さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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海の器 vol4 WALDESRUHE

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  WALDESRUHE

  なだらかに唇織りぬ森のなかで
    よろこびつむぐ呼吸合はすため

 
虹いろの月光がレースのカーテンを透り、朧ろの霧となって室内に流れ込んでくる。
 月影はつめたい床の上にとらえどころのない繊細な模様を描き、この朦朧のなかで、目に見えるいっさいは確かな色彩を失い、憂わしげな、けれども優雅な陰影の波に浮き沈む。
 自分のちいさな寝台に朱鷺はぬくぬくと手足を伸ばしながら、高い窓をゆるやかに動いてゆく月を見つめた。淡い雲が月の面を覆うと、貝の裏と同じ色の虹がかかり、それは夜のただなかにぽっかりと見開かれた、孤独な瞳孔のようだった。
 月光は朱鷺に降りそそぎ、ちょうど寝台を夜闇から切り取るかたちで光を蒔いている。レースとガラスの彼方に微笑む月に手をさしのべると、剥きだしになった二の腕まで薄い月光の感触にひたされた。月の襞は芙蓉のはなびらのように脆く、はかなげに、夢とうつつの境界を行き来して揺れる腕を優しい陰影で包み込む。
 ひとりの感覚は快かった。口に含むとすぐにもろく溶けてしまう糖菓、ミネットの名のついたふんわりした菓子が、紅茶にひたされるように、ひとりの感覚は夜の静寂のなか、朱鷺の神経の端でくずれ、崩れたとみるまに、また淡い悲哀の甘さが喉を滑り、手足のすみずみへ滲んでゆくのだった。
 扉を隔ててすぐ隣には蘭が眠っており、彼が時折打つ寝返りに、古い胡桃の寝台はひっそりときしみ、それは夜のため息のように聞こえる。
 晩秋の夜気は次第に研ぎ澄まされ、風の唸りとともに、落ち葉は雨のように屋根をおとない始める。梢のさやぎが月光を揺さぶり、物影は燻銀めいて沈んでゆき、闇に呑まれるかと見えて、うっすらと明るんだまま、静かに朱鷺の周囲にたゆたい続ける。耳を澄ますと、枯れ葉のざわめきの彼方に潮騒が聞き分けられた。
 わたしは人間だろうか? と朱鷺は蘭と暮らしはじめてからの歳月をふりかえって思う。蘭の朱鷺への接しかたは、人間に対するそれよりも、古い楽器や、智恵のない動物をいつくしむようにこまやかだった。
(人間でいるよりも、楽器になったほうが幸福だ)
 朱鷺が寝返りを打つ。するとからだの熱で温まった寝間着がよじれ、かすかに汗ばんだ皮膚を衣擦れは秘めやかにかすめ、隣の蘭の寝台が、囁くようにまた軋んだ。

 中秋はとうに過ぎていたが、冴の部屋に朱鷺は吾亦紅と薄を持って訪れた。
 秋と冬との境は、春と夏、あるいは夏と秋との行きかいよりも緩慢で、刻一刻と過ぎ去る時の流れに、大気はある一瞬透明な明るさに満ち、次の刹那には重苦しい冷ややかさを湛えながら、空の青も海の碧もすこしずつくすんでゆくのだった。
