さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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双星嬬  夢浮橋vol4

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   双星嬬

 花桜は少女に並ぶ不可思議の
   箱ひらくごと頬やはらかし

 幼児期を過ごした海沿いの家は、なんと居心地のよい場所だったろう、と草紫は何度となく思い出す。幼児期とは六歳までのことだ。
曾祖母の代に建てられた茅葺農家を何度となく改築した住まいは、広いことは広かったが凝ったつくりではなく、窓や玄関のたてつけなど相当歪んでいた。母屋の天井には太い梁が何本も渡り、廊下を歩けばきしきしと鳴り、昔風に深い押入れは蜘蛛の巣だらけで、奥の何部屋かはもう出入りすることもなく、蓋を開けてみることもない長持や煤けた屏風、埃を被ったがらくたなどがひえびえと黴臭く溜まっていた。この中にはきっとかなり高価な骨董もあるのかもしれなかったが、水晶も桜織も、道具類の手入れはおろか見向きもしなかった。彼女たちが執着したのは衣装や装飾品で、ことに水晶は和服を好み、結城や大島紬を関東風にきりりと着付けて外出する。
桜織は紬よりも小紋などのやわらかものを選んだが、ふだん幼児の世話役だったためか、着物姿の記憶は少ない。桜織はいつも白っぽい、色味のあっさりした洋服を着ていたと思う。純白ではなく、生成りか薄い青、淡いピンク、ベージュ色のブラウス、シャツ、ワンピース、チュニック。それらは今も彼女の衣装箪笥のなかに残っている。
 匂いは不思議なもので、桜織の使っていた部屋を開け、引き出しを開けると、樟脳や洗剤の匂いに混ざっていつまでも、言葉には形容しがたい靄のような気配となって、衣類の中にはっきりと保たれているのだった。
桜織はどこに消えたのだろう。草紫は泣いたが、水晶は鏡のように涼しい顔をして、幼児の訴えを無視した。母親らしく子供を撫であやしてはくれたが、子育てには向かないひとらしく、撫でられている草紫のほうが、母親の、あたかもすべすべした陶器を鑑賞するような手つきになごむことができす、自分から嗚咽をしまってしまった。
 叔母がいなくなったのは、七歳になる直前の冬だったろうか。師走の雪催い、数日鼠がかった空に低気圧が沈滞し、海はたぶん荒れていた。慌しさの微塵もなく、ある瞬間ーーある朝、ある夜、という長い時間の枠ではなく――ある刹那、ある一瞬、ふっ、と桜織は草紫の側から消えたという感じだった。たった今までそこにいたのに、子供が何かにちょっと気を取られた数秒後、ふりかえったらもういなかった。そんな感じと思われるのだった。
桜織が姿を消してから何日かたって初雪が降った。草紫はてのひらを上にむけて散りくる雪のひとひらふたひらを天からいただいたが、冷たさをそれと感じる前に、最初の薄片は草紫の手の暖かさのために溶けてしまった。そして消えた雪のひとひらを惜しむ間もなく、次々と柔らかい粉雪が子供の手の中に降ってきて、草紫は初雪の最初のひとひらの感触を思い出すことができなかった。そうしようと思ったわけではないが、消えてしまったうつくしいちいさいものの記憶を確かめることのできないもどかしさが、そのときふいに、母親の手でなだめられなかった悲嘆をもう一度引きずり出し、草紫は初雪のなかで声をあげて泣いた。そして、そのときこの子を暖めてくれる誰もいなかった。そのために子供は、なんの気兼ねもなくたくさん涙を流すことができた。
子供は泣きながら家を飛び出し、坂道を降り、またどこかの小道を曲がり、こんこんと積もり始めた雪の中を歩いた。どこへ行こうというあてもなく、ただじっとしていられなかったのだった。この子に毛糸の帽子を被せ、オーヴァーを着せ、手袋を嵌め、雪ならば底にしっかりと刻みめのあるショートブーツを揃えてくれたひとはいない。家を飛び出した子供は赤いセーターに黄色いウールのスカート、白いタイツに運動靴という軽装だった。まだ女の子だったので、背中の辺りまで長く伸ばしていた髪は自分で梳かし、飾りのついた髪留めで前髪を分けた。桜織がしてくれたような編みこみは草紫にはできない。
