さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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海の器  vol6 冬のフーガ

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   冬のフーガ

 冬の背は我をさらひぬ
   蒼穹にいのち極みて刻むまなざし

 
 カルメンシータ、というパルファムの宣伝ポスターを撮影してから、冴は朱鷺に黙って外国へ発ち、一週間後にローマから葉書が届いた。
「お母さんと一緒ですって」
 朱鷺はあっけにとられて、サン・ピエトロ大聖堂の黄色いアーチの前にたたずむ二人の姿を蘭に見せた。
 ごそごそしたヨーロッパの紙に、じかに写真を貼り付けた絵葉書は、おおざっぱな冴の手つきのままに四隅がずれていたが、セルリアンのインク文字は、一見書きなぐりのようで、なかなか闊達なものだった。
「すごい匂いだ」
 蘭は小鼻に皺を寄せ、あたかも写真にしみこませた香水を払い落とそうとでもするかのように、ひらひらとそれを振ったが、振り落とされた濃厚な匂いは、弱い冬の陽に温もるちいさなサロンいっぱいに飛び散り、窓のゼラニウムやシクラメンのひかえめな香りを追い散らし、一瞬ルージュ・ヴィヨレーの幻覚で朱鷺と蘭の鼻を覆ってしまった。
「カルメンの匂いね」
 朱鷺は壁にピンで留めた昏いキャビネを見上げた。ある化粧品会社の新作香水のモデルに冴は起用され、その宣伝写真だった。
 ほとんど黒に近い濃紫を背景に、冴は男物のジャケットを着て髪を短く切り、彼女が一番美しく見える表情で顎をひいている。
 闇の中で、彼女の白いシャツが、はだけた上着の合せ目から鋭い逆三角形で迫り、それは冴の部屋の硬化ガラスの窓のように、抽象化された官能で視覚を射抜く。
 カメラの光線は斜め上からごく弱く、さらでも彫りの深い冴の顔を、ほとんど無慈悲なまでの陰影で刻んでいた。
 あたたかさもやすらぎも感じさせない尖鋭な光線を補償するかのように、マヌカンの影の澱みで、絶望的な藍色の陰影は、徐々に色合いを紫紺から紅に変え、その波うつ翳のゆらめきは、大輪の薔薇の花弁を思わせる。花のなかにゆらりと浮かびあがる逆三角形のアンドロギュヌスといった印象の冴は、凄みのある微笑を、あの魅力的なくちびるに湛えていた。
「カルメンには見えない。六本木あたりのゲイボーイだ」
 蘭は、ふん、と鼻を鳴らし、付けたしのように、うまい写真だな、と言う。
「真正面から撮って絵になるのは難しい。光の使い方がいい」
「女性的じゃない。鋭くて」
 朱鷺は、ほとんど美青年にしか見えない冴を見つめる。光線の反射する冴のうなじで、短い髪が針金のように逆立つ。上目づかいの、
ことさら白目を浮きたたせた眼差しは、誘惑する女というより、男に挑みかかり、隙あらば引き裂こうとする野獣のようだった。
「カルメンに見えない。いや、今世紀末のカルメンは、きっとこういう女なんだろう」
 蘭は、背もたれのついた柔らかい椅子にふかぶかともたれかかり、ぬるい茶を飲んだ。彼は日本茶をゆっくりと上手に煎れ、玉露でなくても玉露の味を出す。
 蘭は、もう昏い写真を忘れ、うっすらとたちのぼる緑茶の香りを楽しんでいる。孟宗竹の葉を酢で拭いた上に、季節の和菓子を乗せて朱鷺が差し出すと、目を細めて練り物の半透明な色合いを楽しみ、黒文字で上手に割って口に運ぶ。
 かすかに粉っぽい上生の甘味は、岩や泥絵の具を使う日本画の質感と同じようだった。脂分を含まない甘味は、まっすぐに舌にしみとおる。クリームの暈しを混ぜないために、この甘味はどうかすると単純で刺激過多になるのだが、上品な練りものの、味蕾に滲む甘味の柔らかさは無類で、大和絵の画家たちが苦心惨憺して泥を淡色に溶き暈してゆく技巧と同じく、椿や枯野、深山路、そんな四季折節の名がついたちいさな菓子たちは、はんなりと濃い甘さを、朱鷺と蘭のなかに滴らせて溶けてゆく。
 生菓子のほのかに湿った彩りは、紛れもなく大和絵のものだった。柿色、薄紫、小豆いろ、萌黄に錆朱といった、とても微妙な、半透明でいて質感のたしかな色彩は、味覚をそそる以上に、もの寂びた情感を醸しだす。