 抱えた穂薄が弱い陽射しを吸い込み、鈍く輝いている。その寂しい金色を海にかざすと、尾花の背景となった海の、ふるびたモスリンのような灰紫は哀しく、凪の海は由比ガ浜いっぱいに長い波を押し寄せてふくれあがり、汀でもろくも崩れてしまう波頭の白い飛沫は、まるで鍵盤を叩く蘭の指のように見えた。蘭の指が象牙の鍵盤の上を疾走し、たわむれ、音楽にたゆたって宙を泳ぐように、波は尽きることのない生と死のコラールを奏でている。
 扉の鍵をはずしたまま、冴は寝室で寝くたれていた。
 彼女の部屋はいっぷう変わっていて、ビルの最上階にあり、建物の屋根の傾斜がそのまま部屋の三分の一の天井と壁を切り取り、その斜めの部分は厚いガラス張りになっていた。
建築家のウラジーミルがこのビルを建てたとき、この部屋で天体観測をするつもりだったというが、三角形のガラスの切り込みは、たちまち彼の好奇心をそそり、ここへ住みつかせてしまった。
 間仕切りも何もない、だだっぴろい室内の一方の壁際に、こんな部屋には不釣合いに豪奢な寝台があった。無機質な設計の部屋とはうってかわって、ウラジーミルが使っていた寝台は天蓋つきの贅沢な骨董品だった。鉄と銅でできた大きな寝台には、いたるところふんだんにバロコの唐草がほどこされ、かなり褪せた薔薇いろの絹が、夏も冬も取り替えられることなく垂れかかっている。
 ひとりで眠るには広すぎる寝台だが、この優雅な舟がなければ、きっと室内はいたたまれないほど殺風景になってしまう。冴は女性にはめずらしく、自分の住まいのインテリアに無関心で、部屋をいつも雑然と散らかして平気だった。
 いろいろな種類の酒の匂い、喰いちらかされた食物がどこかの隅で黴てしまった匂い、投げ出された衣装に滲みついた汗がゆっくり乾き、濃い酪酸めいた彼女の体臭がこびりついたランドリーの焦げ臭さ。
 戸口で朱鷺はたたずみ、部屋にこもる匂いを吸い込む。不潔だが不快ではない匂い、病院の消毒薬が清潔な畏怖を与えるのとは逆に、冴の衒いのない乱雑には、よく観察するときっちりした選択がある。
 野生動物が自分に必要なものだけかき集めて巣をこしらえるように、冴は本当に気に入ったものだけを室内に入れている。そのために、彼女の部屋は体裁ばらず、いくらかごたごたしてはいたが、ありきたりに平板なきれいさとは異なる活気を帯びていた。この部屋は主と一緒にちゃんと呼吸している、と朱鷺は感じた。だから自分の住まいだったら我慢できない乱雑もここでは許せる。こうした奔放が冴にとっての秩序なのだろう。冴を好くように、朱鷺はこの部屋を好いていた。冴の体の匂いを呼吸するように、この部屋の空気を呼吸する。 
 が、今日はその匂いに違和があった。寝台の帳はかたくなに閉ざされ、きれぎれな寝息が苦しげに室内の空気をそよがせている。
 朱鷺は床にとり散らかされた下着の山やシリアルの空き箱の中から、葡萄酒の緑色の空瓶を拾い、吾亦紅を活けた。尾花は手洗いに無造作に置いてある備前の壷に投げ入れ、また元の場所に置いた。冴の部屋に季節の彩りを持ち込むのは朱鷺のひとりよがりだった。冴は母親への反発もあってか、花を愛でるという習慣のない珍しい娘だ。しかし朱鷺は季節のない空間、植物の潤いのない場所でくつろぐことができなかった。朱鷺と植物との親和はすばらしく、彼女の部屋に切花を持ち込むと、たいていの花は常ならず長持ちし、それどころか薔薇などは花瓶の中で根をはやしてしまう。
