さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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海の器  vol5 雨

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   雨

 雨こんこんまたいつ逢へると問ふのなら
     別れの言葉を愛に変へてよ

 
 小糠雨のぱらつくローマの街を女たちが歩くと、ほぼ三百メートルおきにいろんな男たちが寄ってきて、巻舌の〈ローマ〉語で誘いかける。どんなあらけた誘いでも、イタリア語で聞くと粋に響くのは奇妙なことだ。
 アジアのはずれから天の都に昇った者の小さなコンプレックスが女たちの底辺に巣食っており、そうした浅はかさは、彼女たちの富裕や美貌をもってしても完全には拭いとれない。日本からやってきた冴の衣装はシルエットの大きく、よろけ縞で多色彩のミッソーニだし、累に至っては無国籍、無方針でひたすらきらびやかだ。
 男たちをぞんざいにあしらって行きすぎようとすると、カンピドリオ広場へぬける長い石段の中途ですり寄って来た黒髪の青年は、いきなり累のハンドバッグをひったくり、くるりと背を向けて逃げ出しかけたが、斜むかいの花屋の軒先でふりかえり、女たちが後を追いかけてこないので、あてがはずれたような顔をした。
「安物よ。かまわないわ」
 累はスーツのポケットからジタンを探し、薬指と小指にはさんだ。
 呆れたことに、その若者は石段を跳ね飛んで戻ってきて、冴が自分のバッグからライターを出す前に、累の鼻先へ手品師さながら軽やかな手つきで、火のついた燐寸をさしだした。
 冴は舌打ちするが、この浅黒い若者が蛇のように優雅な容貌をしているので、ついつい見惚れてしまう。メフィストフェレスみたいな細い眉が、なめらかなこめかみへ流れている。
「無視されるのには慣れていないので。また雨が降ってくるし」
「たいした誘いかた」
 累は、男の奉仕を悠々と嘉納するアグリッピナ、といった尊大な微笑を浮かべて、鼻の穴から煙を洩らさないよう細心の注意を怠らずに、どんよりと曇ったローマの空に、ニコチンとタールを吐き出した。
 原色のマゼンタに金で縁かがりをしたシャネルスーツは、濃化粧の累によく似合っていた。冴の着ている一見派手なミッソーニなどは遠めには多色使いが溶け合って印象があいまいになり、むしろシックに見えるのだが、累のマゼンタは強烈だった。出発まぎわに髪にストレートパーマをかけてボブカットにし、輪郭を狭く見せた顔の両側には、パロマ・ピカソの抽象とも感情移入ともつかない、記号のような大きい金のイヤリング。母親の姿は、日本にいるときよりも数倍美しく見えた。
 まもなく五十歳になる累は、ローマに着いた途端、ゴージャスな存在感でふくれあがるようだ。彼女の、洗練とは程遠い美しさは、歴史的観光地ローマに捧げられた虚飾の花束といった印象で、何百年もたった街並みの、くすんでしめやかな落ち着きを否応なしに際だてる。
 冴は、十七世紀オランダ派が、あふれかえる花輪の隅に暗い髑髏を描くことで、ヴァニトゥスを風刺したことなど知らないが、あらゆる化粧技術を駆使して自分を演出し続ける母親の姿は、若い盛りの娘には、反発を感じる以上に啓示的だった。
 サルヴァトーレのアピールが気に入った累は、誘われるままカフェに入った。
「もう少し早く来れば、ミッレ・ミリアがあった」
 洒落た緑いろのジャケットを脱いだサルヴァトーレは、まるで撮影のポーズのように絶妙なコムポジションで、ローズマーブルがアルコ型の窓辺にリラ紫の影を投げかける一隅に腰を下ろし、カーテンの素晴らしい緑いろにゆったりと上半身を預け、長い脚を丸テーブルから斜めに投げ出し、ヘレニスムの彫刻のように膝を組んだ。彼の靴はたった今磨きあげられたかのように新鮮な光沢を放ち、女たちの視線は無意識に、その星を散らしたように上等な皮革製品に吸い寄せられ、サルヴァトーレのキャラクターが、この靴と同じくらい艶やかに違いない、と思ってしまう。
