめきが朱鷺を?
 感覚の残響が潮騒に混じって冴のなかに鳴りわたる。蘭と、朱鷺の欲望のかたちを知りたい。あたしはかわいている。
 手入れのゆきとどいた庭を抜け、朝明けの風がカーテンを揺らす寝室にそっとさし寄った。窓はほんの少し開いている。朱鷺がしめきった部屋の空気をきらうから。
 朝靄が木々を香らせ、若葉が息づく。茜とラヴェンダーにつつまれたかはたれのひととき。泉の噴水にシルフィードが舞う。薔薇いろの臥床。こわい毛でおおわれた牧神の下半身をいたづらするシリンクス。うしろから、してね。脚にはさんで……。
 禁じられたもろい欲望。蘭の紫が銀色の潮騒に溶け、朱鷺のうすいろの眠りは、なおゆるやかで……。

         ◇

 足跡が残っていたの。
 たそがれてゆく光線が西の窓からベッドを茜いろに染める。からみあったままの女たちの肌は金いろにかがよい、脚や腰の周囲で、リネンのシーツがしどけない波紋のような影を織る。
 そう、と冴は目を閉じたままつぶやいた。
 冴の漆黒の髪はうまれつき波うっていて、彫りあげたような横顔の輪郭をあざやかに縁取る。
 きれいね、と朱鷺はためいきを吐き、ゆびさきで冴のひいでた額からまっすぐのびる鼻みねをたどった。少女の指がうわくちびるをなぞると、そこにこびりついた魚の白子のような匂いが冴の官能をくすぐる。それは朱鷺と冴の本質の匂いだった。
「何も見えなかったわ。朱鷺は眠っていた」
 はだかで、という言葉を冴はしまいこみ、かわりに朱鷺の指をくわえた。少女の痩せた指はかたい。球体人形みたいに、しろくてほそい。
 蘭の姿はそこにはなかった。
 窓からのぞきこんだ冴のすぐ目の下に朱鷺の寝台があった。こどものベッドのような寝床に朱鷺ははだかの腕を寝具からすこしはみだして寝息をたてていた。淡い、なにかの花模様が少女の部屋のあちこちにあった。たけだけしい感情でしのびこんだ冴は、まるで無垢な朱鷺の眠りにうたれた。
(寝顔に本性が現れるものなら、朱鷺はそのままの朱鷺だった)
 朱鷺はあどけなく眠りに沈んでいた。やすらかでかげりない放心……。
 夏の夜がみるみる明けてゆく間に、朱鷺はいちど寝返りをうち、するとその表情はものがなしげな大人の陰影を浮かべた。だが、やはり無垢な印象は消えなかった。
 冴は朱鷺の指を噛む。
 いたい。
 少女の無垢は冴に痛みの感情を抱かせた。傷口を見るような。それは、ほかならぬ冴自身の傷にちがいなかった。
 朱鷺がしかえしに冴の耳たぶをくわえる。手と手が交錯し、ゆびがそよぎ、微風の触れ合いが始まる。組み合わされた脚がほどけては絡まり、呼吸が寄せ帰り、水音が喘いでみだらをそそる。
 朱鷺は冴のゆたかな胸を揉みほぐしながら、からだの中心へむかって、触れるか触れないかのくちづけで降りてゆく。ああ、と冴はうめいた。あなたはこれを蘭に教わったのね。
言葉にならない嫉妬。草を分けてそよぐゆび。
おののきながら花がふくらむ。いいわ、上手よ……もっと強く吸って。
 やがて密着する貝ふたひら。番いのかたちで蕊が蕊を撫で、淡紫と臙脂紫が快楽の頂点めがけてはばたいてゆく。
 暮れなずむ空に夕星がきらめいて海に散っても、蝶たちの乱れ舞はやまない。
 
