さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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海の器  vol11  SOSTENUTE

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   SOSTENUTE

 木漏れ陽も君より響く歌のごと
   若葉晶(すず)しき森に生れなむ


 禁忌とは何だろう、と朱鷺は初夏の柿若葉を眺める。さわやかな黄緑の若葉は、海風にきよめられた空の青さを初々しく吸い込んで、目に見える速さで成長してゆく。若緑がやがてつやつやと濃さを増すと、葉の重なりの上に、花ともわからないほどつつましい柿の花が咲いた。
 クリームいろの柔らかい花弁はちいさいがふっくらと優しい。ささやかで、黄緑がかった白いはなびらは、誰の目もひかない。
 そんな地味な花なのに、秋の実りの豊かさ鮮やかさは、不釣合いなくらいだ。柿の木はみづからが花やぐエネルギーを削って次世代につなぐエネルギーを補償している。むかしの母親が我が身を倹しく控えて、こどもたちを育てあげたように、柿の花は葉隠れてあえかに咲き、散る哀しみさえ見せず、ひたすら秋の実生にいのちを注ぎこむのだった。
 いのちとは本来そのようなものだろう、と朱鷺は猫の鳴き声のような舵のチェロを聴きながら思う。八分の一サイズのチェロは、舵が憧れたメロウな音色には似ても似つかず、失恋した牡猫のエレジー、と言うのも上等すぎる歌をうたう。
 音程を奏きまくるならマシーンでもできる、と蘭はしばしば苦々しく吐き捨てた。
「はみだし、たゆたいもたれかかり、ときには逸る感情の流れを表現しなければ、音楽とは言えない」
 バレンボイムのピアノはいい、と蘭はうなるのだった。はみだし、たゆたう……。
 朱鷺は椅子に寄りかからず背筋を伸ばして小学生のようにきまじめな顔で窓の外の青葉を見つめている。膝には読みかけの本があるが、なにを読んでいるのか、どこまで読み進んだのかもう忘れていた。萌え出づる新緑にひたと目を据えて、きっちりと口許を結んだ表情は、それとは知らず樹に似ている。
 蘭さんがいなくなったらどうするの?
 頬がこけて、目ばかり大きくなった樹は、手入れを怠った庭木のようにふぞろいに伸びた前髪をかきあげて言った。蒼白い肌に唇だけが赤い。それも沈んだ、不健康な赤で、顔色の悪さのために、かろうじて赤みがさして見えるという、剥き出しの粘膜のいろだった。
 桔梗山の部屋に冴はいなかった。彼女は約束と時間に無頓着で、ことに後者への義務感がまったくない。待ち合わせをしてもたいていは遅れ、まれに早く来ているときは、ひどい憂鬱にとりつかれているか、あるいは躁状態で、あっけにとられるほど着飾っていたりする。朱鷺は何度も腹立たしい思いを味わったが、やがて、彼女の無頓着は一種の自己防衛なのだと察した。
 相対の関係では、否応なしにどちらかが受身にたたされる。それは流動的なものだったが、おおむね朱鷺のほうが冴を待つ側にまわった。待たれていると冴は安心するらしい。また彼女は能動する側でいたがった。能動は、彼女の価値観として優越に結びついている。好都合なことに、朱鷺は誰かを待たせることには苦痛を感じる性格だったし、受身の立場に抵抗もない。受容することとふりまわされるのは違う、と思っている。それで冴と感情の均衡が保たれている。
 時折、冴は無意識か、意識してなのか、朱鷺をふりまわそうとする。朱鷺をつまづかせ、唖然とさせたい、あるいは哀しませたいと意図しているかのような意地悪をする。盥に張った水を揺さぶって、したたか零してしまおうとでもするかのように、乱暴なやりかたをする。
…きっと、樹に対してもそうにちがいない。時折、あるいはしょっちゅうか。一定のわかりやすい行動パフォーマンスは、あたかも彼女のキャラクターに映しこまれた幼児期の記憶をさまざまなヴァリエーションで再現し,
