さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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月光丹 夢浮橋 vol3

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     月光丹

 ひとつぶを砕く歯白し月光に
    尾より変じて魂忘れなむ

夏が終わって秋雨、中秋、それと前後して激しい台風がいくつも日本列島を蹂躙し、十月も半ばを過ぎるころ、温暖な湘南一帯の大気はようやくからりと澄んだ。内陸と異なり秋冬でも湿度は高く、潤う海風になぶられながらゆるやかに色づいてゆく紅葉の錦は、晩秋に入ってから、鮮やかに冴えてくる。
 嵐の後の数日、なごやかな秋晴れが続くのを見計らい、水晶桜織は納戸から葛篭をいくつも引き出し、何十枚かの着物の虫干しをした。風通しのよい一部屋の梁に長い竹竿を三、四本さしわたし、やはり細竹を切って真ん中を紐で括った昔の衣紋掛けに、色とりどりの長着、襦袢を丁寧に吊って干した。
 絹の重さは人肌の重さ、桜織は抜けるような青空に、一枚ずつの着物を丁寧な手つきでひろげながら、白い額に汗を滲ませた。家内の仕事はほとんど桜織に任されており、厖大な衣装の手入れも同様だった。
「そうちゃん、これ着てみ」
 中休みに、桜織は古い衣装のどれかを子供の肩に着せてみる。肩上げのある赤い小袖は姉妹の祖母のものだったという。椿に牡丹、桜に菊、花は四君子の極彩色に金糸銀糸の縫取りと、ところどころの飛雲には匹田絞り、悪趣味なほど縁起物の意匠がどっさりと詰まった可愛い晴れ着は少女のものにしても、六歳の草紫にはなお裄も着丈もずるりと余る。
「重い」
「そうよ。これはお蚕さんが吐いた糸で作ったものだから。人間の肌の重さと同じなの」
「ふうん」
 想像を働かせて真剣に辻褄を合わせれば、凄く恐ろしい台詞なのだった。
「これはおばあちゃんが着たの?」
 草紫の耳は言葉の意味を素通りし、ただふわりと柔らかい桜織の声だけを残す。部屋じゅうに吊った衣装はゆったりと風にあおられ、ひらひら、さやさやと裾袂を揺らし、黴臭さと虫除けの樟脳と、それから葛篭にいっしょに収めてあった伽羅だの白檀だの、いいかげん古色蒼然とした練香などの混ざった、不思議な深い匂いがたちこめている。それは海風にさらされても消えることがなかった。
「そうよ。お姉ちゃんが着て、わたしも着たの」
「そうちゃんも?」
「さあ、それはどうかしら」
 桜織はふふ、と笑った。七歳になれば草紫は男の子になる。
「そうちゃんは着られないの?」
「いいえ。そうちゃんの好きなようにしていいのよ」
 桜織は言葉をぼかし、飴色に古びた葛篭の底から、藤模様の一枚を取り出し自分も袖を通した。袂のまるい元禄袖で、若い仕立とはっきり異なり、歳月を経た絹は柔らかく腰がぬけている。が、丹念な昔の染は幼児の眼にも晴れ晴れと華やかな紫で、長い藤の枝が総模様に肩から裾まで大きく垂れ下がり、大正風な図柄の派手さと色合いの深さとがほどよく和して、桜織の線の細いからだつきによく似合った。
「お姉ちゃんには内緒」
「なんで?」
「これからそうちゃんと魔法を使うから」
「魔法?」
「そう。あのね、着物って、何十年、何百年と経つうちに、それを着たひとの魂が少しずつ移ってゆくの。その着物をだいじにした女性の心が残るのよ。着物を着ているときに、そのひとが味わったよろこびやかなしみが、着物の繊維に滲みこんでゆくの。だから着物は着てあげないといけないの。着ないでしまっておくと、昔々の誰彼の魂が淋しがって」
