さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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海の器 vol9 Claire de Lune

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Claire de Lune

 月の城裾ながく寝むまなざしは
   青い魚伏す珊瑚のやうに


「ヴァンカ」でのペルフォマンスを見た、と冴は鼈甲の吸い口のついたプラチナのシガレット・ホルダーに煙草を嵌め込みながら物憂げに言った。彼女はVa,という音をことさら丁寧に発音する。そのため弓なりのくちびるがすこし緊張に、泣き出すような、なにかをせがむような感じでつぼまり、口紅で縁どられた内側の粘膜がちらりと覗けるのがひどくなまめかしい。
 海沿いのテラスは閑散を通り越して人気がなく、惜しみない静寂をくれたが、季節はずれに熱帯植物の鉢がいくつも並んでいるラウンジの、夏の間だけ爽やかな印象を与える青と白、それにカドミウムイエローの取り合わせは、春浅いこの時期にはさむざむとしており、厨房の食器やガラスを砕くように冷たい。
 カウンターには木綿のエプロンをつけた男が所在なげにラッキー・ストライクを吸い、空調の具合が悪いのか、煙はいつまでも男の周囲にわだかまっている。湘南にはよくいる年がら年じゅう日焼けした風貌で、脱色してごわごわした髪を襟足で束ねている。これほどこんがり焼けていると、男の目鼻が整っているのかどうかは問題ではなく、彼を見る女は、いかにも精力的になめらかな褐色、丈夫で明朗な皮膚にのぼせあがるのだろうと思われる。男は皮膚の上にもう一枚、精悍な夏を身につけているようだ。それはいかにも筋肉質の彼に似合っていた。
 男の前には常連らしい娘が尻を突き出すようにスツールに坐り、だらしなく膝を組んでいた。男が灰皿に煙草を置くと、彼女は狎れた手つきでとりあげ、自分の口にくわえるが、見せ付けるような馴れ合いのジェスチュアは、きっと窓際の女たちへのひりつくような好奇心と警戒心のためだ。
 朱鷺と冴は場違いな感じで座っていた。海辺のラウンジはマリンスポーツを楽しむ若者たちがエネルギー補給するためのとまり木で、インテリアと呼べるほどの装飾もなく、傷だらけの床板や、白いペンキ塗りの椅子などすべて急ごしらえの感じがする。しかし、何が足らずとも、店は大きく海を抱いていた。客たちは、簡素な店内に目を向けることなどなく、ただうっとりと、青く輝く大海原に見惚れてしまうに違いない。
 その海を借景にして差し向かいに座る朱鷺と冴は、常連の娘にとっては、何か自分の居心地の良い日常への侵犯者に感じられる。ライフ・スーツから水滴をしたたらせて、あわただしくピラフやスパゲティをかきこんでゆく普段の青年たちとは違う空気を娘は感じ、いらだたしげに髪をいじる。
 気になってならないが、露骨に視線を向けるのは気恥ずかしく口惜しいので、娘は肩をいからせて男の吸いさしをフィルター近くまで吸ってしまう。そうして、アイス・ティーのグラスに後ろを映して、見たくもないがつい覗く、見まいとする抑圧のために、より臆病で執拗になったまなざしを注ぎ続ける。
 冴は、マンディアルグのヒロインのように頑丈なレザージャケットを肩にひっかけ、その下はレースのコンビネゾン一枚だ。銀灰色の繊細な唐草が肉体の起伏をなぞってはびこり、その花輪は、冴の両乳首の周囲で頽廃的に開いていた。
「どうしてあんな風に泣けるの」
 冴は煙草に火を点け、うっとりと吸い込んだ。彼女の先細りの手は、しっかりとした肩幅とは対照的に華奢で、磨き上げた爪はコンビネゾンと同じ銀色。真っ赤なルージュがただ一色、彼女の攻撃的な洗練をひきたてて光っている。
