さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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海の器  vol7 無言歌

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  LIED OHNE WORTE

 傷負ふて眸は潔(きよ)き
  無言歌と知れば愛(かな)しき心離れぬ

 
 ほっそりした長い首と、なだらかな肩をした婦人は、血色の悪い卵型の顔を憂いがちに傾け、蘭に向かって、お忙しいのは存じております、と繰り返し言った。
 彼女の薄い胸の中で、独白のように呟かれるこの言葉には、蘭が決して彼女の申し出を断わらないという、控えめで頑固な確信の響きがあり、傍にいる朱鷺をはらはらさせた。
 クリームいろのモヘアのアンサンブルに、カシミアのロングコートを穿いた彼女は、早春の空から脱け出した大気の精のようだ。真白な真珠のネックレスが彼女の華奢な首を飾っているが、その処女性の光沢は、さえざえとした一重瞼の光と響きあい、ふわっとした装いでありながら、春の花畑のなかに鋭くとがった硝子を見出したようで、思いがけない冷たさをちらつかせるのだった。
「お風邪ですか?」
 蘭は軽快に調律された声音で婦人を気遣う。語尾をかすかにぼかし、女性的なやわらかさと年長者の余裕を含ませた心地よい声は、婦人の黄ばんだ顔をかすかに暖め、その処世術のような用心深さを緩めずにはいなかった。
 母親は見目よく鼻をかみ、
「こどもを生んでから、体がすっかり変わってしまったみたいで」
 自分の体調の話になると、彼女は急に生気をとりもどし、感じやすい粘膜に対する漢方医学について、玄人はだしの知識を喋る。お喋りは彼女の血行をよくし、凍りついたモジリアーニの女から、クリムトの細長い金いろのマリアへと変貌していったが、抑揚なくいつまでも紡ぎだされる声は、蘭をいらいらさせたようだった。
「それで、坊やは」
 蘭は無造作に話を切った。甘草と桔梗根の目覚しい効果に夢中になりかけていた上品な母親は、微笑を溜めた蘭の表情があまりにおだやかなので、遮られた言葉を省みることも、いったん流れ始めた饒舌をおしとどめることもならず、ごくありふれた口調でこう言わずにはいられなかった。
「登校しようとするとお腹がいたくなって」
 彼女は、こどもの腹痛が、あたかも我が身を苦しめる痛みであるかのように、なやましく膨らんだ自分の腹部に触れた。朱鷺は母親の視線の隙間を選んで、庭で犬と遊んでいるこどもを見る。水仙と福寿草が、湿った庭土を飾り始めた陽だまりで、少年はふっくらした頬を犬にこすりつけて笑っていた。母親似ではないが、その年齢の男の子にしては整った顔立ちをしている。
 朱鷺の視線を敏感に察して、母親は長い首をめぐらし、こどもを見やった。
「父親がたまに帰ってくると甘やかして。でもお腹が痛いのはどうしようもありませんでしょう? 叱っても直らないし」
 と、同意を求めるように朱鷺を見る。朱鷺は少女のまま時を過ごしてしまったような母親にとまどう。彼女は決して若作りではないが、若く見えた。化粧や装身具でつくろってはいず、窓に向けた薄化粧の顔には、年齢相応の小皺が漂い始めていたが、彼女の落ち着きのない顔、感情を隠さない瞳の動き、思いつめた口もとは、まるでローティーンのように、意味もなく揺れている。
 彼女はスワトオ刺繍の白いハンカチをそっと額に押し当てたが、なめらかな皮膚には汗など滲んでいなかった。何かを持っていないと落ち着かない彼女は、そわそわとハンカチを弄び、膝の上にひろげ、また畳み、ふたたび拡げると、朱鷺の煎れた緑茶に手を伸ばし、音をたてずに口に含んだ。