 彼は片手をテーブルに置き、もう片方の手はさりげなく椅子の背もたれに預けた。所作のためではなく、レモン色のクロスの上に、ただ丁重に示された無為な手は、男にしては綺麗すぎ、磨かれた瑪瑙いろに底光りしながら、男女の境を超えるためのパスポート然として、女たちに差し出されていた。手は雄弁な沈黙を香水の匂いにまじえて発散し、どんな甘い口説きにもまして、女心をひきつけずにはいない、といった風情だった。
「いえね、車にはそれほど興味ないわ。でもミッレ・ミリアの華やかさは知っているの。オールド・ファッションの素敵な車が勢ぞろいするんですってね」
「スポーツ・カーですよ」
 サルヴァトーレはくっきりした眉をぴくりと上下させ、舞踊の仕草のように手を振る。
「とても高価で優美な名車です」
 彼はオールド、という一面的な英語が気に入らない。サルヴァトーレはイタリアの皮製品のように隅々までつやつやしており、どうしても触ってみたい、という願望を女たちに抱かせる。きっと彼は瑕ひとつないハンドバッグのように冷たくしっとりしているのだろう、と冴は瞳をあまり動かさずに周囲を観察するという、モデル業で訓練した視線をサルヴァトーレに注ぐ。
 累はもっとあけすけだった。人見知りに無縁な彼女は、ぽっと上気して頬を染め、世界の金持ちたちが秘蔵のクラシックカーを見せびらかすレースについて熱心に聞き入り、相槌を打つ。
 冴は次第に傍観者でいることに辛抱できなくなり、
「ママは車が苦手なのよね」
 と猫撫で声で言い、ただ母親への不快感からサルヴァトーレに向かって、かすかな、しかしそれとわかるウィンクを送る。ひとりの青年を頂点として二人の女は、やや長めの二等辺三角形の位置を占めているので、冴のコケットリは累には見えない筈だ。
 累は、舌を巻くほどの余裕を持って我が娘を見やり、
「それはおまえのパパの運転がひどかったからよ」
 とやりかえした。パパ、などという言葉を累の口から聞くのは初めてだし、冴が累をママなどと呼んだのは、初潮のはるか前だった。
「ああいう車の乗り心地はよくありません。でも機能がすべてではないでしょう」
 サルヴァトーレは慇懃に応じ、女たちの鍔競り合いに眉も動かさず、小憎らしいほど魅力的な笑顔を見せた。
 つやつやしたオリーブ色の顔に、粒の揃った歯並びが青白く輝き、二人の女は、その冷静な笑顔に魅了されてしまう。完璧なジゴロか、そうでなければジゴロの素質を持つ男だけができる、女の感情を無視しながら女心を殺す、冷酷で誘惑的な表情だった。
「あなたは芸術家?」
 冴はベレをもてあそぶように脱ぎ、皮肉まじりに尋ねる。皮肉もまた、一種の秋波だが、髪を刈り上げた彼女のマスキュランな容貌は、こんな時逆説的に有効で、サルヴァトーレは突然出現した自分より美しい男の錯覚に気圧されて、怯んだように微笑をおさめた。
「ヴィオリノを奏きます」
「あら、素敵ね」
 一オクターブ声を跳ね上げ、累は脇目もふらずにサルヴァトーレを見つめ、小首を傾げてカップの縁を中指で軽く叩き、そわそわと膝頭をこすりあわせ、ハイヒールの踵をコツコツと踏み鳴らす。
 マゼンタのスーツの下で、累のからだは蛇みたいにくねっているのだろう、と冴は急にこの場にいるのがいやになり、同時にローマでこの男を母親と奪い合うのも悪くない、と邪まな気分になる。
 が、そう思った瞬間、サルヴァトーレはふいに生真面目に口を結び、その大切なものを含んだような口許が、偶然樹に似ていたので冴はひやりとする。
「サンタ・チェチリア音楽院で勉強しています」
「ふまじめねえ」
 累は年上の女の、鷹揚で遠慮のないくちをきいた。母性のイメージに若い男を包みこんでしまうと、辛辣な言葉が愛情表現になる。甘やかしに満ちた叱責は、ほんの少しならとても有効なベラドンナやジギタリスの薬効に似ている。自分のこどもたちにはついぞ見せたことのない累の母性愛のジェスチュアは、こんなところで巧妙に洗練されていた。

