さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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海の器 vol2  NOCTURNES

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  NOCTURNES

潮呼び君は響きぬ重なれば
         禁忌より濃く我も流れむ


 誰かを愛したことある?
 ぬるい睡りに漂いはじめた樹に冴はささやきかけた。藍色の闇はびろうどめいて深く、少し開けた西の窓から月光がしらじらと流れ込んでいる。下半身を重ねたままの二人は、この蒼白な月明かりの底で、藻にとらえられたなめらかな魚のようだった。
 樹は濃い睫毛を物憂げに持ち上げ、半透明な瞳で冴を探したが、視線は肉の余韻を反芻している。
 冴は重ねてその耳許にくちを寄せ、ねえ、と囁いてから体毛のわずかに繁る胸に舌を這わせ、野葡萄いろに凝る乳首を噛んだ。
 繁りに籠もる体臭はプロヴァンスのチーズと同じで、冴は自分と同じその匂いを、こよなくなつかしいものに感じている。
「なに」
 樹は灰色の瞳を見開き、不機嫌そうに鼻に皺を寄せた。鑿であらく刻んだような樹の目鼻立ちは、起伏の激しすぎる山並のように深い陰影を彫りあげる。
「冴だけだ」
 そっけなくこたえて両手を頭のうしろに回して欠伸したが、ふと呼吸をとめて冴をまじまじと見つめた。
「俺を愛していないな」
 ……。
 冴は寝そべったまま明かりを点けた。くすんだ金色の光が月明かりに溶け、睦み合いに乱れた寝室を照らし出す。
 樹は長い腕を伸ばし、起き上がろうとする冴の髪をうしろからつかんで引き寄せた。
 のけぞりながら膝に倒れかかった冴の頬を樹は大きな手ではさみ、くちを重ねた。舌がからまり、吐息が溶け合う。
 そのまま樹は冴の乳房を握り、その緻密な量感をたのしみながら、中指と薬指の間に乳首をはさんで、小刻みに揺すりはじめた。
 もうだめ。
 冴は首を振って執拗なくちから逃れようとするが、樹はそのまま冴の腰を抱え込んでしまう。
 濡れてる。
 樹はうれしそうに冴の内部に指をひたす。樹の仕草は単純で駆け引きがない、と冴は粘膜の感覚に捕えられながら思う。冴の顔の前でこわい毛で覆われた樹の腹筋が揺れると、そのまま二人はもつれあってお互いの深みに溺れた。
 やわらかく折りとられたばかりの茎が冴の指なぶりによみがえり、色づいた暈をひろげる。血の色を湛えた粘膜には冴自身の残り香が濃くまつわりついていて、乾きかけた剥落は白く粉を吹いていた。冴はゆるやかに茎をしごいた。切羽詰まった最初の欲望が叶えられた後、二度めの交わりは緩やかで、四肢に滲みとおるような愛撫が好ましい。
 くちを……。
 樹が熱っぽい声で促しても、冴は舌さきで焦らすようにちらちらと茎の輪郭を掠めるのだった。樹は低くうなり、突き上げて無理やり冴のくちびるをこじあけようとする。冴は男のこうした強引が好きだ。
 あたしのも。
 冴が樹の顔を包み込むように腿をひきしめると、樹はまるで果物にありついたように冴のからだを啜りはじめた。獣に嘗められているようなこの感覚は、繊細さとは無縁だったが、荒々しい衝動に冴を駆り立てる。
 冴はかすれ声を迸らせた。
 いちど充血した後で、性器は敏感に熟れていた。うるおいのみだらが流れ出るのが自分でもわかる。冴は露を結んだ弟の昂ぶりをくちに入れた。新鮮ないきものの感触が喉をふさぎ、ぴたぴたと踊るように冴の口腔を叩く。
 強い衝動に駆られた冴が、頬張ったまま息を吸い込むと、樹は少女のような悲鳴をあげて身悶え、腰を退いた。
「ずっとこうしていたい」
 樹は眉間にきつい皺を寄せて、冴を見下ろした。結び合った体には隙間がなかった。冴の肉を樹が塞ぎ、樹の血は冴の中で脈打っている。ふたりの感覚は谺がかえるように、密着した部分で響きあう。
「いいって、言え」
 樹は泣きそうな顔をした。半開きのくちの中で、ひらひらと舌が震える。
 このまま結ばれていたいと呟きながら、でも昂ぶりは樹を突き動かして、砕け散る高みへ追い詰める。その年齢よりは、ずっと大人びて見える樹なのに、極みの刹那には何故かひどく幼げに歪むのだった。
 いい、とても。
 冴は快楽の余韻を楽しみながら樹を迎え入れる。彫刻めいて緩みのない男の背中が腕に快かった。いいわ、このまま。
 冴は膝をたかく掲げ、樹の背中で交差しながら弟の律動に和して腰を使う。猛りが臍の下を突き、内臓をうらがわから突き上げられる歓びで爪先が痙攣する。
 死ぬ!