 彼女の仕草はひとつひとつがとても慎重で、毀れやすい置物のように自分を扱っているが、そんな末端の神経質と容姿のたおやかさとはひどく不釣合いで、彼女は怖気づいた瞳をめぐらし、朱鷺と蘭の顔色を読もうとするが、それでいて他人の顔色を推し量ることなど所詮無理と諦めているようでもある。
「甘やかしているのでしょうか?」
 気抜けしたような声が、彼女の喉からぼんやりと押し出される。
 均衡のとれないひと、と朱鷺は眺める。
 母親としての困惑に満ちた言葉と、彼女の奥行きに乏しい表情とはどこかそぐわなかった。恵まれた主婦生活に降って沸いたこどもの反乱を、彼女はまだ実感できず、ただ放心するばかりなのか。
「舵、ご挨拶なさい」
 母親は唐突にたちあがり、窓を開けてこどもを呼んだ。冬風が無遠慮に吹き込み、暖かな室内の空気をどっとひっくり返し、蘭は思いきり顔をしかめた。彼は風が嫌いだ。朱鷺と同じように皮膚の薄い彼は、風に吹かれるとアレルギーを起こし、尖った耳に霜焼けができる。
 しかし、悩んでいる彼女は蘭の不快を気遣う余裕もなく、頼りなげな姿から急に険しい母親になり、声を張り上げ、躊躇っているこどもを叱りつけた。蘭の返事も聞かず、彼女はもうこどもを弟子入りさせるつもりでいた。

 年明けの蘭の会で踊ることになっていたので、朱鷺はメンデルスゾーンのピアノ曲を選んだ。ショパンほど華やかではなく、シューマンのように口ごもらず、そしてシューベルトのはにかみとも違う彼の音楽は、朱鷺のからだの柔らかさにほどよく調和し、フレーズの振幅も繊細でありながら、現世肯定的で踊りやすかった。歴史上の音楽家のなかで、フェリックス・メンデルスゾーンは、例外的に物心両面に恵まれた人生を送ったというが、朱鷺の触覚する彼の音楽の快さは、もしかしたらそのためかもしれない。
 フレデリック・ショパンの音楽はあまりにも透明で揺ぎなく、完全な骨格をしているので、自分の稚拙な舞踊表現が冒瀆のように感じられる。ショパン以外の作曲家たちが不完全だというのではないが、ポーランドの片田舎で、おそらくディアベルリやクレメンティの、混沌とした乏しい音楽の支流から、突然変異のようにロマン派を湧出させ、時空を超えて滔々と独自の音楽をみなぎらせたショパンだった。
 彼の音楽には夭折の天才のいたましさ、我が運命を見据えつつ芸術に殉じる透徹した響きがあり、朱鷺はショパンを聴くと、瑕僅もない水晶の塔を見るような思いがする。
 もしも、ショパンを踊るとしたら、朱鷺はリズムでムーヴマンを刻むのではなく、音楽に内在するフレーズに身を委ね、ピアノの妖精が、フレデリック青年のくるくる回る指先に戯れるようなパフォーマンスをしたい、と思う。
 音や、肉体の動きを言葉で置き換えるのは不可能に近く、踊ることによって肉体の線を歌わせ、内的なエネルギーを解放してゆく課程を文章表現しようとすると、いつも主観的な嘘臭さと曖昧さに悩まされる。
 言葉は知性の所産であり、分析し、筋道をつけ、限りなく細分化してゆくものだが、音楽や舞踊はその逆に、ばらばらになった想念を包容し、いったん原初的な情動にひきもどす。混沌と渦巻くエネルギーは、恣意に任せれば、ときには身を滅ぼすものだが、丹念な訓練の果てに、一連のムーヴマンとして歌い出すことが可能になる。
 しかし、朱鷺の望む表現と、肉体の限界は常に拮抗しており、第一次成長期を過ぎてから踊り始めた朱鷺は、目覚しいテクニックを身につけるかわりに、内的ムーヴマンを制限された動きのなかで、ささやくように、流れるように紡ごうとする。それが、朱鷺にとっての音楽となっていた。
 音楽を斉藤秀雄に師事する傍ら、上野の美術学校にてんぷら学生として通ったという蘭の絵は、イタリア留学中にさらに磨きをかけられ、ピアニストとしてよりも、画家として彼を知るひとが多いほどだった。舵の母親は、口をきかなくなった息子に絵をならわせようと考えたのだった。
「子守なぞまっぴらだが」
 蘭は親子が帰ってしまうとしぶい顔をした。あまりに無遠慮なので、朱鷺が思わず微笑んでしまうような渋面だった。