子供はそれでも、雪の降り来る空模様を見上げて、赤いセーターに、かろうじてモヘアのマフラーを巻いた。それから暖房を切る。
母親はいつものようにでかけていた。台所には昼ごはんとおやつが香枕彫の盆にサランラップをぴっちりかけて整えてある。冷蔵庫には夕飯。それも水晶のしわざらしく、冷凍食品に少し工夫を添えた程度の料理であったが、見た目きれいに盛り付けてはあった。母親は自分の得手不得手をちゃんと弁え、家事炊事がうまくない、ということを不必要に恥じたりはしない。それにしても幼い子供にとっては、どんなご馳走だろうとひとりでぼそぼそ向かう食卓は寂しくつまらない。
雨の空を見上げても空の深さを測ることはむつかしいが、雪の舞散る空を見つめるなら、小止みなく霏々と訪れる雪の彼方に、手応えを拒む空白の深さを逆に感じとることができる。灰色と薄い青みがかったこまかい雪は、じきにアスファルトを覆い、常緑の庭木の枝に、塀に、やがては地表のすべてを埋めてゆく。雪はまた自分の訪れる世界一帯の音の気配も吸い取るから、人気の途絶えた街を小走りに歩いてゆく子供の耳は、自分の無我夢中な呼吸の音だけを聴いた。雪が子供のふっくらした顔じゅうにまつわりつき、草紫はいつのまにか泣き止んでいる。

「あの雪は繚乱の花吹雪でもよかったのよ」
 僕は白一色の波打際に立っている。ここはたぶん、いつも見慣れた香枕海岸だ。遠浅の入り江はゆったりとひろく、なだらかな曲線が遠く鹿占(かうら)半島まで続いているように見える桜守(さがみ)湾。香枕から隣の鹿香にかけては、百合とともに桜の名所で、地元の昔話に、昔この海は岸ぎりぎりまで岩がちで深く、そのため波が荒く、住民の水死者が多かった。心いためた桜の精と百合の化身の女が協力して海底の砂を運び上げ、波を穏やかにしたのだという。それで桜守湾とついた。昔はただ桜守の海と言ったそうだ。今は水神として香枕宮に鎮座する弁才天はその桜の精で、百合の精霊のほうは宮に祀られることを拒み、のんびりと香枕の大地に還ったのだという。女神ばかり登場して男神の出番がないぞ。夢のシナリオのでっちあげか?いやいや。
世界各地のフォークロアを俯瞰するなら、聖母子に代表される母子神、女神崇拝は民衆にひろく指示される。そして子神を孕ませた天神は、うやうやしく天にましまして、土俗に降臨することはない。民衆のアイドルとして活躍するのはキリスト金太郎ヘラクレスよろしく、神の子供たちのほうだ。
 僕はすらすらとこんな伝説を思い出したが、果たして夢が醒めたとき覚えているだろうか? これは夢のまた夢の作話かもしれない、などと、考えながら海岸に立っている。幻聴かと疑ったが、もういちど、胸がしめつけられるなつかしい声が聴こえた。
「わたしの名前は神さまからいただいたの」
「探したんだ」
 声だけ聴こえるが、眼の前にしんしんと降り積もる雪のなかにそのひとの姿は見えない。
人魚になったのなら、この視界が閉ざされた海のどこかにこもっていて、声だけを僕に送ってくれているのかも。桜織。
「どこにいるの。顔を見せてよ」
「あなたの眼の前にいる」
 風のない海面に、雪は静かに降っている。夢の視野は、ただしく桜織が消えた六歳の終わりに駆けつけた冬の海を再現している。渚は早くもくるぶしまで雪が積もり、視界数メートル先までは鈍い灰色の波襞が見える。風がないので波はむしろおだやかで、波頭の先端に盛り上がる白い泡が、降る雪を含んでさらにふくらんで見える。そして波のさざめきは低い。波音さえ雪は吸い込み、鼓膜に触れてくる物音は、波音よりもむしろ、自分の吐く息吸う息のほうがはっきりしている。音のひややかさ。抵抗できない、いや抗いたくない純白の凝固。僕の眼に映るのは降る雪に水平線を消された、手前三メートルの蒼白な波の襞ばかり。海の中は暖かいのだろう?
