さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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透花源  夢浮橋 vol5

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透花源

 腕(かひな)より透月昇るあえかにも
   触れなば韻(ひび)く虹の音聴かな

「あたしの夢を聞いてね」
「いいよ」
 僕と水香は真綿をはりめぐらしたような洞窟に向かいあって座っている。これはどちらの夢なんだろう。僕の夢かな。僕はどうも綿が好きみたいだ。このコラージュ・ストーリイのいちばん最初の夢では、僕は両側をピンクとブルーのふっくらとした羽布団にはさまれて、身動きできない状態でたちすくんでいたんじゃないかな。それを水香にこてんぱんにアナリゼされた。けなされたわけじゃないけれど、評価は好意的ではなかった。
 ふわふわした綿はコットンみたいだ。足元から天上まで、ふたりの周囲に、両手をひろげたくらいの四方八方をすきまなく覆っている。ここには繭の中に潜んでいる幼虫の安心感がある。キーワードは包容による安心。実に簡単だ。ばかでもわかるわかりやすさ。してみればこれもまた水香の辛辣な夢分析にあずかるなら、おおかた「自己防衛機制」だの「退嬰的マザコン」だのとあっさり片付けられてしまうんだろう。
 でもかまわない。僕は居心地の悪い夢は見ない。人魚の叔母と、たぶん人魚族の女王候補の母親のおかげで、僕は夢の特権だけは造物主からいただいているようだ。悪夢なんか見るもんか。水香には気に入らないかもね。
「何ぶつぶつ文句言ってるの?」
「言ってないよ。何か聴こえた?」
 水香は睫毛越しに上目遣いで僕をかるく睨んだ。染めているわけでもないのに、彼女の髪は生まれつき日本人の平均よりも茶色っぽいと思う。ふぞろいに伸びた前髪と肩のあたりで中途半端に揺れる毛先はすこし金色がかってあかるい。目も茶色いな。色素が少ないのか、白眼の部分はときどき青みがかって見えるんだ。いつのころからか、水香は、僕を見るとき、最初に二、三度瞬きするようになった。まるで、これからきみを見るけれど、いい? ってちいさい声で挨拶しているみたいな瞬き。ぱちぱちぱちと、睫毛の触れ合う音が響きそう。そして僕に視線を定めた後も、水香の感情はすぐに表面には出てこないで、ガラス窓をゆっくりひらくように、時間差を置いて僕に注がれる。
 なんてわかりやすい彼女の好意。だけどりこうぶった夢のアナリゼとは違って、この機微はばかにはわからない。
 水香は笑窪を浮かべて笑った。いつもそんなふうに笑っていてよ。分析より無駄話より、そうやって微笑んでいてくれるほうがずっといい。素直に言える、君のことが好きだよって。でも僕の〈好き〉で彼女がよろこぶとは限らない。僕のは告白には遠い〈好き〉だから。水香のくれた向日葵の一撃とは違う……。
「三、四人の男の人がわたしたちを待っているの。どこか駅か、学校みたいなところ。わたしたち、というのはわたしの他に年配の男性がいる。彼は、まだよぼよぼではない六十歳前後。白いワイシャツにノーネクタイ。メタボリックおじさんみたいで、ぷっくりお腹がりんごみたいにふくらんでいる。ちゃんと整えた半白髪で、がっちりした中肉中背のひと。わたしは彼のボディガードという役目らしい。彼は命を狙われている」
 いっきにしゃべると水香はそこで息をついた。すごいな。悪夢とは言わないが、僕ののどかなマザコンモチーフがつきまとう夢と比較すると、少女の彼女のヴィジョンのほうがはるかにスリリング。
「わたしたちは道を歩いている。クリーム色の道。この色は…そうね、ムンクの「叫び」で多用されている中間色によく似ている。周囲はふつうの街並み、市街地みたい。人通りはほとんどない。時刻は朝昼夜どれだろう。暗くはないけれど、太陽も月も見えない。夜みたいだった。そして数人の暴漢が襲いかかってくる。三人の若い男たち。ジャッキー・チェンみたいな格闘技でわたしの守っているおじさんを殺そうとする」
「殺す? すごいね、おっかない」
「ええ。でも夢の中では全然わたし怖いとは感じないの。ただこのひとを守らなくちゃって、必死で撃退するの。それがすごくおもしろいのよ。夢のなかで闘っているわたし自身、自分のやっていることをおもしろいって感じていたわ」
「へええ」
 僕は身を乗り出した。水香のはなしを聞いているうちに、なんだか心も体もむずむずしてきて、じっとしていられなくなった僕は、いつのまにか周囲の綿毛をむしっていた。やわらかい柔毛は僕の手に揉まれると、まるで蒲公英の綿毛のようなかたちに変化した。あれ、ほんとにはしっこに細長く固い種子がついている。あれ、てっぺんの綿の羽も。これを青空に飛ばしてやりたい。
 水香のはなしの途中だったが、僕は無遠慮に側の繭の壁を両手でめりめりと裂こうとした。この壁の向こうには、晴れやかな青い空と太陽があると疑わなかった。そこにはこの蒲公英の親玉のような太陽が、特大の顔文字で口を開けて笑いながら、地平線の彼方までさんさんと輝いているのに違いない。

