さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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人魚草  夢浮橋vol2

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人魚草

  ひさかたの天なる君へ幾重ね
     潮数へて逢ふよしもがな

 七歳まで母親と叔母に甘やかされて育った僕は、それから学校に上がり、否応なく集団生活のまっただなかに突き飛ばされた。考えてみればこのとき桜織が消えたのは、僕の成長にとって、とても賢い思いやりだったとわかる。桜織がいたら、僕はきっと小学校なんて一日で止めてしまったろう。
テンペラ画像から脱け出したような水晶桜織、ふたりの女王の統治する温和な小王国で、彼女たちの愛玩動物よろしく、フリルやリボンのついた衣装を着、定期的に樹登りをして海の色を眺め、ときどき水死者の発見を叔母に報せる、おやつにシュークリームかカステラをいただく、女たちは突然海の生き物の姿に変化し、古民家はその数瞬わたつみの精霊の結界に入ってしまう。そんな時間から離れられなかったにちがいない。
 水晶は、桜織と顔立ちは似ていたが、僕に接する温度が、叔母より格段に低いのだった。実の母親に違いないが、僕にはどこか近寄りがたい存在だった。そして桜織がいなくなって初めて実感したのだが、水晶はほとんど家にいなかった。どこで何をしていたのか、僕にはわからない。僕の父親と逢っていたのかもしれない。僕は父親を知らない。桜織が消えると、三人住まいにしてもだだっぴろい古屋は、以前よりさらに森閑とした。
小学校から帰っても誰もいない。水晶は夜遅くでなければ帰宅せず、ただ冷蔵庫にきちんとおやつと夕ご飯が調えてある。乳母の役目を終えた桜織はどこに行ったのだろう。
僕は家で過ごすひとりの時間を、たいてい桜織の部屋に居た。部屋は桜織が暮らしていたころとまったく変わらない。鏡台も、書棚も、ベッドも、壁に飾られた桜織が模写したボッチチェルリの絵も。
布団、クッション、人形、ぬいぐるみ、ドレッサーの中には使いかけの愛用の香水とすこしの化粧品などがそのまま残され、引き出しや洋服箪笥には、やはり衣類小間物、アクセサリーがすっきりと整頓されたまま。荷作りの慌しさの気配皆無。これではこの部屋の主は、引っ越しではなく突然消え失せた、あるいは急死した、と説明するほうが自然だ。叔母は着のみ着のまま、僕たちの世界から出て行った。そうだ、桜織はここから何を着て行ったのだろう?
「たとえばこんな感じ?」
 キイキイ、と廊下の床板が鼠鳴きをして、桜織の部屋の入り口に、車椅子に乗った少女が現れた。呆然と叔母への思慕に耽っていた僕はぎょっとして、手にしていた叔母の日用品を取り落としそうになった。桜織が昔の草紫の髪を梳かしてくれていたかもしれない――当然彼女自身の髪も――柘植の櫛だった。
丁寧に手入れを怠らなかった一枚の櫛は、こっくりと椿油がいい色に染みている。鼻に寄せれば、油に溶けて、持ち主そのひとの頭髪の匂いがまだ嗅げる。……運よく僕は、突然の闖入者の前で、気恥ずかしいジェスチュアを見せてはいなかった。ただ手にとって、手作りのきれいな櫛の歯並びに見惚れていた。それはピアノの鍵盤の整正に似ている。
「あたしのような姿で、桜織さんは行ったのだと思う」
 車椅子に座った少女は言った。彼女は自分の両サイドの大きな車輪を自在にあやつり、扉をいっぱいに開いて、僕のゆるしを請うことなく、部屋に入ってしまった。真っ黒なおかっぱ。赤いワンピース。白いレースの襟飾りはヴィンテージ。ちょっとアリスのお茶会風なクラシック。でなければゴスロリか。車椅子に座り、青紫の絹の膝掛けで腰から下を隠している。みんな原色だ。おかっぱ髪に挿した幅広カチューシャは、ワンピースと共布に違いない深紅。
「きみ、誰? どこから来たの?」
 これも夢だ。なぜってこの子の顔には、目鼻がないから。くろぐろした厚髪に囲まれた卵型の色白なのっぺらぼう。きみ、顔をどこに忘れてきたの?