 朱鷺はカーテンのない三角窓を眺め、ふてくされた寝息に耳を澄ませる。南面のガラスから日光は人もなげに侵入し、その眩しい熱は真夏のようだ。リノリウムの床に鋭く突き刺さる逆三角形のコントラストは若い娘の部屋の印象にはきつすぎるほどだった。
 しかし、冴にはふさわしいかもしれない。この部屋は獣の匂いがするし、彼女は男性の香料のいくつかを好んで使っている。打ちっぱなしの壁に嵌め込まれた大鏡の前に大小さまざまな化粧品がひしめいているが、それらの甘ったるい彩りと曲線に囲まれ、男物のオー・デ・コロンは肩をいからした感じで混じっていた。
 夏の匂い。獣の記憶。
 冴と知り合ってから半年が過ぎようとしていた。長いのか短いのかわからない人生で、半年もの間、蜜の時間を分け合ってこられたのは、やはり幸福なことだ、と朱鷺は銀盤のような海面を眺めおろして思う。雲ひとつない秋晴れの下で海は巨大な凸面鏡となり、太陽を反射するまばゆさに水平線の影も見分けられない。
「いつ来たの?」
 険のある声にふりむくと、天蓋を跳ね上げ冴が不機嫌に頬杖をついていた。欠伸しながら彼女が上半身を反らせると絹の帳をつらぬいた光線は、オンブル・ローズの影となって冴を包み、絹の被いから逸れた腕と顔は蒼ざめて、彼女の誇らしげにまっすぐな鼻梁は、モローのスフィンクスのように冷たく見える。
「昨夜飲みすぎたわ」
 冴は顔をしかめて枕に顔をおしつける。むくんでいる。あたしを見ないで。
 朱鷺は用心深くベッドの隅に腰を下ろし、どうしたの、と囁いて冴の埃っぽい髪に指を差し入れた。アルコールと煙草の臭気がどんよりとわだかまる黒髪は、ごくわずかに紫がかっている。彼女は髪を染めていない。どういう遺伝子の働きなのか、生粋の日本人よりもこの髪色は濃くつやのある漆黒だ。冴が甘ったれたようにかぶりを振ると、光線の屈曲につれて髪の漆いろは暗い翡翠色に移ってゆく。
 どうしたの?
 朱鷺は囁いて、彼女の髪を探った。しっとりした髪は、汗か、それともアルコールの湿りかのために、差し込んだ指先にかるくもつれる。野分けの吹き荒れたあとのような絡まりをゆるやかにほぐしながらうなじをすべり降りてゆくと、冴の呼吸がせつなくなり、象牙いろの肩甲骨がうねって黒い下着の肩紐がするりとはずれ、すっきりした背中が露わになった。
 冴の首筋から背骨に沿って、こわい産毛が内側に向かって規則正しく描いたように密生していた。虎毛の猫みたいだ。つやつやしたこまかい体毛は彼女の肌を飾り、朱鷺には彼女のからだのこうしたあらびが、言いようもなく好ましい。
 自然のままの皮膚。わかい脂が不摂生も知らぬげにひかり、産毛のいっぽんいっぽんが濡れたような精気に輝き、精悍な筋肉は朱鷺の掌の下ですこやかに呼吸していた。彼女の肺から吐き出される息は澱んで苦かったが、掌にこもる皮膚の熱気は新鮮で甘かった。天蓋をとおった薔薇いろの陽光は、冴をその半ばまで惑わす色あいに染め、もう半分は寝具の窪みのつくる蒼ざめた翳りと同じヴァルールに均されていた。
 薔薇と蒼の照り返しに彩られ、朱鷺に甘やかされながら、冴は物憂げに下半身をくねらせ、サテンのシーツに皺の波紋を寄せながら脚をひろげた。彼女はまだうつ伏せたままだったので、したばきをつけていない臀のふくらみが際立ち、そのひきしまった曲線、絹に覆われたなまめかしい丘陵は、朱鷺に思わずこう呟かせたのだった。