「そうでもないけれど、凍えるほどではないわ」
「人魚草を食べたの?」
「いいえ」
「でも海の中にいるんだね」
「そうとも言えるし、違うとも言うわ」
「なぜ?」
「あなたがそうしたいのなら、この雪景色の壁紙を剥がして別なテンプレートを貼り付けたらいいのよ」
「なんだって?」
 くくっ、と桜織は笑った。
「だって、この情景は深刻すぎない? なるほど美の極みでは色は捨てられ、リビドーは清められて、微茫滲淡としたモノトーンの世界に至るのだけれど、あなたにもわたしにも、そんな大人の世界は似合わないわ。もっとのどかでうっとりする情景でわたしを慕ってよ」
 おっしゃるとおりだ、叔母さま。
トーマス・マン曰く、「美は官能を通って認識にいたる」マンはかなしげに同性愛を隠し持ち、実生活でヴェニスに死ぬことはなかったが、もう初期作品で美の本質を的確に射抜いたアフォリズムを残した。だけど、そこにはオムレツの湯気も炊き立てご飯の嬉しさもない。焼きあがったパンの香ばしさも。だから僕はせめて雪景色ではなく、淡々と薄紅色の慕情を添えて、だいすきな叔母のためにこの雪の海辺から一転して、春爛漫香枕山の桜吹雪を運んでくることにしよう。
雪の渚のさざめき、視界を覆って顔に降りしきるものたちのひややかなぬくもり。
冷たいぬくもり。
そうだ、雪片と桜吹雪とをつなぐ感覚を僕は記憶の堆積から探し出した。触れた刹那はひやりと淡く、次の瞬間にはその冷たさで自分の体温の暖かさをあえかに知る。それは……誰かに会えない寂しさを感じることで、そのひとが自分にとってだいじな存在だと…自分の思慕に気付くことと似ていた。
 桜守湾をみはるかす崖っぷちに僕は立っている。両腕をかるく預けているのは、稲妻に裂かれた欅の樹。新緑にはまだ早く、黒々となめらかな裸の幹と枝が青い海にくっきりと冴える。そして欅の周囲には山桜。ここは廃れた古宮のあとなので、昔防風林として植えられた樹々の中に、姿のよい山桜があった。江戸時代に人工交配によって作り出された染井吉野よりも、原生種の山桜はすらりと背が高く、ねじれのない樹相が清潔だ。おもしろいことだが、和服で渋い紬を好む母親は染井吉野を好み、桜織は山桜を愛でた。
 山桜は赤い若葉と白い花とが同時に現れる。染井吉野は空を覆う濃い爛漫が散り果ててから、控えめに葉桜の季節を迎える。
 僕は染井吉野ふうに視野ぜんぶを埋め尽くす百花繚乱春爛漫を選択したかったのだが、どこかで桜織の記憶データが自動的にアウトプットされ、彼女好みの海と空と樹々、そして古代の樹相を保つ薄紅色の山桜が夢のテンプレートとして選択されたんだろう。でも彼女が喜ぶのなら結構だ。
「ここにあなたを座らせて、海のことを訊いたわ」
「僕はまだ女の子で、スカートを穿いていて、木登りのたびに膝が擦りむけて血が出た」
「小さなかわいい子だった」
 相変わらず桜織は声だけで僕にコンタクトしてくる。どこにいるんだ? 声はすぐ側から、まるでこの欅の枝のどこかに留まっている頬白か四十雀のさえずりのように、ちいさいが、とてもはっきりと聴こえる。
 そんなことを思っていると、欅の裸木のほうに満開の腕をさしのべた山桜の花房を揺すって、目白がはたはたと飛び立った。花喰い鳥だ。蜜が甘いんだろう。
「草紫は、あのころの倍くらいに背が伸びたわね」
「今一五八センチだから、倍でもない。これからもっと大きくなる。桜織よりずっと」
「どこまで成長したい?」
「どういう意味?」
「海に人死にはあるかしら。もう草紫には見えないかしら」
「なぜ水死者にこだわるの?」