 弟は姉の片脚を抱え、首を振った。
 浮き出た青年の鎖骨に汗が滴って流れ、二人の両足は楔のかたちで交錯し、嵐に揉まれる帆舟のように薄闇を泳ぎ続けた。

 樹はことし二十歳になった。二年前に高校を中退してから、今は小田原の「ロワ」というリストランテで働いている。
 桔梗山の自宅には月に一度帰ってくるが、このマンションは姉の冴の独り暮らしで、父親は目黒に妻ではない恋人と住まい、彼らの母親の累は長谷の古い屋敷にいる。
 姉弟にとって、母の屋敷も父のマンションも実家とは言いがたかった。奔放な混血児の父親を冴は熱愛していたので、父親の恋人たちをひどく嫌った。けれども、つぎつぎと変わるウラジーミルの女たちの誰よりも、姉と弟が嫌悪しているのは他ならぬ母親の累だった。
 旧家に生まれ、茶と花を修めながら、累は頽廃に堕ちている。茶の湯の稽古と称して通ってくる男たちと、長襦袢の裾を乱してもつれあっているのを冴が眼にしたのは七歳だったろうか。もうその頃はウラジーミルとは別居していた。
 冴は高校から付属の短大に進むと同時に長谷を出て、ウラジーミルからこのマンションを貰いうけた。冴より三歳年下の樹もそのとき一緒に出たがったが、ふだんはすこしも構いつけないくせに、累はこのとき半狂乱になって樹をひきとどめ、弟はいやいやながら母親の許にとどまらなければならなかった。
 そのころ、冴は実家に戻るたびに、弟の急速な変貌ぶりに驚いたものだ。
 樹は冴よりも濃く祖母の血を継いで、幼年時代は透きとおるような皮膚に青みがかった瞳、ゆるく巻いた黒髪の、道ゆくひとが驚嘆の眼をみはるうつくしいこどもだったのが、冴と離れた二年あまりのうちに、昆虫の変態さながら手足が伸びた。少女めいた輪郭は目に見える速さで削り穿たれて、頬骨は高く、鼻筋は鋭く、眼窩は窪んで瞳に沈鬱な翳を湛えた。
 うちにいたくないために、学校の水泳部で閉門直前まで泳ぎ、それからまた浜でトレーニングする。膚はたちまち浅黒く焼け、顔にはそばかすが一面に浮いた。
 海岸からすぐ近くだったが、冴のマンションに樹は来なかった。冴が出てゆく日、累はぐずぐずと泣いたが、樹は休日だったのに海で泳いでいた。三月の花冷えで、大西の海風はまだ真冬だった。誇り高く無口な樹の、母と姉への無言の抵抗だった。
 それから何とはなしに、冴は自分が裏切り者になったように感じ、長谷で顔を合わせても、こども時代の素直な感情には戻れなかった。帰宅するたび累は着物を替えるように男を代え、少年だった樹は孤独の中で先を急ぐように成長していた。冴はといえばスカウトされたファッション雑誌のモデルがいつか本業になると、派手な暮らしの中で、ただ刺激を求めてさまようばかり。
 家族はこうしてばらばらになり、お互いを疎みながら時が過ぎた。
 吐精のあと、樹はからだをつなげたままで眠りたがる。
 冴のうしろから樹は重なって横たわり、たがいちがいに開いた膝で下半身を支える。樹の寝息がうなじを撫でるたびに、くすぶるような感覚が背筋を奔るが、今は冴自身も重い眠りにひきこまれている。
 弛緩したからだのうちがわで、粘膜だけがまだひそかな水音をたてているようだ。
 乳白色の雫が冴を潤してしたたる。体内の宵闇を薄明の雫がほとほととおとない続ける眠りはやすらかだった。
 結び合った性器の扉に封印される夢。性器以外の肉体は水のように溶け、髪も腕も、唇に脚、すべてが契りあった粘膜の感覚に集約される。男と女の無限の中心が螺旋を描きながら冴を貫いている。貫通してゆく螺旋の彼方には海があった。生の極みで海は突然崩れ落ち、波濤は骨いろの飛沫を散らして睦みあう魚たちに牙を剥く……。
