さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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海の器 vol3 INTERMEZZO

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  INTERMEZZO

 金色(こんじき)の獣刈りゆく秋の陽に
海をしのぎて森炎(も)ゆるかな


北鎌倉に入ると景色が変わる。
 低く、まるい丘陵の緑深く、湘南の森は風をひろやかに享けて、広葉樹の梢に陽射しが柔らかく揺れる。
「何億年か、何千万年か前に、伊豆半島は太平洋から日本列島に流れ着いたそうだ」
「だからあたしはこの土地に馴染んだの?
あたしは南方系でしょう」
「そう、だがおまえは少し北の血もある。膚のいろなど南国のものではない」
 蘭は朱鷺の仄白い首筋を覗き込んでつぶやいた。そうかといって、朱鷺の皮膚は北国の皮下脂肪に光る白さではなかった。寒風を弾き返す強靭なあぶらに湿るきめこまかさ、密生するこわい体毛はほとんどない。
 蘭の言葉を、かすかに、小首を傾げて耳を傾ける、ほんの少しの媚態の狭間に覗く、首や腕の青みがかった透明感は、いくらか腺病質な気配をほのめかせたが、米沢紬の紅の反映のために膚が蒼ざめて見えるなめらかさは、朱鷺独得のものだった。
 車内には秋の光があふれていた。過ぎた夏には、垂直に照りつける陽光が濃い影をつくり、明るさよりも影の暗さが際立ってしまうが、傾いた太陽の光のひろがりは、影の領域にも鷹揚に、ほのかな金いろのルフレを許す。
陰影はオーヴァー・コントラストの苛烈を免れ、光と影はかろやかな和音を奏でていた。
 こんな、影のなかにも輝きが揺れる微妙は朱鷺の皮膚の質にそっくりだ、と窓際にゆれる少女の顔の柔らかい影を眺めて、蘭は彼女が閨でひろげる情景を想った。
 繊細な起伏はどこまでも歪みなく、ところどころに少年めいた骨格が浮く。愛撫の極まりで手足が複雑に折れ曲がると、手首や腰に透ける骨のかたちは思いがけずつよく、こうした部分的なあらびは、全体のしなやかさを健やかにひきたてるのだった。
 列車が鎌倉に着き、朱鷺は立ち上がった。
「夜には帰ります。たぶん冴が送ってくれるから」
 蘭は眉をあげ、視界から消えてしまう乳白色の皮膚を惜しむ。ほんのひととき離れるだけだが、哀しみのような痛みがある。
 異邦人として欧州に暮らした経験から、蘭は自分の感情を突き放して味わう術を身につけている。この悲哀は、晩夏のシエナでつまんだ味、農家の庭先で籠に盛られて陽に晒された無花果のように鄙びていた。
(あの娘は俺がつくりあげた)
 蘭は、自分の上を過ぎ去った厖大な時間と、行く手に待つそれほど多いとは言えない季節を、飾りのない野花に目を凝らすように、朱鷺という娘の裡に見出そうとした。朱鷺の中で蘭の過去は還元され、色褪せぬまま未来へ、やがて来るべき死へと昇華してゆくのだった。

 長谷の駅前で、冴は所在なげに煙草をくわえていた。秋立ち深まる鎌倉は観光客であふれ、週末の人手はたいへんなものだった。
 アンバー・グリーンのアーミーシャツなどよほどの美人でなければ、本当に似合いはしない。例えば冴のような、と朱鷺はサングラスをかけた彼女の、衣装の粗雑ゆえに際立つ洗練をまぶしく見上げた。
「待った?」
「来たばかり。暑いわ」
 吸ってもいない煙草を投げ捨てて、冴は頭をあらあらしく振った。夏の間に延びた髪の下がり端がぎざぎざと、中途半端な長さでたてがみのように揺れる。
「あなたがサングラスとは珍しい」
「夜店で買ったの。中国人みたいでしょ」
 冴の喉がすこし嗄れている。鬱屈した感情を朱鷺は感じ、彼女の表情を隠す黒いレンズをじっと見つめて囁く。
「気持ちのいい天気なのに、どうしたの?」
 冴は大きめの口許をきゅっとひきしめ、髪をかきあげた。
「わかる?」
