さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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海の器 vol10  Landler

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 LANDLER

 誇らかに君に敷かれむ蹄ある
   跳躍のごとく流星は見よ

 
 からだじゅう金褐色の剛毛で覆われた男に組み伏せられていると、人ならぬ獣と寝ているような気がした。モンゴロイドには決してない、古い葡萄酒のような厚みのある発酵臭だった。
 こんな匂いを幼いころにも嗅いだ、と冴は湯気のような男の吐息を喉に感じながら思い出す。
 ウラジーミルはそのころ星に夢中で、仕事の合間に、しょっちゅうあちこちへ観測に出かけていた。それはまたウラジーミルの感傷旅行に他ならず、旅は彼のはかない恋愛のピリオドであり、また新しい出会いへの準備期間でもあった。
 そうした旅に、彼はただ一度、娘を伴ったことがあった。
 高原の記憶はおぼろだった。降りそそぐ星空も思い出せない。だが、男のてのひらがあたたかく冴の膝をひらき、その旺盛な繁りと、どっしりした量感の腹が冴を圧し潰した時、彼女の記憶に蘇った真夏の草いきれは言いようもなく慕わしいものだった。
 あなたのはわたしには大きすぎるわ。
 冴が男の耳許でささやくと、彼は琥珀のようにつやのあるバリトンで、ありがとうと言う。声の大きさに冴は思わず身をすくめるが、彼はそれでも喉を押さえているのだった。
 はちきれそう。
 冴はまた、男の匂いをふかぶかと吸う。肌理のあらいゲルマンの肌の感触。胡桃いろのそばかすで覆われた背中や腕。そこからたちのぼるすばらしい暖かさが冴を驚かせる。あの高原のしたたる緑が幼い冴の眼を瞠らせたように、男は冴を驚かせる。
 厳しい山肌を覆う針葉樹と樺の林をきららかにざわめかせて光が溢れていた。乾いて爽やかな風が、下生えの少ない木蔭を抜けてゆくと、家畜の匂いが、早くも秋を兆す野葡萄の蔓に揺れ、まばたきするたび、草原の緑は燃えるような赤に染まった。
 草の匂いは冴の嗅覚にあざやかな赤い印象を刻み、さらに太陽の金色で縁取られ、そのまた向こう、コバルトの空にきれぎれの羊雲がゆっくりと流れていた。
 なぜ、このひとが、と冴はスタンドの明かりにまぶしげに瞬きしながらティシュペーパーを引き出す男を見つめる。仕草につれてりゅうりゅうと動く肩は、菩提樹の幹か、ブナの大木のような威厳があった。鍛えた身体ではない。まだ若さを失ってはいないが、喰い道楽は早くも彼の腹部をたるませ、詰め物の中途半端なぬいぐるみのようなふくらみが、下腹部に添って密生する剛毛に包まれている。
が、年齢とともに大きくなった身体に、彼はゆったりと自足しているようだ。それが冴には好ましく感じられる。
 なぜだろう? あの高原はこの男と寝るまで彼女の深層に沈み、浮かびあがることはなかった。漠然とした印象の記憶。鬱陶しい母親の支配圏から逃れ、気まぐれではあっても娘を甘やかしてくれる父親とふたりきりで味わった別世界の愉しさの感覚だけが、果汁の上澄みのように彼女の記憶にとどまり、冴の旅行好きの原因になったのかもしれない。ところがこの毛むくじゃらの男に触れたとたん、幼いころの、つやつやとした真夏の映像が、冴の意識の表層にころがり出てきたのは、まったくどうしたことだろう。
 冴の視線はクラウスに面映い。肉体をゆるしたあとの気楽に、彼はのんびりとくつろいでいる。そのくせ、つながっていた時の強引を少しばかり恥じているのは、ゲルマンという質実で剛健な血統をBMWのように体現しているクラウスには、冴はいかにも優美なので、どうしても自分があつかましく思われるのだった。
 しかし、クラウスは、交わりそのものには悪びれたところがない。
「痛かった?」
 男が労わるように冴を覗く。異人種間の違和も驚きも、素直な労わりに抵抗を失い、彼のもじゃもじゃ頭のなかに吸い込まれる。
