さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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夢浮橋  vol1

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   夢浮橋

 きりぎしの下には白い神のゐてこども奪(と)りつつ夢渡りする

 蔦かづらのからみつく欅の古木は、十数年前、草紫の生れる前、大嵐の落雷で、てっぺんから裂け、幹の中ほどまでまっぷたつに割れ、激しい稲妻が大樹をつらぬいた痕跡は、つやつやと黒く焼け焦げて残った。
 草紫がものごころつくころには、欅は嵐の痛手からじわじわと回復し、ふたまたに裂けた傷口をあたらしい樹皮と枝が覆い、初夏から秋にかけて、結衣ヶ浜へ続く傾斜の途中、この大木の脇を走りぬけるこどもたちの頭上ゆたかに緑の葉が重なり、ひろびろと海風を享け、気持ちの良い音で夜昼さやいだ。
 叔母の桜織の手にひかれて、幼児の草紫がこの小道を通りかかるたび、叔母は草紫を抱き上げて、ふたまたに割れた欅の幹に座らせた。
「ほら、海が見える」
 六歳の幼児ともなれば、ほそい女の腕では胸元まで持ち上げるのがようやっとだったのか、途中から草紫は足をぶらぶらさせながら、幹に突き出た何本かの手ごろな枝にしがみつき、短いスカートからむき出しの膝小僧にいくつもちいさい擦り傷をこしらえながら自力でよじのぼり、ちいさいおしりを湾曲して割れた欅のまんなかに置くのだった。
そこらへんは、ちょうど桜織叔母の頭よりすこし高いあたりで、割れた木の繊維が縁にぎざぎざしていたが、子供ふたりぐらいはゆっくり腰を下ろせる程度に幹の中ほどは窪んでいた。きっと長年、草紫以外にもたくさんの子供が、この二股の焼け焦げを崖っぷちの見晴らし場所にしたおかげで、稲妻の焼いた樹の傷痕は、彼らの膝や腰に何度となくこすられて、古い木造建築の床のように、すべすべとなめらかにさえなっていた。
「海は見える?」
 桜織が草紫を欅に登らせるのは、気候のよい季節に決まってた。草紫の記憶にある欅ごしの海は、さまざまな彩りの緑の葉にかざられ、その記憶のところどころには、秋の緋色や金色の紅葉が箔押しのようにちりばめられているのだった。
「見えるよ」
 幼児はふたまたの窪みから別な枝の太い枝に体を移してまたがり、大人ぶって片手を目の上にかざして応えた。
「さおちゃんも昇りなよ」
 桜織は青白い顔で、樹上のこどもを見上げ、ぶよをはらうような仕草でかぶりを振った。
「海はどんな?」
 桜織の質問はいつも決まっていたようだ。海が見える、海は見える、海はどう?
 桜織の立位置から岬が見えないはずはなかった。欅の古木はもと稲荷か何か土地神の廃れたあとの宮の森の名残で、周囲にはたぶの木や樟、百日紅などが、手入れを怠けて雑然と、昔のたたずまいを留めている。社はもうあとかたもないが、崖を回る小道から逸れて、やや離れた欅の手前まで、昔の狭い参拝の石段が罅割れながら続いていて、途中でふいに消えていた。
大人が手をひろげてぐるりと回転するくらいの面積の中に、小さい社鳥居があったものかもしれない。山に沿って九十九折の小道をまわるよりも、欅の向こう側に傾斜する崖を降りたほうが、正道よりずっと海へ近いので、足に自信のあるこどもたちは、たいていこちらを駆け抜けることにしていた。
 欅とその他の一位や樟は、ぺんぺん草や芒昼顔の繁る崖の縁で、きっと海風を防ぐ宮の防風林の役目を果たしていたのだろう。が、内陸ならともかく、潮風の吹きつける海沿いには育ちにくい欅が宮の森になっていたというのはめずらしいかもしれなかった。