「恩人の娘だから断わるわけにもいかない」
 給費留学生の窮乏生活の頃、ウィーンで蘭を庇護してくれた金持ちの夫人がいた。舵の母はその女性の縁者で、さらに後年、蘭がロシアのキーロフで、エトワールのポルトレを描く職に在った時に、日本からのバレエ留学生として蘭と面識があった。
「それであんなにしなやかな姿を」
 朱鷺の羨ましそうな声に、蘭は、
「昔はもっときれいだった。しかし、キーロフというところは、これぞ天使か神の似姿かというような美貌がひしめいていたから、日本人というと可哀想なものだった」
 それに、あのひとはほとんど音楽がわからなかったから、と蘭は遠い目をする。
 音楽がわかる踊り手って……。
 朱鷺は何度か繰り返された質問を喉で呑みこむ。ナタリア・マカロワ、ヌレエフ、それから……。
 蘭の答えは短く、厳しい。芸術に対する彼の忠誠は潔癖だった。ごくひとにぎりの天才たち。音楽と戯れ、表現できるダンサーたちへの憧憬は朱鷺に受け継がれたが、それはまた朱鷺と蘭を隔てるはるかな道程を思わせる。彼の位置はとほうもなく遠い。日本とヨーロッパ、朱鷺とロシアのように隔たっている。

「絵なんか嫌いだ」
 舵はくろぐろとした瞳を大きく見開き、レオタードの朱鷺を見つめる。
 芸術的な感化を与えてくだされば何でもいいんです、と母親は市販の健康飲料を求めるように、蘭に曖昧な万能感を期待し、こどもは週に一度やってくることになった。
 多忙な蘭は、ものわかりのよい微笑みで母親を帰したが、こどもの世話は詰まるところ朱鷺に押し付けられた。
 教えてよ、と舵は掻きかけの絵をぐちゃぐちゃに丸めて立ち上がった。やけくそな仕草はこどもには似つかわしくない屈折した怒りが感じられ、喊黙傾向があると歎く母親の言葉とは、かなり違った印象を朱鷺は持った。
はっきりした怒り。怒りだけではなく明確な感情の振幅を舵は発散する。こどもらしい初対面のはにかみ、おそるおそる居場所を探し、がらんとしたピアノ室で、朱鷺がべつだん干渉するでもなく、ほったらかしに絵を描かせているうちに、たちまち雰囲気に慣れ、ぬくぬくと手足を伸ばし、机から転げ落ちて床に寝そべり、何事かつぶやきながら、半時ばかりクレヨンと格闘していた。
 朱鷺は、テープから小声に流れるピアノに併せてゆっくりウォーミングアップし、こどもにはしたいようにさせた。特別扱いはするなと蘭に言いふくめられていたし、そもそも朱鷺は、こどもを大人と異なる存在だとは思えない。こどもは未分化で稚拙、いたいけなもの、という考えを受け入れることはできない。未分化というのは確かだが、幼児でも二十歳の女性に勝るコケットリを持っている場合もあるし、十歳で世故に長けた視線をめぐらす子もいる。
こどもはちいさな大人だろう、と朱鷺は思っている。肉体の成熟や知識の獲得は、生まれ持った人格をそれほど左右しないような気がする。
いたずらに年齢を重ねても、なお未分化な大人たちを朱鷺は何人も見てきた。彼らは大きなこども、とでもいうのだろう。
 舵は、朱鷺の自在な動きに目を輝かせ、クレヨン臭い手で、柔軟体操をしている朱鷺の背中で握手した腕に触り、ためいきまじりに
「すごくやわらかい」
 いきなり触られて朱鷺は驚くが、舵の手は暖かく、山羊のようになめらかだった。焦げ臭い汗と埃、何かのジャンク・フードの匂いがこどもの髪からたちのぼる。まだ性別のない匂い。すっぱい砂糖のような、むっとする匂いは、強烈だが単調な感覚だった。
 朱鷺はそろそろとこどもの腕を持ち上げ、まず肩と二の腕を伸ばしてから、ゆっくりと背中にまわしてみた。
 痛い、と舵は口をとがらせる。残念ながら、この子は母親のしなやかさをほんの少しも受け継いではいない。骨は太く、すでに将来の頑健を思わせ、日焼けの季節でないのに少年の皮膚は褐色に光っている。