 がっしりした顎と頬髯に覆われたこのドイツ人は、閨あかりには陽気すぎるオレンジのスタンドライトの中で、人の良い熊のように見える。瞳の潔癖な青は褪め、灯のままに金色に透けた。
「やぶけたかも」
 冴が意地悪く腰をひねると、男はベッドが揺れるような大声で笑い、大丈夫、もう何度も試したからといなし、太い腕で冴の細腰をひきよせ、首筋にキスをする。
「また食べたくなる」
「食いしん坊」
 だが、褐色のライトはほんとうに食欲を刺激し、冴と男の胃袋は悲喜劇込みのクライマックスに流れる二重唱のように、とぼけた音程を歌い始める。

 獣医で椅子のデザイナー、ペットの輸出入業者というクラウスを冴にひきあわせたのはウラジーミルだった。
 都会の地面をマヌカンの厚化粧さながら覆い尽くすアスファルトに、埃っぽい雨はじんわりと滲みこみ、しぶとい吹き出物ののような雑草が、人の眼につかない路の隅を罅入らせていた夜だった。
 ウラジーミルの設計した私鉄の駅舎が、某財団の建築賞をいただき、品川のホテルで催された受賞パーティーに、冴はふらりと足を向けた。もちろんウラジーミルは娘を招いてはいず、冴も行くつもりなど毛頭なかったし、だいいちTVの録画が入っていた。冴は準主役のつぎといった半端な役がらで、このところモデルをドラマに起用して話題を稼ぐ風潮に乗じた出演だった。
 あー、もいっかい。
 抑揚のない声が無意味にリピートを強要する。主演女優は演技よりはスキャンダルメーカーとして人気があった。彼女はスタジオに二時間も遅れて、しかもぼさぼさ頭にすっぴんで現れ、スタッフの渋面もどこ吹く風と控え室に入った。
 彼女はもともとやる気などなかった。セットの中央で何度か録りなおしを命じられるともうぐずりだし、監督にひともなげな口をきき、相手の男優が下手だとののしり、十五分の休憩が終わっても、戻ってはこなかった。彼女の逸脱をその場の誰もとがめず、進行表の真ん中の空白を、やっぱりね、と不機嫌と上機嫌のないまぜになった顔で了解しあっていた。待たれていたアクシデント。主演女優のやんちゃもまた、記されてはいないけれど、ちゃんとした芸能界の期待の枠におさまっていた。
自己演出はどうってことはないやらせの変形なのだが、気位の高い冴は、自分より器量のわるい人気者の人生劇場に出演するのがいやになった。ドラマの脇役はかまわない。だが現実は別だ。成功しなくったっていい。冴は自分の飢餓感のうすさを疾(と)うに気づいている。
主だった役者がそろわず、スケジュールも分解すると、冴はもう遊びに出るのも億劫な気がしてきた。どこへ行っても同じことだ。踊っても、歌っても、酒を飲んでも、ヴィエトナム料理がタイ料理でも、喉を過ぎれば同じことよね。え、これでは累婆ァのわがまま口癖そっくりではないか。おやこなんだもの、似てるわよね、似ていたくないところが似るのかも。ここにはあたしの信じられるものがないってこと。ここってどこ? さあね。
 少なくともファッションモデルの世界では信奉するものがある。美、という唯一絶対の神が君臨し、娘たちの過酷な競争を睥睨している。それは自然淘汰そのものだった。競争、凌ぎ合い、狩猟本能をかきたてる。何かを狩り立ててゆく快感がコレクションにはあった。
 注目されたい、有名になりたい、自分の魅力で、会場の男たち、女たちを圧倒したい。刃を研ぎあげるように、彼女はコレクションのたびに美しくなっていった。
 が、芸能界という日本古来の祭祀の庭では、逸脱であっても、身をかがめて大衆迎合幼児退行の神楽を舞わなければならない。それを延々と踊り続けるには、冴はどうやら、背が高すぎるのだった。
「いいわねえ、サエちゃん、スレンダーで」
 初対面なのにちゃんづけで呼ばれる不快感が、逆に冴に明朗な返答を促した。
「そんな…肌がぼろぼろですよ」
 すると、そのさかりを過ぎた美人女優は嬉しそうな顔をするのだった。二十代から三十半ばまで、肉感的正統派美女で売った彼女は、四十の声を聴き初めた近頃、十歳年下の弁護士と何度目かの結婚をした。スランプの時はこどもを生むのよ、というジェーン・バーキンのユーモアをそっくりそのまま自分のものとして記者会見し、毎回自然出産を実行していたが、生死を分かつ大騒動をくぐりぬけるうちに、なるほど彼女の精神は逞しくなり、肉体もまた、その堂々たるヴァイタリティーに比例して大きくなった。ちょっとやそっとのダイエットは、彼女の生の意志に追いつかない。