「淋しい? そしてどうなるの」
「もといた場所に戻ろうとするの」
 立ち上がって藤の小袖の前を合わせていた桜織は、そこで膝を屈めて子供の顔と自分の顔を同じ高さにし、
「これからそこに行ってみましょうか。このお藤さんは、長いこと忘れ去られたままなので、しきりにわたしに訴えるのよ。還りたい、還りたいって」
「どこなの」
縁側に立つ桜織に近づこうとした草紫は、母、叔母、曾祖母が着回した肩上げの裾を踏みぐらりとすべった。わ、と子供は手近なものにしがみつこうとし、掴んだものが棹にかけた振袖か紬か、せっかく叔母がきれいに吊るした着物のどれかだったので、そのなよなよでは子供を支える何の力もなく、草紫の転倒といっしょに、それこそ紅葉の枝が揺らぐように綺羅とりどり、掴んだ着物がぶらさがる一棹まるまる、畳にがっさり崩れて。

地べたにしゃがみこんだ僕の周囲にはたくさんの小さな卵型のガラスがこぼれている。鶏卵ぐらいのものから、鳩や十姉妹のそれのようにもろくてちいさいものまで、十数個。ガラスと形容したのは、どれもつめたく透き通っているからだが、無色透明なものはなく、大小すべての卵は虹の七色を内側からぼんやりと浮かべている。目に心地よいプリズムの輪がひとつぶひとつぶの卵の周囲に浮かんでいる。発光しているみたいだ。ここはどこだろう? 太陽も見えない。
 地面だと思って見回したが、あたりはしろっぽい薄明で、僕自身の影もない。浮世絵とか、マティスの画面みたいな、縦横の基軸がないベージュ色の空白にぼくはつくねんと座らされている。これはいくつめの夢かな。
あれ、笛の音が聞こえてきた。マティスの笛を吹く少年を連想したとたんに、フルートが響いてくる。ついでに演奏者も現れてほしい。ガラス玉は何だろう。僕は耳に快い旋律をたどりながら、卵のいくつかを周囲に転がしてみる。虹色の卵ガラスは思うような方向に転がってゆかず、かりんちりんと、思いがけない方向にねじれてぶつかりあった。卵は透きとおり、ゼリーのようにしっとりとした感触がする。それでいて、鈴のようにかたくきれいな音で弾きあうのだった。
「ひとつくれ」
 頭の上から声をかけられて顔をあげると、ガラス玉の散らばった向こう側に背の高い男が立っていた。でっかいな。僕とけっこう距離があるのに、発声源が高いので、彼の声は頭上から聴こえた。
「やだ」
 僕は初対面の野郎に舐められまいと、即座に断った。相手は僕より七つ八つ年上だ。二十歳は過ぎているが二十五歳以下だと思う。さらに、こいつはかなりイケメンだと思う。日本人離れして眼窩から鼻梁の彫りが深いが、ひとつひとつの造作の輪郭はのんびりと甘いので、混血には見えない。男らしくしっかりした顎。その土台に見合って大きい口。光のある黒い瞳が僕を眺めて笑っていた。彼の眼は悪くない。僕はいやな眼つきの奴は受け入れない。
好奇心をかきたてられて、しげしげと観察する。眉と髪は金色。はっきりソメモノとわかる蛍光色の黄色に近い。あ、髪は金だけじゃなく、豹柄に染まっている。チーターかな、豹かな、ありきたりのフェイクファーよりずっとつやつやしてきれいな彼の髪模様はどうやって染めたんだろう。褐色の顔のまわりに、豹柄の髪がばさらに垂れている。
面相の次は服装チェック。光沢のある黒いカッターシャツに、香枕海岸の漁師が使う網に似た、織りの粗いざくざくしたタイツをはいている。腰のところまでは皮のパンツで、腿のところだけ網素材だ。網はまた脛から皮に変わり、そのままブーツになっている。ブーツには光る鋲がいっぱい。