年月を経てもなお不透明にわだかまる情動のカタルシスを、絶えず外部に求めているかのようだった。
「ひっくりかえしてしまう勇気はないの」
 冴は情けなさそうに、でも意地悪く朱鷺の乳首を噛んで囁く。蘭が朱鷺の小海老のような乳首をたいせつに労わっているのを知っていて、冴はことさら朱鷺の淡いろをいためつけるように前歯をたてる。
「こんな快楽は、ほかの子とでは手に入らないから」
 と、冷淡に、わざと神経を逆撫でするように付け加えるのだが、そうやって朱鷺をいじめればいじめるほど、冴の執着が強くなってゆくのが露わになるのだった。過去あるいは現在のネガな情動を投影する(ポジティブな情感ならシェアする必要はあまりない)苛みのたびに、その対象は自らの似姿になってゆく。誰と離れようとも、自分自身とは一生添い遂げるしかないではないか。合わせ鏡のように照り返す精神の似姿。
 朱鷺は、キッチンの古風な換気扇が羽虫のように唸り続ける煙草臭い部屋で、冴を待つことにした。退屈したら眠ってしまえばいい。
 部屋は相変わらず散らかっていた。化粧水の空き瓶がころがり、ジャンク・フードの食べ残しが流しに積んである。床のヘアピンやクリップを踏まないように気をつけなければならない。壁をくりぬいたクロゼットの扉が半分開いて、クリーニングのビニールを被せたままのドレスが、押し合いへしあいしながら腕や腰を突き出している。それらの衣装は時折まじる原色と、おおかたは無彩色だった。
 ソファも脱ぎ捨てた衣装とりどりに占領されている。アシンメトリーなデザインのパンツスーツは、誰かが陳列したように裾をひらき、ソファを我が物にしている。
 デッキ・チェアの坐り心地の悪さに閉口して朱鷺は寝台の天蓋をめくる。息を呑む余裕もなかった。アールデコの唐草がついたベッドの頭板にもたれ、樹がこちらを見ていた。

「二時に約束した」
 樹は片膝をたてて、長い手を膝頭に添えて頬杖をついた。
「わたしも」
 朱鷺は口をすべらせ、しまった、と思う。樹は唇の端をゆがめ、木炭を噛むように苦い顔になった。
「ひどいたくらみだ、どう?」
 樹をつまづかせたいのだろうか、と朱鷺は青年から顔をそむける。顔のやつれようがいたましかった。
 それにしても、なぜ樹の気配を察することができなかったのか、垂れ込めた薔薇いろの帷の奥で、樹は朱鷺のたてる物音やため息を聞きつけていたが、朱鷺はまったく気がつかなかった。不意打ちだ。
「樹はいつもわたしを驚かせる」
 朱鷺は逆三角形の窓を見ながら呟いた。久し振りに見る硬化ガラスには、上半分緑のスモークがかかっていた。緑の重しをかけた窓の透明な末端が青い海に突き刺さって見え、それは朱鷺の神経を鋭くさせた。
「俺のたくらみじゃない」
 樹はそっけなく否定したが、朱鷺の気持ちはわかっていた。とても過敏なはずのこのひとは、俺に対しては無防備でアンテナがはたらかない。何故だろう。
 答えは逆三角形の窓にあった。
 が、樹は自分自身に対してしらをきり、的のまんなかをわざと迂回して冴に話題を振った。
「あいつ、男ができたんだ。ドイツ野郎、スカンジナヴィアかな。ウラァが言った」
 朱鷺はさっと樹を見た。樹の顔を直視し、帷の薔薇いろの陰のせいで栗色にかすむ瞳の奥にウラジーミルに対する悪意があるかどうか測る。よかった、樹は父親を軽蔑してはいない、父親に反発するのがふつうじゃないだろうか。
(あきらめている、この子。なんてことだろう。ウラジーミルは父親じゃないわ)
「獣医だって。信じられるか? あの冴に犬や猫の世話ができるか」
 自分の寝床だってできないのに、と樹は枕の下から、ベージュのランジェリーをひっぱり出し、朱鷺に投げつけた。Eカップのブラジャーには、なまなましい煙草の焼け焦げが乳首の部分をくりぬいている。
「やめて」
 朱鷺はあえいだ。こんな屈折した憂さばらしは公衆便所の落書きよりいやらしい。樹はかすれ声で笑った。まだあるぜ。