 母親が子供を洗う手順は桜織とまったく違っていた。まず、彼女は浴槽に入浴剤を入れた。ジャスミン、ハーブ、ミント、オレンジ、ローズ……それらは透明なお湯を明暗さまざまなグリーンまたは濃い桃色に染めた。オレンジの芳香剤でも、湯の色は赤みがかった微妙なみどり、フレグランスのほうは確かに甘く爽やかな柑橘に違いなかった。草紫は、母親とお湯に入るまで、着色された湯を見たことがなかった。桜織のお風呂は無色透明だったから。
 水晶は時々さらに、この色鮮やかな湯船に、生の花やハーブを加えることもある。胡蝶蘭、梔子、クリザンテーム、もちろん薔薇。ローズマリー、サフラン、ラヴェンダー、もちろんヴァーベナ。…。
 緑の水面にゆらゆらと花びらがほぐれて浮き沈み、湯につかった母親は、自分の姿が必ず美しく幼児の記憶に焼きつくに違いない、と熟知しているかのようだった。彼女はそのために花びらを採集してきたのかもしれない。たとえばラファエル前派のオフェリアの画像などの中から、魔法をつかって綺麗な花や蕾を集めていたのかもしれない。
 彼女は草紫のからだを、桜織がしたようにまめやかに洗わない。もう子供が大きくなっていたせいもあるが、いっしょに湯船に入りはしても、その膝に乗せ、胸元に抱き寄せて甘やかしてくれるにせよ、子供の体の隅々に手を伸ばし、ということはなかった。そしてたぶん草紫もそれは拒んだに違いない。
 桜織なら嬉しかったことが、実の母親では恥ずかしくてたまらない、というねじれが幼児の心に育っていた。しかし、水晶が実母で桜織が乳母、という証拠はない。おおやけの戸籍と、人魚の系譜とは必ずしも一致しない。その必要もない。
 青緑いろの水底に母親のまるい膝がふたつ並んで寛いでいる。湯船は昭和半ばの、四角く深いステンレス張りだった。浴槽の銀色の縁に沼のようなグリーンがあふれ、そこに母親がまるく体をかがめて浸ると、暗い緑いろは彼女の皮膚の白さを反映してぱっと明るさを加え、珊瑚礁に支えられた南国の海のような透明感をたたえた。桃色珊瑚は水晶の肉体だ。そして、もう体を洗ってもらえず、シャンプーの泡で自分の頭をいい加減にかきまわしているちいさいおなかの草紫は、さしづめイソギンチャクに食べてもらえない海月の幼生といったところだった。人魚族のこどもは幼児にしても猛毒がある。母親はそれをよくわかっていた。
 食べてはもらえないが、母親に抱っこされるのはいい気持ちだ。それにまた、母親が髪を洗うのを見ているのも好きだった。緑のお湯から昇る湯気はお湯よりもずっと淡いグリーンだった。
水音がタイルの壁面に華やかに響く、昔の間尺のままの浴室は親子ふたりで使うには広すぎたけれど、高い天井まで透明な碧の微粒子は水滴を呼びながら、ふんわりとした霧となって漂い、たちこめ、時折不意に、ぽたり、はたりと光る雫を子供の肩や胸にしたたらせた。それも水晶の使った魔法だろうか。
 湯気は細かい枝葉を空間に縦横に絡ませる風船蔓のように、浴室のいたるところに伸びた。光りながら、雫を垂らしながら、雨だれのような子供と母親の湯浴みの響きを、彼らが身動きのたびにかきまわす浴室の穏やかな甘ったるい風とともに、その透きとおった花と碧のはざま。植物は笑い声のように成長してゆく。