 だから、樹の根方に立って、草紫と同じように崖の彼方を望んでいた桜織に太平洋が見えないはずがない。樹のなかにいた幼児と樹の側にたたずんだ大人の視界にたいした違いなどない。
 が、桜織はこどもを見上げて、訴えるような口調で同じことを毎回尋ねた。あれはどういう意味だったのだろう。海は青いか、銀色か,金いろか、風の景色はどうだったか、光の屈曲は、かもめの影は、潮流の変化が時を追って蛋白質の虹いろを帯び、時化の予兆を込めて入り江のほうから暗色にかげり、荒波のやってくる沖合のほうが、なぜかいつまでも透明な青を保って鋭い波濤を刻む……そんな結衣ヶ浜から鹿占(かうら)半島の長い一望は、まだ分別の曖昧な幼児よりも、大人の桜織のほうが識別できたはずだ。
叔母の問いに応える草紫の返事も同じだった。
「見える。よく見える」
 それから、そのときはこんなふうに言ったと思う。
「船がたくさん出て、何か光ってる」
 汗をかいてよじのぼった覚えもあるから、真夏だったろうか。いや、樹翳の匂いが鼻の奥までつんととおり、海の額縁となってそよぐ風のいろはあざやかな萌黄、まばたきするたび瞼の裏で明るい紫も踊ったから、きっと初夏新緑のころだったろう。
「光っている?」
「うん。海が、船のまわりで光っている」
 桜織は草紫から視線をそらし、自分の前に張り出した枝に頬杖をつき、
「あの船?」
「うん」
「たくさんの船のまわりだけ?」
「そう、あとは青い。ふつうの海のいろ」
 桜織もまたいっときじっと、沖合いからゆっくりと香枕海岸に戻ってくる漁船に目をこらしていた。それから言った。
「こないだの嵐で行方不明になったひとが、きっとあれに乗っているのよ」
 そして、
「わたしには船は一つしか見えないわ」

 大きなふっくらとした綿布団二枚に挟まれ、僕は立っていた。左右の綿はそれぞれ色が違っている。片側は桃色、濃い桃色で、お祭りの夜店で売っている綿菓子そっくり、感触もふわふわ、しっとりしていた。でもべたべたしなかった。綿菓子は手や指につくとすぐべたべたにちゃにちゃするけれど、この、僕の背丈と同じくらいの高さで、幅はどれほどかわからない厚いふわふわしたマットは、肩や腕に触れても嫌な感じはぜんぜんしない。もう一方の綿の壁は青い。ピンクとブルーだ。青い方も桃色とだいたい同じ感触で、ふんわりと厚い羽根布団のようだった。
 苦しくはなかったけれど、ぼくはこの中から脱け出したいと願い、そろそろと歩き出した。動いたら、左右のピンクとブルーが僕を締め付け、ぺちゃんこになってしまうんじゃないかと怖かったが、じっと立ったままでいるのもいやだった。あたりはほんのりと白っぽい、影の見えない明るさで、歩き出す僕の膝がはっきり見えた。
膝小僧には掻き傷擦り傷がいっぱいついている。昔桜織おばさんが僕をお宮の欅に登らせたとき、樹皮や枝でひっかいた傷のような、こまかいかさぶたができている。木登りの傷が治りかけるころに、桜織さんは、また欅のところに行って僕を木登りさせたので、薄くなったかさぶたはまた剥がれて新しい血が滲み、繰り返し血が滲み、ずっと治らなかった。それらの傷は、当時たぶん六歳の僕の喘息が治り、身体も大きくなって学校に入り、桜織さんから離れるまで治らなかった。
 夢の僕は十三歳になっている。現在の僕の実年齢そのまま、夢のなかで僕はピンクとブルー、綿菓子と羽にぎゅうぎゅう両側から押し潰されそうだ。でも歩けるからそろそろと進む。
 桃色と空色の圧迫。いや、僕はちっとも苦しくない。ただもやもやしているのが鬱陶しい。そうだ、この色は、僕がまだ学校にも幼稚園にも行かず、ただぶらぶらと家にいたころ、よく着せられていた服の色に似ている。
 僕は花模様とか、ビーズとか、リボンとか、かわいいサンリオのキャラクターとか、そんな飾りのついたシャツやブラウスを着せられていた。そしていつも膝上のミニスカートを穿かされていた。.
