さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

スポンサーサイト

Posted by 水市夢の on

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

海の器  vol 12  UPRES UN REVE

Posted by 水市夢の on   0 comments   0 trackback

   APRES UN REVE

  潮騒のかくも愛しきふたたびは
    いつか知られず海に寄れかし
     

 くるぶしを包んで泡立つ波の、ひんやりと重い碧は、東雲の光を映してしらじらと透きとおってきた。山の鳶が馬のいななきのように鳴きあげ、繰り返し響くその叫びは、浜鴫や、遠くの山鶯まで誘って朝と真夏の訪れを知らせる。
 踏みしめるたびに砂は次々と踵に崩れ、波のリズムと同じ速さで重心を移さなければ倒れてしまいそうだ。寄せては返す波紋に目を凝らしていると、単調な潮騒を伴う際限のない砂の崩壊感と銀色の波模様が、立ち尽くす朱鷺をさらさらと水底へ運んでしまうかのようだ。
 水の冷たさが膝上まで這い上がってきたので、朱鷺は顔をあげた。すると、おだやかな入り江の湾曲ときらめく帆影、空に舞う鴎が一度に見え、暖かい生の感覚が戻ってきた。
 真夏が来る。
 梅雨の澱みはどこかに行ってしまい、彼方にひろがるまばゆい光は、重い夜の蓋をやすやすと持ち上げて駆け足でやってくる。辺りはまだ色彩のない銀青色の明暗だけだが、朝じめりの大気はもうさわやかだった。
 浜辺にはサーフィンを楽しむ人影がちらほら行きかい始めた。低い光線は彼らのどぎついスーツや帆を無彩色のシルエットに変え、蛍光色の騒々しさは、白い波の背びれにまだ霞んでいる。
 水を吸った砂に足音も消されていた。
 泳がないの?
 洒落た麦藁帽子を目深にかぶり、ポカリスエットの缶を両手に掴んで、ウラジーミルが派手なバミューダパンツにサンダル穿きで立っていた。
 帽子の縁から覗く瞳が、例によってはぐらかすように揺れている。彼はわざとらしいくしゃみをし、目の端で朱鷺を見る。
「夜が明けるね」
ウラジーミルのサンダルは水に漬かっていた。ちいさな貝殻が、彼の足の周囲で波にもまれてきらきら光る。
「泳ぎに?」
「いや、買い物、それに散歩。あすこのホテルに泊まっているので」
 ウラジーミルは顎をしゃくって破風だけ見える菫いろの建物を示した。朱鷺が何もいわないのに彼は歯を見せて笑い、両手の缶を振った。ふたりぶん。
 が、彼は一つを朱鷺に渡し、飲むようにと勧め、さっさと封を切る。
「待っているんでしょう?」
「でもないよ、彼女は寝坊だから。それに手が冷たくていやになった」
 ポカリスエットは彼の熱を吸って少しぬるかった。
 ぼさぼさの帽子、羽目をはずして胸をはだけたシャツ、むき出しのひょろ長い脚といういでたちにも関らず、腰に片手をあて、海風に額の巻き毛をなぶられているウラジーミルには、独得のみだしなみのよさがあり、彼の演出する中年男のだらしなさには程遠い。
 彼とホテルにいる女はとても若いのだろうか。朱鷺はウラジーミルが素肌にひっかけたアロハシャツをしげしげ見てしまう。シャツに寄せ集められた色彩はフォービズムの絵のように獰猛で、真っ黄色のハイビスカスが濁った青緑の棕櫚を威嚇している。彼はわざとこれを選んだに違いない。安っぽいアフターシェーブローションが匂う。
 彼はわざと自分を貶めようとしている。しかもそれはうまくゆかないので、ピエロに変装しそこねたシュヴァリエ、マノンにふりまわされる哀れなシュヴァリエのように精気がない。
「きみは」
 ウラジーミルは言いかけて朱鷺を振り返った。雲をつらぬいて陽が昇り、浜辺の熱気がふわっとたちのぼり、それと同時に、夏の海辺の色彩が、シンフォニー・オーケストラを奏で始める。
「僕のこどもたちは、きみを困らせた?」
 もってまわった台詞は、不首尾にも彼をせきこませ、ポカリスエットが飲み口からこぼれる。陽光を吸ってウラジーミルの背景の海は見る間に青く染まり、麦わらの黄色が後光のように彼の顔のまわりで黒い影をつくりながら輝いた。朱鷺はウラジーミルの気恥ずかしげな視線をとらえる。まなざしのほうが正直だ。
 が、ウラジーミルは瞼を手の甲で擦り、突然の少年ぽい仕草に媚をちらつかせ、後ろめたさを隠してしまった。
 こんなとき、何を言えばいいのだろう?
 朱鷺は吹き乱された前髪を撫でつけ、
「困ったことなどないわ」
 のらりくらりと核心の周囲を泳ぎ回るウラジーミルの物言いは、今不愉快だった。彼に好意を抱いている分余計に腹がたつ。あなたは冴と樹の父親としてわたしに話しているの? それともわたしの友人として?
 もっとも、こんな朱鷺のカテゴライズのほうが、人間性と自然の曖昧さに対する無理難題というものだった。朱鷺の苛立ちを見透かして、あっさりとウラジーミルは笑った。
「樹は気の毒なことをしたなあ。父親の我儘と母親のいいかげんが裏目に出た。こんな世の中ではあいつみたいなのは生きにくい」
 しらしらとウラジーミルは言葉をつなぎ、唇をほんの一瞬への字に曲げた。で、彼の白系ロシアの遺伝子による弓なりの輪郭正しい唇は、もう次の瞬間には上機嫌に、きれいな小舟のかたちにもどって、しっかりした顎の上で微笑しているのだった。
「田園交響曲なら――」
 さすがにそこで言葉を切った。
 朱鷺は瞬きもせず、一直線に寄せる長い波を見つめる。海の側でよかった、と彼女は思う。潮の匂いに記憶は紛れた。波のうねりにかきたてられる思いはある。それは朱鷺の足をすくう寸前で飛沫となって砕け散る。
 足元から鴫が可憐に鳴いて飛び立った。
「潮がふくらむ」
 ウラジーミルは呟き、冴はクラウスと結婚しない、と言った。