 くちに入れた練り物がたちまち溶けてゆくとき、朱鷺は、舌にひろがる和三盆の洗練された華やぎをたのしむよりも、たった今、自分が崩してしまった甘脆な色あいを惜しみ、せめて丹念に味蕾に含ませることで、はかなく消えてゆく菓子の輪郭を、できるだけゆったりと感じ取ろうとする。上生の味わいは、西洋菓子ほど変化に富んでいないが、余韻のなつかしさは格別なものだ。
 ガラス越しに、あらかた葉の落ちた雑木が揺れている。朱鷺は物哀しい思いで冬の海風の揺れさわぐ梢を眺める。喉をすべっていった菓子の甘さは、蒼白な冬の大気を感じることで、とてもせつない、とらえどころのないものになってしまうのだった。
 風は冷たい。痩せた木々の枝々が軋むように身をよじり、ゆびさきを打ちならし、北風にあらがっている。ながく伸びた陽射しは朱鷺の足元に青みがかったひっかき傷のような梢の翳を落としている。風が飽かずかきまわすその傷痕を見つめていると、過ぎ去った日々の苦痛がふいに薄皮を剥ぐように立ち現れてくる気がして、朱鷺は急いで視線を逸らさなければならなかった。過ぎ去りしことは過ぎ去りしままに……。こんな優しい呟きを残した詩人は誰だったろう。
 南面のサロンは、かつて蘭の家族の誰かの居間だった。ずいぶん前に亡くなったその女性は、薔薇いろの壁紙を貼ったこの部屋に、やたらに家具を詰め込んで飾り立て、手作りの、華やかな組紐模様を全身にほどこしたオルガンといっしょに、シャプランの甘い少女像を壁にかけていた。
 彼女の死後その絵は人手に渡り、色褪せて花のニュアンスを失ってしまった唐草模様の壁のなか、その絵があった部分だけは、夢の名残のように、オールドローズという名の英国のパステルの色が、絵のかたちをなつかしく残していた。
 朱鷺はこの部屋のかつての住人を知らない。
それだけでなく、蘭の過去にさまざまな波紋を投げかけていったひとびとについて、殆ど知ってはいなかった。
 何も知らないほうがいい、と朱鷺は思っている。きっと幸福よりも……幸福な記憶よりも哀しみの堆積のほうがはるかに多い竹内蘭の過去は、彼の言葉よりも彼自身の姿、瞳の色や無数の瑕のある大きな両手に雄弁に記されており、それらのつつましく、隠しだてのない刻印は、はてしもない地図となって朱鷺の前に開かれ、あるいはモノトーンの音符のつらなりが、ソルフェージュによって、さまざまな色彩にあふれて響きはじめるように、朱鷺のまなざしを幾重にも閉ざされた蘭の内側に導き、失われた時間のせつなさを奏でるのだった。
 シャプランの薔薇いろの娘を愛した女性の記憶は、朱鷺のこころで壁の淡い花模様の染みに重なり、優しい記憶をゆるしてくれる。
蘭は、もしかしたら冷たく驕慢だったかもしれない女の記憶を溶かしこみ、朱鷺の記憶を共有することで、過去の苦痛を癒しているのかもしれない。
 朱鷺は、蘭の鏡となっていた。
 シャプランの娘の薔薇いろの翳は、いま冴の肖像と向き合っている。ふたつの壁を眺めわたすと、勝気な冴の顔は、突然内面の諸さを露呈したかのように、ほんの少しの隙間風に震えていた。

 水族館の長い迷路を歩きながら、朱鷺は冴のいない時間の重さを測ろうとする。
 週に一度か二度、こまやかに愛撫を交わした相手がいなくなると、すでに皮膚にしみこんでいる時間を分かち合う習慣が、俄かに切実にのしかかってきた。
 異性への肉欲の烈しさとは違った渇きで、いらだちや情緒不安をひきおこしたりはしないものの、自分の存在が稀薄になるような、影が消えてしまった大地を無理やり歩かされているような感じだった。
 ひとりでいれば時間は全部自分のもの、二人ならばきみの時間は半分になる、とミザントロープな言葉を記したレオナルドは、生涯娶らなかった代わりに、弟子の美青年を可愛がった。
(二倍になることもある。蘭さんとあたし、あたしと冴)
 朱鷺は、髭で顔の半ばを隠した狷介な老人に向かって呟く。瞳の焦点の定まらない自画像を残したリナシメントの天才(人類の知を集めたひとだ、と蘭は言う)は、五百年の時間を超えて朱鷺をじろりと横目で睨み、強靭すぎる皓い歯をわずかに剥き出してわらったようだった。
……希望的観測だ。
……愛を信じないの?
