さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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海の器 vol8 ETUDE

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   ETUDE

君の手に呼吸(いき)ひきしぼる
  ETUDEを奏でむと海は天鵞絨となる


 めまいがするようなショッキング・ピンクのタイツを手品のような仕草で太腿から引き剥がすと、真っ赤なラバーのタイトスカートを腹の上にたくしあげ、女はスプリングのついたベッドにはずみをつけて倒れた。何してるのはやくしてヤクがきれちゃうじゃないRMは即効性だから、と句読点のないひきつったソプラノで急かされ、樹はこの女が何を言っているのかさっぱり聞き取れないが、ぱくりと口を開けた女の本性が、薄暗いローズマダーに渦巻いている奇怪に目を奪われる。
 存在の原点でべったりと舌なめずりしている肉はなまなましい貝紫に光りながら、流行りの「絶対落ちない長保ちルージュ」で実物よりもぼったりとふくらませた唇、ひっきりなしに喋り続け、混雑時の券売機のように腰をつかうたびにしゃくりあげ、かわりばえのしない快がり声を吐き出す加工品よりも確かな感触で樹の衝迫を鎮めてくれる。
(なんだっていいんだ…エイリアンみたいな化け物でも…目をつぶって…)
 くらやみの中でオレンジとブルー、マゼンタとヴィリジアンが炸裂し、蒼白い火花が神経線維をぴりぴりと焼く。ドラッグとアルコールがパンクに弾け、いいかげん昔のツイストが内臓をぶちのめす爆音でケツを振りながら樹の背骨を駆けめぐる。
(ノイズ、ノイズだ。女なら何だって。女でなくたって)
 女のぺたぺたしたラバースーツが樹の腹に触れるたび、視覚のけばけばしさよりはるかに知的なその冷たい触角に、樹のリビドーは減殺されるのだが、アクメに乗りかかった女は、強引に樹のむっちりした太腿を乗せ、シーソーのように腰を揺さぶった。揺さぶられるたび、樹はこのあつかましい女に絞め殺されるのではないかと脅え、脅えは瞬時に激怒となって、ドラッグ漬けのくされまんこをぶっつぶしてやると絶叫しながら、挑みかからずにはいられなかった。
 体の右と左が互い違いに突っ走る幻覚と、鉄の扉いちまい隔てて大音響でがなりたてるノイズの響き。RMだかVX(顔中にピアスした黒人のバーテンはにやにや笑いながら樹の掌に錠剤を握らせ、その執拗に手の窪をおしつけるジェスチュアは、俺はおまえのケツが好きだとアピールしていた)だか、もう忘れてしまったヤクが、覚醒と墜落の螺旋を描いて青年をずるずると引き裂く。
 樹は抱いているのがパーティの会場にずらっとひしめいていたキチン質のダッチワイフなのか、ドライ・マティーニをおかわりする間に経口避妊薬と蛍光ピンクのセックス・ドラッグをこれ見よがしにくらっていた若い娘なのかわからなくなっていたが、ラリって顔じゅうマスカラだらけの女だろうと、マゼンタの電動クチビルを絶え間なく壁で蠢かしていた人形だろうと、まったく差はない、とはドラッグフィズが胃の中でつぎつぎと爆発する刺激に脳が沸騰しているわりには、まともな感想だった。
 じょうず……と女はアクセントをひっくりかえしていななき、樹の背中を尖った爪でひっかく。なまぬるい女の膣を味わっているのは右半分の彼だけで、左の半身、波打つ心臓をきりきり舞させ、慣れない酔とドラッグの爆撃に耐えている健気な彼のほうは、無味乾燥に伸縮を繰り返すゴム人形の性器しか与えられていないのだった。
 不公平じゃないか!
 左半分の樹は叫ぶ。
……人生は不公平なもんさ。
 サフランオレンジの幻影がカプセルベッドの脇から樹木に囁きかける。
……クリームとショコラが地平線までずらっと並んでいると思ったのか?