 舵は自分の腕が朱鷺より硬い、ということに誇りを傷つけられ、ぷっとふくれる。そのつぼめた口許はとても美味しいものを大事に含んでいるようで、朱鷺は思わず舵の頭を撫でてしまう。機嫌とりではなく、ただこの子が可愛いから、という朱鷺の愛撫に、舵は虫歯の口を開けて笑った。
 朱鷺の剥きだしの腕を舵はしげしげ眺め、静脈が肩まで見える、と言う。
「お姉さん、ハーフ?」
 いいえ、と朱鷺は否定するが、舵は疑わしげに朱鷺の茶色い髪を点検し、
「染めてるの?」
「もとから色が濃いだけ」
「目も茶色だ」
 僕のは黒い、と胸を張る舵は愛嬌がある。
 この子は好奇心旺盛だった。仔犬がそこらに濡れた鼻を押しつけて匂いを嗅ぐように、舵はだんだん大胆に朱鷺に迫り、観察しながら自己顕示を始める。
 どこが登校拒否なのだろう、と朱鷺は不思議だった。ひよわなところがどこにもない。たいていの大人でも蘭と相対すると、何か気後れしてしまうのに、舵は母親の前では憂鬱げに顔を伏せていたが、独りでやって来た日には、鈍感なまでの礼儀正しさで、きちんと蘭に頭を下げた。
 こん、こん、と硝子を叩く音に振りかえると、ダウン・ジャケットの蘭が庭先から手招きしている。
「散歩に行こう。一段落ついたから」
 言いつつ中を覗きこみ、目を見張る少年に向かって、
「焼き芋屋が来る。うまいぞ」
 とにやりと笑ってみせた。

 灼けた鉄の匂いを残して樹が冴から離れると、二人の皮膚をぴったりと密着させていた汗が、ぬるい空調に急激に冷やされ、いやな感触で腿をつたわって流れた。
 ブラインドを半ば下ろした室内は、曇った天気のせいで、夜明けか夕暮れのようなヴァルールに塗られ、なべての陰影を溶かしてしまう薄闇は、時間の感覚をも侵し、ものみな無彩色にかぎろう中で、姉弟の流す汗だけが苛烈に滴り続けた。
 誰と寝たって? 
 冴に喰い破りそうな視線を切りつける樹は一ヶ月あまり別れていた間に痩せて、頬骨がなぞれるまでに削げた。堰かれていた欲望はどれほど女を苛んでも宥められない、とばかりに樹の挑みは夜通しやまず、冴の粘膜はとうに感覚を失い、何度かおとずれた喪神はアクメなのか睡魔なのか、あるいは爛れるほど充血した肉の苦痛に耐えかねてのものなのか、もうわかりはしないのだった。
 言え、誰なんだ。
 樹は目を瞋らせ冴の乳房を握る。パルファムの撮影のためにダイエットした彼女の体は、鎖骨のくぼみが強調され、肉の落ちた胸に乳房の彫りが深くなったために、かえって挑発的だった。樹はぎりりと歯噛み、肉も千切れるばかりに爪を立てる。冴は悲鳴をあげるが首を左右に振るばかりで逆らわない。
 ふざけるな。
 樹は涙をためて冴の頬を打った。灰色のシーツに冴はあらあらしく投げ出され、はずみのついたまま寝台の縁まで転がる。樹はその髪をつかんでひきしぼり、自分のくちびるで相手を窒息させるように口を重ねた。
 けれども冴は打たれた頬の痛みに生気をとりもどす。粘膜の刺激に飽和しきったあとの皮膚の痛覚は、宿酔いの朝の迎え酒のようにかりそめの覚醒でちからをくれる。被虐と嗜虐が交錯する刹那、冴は目をあけたまま弟のくちびるを味わう。眉間に皺を刻んで苦しげに目を瞑っているのは樹のほうだった。
 冴は自虐に満ちた快楽への欲望に突き飛ばされ、粘膜が早くも乾いてこびりつき、かさかさした樹の股に手をすべらせ、分泌物のために毛先が細かい束になった生え際を撫でる。くちの中で絡み合った樹の舌が一瞬震えると、呼応するように蘇り、冴の指に寄り添ってくる熱さがあった。
「なぜ」
 樹の流す涙が冴の喉を濡らす。涙は厳粛にこぼれおちる。さながら射抜かれた聖セバスチャンの血のようにきよらげに。涙は冴の喉を潤し皮膚を清める。彼女の指は肉欲の籠となって哀しい青年をとりこめ、樹は逃れたいと願いながらも、誘いかける指の羽ばたきに抗うことができない。
 粘ついたくちびるが唾液の糸を曳いて離れ、
冴は予定調和のように弟の膝に顔を寄せる。