 フォロ・ロマーノの古蒼な円柱の群れに囲まれて、霧雨のなかで時折飛び立つ鳥の羽ばたきを聴いていると、なぜか冴は日本が恋しくてたまらなくなった。
 死に絶えた優雅さ、刻一刻と亡滅に向かいながら、なおかつ現代のどんなテクノロジーよりも明確な存在感で、見る者の心をとらえてしまう廃墟の印象は、どこかで朱鷺につながっている、と冴は感じた。
 朱鷺は廃墟ではないし、彼女は自分の年齢をはっきりとは言わないのだが、たぶん十九にはなっていず、十七か八、もしかしたら十六あたり、という幼げなからだつきをしている。衰退や亡滅の翳りのない緻密な皮膚と、おそらく竹内蘭の薫陶のみを享けて育ちつつある、ガラス壜のような……密室で培養されたような、無垢なアトモスフェルを湛えていた。それなのに、どうして霧に浮かぶフォロ・ロマーノのたたずまいを見た瞬間、朱鷺の印象がオーヴァーラップしたのだろう?
 朱鷺、という名前は彼女の本名なのか、と冴はここで初めて疑った。絶滅危惧種の鳥、ニッポニア・ニッポン。普通なら高校生だが、樹と同じくドロップ・アウトしたのか、それとも…などという俗世の疑念が、廃墟の映像といっしょに、冴の理性のなかに、いちどに湧き起こってきた。
(今まで彼女について、何も訊かなかったなんてことのほうが変なんだわ)
 と冴は数瞬、横にいる母親の存在を忘れてしまった。
 自己主張をことさらしない朱鷺なのに、彼女の傍にいると、冴はしだいに自分が侵されてゆくような気がする。彼女と接するようになってから、じわじわと自分の彩りが変容してゆくのを感じる。自分の知らない自分が浮かび上がってくる感覚は、少なからず快感ではあったけれど、怯えと、かすかだがはっきりと口惜しさが混じっている。何の口惜しさだろう? 快楽を優先させたい冴は、考えるのが面倒なので、安っぽい恋愛小説風に、自分の心にかたをつけた。
(朱鷺を憎みたくない)
 憎むほど彼女に執着したくなかった。
 リナシメント時代には、フォロ・ロマーノは石切場として使われ、あちこちに倒れ伏した未完成の柱は傷ついた骨のように見える。
「こういうところに来ると、人生がよく見えるわね」
 累はひとりごち、寒さに身震いしてショールを掻きあわせた。冴はちらりと横目で、
「めずらしいことを言う、ママ」
 累はびくともせずに続けた。
「生きているうちが華。ここはすごく重要でりっぱな場所だったのよね。それがどう? これじゃまるで」
 彼女は乏しい語彙の中から、なんとか気の効いた言い回しを探そうと首を振ったが、ちょうどその時、団体旅行のバッジをつけた日本人観光客の娘たちが、
「舞台の大道具置き場って感じ」
 と言いながら、母娘の後ろを通り過ぎていったので、累はとりあえずそれを借りて、
「ただの舞台裏」
 とつけたした。
 思いつきにすぎない累の独白も、数千年の廃滅にいぶされた霧雨のなかではとても奥深く響き、冴は敢えて母親に逆らうのをやめた。累は自分の偶然の比喩がすっかり気に入り、
「生きているうちに楽しまなければ損だわ。見たでしょう、法王のミイラ」
 累と冴はサルヴァトーレと別れたあと、もう一度カンピドリオ広場へ戻り、サンタ・マリア・ド・アッラコエリ教会で、ガラスケースにおさめられた暗緑色のミイラを見物した。
 ミイラは金糸銀糸の衣装にくるまれ、栄養不良のまま母胎からひきだされた胎児と同じように、弱々しくうつろだった。なぜかローマでは陰惨なものがよく似合い、それがグロテスクな感情を呼びおこさず異様な説得力を持って迫ってくる。「カザノヴァ」や「サテリコン」は、この国では時代劇などではなく、街の隅々で数瞬ごとに立ち現れる、過去と呼ばれる永遠の現代劇なのだろう。
 行くさきざきの噴水、彫刻、磨り減った石畳から、あわれみを乞え、あわれみを乞え、というキリエ・エレイゾンが響いてくる。眼窩のくぼみを樹皮のように爛れさせたミイラもまた、ガラスケースの中から叫び続けているのだった。哀れな、あわれな、神の子羊……!