 ……。
助けて。
 二年前の秋、樹は初めて助けを乞うた。
 深夜、桔梗山に戻った冴は、扉を開くなり闇に血を嗅いだ。
 リビングの床に倒れている男が樹だと、暫く冴には見分けられなかった。
 人の気配に体を持ち上げようとあがき、呻きながらくずおれた。
 なによ!
 姉の金切り声に、樹は腫れ上がった顔を歪めた。笑ったらしかったが、唇は紫に脹れ、歯茎だけ動いた。ごろごろと喉が鳴り、聴き取りにくい発音で、
「婆ァの男とやりあった」
 ようやくつぶやいて樹は気絶した。
 累の情人は数ヶ月ごとに変わっていたが、こんどの男はこともあろうに息子の学校の体育教師だった。柔道あがりの体育教師は、何かの折に見かけた累にのぼせ、手管をこうじて長谷に入りびたり、たちまち夫婦気取りにのさばった。累の家は鎌倉でも指折りの旧家で、資産もあり、本人がとびきりの美人ときたら、男にとっては目がくらむような獲物にちがいなかった。
 とうに四十路を過ぎた累も、最初はこの年下の男にのぼせあがり、それまでの恋人たちと手を切り、ウラジーミルにまで離婚訴訟を持ち込む騒ぎになった。もちろんウラジーミルはとりあわなかった。彼は妻をよく知っていた。
 はたして三ヶ月ばかり過ぎると累は相手に飽き、避け始めた。捨てられた男は気違いじみたつきまとい方をし、電話をひっきりなしにかけ、さらには夜更け、高い塀を乗り越えて累の寝室に押し入る有様になった。
「婆ァ、嫌だって言うんだ」
 樹は救急車の中で冴に呟いた。
「嫌だって言うけれど、あいつが来るとかんたんに寝るのさ」
 折れた肋骨の激痛に樹は咳き込んだ。
 十七歳の樹に殺意があったかどうか。
 あった、と冴は思っている。朱鷺の琴線に触れてから、冴は人のこころをありのままに見つめるようになっている。
 冴は母親を嫌っていた。が、樹は累を憎悪している。樹の性格なら、累がどう反対しようと長谷を飛び出すことはできたろう。弟はウラジーミルとも仲がよく、冴に白目を剥く父親の若い愛人たちは、少年にはとろけるような媚態さえ示して可愛がった。
 樹が長谷にいたのは母親を慕っていたからだった。節操のない累を罵りながら、心のうらがわで樹は母親を求めていた。罵倒は愛情表現だった。
 母親の寝床から上機嫌で引き上げる体育教師に、樹は木刀で襲いかかった。藪影からびゅっと奔る殺気に男は辛くも身をかわしたが、肋をしたたか打たれて呼吸が止まる。続いて真っ向に踏み込む少年に捨て身の脚払いをかけると、つんのめったところに体を重ね、相手の腕の逆をとった。
 物音を聞きつけて累が門を開けなかったら樹は殺されていたかも知れない。
 樹は全身打撲と肋骨の複雑骨折で三ヶ月の入院加療を強いられ、間男は肋骨の単純骨折に軽い捻挫、打ち身だけだったが、事件は地元の新聞が書きたて、免職になった。
 あの夜、樹は男が累の声に怯んだすきに、逃げ出して姉のマンションに来た。初めから長谷には戻らないつもりだった。
 助けて、冴。
 樹は腫れ上がった瞼を閉じようとはせず、じっと冴を、見つめ続けていた。傷ついた視線、孤独な眼差しが冴の心臓に突き刺さる。肉体の傷ではなかった。弟を置き去りにした
痛みは、二年の間破片のように冴をも苛み続けた。姉弟の欠落を癒すために択んだ術を、冴は間違いだとは思わない。
(あたまは嘘をつくけれど) 
 肉体には嘘がなかった。冴は樹の肉に感応する。何ひとつたしかなものが見出せない世界で、信じられるものは、この肉体だけではないか。
 冴は肉の純粋を信じた。それは朱鷺との睦み合いと同じく、冴の肉体の深みから湧き出る直感なのだった。