生れたときからずっと女の子の格好をして、肩まで髪を伸ばし、毎朝桜織と母親がかわりばんこに髪を梳かし、ポニーテールや編みこみにしてくれていた。誰も僕を男の子だと思わなかった。僕は僕を女の子だと思っていたろうか。僕の周りには母親と、彼女の妹の桜織だけがいた。保育園にも託児所にも行かなかったから、幼馴染というのは小学校に一年遅れて入学してから出来た。
 今僕は夢を見ている。用心深く白っぽい地面を歩き出し、羽根の膜みたいなところから出て行く。踏みしめる地面の感触がない。歩いている感覚がないのだけれど、歩いている僕の膝と爪先がはっきり見える。僕は裸足だ。そして地面は冷たくない。なんだか漂っているみたい。浮かんでいるのかな。背中に羽でもついているならすてきだ。
すこしひらけた目の前に何人かの見知らぬ大人がいた。男性、女性、学校の友達みたいな子供も混ざっている。おかしいな。彼らの周りには膜がない。そして事務所か集会室みたいなところで、長い会議用机の両サイドに、自分勝手な感じで座っている。
僕は桃色と空色のサンドイッチから脱け出したんだろうか。顔の両側左右を確かめると、まだふわふわぼんやりとした半透明が糸屑のようにまつわりついている。
「…はいくつだい」
きょろきょろしているうちに、いきなり質問された。机の上に緑色の三角帽子を被ったこびとがいる。帽子のてっぺんは、巻貝の先端みたいに螺旋を描いている。そこから赤い星飾りのボンボンが、こびとの顔の横に金の鎖で長くぶらさがっている。すてきな帽子だ。クリスマスみたいだ。僕も欲しい。ピンクとブルーでなく。
「……はいくつ?」
 僕は五百と答えたかった。なぜ五百なのかわからない。だけどその答えでは間違いなんだ。誰かが僕の後ろから囁いた。正しい答えは「……よ」
 爪先から頭まで一メートルくらいのこびとの顔は絵本の人物みたいだ。でなければメールの顔文字。その顔が最初の表情を変えずにもう一度僕に質問する。いくつだ?
 数字がそんなに大切なのか? 奇妙に思うが、後ろから答えを教えてくれた声のとおりに正解を言った。すると彼は消えて、今のいままでこびとが立っていた長机の上に、ぱっくりと真っ赤な楕円形の闇が立った。それは平面ではなく闇だった。なぜなら、その楕円の向こう側の空間が見えないから。そこから先は真っ赤な別世界。アリスの鏡かな?
 こびとが消えても人々は無関心な雑談を続けている。ふりむくと、ピンクとブルーの布団はいつのまにか消えて、何もない灰色の丘の上、黒と白の横縞模様の棺の中に座って、こちらを眺めている母親が見えた。
彼女は僕の小学校の入学式に着ていった淡い水色の着物を着ている。その姿はアルバムに残っている。パソコンでも、それから卓上三次元プロジェクションでも見える。そうだ、こびとももしかしたらプロジェクターの虚構かもしれない。僕が今見終わった夢も、現実の残り滓のようなコンプレックスの修正プロジェクションなんじゃないだろうか。

「流された人が戻ったそうね」
「ええ、香枕の漁師が磯で見つけて。さっき草紫とその船を見たわ。樹のところで」
 樹、というのは崖の上の大木のことに決まっていた。
「行方不明になって何日めかしら」
「四日か五日」
「それじゃ魚に食い散らされて、まあ」
 母親はうなじを見せて高く結った自分の首筋の汗を、陶器を撫でるような手つきで拭った。ハンカチは持っていない。てのひらで首筋の湿りをとり、花模様のエプロンの裾でその手をまた拭く。食い散らされて、と母親が無造作につぶやいたので、桜織は食卓に坐り、足をぶらぶらさせながら、プーさんの絵のついたひらたい幼児用フォークにカステラを突き刺している草紫にちらりと視線を走らせ、微苦笑を浮かべた。