「おおいやだ」
 と累は言った。周囲には数人のアメリカ人が、無邪気で横柄な好奇心いっぱいにひしめき、チャペルの内陣にガムをくちゃくちゃと噛みながら発音する英語が人もなげにこだましていたが、それでも石やモザイクの内側に浸透し、いつか朱鷺が言った陪音のように響く、キリエの幻聴を駆逐するにはいたらなかった。もちろん累がいやがったのは、ガムを噛むアメリカ人夫婦のことではない。
「ねえ、あのきれいな子も死んじゃうとこうなるの?」
 累は決して、わたしたちも、とは言わなかった。そう言われてみると、松ぼっくりみたいに干からびたこの高邁なミイラが、急にサルヴァトーレに似ているように思われ、冴は笑い出してしまった。ケースをとりまいたアメリカンは、おお、とため息をついて、けたたましく湧き上がる冴の笑い声に身をひいたが、彼らの顔には不謹慎な、という非難もなければ同意の親しみもなく、まるで突然、天井の内陣が崩れて、もう一体別なミイラが降ってきたのを目撃したような、遠慮のない驚きと好奇心がありありと現れていた。
「何だってあんな馬鹿笑いしたのよ」
 どこかの教会へ続く小道を、母娘はぴったりと寄り添いながら歩いていた。累の体温がこれほどなつかしく、優しく感じられたことはないような気がした。寒さのためか累の下瞼は黒ずみ、声も嗄れていたが、謙虚な羊飼いの母親のように俯いた彼女は、その窶れのおかげで渋い霧雨の後光にしっくり溶け込んでいた。
「だってサルヴァトーレに似ているなんて言うから。あたし、本当に彼が法王の帷子を着て、ガラスの柩に陳列されている光景を想像したの。そしたら爆発するみたいに喉が震えて」
 くっくっと笑いがまた喉で痙攣する。それはウラジーミルの笑い方だった。娘の笑い方が癪に障ったのか、累は非難がましく、
「人目ってものがあるじゃないの」
 冴はたちどまり、ちょうどそこはコロセウムを見はるかす高台だったが、ひんやりした湿っぽいローマの空気を肺いっぱい吸い込み、アイボリーのコートを風にはためかせ、手足を中空に投げ出してふんばり、数万の古代ローマ人の亡霊と唯一の生きた観客である母親に向かって宣言する。
「ローマは死んだ。アメリカンのチューインガムと、あの狡い守衛のために。彼らはあたしをとがめなかった」
「やめなさい」
 オレンジのオーヴァーを着たラテン系の男女が。冴の即興のパフォーマンスに足を止めたが、彼女の叫びが自分たちにはまったく親しみのないアジア語と気づくと、ほそい顔に煮凝りのような皺を寄せて歩み去った。
「ママ、ねえママ。あの守衛はあたしのチップを受けとった。つまり愛国心をたった何枚かのリラと引き替えた。現代の安っぽいユダがミイラの番人なのね」
 ママ、という普遍的に柔和な響きが累の毒を弱めてしまう。涙もろいママという音律は、十数年ぶりに累の神経をとろかすように響くので、累は体裁の維持と、娘への自己欺瞞に似た愛情に引き裂かれて息を呑む。