「……」
 行きましょう、と冴はサンダルの音高く歩き始めた。レザーのミニスカートから伸びた脚の長さはすばらしく、しなやかで均衡のとれた肉付きはいくら見ても飽きない。
 いくぶんなげやりなその歩調につれて、秋の照り返しがフット・ライトのように剥き出しのふくらはぎからひかがみを輝かせ、擦れ違う観光客たちが冴をまぶしげに仰ぐ。道行くひとより冴は頭ひとつ背が高い。和服の朱鷺の狭い歩調を気遣って、冴はゆっくり歩いてくれる。
 大通りは観光客相手の店が軒を並べて賑やかだったが、そこから一つ二つ奥に入ると、突然しんと森影深く、色づき初めた楓が繊細な陰影を澄んだ秋空に織りあげる。
 ゆるい坂の途中で、冴はサングラスをむしるようにはずし、朱鷺を振り返った。
「婆ァを見せたくないな」
 視線が逆上していた。フレームの跡が鼻の両脇にくっきりと刻まれ、唇の片側が神経質に震え、ふいにいくつも老け込んで見えた。
「嫌なら帰る」
 朱鷺は袂からハンカチを出し、大粒の汗を滲ませた冴の額に押し当てた。冴はぐらりと人家の石垣に寄り掛り、乾いた唇を舐めた。化粧をしていない唇の珊瑚色の粘膜がひび割れ、愛撫に耽りすぎたあとのように白く剥けていた。
「いいえ、来て。ほんとうにくだらない取材、あたしの家なんて」
 冴はきっぱりと顔を上げたが、朱鷺のまなざしを避けるように横を向き、石垣の上一面に咲きむらがるサルビアに視線をさまよわせた。ギリシア彫刻の完璧さにわずかに及ばない横顔の輪郭は、その不完全ゆえに生気を帯び、頭上に枝さしかわす秋の緑蔭に縁取られて、彼女の顔から苛立ちの澱みが消え、瞑想的な表情に移って見えた。木洩れ陽にちらつく濃い睫毛が頬に落とす影は樹と同じもの、と朱鷺は思った。
「葛の花の匂いがする」
 朱鷺は呟いて冴の腕に触れた。夏の海水浴のせいで彼女の皮膚はブロンズ色に焦げ、秋かけて徐々に褪めてきてはいたが、ことさら自分をいためつけるように海へ立ち向かっていった冴の姿がまざまざと見えるようで、このざらついた感触を朱鷺はいたんだ。
「終わったら……撫でて」
 冴が朱鷺に甘えて手を掴む。朱鷺の手は使い込んだ楽器のように敏感に、しっかりと冴に応えてくれる。この手には曖昧な誤魔化しがない、と冴は考え少し気持ちが楽になる。朱鷺はあたしの望みどおりにしてくれる。冴の指を握った朱鷺の手がそう言っていた。

 樫の重厚な扉を冴が無言で開けた瞬間、彼女のたかぶった熱がさっと匂いたった。
「サーモン・ソテーのオレンジソース。樹の定番」
 冴は朱鷺をふりかえって笑ったが、苦しげに見えた。
 薄暗い廊下はひろく冷たい玄関からまっすぐに長く伸びて、その両脇に一定の間隔で扉が並んでいた。古い木と石の匂いがする。百年も経った昔の小学校の廊下にこもる匂い。あるいは人気のないカトリック教会の大聖堂の匂い。この家には生活している人間の気配が稀薄、と朱鷺は感じた。
 ルネ・マグリットの絵そっくりに超現実味にしつらえた廻廊の突き当たりの高窓から帯状に光線が射しこんでいる。そのまた上の丸窓は鮮やかな青と赤のヴィトリーヌで、花模様の色ガラスの影がひんやりした薄闇に万華鏡のように散る。色ガラスの華やかな拡散のために、高窓から差し込む光の印象はかえって薄れ、朱鷺の視線を助ける明るさはおぼろだった。どこからか冴の母親らしいひとの声が甘く響いてきたが、何を言っているのかはっきりとは聴こえず、はたりはたりとスリッパ穿きの足音だけ近づいてきた。
 ひとつの扉が開いて、美しい女が現れた。彼女は少女ふたりに無表情に笑いかけ、着丈の短い紫色の上着を、オレンジ色のブラウスの上にかるく羽織っていた。香水と、セットしたばかりの髪からたちのぼる薬品の匂い。どちらも甘く、どちらも濃い。香り付けは何かひとつにしてよ、と冴は口の中で呟く。ブラウスのデコラティフな襞と貴金属のきらめきが、やや面長な累の顔を、額縁のように支えている。
「あがっていただきなさい」
 累はだるそうに言う。東洋的に上下の厚さの揃った小さな唇に浮かぶ微笑はいかにもよそゆきだった。