「おじさん、おもしろい服着てる」
先制攻撃だ。はなっから見くびられてたまるか、と僕は顎を突き出し、ことさら偉そうな口調で言った。微笑していた相手は、口を開けて大きく笑った。くしゃっと目が細くなり、すごくいい感じの笑顔になった。
「おじさんよせよ。おれ、豹河」
「ヒョウガ。僕は草紫」
 つられて僕は自然に名乗っていた。ここでもう僕の警戒心はあらかた消え失せていた。
「音の玉をひとつくれないか?」
「音の玉?」
「そう、音の魂ともいう。おれは笛吹きで、さっきまで、きみおれの音色聞いていたろ」
「あれ、豹河だったのか。うまいね」
「そりゃプロだから。ときどきこんな具合に夢にさまよってると、草紫みたいな初対面がある。きみの周りにごろごろしているのは、不特定複数の人物が夢に残した心のエッセンスなんだ」
「心のエッセンスって?」
「感情と言えばわかりやすいが、草紫くらいの年になればもうわかるだろう。心の中に湧き起こる喜怒哀楽のおおかたは、そのガラス玉みたいに透明でも虹色でもないってこと」
「…うん」
 僕はしぶしぶ頷いた。豹河の言い方だと、僕を含めて人の感情は大部分きれいじゃないってことになる。それはそうなんだろうが、素直に同意したくない感じだ。なんだか自分の心に△ないしは×をもらう気がする。
「癇に障るか?」
 豹河は膝に手を置いて僕の前にかがみこみ、にたっと面白そうに笑って見せた。
「人間て不純だからいいんだよ。純粋無垢だったら何のドラマも生れないぜ」
「豹河の言ってること、わかんない」
 僕は正直に答えた。純粋と無垢とドラマは共存しないって? 十三歳の僕には純粋無垢はわかりやすいが、ドラマは想像するしかない。フィクション以外の人生ドラマは僕の前方未知の領域にあって、僕の経験域にはない。ドラマってつまり葛藤だろ? そんな悩んだことないよ。桜織が消えたとき、男の子になったとき、混乱して哀しくて会いたくて、寂しくて……でもそれはドラマとは違うんだ。
僕の躊躇を眺め、豹河は嬉しそうに、
「そうか? きみ、そんなに初心なの」
 今度こそ僕は頭に来た。
「僕をからかってるの?」
 僕はぱっとたちあがり豹河に詰め寄った。ころんちりんと膝からガラス色の音玉がプリズムのきらめきを散らしてころがり落ちる。
 目を怒らせて食ってかかったが、どうしたって僕の方が不利だ。僕は相手の肩くらいの背丈しかない。おまけに少年にしても細くて華奢だから、取っ組み合いになる前から勝負はついている。
「からかってないよ。まだ恋したことないのか」
「え?」
 豹河は、自分のほうに転がってきた青と黄緑に金色の筋目がこまかく入った音の玉をひろいあげ、ぽーん、と真上に高く放り上げた。
上空に青空はなく、靄がかかったようなあかるい鼠いろかベージュだ。どこからも陽光は差し込んでこないのに、青い玉は光線の屈折を虹色に散らしながら、一定の高さまで上がり、それからゆっくり落下してきた。上るのは速やかなのに、玉が落ちてくるときは、まるで薄い花びらが風に舞い落ちるかのように、ゆらゆら、ふらふらと、時間をかけて戻ってくる。
「ようし、それでいい。昇りはすばやく降りはゆったり」
 豹河はふわふわと降りてくる――落下というより目に見えない大気の階段を、ゆるやかに降ってくるスローモーションのー―玉を眺めて、手を後ろに回し、刀を抜くように金色のフルートを背筋から抜き出した。どこにしまってあったんだろう? 