 言いながら僕は欅の股から香枕海岸を見つめた。海はどう見える。六歳までの僕には、海や空にいろいろ神秘的な予兆を見ることができた。らしい。らしい、というのは幼い僕にはそれが異常なこととわからなかったからだ。ごく自然な現象だったので、自分の能力に〈超〉というプレミアムがつくとは知らなかった。それがわかったとき、僕はもう男の子で、ギャングエイジをそとづらだけでもしぶとく駆け抜けるために、海に漂う魂だの樹々の下にたたずむ精霊だのといったやわらかいものはいったん封印しなければならなかった。
やわらかいものはみんな自宅の、桜織の部屋に封印した。その部屋では妖精だろうと幽霊だろうと想像力のほしいまま。だけど僕は超常現象なんか何も欲しくなかった。
「七歳になって僕を男の子に戻したんだから、もう桜織が期待するような神秘は見えない」
「でも、今はわたしがいっしょに見ているのだから」
「どういうこと?」
「わたしはあなたの眼であなたの夢を一緒に楽しんでいるのよ。あなたのイマジネーションはわたしのヴィジョン」
「僕をマインドコントロールしてるのか?」
「いいえ。あなたが見たいものを、わたしが見つけてあげているのよ」
「僕は魂なんか見たくない。海なんかほんとのこといってどうでもいい。僕はあなたにあいたい」
「夢でいいの?」
「夢でもいい」
「あの家で、わたしたちは時々魚や鳥になったわね。それは夢なんかじゃなかったのよ」
「僕が七歳未満で女の子だったから見えたんだろ?」
「そしてわたしはあなたといっしょにいる。もう人間をやめてしまったわたしが」
「人魚になりたかったって」
「感傷的に。
 感傷ってプラクティカルなの。
 たとえば、パスタの茹で加減みたいなものよ」 
「アルデンテの落としどころは」
「わたし、シリアス苦手だから」
 人魚になっても。

その初雪はそのまま記録的な豪雪となった。午前中から降り始めた雪は昼過ぎにはさらに激しさを増し、まるで嵐の雨のように海辺一帯に降り注いだ。
 薄着で香枕海岸に走っていった草紫は、渚でぼんやり灰色の波襞を眺めているうちに、こんもりと雪に埋もれ、ちいさい子供は弱いから危うくそのまま凍死でもしかねないところを、運よく犬の散歩に出ていた近所の主婦に助けられた。物好きにも大雪の中を海をめがけてやってきた主婦は、犬はよろこび海駆け回るなどと歌いながら、ロマンチックな無人予想の白い海辺に、理想的な雪だるまのすがたで硬直している幼児を発見し、シベリアンハスキーといっしょになってこの子を掘り返し、そのころは脛近くまで積もり始めた雪に足をとられながら、道路までひきあげてくれたのだった。陽気で親切な主婦がいなかったら、子供は凍死していたろう。
 県道はまだ車の通行があったので、渚ほど深く積もってはいなかった。草紫から雪をはらってやった主婦は、子供の薄着に二度驚き、真っ白に硬直して口もきけない有様を見てとると、背中におんぶしてふうふう言いながら自宅へ戻った。同じ海辺の住人だったが、草紫の保護者たちと顔見知りになるほど近所ではなかった。草紫たちは香枕山のふところに、彼女は海辺を逆方向になぞって星月夜岬に住んでいた。
 マンション住まいだが、シベリアンハスキーは内犬で、よくしつけられており、玄関先にひろげたタオルを、自分から四足でふみふみして汚れを落とし、それからリビングに走ってゆく。部屋に入ったとき、草紫は主婦の背中と腕の温かさでほとんど人心地をとりもどしていたので、黒白くっきりと隈取のような厳しい顔をした犬の行儀のよさを可愛く、また頼もしく感じた。
 意識はしっかりしてきたが、雪がとけてびしょぬれになった膝やお腹が冷えて、かじかんだ爪先が痛んでじんじんする。床におろされたが、子供はうまくたちあがれず、濡れたぬいぐるみのようにぐずぐずとしゃがみこんで動けない。
「わあ、たいへん」