 散歩から戻り、午後のおやつを食べている草紫の側で、母親と桜織はかるい声で話していた。草紫の母の水晶、みすず、は妹とひとつ違いだから、そのとき二十八歳だったはずだ。草紫は入学前の六歳、桜織は二十七ということか。夏には黒い崖のそこらじゅうに野百合が咲き群れる蘇芳山の古い家には、母と叔母と草紫の三人で住んでいた。大正時代に原型が建ち、年月を経るごとにあちこちを改築し続けた中二階のある家に男はいない。水晶には夫がいなかった。
「港に行って確かめたわけじゃないでしょう? なぜそれが死人を乗せた箱だとわかったの」
「そうちゃんが教えてくれた。船がたくさんいて、ひとつの船の周りが光っていると。でもわたしが見たのは一艘きり。じっさい一艘でしょ。半端な時間にあたふたと戻ってくるんですもの。でもこの子には、まだそういうふうに見えるのよ」
「まだ見える、そうね。でももうじき治るでしょう」
 水晶は白い眉間にかるく眉を寄せた。きれいな細い弓なりの眉は、人工ではなく自然に生え整って、眼窩の縁を毛並みよく飾っている。それは桜織も、また草紫も受け継いでいる。アリサの眉よ、と母と叔母はときどき自慢していた。『狭き門』のアリサと同じ、額に晴れやかな高い眉、と。
「七歳まで? もっと長く続いたら?」
 桜織は眉を寄せずに、ひんやりした表情で姉の眼を見た。ややなじるような口調だ。が、水晶はさらりと応じた。
「今までどおり」
「ひとりではかわいそう」
「だって普通のこどもたちといっしょにはできないでしょう。ここでこうしているから、草紫は無事なのに」
「無事、そうね、みいちゃんの言うとおり」
 草紫はおやつを食べてしまうと、母親と叔母の顔をかわるがわる眺めた。幼児の眼に相似形の姉妹は快く美しかった。人間であれ物体であれ、よく似ている複数のものを並べて見るのは気持ちよく、また安心するのだった。こういう感受性は、大人より児童のほうが鮮やかかもしれない。草紫は母や叔母に連れられて外出した先で、初対面の誰彼に会うたび、そのひとびとがひどく醜く感じられた。それは男性、女性、老若を問わなかった。未知の顔は歪んで見える。ときに恐怖を呼ぶ。じっさいそれは正しい知覚で、水晶桜織、草紫という家族は、前世の功徳か偶然かで器量よし、目鼻と体型のすんなりと均衡の佳い家系に生まれついた。
 あたらしい人間に対するいびつな不安感は
相手と親しくなり、頻繁に見慣れるうちにやわらぎ、やがては消えた。そして草紫が七歳を過ぎ、小学校に上り、その視界になだれこんできた数知れぬ新しい顔への驚きは、もはや美醜の違和をきしませなかった。違和よりも驚きよりも、こどもは相手を認識し、ぬくぬくした塒から出て、刺だらけの世界で手足を動かさなくてはならない。不安を感じることができたのは、母と叔母にはさまれたまるい世界には、幼児の独り遊びできるゆっくりと暖かい余白がふんだんにあったからだ。
「ごちそうさま」
 子供はからになった皿とフォークを両手で持つと、爪先立ちするような格好で食器を流しのシンクに置いた。
「洗わなくていいわよ。わたしがやるわ」
 桜織が言い、うん、と草紫は応えたが、片手を水道のバーに乗せ、器に水をかけた。プーさんのフォーク、プーさんとウィニーのケーキ皿、ホットミルクのマグカップはミッフィー。洗わなくてもかんたんに水をかけておけば、あとで汚れを落とすのが楽だ。草紫はちゃんとわかっている。