 血の昂ぶり、自分と同じ血の凝りが、このうえなく潔い、単純な姿で揺れている。潮の予感をまとう欲望にひざまずく冴は、ラ・マドレーヌのように敬虔な疲労に目の周りを黒ずませているが、本人も、樹も気づいていない。
 樹は涙に腫れた瞼をこじあけるように姉の襞をひろげ、えぐられた傷口、自分以外の男に汚されてしまった不浄の傷口に、ガーゼを押し当てるように舌を密着させ、ほんの少しの隙間もないようにしたいと願うが、腫れあがった肉の渦はふてぶてしく樹のくちびるからはみだし、彼は、この赤紫のラビアが、もはや自分から逸れてしまった姉の存在そのものを象徴するかのような絶望にかられ、ゆるせない、と呟く。
 絶望は瞬時に殺意にすりかわる。けれど、姉を殺すには樹の欲望はあまりに一途で烈しいので、破壊衝動はすぐさま内向し、膣の窪みに溺死するために、彼は鼻腔を、口を、昏い性器に沈める。
 汚穢と再生の戸口がつらなる赤紫の溝に、青年は近親相姦の罪深さと不貞の正当性を秤にかけるが、姉の舌に絡められた迸りがつきあげると、いっさいは空白になり、きりきり舞いしながら愛の煉獄に堕ちてゆく。あるいは解き放たれた翼に任せて虚無の宙(そら)へ昇る。おそらくその両方を、青年は一瞬にして味わう。
 朱鷺と寝なかったの? 
 撲たれた片頬を赤く染めた冴が、落ち窪んだ目で弟をなじる。まるで破るべき禁忌を破らなかった臆病な異端者を審問するように、彼女の声には迷いがない。その唇の縁に精液がこびりついている。冴が樹に息をふきかけると、自分から放たれたものとは思えぬ違和感に満ちた匂い、なまなましい排泄物の匂いが、確信をこめて樹を糾弾する。

 朱鷺と寝たい?
 ざらざらするコンクリートの壁に、素裸のままじかに寄りかかり、がっくりとうなだれた冴のうなじに、なめらかな日光が甘美な冷たい曲線を描いて影をつくる。僅かの雲間から太陽はおためごかしの吝(けち)な光を蒔き、空は動きのない鼠いろに凝り、鱗状の雲の縁が汚れた緑にけばだっている。空に圧迫されながらも海は明るみ、燻し銀の一枚板となって輝き、魚々子(ななこ)細工のこまかい波が、ひっきりなしに陰影を変えながら、風と時を刻んでいた。
 誰とした。
 樹のつぶやきが冴の膝に繰り返し刻み込まれる。寝た、誰と、なぜ、する、それからコロス。それから何の脈絡もなく、朱鷺。
そうした言葉たちは無限に寄せ返る波のように二人のあわいを行き交い、もはや言葉の意味を失ってしまい、ただの水素と酸素の結合体である水が、厖大に集まることによって、海という不可思議な象徴性を帯びるのとは逆に、恋人たちの軋みあいから吐き出された罵倒も詰問も、しだいしだいに感情の色を失って、ただの無意味な音のつらなり、あるいはただの口腔粘膜の振動にまで還元されてゆく。
そして今や、疲れ果てた彼らには、それが唯一のまぐわいの響き、二人の間を容赦なく削ってゆく時間を、二人だけのものに変えるまじわりの音律となっているのだった。
 樹は冴の膝に頭を乗せ、ぼんやりと視線をさまよわせた。無表情な石の壁が断ち切られたように天井へ折れていた。そこに嵌めこまれは硬化ガラスの前に、天体望遠鏡を据えて興奮気味に空を覗く父を見たのはいつのことだったろう、と彼は考える。
 脱出したい、と彼は願った。いつもいつも脱け出したいと思っていた。両親、姉、学校、まずい食事、不愉快な匂い、ざらついた感触、氷のようにつめたい海から。
(あれは三月、四月の初めだった。冴が俺を見捨てて出ていった。俺は海に飛び込んだ)
 憎悪、絶望、同時に苛烈な欲望が少年をうち倒し、押しひしぎ、ぬるぬるした岩場で、我が身を傷つけるような自涜をした。海は紺碧に冴えていた記憶がある。花曇りの、どんよりした天気だったが、樹の記憶では、その時、海はしみひとつない碧だった。死にたい、と願った少年の願望が色彩感覚を澄明にしたのだろうか。それとも殺意よりも忌まわしい残虐な幻影で母と姉を犯した射精の罪深さを際立てるために、彼の記憶は海を美化したのだろうか?