 ちっとも大変そうではない声で主婦はつぶやき、自分のフードつきのオーヴァーを脱ぎ、髪に残った雪の結晶をきらきら光らせながら、もういちど幼児を抱き上げ、バスルームに連れていった。草紫は目をみはって彼女のなすがままに任せた。まだ人馴れしていないので、初対面の彼女の顔に驚いているのだった。
 主婦はてきぱきと湯船に浅くお湯をはり、中を蒸気で十分にあたためてから、子供を脱がせた。そして彼女は途中で奇妙な表情になった。長い草紫の髪を自分のゴム紐でまとめ、お団子をつくってやり、人形のような幼児の体にシャワーをかけてやりながら、彼女の困惑と驚きの表情は、温和な笑顔の裏表にかわるがわる見え隠れし、草紫にはそれが見えるのだった。その理由はわからなかったけれど。
 が、彼女は水晶よりずっと手際よく、子供の世話ができた。
 風呂上りに彼女はまた躊躇の表情を露わにしたが、クリーム色の厚いバスタオルにもこもことくるまった子供の長い髪の毛を見て、だいぶ古くなった女の子のパジャマを出してきた。下着はない。
「すぐにお洗濯して、乾かしちゃうから、それまで娘のを着ていてね」
 主婦はにこっと笑った。耳に大きな輪のイヤリングが揺れている。それも草紫にはめずらしい。
手渡されたピンクとブルーの寝間着は、防虫剤の匂いがした。草紫の知らない匂いだ。だがハートとキティのプリント模様のパジャマの色が桜織好みだったので、草紫は素直にそれを着た。ふわふわした厚手のパジャマを着てしまうと、見知らぬ顔に対する違和感も消えていた。主婦は、ダイニングに子供を連れて行き、ミルクココアを作ってくれた。
「ありがとう」
 そこで初めて草紫は声を出した。床暖房のダイニングにはいつのまにかシべリアンハスキーが待っていて、お腹を暖かい床につけたままテーブルの下からもそもそと這ってゆくと、興味深そうにパジャマのズボンから出ている草紫の素足を舐めた。犬の唐突なアピールにも子供が驚かないので主婦は安心し、
「名前は何ていうの?」
「ゆいそうし」
「そうし。どんな字?」
「草の紫」
「それはすてきね。ゆいさんて、結衣ヶ浜の結衣?」
 草紫は食卓の上に人差し指でおおきく書いた。由井。画数が少ない字なのですぐにわかる。主婦は頷いた。その姓なら覚えがある。
「わたしは美於。あなたは何歳?」
 草紫は相手の顔をしげしげ眺めた。母親たちよりだいぶ年配だ。髪を茶色く染めてパーマをかけている。オレンジ色の口紅。オレンジ色のセーター。爪も同じ色。普段着だが両耳に金の輪。ふんわりした外巻の毛先にゴールドのメッシュ。わざとむらをつけているので、光の加減でいろいろにちかちかして金粉みたいだ。部屋着のパンツはアーミーふうの迷彩模様だけれど、犬と同じブラック&ホワイトのゆったりデニムなので、とても派手だ。左手には耳輪とお揃いの金のバングル。
彼女と水晶桜織と、世界観が違うということは身なりでわかる。幼児にもわかる。いや子供には大人よりずっと明確にわかる。なぜなら、ごく幼い子供にとっては、肉体と衣装は別々のものではなく、ひとかたまりの表現だからだ。自分を温めてくれる母親の、皮膚とブラウスの違いなど赤ん坊にはない。
身なりは派手だが、美於の背景のシステムキッチンはよく片付いている。味噌と牛乳、しょっちゅう焼いているに違いない自家製のパンの匂いがする。犬をよくしつけ、迷子の子供を気軽に世話する彼女の目がやさしい。
 ずいぶんきれいな子供だわ、と美於は考えていた。清楚に顔立ちの整った、女の子。小学校に上っているくらいの年齢だけれど。もしかしたら年長組かしら、などなど。女の子。これには鍵カッコないしは横書きならばアンダーラインが要る。もしかしたら波線の。
「六歳」
「なぜ海に来たの?」
 なぜ学校に行かなかったの、とは尋ねなかった。不登校児童かもしれない。よくある話だ。いじめかな? それで、女の子?