「草紫。濁る容量が多ければ、それだけ凝縮されるものも増える。心にわだかまるいろんなざわざわごたごたを蒸留して濾過して、こうした音玉ができあがる。そら」
 豹河は鞭を握るような手つきでフルートを持ち、ちょうど鼻先に降りてきた玉を、ひゅっ、とつついた。ころりん、と鈍くて涼しい音をたてて青と黄緑のガラスは弾け、その色の雫がフルートの周囲でちかちか光った。
「こいつはどんな音色をくれるだろう。夢の中には、誰かれの見残した感情の残りかすがたくさん溜まってる。そのなかで純度の高いものが、どういう偶然かで凝固し圧縮されてきれいな玉になるんだ。魂ってつまり良質な精神の宝石みたいなものだよ」
「豹河はいつもそれを探しているの?」
「いや」
 豹河は音の雫を享けたフルートを唇にあてた。
「いつも見たい夢に入れるわけじゃない。音の玉に出くわすのは、とびきり上等な夢なんだ。笛吹きのおれはこれを自分の演奏に生かす。だけど、人によっては別な使い方をするし、どんな風にでも応用できる」

 防波堤の際いっぱいに夜の潮が満ち、大波に沈みかけたテトラポットの内部では、受け入れた海の重量を伝えて水のざわめきが低くこだましている。
結衣ヶ浜の湾曲に沿って街明かりは、その時刻まだ色々に輝き、黒い水面に眺める者を必ずうっとりさせる光の綾が揺れている。だが、間近で耳を傾ける夜の満潮はまひるの晴朗とは響きを違えて、子供の耳には唸り声のように聞こえた。桜織に手をひかれていても、海と空が墨色に溶け合い、自分を庇護してくれる唯一の女性は、地鳴りのようにどよめく海と空が一体となった夜の巨人に対しては、いかにも弱々しい。それにまた、粘り気のある水面の下には、昼は隠れているが、きっと夜には顔を出す、自分の知らない不気味な生物が潜んでいるに違いない、と恐怖を抱かせたりもする。あと何時間か後の夜明けにはすっかり海は退いて、曙の輝きが油膜のようなぬめりを残す遠浅の海底を露わにするとわかっているのに。
「鳥たちは眠っているの」
 浜へ下りる石段の手前で立ち止まり、桜織は幼児の手をしっかり握ってつぶやいた。
「さおちゃん、どこ行くの?」
「海へ降りたいの」
「まっくらだよ」
 海岸の潮位の最も高い時刻のようだった。防波堤が終わって、傷んだ網や浮を無造作に投げ出してあるコンクリートの護岸から、県道沿いのガードレールが始まり、こちらは道路から渚へ降りる階段がところどころに設けてある。その石段の中ほどまで、今黒い海は押し寄せ、潮といっしょに海風もまたひしひしと吹きつけてくるのだった。
「降りられないよ、海だもの」
「あ、お月さま」
 不安にかられ、自分のお腹に手を回してしがみつく草紫の頭を撫でて、桜織は言った。
「ほら、これで潮が変わるわ。月が出たから、海はじきに引いていく」
 え、と子供は桜織のスカートに埋めていた顔をあげた。
 それまで塗りこめたような闇だった中天の一画にふっと半月が浮かんでいた。同時に空と海とのさかいも見えなかった水平線に、月光の反映が白い糸くずのような波の綾となって揺れ始め、すると、さきほどまで暗い空間いっぱいにひとかたまりとなって幼児の想像力を威嚇していた夜の巨人は消え、風の唸り声は潮流の変化とともに単調なリフレインに変わった。安堵のもたらす眠気のようなリフレイン。あるいは世界じゅうで、今この時間安らかに眠っているものたちの寝息を寄せ集めたような流体の反復と継続。
 子供の眼の前で、月明かりを浴びた海はゆっくりと寝返りを打ったように見えた。まるで海の表面だけではなく、海の裏側も月光を享けようとするかのように、ざわ、と水が一方向に逆巻き、数瞬ぴたりと風が止まり、子供の視界いっぱいに、海がふくれあがり、中天にかがやく月まで波の尾根はきらきらともりあがり、それから海はまた、静かに下へ戻っていった。
 月明かりひたひたと、桜織は子供の手をひいて渚に降りてゆく。草紫はぎゅっと肘を締めて抵抗しかけたが、
「今、そこに散らばっているものをひろいあつめて帰りましょう。お月さまの雫」
 あ、と子供は息を呑んだ。そんなに潮は早く退くはずはない。だから結衣ヶ浜はまだ海の中にある。けれども月下の入り江の景色は海の寝返りとともにはっきり変わってしまい、