「人間じゃないみたい」
 みなぎる若さ、歪みのない骨格と脂肪、肉の調和が朱鷺の眼を瞠らせる。若くてもたるんでしまう肉もあるし、二十歳をいくつも出ないうちに、もう干からび始める皮膚もある。
充実した骨格と過不足のない筋肉。そしてそれを支える堅固な意志がなければ、肉体、ことに女の肉はたちまちしぼみ、色褪せてしまう。
 かといって過度の筋肉トレーニングはいびつな塊をふくらはぎや肩にこしらえ、とりかえしのつかないぶざまになる、と竹内蘭はいつも吐き捨てるように言っていた。彼はペテルスブルクのマリンスキー劇場にいる間に、ロシアのガラス細工のような美少女たちが、まことにかぼそい手足に、信じられないような筋力と柔軟性を備えている様を、つぶさに観察してきたのであった。
 蝶、でなければ天使だ、と蘭は追憶を甘い言葉で語るのだったが、朱鷺は自分の知らない蘭の憧憬のバレリーナたちに苦しい嫉妬をおぼえながらも、一方ではそんな妖精たちと知り合うことができたら、と何年もせつなく願ってきたものだ。
 今自分の掌に寄り添っている冴は、天使的な軽やかさとは無縁だが、地上を歩む人間の女としては、ほぼ理想的な均衡を整えていた。
この体には無数のこまかい疵があった。肘や背中にはところどころ染みが浮き、ふいに皮膚のどこかが、何かの理由で肌理が粗くなっている部分もある。けれども、そうした繊細なすさびは、オパールが内側の瑕や蛋白質の偏りで虹の変幻を増すように、肉体の美しさに限界を与えると同時に躍動感を添える。
 冴の太腿がすがすがしい流線型のカーヴを描き、サテンの反映がぼんやりと大腿筋をなぞって、刃の錵のような光沢を浮かべる。かたちのよい膝には座り皺もなく、膝蓋骨にはごくうっすらと金褐色の色素が楕円の影になっていた。
 こんな脚だけが、ミラノやニューヨークのトップファッションを着こなすことができる、と冴は妬ましく感じながらも、視線はこの美しさを賞賛してやまない。同性の美しさに無条件で傾倒できるのは、彼女の性格の大きな美点だった。
 嫉妬を蹴散らす感嘆と率直な共感。それなくしては女がおんなを愛することは(おそらく)絶対にできず、これほどまれな感情もないだろう。
 共感。それは同病相哀れむというような惨めな要素を含んではならないものだ。劣等感や優越感に裏打ちされた感情、見せかけの親愛は、どれほど巧妙にとりつくろおうと、そんな感情を抱く人間を食い荒らし、厚化粧の下で無遠慮に進む皮膚の劣化さながら、生命を枯渇させてしまう。
 哀しいことに、偽りの感情は、多かれ少なかれ当人の弱さから生まれるので、誰に責められるものでもない。この世にかたちをとって在るものには、必ず応分の影がある。嘘をつかなくては生きてゆけないし、往々にして自分自身を欺かなければ社会に適応できないだろう。
 もしも、人生の大部分において自己欺瞞から免れるような、硬質で透明な精神が存在するなら、それは孤独に違いない。
 けれども、と朱鷺はまたしても自分の内側の声にひきこまれ、冴に触れている指の感覚を忘れながら思った。今の世の中で、決定的な純粋さや際立った孤独を味わう贅沢が許されるものだろうか。もっともそれは否応なしに当人を見舞う運命に違いないのだけれど。
 何を考えているの?