「本当にかなしいから。わざと涙を流すのではなく、わたしはむしろ泣きたくないんだけれども、物語のなかに入ってしまったら、もうそれっきり」
 冴は、どうしてあんなふうに笑えるの? とは尋ねないのだった。これほど美しい彼女にしても、寛容のメモリは高いとはいえない。が、その酷薄ゆえに彼女に注がれる周囲のリビドーの嵩が増すということを、冴はよく承知していた。吝嗇のほうが金はたまる。
「なりきってしまうわけね」
 と乾いた声で冴はつぶやいた。サングラスをかけた彼女の表情がつかみにくいので、朱鷺は不安になる。不安になると、朱鷺は自分の手を見る癖があった。冴とは逆に、朱鷺の手は、身体つきのかぼそさの割にはしっかりしている。爪もまるい。薄く華奢な薔薇色の爪は、マニキュアなしでも幼児のようにほのかな光沢がある。静脈の透けるてのひらは、ふっくらとして落ち着きはらっていた。だが左手首には、うっすらと剃刀の傷痕がある。このリストカッティングは蘭と出会う以前のものだ。いつだったかもう忘れた。傷つきながらも落ち着いた手。自分の肉体の一部が、自分自身の心をなだめてくれることはある。
鏡に映る自分の姿がうつくしければ、不協和音のひしめく現世を生きるためには、もうそれだけでかなりな果報にちがいない。もっとも、その果実をどのように味わうか、は当人の謙虚とかしこさに比例する。せっかく神のあたえたもうた果実を、だいなしにしてしまう逸脱は、世にまたなんと数知れぬことだろう。みづからの手首に押し付ける金属刃の愚かなヴァリエーションなど綴りだしたらきりがなかった。
「スケジュール、どう?」
 冴は売れっ子になりかけている。セクシャリテを逆手にとったパルファムのポスターはヒットして、街のそこかしこのウインドーで彼女の顔が冷たく笑っている。いや、睨みつけている。そして、カルメンはなぜか男の子が買う。それもガールフレンドへのプレゼントとしてではなく、自分がつけるものとして買っていくということだった。
 冴の声はとげとげしく続く。
「写真集が五月に出て、それからコマーシャル、CD―ROM バラエティーショーの出演依頼、ドラマに出ないか、とも」
 次第に朱鷺はこの場の息苦しさに滅入ってくる。まるで別れ話を切り出そうとして逡巡するカップルのようにぎくしゃくしていると朱鷺はレモネードの氷をかきまわす。溶けかけた氷が爽やかさとは無縁の水っぽい音で崩れる。冴はわざと乱暴に言葉を放り出す。青く冷たいラウンジに、冴の台詞は感情の末端からほつれ出た糸屑のように散らばり、その散乱をウェイターが職業的な無関心さで掻き集め、からのグラスといっしょにアルミの盆に載せて運び去ってゆく。そうして、朱鷺は何ひとつ冴の言葉を聞き取ることができなかった。
「メンズのショーだけれどマヌカンが着るの」
 冴は唇をひきしめて笑う。傲慢な笑いだ。新しい世界、新しい食卓で彼女はほしいままに美味を喰らっているのだろう。憧憬はもとより、賛辞、阿諛、秋波、上昇してゆく者への周囲の嫉妬も彼女の美貌を調味するだいじな香辛料だ。冴の視線は、今朱鷺を見ていない。この笑いが朱鷺には歯が立たない、ということも冴は本能的にわかっているからだ。
 だが、いたぶりたがっている。無関心ではいられないからいじめたがる。朱鷺の感受性に、冴の情緒は錆びた画秒のように突き刺さる。
(未熟な愛情表現)
 朱鷺は自分に言い聞かせる。愛情、と表現、のはざまに希望的観測の海風が吹き抜ける。何も期待しなければ恋は甘い、と蘭ならば皮肉るだろう。
 ガラス越しに太陽は固い円形に輝き、放射される光線が鋭角に海面を貫いている。愛の言葉の代りに相手をいじめてしまうひとがいる。自虐を伴う可虐は、不完全燃焼の炎のようにいやな臭いだ。