 快楽の余韻のものがなしさをいつか知るのかしら……。
 冴の買い換えたジャガーをめずらしがってドライブをねだった少女を乗せて、冴は海岸を走った。
 あいしあった、という充足が皮膚を潤している。愛……なんという実体のない言葉、感覚だろう。その響きどおり、あいまいで、やわらかく、つかみどころのない、あまくあたたかなニュアンス、目には見えない温度と湿度の輻輳。
 くまなく、すきまなく愛撫され、何度となくのぼりつめる感覚がきわまったはてに、少女と全身が溶け合うような時間がきらめく。永遠のような一瞬。あるいは数瞬。もしかしたらとてもながく……?。
「月が昇ったわ」
 朱鷺が首をのばして囁いた。
 夜目にもしろい貌が、不思議に歳を重ねて見えた。性器をつなげない女たちは、肉体のすべてでちぎるのだと、冴は朱鷺によって識った。ただの感覚の刺激では契りに至福は訪れないのだった。
 大磯で車を停め、海岸へ降りた。
「かぐや姫が降りてくるみたいな月だわ」
朱鷺は片手で月光を透かし見た。
「かぐや姫は天に昇ったんでしょう?」
「また還ってくることもあるわよ」
 きっと、それは朱鷺みたいな少女だろう、と冴は想う。白地に秋草の浴衣を着て、浪打ちぎわで月明かりにたたずむ朱鷺は、そのままふつっと消えてしまってもおかしくなかった。月光のつくる影は青く、淡く、それでいて輪郭は鮮明で、なめらかにひかる砂浜に、少女の影は、すり硝子で輪郭を隈どったように透きとおっている……。
 朱鷺はふりかえって冴をみあげ、
「あなたぐらいきれいだったらかぐや姫ね」
 微笑むのだった。
 同じことを想いあっている、という驚きには嬉しさと、それからほんのすこしの怯えが混じる。かすかなたじろぎを隠すために冴は、わざとじゃけんに髪をかきあげて横を向き、
「あたしは月よりジャガーが好き」
 冴は朱鷺の喉に触れた。その一瞬、殺意でゆびさきが冷えた。竹内蘭の姿は、このとき念頭になかった。冴の官能は純粋に研ぎ澄まされ、愛のきわみの感情が殺意にまでせりあがり、冴の濃い眉がきりきりと歪むのを朱鷺は見た。朱鷺には冴の愛がわかる。
「蘭さん、あたしの父かもしれないひと」
 えっ?
 突然の表白を聞き糾す間もなく、背後の暗い松林から乱暴な笑い声が響いた。
 あそぼぉよ。
 いい車。けっ、やっちまえ。
 ざらざらっと砂利まじりの砂を蹴って、男ふたりがたちはだかった。
「……!」
 冴は金切り声で叫び返した。でも自分が発した罵声を自覚できない。心臓がぎゅっとしぼられる狼狽で、全身は硬直する。男たちの嘲り声の抑揚は、新宿や渋谷などにたむろする若者たちとおなじものだった。冴のこめかみに冷や汗がにじむ。くちびるを噛んだ。スポーツジムで鍛えた冴は、ほんとの修羅場なぞ知らない。でも、隙をみてあいてのきんたまぐらい蹴ってやる。でも朱鷺は……。
 おれたちも、ちょうど、ふたりだしさ。
 痩せて背の高い男が舌なめずりするように高笑いしながら近寄ってくる。冴は叫ぶ。
「逃げて、朱鷺」
 だが、なんということだろう。少女は、まるで腑抜けたようにつったっている。おおげさなジェスチュアで朱鷺を捕まえようとした男は、相手の無抵抗に、拍子抜けしたように声を低めた。
「こいつ、おかしいんじゃないの」
 夜中にきものなんか着てるしよ……。
 少女は、男の所在なくひろげた腕のなかに、あたかもみずから身を投げかけ、ぐらりとたおれこんでゆくように見えた……が、
「ぎえっ」
 次の瞬間、絶叫が夜空をつんざいた。男は顔を両手でおおい、のけぞってあとずさり砂浜に尻餅をついた。
 目が、つぶれた。
「なんだって?」
 うろたえて振り返ったもう一人に、すっと朱鷺が影の静けさで走りより、走りながらひろいあげた流木をまっすぐ彼の喉もとにつっこんだ。
 いっさいはまばたきする間の出来事だった。
 声もだせずに呻き泣き、悶絶した少年たちを、朱鷺はひややかに眺めた。血の匂いが潮風に混じる。少女はうなだれた。自分の指に少年の血が、すこし飛んでいる。
 蘭さんに知らせて。
 冴は顎でうなずいた。膝がふるえ、手が痙攣し、携帯の操作がうまくできない。
「死んだの?」
 さあ、と朱鷺はものうげに首を振った。冴はくたくたとしゃがみこむ。……。