「こどもを生むなんて冗談じゃないわ」
「……」
「あたし、まだこどもなのに、育てられるはすないでしょう? 自信がない、勇気もない」
「クラウスが無理強いしているの?」
「まさか。彼はわたしに命令したりしない。ただ願うだけ」
「話し合いで解決できないの?」
「だめ。彼と話すと負けてしまう。朱鷺にちょっと似ているの。正論なのね。そして優しいわ。考えようによっては、それこそずるいやり方よ。彼に反対すると、こちらが意地悪で我儘な立場に立たざるを得なくなる、そういう話し方にうまくもってゆく。したたかね」
「ずるい? したたか?」
「わたしに自分自身を判断させる。まるで、きみは我儘女のままで年を重ねてもいいの?って言わんばかりの優しさ。いいわ平気よあたし我儘で、って啖呵をきっても、彼はぜんぜんへこたれない」
「クラウスはそんなに品行方正なひとには思えない」
「もちろん、四角四面ではないの」
「どんなかたち?」
「最初はBMWと思ったけれど、今は相当走り込んだボルボ」
「乗り心地がいいのね」
「あなた……ウラジーミルと同じことを言う」
「結婚したいと思っているのね」
――。

夏空を超えて樹はどこに行ってしまったのだろう。朱鷺の手に残されたのは、ずっしりと重いクーパーだけだった。蘭はそれを朱鷺に渡し、樹に返すように、と言ったが、もう彼はいなかった。
「シンガポールから空輸でウラジーミルにライターが届いたそうよ。あの子、ばかね」
 冴は樹の話題になると、クラウスについて話しているときのつやつやした幸福な混乱の表情をかき消して蒼ざめ、震えるのだった。
 夏の光を遮る帳の薔薇いろに包まれた冴の裸身には傷ひとつなかったが、肉体が傷まないぶんだけ、冴は自責の念に苛まれる。
「あの子は、あたしを罪悪感で泥まみれにして行ってしまった。痛めつけてくれたら、まだ気が楽よ。このお腹にすごい傷をつけるとか、顔をめちゃくちゃにするとかしてくれたら、あたしはまだ救われる。恨む余地があるじゃない。あたしたちは平等に傷ついたんだって思えるのに、樹はヒステリーさえ抑えて、ぜんぶ背負いこんで」
 冴は枕を抱いて呻いた。肌はもう焼けて、背中にほそい水着のあとが筋をつけている。この背中をクーパーが貫いたら、と朱鷺はふと想像し、軽い快感を感じてしまう。バターにナイフが突き刺さるように、冴の金いろの肌に、あの重い刃が沈む。血は初めそれほど出ない。隙間なく、ぴったりと肌に密着するから。クーパーを引き抜こうとすると、軽い抵抗がある。組織がねじれ、血管が静脈に沿って破れる微妙な手応え。待ち針の頭のように最初の血は鋼の周囲にぶつぶつ滲む。皮膚が内側へめくれこみ、それはペニスにひきずられるラビアのようにすぼまる。刃にぴたりと密着している皮膚。引き抜いたとたん、勢いよくほとばしる鮮血。黒い血。彼女の喘ぎ。
アクメのような絶望。
 そしてカタルシス。
(もしかしたら、冴も死にたがっていた?)
「何を考えているの?」
 冴はひっそりと息をころして尋ねた。自分の肌に触れてくる朱鷺の指先が冷たかった。何度となく繰り返された問いが、また冴の唇を動かし、だが今彼女は苛立ってはいない。
「あなたを刺し貫くこと」
 冴は首をねじって朱鷺を見た。サテンの枕の照り返しで、冴の顔の半分は薔薇いろ、もう半分がすみれ色に見える。顔の左右で表情が違っている。
 朱鷺はうなだれていた。起伏の少ない胸に、かたく、しまった乳房がすべすべした陶器のような光沢を湛えている。つん、と上を向いた乳首の味を樹は知っているのだろうか、と冴は想像する。得体の知れない妬ましさがこみあげてきたが、それは過去の自分に対する嫉妬かもしれなかった。自分は得がたいものを両手にしていた。なのに保ちきれなかった。