 冴は枕に顔を埋めたまま、くぐもった声で咎めた。
 何も。ただあなたに見とれている。
 朱鷺の短い答えは冴を満足させない。冴はいつもたくさんの言葉を欲しがる。それが罵倒でも皮肉でも、圧し殺した沈黙は冴には耐えられない。雑音でもいいから鼓膜の刺激があったほうが楽だ、だって自分の不安から逃れられるもの。
 でも、それでいて冴を朱鷺に魅きつけているのは、彼女の茫漠とした内向性なのだった。
 内側へ向かって現象を選別し、包容し、こころの深みで現実とは異なる物語を紡ぐ朱鷺は、どうかするとその場に居ながらにして周囲から離れ、どこかはるかな世界へ行ってしまう。この子は何を見ているの? そんなふうに苛立ちながら、同時に魅惑されていた。
 肌を合わせて、快楽に揺られあったとしても、互いは未知のままで、決して所有には至らないのだった。
 この隔たりはこの先も変わることはないだろう、と冴は突然、今の今、平手で頬をぶたれたように思った。
「お水を持ってこようか」
 朱鷺の顔の柔毛が空調の微風をふくんでいた。色素の少ない朱鷺の体毛は、かみそりをあてられることなく、やんわりとしたモアレで頬にそよいでいた。
「あなた、何を考えているの。何も考えていないなんて」
 冴の険しい顔は、どういうわけか普段よりも美しく見える。まなじりが吊りあがり、瞳が傲慢に光った。日本人にはあまり見かけない弓なりにきっちりした唇がこまかく震え、舌がひらめいて半開きになった。
 冴は弾かれたように起き上がると、朱鷺の肩をつかんだ。あなたは何者? いつもぼんやりして、見透かすような目でわたしを見ている。どこか遠くを見ている。
 見開いた白目にさっと青みがさすと、光がほとばしるように涙があふれてきた。
「あなたは全然あたしを見ていない」
 涙は贅沢に冴の頬を伝い落ちた。ぽたぽたと雫がシーツに音をたてて滴る。ぎりっと冴が唇を締めると、朱鷺の肩先を握った指にまた力が加わり、朱鷺はその痛みに息を呑むけれど、逃げようとはしなかった。発作的な興奮、不安定な感情の波、それらはすべて彼女が通り過ぎ、経験してきたものだ。
 やつ当たりだろうか? と朱鷺は冴から目を反らせたが、彼女を突き放す気にはなれなかった。こうしたまだ未成熟な少女の感受性があればこそ、冴との奇妙な仲らいが保たれる。ただ愛撫の技巧だけでカタルシスが得られるような睦み合いなど朱鷺にはできない。たとえ、冴がどんなにきれいでも、こころの琴線に触れない相手と肌を合わせることはできなかった。
「ショパンは」
 何? と冴は鼻をすすりあげた。朱鷺は冴の顔を両手で包み、汗と涙でべとついて垂れさがる髪を撫でてやり、次から次へ流れ続ける涙の粒を親指ですくった。
「彼はとても孤独で……」

 嵐が来て、海で三人の若者が死んだ。
 暴風雨の吹き荒れる最中にサーフィンを試みる無謀を蘭は苦々しげに罵ったが、朱鷺には彼らの逆上が理解できる気がするのだった。
波のひくい日本の海岸では、せいぜい幼稚園児程度の波乗りしかできないのに、鎌倉海岸では一年中サーフ・ボードを抱えた青年たちのすがたが絶えない。
 海。巨大で厖大なエネルギーの混沌に乗りかかり、不安定で、あやうい、風と潮流の拮抗をあやつり、一瞬でも地上に縛られた存在の重みを忘れることができたら。
 嵐の海に突進していった男たちは、きっと内面に抑制できないすさびと奔騰を抱えていたのだろう。盲目的な爆発、明日を、いや一瞬あとの危険を顧みない愚かしさは、もしかしたら人生のある時期にだけ許される蕩尽であるかもしれない。なるほど向こう見ずで稚拙だが、衝動にまかせてタナトスの奔流に身を投じた若い男たちには、たしかに神話的な高揚があった。
「冴がショパンを聴きたいって」
 蘭は首をすくめた。どうした風のふきまわしだね?