 その週末は蘭の会だったので、冴は仕事をキャンセルしていた。バブルが弾けてから中途半端な階級のモデルたちは仕事を失い、さまざまにさすらってゆく中で、冴もまた影響を受けずにはいなかったが、もともとモデル業に野心を抱いているわけでもなく、成功への飢餓感も稀薄だった。
 午後、めずらしく朱鷺から電話が入った。
……会のあと、晩御飯はどう?
「いいわ、蘭さんも?」
……女優さんとおつきあいだから、わたしひとりよ。 
 冴は安堵した。竹内蘭に魅かれながら、彼が苦手だった。たぶん魅了されているので避けたい気持ちになるのだろう。蘭がいない、という安堵の中には落胆と嫉妬が微かに含まれている。冴はこの感情から眼を背けることに決めていた。朱鷺に、も、魅かれているから。
「弟、も、連れて行っていい?」
 冴の声はすこしうわずっていた。
 初秋の蘭の会はいつもよりごったがえしていた。蘭が演出した芝居が上演されて、その関係の人びとが連れ立っていた。常連とはそぐわない雰囲気の客たちがサロンに足を踏み入れると、なんとなく声を抑え、物腰がひきしまるのは不思議な光景だった。
「弟さん?」
 演奏の前に、竹内蘭は人垣を分けて冴に話しかけた。袖にこまかいフリルのついた黒い絹のブラウス、紫がかった緑いろのズボン、アルルカンの履くような、先の尖ったエナメルの靴を履いている。胸ポケットに挿した蘭の花は純白で、ボウ・タイにきらめく紫いろのアメジストのために際立って見えた。
「樹です」
 樹は短く答え、頭を下げた。「ロワ」の主人に客あしらいの作法を教え込まれたおかげで、身ごなしに隙がない。
 蘭はまばたきしながら樹を見上げ、
「きれいな子だ、驚いた」
 と、すこしも動揺のない声で褒めた。
 背のあまり高くない蘭と、百八十センチを超える樹が向かいあう姿は、それぞれの身なりのせいもあり対照的だ。樹は簡素なシャツに、生なりのスラックス、髪を短く刈りこんでいる。樹はいつも余分な装飾を嫌い、蘭はフリルやレースが大好きだった。
 朱鷺は画廊のマダムを手伝っていた。マダムは来客をもてなす手をとめて、しばらく樹に目を奪われた。アンバランスなくらい彫りの深い樹は、決して端正とは言えないのだが、おしなべて扁平な面相の日本人は、輪郭と彫りが鋭い、というだけで憧憬を抱いてしまうようだ。姿かたちだけではなく、樹は強い印象を相手の心に残す青年だった。
 入り口で朱鷺はいそがしく客に応対していたが、ふと瞳をあげ、冴と樹を見つめ、ほのかに笑った。
 ショパンの夕べをお楽しみくださいませ。
 ピアニストが、たったひとこと言っただけで、サロンのざわめきは水を打ったように静まる。
 水面を微風が撫で、雨あがりの梢からはらはらと大粒の雫が滴り、波紋は波紋を重ね、きららかな陽射しがありなしの綾を織る。ショパンの音楽は色彩と感情にあふれ、音楽がやんでも、澪をひくようにさまざまなニュアンスが心に揺れ続ける。
 横に座った朱鷺に、冴は囁いた。
「踊らないの?」
 朱鷺はかぶりを振る。
 音楽に負けてしまうもの。
 冴を挟んで樹は腰を下ろしていたが、このときふと朱鷺を見た。朱鷺もまた、ごく自然に冴から樹に、まなざしを移し、冴は自分を通して二人の視線が絡み合うのを感じた。冴はただ、照明の中で、輝くように奏き続ける蘭を、かみしめるように見つめ続けた。

 立秋を過ぎても、なお暑さが残り、都会のぬるい空気はよどんだ水のようだった。
 朱鷺は姉弟の先に立ってネオンの明滅する街を歩いた。今夜は髪をあげず、襟あしに白いリボンをふわりと結び、藍色の薄絹を着ている。帯の刺繍の銀いろが夜露のように揺れて光る。