「あたし、感情がないの。だから顔もいらない」
「どういうこと?」
 口がないのにどこから声を出しているんだ。耳はある。では耳から発声してるのか? 耳も喉も同じ粘膜なので、非常時には代用可能、もとい夢だから不条理可能。
「桜織は顔があったよ。美人だった。やさしかった。ときどきこわかったけど」
「あたしも昔は顔があったの。だけど、とても好きになった人がいて、その人のために顔を消したわ」
「すごいね。まるで大人の台詞じゃないか。大恋愛して顔がなくなった? 失恋したということ? 感情を使い果たすほど?」
「人魚草を食べたの」
「え?」
「それを食べると、永遠にたったひとつの美しい表情を保ってゆける、という魔法よ」
「にんぎょそう。だけどきみ、文字通り無表情だぜ。真っ白だ」
「そうなの。人魚草を食べてわかったことは、つまりわたしはそのひとのことが全然好きじゃなかったのに、好きになったふりをしていた。自分自身を欺いていたので、人魚草を食べたら、嘘偽りをすっかり取り去ったいちばん美しいわたしの顔、空白、がわたしに与えられたのよ」
「冗談きついぜ。まるで妖怪だ」
「そしてまだあるの。人魚草の作用は」
「まだ?」
「ええ、ほら、これよ。あなたの叔母さん、わたしみたいになっているはず」
 おかっぱ頭をうつむけて、片手の親指と人差し指で膝のスカーフをつまみ、それからロングスカートを膝小僧までたくしあげた。
「歩けなくなっちゃったの」
 僕は頷いた。ここは何かうまい帰結で落ちをつけよう。落ちはつけてもけちをつけるのはいやだ。どうせ見る夢ならおもしろい方がいい。この子の変身をカフカ哲学的不運不幸のドツボにしないで笑い飛ばすには…
「顔がなくても、マーメイドなら後姿だけで皆を篭絡できるよ。少なくともアマゾンの半魚人よりましじゃないか?」
 でも、これと叔母とどういう関係があるんだろう。叔母には足があったし、のっぺらぼうなんかじゃなく。

 海と陸とがせめぎあう境界に、水晶、桜織、草紫の三人があおむけに寝そべり、刻一刻と明けてゆく空の景色を眺めていると、時間と空間が自分たちを中心とするひとつの巨大な天蓋に、世界は波音を響かせる壮麗なカテドラルのように感じられた。引き潮といっしょに外海めがけて疾走してゆく雲と風は闇を拭い去り、同時に星を運び、月光を消し、代ってめくるめく夏の曙の朱、紫、濃淡の薔薇いろを惜しみなく拡散しながら、こちらのちっぽけな命を蒼穹へひきあげてゆくような気がした。
「あたたかいね」
 草紫がぽつんと言った。ついさっきまでここは海だった。結衣ヶ浜から鹿香海岸まで遠浅の入り江で、ひろやかな波がしりぞくと、海底はゆったりと光沢のある素肌を見せ、ひとびとは数時間、海の匂いがむせかえるなめらかな地面を楽しむことができる。もっともそこが地面だとは誰も思ってはいなかった。
潮が引いても、そこは海底なのだった。黒いごつごつした岩や藻、ねじれた流木、地上で目にすることはたぶんできない海底の砂が、潮の流れを映して優美な曲線を描く、目に快い無彩色のグラデーション。それから観光客が投げ込んだ、空き缶や瓶。ところどころに魚の死体。食い散らされた水死者の魂、などがざわざわとわだかまり、それでいてさわやかな海の体温がいつまでもたちのぼる入り江。
海の素肌からたちのぼる匂いは、どこかに死者の腐臭をふくみ、また太陽と月光、貝殻のかけら、砕けたガラスの粉末、人間のあらゆる体液の混淆を抱え、うっとりするなまぐさい魅惑をくれるのだった。この匂いを拒める生物はたぶんいない。海は地球上の全生命の母胎なのだから。
草紫は濡れた砂にめりこみそうな自分のおしりをむずむずと動かした。もしかしたらさっき見かけたヤドカリが近くににじりよって来ているかもしれない。酷暑の真夏、熱帯夜の温度を大気よりも濃く残した砂浜は三人の全身を胎盤のように包んでいる、真上にもう星の光は見えない。まひるの熱を予告する純白と青紫が、じりじりと啼き始めた蝉の声とともに、波のさんざめきに覆いかぶさってくる。