 あ、と草紫は息を呑んだ。バーを押せば透明なねじれとなって、いつものように水が迸るはずだが、今は出なかった。ちいさい幼児のてのひらで圧した銀色のバーはかくんと空しい手ごたえを返し、突き出た蛇口から一滴の水も蛇口に添えたてのひらに滴ってこない。
「ママ、さおちゃん」
 お水が出ない、と言いかけて草紫は眼をまるくした。白いレースのテーブルクロスのかかった食卓に向かい合って母親と叔母が座っている。さっきまでと同じだ。けれどもダイニングに続く居間と、その向こうの、庭に面して幅半間の縁側を改めたサンルームは消え、真っ黒な海流が静かなうねりをざわざわと寄せて天井まで満ちていた。水晶と桜織の髪が水没した海の中で藻のように揺らいでいる。ビニールのテーブルクロスの縁がひるがえり、するりと卓上から浮きあがり、エイのようにくすんだ裏側を見せてどこかに泳いで行ってしまう。ティーカップもスプーンも、砂糖壷もジャムの瓶も、みんな潮に巻き込まれ、ひとつづつの回りに巻貝のような渦をこしらえながら、わたつみの懐深くへとさらわれてゆく。母親も叔母もそれをとめようとはしない。
 ここまで海が来るかな、と草紫はすこしも恐がらずに考えた。水に溺れたらどうしようという恐怖感がないのだった。なぜなら水晶も桜織も顔の周りに乱れからまる髪に、顔を見ることはできないのだが、苦しがっていないことは明らかだった。桜織はいつものように片手で顔の髪をかきあげる仕草をし、
「死んだのはひとりじゃなかったのよ」
 向かい合って座った水晶もうなずいた。
「あたしの中にも入ってきた」
 水晶は両手で自分のほどけた髪をひとつかみに頭上に持ち上げ、すると彼女の手の先で、長い黒髪の束は末広がりに、海月の触手か魚の尾鰭のように左右上下にさわさわと揺れた。
「あたしたちどんな顔をしている? 草紫」
 女たちのどちらかが幼児に尋ねた。
 子供は水の勢いの及ばない壁の向こうから、水霊にとりこめられた女たちを見た。
 ゆっくりと瞬きをする。母と叔母と同じ、晴れやかな高い眉は気持ちよい曲線を子供の額に描いたままだ。笑っているかもしれない。
「おさかなのかお」
 ではちゃんと成仏したのね、と水晶桜織のどちらかがつぶやいた。

 このノートは出来すぎてる、と水香(みか)は断定し、長い睫毛越しの上目遣いに僕を睨み、眼で怒りながらも口許は笑っていた。彼女は僕と同い年、新折鶴中学の一年生だ。僕は水香と小学校のどこかの学年でクラスメートになり、彼女の名前の水香に自分の母親と同じ一文字が含まれているという、ただそれだけの理由で、最初から彼女に好意を抱いた。
 初恋だろうか? ちがう。僕は桜織が好きで、ちいさいころからずっと母親とそっくりな叔母にしがみついていた。その叔母は僕が小学校に上る直前、僕には知らせずどこかに行ってしまった。僕は彼女を探して時々泣いたが、母親は桜織の行方について何の情報もくれなかった。ひょっとしたら、外国に行ったのよ、くらいのでたらめは何度か言ったかもしれない。そんな出まかせはすぐにばれる。ちいさい子供にはことに見抜かれる。七歳の草紫なら、桜織は亡くなった、と言われたほうがむしろ信じたろう。
だけど桜織は死んではいない。どこかに生きている。そしていつか帰ってくるかもしれない。そして僕を抱き上げて、また宮の森の欅のふたまたに座らせて、海の様子を尋ねるだろう。いや、そのころ僕はきっとすっかり青年になっているから、桜織にはとうてい僕を抱き上げるなんてことはできない。それならこうしよう、僕が彼女を肩に乗せ、そうだね、お姫さまだっこでもいい、彼女がそうして欲しいなら、あの崖の上の欅に持ち上げ、僕のほうから尋ねてみよう。ものうげな、すこしかすれた、でも澄んだささやきを真似て、海はどう、海が見える?