 俺が何をした。
 樹は自己弁護の惨めさにうちひしがれながら叫ぶ。俺はあいつを愛してた。誰よりも彼女だけを。なのに裏切った。
……殺せ。
 サフランの幻影がのっぺりと崩れだし、目の醒めるようなグラン・ブルーが輝いて迫る。
 いやだ、と樹は首を振るが、燃えるブルーは不退転の青紫に凝縮し、月経の腐敗と精液の野卑に痙攣しながら、青年の五感をなぎ倒す。
……あの雌犬を。
 そうだ、と思う存分なまみの女を楽しんでいる右半身が同調する。女はあいつひとりじゃないぜ、ほら。
 見渡せば部屋じゅうに大股開きの女たちが薄笑いして樹を待っている。つぎはあたしね、まだベッドでつがったままの樹に媚びる。ジジがただでドラッグをくれるなんてあんた運がいいわ気に入られたのよそれすごく持続するんだってさ見てよこの娘もう気絶してるねえ次はあたしよわああおおおきいいい。
 放せ、とむらがる女どもから身をよじって立ち上がり、イソギンチャクめいてからみつく無数の指をふりきろうとあがく。
 あああおおおと判別できないたるんだ母音が、溶け出した視覚に女たちの肌色を歪め、腐ったデミグラソースの坩堝となって樹に追いすがる。びりびりと骨を揺るがす大音響の受け皿に山盛りされた女どもの喚き。そこに間歇的に投げ込まれる鋭い子音が、自分の喉から絞りだされるのか、アクメのてっぺんから突然蹴落とされた娘の怒鳴り声なのか、いずれにせよ切羽詰まった叫びは、だらしなくしなだれかかる長音の渦、ふてぶてしく食欲旺盛な母音、女なる音どもに呑みこまれ、錆びつき、粉々に散ってしまう。
 よろめきながら鉄の扉に激突し、絶望と欲望に蹴り飛ばされ、痛覚の麻痺した頭蓋骨、自分自身の頭蓋骨を、冷ややかに右半身の樹が持ち上げ、コンクリートの床に叩きつけた。

鼻の奥が爛れて、ひっきりなしに粘液が喉をくすぐり、痒みのような涙が落ちる。感情をともなわない涙は消毒薬の味がした。
 腹の上にだらんと垂れた肉塊がぶらぶら揺れ、その凋落と不摂生の象徴のようなたるみの不随意運動は、無我夢中で男をむさぼる女の体の一部とは思えない悲哀に満ちている。
(それで俺は泣くのか)
 だが、麻薬のために充血した粘膜の過剰反応だと思うよりは、ましな気がする。女々しいが、まだましな気がする。
 いったいこの女が何歳なのか、毛脚の長い絨毯をしきつめた部屋は薄暗く、針金の束のような蒼白いチューブライトが天井付近に申し訳程度の光をばら撒いており、そのため化粧とコスチュームでつくろった女の首から上だけ、全身の皮膚のゆるさとは裏腹に若く見える。
 樹の左右上下、絡みあう肉の呻きで満ち満ちている。いつしか轟音は消え、なまぬるい香料が聴覚にかわって嗅覚を刺激しはじめ、それと同時に乱交が始まった。
 なんていやな匂いだ、と樹は頭蓋骨の半分を砕かれた記憶を反芻する。自分で自分の脳味噌をひきずりだした実感は執拗なもので、とろんとした間抜けな豆腐みたいな固形物が指にこびりついたのさえおぼえている。
(いやな匂いだ。腐った酒みたいだ)
「性フェロモンのエッセンスに麻薬を混ぜたのよ。ウーの発明品」
 喘ぎながら女が唸る。口に出したつもりはないのに、声は樹の喉から飛び出てしまったらしい。
(そうだよな、左が壊れているんだ)
 くく、と女は紫いろの唇をゆがめた。
「あなたのことジジとウーが奪い合って…でも得をしたのはあたしね。ふたりとも両刀使いだから。結局ウーの女をジジが姦ってるし、ウーは…」