 こどもを真ん中にはさんで左右に母親と叔母。川の字のスタイルはいつもどおりで、草紫は橙色の水着を着ていたと思う。腰に白いミニのギャザースカートがついた幼児用水着。胸にディズニーのティンカーベルのプリントがある。橙色を選んだのは水晶だろう。桜織ならピンク色を着せたがるはずだから。
 水晶は白いインド綿のワンピース。桜織は何を着ていたろうか。姉と同じような薄い綿の夜着をまとっていたかもしれない。水晶も桜織も、どんな色相であれ、原色という強引を身につけたがらなかった。が、それでいて幼児の草紫にはいかにも子供らしい派手なブランドの洋服なども面白がって着せていた。
母親と叔母は、衣装がびしょぬれになってしまうのも構わなかった。髪も皮膚も砂に埋もれ、波にひたし、退いてゆく潮の気配を爪先ではかり、いかにも気持ちよさそうだった。
草紫は寝そべったまま母と叔母をかわるがわる眺めた。頭を動かすと、首筋から耳にかけて、しゃりしゃりと砂が動き、肩甲骨のあたりで、自分ではない生き物がそろっと動き、鹿占半島の山並から顔を覗かせた太陽が、わっと光線を顔に浴びせてきた。
 太陽のまばゆさから顔を背けるように母と叔母の横顔を見ると、彼女たちの髪の生え際から繊細な鼻梁、その下にくっきりと快い起伏をリズムのように刻む唇から顎にかけて、まったく同じ山並の影のように見えた。太陽の逆光になった女の顔は青く、光線を享ける反対側の女は白い。どちらも眼をつぶっているので、まるで鏡に映ったひとりの女の映像のように見える。
どちらが実体でどちらが虚像なのだろう、などとは考えない。誰も考えない。虚実は用途に応じて交換可能なコンタクトレンズだ。それが仮に金茶やブルーの色つきレンズであっても、外見が変わるだけであって、使用している本人にはさしつかえない。今、草紫が母と叔母の間で彼女たちの鏡になっているとしても。
「こうしていると、わたしたちだけが世界に生きているって気がする」
 桜織が言った。
「傲慢な感想」
 水晶は応じた。
「そう? でも、世界は当人の見たいものしか見えないものなのでしょ?」
「いいえ、すこし違うわ。こうよ。世界はそのひとの見えるものだけが見えるの」
 桜織は黙った。草紫は眼を閉じた。太陽が眩しくなってきた。蝉の声が分秒刻みで増してくる。散歩に連れ出された犬の声も。それから、県道を走る通勤か行楽の自動車の喧騒。
さんざめく波音。犬たちの唸り声のように退いてゆく海。海岸通りに人の気配が増え始めた。

「きみは夢なんだろう?」
「いいえ。あたしは夢じゃない。あなたが夢を見ているのよ」
「そういう言葉の末端ではぐらかすのは、これが夢だろうと僕はやだね。つまりさ、きみは僕の夢の中の登場人物だ」
「夢の中だけじゃないかもしれないのよ」
「現実のほうにきみの本体があるのか」
「その言い方。夢はかりそめで現実が本体なんて古くさいわ」
「理窟っぽいな。感情をなくしてもへらず口はたたけるんだ」
「そうねえ。だって感情がなくなったらあとは角がたつ知性理性しかないもの」
「こういう会話じたい、むなしくないか?きみはいったい何のためにここに車椅子でやってきたの。そうだ、名前を教えてよ。ぼくは草紫。くさのむらさきと書いて、そうしって読む」
「わたしの名前?」
 のっぺらぼうの少女は小首をかしげて、人差し指をかるくたて、頬にあてた。借りてきたようなポーズだが、困惑を表現するのにはぴったりだ。なぜなら部品のないすべすべした顔には皺ひとつ寄らないのだから。渋い縦皺を作りたくても眉間がない。
「あたしの名前は」
 少女は自分の真っ赤なワンピースをつまんで、膝の上で揺すった。最初赤一色と見えた衣装は、原色の強烈に目が慣れると、生地にこまかく黒い水玉がプリントされているのが見えてきた。