 しかし冴は、累への毒舌が自分にブーメランとなって返ってくるのを知り、口を噤んでしまう。

 ナツィオナーレ通りのホテルは、真珠いろの大理石で埋め尽くされ、そのほのかな七色の虹に、さらにおびただしい花が浮かぶ。
 まるで朝焼けの海に盛りあがる水泡のように、水仙や薔薇、カトレアが惜しげなく壁にふくらみ、何百年もたった石のナンフや牧神たちが、さりげなくそれらの花飾りのあわいに身を潜めていた。
シングルで二つ部屋を頼んだのに、ホテルはツインを用意していた。到着の晩は不平を言う元気もなく、そそくさとベッドにもぐりこんだが、ローマの滞在が数日に渡ると、互いの針でつつきあうハリネズミのような不快感が、薔薇いろと真珠いろで覆われた部屋にたちこめてきた。
仕方なく、母と娘は昼間のおおかたを買い物や観光に出歩き、一緒に部屋にこもる時間をなるべく短くしようと努めた。
「エネルギーの過剰消費よ、こんなの」
 イ・バルバリというブティックで、累は蛇皮のロングコートに一目惚れし、お揃いの靴まで買った。
「あらそう」
 累は平然とコートを肩にかけ、鏡の前でさまざまなポーズをとる。
「ママがそれほど辛抱強いなんてね」
 と言いつつ冴は、ウィンドーにかかった黒貂に目を奪われる。大胆なカットのジャケットで、片側の襟に貂の頭が着いている。貂の目は一方がエメラルドで一方がルビーだ。これを着たら、自分はきっと野蛮人に見える、と冴は考え、平板な日々を打ち破る魔法をこの毛皮が秘めていそうな錯覚にとらえられ、血色の悪い店員にそれを見せてくれるように頼んでしまう。
「似合うわよ」
 累は借りてきたような微笑を浮かべるが、その表情の寛容さに、冴の自尊心は却って少し傷ついてしまう。やめよう、と思う前に、すばやく店員は彼女に着せかけ、冴はショーで急かされるように機械的に袖を通す。その上、楕円形の大鏡に映った我が姿、使い魔を肩に乗せた魔女の姿に、うかうかとうっとりしてしまう。
 貂の毛波はしっとりして微かに濡れたような感じがする。なめらかな銀色の光沢が冴のわずかな動作も逃さずに輝きを変え、肩をひねると獣の目はちらちらとそそのかすように揺れ、毛皮にこもる真新しい縫製の残り香がしきりに冴の購買欲を刺激する。
 累はにこやかに決めつけた。
「すごくエネルギッシュ」

「こんなに我慢強いなんて」
 と冴は、数日歩きづめの足の痛みにうんざりしながら言う。
 連れ立つことに嫌気がさしていたが、日を経るごとにくきやかになるお互いの相似に、二人ながら捕えられ、自己愛と自己嫌悪とのせめぎあいによって無限に増殖してゆく見捨てられ不安にかられ、別々に行動することができない。
「こんなに仲がいいなんてね」
 累がまぜかえし、ヴァチカン美術館の厳粛な身廊の真ん中で母娘は悔しそうに睨みあっていた。