 海は青く、春の気配にやんわりと水平線を暈すなかに、ウィンドサーフィンの帆が、海岸で羽化した羽虫のように、いくつもいくつもひらめいている。その光景は、彼女たちの時間が綯い合わされた初めの季節をありありと思い出させたが、朱鷺は自分の身内を貫いてゆく感情の色合いがわからなかった。
 冴が怪我をした鴎のように感じられる。隅々まで念入りに磨き上げた姿とは裏腹に、彼女の額は乾き、こめかみや顎の皮膚のくすんだすさびは、薄化粧では隠せなかった。
 朱鷺の瞳が次第に曇ってくるのを見澄ました冴は、ディートリッヒのようにシガレットを斜にくわえるが、すべての仕草が撮影のコムポジションに決まってしまうのは、かえって彼女の存在を空虚に感じさせた。ロマネスクなポーズに精神がついてゆかない虚しさ。
 等身大のポスターと対峙しているような違和感を味わい、朱鷺はなんとかそれを払いのけようとするのだが、自分の心もまた稀薄にここから逸れだしてゆくのをとめられない。適度のデペルゾナシオンは、自己防衛に欠かせない。精神を象る言葉は自尊心の変形。朱鷺は詩句のような響きを持つ単語を口のなかでころがして自分を守る。
 目の前の冴が平面的に美しければ美しいほど、この場の情緒は遠近感を欠いて浮遊してしまうのだった。
 呼応するかのように、ウエイターがそそくさと片付けてしまった丸テーブルの光景は、出て行けよがしにうつろになった。なぜか紙のコースターを一枚だけ彼は残してゆき、グラスから滲み出た水滴がかたちを残してテーブルの木目に拡がり始めている。日曜大工であらっぽく打ちつけたような橡のテーブルだ。水滴の溶け出した円形が、降り注ぐ陽射しにゆっくりと輪郭から干上がってゆくのを、朱鷺と冴はしばらく黙って見つめた。ここの次に始めることはわかっている。

 レスボスの女はセンスがない。
 知っているの?
 俺は十代から芸人で、おまえなぞ想像もつかない社会の闇を見てきたんだ。
 センスがないなんて。
 つまり社会的な美度がないのさ。彼女たちはマージナルだから、おのずと身なりもそれにふさわしいものになる。自分たちははみだしている、とアピールせずにはいられない。サブリミナルにだろうがね。よくこんな衣装を売っているな、というしろものを着ている。
 じゃあ…冴は俗に言うレズじゃないのね。
 そうだ。
 あたしは。
 おまえは変わっているところなどどこにもないじゃないか。マージナルというのは社会に表だって楯突くことだが。
 冴を好きだ、ということと同性しか愛せない、というのは違うのね。
 ディートリッヒの言葉は的を射ている。男女の別は無関係、魅力的な相手を選ぶというのはね。リビドーの強さが問題なんだよ。同性を愛せる、というのは自分のなかに異性のまなざしが持てるからだ。あるいは…
 そこで蘭はすこし言葉を区切り、
 男性のまなざし、というのは女を人格から切り放して快楽と繁殖の対象としてのみあつかう、という残酷もある。物化だ。精神性など求めない。だが俺たちをなじるな。繁殖のために感情の黙殺はいくばく必須な手順なんだ。同性愛は繁殖を求めない。だから、もっともらしくこじつけるなら、快楽と精神の自然な調和ともいえる。
 自然? 生殖とは無縁なのに?
 インモラルもナチュレルの一部だ。世界はひろい。
 蘭は小鼻をひくつかせてお茶を濁す合図をした。朱鷺は対話をやめようとしたが、そこからさらに蘭は付け加えた。
 女は業が深いからな。自分のなかに異性のまなざしを持てるというのは、ある意味で自分自身の救済なんだ。わかるだろ、でなかったら、競争心しかない、もしくは優越と劣等のかけひきだけさ。

 冴の皮膚はブロンズのような匂いがした。