 樹は呻いて寝返りを打った。ごみだらけの床の、なにかの屑が彼の背中に食い込み、しばらく前から樹はその不快な痛みを小銭のように隠し持っていた。そのちいさな苦痛が、この出口のない、混沌とした場所から、彼をどこかに、何かにつなぎとめてくれるのではないかと。横を向くと冴の膝小僧が彼のこめかみを圧迫したが、過去の苦痛に我を忘れて
いた樹は、その女の感触にふたたび火種をかきたてられた。
 冴は目を閉じ、眉間にきつい皺を寄せて小刻みに呼吸している。傾きはじめた陽射しが彼女の剥きだしの顔を照らし始めると、苦悶に満ちた影が、皺が、乾いてこびりつき、しろい流れとなった涙の筋が油のように浮きあがる。その顔はもはやウラジーミルに似てはいず、累のおもかげもない。
「冴」
 樹は呼んだ。はっきりと意味を持ち、その背後にはかり知れぬ情念の痛みをこめて弟は姉を呼ぶ。
 冴は薄く目をあけた。げっそりと窶れた下瞼の曲線が、嵐のあとの海岸のように荒廃してたるんでいたが、この一時的なすさみは彼女の美しさの陰画であり、媒剤に洗われてじわじわと浮かびあがる画像の魅力をプレイマジナーレさせる。
 樹はゆっくりと腕を伸ばす。微速度撮影の植物の芽吹きのように、おごそかに、ゆるぎない沈黙のなかで腕は伸び、指がひらく。
 掌の双葉に包みこまれた冴は、なすがままにゆっくりとかがみこみ、弟の額に唇を押し当てた。くちびるは、山脈を旅するように樹の顔をたどり、自分と相似形のそれを見出す。女の性の雛形、男には畏怖と惑溺のふたひらが、こざかしい言葉の虚飾を捨て去り、また結び合う。
 許しなど樹は考えもしなかった。心の傷は癒えることなどない。ただ時間が降り積もり、それを押し隠してゆくだけだ。記憶はいつだってぱっくりと口を開け、彼を罠にかけようと舌なめずりする。
 前進する、怒涛のように前へ向かって進む意志だけが彼を生かしてきた。許すことなどできはしない。できないが、俺はこの裏切りによって、いっそう冴を愛するだろう、と樹は歯を食いしばる。殺意、それは一瞬のうちに翻転する貪欲な生の意志だった。
 が、冴の乳房が自分の腹の上におしつけられたとき、彼は姉のしなやかな鞣し皮のような皮膚とは異なる感触を味わったのだった。薄い、どこまでも柔らかい、みどりいろと薔薇いろが静脈のはざまで揺れる肉を。
 青年は狼狽して姉を抱いた。濃厚なカルメンの匂いがする髪を鼻に押し付けると、あわあわとした惑いは退いたが、にもかかわらず、可能態の物語は、ひそやかに樹の奥底で発芽しかけていた。

 BELLO COMO La LUCE
  A ME DACCANTO
IL SEGRET AMOR MIO
VEGGO TALOR ……
 
 朱鷺の歌声はそこで途切れてしまう。その先は記憶がふつっと切れて、昔聴いたソプラノの余韻だけがいつまでも心に響く。歌の文句は思い出せないが、磨かれた声の残響、それを耳にした時のあまやかな感じが、髪に結ぶには短すぎるリボンを手にしたときと同じような、もどかしさと嬉しさで心に揺れた。
 舵はゆっくり歩く大人たちに歩調を合わせるのに苦労する。こどもは無限のエネルギーを持っている。舵は、蘭と朱鷺の周囲をつかず離れず、ときどき、自分の勢いにまかせ、流木や藻屑の奇妙なかたちをしたのや、貝殻の変わったものを目がけて走ってゆき、それをつかんでまた戻る。走りかたは、こどもっぽくて不恰好だが、力強い。