それまで黒いシルエットの中で絶えず動いていた波はぴたりとおさまり、月光を享けた銀色の鏡面となって静止しているのだった。
この渚はもう海には見えず、さりとて砂浜や、潮が引いた後の海底とも思われない。藍色の夜空に半円の月。そしてふたりの眼の前には、月の色を映して、入り江から水平線までひろがるなめらかな銀盤があった。湾曲した渚から水平線にかけての水のまろやかな半円は、ちょうど上空の半月の片割れのようだ。月と海とは大小の相似形を見せていた。
「歩けるわ」
 桜織は子供の手をひっぱって銀色の水面に両足を乗せた。草紫も叔母にならっておそるおそる踏み出した。膝を高くあげ、かわるがわる足元をたしかめるように海面を蹴ってみたが、下はしっかりと固く、大地に立っているのと変わらない。海の上に移ってみると、空の半月の光よりも、水底から自分たちの方におぼろに昇ってくる明るさの方が強いのだった。
「そこらへんに、たくさん海の鱗が剥がれているでしょう」
「海の鱗?」
「そう、月光の雫、裏返った海が月の光を浴びて零した時間のかけら」
「海の時間?」
「時間は海の裏側にあるの。海底ではなく」
 桜織は腰をかがめて、ほら、と海面に光る落ち葉のような一枚をひろいあげた。目を丸くする草紫に、トランプのカードの絵模様を見せるように人差し指と親指ではさんで月明かりに透かしかざすと、海から剥がれたという時間の雫は、赤ん坊のてのひらくらいの大きさの半透明な楕円で、はっきりと色彩は見えなかったが、月光と同じ銀の地に、雲母片のような金や黒の斑が浮かんでいる。なるほど、大きな魚の鱗に似ている。とすると、海は魚族に違いなかった。
 薄片をはさむ人差し指と親指に桜織が力を集めると、ぱちっと小さい音がして、時間のかけらは鱗の真ん中で割れ、金粉が散った。桜織りはあらかじめもう一方の手を下に添えていたので、はらはらと砕けたものはてのひらの窪みが享けとめた。
「この粉々を集めて、練り上げてお薬にすると、飲んだひとはいろんなことを全部忘れて、それから思い出すことができる」
「忘れて思い出すって?」
 桜織は膝を抱えて子供の横に坐り、目の高さを同じにして言った。
「覚えていなければならないことを忘れ、忘れなければならないことをしつこく覚えているという病気が治るお薬」
「そうちゃんわからない」
「まだわたしたちといっしょにいるからね。でもこれから違う世界に入ってゆけば、そういうことがたくさんわかってくる。そして」
 桜織は子供から目を逸らし、顔を伏せた。
「必要なことだけわかってしまう、ということはさようならするという意味になることもあるの」
「なぜ? どこへ行くの?」
「そのひとにとっていちばん気持ちのよい時間の中に入ってゆくのよ。そこはたいてい現実とは違う場所でね」

「魂はいつだって、自分がもといた世界に帰ろうとするんだよ」
 豹河はフルートを構えると、吹き始める前の一呼吸で僕に言った。それは変だ、と僕は思った。なぜなら音の魂は不特定複数のひとの見残した感情のエッセンスの集合体と聞いた。だったら、魂を構成しているという大勢の、それぞれの原風景、原点、原っぱ、に帰るというのは、つまるところ、せっかく美しく精錬された結晶をほどいて、またばらばらに拡散するってこと?
 僕は問い返したかったのだけれど、豹河は音の魂から自分が享けとったものを奏で始めた。 
この曲は何だろう、僕の知らないきれいな旋律は、さっき彼が砕いた青と黄緑、金色の卵から流れてくるものなんだろうか。それにしてもこんな間近でプロのミュージシャンの演奏を見たことはない。しかも聴衆はぼくひとりだ。豹河の吹き鳴らす音は、彼の金色のフルートから聴こえてくるというよりも、彼の全身が歌詞のない歌をうたっているみたい。
 あれ、天上が暗くなってきた。豹河の笛が始まったら、それまでうすぼんやりとした薄明世界に明暗が分かれてきた。上が暗くなってきたということは、夜になったってことかな。下を見れば、僕たちの立っているところは、さっきと同じベージュ色だけれど、夜空が現れたおかげで、地面のあかるさがいっそうはっきりしてきたみたいだ。地面がうっすらと発光しているような感じだ。