(朱鷺のせい? それともクラウスの?)
 誰のせいにしてもいい、と冴は自分を許す。理由は何でもいい。最初に激情があり、理窟や言い訳はあとからのろのろやってくる。いっそ全部壊してしまおうか。
「正直ね」
 冴は片手を伸ばし、朱鷺の喉を掴んだ。同じことをする、と朱鷺は身悶えをしたが、冴は朱鷺のおさげの髪をずるずるとひきよせ、人形をいじめるように手足をからめてしまう。
「あたし、樹に似ている? あたしを見るとあの子を思い出す? そうでしょう」
 冴は朱鷺に馬乗りになり、膝で彼女の腰をはさみ、乳首をぎゅっとつまんで親指とひとさし指でちりりと揉むと、朱鷺は悲しそうな顔をして冴を見上げた。
 朱鷺は、何かを克明に記憶していることができなかった。即物的な形象は独得の感受性に濾過され、曖昧にぼやけてしまう。直感のほうが優位をしめており、目鼻だちよりも、相手の内面を映す表情のほうが強い印象を刻む。
 姉弟そろっていたときは、このふたりはそれほど似ているとは見えなかったのだが、今では、とり残された冴の端々に樹の記憶をすくいあげることができた。髪の生え際、鼻と眉の付け根の、指で押し付けたような窪み、弓なりの眼窩の曲線や、女性にしてはすこし長い鼻筋の半ばで、作者がふと手を誤ったように軟骨がいびつになっているかたち。どういう遺伝子なのか、ところどころで皮膚の質がざらついている触覚までが、鮮明に樹の映像を呼び起こす。
冴を眺めているうちに、朱鷺は自分の感情の在り処がわからなくなる。哀しい、愛しい、寂しい、恋しい、つらい、せつない……
傷痕をひとつも残さず去っていった樹を、冴も朱鷺も憎めない。彼女たちが樹に対して共有しているあかるい寂しさは、たぶんいつまでも決着のつかないまま、感情の上澄みとなって漂うだろう。もし樹が還ってきたとしても、同じ物語を紡げるはずはない。
今は季節の変わりめなのだった。
潮の屈曲、季節と季節のあわいで競り合う風のさかいめ。大気に湧きあがる潮の匂いは変わらないが、風景は刻々と濃淡いろどりを変えてうつろう。この渚に樹がまた登場しても、彼は二十歳ではなく、冴も二十三歳ではない。わたしも、と朱鷺は心のまなざしで水平線を眺めた。その向こうに樹がいる。
(一年たっただけなのに)
 そう、去年の初夏、この海岸で冴に出合った。それから樹と。
冴は言った。
「なぜ樹と行かなかったの? 蘭さんに気がねして? あたしはあなたならよかったの」
 本心ではない台詞が冴の口をつく。もしも朱鷺と樹が結びついたら、あたしは嫉妬で気が狂ってしまうだろう。なのに自分はそうなるように仕向けさえした。ナゼ? 望んでいた、いる、と冴は混乱し始める。混乱はあたらしい汗となり、肉体のもっと奥深い部分で沸き返る。
 朱鷺のゆびがきた。
 冷たい。あたしを殺すことを考えているんだ、と冴は逆上する。けれども、生と死が楔形に交錯する頂点で、少女のほそい指は、柔らかく冴をあやつって無邪気に遊ぶのだった。内側と外側が反転し、傷だらけの心が皮膚感覚となって血を流す。朱鷺の指がそれを宥めてくれる。
 少女の膝に顔を伏せると、そのふたひらがひらき、柑橘類の香りのする雫が冴の手にこぼれた。そこは淡い薄紫をしている。すぐに濃い茜が昇るだろう。
(この半透明な華奢を樹は知らない)
 冴は疚しさをまじえた優しさで舐めた。毛細血管がまひるの明るさに透け、殺意も嫉妬も膜のような皮膚感覚に覆われ、ゆらゆらと漂う彼女たちの視界には、サテンのシーツの明るいさびしさだけが見える。