 朱鷺の膝に紫のパンティが投げ出され、しなしなと床に落ちた。とりあげるまでもなく、膣の部分が焼き抜かれているのがわかった。焼けた繊維の匂いと、微かに、みだらな分泌物のなまぐささが来た。どちらも新しい。絹には染みがついている。卵の白身。…。
 いやだ。
 朱鷺は後じさる。蘭にあまやかされているせいで、朱鷺はこの種の悪意に免疫がない。性的な歪曲、それによって生じる感情の濁りは鳥肌がたつほどいとわしい。
「あなたがすることじゃない」
 朱鷺はいまにも倒れそうな感じだった。逃げ出そうとする肉体の感覚と、これしきのことは克服せよと命じる超自我に、両側からひっぱられて、姿勢はぐらつき、瞳の焦点が合わなくなる。
「何だよ、なにもしないさ。落ち着けよ。冴の陰謀なんか、くだらない」
 しかし樹は猫撫で声になっていた。ベッドのスプリングが軋み、
(世の中にはもっとひどいものがある。知らないのか。夜道に立っていて、いきなりジッパーを下ろす奴だっている。いきなり刺し殺す奴もいる…)
「誤解だって」
 朱鷺の瞳がふっと揺れ、次にぴたりと樹を見た。彼女のまなざしに怯えは消えている。
 朱鷺の瞳を見なければよかった、と樹は悔やんだ。砂が潮を吸い込むように、朱鷺は幾重にもたたまれた樹の心を読んでしまう。
「わかってるわ」
 朱鷺の声が遠くから響いてきた。樹のなかでせりあがってきたものは、この刹那に崩れ去り、水泡となって朱鷺のまなざしのなかに拡散してしまう。
 樹は朱鷺の眼と鼻のさきにいたが、ふたりの距離は、先程樹がベッドにうずくまっていた時より、はるかに――いつもどおりに遠ざかっている。
 うなだれたのは朱鷺のほうだった。
「いつも驚かせるのね」
 その囁きに籠もる安堵が樹の自尊心をちくりと刺す。人畜無害じゃない、俺は。
 が、凶暴にもなれない。
(今だって、やろうと思えばできる。押えつけて、他の女たちのように)
 樹は朱鷺の指の味を思い出し、歯の裏で舌を蠢かせた。冴の匂い…朱鷺の味だ。
(俺は羊じゃない)
 樹は朱鷺を憎むことで、つかまえようとした。憎しみは愛よりわかりやすい感情だ。そしてひとたび憎んだ相手は、滅多に自分から逃げては行かないのだった。愛の確保には忍耐が欠かせないというのに、憎悪はなんとたやすく自分に寄り添ってくれるものだろう。もう要らない、と押し退けても、やがては向こうからしつこくつきまとうようになる。
が、樹はまだそれほど愛と憎しみの経験を積んではいなかったので、安い酒で誤魔化すように、冴と朱鷺とを憎んでつかまえることにしたのだった。
手始めに彼は、頭を振ってふぞろいな前髪を瞼からはらいのけ、言いはなった。
「蘭さんが死んだらどうするの」

「レスボスを悪魔的だなんて言うのは、男の身勝手だ」
 フランソワ・リュペール・カラバンの作品を見ながら蘭は決めつける。
 蘭の知人の古物商が贈ってくれたアール・ヌーヴォーの写真集には、ガレやドームのガラス器にまじって、蛸の浮き彫りのついた化粧小箱に秘められた彫刻があった。
 「ふたりの女」というその彫刻は、朱鷺の眼を奪った。アール・ヌーヴォーの女たち、ことに彫刻の女性像は、十九世紀のがっしりと肥り肉だった現実の女たちとは異なり、すんなりとしなやかで、指先から爪先までの流れるような曲線は、バレリーナでなければ体現しえない美しさだが、カラバンの作品もその例に洩れず繊細だった。
 一人の娘が膝をひらいて寝そべり、もう一人が彼女の脚の間に顔を伏せて愛撫している姿は、「地獄の快楽」という解説にはそぐわないのびやかさ、ふくよかさに溢れていて、愛撫を享けている娘が、ほんの少しのけぞり、顎から首筋の線をすっきりと際立たせて、斜めに顔を傾けて放心している様子、下半身で重なった二人の脚の、なだらかで歪みのない肉付きなど、ミケランジェロやベルリーニの優れた作品のように晴朗だった。
「作家が邪な感情を抱いていたなら、こんなに美しいものは生れないわ」
 朱鷺は興奮気味だ。蘭は彼女の反応を面白そうに観察し、肯定とも否定ともつかない口ぶりで応じる。