 女はべろりと舌を出し、樹の乳首を舐め、ほら、と尖った顎をしゃくる。その険のある輪郭に見覚えがあったが、砕かれた脳の激痛に記憶は圧し潰される。
 なげやりな視線を女の示す方角に流すと、サイケデリックな黄色とピンクが交錯する壁際で、黒い男が立ったまま白い女を犯していた。ジジは女の痩せた足首を持ちあげ、とても正確に何かのリズムを刻みながら腰を使う。
二人のファックは、ラスベガスのダンス・ショーのように派手だ。女の性器はつるつるに剃りあげられているので、はみだしたラビアの充血がまがまがしく男のものにからんでいるのがわかる。抜き差しするたび襞はめくれあがり、出血しているのではないか、と思われるような鮮烈な内側の色がてらてらと覗けるのだった。
 男の膝元で、目の吊りあがったスキン・ヘッドが胡坐をかき、長い煙管を銜え、もうもうと煙を吐きながら、じっと樹を見つめていた。淫欲に漬かった瞳が麻薬のあわいにちらつく。土気いろの顔のなかで、ウーの唇だけが紅玉いろに光っている。
「ウーはあなたにお熱なの? いいなあ、そしたら吸いほうだい」
 女は機械的に腰を使うのに疲れ、バイクから降りるように非情緒的な仕草で腰をひねった。まだ元気ね、これだからやめられない。
 女は指で樹の茎をしごき始め、くるりと向きを変えると、便器にまたがるように樹の顔に被さり、腿で青年の顔を挟みこむ。
 幻覚に喰いあらされたラビアは、蝸牛の死骸さながら暗色にしたたる。女のなかから分泌された夜露のような白濁が毛際にこびりついている。この女の生理が近い、と冴との営みで蓄えられた知識が教え、ようやく出血がおさまりかけた傷口を暴くような苦痛をもたらし、樹は懸命に、眼の前にたちふさがる女の肉に意識を引き戻そうとする。
 視界いっぱいに下腹部の脂肪。さらにその彼方にはみずみずしさを失いつつある乳房が攻撃的なWののかたちに揺れていた。攻撃的で狡猾なW。ラビアもWだな、と樹は左右の大きさがひどく違うべろをつまむと、大きいほうの内側には、ひややかなダイヤがいくつも埋めこまれていた。ふ、と女の笑い声が止んで樹は呑みこまれた。
 無機質な快感が膝頭からにじりよる。潤いのない快楽の微粒子がダニのように樹に喰らいついて離れない。なんで俺はここにいるんだろう、と青年はぼんやり考えたが、年増女の超舌技巧に思考は吸われ、ざらざら、ぞろぞろと数知れぬ蛭とダニが皮膚を喰い破りながら、彼を奈落へと引き込んでゆく。
 舐めるのよ。
 女の声は威圧的だった。樹は無感動に氷の煌きをくちびるに挟んだ。蛆の輝きってやつだぜ。青年は自分の味蕾にささくれる石の粒を、舌を動かして数えた。数えるたび女は息を弾ませケツを振る。
 きれいでしょう、と女は肉の厚い上半身を折り曲げ樹を見下ろした。ねじれた脂肪に雑巾のような皺が寄る。隠れたところに凝るのがあたしのポリシー。女の含み声が饐えたトリュフの臭いで吹きかかる。
 まんこの汚さが目立つだけさ。
 が、罵倒は樹の喉にしがみつき、酸っぱい胃液と乳繰り合うのに忙しい。痰と麻薬が腕組みし、樹の肺で爪研ぎしている。
 脱肛し、内側がめくれ出たケツの穴が剛毛の襟飾りをつけて威張っている。アナルセックスが好きなんだ。ふざけやがって。 
 ふいに麻痺していた感情が噴き上げる。殺せ、雌犬を。
 女は呻いた。
 焦らさないでよ。
「海老だ。どろどろの」
 できそこないのシュリンプカクテル。
 樹は深呼吸し、ウーの水煙管から洩れた阿片とアロマセックスの臭気を肺まで吸い込み、怒りと嫌悪に満ち、拒否と復讐に煮えた叫びを女のどぶに吐きかけ、逆流する汚物にむせびながら、虚栄の襞を噛みちぎった。