 きみの行動原理は何だい。
 陽射しが皮膚に突き刺さるようだ。朱鷺は帽子を持ってこなかったことを後悔する。ウラジーミルはシャツのポケットからハーフスモークのサングラスを出してかけた。すると三十年後の冴が現れた。
 朱鷺は着ていた長袖シャツを脱いで、頭からすっぽりとかぶり、顎の下でその両袖を結んだ。へえ、とウラジーミルはまじまじと彼女を眺め、
「インドの子みたいだ」
「あたしはヴィエトナムなんだって、蘭さんが言ったわ」
 それはほんとうだった。TV中継されたサイゴン市内を歩く娘たちの姿は、朱鷺と同じように手足が長く、首がほそく、胸郭は華奢だった。
「するときみは東シナ海から来たの?」
 ウラジーミルはふと口を噤み、飲み干したポカリスエットの空き缶を足元の砂に突っ込み煙草を銜えた。今の彼の雰囲気には似合わない、あるいは似合いすぎる重々しいダンヒルの、勿体ぶった発火音が潮騒に混じって聴こえた。
 海水浴の家族がはしゃぎながら砂浜をひとかたまりになって横切ってゆく。もう夏休みだった。母親らしい女が二人、熱帯植物のような水着を着ている周囲に、浮輪やビーチボールを抱えたこどもたちが跳ね回りながら海へ突進してゆく。彼らの周囲を毛のふさふさした犬が、こどもたちの歓声に負けじとばかりに、賑やかに吠えながらついてゆく。彼らの影は短く濃く、垂直に照りつけ始めた真夏の光が乾いた砂にハレーションし、家族客は、白い砂浜に原色の穴を開けるように降ってきた。
海だ、とこどもの叫び声が聞こえた。
「わたしは犬のようなもの」
 ウラジーミルは、煙草をくわえたまま横に微笑をひろげて疑問を表わした。
「あまったれで、飼い主にべったりくっついているちいさい犬」
「きみ、甘えん坊には見えないね」
 ウラジーミルは口をとがらせて煙を吐き、女の意見にめずらしくまぜかえした。
 朱鷺は返事をしないで、渚を駆けてゆく白っぽい犬を目で追った。暑さに弱い長毛種の犬は、母親たちがこしらえたパラソルの影にもうひっこんでいる。朱鷺には、あのシーズーの、赤い舌を出して、はあはあ喘ぐ声が聞こえるような気がする。それに、強い光線のために匂いたつあたらしい糠のような犬の匂い。健康な獣の陽にさらされた臭気は、母親たちのつけているパンケーキより強烈だろう。
「で、きみは蘭さん以外になつかない?」
 朱鷺はサングラスを見た。ウラジーミルは眼鏡を盾にして彼女の視線を受ける。しかし、彼女が見ているのは、グラスの縁に輝く赤と緑のプリズムだった。朱鷺は素直には応えなかった。
「冴が好き」
 ことさらさりげなく、そのさりげなさで、こちらの心の痛みを訴え、相手の軽薄な好奇心に釘をさすことができたらと願いながら言い添えた。
「樹も愛している」
 うん、とウラジーミルは煙を空に吹きだし、その向こうにもくもくと湧きあがる積乱雲を見つめ、しきりにダンヒルを弄ぶ。彼には雲しか目のやり場がない。
 ウィンドサーフィンを抱えた若者たちが三人、身体にぴったりした黒いスーツを着て傍らを過ぎてゆく。若者のひとりは背中のファスターを閉めず、チョコレート色の背中と肩が、着付けの途中の着物のように割れていたが、水滴にきらめく健康な皮膚の輝きは、その焦げた肌の下にこそ、ほんものの蒼白い、傷つきやすい皮膚が隠れているのではないかと思われるほど強靭だった。彼らが快活な呼吸とともに運んできた汗の匂いは、朱鷺の心臓を錐のように刺す。砂を含んだ髪の匂い。胸に押し当てられた頭からたちのぼった陽さらしの磯、防波堤の腐食した鉄の匂い。
 ……。
わたしは蘭さんといっしょにいる。
 でも俺ともいる。
 あなたが見ているのは、風景の中のひとつとしてのわたし。わたしだけを見ているんじゃない。
こわいのか?
 樹は冴と離れられるの?
 ……殺したい、殺せない。
 殺さないと離れられないの? だとしたら、殺したって冴からは離れられないわ。誰も身代わりになんかなれない。
 我慢できない、今のままで。
 ……苦しい。
 俺が死んだら、哀しい?
 ――。
「きみはあいつを送り出してくれた」
 ウラジーミルは帽子をいっそう目深に被りなおし、顔をぼさぼさの鍔の翳に隠してしまった。彼には稀な、揶揄も好奇心もとりはらった優しさがある。彼は自分でもその感情が恥ずかしいのか、帽子の青い翳の中で、ごくちいさな声でつぶやいた。
「僕はろくでなしで……」
 どおん、と真夏を揺るがすように大波が押し寄せ、渚ではいっせいに歓声と悲鳴が沸いた。潮が満ち始めている。岬へ湾曲しながら続く長い海岸は、あとからあとから押し寄せる海水浴客で賑わっていた。さまざまな色合いの水着や遊具が、画用紙にしたたる絵の具のように、とりとめない喧騒で夏を塗りつぶそうとしている。