「アール・ヌーヴォーというのは、女性を描こうとしたのではないよ。曲線の、コムポジションの理想を植物や人物に仮託したんだから彫琢を極めるのは当然なのさ。きわめて帰納的なものだ。具象の前に結果がある」
 蘭は梅鼠いろの、七十年代ふうに襟のとがったシャツを着ている。イタリアに住んでいたころのもので、組紐模様のような、カリグラフのような手のこんだ織り模様が浮き出されている。浮き織りの光沢のために暗色の鬱陶しさがないそのシャツは、蘭によく似合った。朱鷺はこっそりとそれを着てみたことがある。すると、蘭以外には似合いそうもない「地味だが華やかな」絹のシャツは、あつらえたように朱鷺に馴染んだ。物影から朱鷺の悪戯を覗いていた蘭は、その時ぬっと首だけ出して、鏡に映った朱鷺に言った。似合うじゃないか、俺と骨格が同じだからだな……。
「でも」
 朱鷺は強弁する。
「同じコムポジションで同じかたちを作っても、いやらしい作品はあるわ。何が描かれているかではなく、どのように描いているかが大切だと」
 そうだ、と蘭はくしゃみをした。初夏の風は蘭の鼻粘膜には刺激的すぎる。朱鷺はたちあがって窓を閉めた。蘭は頷き、話をもとに戻した。朱鷺は何事につけ納得したがる。
「性はあらかじめ倒錯を含んでいる。つまり、男どもには耐えられないのさ、女たちの愛撫がどんなにいいものか、直感的にわかっているので」
「嫉妬?」
「まあ、そうだ」
 蘭は中途半端な顔つきをする。彼は男だった。昔話だとしても、魅力的なフランス女の多くは、例えばココ・シャネルにローランサン、コレットも、そちらだったなあ…。
「男はたたかれると弱いんだよ。その、なんだ、自分の支配権を侵犯されるのがいやなんだ」
「男性は女性を支配する?」
「そのほうが平和だろ」
「どうして?」
「種の保存さ」
 それならわかる、と朱鷺はかしこく頷いた。文化は本能と離れて、ときおり逆走する。同性愛は文化のヴァリエーションだ。
「だからさ、男同士のいちゃつきには、ヘテロの男でも、まあ寛容なんだ。むしろ、知的レベルの高い男たちは、ほとんど潜在的にホモセクシャルとも言える」
「うそ」
「絶対に女が入れないからね。女を排斥した男の優越世界だ。欧米では石を投げればホモに当たる」
「レズビアンは?」
「レズというより、バイセクシャルのほうが適切だろう。富裕なサロンの女主人は、たいてい男女両方の愛人がいる。プルーストのころから、いやそのずっと以前から変わらないよ。人間は快楽追求において条件が許すなら限りなく率直かつ貪欲だ。別にそれがビザール視される世界じゃない」
「へえ」
「そうだ」
 なあんだ、と朱鷺は写真集に視線を戻した。蘭はもう言いたくないのだろう。彼が実態を知らないはずはなかったが、朱鷺に聞かせたくない、というニュアンスが露わだった。それで朱鷺はもう訊ねない。
「個人レベルにひきさげて、おまえの疑問をくくるなら、簡単にこうだ。つまり打たれ弱い男は、乱暴ってことなのさ」
 朱鷺は笑い出した。
「蘭さん、どっちの味方なの?」
「高みの見物。どちらにもつかない」
 だが、さらに蘭は言葉を継いだ。
「映画の『失われた時を求めて』で、シャルル・スワンは新聞を読みながら女の尻をまくっていたろ。男には機能的この上ないが、ロマンスのかけらもない、ただの処理だ。そんなふうに女を扱いたがるんだな」
「それが男の本音なの?」
 蘭は首をすくめた。文化は表層にすぎない、とつぶやき、ひそひそ声で、
「カラバンは憧れたんだ」
 朱鷺は念を押すように
「自分も愛撫されたかったの?」
 蘭は答えずに、かるく首をかしげ、違うことを言った。
「逸脱を許すわけにはいかない。社会構造が崩れてしまう。性衝動をおおっぴらに解放してしまったら文化は低迷する。獣に文化文明は不要。六十年代半ば以降の現代がそうだ。建築も音楽も、歴史を顧みれば一目瞭然だ、制約の厳しい時代において、高度に洗練された文化が地球上に燦然と屹立している」
「精神性が崩れていくとしたら、わたしたちは何を守るの?」