 今度生んだら、もう肥満よねえ、と彼女はのうのうと笑う。半生をドーランと原色の色恋沙汰で明け暮れた彼女は、恋愛スキャンダルの罪を測る天秤の、もういっぽうの秤に地滑り的母性を乗せて、世界の均衡をとりたがっているかのようだった。不倫も年の差婚も非難される。特に女が年下の男といっしょになるのは日本の風土にまだ馴染まない。いや将来もどうだろうか。処女信仰はさまざまな言い訳を伴うヴァリエイションを奏でながら、なお男の自尊心に都合よく決着をつけたがるのは、アジアならではの後宮願望に通じるのかもしれない。
 が、こどもをはらんでしまえば、それまでの非難ほとんどいっさいは、生めよ増やせよ母性のおおらかさになし崩しに逆転する。この地滑り現象は、遠くから眺めるならショウペンハウエルほど明晰な頭脳の持ち主でなくとも、奇妙なことだった。が、おそらくそれこそは本能なのだろう。理非善悪を超えた、種の保存のために、出産という免罪符がある。清濁併せ呑む豊穣のオトシマエに万歳。
 若く、出産未経験の精悍な肢体の冴に、経産婦かつ妊娠中の女優は嫉みを隠さなかったが、底光りのする彼女の視線に、冴はまったく怯まなかった。
 一緒の車でという誘いを拒む理由はなかった。迎えに来たのは若い夫で、チャコールグレイの三つ揃いをきちっと着込んだ青年は、時節柄か経済的な国産車に乗っていた。彼は鼈甲縁の眼鏡をずらすように冴の長い脚を一瞥し、器用に視線を暈してあいさつした。うしろを刈り上げて前髪を垂らした髪型と、仕立の良すぎるスーツ、ぴかぴかに磨きあげたトヨタは、彼を成人式を済ませたばかりの青年に見せる。あるいは見合いに出掛けるためにスポーツシャツを急いで脱ぎ替えてきたひとり息子。
 重いヴォリュームで夫の隣に両足を揃え、腰から乗り込んだ女優の仕草はさすがにエレガントだったが、なぜかそのエレガントは彼女を姥桜に見せた。夫はグレート・マザー然とした年上の妻にくびったけの様子だった。彼が冴を見るまなざしに憧憬はなく、不安げでさえある。外見では十歳という年の差もさして目立たず、無難に幸福なオーラにつつまれたこのふたりを見ていると、冴はどうしても樹のことを考えてしまう。
 ウラジーミルと累という、気まぐれと我儘、突飛と偏愛の組み合わせから、自分はともかく、どうしてあのような弟が生れたのだろう。
 ああ、樹、と冴は唇を噛む。うそなのよ、あたし、あんた以外の男とは寝ていない。
 まだ、という予感つきのひそかさはあったが。
 なぜ嘘をついたのか冴にはわからなかった。
いや、わかっていた。同性への興味を感じ出したのは弟と寝てからだ。レスボスは弟に対して罪悪感のない快楽だった、から?
 そして樹は姉の冒険を、異性でないという点で許していた。考えてみれば奇妙なことだった。相手が朱鷺だからだろうか。朱鷺以外の女の子を樹にひきあわせたことはない。罪悪感て、そもそも何に対してのものなんだろう? 冴は神を必要としたことがない。きっと樹も。そして朱鷺も。罪の翳りのない激情は鮮やかで透明だった。
 殺意、憎悪であっても。
 嫉妬さえ、あでやかな朱色ないしは紫色で屈託なく輝いた。
 冴は初めての女友達を思い出せない。食べかけのフランボワーズを女同士で交換して食べるように、日常感をひとまたぎ超える何かから、それは始まった。
 正直なところ、樹との性愛は快楽よりは苦痛だった。しかし、ある種の人間には、肌身を削る苦痛が生きていくために不可欠で、つかみどころのない幸福や満足などより、鮮烈な生の実感をくれる。精神を鞭打つマゾヒズムもまた、樹と冴に共通する生の原動力で、これがあればこそ、冴は欲望の芸能界で醒めた視線を保てるのかもしれない。神楽、神の庭である芸能。しかしインセスト・タブーは人間にとって、永遠に神話そのものではないか。神話を欲するのは人間だけだ。獣に神話はない。彼らは知性を持つ代わりに、なお神話を生きている…だから人は憧憬とともに野獣の情感を詩にうたう。
 では、朱鷺は?