「海はどこにあるの?」
 飴里水香は横柄な口調でぼくの渡したノートを閉じた。ノートはプラタナスの葉っぱを何枚も綴じ合わせた感じで、ぱたんと閉じ合わせたとたん、水香のふっくらした手の甲に、頁の隙間からそろりと灰色の尺取虫が這い出してきた。彼女は肘を手首の位置と同じ高さの胸元まで上げ、腕をほぼ水平にして、ちびの芋虫が自分の手首を伝いやすくしてやった。水香の髪にはいろいろな草花がからまり、彼女のぽちゃぽちゃした丸顔を明るく飾っている。もしかしたら髪の隙間から紫苑やコスモス、たんぽぽ、しろつめくさ月見草、そんな名前もわからない野花を小型にした群生が、じかに咲き出しているのかもしれない。
 これも夢と僕は気づく。水香の頭を飾っている野草の景色は、花冠というよりも、水香が春夏秋の野山をそっくりそのまま頭に被っているように見える。そうか、水香は野原の精か、そういうことにしておこう。冬の雪はここにない。雪の妖精はきっと植物の精霊とは違う姿になる。花咲き乱れる脳味噌の各種繊維。フラワーチルドレン、ってこういうことなんだろうか。いや、水香は複数ではなく単体だから、やはり野の妖精と見立てたほうが、僕の夢見は快適だ。
「夢をそのまま書いたんだ。君の言うとおりにさ」
 僕は水香に自分の夢日記を見せる約束か契約をしているらしい。水香は不服そうに口をとがらせた。
「桜織さんが消えたのは、いつ」
 僕はどきんとする。水香に僕の心を読まれているのか。夢の中で彼女はきっと精霊だから、たいていのことは見抜けるんだろう。
「六歳の終わり」
「お母さんが亡くなったのは」
 水香は自分の二の腕を気楽に這っている芋虫を、にこにこしながら眺めている。
「ママは死んだ?」
「そうよ、あたし、草紫のママのお葬式で草紫に初めて会ったのよ」
「なんだって?」
 僕はむっとして食いついた。同時に水香が今着ているものが、夢ノートに記録した母親の着物と同じものだということに気がついた。水香に見せた前回の夢のおしまいで、ママは黒白ツートンカラーの派手な棺桶に、きっと正座して、晴れの衣装をすっきりと着付けていた。帯も締めていた。厚ぼったい金色の帯。
卓上三次元プロジェクターで、僕の勉強机の上に蘇る母の姿に棺桶はない。高さ三十センチ、操作によっては最大一メートルの透明立体フィギュアとなって実現する正装のママは、その名前のとおり、水晶のようにきらきらと虹の後光を帯びている。
そういえば桜織のヴィジョンがなかった。なぜだ? そうか、彼女がいなくなったころには、立体プロジェクターが商品化されていなかったからだ。だから僕は無意識に、ごく自然に母親の姿に叔母を重ねてしまう。
僕は夢の続きで前の夢を自覚している。そしたらこの次に見る夢も、自覚のある夢の夢のまた続きかな。眼の前の水香は帯も襦袢もなしで、じかに長着を肩にかけている。母や桜織ほど整ってはいないが,少女にしても肌理のこまかい色白で愛嬌のある顔立ちは、もしかしたら二、三年先にはびっくりするような変態を遂げて、誰もが振り返る美人になるかもしれない。が、十三歳になったばかりの水香は顔も姿もまだうすぼんやりと彫りの浅いパステルな印象だった。
女子の成長はある時期まで男子より早いから、十三歳の彼女は僕より背も高いし、身体も厚い。着物の下の水香の衣装は見えない。ぼくはどきどきする。裸にも見えない。どうでもいいから胸元をちゃんと合わせろよ、でも何か着ているんだろう、ととっさに彼女から眼を逸らしながら、動揺をとりつくろうために、必死で一瞬前のむっとした感情をすばやくフィードバックさせ、
「それならママが死んだのはいつか、なんて訊く必要はないだろ」