血の気を失った頬が快楽の極みでやつれていた。
 冴は濃い睫毛を持ち上げ、何かを待ち望むように天上を見つめる。しかしそこにあるものはバロコの歪んだ唐草模様と、色褪せ始めた薔薇いろの絹だけだった。愛撫の名残が疼きとなって腰にわだかまる。それに終止符を打つ明確な痛覚が欲しかった。樹が消えて以来、感情の澱みが下腹部を圧迫している。クラウスに埋めてもらいたい、という欲求がじわじわとせりあがってくる。
(クラウスだけで満たされるの?)
 冴の後頭部から、誰かの鈍い声が響く。誰の声? 朱鷺? それとも累?
 結婚したら、朱鷺とはおしまい。樹が戻ったとしても、できなくなる。過去現在のポリガミーを未来のモノガミーと交換してあたしは安定を手に入れる? 
(退屈であたたかいクラウスのベッド)
 冴はクラウスに悪態をつくが、我ながら反抗の気力に乏しかった。彼女には毛むくじゃらのあたらしい男が必要なのだった。華奢な朱鷺にまたがることはできても、手足を伸ばしてのうのうと寛ぐことはできない。
 自分のしてきたことは何だったの、と冴は呟く。帰ってきて、行かないで。だが殺されるような裏切りをしたのは冴だ。後悔の余地もない。弟を追い詰めたのは彼女のほうだ。朱鷺が帰っていったあと、まだ裸の彼女がなお焦がれているのは、樹が彼女に刻みつけた感覚の残滓なのだった。体を交わしていなかったら、冴の悲哀はもっと違った涙になっていただろう。
 冴はサテンの枕に顔を埋めて泣いた。弟が失踪してからもう一ヶ月以上経ったが、まだどこかに彼の匂いが残っている。彼女の涙は素直だが貪欲だった。冴はもう前進することを決めている。上等にもボルボが用意されているではないか。それで、彼女は思う存分泣くことができる。
 枕許で電話が鳴り、留守番に切り替わった。
厚みのある声が冴の歎きを遮る。大きくて、いかにも教養のある、自分を信じている中年男の声が、とても自然に彼女を呼んでいる。虚勢を張らないのは真底強いからだ、と冴はうっすらと朱鷺を思い出す。
 コードレスの電話がオンフックになっていたのは偶然ではなかった。
 干潟に取り残された魚なら、水のいっぱい入ったバケツを選ぶだろう。後でどうなろうと……。
 食べられるとしても。
(肥らせたい。キャビアはどう?)
 鮫は嫌い。ふくらんだ……がいい。
 彼女は膝を抱えてベッドの端までころがり、胎児のような姿で受話器を抱えた。