「どうぞ。テラスに」
 累の顔は冴に全く似ていなかった。これだけきちんと造作の整った美人はテレビか雑誌でもなければ、街中ではまずお目にかかれない、という美度において母娘は等しいのだが、たぶん、もう四十半ばを過ぎている筈の累には、年配の女なら漂わせていてほしい柔らかさやおおらかさというものがまるでなかった。
(こどもを産んだひとには見えない)
 すらりと背が高く、ぴっちりしたスカートに貼りついた腿はひきしまり、黒と金の幅広のベルトを締めた腰まわりこそ、すこしだぶついているが、それさえも成熟した重い色香と見える。
「食堂じゃないの?」
 冴がきつい声で尋ねた。この親子はまともに視線を交わそうとしない。
「賑やかな方がいいから、お客様を何人かお招きしたのよ、秋晴れだし」
 ゆらゆらと首を振って累は応じたが、娘を振り返らない。二人は母と娘というよりも商売敵のようにとげとげしたイントネーションで言葉を投げあい、聞いている朱鷺は居心地が悪くなってしまう。
 ある扉の前で累はいきなり立ち止まり、くるりと娘をふりむくと、まるで初めて娘の存在に気がついたとでも言うように、じろじろと無遠慮な視線を注ぎ、いっそう険悪な声で、
「あなた着替えなさい。くすんだ緑ね。服は用意してあるんでしょう?」
「おおきなお世話」
 累の攻撃を冴はむしろ待っていたかのようにはっきりとつっぱねた。
「たかがローカル雑誌の取材じゃない」
 負けずに累は言いつのる。到着早々の険しい雲行きに驚いている朱鷺の存在など無視して、
「でもね、あなたお化粧もしてないし、目脂がついてるわよ。せめて顔を洗うくらいの気遣いはしたらどう?」
 言いながら累は片手で撮って把手を握り、雰囲気に似合わない小娘のような敏捷さで体をすべりこませ、捨て台詞のような音をたてて扉がしまった。
 冴は腹立ち紛れに扉を蹴る。
「いやな女。あらさがしばかり」
 物音を聞きつけて廊下の角から樹がやってきた。白いうわっぱりを着ている。
「どうした」
 樹は怒っている冴と、その横で半分呆れ、半分途方に暮れている朱鷺をかわるがわる眺めた。
「身なりにけちをつけるの」
 樹は灰色の瞳をくるりとめぐらし、皮肉っぽい微笑を浮かべた。
「ダイエットしているからいらいらしているんだろ。冴の脚がきれいだから」
 いいじゃない、それシンプルで、と樹は厚い板のような上半身を大きく反り返らせて背伸びをした。
 青年の伸びやかな腕が風を起こすと、汗とオレンジの匂いに蒸された若い熱が来た。強い陽射しを浴びたように朱鷺は一歩後じさり、彼の濃い体臭から逃げる。彼女は蘭にならって自分の怯えを味わおうとする。けれども、この動揺は蒸留酒のように濃すぎるので、彼女の思い通りにならない。
 
 中二階のテラスは両脇をヒマラヤ杉で囲まれ、杉の枝を厚い帆にはためかせて、彼方の材木座海岸へ乗り出してゆく船の舳先のようだった。
 簡素で堅牢な食卓がもう整えられ、《クラインの青》のテーブルクロスがさわやかに真昼の光を吸い込んでいる。
 先に招かれた者たちは一様に手摺にしがみつき、眼の前にはろばろとひらける海に見とれている。海風が杉の枝を揺さぶり食器で固定されたテーブルクロスの端が帆のように、風をはらんでめくれあがる。秋の憂いは中二階を包む常緑樹の単純な彩りにかき消され、テラスには巻き戻した映像めいて夏の響きがいっぱいにあふれていた。
 隅のロッキング・チェアに座っていたウラジーミルは冴の姿を見て手を振った。光沢のある卵色のシャツに、膝の抜けたブルージーンズを穿き、風変わりな麦藁帽子を斜めにかぶり、それが風に吹き飛ばされそうだ。
 冴は足を速め、しがみつかんばかりの勢いで父親に寄り添い、ひどく甘ったれた表情で朱鷺をひきあわせた。父と娘の背丈はほぼ同じくらいで、杉の翼のつくりだした緑の翳に並ぶ二つの顔は罪作りなほど似ており、この二人のそっけない身なりは対の印象を与えた。