 竹内蘭は弟子たちに親切ではない。
 というよりも、蘭は弟子たちが期待し、予想するような教えかたをしない男だった。朱鷺と暮らすようになってから、またそれ以前から蘭の周囲には次から次へとさまざまな若者たちが集まり、それぞれの思惑を抱いて、教えを乞い、共演を願った。
 蘭は彼らを拒むことは殆どなかった。彼の表情をつかみにくい薄笑いが、ある瞬間には皮肉に、また別なときには優しさに満ちて見えるように、接する者の心情しだいで、彼はいかようにも姿と手段を変え。それぞれに異なった面を見せることができた。
 が、この人物のそうした洗練の意味を何人の弟子が洞察することができたろうか? 彼の、誰に対しても一定の距離感を保ちながら、その隔たりをミザントロープと感じさせないそつのなさすぎる物腰は、彼の人生が練り上げたちゃんとした一つの様式とも言えた。柔らかい言葉遣いや繊細な気配りは、単なるお愛想などではなく、まして内面の冷淡をつくろうポーカーフェイスなどではないのだった。
「先生はつめたいから。優しげだけど」
 あるいは、
「口は悪いけれど、心は温かい」
 などという弟子たちの視線は、朱鷺にしてみれば外れていはしないが、的を射たものとは思えない。
 蘭は手取り足取りの指導はしないが、彼の簡潔な、また逆にときには飛躍して迷走する弁舌は、教科書的な教示よりもはるかに奥行きがあり、創造性に富んでいた。
 音楽を語るのに、音楽とはまったく無関係な比喩、色彩の美度をマンセル色彩学により数値で換算するなどは、色彩を好悪で選り分けたがる素朴な主観を離れられないひとびとにはほとんど受け入れられない明察だった。だが、この数理色彩学は建築学、また意外なことに資本主義の最先端ともいえる商品流通の重要な急所だ。なぜなら、色彩は感情を、乃至は欲望を直撃するから。多くのひとは自分の感情を最も大事にしたがる。だから自分の心を左右する色彩表現を、非情緒的な数字で計算されるのを嫌がるのだろう。色彩の美度を測るのは、なにもそのひとの感情の多寡や優劣を判断するのではない、というのに。
色彩学は物理であり、また現象学ともいえる。事態をありのままに見つめ、聴覚において澄んだ和音を調律するように、視覚で色と色とのはざまの快適な距離を見定める。美しく、人体の自然な生理に心地よい美度を見分けるまなざしは、訓練しさえすれば…器質的に不自由な場合を除き、すべてのひとに可能だった。
 だから、忍耐強く、同時に聴く耳を持ち、蘭の滔々と繰り広げられる長広舌(彼はたいへんなお喋りだった)の流れから、要所を拾いあげることのできる者には、単なる会話の楽しみ以上の新鮮と、さまざまな蘭の修得してきた芸術の奥義を獲得できるきっかけになった。
 しかしながら、彼の言葉のなかで最も重要な部分は、弟子たちのいずれにとっても少なからず耳痛く、それまで彼らが培ってきた民主主義的な平均律を根底から覆す厳粛と心構えを要求されるので、彼の人当たりのよい会話術に魅せられていた者はしり込みし、あてがはずれ、見捨てられた、とさえ感じる。
 蘭は、ある程度まで人格と芸を切り放して考えることができるので、集まる弟子が多少情緒的に危うい者であろうと、技芸の伝授において見放すことはなかった。しかし蘭はまた、相手の才能を見抜き、それ以上の要求をしない。まるで弟子の到達度を計る正確なスケールのようだった。彼の眼は、ほとんど狂いがなかった。ワガノワバレエ学校を創設したアグリッピナ・ワガノワ、そのあとを継いだ名教師たちのように、彼は才能と根性を秤にかけ、過不足のない態度をとる。