 朱鷺は怯まず大天才に抗う。レオナルドは、灰色のトーガを優雅にさばきながら、芝居がかった身振りで両手を挙げ、薄笑いした。
……愛よりも確かなものは憎悪。ひとは快楽よりも苦痛に対する感受性のほうが強い。相手の心を自分にひきつけておきたかったら、相手にきみを憎ませる。そうすれば、彼女は絶対にきみを忘れない。
……あなたはひとを愛したことなんかないくせに。
 朱鷺は、毛を逆立てた猫のように老人に歯向かった。レオナルドは豊かな眉をゆっくりと持ち上げ、とても可愛らしい瞬きをした。
……いや、わたしは人類の愚かしさを愛しているよ。

「今日は着物じゃないね」
 見上げるとウラジーミルが立っていた。
 朱鷺は。あら、と言ったきり、うまい言葉が見つからず、藍と黄色の熱帯魚が群れる水槽の前で、ちぐはぐな遭遇にとまどった。こげ茶の、太畝のコールテンの上着に、派手な市松模様を着たウラジーミルは、上半身のくだけた装いとは違う、きっちり仕立てたダークグレイのスラックスのポケットに両手をつっこみ、細長い背丈をもてあますように首を前に突き出し、寒さのために鼻先を赤らめていた。
 そのリボンに見覚えがあって、とウラジーミルは灰色の髪をくしゃくしゃとかきあげながら、カップになみなみと注がれたショコラをすすりこんだ。
「あの時もリボンを結んでいたね。いまどき珍しくて印象に残ったんだ」
 薄暗い喫茶店には、緩いテムポのジャズがちいさく鳴っていた。リディア旋法のトランペットはマイルス・デイヴィスだった。
 朱鷺はどう対応したらいいのか迷う。社交はいちばん苦手だった。これが蘭ならば、立て板に水を流すように、リボンとモスリン、女の髪型から六十年代ジャズにいたる、きらびやかでスパンコールに飾られた知識を滔々と披瀝するのだったが。
「あなたが見とれていたあの熱帯魚は、生まれたときは全部雌なんだよ。歳をとると、それが全部雄になる。不思議だねえ」
 ウラジーミルは金褐色の瞳をくるくるとめぐらし、運ばれてきたピーカンパイを三口で食べてしまうと、朱鷺のいいかげんな相槌をよそに、長い指でジャズの裏拍子をとりながら饒舌にしゃべり始めた。
 鳥もそういったことがあるんだよ。千鳥だったか、つぐみだったかな。卵を産むのに失敗すると雄になってしまう。雄変という……。
「雄変?」
 朱鷺がはっきりした声で聞き返すと、乾いたトランペットに陶酔しかけていたウラジーミルは、指先でつかめそうな睫毛を持ち上げ、あっけにとられた返事をした。
「そう、雄変。何か?」
「いいえ」
 朱鷺は首を振り、いま思いがけなく心が騒いだのは何故なのだろう、と考える。雌が雄に変わる。雌に生まれたものが、やがて雄になる、という。
「あなたは夢のなかにいるみたいだなあ」
 ウラジーミルは椅子の背もたれに片腕をあずけ、斜めにからだをひき、向かいあわせに座った朱鷺からやや離れたが、彼の言葉は、その斜めに構えた距離の分だけ、朱鷺の内側に近寄ろうとするようだ。
 朱鷺は仕方なく、どっちつかずに笑った。
 テーブルに一つずつ、天井から真鍮の傘をつけたライトがぶらさがり、ウラジーミルはその濃い明かりの真下で、映画のシーンのようにすがれた色男の仕草で煙草を取り出し、鼻の下でシガレットの茎をすっとこすってから、軽い指づかいで燐寸を擦る。
 自分が相手にどう見えるか知っているウラジーミルの指は、結核に冒されたオーブリー・ビアズリーのそれのように骨ばって長く、燐寸の橙色の火で、掌を焦がすように見える手つきは、はっとするほど陰惨だった。硫黄の匂いがきつく、下からの燐寸の光は彼の美貌を歪め、際立つ白目が濡れたようにきらめいた。