 大きな声で笑うのよ、それがとても好き、と冴はウラジーミルの姿を朱鷺に語っていたが、眼の前にする美青年のまま時間を刻んでしまった男からは、朱鷺が想像していたような磊落さは感じられない。
(引退したバレエ・ダンサーみたい)
 朱鷺は彼の、混血らしく調和のとれた額やこめかみを感動して眺めた。木綿糸のような皺が目もとや口のまわりをとりまいているが、贅肉のない精悍な輪郭を保っている。
「着物、いいね」
 挨拶ぬきに、ウラジーミルはかすかに肩を揺すりながら身を乗り出した。好奇心を丸出しにして朱鷺を見る彼の眼には、女を値踏みする生な感情は皆無で、めずらしい小物を発見した少年のようだった。彼は鍔をざくざくと切り落とした麦藁帽子を伊達に被っていた。
 これが冴と樹の父親、と朱鷺は意外な気がした。ウラジーミルは挫折を知らない二十代の青年のようだった。樹よりもっと淡い双眸には翳がなく、息子のような烈しさは感じられない。うまく隠しているのかも知れないが。
 二十歳の樹のほうが、そのアトモスフェールに、父親よりも豊かなニュアンスをたたえていた。
「御自分でお召しになるの? 若いのにめずらしいわね」
 テラスで、ウラジーミルとは逆の反対側にいた紺色のカーディガンの女が、むしろ冷淡に声をかけてきた。狐のように顎のとがった女は痩せて小柄で、彼女にはあまり似合わないエスティ・ローダーのダイナミックな香りが鼻についた。襟と袖口に二本の白線が入ったシンプルなニットドレスは、名門女子校の制服のように禁欲的だが、首に金貨をあしらったペンダントを下げ、手首や指にも同じようなコインモチーフのアクセサリーを重たげにじゃらつかせていた。
「好きだから、よく着ます」
 朱鷺はこれまで何度も尋ねられた質問に、同じような答えを返した。するとまた、
「めずらしいわ、あなた位の年齢で。まだ十七、八でしょ?」
 朱鷺は曖昧に笑い、うなずいた。年齢と和服を自分で着られることと、どういう関係があるの?
 それから一呼吸おいて別な声が割り込んでくる。
「着物にしたって、あなたがお召しになってるの紬じゃない。でも、似合うわねえ。まだ十代でそんな渋いもの選ぶなんて立派よ」
嗄れているのに甲高い、奇妙な声だ。アペリティフのグラスを手にした男は、時代劇の年増女のようにしなを作った声で、意味のない逆接語を使う。
「でも、いいわねえ、若いひとって。あたしのところにお稽古に来る方たちも、しょうばい柄着物のひとが多いんだけれど」
 しょうばい、という言葉に彼は少し思わせぶりなアクセントを籠めた。半白頭で、背中と腹が同じくらいにまるく肥った男は、茶道の師匠でエッセイストという。五十がらみだろうか。血色のよい丸顔に、戯画のような丸眼鏡をかけていた。イイワネエ。女らしい言葉使いが、すこし気味悪い。蘭も時と場合によって女性めいた言葉を客相手に使うが、この丸眼鏡さんの口ぶりは、あきらかにウェットな男色の気配を悟らせた。
「冴ちゃんはお着物どう?」
 彼は冴に親しげに話しかけた。
「あたし、背が高すぎるから」
 ほら、と冴はみずみずしい仕草で手足を伸ばしてみせた。アオザイにすこし似たカットの大胆なブラウスは,くっきりとその下の裸身を強調し、盛り上がった乳房がいまにもゆるい襟の合せめからこぼれそうだ。絹糸のようなひとすじの金鎖が胸の曲線をなぞってうねり、繊細であらけずりな青春を謳歌していた。
 男は丸眼鏡の金縁を持ち上げて汗を拭き、おざなりなお世辞を言う。
「でも、着映えするんじゃない? あたしのところにも、着物好きなアメリカ人のお弟子いるの」
 すんなりとまっすぐな冴の肢体を間近に見て彼は無意識に背筋を伸ばさずにはいられなくなる。
 やがて累がカメラマンと編集者を伴って現れた。
「お料理が来ます。撮影だから全部運んでしまうわ」
 まばゆい外光の中では、彼女の肌はだいぶ褪せてしまう。累はコンパクトをひらき、かるく脂をおさえた。外で食べるなら、もっと気軽な衣装でもよかったろうが、累はオレンジのブラウスの襟をきちんと合わせてきた。飾りボタンがきらきら光る。アフタヌーンというよりは、夜の装いのようだ。