「死ぬ死ぬと騒ぐやつほど長生きし」
 蘭はコンサート・グランドを拭きながら朱鷺を見ずにうそぶいた。
 半世紀以上も前の巨大なピアノは、丁寧に手入れをしてきたおかげで、古びて厳しくなり、この家の誰よりも悠然としている。調律師泣かせではあったが、音色はえも言われぬ風合いで、高音はリナシメントの王侯の肖像画さながら沈んだ光沢を放ち、音が割れ始めた低音は、人工の領域を超えて岩場に砕ける波のように震えた。それを蘭は、ルービンシュタインを真似て思い入れたっぷりに奏く。もちろん朱鷺の前で。観客なしにパフォーマンスするほど彼は素朴ではない。
 大丈夫さ、と蘭は手布をまるめて放り、ぬっと朱鷺を振り返った。
「今の柳句がわかるか」
 極まるときに、死ぬ、というだろう? 同じだよ。生きたいから死ぬ。
「茶化さないで」
「とんでもない。これは世界史を貫くアフォリズム。死の恐怖が人間を駆り立てる。全力疾走するのは後ろから狼が追いかけてくるからだ。恐怖がエネルギーの媒体よ。つまり、生は不可避的に死の補給を受けないとうまく働かない。あるいは鈍くなるんだ」
 だから、と蘭は楽譜を開いて言う。
「あいつは生き延びるさ。インドネシアの急成長は目を瞠るものだ。樹ならかしこく化けて見せるだろうよ。べつに日本〈人〉でなけりゃ生きていけないわけじゃない」
 それで、と蘭はアンコールピースのメンデルスゾーンを奏き始めながらつぶやいた。
「おまえも行くか。ここを離れて」
 愛撫のようなメンデルスゾーン。彼はもの言いたげに旋律を揺らし、決定的なドミナントに続く完全終止を避け、物語を先へひきのばす不完全終止を多用する。語りきれない、愛撫したりない想いがあるよ、とばかりにズブドミナントの和声が優しく繰り返される。カタルシスはあるようでなく、どこかものたりないほのめかしのまま、やがて曲想は消えてしまう。
(くじけたままの樹を、どうしてそのまま帰すことができたろう)
 朱鷺は黙って蘭の背中にしがみついた。
「いかない」 
 ズブドミナントのまま、ここにいる。
 蘭さんと。
 おや、と彼は眼をみはった。朱鷺のそのような表情は見たことがない。そうか、と彼は了解し、鍵盤から手をあげ、すっと少女の体温を自分の背中から離した。朱鷺は逆らわなかった。少女の胸と男の背中のあわいに、夏の大気がさらりとはいりこみ、ピアノの音が止むのを待っていたかのように、窓の外の楡の幹から甲高く蝉が響き始めた。
 それでも朱鷺は微笑を絶やさなかった。彼女は自分が必ず男に受け入れられるとわかっているからだった。
 漆の塗り目がマーブルのようにわずかに波打つ、微妙なつやの浮かんだピアノの表面に少女の淡い笑顔が映っている。竹内蘭は奇妙な気がした。自分は労わられている。彼は自分の真横に蔦のように垂れたほそい少女の腕を撫でる。薄く汗ばんだ皮膚の感触はとても快いものだった。
「焼けたな」
「すこしね」
 少女の腕を撫でる大きな手の甲の縮緬皺が前より増えている。手入れのゆきとどいたたまご色の手は柔らかく、まだ丈夫そうだが、亡滅の海はしのびやかに彼の肉体に漣を寄せ始めた。
「日焼けどめを使え」
 かぶれるから、と朱鷺は拒み、わたしはこのままがいいのと蘭の髪に触れた。短く柔らかい男の髪からは、レール・ジュ・タン、時の流れがほのかに香った。

                                                                海の器  了

スポンサーサイト

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://donanobispacem717.blog.fc2.com/tb.php/62-cc0f2e53
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。