 それから僕は、見間違いではないかと目をこすった。夢では、現実に起こったとしたら驚くに違いない現象が多いのだが、夢見の最中はそれが当然のことのように納得されて、驚きを味わうことは少ない。夢の中では理性よりもはるかに強い、プリミティブな無意識の力に、個人の人格が操縦されてしまうからだと思う。でも時にはこんなふうに驚きを味わうこともある。
 この夢の始まりから僕の周囲に集まっていた十数個のガラス玉は、豹河のフルート演奏とともに世界の上下が別れ、藍色の夜空と白い地面との境界がくっきりとしてくるにつれ、まるで磁石で移動する砂鉄のように、ひとりでにあちこちへ移動し始めた。大小虹いろの半透明ガラスたちは、好き勝手な方向へ転がっている、いや動いている。転がっているんじゃない。宙に少し浮かび上がって平行移動。卵に目鼻がついていたらハンプティ・ダンプティ。だけど顔は…。
 ゆらり、とひとつのガラスの卵型の輪郭が崩れ、ぽうっと暖かなオレンジ色の火が立ち上がった。中心部分が鮮やかなグリーンで、その周囲はレモンイエロー、炎の一番外郭は明るいスカーレットだ。人魂にしては陽気な色彩じゃないか? 僕は豹河を見た。彼は笛から唇を離さず、目だけで笑った。
 ひとつ変形すると、ガラス玉は次々と卵型を崩し、地面からふわりと跳ね、ひとつふたつ身震いしてガラスの質感を緩めると、緑、紫、紅色、それこそ虹のグラデーションさながら、あらゆる色の灯となって燃え始めた。
その一方で上空はますます暗くなってくる。ほどなく全天の端から端まで奥行きのあるネイビーブルーに染まって、すっかり夜空だ。星も見える。これはどこの半球だろう。見慣れた湘南の星図と違う。夢の宇宙を流れる天の川は大気の隔てがないおかげで、乳白色の流れの中のひとつぶずつの星の光までとても微細に見分けられる。
やがて周囲の音の玉たちは、全部明るい火の柱になり、豹河の笛の音につれて気ままに踊り始めた。それは人魂というよりも、それまでの卵を薄く長く引き延ばした雫形に見えた。火の雫だ。そういえば「生命の火」なんて言葉があったっけ。それにしても、どの炎も澄んだ明るい色で燃えている。豹河が言ったようにたしかにこの魂の成分は純度の高い良質な精神なんだろう。豹河のフルートに溶けこんだ仲間の歌に合わせて、彼らはたのしそうに踊っているんだ。
やがて豹河は笛を口から放して、にこにこしながら魂たちのダンスを見渡した。彼のフルートの一方の先端から、上のほうにすうっと光が昇り、それはたちまち初夏の新緑のような黄緑色の蔓となって、虚空へ螺旋を描きながら昇っていく。昇りながら萌黄の蔓は枝葉を伸ばし、星を散りばめた夜空の真ん中でぐんぐん成長していった。
「おおお、元気だなあ」
 豹河はフルートをまた背中にしまい、両手を腰にあてて上を向き、のんきな口調で言った。
「おれの音楽性どう? たいしたもんだろ」
「おんがくせい? 音楽の精?」
 ボキャブラリーのずれを、豹河は気に入ったようだった。
「違いない。あれはおれが今吹いた音の樹なんだ。天の樹は草紫とのコラボってこと。きみがここに来たんで、音の玉たちはきみに引かれて集まってきた」
「ぼくに引かれて?」
「凝固した魂って、よかれあしかれ、蜂蜜みたいに純粋だ。蜂蜜は何千年たっても腐敗しない。エジプトのピラミッドから発見された蜂蜜は、三千年以上の時の経過をものともせず、全くその成分に変化がなかった。純度が高ければ高いほど、不壊のものとなる。ダイヤモンドもそうだ。ほんとの透明性・きらめきって、そういうものだ。内部に凄い圧縮されたエネルギーを秘めている」
「純粋と無垢は両立する。だけどドラマとはだめだって言ったよね」
「そうだ」
「どうして?」
 豹河は僕を見下ろして、まじめな顔をした。
上から目線は気に入らないが、この場合は仕方がない。僕はたぶん、すっかり成長期を過ぎても、彼より背が高くはならないだろう。
「自分だけで満たされている存在なら、内面においても社会的にも葛藤はおきない。他者を必要としないから」
「それじゃひとりぼっちだ」
「そう。草紫は六歳まで女の子。いや女の子とも思えない。不思議な庇護者たちはきみを、まるで水槽で飼う昆虫の幼生のように、社会から隔てられた小さい世界の中、性別のない状態で育てた。物理的にはそれで正しかったんだろうけれど、人類としてはどうだろう。七歳から少年になったってきみが集団生活に適応できたとは思えない。順応はできた?