 厨房から樹が配膳台を押してきた。さまざまな取り合わせの雑然とした献立が、やはり累の好みにしたがって並ぶ。冴は手すりにもたれ、無関心に眺めるだけで、手伝わない。
 豪華ですね、とスーツをまじめに着込んだ編集者が言うと、茶の師匠は少し嘲るような微笑を浮かべ、注釈した。
「これはこの家の坊やの作品なんだよ」
「うまそうだな」
 ウラジーミルは率直に歓声をあげた。小太りの師匠はすばやく表情を変えて、
「腕を上げたわね、息子さん」
「ほどほどに」
 ウラジーミルは答えたが、師匠のほうは見なかった。
「暑いからさっぱりした感じにした。ローストビーフはつけたし」
 樹はソースの染みのついたうわっぱりのままで椅子に座った。
「フィレのステーキじゃなかったのか」 
 父親の不満げな質問に、樹は濃い眉をあげて母親を見やり、唇の端で笑った。
「ローストビーフのほうが健康的よ」
 累はコンパクトを開き、また粉をはたきながら夫と息子を上目に睨んだ。海風が累の顔の周囲のフリルをばたつかせ、肥りはじめた首筋を露わにする。オレンジいろの強烈な反映のために累の顔色はくすんでしまい、もう料理の並んでいるテーブルを前にして、彼女はさらにチークを直しはじめた。
「冷めちゃう」
 冴はずけずけと批判した。朱鷺の横に冴は長い足をもてあますように組んでいた。反射板を加減していたカメラマンは、若い男の貪欲な視線を冴の膝のⅤの字の重なりにすべりこませ、視線に気づいた冴は臆するでもなく、膝をわざと高くあげて脚を組みなおすと、膝頭をわざと開き男の窃視に抗議した。まっとうな弁えのあるカメラマンはこの露骨にあわてて眼を逸らす。
 累の念入りな身仕舞いを待つうちに、海は少しずつ暮れがたの薔薇いろを帯び、水平線は夕靄に溶け始めた。

「もっとおしゃれしてくればいいのに」
 累は食後のけだるさにだらんと椅子によりかかり、かるく顎をつきだしてほそいシガレットを銜えた。夕翳はもう仄暗いが、累の顎から喉にかけてのシルエットはすっきりとなめらかだ。ナルシストの彼女は娘の身なりになど本当は関心がないのだった。娘だけではなく、累が心から興味を持つ他人などいないのだろう。累の覗く鏡は、彼女以外の誰も映らない魔法の鏡だった。
「堅苦しくなくてお似合いですよ」
 風が出てきたので、半袖のTシャツの上にウィンドブレーカーをひっかけたカメラマンは、ちらりと冴の顔を見て言った。おべんちゃらではないから、彼の声は少し喉にひっかかってうわずった。にしても、彼は被写体に向ける光の量を測るように、余計な感情を加えずに褒めたので、その場にいた誰一人気分を害さなかった。
「もうちょっとソースは濃いほうがいいわ。今日はちょっとプロヴィンシャル」
 累は思いついたことを口にした。
「そう? ロワのマスターはちゃんと樹をしこんでくれたよ。この家をいつか料理屋にしよう。もういい加減古いしね」
 ウラジーミルはこともなげに応えた。その場の誰もが、累の口調のかすかな苛立ちを感じとっていたのだが、それを平然と無視しているのは、夫であるウラジーミルただひとりだった。累が舌にからみつくような声遣いで喋りだすと、テーブルの会話は途切れ、なんとなく彼女の声に耳を澄ませてしまう。累と冴が並ぶと、よく言われる形容だが、とうてい母娘には見えず、あまり似ていないが同じくらい器量のいい姉妹に見える。それどころか、まひるの陽射しが弱まるにつれて、累のきらびやかな装飾と隙のない化粧の効果が現れて、素っ気ない姿の冴よりも美しく見えるのだった。
「またイタリアへでも行こうかしら」
 累は自分のほそい指を目の前でかるく握ったりひらいたりした。体に回った酔いの具合を測るときの彼女の癖だった。それほど長くはないけれど、白くみずみずしい指には、ジャンマリア・ブチェラッティの宝石が輝いている。黄金の葉で包まれた黄緑色のペリドット。誰が彼女に贈ったものだろう? 