「桜織がいなくなったから」
「さおりって?」
「ママの妹」

 適度に暖めたテフロンのフライパンにバターを落とし、くるりと一回り揺すって全体に馴染ませる。ふつふつと金色のバターの周囲にクリーム色の泡が浮き、とろりと全体に透きとおった香ばしさがひろがってゆく。
「干し葡萄を混ぜたの、それからアーモンドのパウダーとね」
 フライパンを握る水晶の頬がめずらしく紅潮している。こめかみから頬骨にかけて細い静脈がうっすらと透けるほど白くなめらかな皮膚をしている。顔の輪郭は定規で線をひいたようにすっきりと歪みがなく、それでいて頬のあたりは気持ちよくふくらんでいた。それは顔全体の端麗を崩す素朴な風情を添えたが、同時にまろやかに、親しみやすくも見えた。妹の桜織も同じで、ぱっと見に驚くほどよく似た、美しい姉妹なのだが、頬と顎の適度なふくよかさのおかげで、痩せがたちの美人につきものの険から免れている。
 大雪が降り、水晶の仕事はキャンセルになったということだ。いったい彼女の仕事とは何なのだろう? 妹が人魚に変身するくらいだから、水晶の職業も人間並みのものとは思えないが、それもまた、六歳の草紫の想像外だった。
 海辺で親切な主婦、美於に救助された草紫は、夕方になって彼女の車で自宅に送ってもらった。美於は美少女と美少年の両方をイノセントに―無知のまま―過ごしている草紫が気に入ったようだった。彼女の飼い犬も。だが子供の衣服が、ランドリーで気持ちよく乾くころ、突然発熱が始まった。子供は急に熱を出す。それも子育てを終えた中年の美於には慣れた出来事だった。
 絶え間ない大雪が流れるように降る中を、美於の運転する車の後部座席に乗せられ、毛布にくるまれ、シベリアンハスキーによりかかって草紫は戻ってきた。自宅は無人かと思いきや、母親も仕事を休んで戻っていたのだった。美於は水晶よりひとまわりくらい年長なのだろう。それにしても、呼び鈴に応じて薄暗い小家からすうっと玄関先に現れた若い母親の、常ならぬみずみずしさに、美於は驚いていた。
 それから一晩中雪は降り続け、草紫の熱も下がらなかった。水晶は眠らずに側についてくれたが、夢うつつで子供はやはり桜織を慕って時々泣いた。水晶は子供の泣き声を聞いたが、眉ひとすじ動かさず、ちいさいきれいな声でグノーのアベマリアやモツァルトの子守唄などを歌っていた。こういう事態は百も承知の上だったから、母親は白い顔を崩さなかった。
 朝になると子供は回復し、喉の乾きと空腹を訴えた。
 それでフライパンとホットケーキになった。
 冷凍庫には電子レンジで加熱すれば、すぐにいただけるピザもおむすびもたっぷりあるのだが、病気の子供のために水晶は数少ない得意な手料理を始めたのだった。
「ホットケーキをばかにしないで」
「誰もしてないよ、ママ」
「そお? じゃ、わたしのそらみみね」
「ママにはたくさん耳があるんだ」
「草紫の耳はいくつ?」
「ふたつ。右と左に」
「少なすぎるわ。耳と目はね、いくつあってもいいの。そしてそうしようと思えば、身体のどこでも耳になるのよ」
「どういうこと?」
「背中に目がついてるって、聞いたことないの?」
「さおちゃんが言ったかも。そうちゃんを欅に座らせたとき」
「死者の魂が見えたのね?」
「そうちゃんわかんない。死んだひとかどうかもわかんない。そう言ったのはさおちゃん」
「ほら、つまりね、草紫には目が二つ以上あるのよ。耳もね、そうしたいと強く願えば」
「でも鏡にはうつらない」
「そうよ。映ったら変でしょ。目には見えない眼、目には見えないお耳だからいいの」