 冴は二十三年に渡る人生で、この母に似ないことが自尊心の根拠になっていた。容姿は言わずもがな、趣味やファッションへの好み、その他さまざまな仔細で母の影響を排除し、自分の個性を主張してきたつもりだ。それなのに、何の気まぐれか一緒に旅に出て、そこかしこで娘は、今まで見過ごしてきた影に気づくように、自分のなかに潜む母親に驚く。
 せめて夕食後のいっときくらいは、お互いの粘り着きから逃れようと、冴はラウンジで酒を飲み、累はルーム・サーヴィスでくつろぐことにした。このホテルは比較的中庸の金持ちたちが集まるのか、ヘレニスム様式をふんだんに取り入れた見事な室内装飾にもかかわらず、泊り客たちの雰囲気はおだやかで、際立った贅沢をひけらかす者はいないようだった。周囲は冴の片肘はった洗練に恐れをなし、あるいは我が海域の凪を守り、ひっきりなしに視線を送りつつも、誘いかける者はいない。
 冴はセッコの葡萄酒を傾け、次から次へシガレットに火をつけ、藍色の窓辺にひろがるつつましい夜景を眺める。東京のネオンを見慣れた目には、ローマの夜はいかにも貧相で、天の都は真昼に演出する威厳を、闇の中でたっぷりと補充するための眠りに沈んでいるように見えた。このホテルにはキリエもグレゴリアも滲みこんでいない……。
 夜遅く酔っ払って戻ってきた冴はバスルームの華やかなラムプの明かりで、自分がそのままにしておいたクリスタルの灰皿に目を見張る。
 いくらも吸わないうちに消され、もみくちゃになった煙草が、灰皿の上にうずたかく幾何学模様を描いていた。茎の上に斜めに茎を積み上げ、次の茎は前の二本のまた斜め上にと、吸殻はガラスの柩の上に規則正しく折り重なっていた。
「どうしてすぐ煙草を消すの?」
 礼拝堂のような展示室の清潔さとはそぐわない煤けた喫煙室で、さっそく煙草をくわえた母親に冴は尋ねる。もったいないわよ、という言い訳を添えて、知りたくもない質問をついしてしまう。
 累は決められた台詞のように無感動に応じた。
「自分の健康のほうが大切」
 そうして、見覚えのある手つき、冴とまったく同じ手つきで、不健康な煙草に苛立ちながら揉み消し、それでいてニコチンのくれる眩暈に依存し、縋るような念入りな手つきでその亡骸を積んだ。
 金属の柄のついた吸殻入れは使い古されて黒ずみ、拭いきれない燃え滓が、縁に輪のようにこびりついている。ものみなすべて壮麗なバチカンで、その薄汚れた吸殻入れは、あのミイラの番人のように、虚偽と不平の代弁者のように冴は感じる。そうやって、何かに攻撃的になると自分のやりきれなさがやわらぐ。そして今では、累との小競り合いが、独得のなま暖かさを帯びた親睦に変わりつつあることに気づく。

 ジョヴァンニ・アントニオ・ヴァッツィという画家の描いた聖セバスチャンの前で、累は感に耐えたように足をとめ、しばらく画像を凝視していた。冴もまた、この絵がはるか前方にあるときから気になっていた。
(まるで、からだは二つで頭のどこかが累とつながっているみたい。あたしたちはこんなに似ていたの?)