 三ヶ月もの間、お互いに連絡を取り合おうとしなかった依怙地を双方で恨んでいたが、朱鷺も冴も自尊心からそれを責めることができない。冴は自尊心を優越感にすりかえようとしていたし、朱鷺は現実逃避と紙一重の内向性によって自分のホメオスタシスを守る。けれども、いつもと同じように膚を合わせてしまうと、肉体は心よりはるかにのびやかに走り始める。
 解放は突風のようにやってくる。かたくなや傲慢を追い越し、なぎ倒し、もつれさせ、ふたりをたかみに押し上げる。初めのあって終わりのない快楽。内側を凌ぎあわない愛撫のもどかしさが、幾重にも幾重にもふりつもって空虚を満たし、違和は弛緩してゆく。
 朱鷺は両腕を冴の背中にまわした。冴が朱鷺を犯すような姿で腿が密着しているが、貫きの終止符は打たれないまま、ただ貝合わせの脈拍が、いつまでも愛のリズムを紡いで蠢いている。主導権をとりたい冴は、もどかしげに冴の肩をつかみ、シーツに押し付けるように上半身に体重をかける。この子を圧倒したい、と。
 ああ、と冴のこめかみに汗が粒となって滲む。勝手に動くのがわかるわ。
 ひとりでにしゃべるの。
 朱鷺は膝をあげて冴の体を股の間にはさんで揺さぶった。しめったミュルミュレが恥骨の下でくすぐるようにたぐまり、冴はゆっくりと息を吐く。
「朱鷺の髪は柔らかいから痛くない」
 そして薄目をあけ、わたしのせいで怪我をしないの? と尋ねる。冴はやさしい。触れ合いが彼女をやさしくしている。
「潤っているから」
 朱鷺はそれでもそろそろと自分の指を重なった部分に忍び込ませる。冴の尖りも襞も、朱鷺のそれより倍は大きいので、朱鷺は自分の器を守るより先に、冴の敏感な部分をつまんでしまい、冴はまた身震いする。
 何度いったかしら
 冴は指をほしがり膝をしめる。朱鷺は目をつぶり、わからない、と応える。いつもてっぺんから始まるが、どれが頂上で、どれが極めなんてわからない、と。
「朱鷺と逢ったあと変になる」
 朱鷺は冴の痩せてしまった背骨を撫でる。肩甲骨が目立つほどではないが、背骨の隆起がいたましく、てのひらのなぞる華奢な触感は、まるで我と我が身を愛しているような錯覚をくれる。
 朱鷺としたあと、とても…。
 冴のつぶやきに朱鷺は目を開け、彼女の瞳を覗く。瞳孔がひらきかけ、痙攣すんぜんの潤いに光る。つかめそうな長い睫毛、と朱鷺の記憶に繰り返し刻みつけられた、誰かと誰かの面影が、充血した粘膜の縁をかすめて浮かび、すぐ消える。
 朱鷺はおずおずとした微笑を湛えて冴を見上げる。いつもながら、この輪郭の濃い彼女と膚を合わせることにちいさな躊躇いがある。
肉体をかたどる光と影の陰影は、冴のキャラクターのいたるところで目に快い鋭角を描いていた。なんてきれいなひとだろう。
 けれども、しなやかな首を曙いろに染めて恥らうのはなぜか冴のほうなのだった。冴の抜きがたい性的なコンプレックスが彼女を怯えさせ、朱鷺ほどには奔放になれない自身を恥じ入らせる。こうして、いっときにせよ満たされることは、自分の空虚をあからさまにされる、と冴は感じ始めている。そのためにクライマックスがにじりよると、冴は挑戦的に荒々しくなり、朱鷺をしめころしたいような顔つきになる。あたしを揺さぶらないで、と。
 冴は逃げ腰になるが、同時に攻撃せずにはいられない。朱鷺を押えて冴は離さない。手首がちぎれてしまう、と朱鷺が訴えると、冴はひどく嬉しそうに笑う。箍を逃れた冴は、朱鷺もまたこのラヴァンドにとろかされた幾刹那にひきずりこもうとがむしゃらに跳ね、自分と相手との均衡をなんとか保とうとする。
 朱鷺が決して狡い表情をしない、ということが冴のひそかな嫉みだ。

「あたし、樹に殺される」
「……」
「わかっているのでしょう」
「わかりたくない」
「なぜ朱鷺はあたしたちをゆるせるの」
「それは真実だから、それも」
「真実ってなに」
「樹といる冴はほんとうに生きていると感じられる。曖昧に、中途半端に、ではなく、ほんとうに生きていると」