 だから、蘭の教えから背いて離れてしまった若者たちは、ほんとうのところ、彼の辛辣や気まぐれに嫌気がさしたのではなく、自分にとって未知数であるものを、彼に見抜かれている脅えに耐えられなかったのかもしれない、と朱鷺は思うのだった。
 知らないほうが幸福なことは人生にままある。可能性というよろこばしい期待の裏側には、断念と限定、不断の努力という厳しい裏打ちがあることを、蘭は容赦なく知らしめる男でもあった。
「天才なんて雲霞のごとくいる」
 ある朝、ラジオから流れる学生音楽コンクールのピアノ部門に耳を傾けながら、蘭は呟いた。
 ベートーベンのピアノソナタをドラマティックに奏きこなす少年少女たちに、朱鷺は人のよい驚きを隠せない。毎年毎年こんなにたくさんの才能が生まれるなんて…。
「齋藤先生のところにはたくさんいた。だが、何かができあがるというのは、もっと奇跡的なことだ。それこそすれすれのボーダーラインなのさ」
 蘭はふと口を噤み、肘掛け椅子にもたれかかったまま窓の外に視線を泳がせた。つぶらな春の光に、ふくらみかけた猫柳の柔毛がきらきらしている。白梅はもう咲ききって、木の間に見え隠れする海の反射に溶け、波の振幅のはざまに春の枝はほのぼのと泛びあがっていた。
 去っていった誰かのことを考えているのか、と朱鷺は思う。来る者は拒まぬ彼は、去りゆく者に対しても未練を残さないが。
「寂しい?」
「いや」
 蘭は文庫本を拡げかけた手をとめ、老眼鏡ごしに朱鷺を見上げた。
「暗いところで本を読んではいけないって、わたしには言うのに」
 こんな瞬間の台詞は、内面の悲哀を押し隠そうとする圧力のために、ついつい強い口調になってしまう。
「暗くはないさ。ほら、ここは鏡のルフレで明るい」
 窓の反対側に姿見があり、日光はそれにぶつかって、鉢植えの影にゆるやかな光の窪みをこしらえていた。蘭はその淡い陽だまりをこっそりと偸(ぬす)むように腕と膝をひたしている。光線が白っぽい蘭のズボンに跳ね返って彼の顔をつつましく照らし上げ、セピア色の陰影が蘭の疲労をおぼろにしていた。
 夢と現が交錯するこのひととき、と朱鷺は浮遊してゆく感覚の快さに身を任せる。
 この一枚の絵、緑の万年青の影に背をかがめ、手鏡のような照り返しに面をひたす男の姿は、レンブラントの、あるいはカラヴァッジオ、あるいはヴァン・ダイクの誰が描いても不思議ではなく、またきっと描いただろうと思われる。瞑想する光はくすんだ暖かさと諦念を湛えて、蘭という男の個性を消し去り、人生に疲れつつ人生と戦い続ける人間の運命を素描していた。
 どうした、と蘭がくちをひらいた。朱鷺が幻に踏み込んでいる瞬間を蘭は見逃さない。そうして、彼は、朱鷺の幻影を壊さないように彼女をこの世へひきもどすために、ふとさりげない調子で言った。
「ピアノを奏いてやろうか」
 
 人間でいるよりは楽器でいたい、と朱鷺は願ったし、それは今後も変わらないだろう。蘭のゆびにあやされて、いつまでもこまやかに高らかにうたっていられたら。
 音楽には偽りがない。蘭のピアノは言葉よりも精確に彼の内面を教えてくれた。自分もまたそうでありたい、と朱鷺は思う。
 贅肉のような饒舌、ひからびた沈黙の両極を行きつ戻りつするいやらしさからどうしたら逃れられるのか。伝えたい思い、語りたい言葉、訴えたい心はあふれるほどなのに、口をついて出る台詞はたいていくだらなく、ありふれて空転するばかりだ。