 累は冴よりずっと早く現状を受け入れ、娘との膠着めいた同行をむしろ楽しんでいた。累は、子供たちよりはるかにたくましく健康だ。どんな不愉快な状況でもネガティブな感情を排斥する自己保存能力において、それは際立っていた。娘と絶えずちくちくつつきあいながらも、累はふっくらと血色のよさを失わなかった。
「この子、樹に似ている」
「そう?」
 冴は気のない返事をしたが同感だった。弟よりずっと優美な聖セバスチャンだが、ものいいたげで、あきらめたような視線がふと重なって見えた。投げやりではないが、殉教の静寂な諦念が若い聖者を素朴な光で包み、射抜かれた血の滴りは、彼から流れ出るものでありながら、彼を愛する、この絵の前にたちどまるひとびとからこぼれ出る何か、でもあった。
 少し見つめた後で、冴は顔をそむけた。なやましく上半身をひねった若者の苦悶は、ある瞬間の樹の表情と、見れば見るほどそっくりだった。姉弟の間で数知れず繰り返された浄化の夜、あるいは真昼の挑み合い、罪と言えば罪の果ての顔が、ヴァチカンの聖域で再現されている。
 累は自分たちの秘密を知っているのか、と冴は母親を盗み見るが、そんな屈託は彼女の横顔には全然ない。にしても累は以外にセンシティヴだ。骨相や人種にとらわれず、画家の表現を見てとれるのだから。だが、累の洞察が自分と同じものなのか、などと冴は考えもしなかった。
 冴の耳に、ふたたび祷りの唱(うた)が響き始める。謹厳な幻聴は、さしせまったカタルシスの願望を逆にそそのかし、冴の血を熱くした。体の奥深くで何かが声をあげていたが、それでいて樹と朱鷺から逃げ出してしまった冴だった。

 最初はそんなに真剣には考えなかった、と冴は泣きながらうなだれた。青い化粧着を着た累は、パラス・アテナのように冷たい労わりをこめて娘の背中に触れる。
「あの子がかわいそうだった。罪悪感もあった。あたしは樹を捨てて家を出たから。あんなにぼろぼろになったあの子を受けとめるのは同感だと」
「嘘をついている」
 累はゆったりと冴の弁解を遮る。あたかも彼女が優れた母親で、こどもたちを手ぬかりなく育てあげた者のように、彼女の声音は厳しく、冴の逸脱を問い糾す。
「あなたは同情から弟と寝たのではないわ」
「……」
「あなたはセックスがしたかった。濃い快楽が欲しかった。樹と寝るのは快感なのよ。秘密ですもの、秘密はそれじたいが快楽」
 容赦なく追い詰められて冴はたじろぐ。累の厳格な無表情は、内省している、あるいは放心している朱鷺の顔に似ている。どちらも白い人形のようだ。白い、かっちりと扉の閉まった心のようだ。甘えを寄せ付けないアルカイックな厳しさが、累の姿を借りて冴を暴く。
「あなたは朱鷺と樹を、自分の不安定な欲望を正当化するための道具にした」
 わたしを除け者にして、と累は突然自堕落に顔を歪め、こどもなんて生むものじゃないわ、と吐き捨ててブランデーをあおる。
 冴は後じさった。後ろ手にドアの把手を捜すが、ホテルの常夜灯がたったひとつ灯る室内は暗く、青いローブをまとった母親の姿だけが大きく、いっさいの調度は光沢を失い、大理石の床は干からびて亀裂が入り、四方からじわじわと沈鬱な闇が来る。
 累が酔い痴れて高笑いすると、彼女の脂づいた豊かな乳房はローブのなかで大きく揺れ、冴が瞬きするうちに尖った乳首が青いサテンを突き上げて光った。母親のなまめかしすぎる乳首の勃起が、責め立てられて脆くなった冴の神経を逆撫でする。
「言い訳なんかやめて、したいようにすればいいの」
 累が立ち上がると同時に、バスルームのドアがいやな軋みをたてて開き、サルヴァトーレが入ってきた。肉体の中心を昂ぶらせ、見事に均整のとれた四肢がオリーブいろの炎のように輝いて迫る。冴は見たこともないほど巨大な彼の欲望に圧倒されて、その場から逃げることも忘れ、彼の圧倒的な漲りから眼を離せない。こんな巨きなものが、と冴がしりごみするうちに、このつややかな青銅のバッカスは実りきった累の乳房に顔を埋め、累は牡丹がくずれるようにからだをひろげ、サルヴァトーレの充血を迎え入れる。 