 このひとの職業は何なのだろう、と朱鷺は考える。冴の一家が紹介された雑誌を朱鷺は見ずじまいだった。蘭の許にはさまざまな分野の書物が定期便のように届けられるが、蘭がすすめないかぎり、朱鷺はそれらを読まない。
「冴はあなたに迷惑かけているんじゃない」
 ウラジーミルは横を向いて煙を吐き出し、抑揚に富んだ白熱電球の光線に、ウラジーミルの年齢はやわらかく鞣されて、あの初秋のテラスよりもずっと若く見えた。皺やしみ、顎のたるみが隠れ、ウラジーミルの本質に違いない永遠の少年が、悪戯っぽい微笑で朱鷺を観察していた。かすかな上目づかいと、うっとりしたような半開きのくちびる。
 ああ、冴、と朱鷺はまた裡にこみあげる居心地のよい錯覚にとらえられそうになるのをおしとどめ、外へ、ウラジーミルへまなざしを定めるのだった。
「昨日イタリアから葉書が来ました。お母様といっしょだと」
 ウラジーミルは、自分の婉曲な質問が朱鷺に影響を与え、それに朱鷺が稚拙ではあるけれども、けなげな二重唱で応じたのに感心したようだった。
 こどもっぽい手口、と朱鷺はウラジーミルを軽蔑しようとするが、もう冷めてしまったショコラを飲み干し、カップの縁をそっと親指で拭う仕草は、なんとも危なっかしく、女というものが程度の差こそあれ、普遍的に持つ母性を刺激する雰囲気を漂わせていた。
 手の表情は人間性そのものを語る、とナタリア・マカロワは朱鷺に教え、そのころ、踊り始めたばかりの朱鷺にとって、それは天啓のように、人間の肉体すべてを見つめなおす契機となった。ウラジーミルの仕草は、美しすぎる男につきまとう気取りはあるが、うら哀しげで繊細だ。それだけで朱鷺は彼を好きになれそうだが、これは同情の冷ややかさを含む好意だった。
 ふいにウラジーミルは、そのりっぱな目鼻立ちにはふさわしくない軽い表情で、こう言った。
「ぼくが奥さんと別れない理由は、あのくらい身勝手な女だと、僕が何をしても罪悪感を感じないからなんだ」
 ウラジーミルは茶色のガラス窓を見つめ、自嘲の苦さを頬にゆっくり拡げた。
「ここにもうじき女が来る。あなたを見る。嫉妬深い彼女は勘ぐって腹を立てる。言い合いになるかもしれない。僕は、もういいかげん飽き飽きした彼女とのつきあいをどうにかしたいと思っている。それで、たまさか逢ったあなたをだしにして、彼女をまた少し僕から遠ざけようと思っている」
「そんな」
 ウラジーミルはすくいあげるように朱鷺を横目に眺め、声をたてずに笑い出した。喉だけで笑うその声は、神経質に数秒ひきつれ、ふいに止む。
「としたら?」
 朱鷺はまっすぐ男の視線をとらえ、落ち着いて応えた。
「わたしはからかわれるのはいやです」
 そうだね、とウラジーミルは頷き、長い指を組み合わせた。ジャズは止み、バッハが流れ出した。ウラジーミルはオルガンが転調にさしかかると顔をかすかに左右に振り、それまでとは別人のような深い声音で呟いた。
「建築を音楽がなぞっている」

 大気が裂け、西風が押し寄せる。傾き始めた冬の陽射しは弱く、風にひしがれる海面の乱反射は、暗鬱な鉛いろを湛えはじめた沖に鋭い。
 わたしは何とちいさな者だろう、と朱鷺は浜に沿って歩きながら呟いた。この寒気、この烈風、切りつける海風、空に舞う鴎たちの声は甲高く、風に吹き散らされ、きれぎれの破片となり、それは太陽の面を間歇的に掠め飛ぶ鼠いろの雲のように、鋭く光る輪郭で朱鷺のなかに突き刺さってきた。