 クレームシェルプレーズを食べ終わるように、わたしたちの愛もいずれ消えてなくなるだろうと、冴は車窓を流れる都会のネオンを眺めながら考える。雑踏、繁華街の蛍光、その場しのぎの快楽に濁った熱気の渦を眺めていると、朱鷺はもはやはるかに遠く、彼女の存在感は稀薄だった。
 寝心地のいい、絹とコットンのシーツね、あの子は。はだかのからだに巻きつけて眠るときもちがいいのよ、それだけよ、と冴は朱鷺にかるい罵りをつぶやく。が、そのおかげで逆に朱鷺の記憶が皮膚感覚となって四肢に蘇り、冴は身震いした。
 帰りたくない、と冴はこの車に乗ったことを悔やんだ。繁華街に紛れてしまえばよかったのかもしれない。何も得られなくても、いっとき身体を突き刺す刺激はもらえる。
 突き刺す、貫く、その単語で、ふいにまた異性への欲情がこみあげる。
(樹は朱鷺が好きなのよ。あたしは初めからわかっていた。朱鷺も)
 しかし、それ以上この考えを続けることはできなかった。欲望といっしょに思いがけない嫉妬と苦痛の予感が胸をつく。朱鷺と樹の同衾を想像するのは、あまりに自然でたやすかったので、身の置きどころがない気がする。
けれども、この苦痛を乗り越えれば何かから解放されるのかもしれない、と冴は車窓から眺めおろす夜景に目を瞠った。自分の想念以外に、何も見えてはいないのだけれど。
 いったい自分は誰を求め、誰に嫉妬しているのか、やめよう、くだらない、こんな。
 振り子のように揺れる心を、とりあえず落ち着かせる場所は、なんと朱鷺との微風のような愛撫の記憶しかなかった。これも執着。
 必要なときは適切な快楽を得られるだろうという身勝手な御都合主義に冴はなごんでしまう。朱鷺を人生から見失ってしまうのはとても残念なことだ。珍しい鳥のように、そっとしまっておきたい。
 愛をかたどるハート型は左右対称で切れ目がない。切れ目なく、しかし冴のコムプレックスに突き刺さるかたちをしている。円ならば果てしなくころがり、四角は動かない。だけどハートは突き刺さるさかしまのトライアングルだ。
 前の座席で、夫婦は自然分娩の計画を確認している。夕食の献立を決めるように熱心に、あけすけに交わされる避妊と受胎の計画は、首都高速にひしめく自動車の流れに逆らい、冴を疎外しながら過去の実績へ向かう。
多産と豊穣が剥奪された東京の真っ只中で、どうすれば自然に近い姿で安産できるか、真剣に検討している夫婦の車には、煙草の匂い消しのために花梨が置いてあった。
 薪割りがいいんですって。
 日曜大工じゃだめかなあ。……。
 これでは夫婦の会話に入り込んで気を紛らわせることもできない。あまったるい果実の匂いがひどく鼻につく。果物だけならともかく、女優はプアゾンを、亭主はアラミスをたっぷり使っている。冴はただのラヴァンドのコロンだった。朱鷺がそのほうがいい、と言ったからだった。
「新しい香水はひとくアンバランスなの」
 朱鷺は顔をしかめるのだった。匂いのエレメントが調和を欠いてばらばらで、嗅いでいると情感がちぐはぐになるという。冴はそれほど敏感な嗅覚を持っていないので、朱鷺の言葉をあっさりのみこみ、調合されない香料を時折用いるようになった。朱鷺の審美的な感覚は、まったく流行とは無縁で、むしろそれゆえに、ともすれば流行の波に呑まれそうな冴を納得させるものがあった。
 その冴のリアシートに、ヒーターの温風は遠慮なく香水とオーデコロンの匂いを吹きつけ、さらに古くなった花梨の発酵も蒸されて加わると、冴は胸苦しくなった。
 プアゾンには麝香が、アラミスには男性ホルモンがかなり強調されており、両者が身近く混ざり合うと、それはもう閨の気配に似ている。音程のよくない歌のような女優と亭主の会話を、冴はろくに相槌もうたずに聞き流していたが、それがお愛想など必要のない夫婦の出産計画だったのは、乗り心地悪さこの上ない匂いのこもる車内においては、ちいさなラッキーといえた。女優は、むしろ冴と自分たちの間に不透明な線引きをしたがっているようだった。