 踏み込んでくる朱鷺の瞳は澄んで大きく見開かれていた。言い逃れは彼女に通用しない。蘭はこういう朱鷺が好きだった。
 彼はにやりと笑った。
「てめえの女くらいだろ」

女はいくらでもいた。今まで自分は何を見ていたのか。映画館で、バーで、ハンバーガースタンドで、或いは駅の雑踏で、女たちは壁にもたれかかり、髪の枝毛を選り分けながら樹を待っている。シャドウに目張りされた視線が、ひしめきあう人波をさかのぼり、樹の血ばしったまなざしをすくいあげる。
 目があった瞬間、どの女も一様に上目遣いになるのはなぜだろう、と樹は思う。しかしそれは合図だ。顎をひき、ルージュを塗った唇を微かにひらき、白目を際立たせる。いつのまにか、そういう時、樹もまた顎をひくようになっている。顎をひいて肩をすくめ、だらしない足取りで近づいてゆく。自分のまなざしが粘ついている。ねばついた視線が絡み合い、そのままホテルの暗がりに転落してゆくのだった。
 金をくれ、と樹は初めてウラジーミルにせがんだ。金はいくらあっても足りなかった。ロワではまだ見習い扱いで、自活するので精一杯だ。これまではそれで不足なかったが、女たちは遠慮なく金をせびった。樹をひっかける女は、小遣い稼ぎに売春する主婦や学生の素人売春婦だ。なかには淫売目的ではない娘もいたが、ふらふらしている彼女たちは、樹が誘うとたやすく同意し、しかも貪欲なことは売春婦以上だ。からだを交わしたあとで食事とレジャーを要求し、家まで送れとほざく。面倒臭くなった樹は彼女をバーに置き去りにし、次からはいかにも水商売風体の女を選ぶようにこころがけた。
「病気には気をつけろ」
 ウラジーミルは、むしろ嬉しそうに目を細めて金の包みをくれた。
「ウラァこそ」
 樹はにやりと笑って父親を見返す。いやな笑いだと自分でも思う。自分のすさんだ表情が父親の灰色の瞳に映っている。
「冴はどうしてる?」
「さあ。ウラァのほうが知っているんだろ」
「あいつも不器用だからな。冴も樹も俺と奥さんの不器用なところばかり受け継いだみたいだ」
「そうでもないよ。まあまあさ」
「親父をなぐさめるな」
 ウラジーミルは下唇を突き出すように煙草をくわえる。端正を損なうほどではないが下瞼がたるみ、目許の笑い皺が増えた。年をとった、と父親を眺めながら、自分がウラジーミルに対してひどく淡白な感情しか抱けないことに気づいた。しらじらと稀薄な関りの自分たちは何だろう、と樹はウラジーミルの煙草入れからピアニシモを抜き出した。
「吸うようになったのか?」
 まあね、と樹は頷き、とてもさりげなく尋ねた。
「冴に男をあてがったのは…?」
 ウラジーミルのまなじりの皺がいっそう深くなり、口許には鉛筆で描いたような皺の括弧が刻まれた。毛先が銀色に褪せた長い睫毛をしきりにしばたたかせながら、ウラジーミルは両手を顔の前でぎゅっと組み合わせ、その影から片目だけ出して呟いた。
「まあいいさ。おまえも二十歳になったんだから。注意書きはケースにある」
 俺が指図することじゃない、と彼が呟いたとき携帯が鳴った。甲高い女の声が樹の耳まで聞こえた。本音は心優しい悪がりの色男は反射的に息子に背を向け、電話を片手でとった。
 樹はウラジーミルのピアニシモとライターをポケットにねじこみ、金を包んでたちあがった。さばさばした顔で父親をちらりと見て、
「恩に着るよ。いつか返す」
「ライターだけでいい」
 息子の背中を見送る作り笑いは、泣き顔のように見える。彼は送話口を塞ぎ、口の中で呟いた。
「初めての女がくれたんだ」
 が、彼はその女の名前も顔も憶えてはいないのだった。

 俺はどんどん濁ってゆく。女たちの股のあいだ、毛深い雑踏、汚れたネオンと油臭い雨のじたじたと降るベッドの中で。アスファルトに降り注ぐ廃油のように粘る雨だれが俺を溺死させる。油臭い女の股。どろりとした中華そばの快楽、冷蔵庫で黴ているチーズの穴が俺を誘う。ケチャップとまがいもののソース、得体の知れないミンチをつめこみ、がなりたてる音程の狂った歌声に合わせて膝を揺すり、俺に頬ずりする。
 あたしのこと好き?