 交差点で擦れ違った赤毛の少女はあけすけな色目を樹に投げ、冴を睨む。その後ろから現れた黒人男は冴の大胆に露出させた胸元を覗きこみ、早口で喋ったが、何も聞き分けることができない。
 冴と樹はありったけ周囲の視線を浴び、それでは朱鷺はと言えば、この群集の誰ひとり、彼女を見る者はいないようだった。
(目立たないはずないのに)
 冴は奇妙に思った。自分の前を歩く銀青色のモアレに包まれた女は、闇とネオンの交錯の中に浮き上がっている。まるで原色の氾濫するポップ・アートの画面に気まぐれに舞い降りた白い蝶のようだ。ローズマダーやウルトラマリンを見慣れた目には、この朱鷺の彩りが見えないものだろうか。
 濁った街明かりの中、さらさらと衣擦れをたててなめらかに歩く後ろ姿は、冴にしても、これがうつつとは思えず、まぼろしを見ているような気がする。黒いナイロンドレスにつくろった冴は、この贅沢で浮薄な都会に、ぴったりと調和していた。
 案内されたイタリア料理店は、思いがけず閑静なたたずまいで、曲線の多い室内装飾はデリケートでこれ見よがしではなかった。入って真正面の壁には、百号の大きな風景画が重厚な唐草の額に飾られて架かっていた。シャンデリアは天井にひとつだけ、あとは足つきの燭台に蝋燭が揺れている。テーブルはグラヴュールをほどこした硝子の衝立で、ひとつずつ区切られていた。
「すてきなお店ね」 
 ひとわたりぐるりと見渡して、冴は断定的に言った。遊びなれた冴もこんなリストランテは知らなかった。
「蘭さんがイタリアにいたときのお友達のお店。大勢お客は入れないから」
「僕は来たことある」
 樹は献立を撰びながら言った。
「ロワのマスターに連れられて来たよ。去年のことだけど」
「小田原の?」
「本店のほう。僕はそこで働いている」
 朱鷺は目をまるくした。
「たまに蘭さんと行くわ。でもあなたを見たことはなかった」
 樹は照れたように笑う。
「まだ見習いだから。二号店の忙しい時期はそっちにやらされて玉葱を刻む」
 朱鷺は頷いて微笑みかえした。丸テーブルをはさんで姉と弟は寄り添い、朱鷺はつくづくと二人を眺め、ちいさく吐息を洩らした。
 冴はきまりわるくセルヴィエットを折る。
「なにか変?」
「いいえ。あなたたちは、とてもよく似合っている」
 樹はぴくりと片眉を動かした。弟、と冴は言い添えるが、誰にも聞き取れないほどの声だった。朱鷺はまた黙って微笑う。もう彼女にはわかっている、と冴は肩の荷がおりたような気がするが、樹は険しく眉を寄せた。
 イタリア料理店だが、葡萄酒はフランスで、樹と冴はソーテルヌを一壜もらい、朱鷺もグラスを手にした。
「僕も言っておきたい」
 ふいに樹は朱鷺を睨む。
「冴と貴女もお似合いだ」
 朱鷺は、ほんの少しの葡萄酒で頬を薄く染めている。
「あたしは冴が好き」
「好きなだけ?」
 樹が追求するので、冴は弟の膝をつねった。その手を樹はぎゅっと握り、たたみかける。
「冴は俺のものだよ」
 朱鷺はゆるくわらった。燭台の光りが揺れて、彼女の表情は古い聖像のように静かだ。
 ええ、わかっている。
「嫌じゃないのか」
 樹はさらに追ってくる。
「あなたとは違うかたちで、わたしも冴を愛している」
 樹の激昂を朱鷺がおだやかに遮ると、樹は目のふちをきりきりと凄ませて、
「俺は冴でなければだめだ」
 彼はグラスを置き、冴の指を一本ずつ口に含み始めた。冴が手をひこうとしても許さない。デセールに桃のアイスクリームが運ばれて来たが、超えたイタリア人は人目憚らぬ樹と冴の愛撫に、太い眉を陽気に上下させ、口笛を吹いた。
「何て?」
 朱鷺は落ち着きはらって答える。
「お楽しみは食後に」
 樹は睫毛を伏せた。
 そうだね。

 苦しい?