それなら車に誘わなければよかったのに。が、多少愛想がなくとも、見るからに育ちのよい、物腰にノブレな風情さえ漂う冴からは、おしなべてのアイドルよりはるかに、搾取できる果汁は潤沢に違いないと誰でも思う。それがどんな味なのか、啜ってみないとわからない絞り汁。秋波も無視も、女心のかけひきの微妙だ。年増の女優は、その仕事で新人の冴にだしぬかれていた。
演技ならともかく、一般的な美女に寛容は期待できない。媚態としてならば話は違う。そして偽の寛容のほうが、きっと芸能界では使いみちが多いはずだった。
「東京駅だった?」
 ようやく首都高の流れが動きだすと、女優は華やかに振り返った。冴はまた伸び始めた髪をかきあげ、とっさにウラジーミルのパーティ会場を告げた。車窓から偶然そのシティホテルが見えたからだ。
 もう一分も彼らといたくない。
 冴は父親の素性と受賞を話すと、派手な場所には目がない女優は、てらいなく羨望の色を浮かべ、冴からいくしずくかの甘い果汁を絞り受けた快感を隠さなかった。この子と仲良くするのは、人脈にまたひとつ箔つきの糸が加わること、と。父親が著名な建築家なら、演技は下手でも、冴の過去と未来のメンテナンスは万全だ。

 奴は坐り心地がいい、とヴァレンティノを着たウラジーミルが、ドライ・マティーニを差し出すふりをして囁く。見透かしたような青灰色の瞳は、いつものように半ば微笑、半ばは揶揄に潤んでいて、娘の女としての反応を寸分も見逃すまいとしながら、一方で父親の威厳をとりつくろおうと焦っているようでもある。ウラジーミルは不良になりきれない駄々っ子のまま年を重ねてゆく。
「感じのいいひとね」
 冴はすげなく応え、母親をエスコートする父親からそっぽをむいた。累は申し分ないマダムぶりを発揮して、にこやかに客たちに応対し、手振りもしなやかにグラスを薦める。笑止かあるいは当然か、会場にはヴィオリノを持ったサルヴァトーレが来ていた。
 即興演奏が始まると、冴はさりげなく〈坐り心地のいい〉男の隣に行った。紹介されたときに、男のごわごわした巻き毛に覆われたいかつい顔と、明朗な青い目の印象が、彼の持つプレノムのクラウスはサンタクロースの語源というかすかな知識と結びつき、そのあたりから冴は彼と寝たいと思ったのかも知れない。
 クラウスの顔はピンクいろで、こまかな皺がいっぱいあり、ほどほどに整えられていたが、じきに奔放に巻き上がってしまう厄介な剛毛が眉の上まで垂れていた。
 クラウスは大きな手で自分の垂れさがる巻き毛を撫でつけるが、バイキングが無理やりブラック・タイを着せられて、その着心地の悪さに癇癪を起こすように、彼の自由奔放な髪はすぐさま飛び跳ねてしまう。クラウスはばつがわるそうに鼻をひくつかせ、肩を触れるほどの隣にいきなり寄って来た美女を横目で意識してか、顔をほんのりいい感じに赤らめ、せつなく流れるクライスラーの間じゅう、自分の癖毛を押さえつけようとしていた。
冴は知らん顔して、サルヴァトーレが自己陶酔的に奏きまくるヴィオリノに聴きほれるふりをしていたが、おかしくてしようがなかった。
クラウスには不似合いな、洗練されすぎた地味な縞織りのビリドゥエはどうやらウラジーミルのものだ。胸ポケットからちらりと覗く赤い絹は、フィルム・ノワールのギャングのようで、ウラジーミルには憎たらしいほど似合うのだが、どうつくろっても野暮ったいクラウスの風体は、ライオンが殊勝に前掛けをしたような印象になるのだった。
(わかっていて、これを貸したんだわ)
 冴は、母親と並んで斜め前に立っている父親に抱きつきたくなる。ウラジーミルは好意を抱いている相手に、わざと喰ったような悪戯をしかける癖があった。