 たったひとつの台詞が言えないので、人間は神経的多弁に陥る、と蘭は独白のように呟く。
 指が戯れそよいで皮膚がひらき、潤って濃くなった体臭が、腋下のくぼみからさっと匂いたつ。女たちの生理は、月のめぐりのなかでこの匂いの濃淡をくきやかに変える。柑橘類の植物質から、悩ましい獣の性腺にまがうまで。しかし朱鷺は蘭に指摘されるまで、自分のこうした蠱惑に無知だった。
 色の淡い花のほうが濃い香りがするだろう、と蘭はからかうように朱鷺の瞳を覗く。が、彼は正視に長いこと耐えられないので、たとえ二人きりでも、すぐさま恥らうように視線を右に左に遊ばせ、はにかみやの自分をかえって露呈してしまうのだった。
 性欲が忌まわしいものだとは朱鷺には思えなかった。性の抑圧によって文化が構築されたにしても。それならば建築の姿はその時代の人間の欲望の陰画なのか。摩天楼の、エッフェル塔の、ピラミッドの、紫禁城の、サンタ・マリア・デル・フィオーレの欲望。
 ねえ、と朱鷺は弛緩して眠りかけた蘭に囁く。性欲っていろいろなの。プレファブやフルメタルのセックスもあるし、もしかしたらピエタのようなまじわりもあるわね。
 なんだ? と蘭は鼻に皺を寄せて寝返りを打った。俺の膝に足を乗せないでくれ、おまえは昔飼っていた犬にそっくりだ…。

「僕も先生みたいに奏けるようになる?」
 約束の時間より早く来る舵は、蘭のジュルナリエが終わるまで待たされる。その間、なだれるようなピアノが木の家に響いている。
 ヴィオリノを勧められたが、舵はチェロを選んだ。
「あんなきいきい鳴るのは嫌だ。チェロのほうが大きいし」
 狂喜した母親は、まだちいさい息子のために、蘭の意向も聞かぬさきに、八分の一サイズのチェロを買い与えた。
「いいだろう」と蘭は頷いた。「ピアティゴルスキーも七歳から始めたしな」
 そうしたいきさつで、舵はおもちゃのようなチェロを抱え、岬の家に通ってくる。この子はこの家が気に入ったらしく、稽古の時間よりかなり早くやってきて、台所や居間の隅でおとなしくしている。一度、舵がキーホルダー型のミニゲームをしていたら、たまたまそれを見つけた蘭は、ものも言わずにスリッパで張り倒した。
「そんなものをいじっていたら、大人になる前に近眼と乱視で楽譜なんぞ読めなくなる。そんな暇があったら勉強しろ」
 誰にもぶたれたことのない舵は、チーズのように黄色くなり、ぶるぶる震えていたが、翌日蘭の許に、母親から車海老が届いた。
「あのお袋さんはちょっと変わっているが」
 蘭は海老を茹でながら上機嫌だった。
「がきは見どころがある。泣きもしない」
 根性なしに芸ができるか、畜生め、と蘭は胡椒を振った。
「あの曲はなに」
「ショパン」
「前もショパンだった」
「この前のはスケルツォ。これは練習曲」
 練習曲でこんなに難しいの、と蘭は目をまるくする。
「ショパンは特別なの」
 朱鷺は言ったが、ヴェルナーの教本をめくった舵は、まだ譜面が読めないために、そこにびっしりと書き込まれている音符たちが、ことごとくきらびやかでめくるめく音の噴水を描いているのかと怖気づき、だまってしまう。

 ウーが潔癖症なのであんた助かったのよと娘は言い、なまぬるいオレンジエードをくれた。
「あすこはね、何をしてもかまわないんだけれど失禁プレイだけは御法度なの。あんたがゲロ吐いたのを婆ァが漏らしたんだと勘違いして激怒の極致…」