「最低でも五キロは肥るよ」
 樹が茶化したが累は平気だった。
「本場のオペラを楽しみたいわね」
 彼女の言葉遣いは、内心の苛立ちを抑えきれない我儘な少女のようだ。いらいらに理由などないのだろう。
「北より南のほうがいいんじゃない? これからの季節なら」
 ウラジーミルはふざけているのかまじめなのかわからない口ぶりで、いちおう同意して見せた。すると累は樹に皮肉られたときとはうってかわったきつい眼差しで夫を見つめ、
「スカラ座ですよ、もちろん」
 妻のささくれを、ウラジーミルはもちろん無視した。
 テーブルを囲みながら、あちこちで中途半端な会話が始まっては途中でふいに宙吊りにされる。まとまった話柄など何一つなく、料理や酒や、そのほかの何やかやで会話はいつとはなしにとり紛れ、ばらばらに夕風に散ってゆくのだった。
 カメラマンは冴に話しかけた。
「もしかして……誌に出てます?」
「モデルだから」
「見たことあると思った。素顔だと感じが違います」
「素のほうが冴はきれいだよ」
 樹は両手を頭のうしろに組んで横柄に会話に割り込んだ。所有を侵害される不快感が露わだ。朱鷺は葉隠れに浮かぶ樹の横顔を見つめる。
(樹のほうが親みたい。もう人生の苦さを知っている。この子は自分が何を望んでいるか知っている)
 樹の顔は翳にひたって黒ずんでいた。いましも沈みゆく太陽が木蔭を超えて金色と黒のだんだら縞を織り、その中で樹はジョルジオのように気難しく唇をひきしめていた。光線の縞は、彼のやや起伏のある額、節のある鼻みねを染め、刺青のように呪縛のように見えるのだった。彼はうっすらと眼をほそめ、獲物を狙う豹のような視線を姉に注いでいる。
 それぞれの席で泡のように浮いていた話し声が、なぜか一斉に途切れると、でもね、と茶の師匠がふいに自分の腎臓病の話を始めたが、埋め草にはならなかった。
 朱鷺は一瞬放心していた。感受性が昂ぶって様々な印象で心がいっぱいになると、ブレーカーがばちんと切れるように、いっさいが白っぽい闇に溶けてしまう。だからその時、累が矛先を変え、おもむろに朱鷺に向き直ったのに、まったく気づかなかった。
「ね、あなた」
 冴が朱鷺の脇腹をつつき、想念に沈みこんでいた彼女をひっぱりあげた。
「アーティストでいらっしゃるの?」
 累はあまったるく笑いかけた。ちょうどテラスの四隅に立てられた百合型のランプが灯り、ぽうっとまろやかな淡黄が紺青の闇にひろがった。
「そんなたいしたものでは…。アーティストって」
 と朱鷺は応えに困るのだった。あいまいな、中身のはっきりしないかたかなのかたがき。蘭がひどく嫌うものだった。アーティスト、オブラート、テヌート、ソステヌート、シルフィード…竹内蘭はピアニストで、朱鷺は芸術家なんかじゃない。妖精かと聞かれたら、よろこんで、はい、と答えるかもしれない。妖精じゃないけれど。でも彼女は精霊かもしれない。人間じゃないかもしれない、と朱鷺を見知ったひとの多くは、そんなことを言うのだった。
「月に何度か、パートナーの演奏で踊るくらいですから」
「あら。じゃあダンサー? あたしもバレエを習ってたのよ。パブロワさんのお弟子が居たので。あなたはどちらのバレエ団?」
「ソリストですから」
「お独り?」