 それにまた上着のボタンを、クラウスはひとつづつかけちがっている。そのことに彼はまったく気がつかないらしい。クラウスが髪を気にして手をあげるたび、彼の体格にはちょっときつめのジャケットは、互い違いのボタンのせいで、失敗したフェイシャルパックのような深い溝が杉綾の生地にできる。手をおろす、消える、また腕をあげる、すると嫌な小皺が寄る。
 冴はおかしいのかいらいらしているのかわからなくなり、調弦の間にとうとう手を出して、彼の全部のボタンをはずし、いちいちをゆっくり嵌めなおしてしまった。ポーラスなジャケットには寝起き顔みたいな皺が寄ってしまったが、貝のボタンはおさまるべきところにおさまって、すっきりと七色に光り始めた。
 あっけにとられ、されるがままになっていたクラウスは、下唇をつきだすようにして、ありがとう、と日本語で答えた。へどもどしているニュアンスが妙に日本的だ。彼はヴェルモットをひとくち口に含み、自分より背の高い美女を見上げ、ようやく真っ赤になる。
しかし、彼の赤面は、ミラノの上着よりずっと魅力的だった。
 調弦のあとサルヴァトーレが再び抑揚たっぷりに奏きはじめると、クラウスはさっと耳をそばだてた。男の反応を意地悪く(こういうところはウラジーミルに似たのだろう)楽しんでいた冴は、肩すかしを喰った気がしてステージを睨んでしまう。
 これはレンドラー……
 音楽に心を奪われた彼は、ぼうっとした間抜けなまなざしを冴に向けた。
 クラウスの心が自分から逸れたのに気づいた冴は、何が何でもこの男を征服してやろう、と決める。

 両手に、従順に膨らんでくるものをつかまえていると、その暖かなピンク色が指先から全身にひろがり、いっさいの煩わしさが消えてなくなる気がした。クラウスは立派な男だった。彼は単純に歯切れよく振る舞い、冴は自分の主体性が奪われる口惜しさを味あわされたが、そんな頭でっかちな憤慨は、クラウスの胸毛と腹の間で砕けてしまった。それでいて、彼が冴に与えた彩りは優しい薔薇色なのだった。
 ヨーロッパの薔薇、マイセンの陶器に描かれた、親しみやすい石竹いろだった。樹との営みは、運命的に暗いヴァルールを免れない。緋色、蘇芳、臙脂……弟と分け合う快楽はそのまま同じ血の翳りで亡滅を垣間見せる。冴も樹も、お互いの罪悪感で快楽を補償しあう疚しさから逃れられず、一方で、手応えのないつるつるの鏡に向かって愛を誓う空しさに怯えた。樹とするのは自分とするようなもの、といつだったか朱鷺に囁いたが、他者を容れない睦み合いは、ガラス壜に閉じ込められた砂粒のように、感情の変転のままに際限なく行きつ戻りつしながら、その都度愛情を忖(はか)りあう息苦しさを伴った。
「おくさんは…?」
 冴は昂ぶったクラウスの上にまたがり、涙のような潤いに任せて腰を落とした。ぐ、と内側がひきつれる感じがあり、からだが徐々に割れてゆく。襞が剥がれ、粘膜がめくれ、もっと深い部分が男を包みこみ、吸い取りながら緋色の闇に落ちてゆく実感が冴の乳首をぎゅっとしこらせると、クラウスは深く息を吐いて、太い指でそれをつまんだ。
 ケルンに。でもこんなときにそんなことを聞くものじゃない。
 こんなときだから訊ねるのよ。だって、今が一番嘘のない時間だから。
「だめだ、冴。男はこういう時にこそ嘘をつくんだ」
 クラウスの瞳は悲しげに見開かれている。冴のなかで、彼はほんとに萎れてしまい、彼女は悪かった、という気持ちになるが、つかまえそこねた薔薇いろのほのめきは、まだクラウスの肌をほてらせていた。
 そんなことを言うあなたは……。
 しかし冴は言葉を失ってしまう。クラウスが目を閉じて冴の細い腰をつかんだからだ。ほっそりした末広がりの肌を撫で、まわした指でからだの割れている部分を掴んだからだ。