「あたし、こんな赤いお洋服を着ているけれど、名前は青なの」
「青?」
「美しい青、と書いてみさお、美青」
「なぜここに?」
「あなたが桜織さんを慕っていたから」
「きみと彼女とどういうつながりがあるの」
「言ったでしょう。桜織さんは、あたしと同じ人魚になってこちらがわからいなくなったのよ。だから人間の使う品物は何も要らなかったの。服も、化粧品も、アクセサリー、お金。何にも必要ないわ」
「じゃあ彼女は海に?」
「ええ」
「きみは海から来たの?」
「そう、いいえ、まだよ。これから海に還ろうとしてたところ。なのに顔がなくなってしまったから」
「結局どうしたいんだ」
 僕はいらいらし始めていた。真っ黒なおかっぱに、固ゆでたまごをつるんと剥いたような美青と向き合っているのは少なからず薄気味悪い。彼女が着ている赤いワンピースも、桜織をなつかしむ僕には暑苦しすぎていただけない。真っ赤な刺激のおかげで無意味に胸がどきどきするけれど、目鼻のない顔相手では、かきたてられた胸の動悸だって異性へのときめきには到底ならず、未知との遭遇アドレナリンとドッキング。そうさ、気味悪いときにはだじゃれをかます。カラ元気でも笑い飛ばせばセロトニン&エンドルフィン分泌。で、口笛吹いて妖怪くらいへ、い、き。
 この台詞とともに、夢の中でもぼくはウィンクしてかたほうの肩に自分の頬をすりつけ、にっこりと笑うべきなんだろう。母親似で、まだ声変わりもしていない僕は少女にも見える美少年だからね。
「来てよ」
「え?」
 うまいぐあいに不気味を脱出してナルシシズムのハイポジションに突入しかけていた僕は、まじめくさった美青の声に我に返った。
「いっしょに来て。そしてあたしのなくしてしまった感情を探してほしいの。失った情緒をとりもどすことができるなら、あたしの顔は復元できる。そしたら海に行ける。人魚草を食べて変身したなら、絶対に海か湖に還らなければいけないの」
「非合理にしても、わかりやすいメルヘンな命題だけど、僕がなぜ?」
「あたしと桜織さんが同族だからよ。人魚族」
「それだけ?」
「そう、同族相憐れむ」
「人魚になるのが病気なら、そのひっかけは正しい」
「人間であることは、地球生命体にとって認識的な自己破壊かもしれないのよ」
「そうだね、人類は常に確信犯だ。四つん這いから立ち上がり、遠くを見つめる高い姿勢を選んだ突然変異の瞬間から」
「だからね、人魚になるってことは、人の罪障を逃れて、無垢無意味な永遠の循環時間に戻ることなのよ。むしろ病からの回復」
 僕はユニバーサルな正義感に根ざした説得にうかうかとは乗らなかった。少年は形而上的存在であると同時に、ずっと切実に多感なんだ。だから条件をつけた。夢でもかけひきは重要だ。ユーモアと同じくらいに。
「桜織に会えるなら美青といっしょに行ってもいいよ」

夜中に眼を覚まして側に誰もいないとわかると、子供は心細くなり、仔猫のような声で泣き出すこともあった。早寝の草紫がふいに目を覚ます夜中は、大人にとってはまだ宵の口で、たいてい水晶はまだ帰宅していなかった。お守役の桜織は、草紫が眠りつくまで添い寝をし、やがて自室へ戻る。やがて母親が帰ってくると、草紫の隣に夜具を敷き延べて就寝するのだった。
草紫は眠りの前に桜織、目覚めには水晶の顔を見る。ふたつの顔は安定して似通い、美しく、幼児の視線は歪みのない二等辺三角形を常に見ていた。草紫を頂点とする三角の二等辺の長さは、幼児のひろげた両腕の長さに比例し、また水晶桜織の子供を抱き取ろうとする腕の長さでもあった。間尺というおっとりした昔の物差しの距離で、ふたりの女と子供は均衡していた。
「どこ…」
 ぐずぐず泣きまねをしても、誰も現れないと悟ると草紫は布団から抜け出て、きっと親指をしゃぶりながら、桜織の部屋に行ったのだった。桜織がいないのなら水晶も帰ってはいない。