「生きることを実感するのが真実?」
「今のわたしにとっては」
「かしこい前置きつき〈わたし〉ね」
「今の、が?」
「逃げ道を未来に作る。あなたの年齢にしては上出来」
「冴はいくつ?」
「十月になれば二十三歳」
「わたしはこの春で十九」
「それなら過不足ないわ。朱鷺にとっての真実って快楽主義と紙一重、いえそのもの?」
「そうじゃない。快楽は痕跡をとどめない。その場かぎりの快感は毎日繰り返される食事や排泄と同じで、あとを残さないものよ。それが悲哀でも歓喜でも、生きている時の流れにはっきりと刻みこまれるものが大切なんだとわたしは感じる」
「苦痛であっても?」
「愛するって、傷つけあうことでもある。愛することは痛みのよう。植物だって太陽の光をいくらかは痛みだと感じているのじゃないかしら。でなければ、どうしてあんなふうにすくすくと変化したり、成長したりできるかしら」
「朱鷺のように考えられたらセックスは素晴らしいわね。わたし、あなたと逢ったあとで、いつも樹とするの。快感は倍加して……そして苦痛も倍になる。いつまでわたしはこれに耐えられるだろう、と。わたしたちには出口がない」
「百年の孤独」
「文学で茶化さないで」
「出てゆかなければ永遠に楽園」
「その言い方、蘭さんそっくり」
 いらついた冴は朱鷺の乳首をつまんでかるくひねる。朱鷺は薄く笑った。冴の指から朱鷺のからだの芯に疾走してゆく青年の残像。冴の愛撫の手つきは朱鷺と樹を隔てないだろう。ここに嫉妬はない。だから朱鷺はぬけぬけと言った。
「鎮痛剤よ、引用は」
 そしてそのあとで、眉を寄せた冴に向かって、
「あなたが哀しむのはつらい。あなたに悲劇は似合わない。だから」
「だから」
「樹は冴を殺さない、殺させない」
 冴はシーツをからだに巻きつけ、顎の下に頬杖をついてつぶやいた。
「あたしたち、ちゃんとお互いの年を言い合ったのは、もしかして初めてよね」

 すやすやと寝息をたててしまった冴の額に、じっと息をころして唇をおしつけていると、夕闇の冷たさが背中からひそひそと押し寄せてきた。冴は朱鷺よりずっと大柄なのに、愛撫のあとでは朱鷺に包み込まれるように眠る。
背中をまるめたその姿は偶然だが蘭の寝相と同じだ。恋人たちの思いがけない相似は、朱鷺のこころにいくらか罪深さを呼び、長い猫のような姿の冴の向こうがわに、彼女を所有している青年への息苦しい実在も、愛撫の最中より、今のほうがはっきりとせりあがってくるのだった。
 樹の眠りは冴よりも深いだろう。朱鷺は冴の男性用オーデコロンに包まれた体温の向こうに、カルメンの誘惑を緋色に纏ったドン・ホセを眺める。そうだ、このようにして冴はずっと自分のうしろに竹内蘭を見つめているのに違いないという確信が湧き上がり、朱鷺は自分の鈍さに呆れる。わたしは蘭の半身。そして冴は樹の。
 わたしたちの快楽が頽廃しているというのなら、それはこの交わりそのものではなく、互いの向こうに、手に入らない異性のまぼろしを描きながら愛を紡ぐことにあるのだろう、と朱鷺は海にさしのぼる朧月夜を眺める。心の視野に月光と樹とは等距離で眺められる。
 ……男女の交わりだって変わらないよ、と薄紫の夕月が応える。春の月夜は朱鷺の味方をしてくれる。
 まったく純粋な愛情などないだろう。君たちはお相手を選ぶのに、その社会的な能力、容姿、財産を測る。どれもみな、肉体を結び合う部分とは無縁なものだ。愛し合うために君たちが分け合うものは、じっさいにはほんの一部に過ぎないが、そこに至りつくまでには、とてもわずらわしく、また杜撰な計算行為をする。肉体の背後に虚妄なまぼろしを貯めこんでから物語を始め、見晴らしのよい高みにいるはずが、なぜか骨と腐肉にまみれた墓場とぬかす皮肉はいくらでも聞く。それともあれは冗談なんだろうかね? 