 真夏の草いきれの暑さが、からだいっぱいに頬張った感覚に重なり、冴の首筋のたてがみのような産毛がざわめく。低くうめいてクラウスは脹れあがってきた。おとなしやかな薄紅いろはいきなりほとばしる赤紫にせりあがり、肉体の奥深くまでクラウスの歌が反響しはじめる。
 冴の喉から洩れるかすれ声よりも、つながった部分の重唱はせつなく、狂おしげで、次第にクレッシェンドしながら冴を突き破ってしまいそうだ。
 紺碧の、クラウスの青い目がまた涼しげに冴を見ている。冷静なのね。冴は震えながら悔しがる。
 ちがうよ、きみがとてもきれいなので、僕は驚いている。こんなときの女はとても歪むんだ。いびつになるものなのに、きみは始めから終わりまでとてもとてもきれいだ。
 見ないで、叫ぶから。
 冴は青空に向かって悲鳴をあげる。男の眼の中の蒼穹に吊りあげられ、射抜かれ、風切り羽をもの悲しげに鳴らして墜落してゆく鳥が彼女の官能を象る。落下しながら冴は安堵していた。このひとはあたしを受け止めてくれる。あたしはアスファルトに激突したりしないだろう、と。
 天地がひっくりかえり、冴は男を受け入れる。アリエッタの余韻が冴を小刻みに痙攣させていたが、クラウスはまだ蠢いていた。冴はうっとりと、宙に泳ぐ自分のとてもすんなりした二本の脚を眺めた。たかだかと、男の軋みにつれて空を切る自分の脚はすばらしく長く見える。それは見る間に二つに折れて、ぶあつい男の背中にからみつき、視界から消える。
 そして、冴の深みに、なつかしい草の匂いが暖かく、何度も飛び散った。

 あたしには恋人がいる。
 日本のチーズは石鹸みたいだ、と肩をすくめるクラウスに冴は頬を寄せる。バーにBGMはなかったが、ふたりの間にはなやましいストリングスの残響があった。クラウスはクラッカーにスモークハムとチーズを乗せ、たっぷりとマスタードを塗ってパリパリと噛む。
さながら冴の告白を砕くように咀嚼する。
 冴は、彼が冴の告白を拒み、チーズを吐き出すのではないか、と危惧するが、クラウスは平気な顔で呑みこむと、黒パンにイクラを盛り上げ、冴に差し出した。クラウスの鼻の頭にぷつんと吹き出物が出来ている。それを見ながら、冴は同じ台詞を繰り返そうか、と考える。
 が、彼は胸ポケットから写真を裏返して出した。僕にもパートナーがいる。
 冴は眉も動かさずそれをつまみあげる。が、写真を見る前に、シガレットに火を点けずにはいられなかった。
 一瞥して冴は煙草を置いた。クラウスの瞳はショット・バーのペンダントライトの濃い黄色い光の下で、ふたたび青の色味を失い、ただ透明に暖かく見える。
 レオンベルガーのエレクトラ。これでもまだ仔犬なのさ。 
 金褐色のふさふさとした大型犬が、ゼラニウムの花壇の前で、クラウスと並んでいた。
「すてきなフラウね」
「あいにくフロイライン」
 冴の指をクラウスはすばやく自分の指で包んでしまう。それ以上の喫煙はいけない、と言わんばかりに、暖かく、クラウスは彼女を包んでしまう。
 きみの恋人は猫だろう。
 冴はちらっと朱鷺を思い浮かべ、微笑んで首を振った。
「猫は女友達。恋人は」
 おとうとなのよ、と冴は勝負を放棄するように言い捨て、ローズ・カクテルを頼んだ。クラウスは瞬きもせずまた冴を覗きこむ。色素の薄い瞳のなかにきらめく光の斑が樹と同じだ。さっと全身に鳥肌がたち、冴は椅子を降りた。砕かれた自己愛のような氷が、空になったグラスの中で溶けてゆく。
 が、クラウスは彼女の手を離さない。
 動物はそうだ。
「あたしは人間よ」
 クラウスはきっぱりと言った。
「僕は君が犬でも構わない」
 猫でも、と彼は小声で付け足した。

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