 人気のない海辺。
 犬を連れた婦人がただひとり、黒い砂浜ですれ違っていったが、彼女の衣装も体臭も、凍りつく冬の大気に遮られ、ただぼんやりとした灰色の印象しか残さなかった。
 延々と続く砂と海の単調な世界に、朱鷺の脇をスカートを抑えながら足早に過ぎていった女は、その平凡な容姿のために、かえって非現実的な感覚を抱かせた。
 ありふれた、湘南の、豊かすぎず貧しくもない、ぼんやりした目鼻だちの女。日本中、世界中のどこにでもいて、彼女は同じような仕立てのよい地味なスカートを穿き、古びた運動靴に、ビニールのパーカーをしっかりと羽織り、愛玩犬を連れて夕暮れを歩く。
 今、自分の脇を過ぎていった婦人は、次の瞬間ドーヴィルにいるかもしれない。あるいはマーレ・キアーレで、冴の傍らを、今と同じように寡黙に歩み去っているのかもしれなかった。冴はその女に目もくれないだろう。その女は、いつでも、どこにでもいて、ひっそりと規則正しい散歩の路を辿っている……
 さくさくと湿った砂が靴の下に崩れる。
 西風はしだいに烈しさを増し、水平線を重い色合いの雲が飛ぶように走ってゆく。乾き、冴えわたった冬の落日が始まっていた。
 この海、と朱鷺はたちどまり、はるかを見つめる。重い雲の背景の空は、言いようもなく透明なきんいろで、丹沢の青い稜線がくきやかに浮かんでいた。大島の影はそれよりやや淡く、鋭角にきりつける斜陽の眩しさに、断ち切られた墨絵のようだった。
(チェーホフが見つめた海)
 わたしがいなくなっても、人類が消えても海は同じようにこの海岸に寄せる、と彼は呟き、ほどなく結核で死んだ。
 海の沈んだ色調のせいで、水平線に接する空はうっすらと敬虔な明るさに満ち、ほのかな慰めをくれたが、荒ぶる風のまにまに、潮は速み、波は猛って短く、ぎざぎざと海面は逆立ち、ちっぽけな朱鷺を威嚇する。
 何故だろう。これほど荒涼とした海に向かいながら、朱鷺はやすらかだった。過去の、そして現在の傷におびやかされず、得体の知れない呵責にうちひしがれもしないのは。
(わたしが死んでも海は変わらない)
 そうだ、人類が死に絶えてもこの海と空、風のせめぎあいは続く。
 足の下で崩れてゆく魚屑、貝殻のように、朱鷺は小さくなり、かそけく、さらさらとかたちを変えながら沈むともなく浮かぶともなく、海風に吹きちぎられる鴨の叫びと等しくなる。
 死の触覚というものがあるのならその瞬間、まばゆく切りつけられる斜陽に照らされて朱鷺に触れたものは死に違いなかった。
「満ち潮だよ」
 朱鷺は静かに振り向き、そこに樹がいることに少しも驚かずに呟いた。
「不思議ね、ちっとも寒くない」
 
 黒皮のつなぎを着た樹は、常よりもいっそう大人びて見える。
 彼は大きなバイクに両足をつっぱって寄り掛り、考え深げに朱鷺を見ている。
「まだ背が伸びるの?」
 朱鷺の言葉に樹は白い歯並びを快活に見せて笑った。
「半年で三センチくらい。この間とそう変わっていないよ」
 それからひとりごとのように、冴がいなくても習慣でこっちに来てしまう、と言った。
 そう、と朱鷺は返す言葉を捜しあぐねて、後部座席にくくりつけられた赤いヘルメットに目を移す。が、樹はすぐさま調子を変え、「暖かい場所に行こう。ここはもうじき海に沈む」
「まさか」
 樹は冴のヘルメットを朱鷺に渡した。