 たいてい桜織は起きていた。その晩も彼女は自分の部屋にいて、窓を開けていたから冬ではなかった。そうだ、部屋の天井明かりは消えていて、書き物机の上の小さい照明だけが灯っていた。桜織は長い髪を左右に分けて竹久夢二の女学生のような三編みにし、光度を低くした枕明かりの側で、何か本を読んでいたかもしれない。本は、もしかしたらパソコンタブレットだったかもしれない。
だが草紫の追憶する桜織の画像に夢二を被せるなら、メタリックシルバーのタブレットよりは、セピアな画集か詩集のほうがふさわしい。それはこの文脈では、まったく意味のない小道具なのだから。リアリティを無視し、大正浪漫の画像に桜織の顔をはめこんだ追憶であっても、少年の叔母への思慕が妨げられるおそれは皆無だ。
「こわい夢を見たの」
 目をこすりながら子供が訴えると桜織は、
「わたしたちは、こわい夢なんか決して見ないはずよ」
 と微笑みながら言った。水晶も自分も、そして自分たちの子供の草紫も、悪夢を見ることはないと言うのだった。
「なぜ?」
「わたしたちは、樹や海に近いいきものだから。わたしたちが見る夢は樹のゆめ、海のゆめ。水のもの」
「そうちゃんも?」
「もちろん」
「雨が降ったら雨になる?」
「そういうこともあるでしょう。そうしたければ」
「でもそうちゃんはほんとにこわかったんだよ」
「どんなふうに?」
 おいで、と桜織はほっそりした腕を伸ばして幼児を抱き取った。体温と匂い。くしゃっとよじれた寝間着の柔らかい感触。その下で呼吸している湿った胸のヴォリューム。わたしたちは水のもの、と言いながら水晶も桜織も肉体じたいはいつも暖かかった。
「何が出てきたの?」
「……」
 幼児には答えられない。おばけ、あくま、かいじゅう、ようかい、そんな言葉を女たちは子供に教えなかったから。
「へび」
 かろうじて草紫は言葉をさがす。子供の恐怖心をすくいとる具体的ないきものはとりいそぎ蛇。
「蛇だけ? 蛇は暗いところをするする這うだけ。何もしないよ。ときどき郵便受けの中にいて、蓋をあけるととぐろを巻いて脅かす。それだけ」
桜織はくすくす笑うのだった。笑うたび木綿の寝間着の下で、彼女の肌の弾力がふるふると波打つ。それが子供には海の浅瀬のさざなみのように感じられる。幼児の全身を安心と嬉しさで満たしてくれた桜織の匂いは何だったろう? 彼女はたまに香水や日本の香も使ったが、ふだんは何もつけなかった。
 からだを洗うのは、ボディシャンプーではなく固形石鹸だった。草紫はよく覚えている。お風呂には母か叔母といつもいっしょに入っていたから。桜織は石鹸を泡立てて、まず子供をくるくると洗い、それから自分を清めた。  
石鹸はヴァーベナを好んでいたが、こだわるということはなかった。石鹸の香りは、湯上りのいっとき肌にとどまって嗅覚をなごませ、体臭と溶け合うこともなく、ひと晩のうちに気化してしまう。 
 だから桜織の匂いの追憶は人工香料によって再現されない彼女だけのものだ。ひとたび鼻をかすめれば、たちどころに鮮やかに彼女であることを気付かせてくれるのだけれど、花や植物の名前で形容できない、植物と動物の境界を行き来する体臭。桜織は水晶と、匂いだけが似ていなかった。

「とてもかんたんなシチュエーション」
 鍔をばさばさに切りとばした麦藁帽子を被り、大輪の向日葵を肩に担いだ水香は言う。
 真夏の炎天下。周囲は見渡すかぎりのもろこし畑だ。いや煙草畑かもしれない。もしかしたら僕たちの立っている道の片側は向日葵に埋め尽くされていたかも。とにかく、濃い青空にげんこつ型の白雲がぽんぽんと浮き、太陽は中天に照りつけ、水香は太陽をなぞったような黄色い麦藁帽子と向日葵を担ぎ、僕の目には、直射日光に照りつけられたあかるい黄緑と黄色ばかりが見えた。