 この子は貝や枯れ木が珍しくて走るのではなく、大人たちと一緒では発散しきれない熱量を消費するために駆け回る。そうして、ある一定の範囲を保って行きつ戻りつする少年の動きは、彼のしっかりした空間認識と、堅固な自尊心をほのめかすようだ。野性の幼獣と同じ用心深さ。母親のちぐはぐな警戒心は、この子には優性に伝わったのかもしれない、と朱鷺は舵をたのもしく眺める。
 蘭は丹念に焼き芋の皮を剥き、焦げたところや崩れた部分を取り除くと、ほくほくした柔らかいところだけを口につまみ入れる。蘭は淡白な味と優しい舌触りを好み、それは彼の色彩感覚と軌を一にしていた。
「その歌なあに」
 駆け戻ってきた舵は、ぽちゃぽちゃした頬を紅潮させ、片手に大きな天然軽石を握りしめ、もう一方の手には尖った巻貝のかけらを掴んでいる。汗ばんで赤ん坊じみた匂いが、言葉よりも雄弁に興奮を訴える。面白いよ、見て、この変なかたち……!
「昔の歌」
「聴いたことない」
「歌詞を忘れてしまったの」
 言葉なんていらないさ、と蘭は呟き、訓練されたベル・カントで歌い始めた。ラ、というたったひとつの音が奏でる抒情に、朱鷺と舵は魅せられる。やがて舵がつられて歌いはじめる。幼い声だが、音程は正しい。
 ほう、と蘭は目を剥く。
「おっかさんがソルフェージュでもしているのかね?」
 ううん、と舵はかぶりを振る。こどもの横顔を複雑な屈折がかすめ、それははっきりした羞恥の色となって舵を濁らせた。
 僕は音楽の才能がないって。
 蘭は、ちらりと朱鷺を見る。彼女はこどもの疼きを我がことのように感じる。母親はしばしば、自分に担いきれない影をこどもにおしつけてしまう。
 蘭は舵の手をとった。こどもの手はまだ小さいが、厚みがあって指もしっかりしている。
「ヴィオリノを奏け」
 珍しく蘭が相手の、舵の眼を見て言う。
 舵は射すくめられ、不安げな顔をした。
 方向を決断できない困惑。しかし蘭のそっけない口調にひそむ漠然とした暖かさは舵に伝わり、こどもの顔色もゆっくり暖まってゆく。
「学校に行かなくてもいい?」
「そんな取引はできない」
 蘭はたちまち不機嫌に鼻に皺を寄せたが、舵の心に灯った明かりは消えない。
 朱鷺はそんな二人から離れ、夕陽が舐めるようにオレンジいろに染めあげる海を見やった。太陽から遠い上空は、余りになめらかな海の反映のためにあざやかな青に暮れなずむ。
雲海からひきちぎれた雲が、びょうびょうと吹く風に乗って流れていた。沖合いに浮かぶ帆影がいかにも頼りなく、その浮舟の姿に自分と冴のなりゆきを想う。
 このまま遠ざかってしまうとしても、しようがない関係だった。ひきとめることなどできはしない。けれども、朱鷺だけが感じ取れ、またかき鳴らすことができる琴線もある。
 女たちの結びつきが、男女のそれに比べてゆるやか、ということはなかった。生殖を超えた官能が人類を野獣から進化させた動機なら、同性愛はきわめて抽象的なエロス、無、という究極の認識に至るエロティシズムではないのか?
 では樹は?
 あれほど無雑なまなざしを朱鷺は見たことがない。光るようにはりつめた絃のような。あの子にとって冴を愛することは、ひそかな死への願望かも知れない。混沌とした生に向かうには、あの瞳はあまりに潔く、揺らぎがなさすぎる、気がする。
「おい、どうした」
 いつのまにか蘭と舵は岬の突端にたどりついている。オレンジの鮮やかな残照に二人の影は青々と長い。蘭が手を振ると青い影は岩のくぼみに溜まった夕陽をからめとる網のように揺らめいた。
 我に却って駆け出し、蘭の影に踏み込む朱鷺の心は、しかし別なほうを向いていた。

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