次の瞬間にはこう言う。
 愛なんてめんどうくさいよね。
俺は真っ赤なホットドッグを喰う。感覚が麻痺して、俺はそれをうまいと感じ始めている。ただ刺激が濃いだけの、屑肉を練ったソーセージ。それが俺の欲情にぴったり合うから。体臭。べたべたと首筋にこびりつくホテルのローション。ポスターカラーのように騒々しいパルファムを、彼女は得意気に腋になすりつけ、ファンデーションでざらついた毛穴を密閉する。
 彼女はひどく高価なレースの下着を身につけている。ビルの谷間で排気ガスに汚れた蜘蛛の巣網のようなこまかい襞が後生大事に抱え込んでいるムール貝には、さっき喉へ押し込んだ屑肉の臭気が降りている。人間は喰ったものの匂いを放つのさ、香水なんて糞喰らえ。
 亭主とはもう五年もしていないの、としなだれかかる女。乳臭い胸。こどもを生んだ後のひきつれが荒れたアスファルトのように罅割れて光る。ハイヒールに踏み荒らされた床。俺は絆創膏を貼りつけるように、彼女の乳房にペニスをくっつける。湿布。傷だらけなのはどっちだ。ウィスキーとジン、なまぬるいビールの泡。憎悪の澱の精液が女の皮膚を汚す。若いのね。そうでもないよ。毛深いひとがすき。毛深いものは……存在感があるから。あたし昨日こどもを蹴飛ばした。泣くんだもの。
 女はいびつだ。いびつな女ども。体型補正のファンデーションの圧迫が肉体にぎざぎざした皺を刻み、肉の瘤をこしらえ、背骨を曲げる。変形した情欲。ラメ入りナイロンパンティに包まれた性器はべたべたしている。梅雨どきの繁華街のネオンのように、けばけばしい欲望でべたべた濡れる。汗、体液の悲鳴、冷たい寝具をまくっておそいかかる倦怠。正常位の恋愛、後ろからなら密通、肛門の倒錯。
 ねえ、と彼女は金を財布にしまってからねだった。またがらせて。いいけど……下からだと醜く見えるんだ。でも彼女はひるまない。
 はやく済ませてね、次の待ち合わせがあるの。ぜんぶ脱がなくてもいいでしょう? スカートだけめくって、ほら。いやだ、ちゃんとガードしてよ。俺はいらいらして女を殴ってしまう。なぐって、押さえつけ、パンティをむしりとり、ストッキングで手首を縛る。
暴れろ、逆らえわめけ。だが、彼女は、いく、と叫び、俺から快楽をむしりとってしまう。俺には何も残らない。うつろな射精が胆汁をかきまわしてこだましている……女の陰毛を数えるように、俺は冴と、冴以外の女どもとのセックスを数えようとする。

 さわさわ、と夜風が雨を含んで梢をそよがせる。間近に演奏会を控えた蘭は下準備に上京しまだ帰らない。ことによると御前様かも知れないが、泥酔して送られてくるような無様はかつてなかった。彼は若いころは相当に無頼奔放を通したようだが、朱鷺といっしょになってからは、決して羽目を外すことはなく、節制を守っている。とはいえ几帳面には程遠く、朱鷺と蘭との生活時間帯は半日ばかりずれていた。早寝早起きの朱鷺にひきかえ、蘭は夜仕事をする質で、雑文書きなどは夜更けに始まり、深夜映画を見ながら、あるいは録画のスポーツ・ハイライトに悪態をつきながらごそごそと夜明けまで続く。朱鷺はさっさと寝てしまうが、蘭は彼女が傍にいて逃げ出さない、どこへも行かない姿に安心するらしかった。そのせいか、彼はことさら朱鷺を早寝させたがる。
 ときどき蘭は、朱鷺の寝室のドアを開けて彼女の寝姿をうかがっている。朱鷺は扉の前にうすぼんやりと浮かぶ蘭の顔を夢の情景のように覚えていることがある。彼は安心しているのだろうか。しかし朱鷺の思い出す彼の表情は穏やかでありながら寂しげだった。
 蘭さんが死んだら、と朱鷺はこの家を包む森影の深い夜に目をこらす。生茂る葉の重なりのために夏の闇はしっとりと量感があった。それはね、樹。朱鷺はまぼろしの青年に応える。