でも、ずっと孤独だったんだろう」
長い台詞だなあ、と僕は豹河の突っ込みを聞きながら途中で飽きてしまった。いっぽうで彼はとても暖かい男だとさらに実感した。でも、水香の向日葵の一撃はおとなしく頭に受けてやったけれど、豹河のジャブはかわすにかぎる。なんてったってリーチもパワーも違いすぎるからね。勝負するなら五年先。
「音楽の樹があんなに大きくなったよ。枝のあちこちに夜空の星が光って、まるで星の樹みたいだ」
 僕は彼から目を逸らし、頭上のつやつやと生茂る〈樹〉を見上げた。豹河の笛からたちのぼった一閃の光から成長した〈樹〉は、地上につながる幹がないので、植物というよりも、黄緑の枝葉のついた金色の大きな蜘蛛の巣のようにも見える。
 ちいさなガラス玉から始まって、今や上天にひろがった光の雫だ。あれ、しずく、どこかで誰かが僕に…。
 海の時間、月明かりの雫を集めて。いちばん気持ちのいい場所へ帰ってゆくの。
「豹河、ねえ、魂はもといた場所に戻りたがるってどういうこと?」
「今見てるだろ。この」
 と豹河は人差し指をたてて上空を示し、それからその手をひらいて、僕たちの周りで揺れている火の雫たちへ向けた。
「蜂蜜みたいに、これは人間だけじゃなく、あらゆる生命体にとって薬だ。そして毒でもある。毒は薬で薬は毒。宇宙的夢幻レベルでも、それは普遍的真実なんだ」
 豹河もかわすのか? ずれたぞ。でも僕はその流れに乗ってやる。もといた場所なんて、ほんとはどこにもない、〈ネバーランド〉かもしれないし。
「わかりやすく説明して」
 豹河はちょっと困ったような顔をした。
「わかりやすく、ね。きみは十三歳にしても、一般児童より、とても純粋な部分が多いから、この夢のなかで音の玉たちはきみを慕って集まってきた。きみの側はこれらにとって居心地がいいんだ。そうして、魂はエネルギーポテンシャルが高い、純粋であればあるだけエネルギーは強烈だから、常に変化を望む。草紫、訊くけどエネルギーとは何だ?」
「なに?」
「変化する、動く、前進する力」
 豹河は僕の眼を覗き込んだ。きみの周りには高純度のエネルギー集合体が集まる。それらの力は使用されることを欲するんだ。
「力は使用を欲する。使われない力は内向し、鬱屈して、その持ち主を破壊してしまう。そして再び拡散してゆくんだ。あたらしい強靭な器を求めて」
「なんだかこわいね」
「神話伝説はでたらめじゃない。力は使われるべきなんだ。この魂たちも、この姿から次の姿、形へ移りたがる。僕はひとつの魂を解放してやった。きみの集めたエネルギーのひとつぶを、無限の宇宙のなかへ還元してやったのさ」
 豹河の言葉とともに、周囲に浮かんでいた炎の群は、さらに宙宇に高くのびあがり、それはさながら、頭上はるかで枝葉をひろげ、星をちりばめた仲間の変容に倣うかのように、僕たちから離れて、ゆらゆらと虚空に昇っていった。
エメラルドグリーンの澪が昇天の軌跡を残して流れる。彼らは一様に、なかばでふと動きを止め、こどもが小首をかしげてふりかえるように、名残惜しそうに炎の先端を地上の僕たちに向け、それからまたちらちらと七色の光を撒き散らしながら、楽しそうに上へ向かう。たしかに、僕は連中に好かれてる。
「みんな行ってしまう」
「ああ。誰も一箇所にとどまれない、生命体は停止してはいけないんだ」
「僕、その言葉を前にも聞いた」
「きみの庇護者?」
「今はいない」
 彼女は人魚になった。きっといちばんきれいな表情で、彼女のだいすきな海の中にいるんだ。彼女に会いたい。
「豹河、きみはどこに行くの?」

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