 そうじゃない。
 朱鷺はよどみない仕草で着物を脱いだ。するすると銀色の帯がほどけて床にたまり、藍が肩先からさらりとすべり、白い襦袢に赤い伊達巻、それからくるくると紐がほどかれてかげろうのような裸身になるまで、まるで日常とは別な時間がそこに流れるようだった。それがはやいのか、ゆるやかなのか、冴は放心して寝台の背に寄り掛り、はなびらを落とすような少女の脱ぎようを眺めた。
「酔ったわけじゃないでしょう」
「まさか」
 朱鷺が冴のドレスに指をかけた。新素材のドレスは果物の皮を剥くように冴のからだから剥がれ落ちる。ブラジャーを着けない冴の乳首は、朱鷺の指が首筋を掠めただけで、もうかたくしこり、待ち焦がれて蕾む。
 逢いたかった。
 朱鷺は重い乳房を両手にいただき、左右交互に口に含んだ。唇をおしつけ、舌先でからめとるように、こまやかな輪を描く。それは優雅な輪舞だった。
 冴は背中に流れ落ちる朱鷺の髪をすくい、窓の外にひろがる黒い海にかざした。アルフォンス・ミュシャの描く女のように、長い髪はきらめきながら磯の遠鳴りを宿し、辺り一面に飛沫を散らす。冴は朱鷺の愛撫に漂いながら、自分でしたばきを脱ぎ捨てた。
 奥にしのびこむ朱鷺の指を押さえ、冴は苦しげにつぶやいた。
 シャワーを。
 いいわ、冴の匂いが好き。
 冴は逆らわず、眼を閉じた。蘭の会の最中に、冴の内から流れ出たものは、樹とのみだらの残滓だったはずだ。栗の花のエッセンスのような蛋白質は、冴の中にとどまるうち、体温でゆっくりとかたまり、蒼白い雫となって下着を汚すのだった。
 裏切っているわけではない、と冴は自分につぶやいた。朱鷺が女で樹が男だから、あるいは樹が血を分けた弟だからという理由ではない。朱鷺の呼吸が、性のくちびるに柔らかく触れた。冴は思わず声をあげる。
「いやじゃないの?」
 朱鷺は喉の奥で笑った。
 なぜ? これはとても自然なもの…。
 待ち焦がれた饗宴が始まる。潮の戯れ、磯のとどろき、つがいあうイルカの幻想。貝たちが白い卵を霧のように海流に奔らせ、青い蛍光が視界に揺れる。朱鷺は目をほそめて冴の奥深くを探りながら、注意深くふたひらをひらき、中指で感覚の頂点をあやす。
 体液は、海の煮こごりなのだった。
 夏の夕べ、海辺を歩くと、打ち寄せられた海草や魚の死骸がえんえんとわだかまり、なまぬるい熱気に塩を含んだ腐臭が、言いようのない惑わしに感じられることがある。発酵と腐敗のごくわずかな隙間で、海辺は濃い酒のような匂いを放った。それはたちまち干上がるか、鳥についばまれ、あるいは潮にさらわれて、蠱惑の匂いはたちまち失われてしまう。
 敏感な朱鷺は、この発酵臭が、上等の香水にほんの僅かに含まれているのを嗅ぎ取るのだった。
 冴は皮膚を波打たせて朱鷺の愛撫に耐える。喘ぎは悲鳴となって高鳴り、ふたたび沈んでは夜の臥所にたゆたう。
 冴の厚みのある性のくちびるはこの間より濃く染まっていた。それを口に含むとかすかな血の味が舌に滲む。
「怪我をしたのね」
 顔をのぞきこむ朱鷺に、冴は訴えるような視線を向けた。 
 あの子の指がささくれているの。きらっと朱鷺の眼がひかった。
「でも快いんでしょう?」
 そう、と冴は頷き、朱鷺の細腰をひきよせて襞の温度をたしかめようとする。 
 朱鷺は身悶えて冴を押さえつけた。ねえ、どんなにいいの?