 相手のギャングがものすごく手練れなのであたしはまともに戦ったら勝てないと思い、テクニックを使うことにした。相手は三人もいるのに、こちらはおじさんと自分だけ。おじさんも相当戦闘能力はあるらしい。昔の陸軍とか海軍とか、もしかしたらヤクザの親分さんとか、とにかく〈ぶった切る〉修羅場を数々経験しているひと。でもやっぱりおじさんはおじさんなのよね。だってあたしみたいな小娘がボディガードだなんて、人手不足なんじゃない、などどちょっと気の毒がる。
でも目前そんな悠長な状況じゃない。
 敵はみんな三十そこそこ、黒いボディスーツを着て完全武装した男たち。よく覚えていないけれど、何種類もの凶器をふりまわし、それが建物の壁や柱に触れると、そこだけ簡単にぼろぼろと砕けてしまう。彼らがひしひしとあたしに迫ってくる。喰うか喰われるかだなとあたしは思う。相手はこちらを殺すことに躊躇しない。どうしたらいいか。
めくらましをしかける。あたしは何もない空間に幻のスクリーンを張ることができる。縦横無尽に、自分の分身の幻を見せると、男たちは右往左往し始める。幻に向かって彼らは突進してゆくので、あたしは平気で彼らをうしろから〈ぶった切る〉
うしろから攻撃するのは卑怯? でも女と老人を暗殺するために、血気盛んな刺客を送り込むテロリスト相手に、あたしはたった十三歳のいたいけな少女なんだから、何したっていいのよ。容赦しない。
 夢だから、見たくないものは見なくてすむのか、血は出ないの。まるでなつかしの名画『ブレードランナー』のレプリカントか『エイリアン』のアンドロイド、ビショップみたいに黄色い体液がぐしゃっと空間に弾ける。あたしの解剖学的知識不足は、叩き殺した相手の脳味噌が脳漿や血液とともに飛散する現象なんか夢にせよ現れず、ただアンドロイドフィギュアが溶けた蝋のように砕かれる情景を描いた。男って幻想に弱いの。
 あたしは三人のうちふたりまでは棍棒でぶん殴ってやっつけてしまった。あたしが張りめぐらせた幻影のエントラップメントに彼らははまってしまったのね。
最後にひとり残っている。彼はあたしが他の男たちを相手にしている間、おじさんに突進して、白髪のおじさんと一騎打ちになっている。銃やレーザー、ショットガンとか、SFちっくな武器はお互い使わない。何故かしら? それもあたしの顕在的知識不足と銃器に対する関心のなさのせいかも。夢って正直。
 だから男とおじさんは鉄の棒で殴りあい。男のほうが強いので、おじさんは、それこそばっこーん、と威勢よい音をたてて、頭蓋骨の上半分、金属バットか手斧で〈かっとばされて〉しまうのだけれど、なぜか死なない。そうか、おじさん族はけっこうしぶといんだ。だよね、バブル崩壊リーマンショックを生き延びてきたんだものね。でもおじさん退職金出るの? 企業年金かなあ、などあたしはどこかで聞きかじった妙な感慨を抱きながらおじさんの戦いぶりを眺めている。おじさんがヤクザなら、ヤクザにリストラはないよね。引退はあるだろうけれど。
だけどお腹のでっぱったメタボ運動不足あらわなおじさんにドスの効いた殺気は皆無。
死なないにせよ、脳味噌飛ばされちゃったんだからあたしの出番よね。というわけであたしはたぶん日本刀をかまえて、飛んでゆく。
 勝たなくちゃ生き残れないから、あたしはこいつにも幻のスクリーンを張って注意をそらした。あちらとこちら、あたしがふたりいる。どちらかというと幻のあたしのほうがアップで迫力がある。アップで迫力がある、とこのなりゆきの一部始終を鑑賞しているあたしが、もうひとりいる。おじさんはどたまかちわられたのに結構のうのうと、小娘の参戦を眺めている。呑気。
 ちゃんばらの描写は夢でも苦手。だから助かりたいあたしは、刺客の頭から肩にかけて斜め上からざっくり斬った。男は刃を上にむけて下からすくいあげるようにこちらの喉を狙う。頸動脈削がれたらおしまい。あ、でもそういう知識がなければ、夢ならば平気なんだろうな。知らなければ、この帰結はインプットされないだろう。
だから夢の中で最強なのは、訓練を享けたスナイパーでも特殊部隊でもなくて、イノセントってことになる。自分を傷つける、自分が傷つける何の脈絡も知らないから、何度いためつけても、殺しても蘇ってくるゾンビチックイノセンス。ただし夢で、ね。
 あたしがぶった切った男も血は流さない。あたしってよっぽど血を見るのがきらいなのね。でも、もしかしたら、この無血の立ち回りは昨日かおととい見た勧善懲悪安全保障のテレビ時代劇のおかげかもしれない。誰だって痛いのはやだもんね。
 おじさんは地べたにしゃがみこんでズボンのポケットから白いハンカチを出して顔の汗を拭いている。脳味噌や体液、血飛沫ではなくただの汗。彼の叩き潰されたはずの頭蓋骨上部はいつのまにか修復されている。あたしも多少どこかを負傷したらしいけれど、とにかくぜんぶやっつけた。おじさんは、まるで台本の台詞のように「やれやれ」と言った。