「かんたんって何のことだよ」
「草紫の夢」
 鍔広の帽子の影に隠れた水香の胸元から上は周囲の金褐色のまばゆさに、濃い青紫の影になっている。印象派の絵のようだ。目鼻も見えないが、セルリアンのシルエットの中、かっちりと小舟のかたちに開いた口に、粒の揃った歯並びが雫のように白く滲んだ。
「夢?」
 ようやく僕は思い出した。僕は水香と夢日記の交換をしていた。僕と水香はお互いの夢を分かち合う約束をし、覚えているかぎりの夢をノートに記録して相手に見せる。だけど水香が、多少軽蔑的な口調で批評している僕の夢って、どの夢のことなんだろう。
「あなたってば美人のお母さんと叔母様に猫可愛がりされ、世の中とほとんど接することなく、女子供だけの一面的世界で生きてきたの。その世界は男性性皆無、さらにはドングリの背比べ的同年齢横並び集団において必要な第一次成長期を駆け抜ける逞しい競争心も育たず、のんびりあなたは王子さま、どころか王女さまだったのでしょ? 驚きだわ。自分の性別を知らないなんて。でも小学校に入り、カルチャーどころかヴァイタルショック。スカートから半ズボンに衣替え。男の子として行動するうち、あやまちにようやく気付いて――十二歳半で実存認識するのなら遅くはないよね。甘ったるい綿菓子的母性愛の締め付けから脱け出し、あたらしい世界へ踏み出そうとする。そんな筋書きが丸見え」
 ぺらぺらとセルリアンブルーの水香はまくしたてた。長い台詞の途中で息継ぎするたび、肩に担いだ向日葵はゆさっと揺れ、水香の顔が相変わらず影になって見えない代わりに、黄色い花弁を規則正しく円盤の周りに開いた向日葵は、あっけらかんと大口開けて笑っているように見えるのだった。
「ああ、羽根布団の夢か」
 僕は頷いた。綿菓子的母性愛とはおそれいった適切な分析。確かに僕を守ってくれていた桜織の感触はそれに近い。だけどべたつきゃしないぜ。それにママなんか綿菓子とか羽布団とかいうよりは、さらさらすべすべしたシルクのスカーフみたいだった。たしかに絹は夏に涼しく冬暖かい優れものの繊維。だけど子供のおくるみなら、やっぱり布一枚では薄すぎる。
「きみ、僕の夢を創作だと思ってるの?」
「創作だってかまわないわよ。作品には必ず作者の問題点が露呈するものだから」
 水香は僕に背を向け、道の真ん中を歩き始めた。彼女の足元にわだかまる短い影も、太陽向日葵と正反対、本体の延長のようなウルトラマリン。説得力のある神秘的な青紫に僕の心は吸い込まれそうになる。捕らわれるのがいやで僕は強いて目を上げる。
のびのびと上背のある水香は白と緑のギンガムチェックの夏服を着ている。膝のあたりでフレアースカートのスクエアがさわやかにひるがえる。僕は自分がスカートを穿いていたころの膝と腿の開放的な楽しさをまざまざと思い出す。それは半ズボンとはぜんぜん違う開放感だった。
水香のふくらはぎは、もう厚ぼったく実ってきた上半身に比べると肉付きが薄く、そのために足首が長く見える。女の足は細いほうが魅力的なのかな。痛々しく見えるけれど。僕はセロリパセリよりふっくらした石鹸が好きだ。ヴァーべナなら最適。だけど肝心なのは居心地のよさだよ。
「問題提起のためにきみと夢交換しているんじゃない」
 水香の後ろからついてゆきながら僕はできるだけ穏やかに言い返した。
「それに、夢の後半はどう分析するの。こびとが現れ、ママが棺桶に座っていたあたり」
「あたしは草紫の意識を違う角度から眺めるの。サブリミナルは常に理解を要求するから。夢は無意識からのメッセージ」
「こびとの登場は?」
「通過儀礼。イニシエートでしょうね。神話伝説の主人公は難題を解決して高いステージに上る」
「難題ってなんだい? 僕ただ数字を答えただけだ。決闘もしないし、魔物をやっつけたわけでもない」