 冴はうっとりと微笑した。嫉妬は執着の裏返しだ。実を結ぶことのない同性の愛は、その瞬間の官能だけがあかしだてる。
「言っていい?」
「聞かせて」
 冴は、朱鷺のうすい乳房を掌に包んだ。乳房というほどのかさばりもなく、ごく柔らかいガーゼかリネンのハンカチのような感触だった。乳暈も淡く、ほそい静脈が縦横に透ける繊弱を、竹内蘭はどのように愛でるのだろう。
「とても単純なもの。あの子のからだには嘘がない…」
「いちずに?」
 朱鷺は冴の胸に頭をもたれさせた。
 とても一途で、清潔よ。冴は長いためいきを洩らした。性器のかたちや、仕草、手順のいちいちをこまかに語るのは無意味なこと。女同志のこまやかな愛撫が二人をひとつに溶けあわせるものならば、樹の性はただ契りあいの一点に凝縮していた。快楽は彼の渇望の附帯物のようで、たとえ官能が満たされなくても、魚が水を求めるように、樹と冴はお互いを欲しがる。
 冴はまじまじと朱鷺を見つめて囁く。
「樹とするのは自分とするようなものよ」
 そう。
 朱鷺はゆっくりまばたきし、冴の指をさきほど樹がしたように口に含んだ。同じ仕草なのに、彼女の愛撫はなんとまろやかなのだろう。
 冴は、自由なもう片方の腕を朱鷺の背中から下に潜らせ、しっとりした叢を探った。
 ん。
 朱鷺のちいさい洞。ここを誰かの肉が埋め尽くす情景が浮かび、冴は胸苦しいままに、なかへ指を立てた。
 朱鷺の粘膜が収縮して冴の指を締め、また緩むと、次には掴まれるように、そこからさらに奥へひきこまれる。ねばねばした溶液の感触とざらついた粘膜の縁が行く手を阻み、その凝った突起に冴の指がかかると、朱鷺は泣くような声を洩らした。
 中心なの、そっと。
 冴は震えた。舌に味覚を感じあう味蕾があるように、女の奥深く潜むこの丘は、性を味わいとる触角に違いない。
 それは驚くほど繊細なものだ。あらあらしくつかうと磨耗し、修復がむつかしいほど感覚は傷んでしまう。もしかしたら、この丘が女の性愛の和声を峻別する機能を果たしているのではないだろうか?
 男遍歴の絶えない母親への敵意が、自分を同性へ傾かせるのか、それとも父親への執着か、こころの澱みをかきまわしてみても答えなど出ない。目の前にいとおしむ肉体がある。それが同性であろうと弟であろうと、挟雑雑物のないこの瞬間、この感覚ほど、彼女にとって今、確かなものはなかった。
 いい?
 とても、ああ、いきそう。
 冴は奥深くを揺らす指に、襞をめくる手を添えた。粘膜の畝に勃起した尖りが愛撫を待っている。
 潤って、真珠色がひかる。
 冴は唇をあてた。すると自分の匂いがした。樹と自分の匂いがした。

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