「あるわ」
 水香はすずしい声で言った。
「なぜさ」
「海が見たいからよ」
「それとこれとどういう関係にあるんだ。ママが死んだことと」
「桜織さんが消えたことと」
 水香は長すぎる着物の裾をたくしあげるように両手で腰のあたりまでひきあげ、僕の台詞の先取りをしながら、くるりと背中を向けた。ゆらゆらと歩き出した水香の背中に、彼女の頭から花やはなびら、草の蔓や茎がぽろぽろとこぼれる。ボッチチェルリの「春」の絵のようだ。そう言えば、桜織さんは彼の絵をいくつも模写していた。そしてボッチチェルリの描いた女に、桜織おばさんはよく似ていた。彼女の横顔は、愁いを含んだマドンナや、所在なげな生まれたてのヴィーナスよりも、朗らかなシモネッタにそっくりだった。画家の作った無意味で優雅な微笑。だけど肖像画の硬いスタイル以上に、屈託のない天真爛漫なシモネッタの表情が見える。そしてママもそうだ。豊かな髪と、長い首と、白い皮膚。きれいな輪郭の顔の、さわやかな細い眉の下、いつも、どこを見ているのか定かではない、虚ろで柔和な瞳。僕もそうだろうか。僕は七歳になって女の子をやめ、少年になったのだが、僕も彼女たちと同じように、柔和で虚ろな、何かを待ちわびているような唇をしているのかな。
細い鼻梁の下に、海鳥がつばさをひろげたような形のよい上唇と対照的に少し厚い下唇。上下のはざまはいつも緩んでひらいている。
笑っているようにも、呆然としているようにも見える。彼女たちの感情は、その半開きの唇から浮きあがり、常にどこか、ここではないところに漂っていく。ボッチチェルリの女たち。この夢には海が出てこない。だから水香は僕をなじった…。出来すぎって?

夕べの影が、引潮から変化した潮流の起伏とともに渚に押し寄せてくる。海原から届く風は真昼の熱を残してあたたかく、皮膚におだやかな凪だったが、どこかに枯れ草のような乾いた樹々と砂の匂いをさびしく含んでいたから、その季節は春や夏ではなく、また切りつける冷たさもなかったから、きっと秋のさなかだったろう。
幼児の草紫を真ん中にして左右に大人の女ふたりが並び、三人で手を繋いで結衣ヶ浜を歩いていた。濡れた砂浜には、日没前に餌を漁る烏の群が降り立ち、思い思いに散策する人間たちが近づくたびに、一定の間隔を守って飛び退り、不機嫌そうにざわざわと羽ばたき、太い、よく響く声で短く啼いた。
そして鴎。青灰色にくすみ、水平線の金色に闇の濃紺がひそひそと混じりあう中空、鴎たちの白い姿は、かえって夕べの光に滲んで見えにくかった。海上を舞う翼の影さえ、夕陽の金に縁取られた芯の青い雲に紛れて、草紫が懸命にその飛翔の姿を追っていても、ともすると視界からかき消えるのだった。鴎たちも烏に劣らず、しきりに啼きあげ、騒ぎ、ただ旺盛に生きることだけ忠実に追求している鳥たちのイノセンスな叫びは、目に見える速さでかきくらがる波音の単調な抑揚に、句読点のようなアクセントをつけていた。だが波音や鳥の声から物語を読みとろうとするのは、ただ人間だけだ。
「わたし、もうじき行くのね」
 桜織は風に乱れる髪をいつものように片手で押さえながら、もういっぽうの手につないだ草紫の手に、かるく力を加えた。
「どこへ?」
 草紫は両手を母と叔母に握られて自由がきかない感じだった。母も叔母も、幼児の歩調に合わせてゆっくり歩いてくれる。三人の歩いたあと、海水に濡れたなめらかな渚には、時間の縫い目のような規則正しい跡が残る。顔を桜織のほうに向けて草紫はもういちど尋ねた。
「どうして、どこに行くの?」