「荒れているの?」
 蘭は、毎日のジュルナリエ(日課)にショパンを好んで奏いていた。練習室で日課をこなす姿は修行僧のように厳しくて朱鷺は入り込めない。
「録音してもいい?」
 いや、と蘭は首を振った。こころが波だっているのなら別なものがいい。
 そうして彼は、グランドピアノの蓋を開けると、不思議な旋律をアルペジオで飾りながら奏きはじめた。
「これはチェロで奏く」
 つけくわえたあとで、視線を少し宙に浮かせ、モデルはあらっぽい仕事だからひどく気持ちがすさむだろう、と呟いた。
「おまえは冴とやっていけるのか」
 朱鷺はすこし躊躇し、曖昧に頷いた。
「今は、まだ」
 まだ大丈夫、なのか、まだそれほど感情移入していないのか、じつのところ朱鷺にもわからなかった。彼女がエロティックな衝動だけで行動できるほど大胆ではないと知っている蘭は、加齢のために縁がモーヴいろに霞み始めた瞳をめぐらし、微笑とも皮肉ともつかない口調で言った。
「おまえのようなのが傍にいると、落ち着く人種がたまにいる。俺もそうだ」
 彼はふいに顔を背け、嵐の過ぎさったあとのまばゆい光線に横顔を晒し、恥じ入るように微笑した。 
 晩秋のひととき、ふいにたち現れた蘭の表情は形容しがたいものだった。路を歩いていると、その季節にそぐわない明るい花が、思いがけない陽だまりを盗むように咲いていることがある。秋深い路地に咲き出たたんぽぽ、あるいは野菫の花のように、蘭はひめやかな微笑を朱鷺のまなざしに晒していた。こうしたみずみずしい顔を、蘭はしばしば浮き上がらせるのだった。
 老いてなお柔軟な欲求。歳月の風雨に耐え抜き、時間によって磨きあげられた感受性に対する頑ななまでの自負と、それをまた容易に他人には明かさず、好意を表すために、蘭は露悪的な善意、または善意をこめた露悪とでも言うべき複雑な表現で周囲に集まる若者たちを煙に巻く。
 そんな独得の様式で積み重ねた年輪を時折飛び越えて、蘭の皺をたたえた顔の上にふいにたち現れる、まだまったく無垢な少年の一瞬を、朱鷺はきれいなはなびらを集めるようにたいせつにしまいこむ。 
「冴を追いつめるな」
 一瞬のちに、蘭はもうしたたかな男の顔にもどっていて、幼いこどもをいさめるように朱鷺に言い聞かせるのだった。
「追いつめる?」
「朱鷺は、自分では気がつかないうちに相手を追い込んでしまう。冴はあたまのいい娘だから、今はおまえとうまく距離を保っているようだが」
 朱鷺はそっと蘭に近寄り、鍵盤に置かれた蘭の手に、自分の手を重ねた。うつむくと、狭まった視界には黒鍵と白鍵の規則正しいつらなりが、はてしなく続くように見える。蘭は朱鷺の手を自分の手に乗せたまま、三度の和音をひとつ叩いた。明るく、濁りのない音のつらなりは、共鳴する陪音の粒子を、枝豆のように大気に散らしながらどこまでも響いてゆく。
 朱鷺は弱々しく微笑し、つぶやいた。
「今だけでもいい」

 森のさやぎ、雨の響き、うら枯れ、夕闇せまる秋の野らを風が渡り、藍いろに垂れ込めた雲間から、残んの黄昏が一房の金色を贈り物のように差し出している。
 季節の歌は朱鷺の裡によどみなくこだまし反復し、時を刻み、夢を紡ぎ、つかのまに過ぎてゆく幸福と、いつまでも記憶に残る苦痛のせめぎあいを中和し、止揚し、さまざまな心の襞から滲み出る水脈は、やがてたからかな流れとなって、海へ、はるかな太古へ、未来を包容する混沌へ向かうのだった。
 永遠の循環、生と死のコラール、無限の、夢幻の旋律へ……。
 これは聴いたことがある、と冴は化粧やつれの残る顔を朱鷺に向けた。
 糸ひとすじまとわぬ肢体の若々しさと、撮影のために塗りこめたマヌカンの個性を消し去る化粧とは際立った対比を見せていた。
 白い服を着た黒人の女の人が歌っていたのを覚えている。騒々しいばかりのCMが、そのときだけとても静かで、とても安らかに思えた、と冴は低い声で、雨の降りしきる海に瞳をさまよわせた。崩れたマスカラがピエロの涙のように頬を汚していた。
「ヘンデルのラルゴという曲なの。ゆっくりとおだやかに歌う」
 ゆっくり、おだやかに?