 累はたくみに間を置き、中国風の螺鈿のシガレットケースから一本ひきだすと、悠然と火を点け、舞台で演技するようにかたちのよい唇をわずかにゆるめて煙を吐き出した。
「バレリーナの子、知っているけれど、あなたはちょっと変わった雰囲気ね」
「ひとそれぞれじゃないの」
 冴が口をはさんだ。
「変わっていてあたりまえ。樹だって」
「俺は中退だもの」
 樹は露悪的に言ってのけた。
「ドロップアウトだって、コックに学歴はいらないさ」
 肩を揺すりながらウラジーミルが受け流した。あっけらかんとした声音だった。樹は自分の言葉の重みを知っているが、ウラジーミルには底意がない。彼は家族に対して友人のような態度で接する。仲の良い友人、疎遠な友人、同性の、異性の…。鬱陶しさのない親愛と、放埓の裏に守るエゴ。
 誰かがくしゃみをした。
「リビングに戻りましょう。寒いわ」
 家族の心は皆ばらばらなのだけれども、一緒になると、その場を仕切るのはなぜか累なのだった。
 こおろぎの鳴き声が星のまたたきと同じリズムで杉の枝を揺さぶっていた。見透かすと彼方の三浦半島の夜景が湾に沿って曲がり、あの夜露のようなきらめきのどこかに蘭がいる。そこが自分の居場所、と朱鷺は胸がしめつけられる。

 帰る?
 冴の眼に険しい光はもう消えていた。労わりさえ浮かんでいる。
「疲れさせたみたいね」
「いいえ、楽しかった」
 樹は黙って姉の横に立っていた。彼の沈黙が朱鷺と冴を隔ててしまう。
 送るという申し出を断わり、朱鷺はひとりで坂道を下りた。
 冴を今夜撫でる……握るのは樹。いや、冴が弟をつかむのかもしれない。樹はほころびなど見せなかったけれど。
 好意さえも。
 強いひと、と朱鷺は思う。
 リリ、リ、と虫の鳴き音が秋の夜に漣を寄せてくる。
 目をあげると、月にうっすらと暈がかかって真珠貝の内側のような虹いろの波紋が滲み、風吹くままにゆるゆると拡がり、また縮む。
 夜風が朱鷺のなかに流れ込み、感情の澱をすくって流れてゆく。流されずに残った幾つかの記憶が破片となって胸を刺す。
 幸福と不幸は、ひとつの軌跡の上にある。
 どちらも等しい痛みをくれる。
 いつかは、と朱鷺はまた繰り返し思う。いつかはあたしも死ぬ。生きていることの一瞬ごとの痛みから解放され、静かで寂しい無に帰る。
(古い織物がだんだんとほつれて、おしまいには散り散りになるように、時間が織り上げた人生はやがてばらばらになる。どんなに美しいものであっても) 
 あるとき刺繍をひっくり返すように人生の裏が見え、この糸とあの模様とのつながりが見えてくる、と蘭が言った。
 ふいに金木犀が香り、彼岸の灰色の汀にひたりかけた朱鷺を驚かせた。闇の奥から清冽な花の香はおずおずと流れこみ、この素朴な歌声のような香りが朱鷺を此岸に呼び戻した。
 白けた蛍光灯がかえって薄暗さを際立てる駅の改札に、思いがけず蘭が佇んでいた。
「車かもしれないって言ったのに」
 朱鷺は夜気に冷えた蘭の手をとった。柔らかくて厚いこのてのひらは、言葉よりずっと雄弁な時があり、その宵はそんなふうだった。
「なんとなく、ね」
 蘭ははぐらかすように微笑み、自分の感情を語るかわりに、朱鷺の顔を覗き込み、彼女の顔の下瞼の薄青い翳を目ざとく見つけ、疲れたろ、と言った。

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