 男女どちらのものとも聞き分けられない呻きが室内に反響し、冴は耳を塞ぐ。だが、ぴったりとてのひらで蓋をした鼓膜を震わせて、重苦しく響いてくるローマの晩祷にもこらえきれず、よろめきながら壁伝いに出口を探す。手さぐりの壁はつるつるして果てしなく、バロックふうに歪みながら、どこまでも冴を拒む。背後では水浴びのような粘液のもつれと切羽詰まった喘ぎが交錯し続ける。

ほほえむような朝の光がデジュネの皿の金と緑の唐草模様に戯れていた。
 もっとも、この輝きはホールの天井からばら撒かれるシャンデリアの反映で、窓ガラスの向こうの街並みはじっとりと哀しげに濡れそぼっていた。しかしローマは夜闇の底から立ち上がり、無数の鐘の響きとともに、異教のまぼろしとキリストの栄光を矛盾なく身に纏い、異邦人たちにその豪奢な裳裾をひろげている。
 母と娘は、さながらいびつな鏡に向かいあっているかのように口数すくない。
 累は、固いパンにプロヴィンチアのサラミを乗せてひとくち齧る。それが思ったより美味なので、健康な彼女は勢いづいて次々にサラダやチーズに手を伸ばす。
 冴は、そんな母親に昨夜の昏い夢の片鱗もないことを確認し、それでいて、どこか罪深い累の表情に、同じ夢を分かちあったに違いない、というアムビヴァレントな確信を持つ。
 給仕がいとも優雅な仕草でコーヒーを注ぎにやってきたが、トルコふうな鷲鼻で頬骨の高いこの男は、二人の日本女にいかなる親近感も抱かせなかった。
「今の子、どう?」
「まあまあ」
 冴は木苺のジャムをパンになすりつける。累とのわずか一週間の旅が、もう一ヶ月も続いているような気持ちだ。冴は、累の語彙が自分とあまり変わらないことにも気づいていた。隠語でしゃべるように、母娘はごく短い台詞で相手の意図を察する。
 あたしたち、まるで出稼ぎの娼婦みたい、と急に冴は自虐的になる。ナルシシズムの濃厚なこの自虐は彼女を陽気にし、今までにない爽やかな口調で母親に尋ねた。
「なぜあたしと旅行しようと考えたの?」
 累は蔕つき苺をつまむ手をとめて、娘をうかがった。その顔は両頬がかすかにたるみ、目のまわりが黒ずんでいたが、堂々とした女らしさが復活していた。一晩のうちに、昨日までのなりゆきまかせの母性は累から拭われていた。彼女は身構え、表情をつくろい、母親のぬくぬくした安逸をふり捨ててしまったおかげで、性的になっていた。
 若さを失いながらも、最後まで美しい女であるための研磨を厭わない者だけが持つ威厳とデカダンスが、挑発的な累の表情を、修復されたフレスコ画のように、むしろ敬虔に見せていた。
「あなたと一緒だとがっかりしないから」
 なるほど、と冴は頷いた。
「これ以上ないほど、あたしたちの水面下はスリリングだわ」
 累の決め台詞は、たぶん冴と同じシステムの朗らかさで発せられ、二人はとてもなごやかに笑いあった。
 給仕が食卓まで電話を運んできた。
「サルヴァトーレ?」
 累が華やいだ声をあげ、冴はどきりとしたが、累は享楽家の天性を発揮して、娘の顔色など目もくれない。
「彼が街を案内すると言っているわ」
「お独りで」
 冴は食卓から立ち上がった。
「部屋が空いた。あたしたち、今夜からまた別々になれる」
 薔薇いろのメイン・ロビーを、チェック・アウトした旅行者が横切って行った。冴は迷わずフロントに向かう。テラスでは銀色の雨が歌うように落ちかかっている。
 ジリオラ・チンクエッティが、誰かの携帯ラジオから声を張りあげていた。
 冴は微笑んだ。歌詞よりも、メロディよりも、いさましいリズムが彼女を揺さぶり、精気をとりもどしてくれる。
 昨夜の夢はローマの啓示かもしれないが、ワックスをかけたようなサルヴァトーレはあまりにも浅薄な気がして、隠微な雨にも似た
エロティシズムの幻影には遠かった。

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