「それでは樹、あなたは明日死ぬと言たらどうするの?」
 ざわざわ、と枝が揺れ、椿の山にひとかたまりの風がなだれていった。若葉に漉された海風はヴィヴラートで飾った弦のように、梢を抜けてゆくとき、豊かにクレッシェンドする。ひと雨ごとに季節は移り、萌え出るものと生い繁るものとの精気とで、森は匂いたつようだった。青葉の闇は何かをそそのかすように風を孕んでざわめく。
 では、わたしがもし明日死ぬとしたらどうするだろう。
 朱鷺は窓を閉じた。自分の問いにかき乱されてしまう。蘭が死んだら、あるいは蘭と別れ別れになったら、という質問は初めてではない。何人かがそのようなことを言った。
 悪意ある善人。 
 ひとことで蘭はそれらのひとびとを片付けた。無神経で親切な恫喝。親切で無神経な詮索。なんでもいい。彼らは、親子ほども年の違う蘭と朱鷺とが、来るべき未来に対してそれほど無神経だと思っているのだろうか?
 樹は好意を装いなどしなかった。敵意と悪意。が、むき出しの意地悪さは往々にして攻撃する側の危うさ脆さを露わにする。偽善のない樹の台詞は朱鷺の耳に、冴に対する情愛と等質の憐れみをそそった。彼は自分を欺けない。 
 傷口のような無垢、と蘭はかつて朱鷺をさばいたが、樹も冴もたしかにそのような部分を抱えており、ことに樹は相手もろとも自分も引き裂いてしまおうとするかのような攻撃をする。
 底意地の悪い人間たちは、繊細さに指をつっこみ掻きまわす。野花を摘み散らすように彼らは無遠慮に、舌なめずりしながら無垢を踏みにじる。……言葉を失い、放擲されたムイシュキン公爵。
 いけない、と朱鷺は目をつぶった。わたしは樹を助けてはやれない。大人になるということは、と蘭は言った。あれもこれも欲しがるのはがきだ。どちらかを選ばなければいけない。
 明日死ぬとしたら、と朱鷺は呟き、ピアノのある部屋に行った。内面にくぐもっているものをほぐさなければ眠れそうにない。
 大人になることを選んだ。
 朱鷺はパジャマを脱いだ。生成りのタンクトップとコットンの下穿きは、現代バレエの衣装のように見える。
 シューマンやブラームスはまじめすぎて性に合わない、と蘭は酸っぱい顔をするのだったが、朱鷺は好きだった。
 騒々しく跳ねてはだめだ、と蘭は言い、アダージオな動きに座敷舞の静謐を取り入れるように教えた。音楽の流れは単調ではない。もだれかかり、はみだし、ときには先を急ぎ、フレーズはアメーバのように伸縮しながら進行してゆく。
 言葉では語れない流れ、情感の陰影を簡潔で衒いのないムーヴメントに表現できたら、と思う。ダンサーの動きのすべてはその心からなるもの、というマカロワの言葉を朱鷺は噛みしめる。いや、ダンスだけではない。演奏も、絵画も、書も、ひいては家常茶飯の挙措すべて、そのひとの心の映しに違いない。なぜなら、心のないところにキャラクターは成立しないから。
 芸や舞台においては、心が日常雑多の枷を離れ、凝縮されて表現となる。
 若き日のブラームスは、朴訥なまじめさが言いようもなく優しく可愛らしい。遠い日々、もう還らない記憶、優しかったひと、離れていった何かへの愛惜が、音の粒に混じって気恥ずかしげに朱鷺を見つめていた。哀愁は日晒しの布のように風合いを和らげ、踊り手のムーヴメントを柔らかくする。
 はにかんで見つめているのは朱鷺だった。風に鳴る窓の外で、もうひとりの朱鷺が、ゆらゆらと踊る彼女を見ている。
あれはわたし、うちひしがれた……
「開けてよ」
 一瞬ののち、朱鷺は現実に立ち返った。蒼白い顔が見えた。
「返しに来たんだ」
 ぶっきらぼうに突き出されたオーヴァーコートはクリーニングの匂いがした。樹は朱鷺の目を見ない。