 冴はのけぞり、朗らかすぎる笑い声が天井に響いた。剥きだしの腹が興奮に波打ち、その下のさかんな叢が、ちらちらと甘い色を見え隠れさせるリズムと一緒に、笑い声は痙攣するメゾ・ソプラノから小刻みに音階を降り、苦々しげにアルトの最低音で滞る。冴はげっそりと唇を舐めた。
「あたしには縁がない。いつも何かに追われて走るだけ」
 見てよ、この顔、と冴は自虐的に唇をひんまげて、営業用の笑顔をつきつけた。きれいに一筆書きした舟のような口のかたちとは裏腹に、両眼が大きく見開かれてこわばっている笑顔。グラビアで見ると美しいのに、現実に間近に見ると違和感のある表情だ。
「メイキャップが自分の顔だなんて思えない。でも、こんなオバケに馴れちゃうと、今度は塗っていない自分は自分じゃないような気になる。お化粧しないでいると不安になるの」
 朱鷺がうなずくと、冴は不服そうに鼻を鳴らした。わかりっこないわ。
「あなた、いつもノーメイクじゃない。すべっとした赤ちゃんみたいな肌で」
 冴は一瞬の躁状態から一転してたちまちナーヴァスに眉を寄せた。すると、プラスティックめいた質感の皮膚が鼻筋の付け根で、生き物の温かみを見せてよじれ、美容パックを引き剥がすように、そこからぴりりと破れてしまいそうに危うい。
「あなた、悩みなんてないみたい」
 ため息といっしょにうっかり言ってしまってから冴はぎくりと口を噤んだ
 不用意なことを言ってしまった、と冴は後悔する。表には出さないだけで、彼女はもちこたえているつらさがある。この子、あたしより年下よね? でもあたしより靭いの。
 朱鷺は冴を見ていない。彼女は、まだこどもっぽい裸身をさらしてたちあがり、夕まぐれの金いろがひとかけら、雨雲の隙間から海に投げ込まれている光景を全身に吸い込もうとして、ほっそりした腕を窓にむかって拡げていた。
 こまかい秋雨が海面を叩き、もうすっかり夜闇に呑みこまれようとしていたが、西の彼方の雲が、まるでそこだけ鑿でえぐったように、深く狭く穿たれ、中から茜いろがこぼれていた。くらい海、くらい空に、茜は恩寵のように透明な帯を曳き、光が反映している水面は、薔薇色とも金色とも、なんの色ともつかない夕惑いの色彩で、波の起伏をきらめかせていた。 
 朱鷺は精霊となったジゼルがアルブレヒトをそっと庇う仕草で腕をひろげ、長くて華奢なくびを傾けながら、漂うように逆三角形の窓に身を投げかけた。
 飛んでいく、と冴は密閉された筈のこの部屋が、ふいにばらばらに壊れ、いまにも地上の束縛から解放された者が、羽ばたきを残して消えさってしまう、という確信にとらえられ、鋭く叫んだ。
 おびえないで、これは森の響き。
 藍いろをつらぬくように、冴をさしつらぬいた茜の幻影は、目を開けたときにはもう低い雲に垂れ籠め、ひたひたとしめやかな絃の諧調に紛れてしまっていた。
 泣かないで、これは優しい曲なの。とても慰められるでしょう?