 叔母は白い顔をうつむけてこどもに笑いかけた。彼女の顔の背後に、黄昏の長い雲が銀鼠いろに光り、ところどころ鼠色と朱色が濃くなっている。雲のない空は、透明な水色をなおとどめていた。だがこの明るさは、もうまもなくひややかな藍色に沈むはずだ。明るさと暗さとが、黄昏の曖昧に暈されてゆるしあう海の側で、草紫を見下ろす桜織の顔は余光そのもののようにくっきりとした。彼女は微笑んでいたかもしれない。嬉しそうだったかもしれない。光と影がせめぎあいを止める黄昏、海と空は渚を歩くひとびとの感情と呼応し、求めるものと等しい密度で慰めをくれる。それはまた、世界の無限の深さに人間がひとしく抱き取られる瞬間でもある。
だから桜織は笑っていたのだろう。
「そうちゃんは来年学校にあがる。見ていいものと、見てはいけないものとのさかいめがはっきりしたから、わたしはもうここにいる必要がないの」
「いやだ」
 草紫は母親に掴まれたほうの手をふりほどき、叔母にしがみつこうとしたが、水晶はこどもの手を放さなかった。
「同じところにとどまっていてはいけないのよ、わたしたちは」
 これは水晶の言葉だった。草紫は母親のほうを向いた。水晶も妹と同じ角度でこどもを見下ろしていた。彼女の顔も暗い黄昏をきれいな輪郭で切り抜いたかのように白い。
「いやだ。いっちゃいや」
「わたしたちだけじゃないわ。誰でも生きているかぎり、ひとつところにはいられない」
 桜織は水晶に向かって言ったのだろう。姉は妹と向き合い、満ちてくる潮の高まりに掻き消されまいとするかのように、声を高くした。
「死者でも同じことよ。わたしたち、というのは生死を問わない」
「そうね。命は個体を次々と乗り換えて、ただ存り続ける。わたしたちはその器。わたしたちは命そのものが見ているかりそめの夢、その器なのよ。ほら、そうちゃん、あなたには見えるでしょう?」
 桜織は波頭がこちらに向かって一直線に広く高くせりあがってくる彼方に顎をしゃくった。
「何が見える?」
「波」
「波の向こうは?」
「たくさんの死んだひとたち。生きているひとたち、手をつないださおちゃんとそうちゃんとママ」
「ぜんぶが見えるでしょう?」
「うん」
「それでいいの。海と空はスクリーンなのだから。ちゃんと見ていいものをそうちゃんは見ている。生と死と、それは等しいもの」
「死んじゃいやだ」
「わたしたちは、死なないの。死ねないの」
「そうちゃんも?」
 もう上りましょう、と水晶がふたりの会話を遮った。そしてからかうように笑った。
「死なない人間なんていないわ」
「ええ、お姉ちゃん、海や空だったら、死ななくていいのよね。年もとらない、時間もない、ただざわめいて打ち寄せて、悦びも哀しみも知らず、アルファもオメガもなく」
「男でも女でもなく。男であり、女であり」
 水晶は呟いた。満ち潮のどよめきは、その台詞の一瞬、ふと鎮まり、上空から藍色のかぶさる上空に、ぽつんと現れた夕星と同じ確かさで時間の中に彼女の声が光った。
「わたしたちはアルファもオメガもなく、ときどきこどもを生み、育て、その期間だけ群れをつくり、必要がなくなったら、またひとりでどこかへ行く。孤独が嫌なら、人間に戻る?」
「いいえ」
 桜織は海風から髪を押える手を放した。肩より長い髪は鳥の羽のようにふわっと舞い上がり、同時に草紫の手をほどいた。自由になった両手を桜織は三人の爪先まで浸し始めた海へ、満ち潮に向かってさしのべた。こうすると、今すぐにあちらへ行ってしまえそう。わたしたちはあちらからの夢をこちらがわに汲み上げた一杯の水なの。

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