「きみ、寝ていると思った。早寝だと聞いたから」
「蘭さんを待っているの」
 口をすべらせ、朱鷺はしまった、と悔やむ。樹の周囲にたちのぼるアトモスフェルの濃さはただごとではない、とすぐに察することができたのに。彼の伏せた睫毛に、きらりといやな光を見て、朱鷺は思わず上半身を退くが、樹はすばやく手首をつかんでしまう。むしられた鳩の片羽根のように朱鷺の手はあがき、すぐにしおれた。
「離して、痛い」
 その声はもう落ち着いていた。彼女はとっさに暴漢の喉を一瞬の躊躇なしに突き落とす俊敏と訓練を隠している。だが樹はそれを知らない。樹は苛立ち、唇を舐める。荒れた唇に血の味。
「また懐柔するつもりか」
「……」
 まだピアノが鳴っていた。愛をうたう音楽は、青年が運んできたなまぐさい夜風に不調和だ。
「落ち着きはらって俺に肩透かしをくわせる。そのくせ俺から遠慮なしに偸んでゆくんだ。卑怯だ」
「何が」
 ぐいっと引き寄せられて朱鷺は自由な片腕で窓枠にしがみつく。肩と膝の関節のどこかが、続けざまに鳴った。
「言いがかりよ」
「ずるい」
 あなたに乱暴される理由なんかない、と朱鷺は言い返した、が、その声といっしょにに天地がひっくりかえり、二の腕までひきすえられ、痛みに抵抗をゆるめたとたん、かるがると庭先にずり落とされた。窓枠の縁でタンクトップの胸元がびりりと裂け、なおしばらく続いたこぜりあいの汗と風の匂いが青葉闇に乱れる。
 叢に押しつけられると樹の顔が真上にあった。闇を吸った眼窩は夜空より暗く、インクブロットの染みのような影が少女の怯えを測る。
「二ヶ月で二十何人かの女を知ったよ」
 嘲りをこめて樹は朱鷺の喉をつかんだ。
「誰でもいいんだ」
 朱鷺は叫ぶことも忘れて樹を見上げた。彼は隙だらけだ。セックスできる距離は、相手を殺せる距離なのよ。が、彼女は彼を傷つけたくない。もう傷だらけ、このひと。
 弟から離れて他の異性を求めていった冴を思う。あわれだった。なぜ肉親で愛し合ってはいけないのだろう。禁忌、という未来のなさに冴の脆弱は耐えられない。百年の孤独は悲劇で終わる。冴は無垢な悲劇より、芳醇なチーズと葡萄酒を選びたい。
 では樹は?
 そして朱鷺は?
 せめてこう言おう、プリミティブな神話ではなく、彼らにはオルゴールで飾られた御伽噺を用意しよう、と。
 健やかな同衾のあとの心地よい眠りのために。オルゴールのつぶやきはブラームスのアベマリアでもいいし、乙女の祈りの切れ端でもよい。もちろんモツァルトでも。
 何を守る。内部からひそひそと瓦解がしのびよる現代で、あなたは何を守るだろう。
 てめえの女くらいだろう。
 朱鷺は息を吐いて、からだの力を抜いた。
「気がすんだ?」
 こんなことで、と朱鷺は樹のはるか上空の星空を見上げた。人間でなかったらよかったのに、と時々考える。センチメンタルなまなざしに星空はことに美しい。今感傷で星空を眺められるなら、朱鷺が樹を選んだということなのだった。強姦ではなく。
「こんなことで」
 呻いたのは樹だった。感情失禁の涙が彼の頬を伝う。少女が彼から快楽をむしっていったのではないから。短い抵抗のあとに、労わられていることが、樹にはすぐにわかったから。柔らかい労わりは、時として自尊心には罵声より酷いこともある。
 栗の花の匂いがつんとたち、樹のこめかみを涙と汗が混じりあって流れる。
 沈黙は雨雲のようだった。
 もういいよ。
 青年は少女の大腿に飛んだ白濁を指でなぞる。自嘲さえできないこのざま、と樹はうつろな気持ちでからだを覆った。

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