 初め柔らかだった月はぺらぺらと喋りまくるうちに底意地の悪い口調になり、聴きづらくなった朱鷺は、月明かりに向かって、もういい、と呟いた。朱鷺の険しい顔色に、月は上目遣いに、ひそひそとまとめた。
 ……交わりに理非善悪などありはしない。偶然と必然は表裏一体の運命なのさ
 運命、という言葉は多用されると安っぽくなる。使用頻度に応じて、居丈高な言葉は情感の裏打ちを失い、ポスターカラーさながらあっけらかんとした原色に近づく。朱鷺は月から顔をそむけた。
(出口のために愛するわけじゃない)
 死がふたりを分かつまで、というささやきが誘惑のように聴こえた。誰の声だろう。朱鷺自身の声だとしたら、どこかに姉と弟の神話的結末を待っている気持ちがあるのかもしれない。それは個人にはコントロールできないサブリミナルな意識層からくるのに違いない。タブーを侵犯した者たちのたどる、かくあるべき筋書き。しかしキャラクターとして無意識の水面上に浮かび出た朱鷺の心は、殺戮など毛ほども望んでいないということも事実だった。ひとは常に両義的な存在だ。意識は無意識によって支えられ、同時に相反するベクトルで互いを牽制する。抑揚の結果、勝利をおさめるのはどちらだろう。どちらでもない平和なFiniがあるのなら、タブーにしても、ゆっくり燃えるのがいい。
 月のおもてに虹がゆるくかかり、長い絹雲には、まだうすらかにたそがれがとどまっている。藍色に暮れた上空を、ジェット機が天体の破片のようにストロボを赤くきらめかせながら横切って消える。海づらには月光の澪が、水にひたしたリボンのように愛撫の余韻を映してゆらゆらと漂う。
 煙草と酒の匂いが濃い冴の部屋には香りがない。朱鷺は今、何かの花の香が恋しかった。春のいきいきとした土の感触を伝える菜の花や、つぼすみれのつつましい香気を、今ここで嗅ぐことができたらと願った。

 君はこの季節にシャツ一枚でバイクに乗るのか、と竹内蘭はポットから珈琲を注ぎながら樹のはだけた胸をちらりと覗いた。
「インフルエンザが流行してたくさんひとが死んだ」
 樹はキリマンジャロの香りを肺いっぱい吸い込み、海岸どおりをつっぱしるうちに四肢の末端までしみついてしまった排気ガスを振り払おうとする。寒くはなかった。指先が震え、爪先がじんじんするのは寒気のせいではなく、濁った騒音と排気ガスのせいだ、と彼は思った。くちの中で砂がざらざらする。
「道路みがきはたのしいか」
 蘭は絹をはった寝椅子にゆったりと背中を預けると、寛いだ表情に皮肉な口調で青年を揶揄する。樹はじっとおしだまり、クリーム抜きの珈琲をすすったが、蘭の厭味は疲れ果てた彼にとり、カフェインの苦さと等質の快い刺激となった。蘭はちくちくと容赦のないあらさがしの眼で青年を眺めるが、木綿のシャツに洗いざらしのジーンズという樹は、そっけない身なりのなかに、どこか育ちのよさが感じられた。誇示とは無縁の優雅がちからの抜けた腕、自然に投げ出した膝のラインに澱みなく流れている。
 優雅さは学べない、それは天性のものだ、とニジンスキーは言ったが、と蘭は初めて間近に見るむき出しの樹に感嘆せずにはいられなかった。青年はよくよく見ると、荒い顔だちのなかに爽やかな幼さを残していた。浅黒い頬は乙女のようになめらかで、こわい髭がこめかみから顎を青く翳らせているが、それさえも早すぎる老成を自分ではにかんでいるような地肌の桜色を際立てずにはいない。
 なるほど、これなら冴の相手にもなろう、と蘭はロココの風の薔薇色のカップに鼻の先を入れ、乾いた粘膜を珈琲の湯気で労わったが、その仕草は葡萄酒のブーケを愉しむように気取っていた。
「冴が男と寝ました」
 ざらめを入れるかね、という蘭の言葉と同時に吐き出された樹の呻きに蘭は目を剥いた。
 暫く沈黙が落ちた。かたかたと季節感が窓枠を揺さぶる。どこかで猫の恋歌が始まるのをきっかけに、蘭は神経質に耳のうしろを掻きながら、
「何故わたしのところへ?」
 うつむいていた樹はぎりっと目を上げた。動かした骨格のきしみが聞こえるのではないかと思われるほど苦しげに頭を振り、
「あなたじゃないか、と思って」