         ◇

 事件は、竹内蘭と冴の父親が揉み消した。
男たちは都内在住の大学生で、それまでにも暴行の前科があった。朱鷺の突きをくらった少年は片目の視力を失い、喉を襲われた方は死の寸前だったという。
「もう一歩、朱鷺が踏み込んでいたらたすからなかったろう」
 蘭は憂鬱そうだった。海際の家からはひろびろと相模湾の眺望がひろがる。夏のさかりを越え、海はやや色調を変えた。雲に塞がれた空を渡る風が低い。
「あなたが朱鷺にわざを教えたんですか?」
「身を守るために」
 蘭は横目でちらっと冴を見て、言葉を選びながら続けた。
「朱鷺は朱鷺自身から身を守らなければならなかったんだ」
「わかりません」
「この子が、わたしの前にあらわれたころは……」
 蘭は言いさした。なまなましい苦痛を覗かすと見えて、蘭はすばやくその扉を閉めてしまった。くちもとには、もう皮肉な微笑さえ浮かんでいた。いまどき、めずらしくはないんだろうがね。
 破壊衝動。わたしだって例外じゃないさ。
「でも、朱鷺はあなたを愛しているんでしょう?」
「わたしに感情移入するので、傷口から血が噴出すみたいに、歯止めが利かなくなるのさ。憎悪すべき自分の姿が、鏡に映るように、そこに見えるからね」
「わからない……」
 冴はかたくなに言い張った。わかりたくない。
「愛と憎悪は背中あわせじゃないか」
「今も、朱鷺は?」
「いや。わたしは、彼女を育てながら、いろんな技芸を仕込んだ。自分の感情をポジティブに使うために。感情それじたいはプラスもマイナスもない。きわめて純度の高い無垢なエネルギーなんだ」
 だから、芸の修得には向いていた、こういう子は。
「だが、いったん傷口に手を触れると……」
 悪意に過敏なんだ。自分へのネガティブな攻撃に。コントロールできない原始的な本能は、相手に対して容赦しない。
「殺してしまうほど?」
「ためらいがない。ピュアだから」
 ピュア……こわい言葉だ。こわくて魅力的な響き。
 朱鷺の愛撫、欲望。まっすぐ冴の求めるものを探り当て、満たし、潤し、撫でてくれる少女の鋭敏な触覚。濃い酒にも似た愛撫の裏打ちは、かりそめであれ、死であるのかもしれなかった。
「あの子がこわいかい? 朱鷺は、わたしが教えた芸を、彼女の器のままに、砂が水を吸うように自分のものにしていったんだが、ひとに対しても同じなんだ。愛、憎しみ、行動……」
 冴はかぶりを振った。涙がまなじりを流れる。うらやましいわ。
「彼女は、あなたを父だと」
 蘭は答えなかった。
 扉が音もなくひらいて朱鷺が入ってきた。しのびやかに蘭のかたわらをすりぬけ、冴のうしろの張り出し窓に身をもたせかけた。少女の着物に焚きこめた香がかすかに漂い、滲むように散っていった。
「ピアノを奏いて」
「何がいい」
 ラヴェルの……。
 冴はすすり泣いた。なぜ涙が出るのか、何がうらやましいのかわからなかった。
 海の欲望。果てもなく、かぎりもなく寄せ返り、満ちかえる。愛そして愛撫。
 蘭がピアノの蓋を開けた。水の調べが室内にあふれる。波うつ、青い、碧い、砕けては結ばれる契りの無垢のきらめきよ。
 朱鷺の表情はおだやかだった。冴と朱鷺はどちらからともなく寄り添い、蘭の音楽に身を委ねる。繊い朱鷺の髪を束にして冴はくちに入れた。ひなたの匂いが籠もっている。
 いつか雲が割れ、夏の濃い影が岬の家を包んでかがやき、潮の照り返しはくきやかにおんなたちを彩った。
             

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