「難題とは、夢においては個人的葛藤の課題解決の象徴なのだから、その表現は別に刃かざして切ったはったスプラッタである必要なんかないの」
「なあんだい」
「徹底的に言語快楽主義ね、草紫」
「わかる? 僕は七歳で集団の中に於ける孤独を味わい尽くすことで、人生を生きぬく最もだいじな必要十分条件は、あらゆることを楽しむ、笑いとばす態度だと理解したのさ。そのためにならあえて無意味な繁文縟礼もいとわないし縟礼だってジョークにしてしまえば有効な生命賦活作用がある。雑巾飛ぼうが生卵投げられようが、いや無視黙殺されようが、生体における物理的反応は単純率直だ。享けようと享けまいと僕は笑う」
「草紫の顔でその台詞はなかなかよ。可愛げ皆無な、世にもまれなる美少年」
僕の長広舌に対して、後姿の水香は同意のしるしに向日葵を肩先で軽く上下に揺すり、茶化す口ぶりでさらに、
「十年後、成長完了時のきみのペルソナは偏屈な天才肌心理学者か孤高のアーティスト」
「どれもやだね」
 ずばり天才、ではなく天才肌ないし天才的、とクッションひとつ挟むところが彼女の僕に対する防衛的逆アグレッション。
 嬉しくない僕は遠慮なく否定した。
「どっちも興味ない。心理学にはまりそうなのは水香のほうだろう。いや、精神科の女医さんか何か。向日葵担いで何のパフォーマンス? だいいち、ここはどこなんだい」
「くどい、切り捨て御免」
 水香はくるりとふりむき、向日葵を竹刀のように両手でつかみ、頭上にふりかざした。両腕の勢いにあおられて麦藁帽子が彼女の背中に落ち、ふわっと薄茶色の髪が顔の周囲に乱れる。切れ長の眼が笑っている。
「草紫は何になりたいの。どうしたいの。答えてくれなければ一刀両断」
「一刀冗談。向日葵で人間がぶったぎれるもんか」
 水香の暗黙の要望に応えて僕はさらなる笑いを提供。にこっと口を開ける水香の笑窪がかわいい。
「これは夢だから植物だって思いの強さによっては人切り包丁にもなるの」
「これも夢なの。きみと僕どちらの夢?」
「どちらかだけのものである必要はないでしょ。あなただけの現実、わたしだけの現実なんてものはないわ。夢も同じ。見える部分だけが見える。夢であれ現実であれ」
「それは誰か別なひとも言った…」
「夢も現実も当人のキャパシティによって容量が伸縮する」
 水香の頭上高くふりかぶった向日葵の枝はゆっくりまっすぐに僕に向かい、ぱさり、と軽く僕は頭を打たれた。水香本人のてのひらで打たれたより軽い一撃。僕には彼女の声が聴こえる。ソウシガスキ。黄色い花びらが地面にいくひらかこぼれ落ちた。
「ほら、もう変わってしまう。道ではなくここは水の流れになっている」
 足元のでこぼこ道は、向日葵が散り零れた瞬間、透明な水が僕たちの膝下くらいの水位に流れる小川に変わっていた。三、四枚の花びらはそのまま銀色の薄い小魚に変わり、ちりちり、と尾鰭を降って、どこかに泳ぎ去ってしまった。水の感触が脛に冷たい。頭上の炎天は変わらない。太陽にとろかされそうな脳細胞。僕は濡れてしまったジーンズをまくりあげる。僕の足は細い。   
水を吸ったデニムの生地が重い。水香のギンガムチェックのスカートは小川の運ぶ風にかろやかにひるがえっている。膝と腿、お腹を抜けてゆく透きとおった夏の風を思った。
七歳までは僕のものだった快感。僕の足は、すぐ側の水香の足と同じくらいにほっそりしている。そして彼女よりもずっと白い皮膚をしている。僕のものではないそのひとの足の記憶が、脳天を焼く太陽の鮮やかさで蘇ってきた。小川の流れに檸檬ヴァーべナの香りはしない。だけどヴァーべナである必要はないんだ。僕は顔をあげた。二三度瞬きし、水香の顔を見て
「僕は人魚になりたい」
 人魚草を食べにいく。イニシエートは大人になるためだけに経験するものじゃない。

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