「本当だよ。俺はあなたが身投げでもするんじゃないかと思って、ずっと後ろにいたんだ。あなたは動かなかったけれど、海がどんどん満ちてきた」
「影が深くなっただけでしょう」
 朱鷺は言いさからったが、樹が正確に自分の心象に踏み込んでいることに、違和感のない驚きを感じていた。
 同じだよ、と樹はぶっきらぼうに言い、早く乗って、と促した。

 女主人のいない館は、三日おきに手伝いの女が風入れにやってくるばかりで、森閑としていた。レザーを脱ぎ捨てた樹はてきぱきと台所を開けて湯を沸かし、無駄のない動作で卵を泡立て、缶詰の封を切り、パンを解凍する。
 朱鷺はゆっくりと暖められてゆく台所に座り、青年の動きを眺めた。葉の落ち尽くした樹に似ている、と朱鷺は思う。簡潔で質朴な動き。風を正確に刻み込む梢のきっさきのように、樹の手には無駄がない。それはまた、ピアノを操る蘭のゆびさきを思わせるものだった。
 あなたはきっと一流のシェフになれる、いいえ、もうなっている、と朱鷺は声に出さず、いきいきと動く樹の広い背に囁きかけた。彼のからだには風が流れていた。青年は風に逆らわず、火と水を操り、素材を選び調え、隙間なく迷いもなく、ひとつの姿から次の姿へ移りゆき、やがて狐いろに焼けたホットケーキが、香ばしい飲みものが、泡立てられたメレンゲと、赤紫のジャムといっしょに現れる。
「これは狩人のテ・オ・レ」
 樹は得意げにマグカップを朱鷺に押しやった。温めた紅茶にこんがりと焼いたバター付きフランスパンをちぎって入れ、たっぷりと牛乳を注ぎ、ふたたびとろ火にかけ、じっくり煮えてとろけそうになったパンの皮が、牛乳の膜といっしょに飲みものの表面を覆うまで煮詰め、グラニュー糖を雪に見立ててふりかける。好みでジャムやメイプルシロップを落とすのもいい。
「ダンサーに甘いものは禁物かな」
 こう言いながら、樹は大きなホットケーキを切り分け、金鳳花の花のいろにふくらんだ塊にたっぷり蜂蜜を注ぐと、さらにメレンゲを盛り上げた。
 このおやつは楽しかった。樹の食べっぷりは気持ちよく、ざっくりと切り、しっかりと噛みしめて食べる。
「累が炊事をやらないから、俺はよくホットケーキやオムレツを作った。累は俺たちが飢え死にしたって平気でさ、ちょっとした失敗で次々と手伝いのひとをくびにする」
「インスタント食品は使わなかったの」
「それは冴のほう。俺はいやだ」
 交代で夕飯を作るとき、冴はもっぱらレトルトで済ませた、と樹はうんざりした顔でおどけて見せる。
「ウラァがまたカップラーメンを好きで。二人とも味なんかわからない」
 ふいに、朱鷺の視界に水族館の青い水槽がひろがった。灰色の巻き毛のウラジーミルの後ろで、今のいままで忘れていた薔薇いろのくらげがふわっと傘をひろげ、蛍光色に輝くしなやかな触手をガラスの円筒いっぱいにふくらませ、舞い上がり、胞子を蒔き、ゆらゆらと沈む。あの魚は雌が雄になるんだ……。
 雄変。
「どうしたのさ」
 冴に似た、整いすぎていくらか均衡を欠いた細面が、長い指を組み合わせてこちらを見つめる。カメラの逆光に針金のようにきらめく襟あし。
「カルメンシータをつけている」
 朱鷺はぐいっと近づいた青年の匂いを嗅いだ。バターやヴァニラの柔らかなきんいろを荒々しく断ち割り、驚愕のためにかっと匂いたつ樹の体臭は、アルカイックな古代の半獣神のようにいかめしく、力強い銅いろをしており、きつい香水の緋色をまとっていたが、それ自体では単純で濃厚なカルメンは、出来合の安織物が、幾星霜を経た彫像に投げかけられて、突然尊い印象を帯びるように、その軽薄さを失い、重厚な存在感にあふれて朱鷺の嗅覚を不意打ちしたのだった。