 は、と蘭は手を打ち合わせて笑う。が、樹はこの男が少しも笑っていないことを見極めていた。薄笑いしているのは樹のほうだった。かわいた微笑が彼の激情から遊離して浮きあがり、ぴくぴくと片頬を震わせる。
「それは、嬉しい誤解だが、そんなことを君に言うのは失礼だな」
 蘭の額に刻まれた皺を、樹は秘められた手紙のように読む。苦渋と老齢が動かしがたい威厳となった男の貌を、樹はぶあつい手紙の束か、重厚な装丁の書物のように凝視する。この男の欠点を見たい、と青年は憎む。ぬけぬけしたギャラントの仮面を引き剥がし、内側の卑屈を掴みだしたい、という憎悪が彼を昂ぶらせ、全身に殺気をみなぎらせてたちあがり、隠し持った白刃をジーンズから抜き出す。
 鋼のひややかなエッジが暖かく彩られたサロンの真ん中で喘ぐように輝く。握りしめた手から、憎悪はなめらかにクーパーのきっさきへ満ちて行き、苦い寝取られ男を凶暴な征服感で満たす。蘭は珈琲カップを手にしたまましなやかに身体をひねり、ほのぼのとたちのぼる湯気に斜に構えた貌を隠すように、樹をうかがう。その瞳がすうっと細くなり、一条の白い線になる。蛇の眼だ。樹は脅え、恐怖は必然的な殺意となって、青年はナイフを腰にひきつけて体重を預け、飛んだ。
 一閃をかわしたあとの蘭の身ごなしは凄まじかった。自然な攻撃欲求に憑かれた樹の虚空をきった肘の関節を、蘭は文鎮で殴りつけ、痺れと痛みで思わず樹が取り落としたクーパーを後ろへ蹴りとばした。
 ふざけるな。
 蘭の怒鳴り声はそのとき初めて発せられた。樹は逆上して殴りかかる。けれど、放心している朱鷺の毅然とした優雅とはうってかわって、憤怒に我を忘れた青年は隙だらけで、振りあげた拳はまたしてもむなしく円卓にぶちあたり、かるがると身をかわした蘭は、狙い定めて青年の膝を蹴りあげた。原色の苦痛が樹の全身を揺るがし、彼はなす術なく膝をついてしまう…。

 薄闇は刻一刻とヴァルールを深め、なだらかな暗さが慰安のように冴の眠りを抱きとめていた。朱鷺はするりとおきあがり、音をたてずにベッドから降りる。朱鷺をとおして自分とのしのぎ合いに疲れた冴のぐったりと放心した喉から洩れる寝息は、弱々しい夜のささやきのようだった。
 朱鷺はしばらく冴をみつめた。もう離れようか。お互いの影が深くならないうちに、さらりと別れようか、と。同性愛は往々にして気晴らし、レクリエーションになってしまう。慰安、退屈しのぎ、それでも差し支えはないが、朱鷺は頽廃した冴を見たくはなかった。芸能界の水にうまく狎れてしまえば彼女の行く先は見えている。世間的には成功だろうし、奢侈には事欠かない。
(でもわたしの好きなこのひとじゃない)
 朱鷺は痛みの感情なく、自分にささやいた。
 それにしても、かたちにはそれに応じた影が映るように、人間同士も生まれ持った器に相応の影を曳きながら人生を歩むのは自然の理とはいいながら、やはり不思議なことだ。   
 緑には赤が映り、黄色は青紫に翳る、という生理現象は、一瞬にして人間模様を解き明かすアフォリズムにもなる。
(冴、あたしたちはいつまでいっしょにいられるかしら)
 死がふたりを分かつまで。
 それはさっき聴こえた声とは違ったニュアンスだった。自分と冴とのことではない、と朱鷺は思う。たぶん…まひるのランチのあいまに、朱鷺と冴との間をかろやかに吹き抜けていった希望的観測の海風かもしれない。
 冴のような娘を、周囲はいかなる意味でも放ってはおかない。手に入るべきものは入り、縁のないものは、どれほどあがいても得られない、と蘭は言う。
 樹のための言葉ではないか、と朱鷺は目を伏せた。星屑がきらめきこぼれて、月はもうここからは見えなかった。海面に滲むあさみどりのルフレが、ひっそりと月の居場所を教えてくれたが、朱鷺はうなずいたまま、帆の白い影になって姿を消した。

「君はもっとかしこいと思っていたが」
「かしこくなんかありませんよ」
「まだわたしを殺したいか」
「いいえ。俺はあなたじゃないなんてわかっていたんだ。でも冴はあなたを好きだ。ただそれだけです」
「いい迷惑だ」
「冴は俺から離れていこうとしている。だけど俺はあいつを殺せない」
「だから代わりに?」