 泣いてなんかいない、と冴は抗議しようと唇を開いたが、とたんに塩辛い涙が喉に流れこみ、ひどく咽てしまう。
「森のささやき」
 朱鷺は冴の肩を抱き、背中に手を添えて、森が見える? と囁いた。
 冴は頑固にかぶりを振る。
「あたしはあなたとは違う。グラスウォールとポリエステルの城で生きているの。森なんて見えない。森がどこにあるの? 昨日は新宿で撮影。原色のファッションでホームレスの匂いのするタイルにしゃがんだ。埃っぽい空気と煙草。排気ガスに塗れて笑うのよ」
 冴はすすり泣く。欲しいものが何なのか、自分がどこへ行くのか、いったい自分が何なのかわからない、と泣いた。
 わかっているのは心に深い欠落があり、うわべは何不自由なく、快活な毎日の背後に、いつもやりきれない苛立たしさを抱えているということだった。ひとからは美人と言われ、我儘いっぱいに育ち、ちやほやされながら、冴は自分を甘やかす人間を嫌った。こいつらはあたしの皮しか見ていない。皮を剥いでほんとうのあたしを見せてやりたい。
「でも、ほんとうのあたしなんていない。同じ出来事なのに昨日は楽しく、今日はくだらないと思ってしまう。あたし自身もそう。自惚れているくせに、突然自分が醜く感じられて、その度にあの鏡を割る」
 苦しいわ。ねえあたし、朱鷺を好きなのかしら、樹を愛しているかしら、あたしは本当に自分以外の誰かを愛せるの?
 冴は絞るように汗を滲ませ、歯の根も合わない体の震えを押さえこむように膝を抱えてつっぷした。ふくらはぎにぎゅっと食い入る爪は血の気を失い真っ白だ。
 可哀想に、と朱鷺は冴の背中を抱く。掌を伝わる自分の温もりで、冴の苦痛がほぐれてくれたら。
 やがて天鵞絨のような弦楽の深みの、軽やかなたゆたいをとらえて、冴の耳に囁きかけた。寝ようよ……。
 朱鷺のゆびが冴のこわばったこめかみを撫で、喉をすべり、胸をなだめ、触れあう肌のすべては、そうして懐かしさに和らいでゆく。
 ラルゴ、これはアダージオ、どちらもゆるやかに、流れるように、と朱鷺は触れるか触れないかの境、皮膚の産毛を微風が撫でるように、くちびるを、それから舌をすべらせるのだった。
 ラルゴのゆびとアダージオのくちびる、と冴はこわばりを砂糖のように崩してゆく朱鷺の愛撫に身を委ねる。
「音はね」
 と朱鷺は鎖骨のくぼみを小指でなぞって囁く。
「ふつうのひとの耳には聴こえないけれど、空気のなかに、透明な陪音が、ひとつの音の彼方に無数に揺れている」
 だから。……世界はいつも無数の響鳴に溢れている。このチェロとピアノの調べ、冴の喘ぎの、ひとつの音、ひとつの沈黙のあわいに、目に見えない音の森がどこかへ向かって拡散してゆく。
 どこへ、と冴は自分の繁みをひらいてゆく朱鷺のゆびにあやされながら、かろうじて尋ねる。朱鷺は柔らかくて繊い髪を冴の胸に残しながら這いおりてゆき、冴の膝に頬をよせて、やんわりとひかがみに息を吹きかけると、冴の背中の神経が、ふわっと暖まるような快感がひろがる。
 暖かい息はやがて、待ち焦がれたゆびのヴィヴラートに変わり、中心の襞をなよやかにひろげながら波紋を描き、吐息はさしせまったものになり、喘ぎを呼んで髪が乱れる。
 触れ合う肌の歌。雨に叩かれる欅、風になぶられるミモザの、失われゆく森影を女たちは奏でる。チェロがピアノにまつわり流れるように、旋律と伴奏が絡み合うように、女たちは手足を織りひろげる。
 音の粒はどこにあるの?
 ここに、と朱鷺ははなびらをひらき、病み疲れた冴の顔とは裏腹に、みずみずしい滴りにきらめく芽を舌ですくった。あ、と冴が腰をひくのを許さず、扉を押し広げるように腿をひらき、そのひかる紅いろを味わう。
 これで音を、匂いを、時間を見つめる。
 目に見えないものを聴き、耳に聴こえない音を感じとる鍵。
 もっとはやくこうしたかった、と冴はひらかれた快楽のきざはしを、次第に速度を速めて駆け上りながら。みなぎり渡るクレッシェンドの水平線めがけて。

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