 樹は黙り込んだ。西の森影が窓にくろぐろと闇を湛えている。轟、と北風が巻き、窓明かりで暗緑の色味を残すヒマラヤ杉が猛禽のように唸った。
「お父さん、ウラジーミルさんに会ったの。水族館にいらしていたわ」
「どうせ女と待ち合わせだろ。ウラァも変わってるよな。もっと気の効いた場所があるだろうに」
 樹はふてくされたように言葉を継ぎ、睫毛でくっきりと縁どられた目にじりりと感情をたぎらせ、
「俺たちを何故ゆるせる?」
「真実だから」
「嫉妬しないのか」
 落ち着こう、と朱鷺は息を調えた。アリアン人のように目と鼻の間が狭く、こめかみから頬にかけて削いだような樹の顔は、ふだんはちっとも冴に似ていないのに、激情の虜になった表情はまったく同じものだった。
 樹の全身から烈しい風が吹きつけてくる。幹がめりめりとしない、枝がきしみ、若くして過剰を振り捨てた者の、堰を切った感情のムーヴマンが朱鷺を襲う。
「あなたはどう?」
 これは逃げ口上だ、と知りながら朱鷺は他に言葉がない。追いつめてはいけないと思いつつ、これほど純粋に感情をたぎらせる青年
の奔流に身をまかせ、爆ぜてしまいたい誘惑に、必死に抗わなければならなかった。
「俺は」
 樹は一瞬言いよどみ、自分の内面をたぐっていたが、やがてふたたび視線を上げ、
「いつか冴を殺すかもしれない。冴でなければあなたを」
「わたしたちが憎いの?」
 いいや、と樹ははっきりかぶりを振り、その仕草は、胸がしめつけられるようなあどけない哀しみに満ちていた。
「俺は自分を憎んでいるんです」
 かちゃりとナイフが落ちた。朱鷺はまったく気がつかなかったが、樹は果物ナイフを握りしめていたのだった。
 
 夜更けて海には小雪が舞いはじめた。
 蒸気に曇る窓を拭きながら、椅子の背に頬杖をついて、いつまでもぼんやりと、海の夜にひらひらと舞い落ちるはなびらのような雪を見つめている朱鷺に、竹内蘭は心の中で言うのだった。
 おまえが今日、何処で何をしてきたか俺は知らない。おまえはいつもどおり俺の許に帰り、こどもっぽく、主観的な独白で一日の出来事を語る。ウラジーミルとあの賢い青年のことを語る。だが俺にはわかる。おまえにとって、ほんとうの人生、真実の時間の流れは、語り聞かせる事件の中にはほんの少ししかなく、朱鷺、おまえのからだは否応なしにこちらにひきとめられているが、おまえの歩む人生の大部分は俺の知らない彼岸にあるんだろう。
「もう止んでしまった」
 朱鷺はがっかりして椅子からずり落ちる。
「湘南で雪が積もることなど滅多にない」
 蘭は象牙のクトーを磨きながら応える。柄に一角獣が彫られたクトーは、蘭の父の遺品で、もう使われることなどなかったが、書物が優雅な夢の器だった時代の香気を、摩滅し、寂びた手触りに包んで伝えてくれる。
「それでひとを刺せる?」
「俺にはできるが、ぼんくらではだめだ」
 朱鷺は立ち上がり、足音をたてない素足の軽い足取りで蘭に近づくと、やにわに着物の胸をはだけ、喉をそらせた。刺して。
 蘭は、静脈が青々と透けて見える首筋をそっと撫で、もういっぽうの手で奥のほうを掴みしめながら静かにひざまづいた。

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