「殺すなら自分を殺せ。だいいち、冴はほんとうに君を裏切ったのかね。嘘をついたのかもしれないよ」
「まさか!」
「樹、愛のかたちはさまざまで、本人にもわからないことがある…すごい月夜だな」

 爆音が砂ぼこりを巻いてふくれあがり、沈丁花の香りを追い散らした。
「なぜ」
 樹はヘルメットのまま叫んだ。
「あなたとはうまい偶然で会うんだろう」
 朱鷺は岬に輝く我が家の明かりと、坂道を走り下りてきた樹とをかわるがわる見た。
「それ蘭さんのオーヴァーコート」
「借りたんだ」
 何をしたの、と朱鷺の視線が問い糾すのに、樹はヘルメットに表情を隠したまま、聴き取りにくい声で、
「蹴られて、肉を焼いてきた」
 エンジンが不平がましく唸り続け、何かせかされるような気持ちで樹はハンドルを握りしめ、まだひりつく鼻を啜った。
「喧嘩したの?」
 朱鷺の眼がまるくなると、樹は口をへの字に結んでかぶりを振った。ともすればこぼれる自嘲を相手に見せまいと、唇をひきしめる。
「かなわなかったけれど」
「どうして」
 どうして? 樹はどうしてだか思い出せなかった。結局俺はあのひとに会いたいから、あの人に殴られたいから、わざわざナイフを忍ばせて小田原から出てきたんじゃないか、と思った。
「俺は竹内さんが嫌いだ」
 朱鷺は樹を咎めるようにその手に触れた。手袋をしていない青年の手は冷たい。朱鷺がそれとは知らずに手の甲の傷に触れると、樹は息を詰めて痛みに耐える。その気配を察して、
「蘭さんに?」
 彼女の声には同情がなかった。その方がいい、と樹は顔を背けて苦く笑う。
「俺に触った」
 相手がきょとんとするので、樹はこれですこしばかり蘭に仕返しできると思う。それにしては姑息なやりかただが、朱鷺を今ここで強姦する気にはなれなかった。
(かまやしないんだけどさ)
 樹はついさっきまで厨房で肉を焼き、それを上機嫌で平らげる蘭の給仕をさせられていたのだった。なんていやな爺だと心中で罵りながら、力の劣る相手を傷つけずに屈服させた蘭の手練れは、樹を敗北感よりは感動で満たし、従順に洗練されたギャルソンを勤めずにはいられず、そうなると罵声は求愛にも似て甘美だった。
 できそこないのがきにしちゃ、焼きかたはいい、ポタージュがだめだ、と遠慮なく毒舌を散らしながら葡萄酒を傾ける蘭を、樹は抱きしめたい、とさえ思った。抱きしめて絞め殺したい。が、樹のような若者にとっては、それこそが親愛というものだった。
 青年は月光にぼんやりと浮かぶ朱鷺の首を測る。春らしく薄いスカーフのなかにほのかに透ける首はいかにも柔らかく、片手でたやすく握れそうだった。まだだ、と樹はつぶやいたが、その自制は優しさからではない。
「あなたが俺に触れたのは、今が初めてだ」
 朱鷺は驚いてしまうが、そう言われてそそくさと手をひっこめるのはきまりわるく、かといっていかにも特別な瞬間であるかのように重ねたままでいるのも心地が悪い。朱鷺のぬくもりを樹は腹いせのように味わうが、彼女の手はきっと冴を撫でたものだ、とふいに気づく。
 このひとはどうやって冴を愛するんだろうと彼はとっさに朱鷺の指を鷲づかみにする。
「あなたの眼の前で、いつだったか彼女の指を舐めた」
 そして、その指を貌に近づけると、脅えたような表情がありありと朱鷺の顔に浮かぶので、はっとする。桜の開花も近い夜気は、じっとしているとなまぬるく、樹の手のなかにつぼんだ指先から、このなまめいた夜風の中に、かすかに、けれど隠しようもなくたちのぼる惑わしがあった。
 樹はものも言わず、朱鷺の指をくちに入れた。やめてよ、と朱鷺は身をひいたが、男の力はまともに抗って勝てるものではない。熱い舌は無遠慮に朱鷺の指から冴の残り香を奪い去り、朱鷺は眩暈をこらえる。思いがけない粘膜の感触は、まだ火照った皮膚に強すぎる刺激だった。
「汚した」
 樹の呟きは、自由になった指たちより、奥深い部分をせつなく看破していた。
 いやなやつ、と朱鷺は両手を後ろに隠したが、樹の目を見ることはもうできなかった。

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