 漂白したような顔色の娘は、化粧を落とすとまったくの童顔で、これがラバー・スーツをぴたりと身に着け、ブラディ・マリーを舐めていた娼婦とはとうてい、どれほど創造力を働かしても思えない。
 がらんとしたキッチンに、光だけは豊富にあふれ、床から天井まで硬質ガラス張りで内庭は熱帯植物園になっている贅沢な住まいに、住人はこの娘ひとりのようだった。
 台所には食物の匂いも調理の暖かさもなかった。一見掃除はゆきとどいていたが、食器棚や飾り棚にはうっすらと埃が積もり、そこにきらきらしく並べられ、家主の趣味と財力を誇示する陶器やカットグラスは、顧みられない博物館の置物めいてよそよそしい。
 娘は膝上までの長い桃色のカットソーをかぶったきりで、素足のまま冷蔵庫と電子レンジを往復し、紙皿にピッツァを盛った。
「要らない」
 原色の不協和音はあらかた鎮まっていたが、皮膚はいやな具合に火照り、酸っぱいおくびが絶えず喉を痙攣させる。痛くない関節がないので痛みを識別できないほど、樹の体はちょっとした動作のたびにぎいぎいわめき、ベッドに戻れと抗議するのだった。
 娘は起伏のない顔を詰まらなそうに歪め、太陽が床を幾何学模様に区切っている一角にべったりと尻をついて、煙草とピッツァを交互に口にする。立膝した脚の奥に、ちらちらと覗く誘いはあったが、樹はぼんやりと壁面いっぱいにあふれる広葉樹の繁みに見とれていた。じっと見ているとその影は紫に染まり、娘のカットソーの桃色は燃えるような赤に、また濃い緑に輪郭を変えた。まだ色覚が変なんだ、と彼は思ったが、神経がまっとうではないという自覚が、このとき、とても大切な希望のように感じられた。
「面白かったなあ、あの婆ァ。股を抑えてころげまわって、ファックしている連中に蹴られて、またわめいて、泣いて。あたしあの女嫌いだったのよ。ウーは怒り狂って阿片の瓶で女を殴りつけ、ジジが止めに入ると、今度はジジに喰いつくし。こういうパフォーマンスって、年にいっぺんくらいしか見られないのよね」
 よく喋り、よく喰う娘は、喋っているうちにどんどん若返り、だるそうな低い声と、陽光にあたためられて血色がよくなった頬の薔薇いろとはなんとも不釣合いになってくる。
 おもしろいな、と樹は娘の声につられて投げやりな思考に誘われる。この子は最初二十歳で、やってるときは三十の年増、そして今じゃどんどんがきに戻ってる。ほら、チーズの涎を指で掬う仕草なんか、食い気たっぷりの中学生だ。
 だが、スリムシガレットをマニキュアの剥げ落ちかけた指に挟み、顎を斜めに持ち上げ、樹を値踏みする一瞬の間を置いて、そろそろと煙を吐き出すポーズは、男に狎れきった女そのものだった。
 娘は空になった皿を足の指で器用につまみあげ、踊るような片足飛びでキッチンを横切った。
「空けてよ、バケツ」
 娘はテーブルに頬杖をついている樹に命令した。いやなやつだな、と樹は思ったが、何とか立ちあがり、やけに清潔なダストシュートの蓋をとった。
 違う、これ。
 娘は自分の足元の青いバケツを指さす。それは足踏み式のごみ箱で、蓋の上には几帳面な字で「可燃物」と書かれたシールがきちっと貼ってあった。
「婆ァがうるさいんだ」
 娘の挙げたままの足がぴくぴくと震えていた。長くもなく、すらりともしていない。脱毛の毛穴がざらつき、寒気にさらされる素足の皮膚は繊維のように丈夫だ。膝小僧は荒れて乾き、それでも若く、充実した足が、小刻みに震えながら樹の能動を待っている。
 食い滓のこびりついた紙皿が、爪先に宙吊りにされてふらふら揺れる。
 婆ァって、きみのママのこと?