「ママも? さおちゃんも?」
「わたしたちはみんなそうなの」
「わたしたちって?」
「わたしたちよ」
「ママ、さおちゃんはどこ?」
 水晶はフライパンを器用に振り、狐いろのケーキをひっくりかえす。火加減を調節し、裏にも焦げ目を加えてから、ミントグリーンの皿に移した。すぐに蜂蜜をかけ、シナモンを振った。この上に次のケーキを重ねるつもりだ。バターに焼かれたレーズンの香りがふんわりと漂う。水晶は思いついて、ほんのすこしチンザノビアンコを垂らした。この間彼女は黙っていた。
 それから、
「ジャムもつけて、どう?」
 草紫の新しい耳は、首のあたりにもうひとつ芽生えたようだ。微熱のだるさと心拍がことことことと音をたてて波打っている首の付け根のあたり、ひんやりとさびしい気持ちが母親から伝わる。水晶の声はやわらかいのだけれど。桜織はいない。帰ってこない。草紫はおとなしく答えた。
「蜂蜜がいい。メープルシロップがなければ」
うん、とうなずくクリーム色のタートルネックのセーターにサーモンピンクのエプロンをつけた水晶ははしゃいでいた。和服をまとうときには乱れなく結う髪を、わざと緩く束ねて顔の周りに後れ毛を遊ばせている。
しどけなさが彼女を幼く見せる。金色のケーキの焼き加減をはかるために竹串をつきさすときのうれしそうな表情は妹と同じだ。もしかしたら、水晶は子供を慰めるために妹の姿を真似ているのかもしれない。そのときは、きっとそうだったに違いない。
草紫は母親が調理をする姿を滅多に見たことがない。ピンクのエプロンをかけた母親の、エプロンの色と同じくらいきれいな鮭紅色に染まった顔を見て、草紫は真剣に、母親は今すぐ蛸に変身するのではないか、と危惧していた。そうしたらせっかく焼きあがりそうな美味しそうなホットケーキはどうなるのだろう? 蛸の触手ではフライパンは握れないにちがいない。火傷をしてしまうかもしれない。そして子供の嗅覚はまったく罪なく、ごく自然にたこ焼きの匂いを思い出すのだった。卵と牛乳、レーズンと……たこ焼きとホットケーキの共通点は多い。
 まだ少し熱が残っている。昨日の雪はおさまったが、雨にはならず、夜明けの冷気で、大気は湘南にはめずらしく零度を切った。それでも母がいて、ヒーターが唸り、バターとヴァニラの香りがあふれる家は楽しかった。
ここに叔母がいたら、バターの金色に何かが…。
「どうしたの?」
 水晶は何枚めかを焼き始める前のフライ返しを置き、キッチンペーパーで両手を拭いてから、こどもの頬をその手ではさんだ。そして自分の額を子供のおでこをくっつけて、
「むつかしい顔をするな、こら。まだお熱があるぞ。おいしいこと楽しいことだけ考えて元気出せ」
「うん」
 母親の手で顔をくるんでもらったことは、それまでにもたぶんあったに違いない。だが思い出せない。思い出せる最初は、このときが初めてになった。水晶はちょっとべそをかきそうな子供のおでこを自分の額でぐいぐいと軽く押し、にこっと笑ってまた、
「めそめそしてると食べちゃうぞ」
 ぺろり、とピンクの舌を出して、草紫の鼻の頭を舐めた。水晶の息はヴァニラとチンザノの匂いがした。手は暖かかった。ママ、と草紫は言った。かなしさと嬉しさがいっしょにあふれ、幼児の心が光った。台詞はこうだ。
「ブルーベリージャムとヨーグルトソース」
 目と耳は二つ以上あってもいいけれど、口は一つかそれ以下のほうがいい、と母親は子供に教えたのだった。 

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