 が、樹は愚かしい同情を捨て去ることに決める。彼は身体中きしませて足をひきずり、娘の横に立ち、ばしん、とバケツのペダルを踏む。口を開ける深淵。うずたかく積まれた真っ赤なケチャップとチーズソース。紙コップに滴るゆきずりの男たちの精液。
 娘は目を閉じ、痴呆じみた表情でくちを開け、樹に揺さぶられている。高い頬骨の下にピンセットで並べたような赤いにきび。
 化粧を剥がれた娘の顔はとても若く、とても新鮮だった。すこしも美貌ではないが、全ての女が何にもまして渇望する掛け値なしの若さが、頽廃の影を駆逐する。
 樹はごわごわしたカットソーをめくりあげ乳房を掴み出した。感覚が下半身に煮詰まりながら、男はなお乳房に、乳首にすがらずにはいられない。子宮はずるく、貪婪だ。男が放つ数千、数万の精子を呑みこんで飽和することがない。奪い取り、無慈悲に吐き出す女。
 だが乳房は。
 抱擁、包容、育む蜜の酩酊。与えられなかった至福の幻想。破綻を知らない豊穣のまろやかさが、堕落のきわみで彼を慰める。乳房は彼を慰める。
 噛んで、いくから。
 娘は恥骨をはげしくこすりつけ、立ったままいった。中腰で貫き続けた樹は、射精と同時に膝の痛みにうちのめされ、娘を抱えたまましゃがみこむ。
 くちを放すと、乳暈に歯型が血の粒を散らしていた。
「ごめん、痛い?」
「いいよ、すごくよかったから」
 樹が途方に暮れたように乳房の歯型を拭うと、ふいに娘は睫毛を伏せ、汗ばんだ顔を青年の胸に押しつけた。メンバーとは一回きりってきまりなんだけれど…やさしいね。
 樹は目をつぶり、その数瞬の嫌悪感に耐えた。

 煙草を買ってくる、と言ってジャケットをひっかけた樹を娘は止めなかった。毛布を巻きつけ、眠たげな半眼にごまかし、ふかぶかと寝具に埋もれた彼女の視線は、わかっている、と呟いていた。
 きっと、もう何人かの、何人もの男たちがそう言い残して彼女のベッドから出て行っていたに違いない。娘の寝室はテディ・ベアのコレクションであふれ、その横にはアニエスbの衣装が無表情な影を投げかけていた。贅沢で孤独なこども。爛れた性器と未熟な乳房、そして窶れた乳首が樹の未練だった。
(そうだ、俺はあの娘を抱きたい。何回でも、何十回でも)
 個性に乏しい平凡な容姿の娘の、ただセクシャリティだけが、樹のすさんだ心に釣り針をかけ、戻ってゆけとそそのかす。誰でもかまわない、俺をなだめてくれるなら。
 いつしか暮れなずむ夕陽が、ベイブリッジの半円を朱に染め、非現実的な無機質で空を刳りぬいていた。未来都市の稀薄で余裕のない落日は、加熱の完了を告げる電子レンジのチン、という響きを伴って没してゆく。
 きみ、いくつ?
 十四。ほんとは今年中三になるんだけれど、だぶっちゃったから、また中二……。
 チン、とはじけるピッツァの匂い。
 やめてくれ、冴、レトルトはうんざりだ。
 間男にへし折られた肋骨の疼き。
 フラッシュバックの恐怖がかさこそと忍びよる。
 グラン・ブルーの殺人教唆。
 俺は何であそこに行ったんだろう、と樹は考えるが、あそことはどこなのか、それさえももはや明確ではなかった。

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