 僕のこじあけた白い繭の壁の向こうに何があったか。僕は水香の独白を聞き流していた。水香も僕が聞いていようといまいと関係ないみたいだった。僕は自分の手の中に握りしめた蒲公英の種を空に飛ばしてやりたい。
 セルリアンブルー! 出現せよ君ただひとつと言う驕りと世界を僕にくれ空。繭を食い破って外界に進出する羽はまだ湿って青い。僕は両肩を縮め、背中を反らし、おなかをまるめ、左右それぞれ四本の足をうごめかせ、壁の切れ目にひっかかるまだぶよぶよのお腹をひきずりながら、冷たくあたらしい外気に全身をさらしてゆく。太陽が昇ればまだくしゃくしゃしている羽も乾いてひろがる。今はまだ夜明け前だ。切望した青はそこにない。
ただ遠い稜線をほのかな薔薇いろに透かして東雲の光がまっすぐに昇ってくる。僕は繭を捨てる。僕が翼だ。僕は虫か? 僕の丸まったくちばしは蜜か樹液を吸うためのもの。
僕が雄ならば、できるだけ早く羽根を乾かし、ここを離れて飛んでいかなければならない。成虫でいられる時間は短い。僕は健康な雌を見つけ、求愛し交尾をし、彼女が丈夫な卵をたくさん産むのを待って、また土に沈む。
許された短いうつしよの滞空時間のなかに、僕はひとりの伴侶にめぐりあえるのだろうか。時がたてば、僕の意識は冷えた亡骸とともに地に堕ち、四散し、水滴とともに蒸発し、どこかに還ってゆく。僕は僕の一部だったものを次の世代に託すことができないにせよ、彼らは僕が変化した水滴を飲んで繁殖するに違いない。

 真夜中に目を覚まし、隣に母親がいないことがあった。もう桜織は消えており、添い寝してくれるのは水晶ひとりになっていた。妹がいなくなってから水晶の夜の帰宅は少し早くなり、朝出かける時間は遅くなった。
草紫は六歳。すぐに七歳。母親の側でなければ眠れないという年齢ではなくなりつつある。水晶はそれをわかっていて、子供が小学校にあがると同時に寝室を分けた。小学校入学と同時に草紫は男の子になったせいもあるだろう。
だから母親とふたりで眠ったのは師走から翌年四月までだ。水晶は桜織とはまったく違う匂いがした。一言でまとめると、それは外の匂いだ。だが子供にはそのころまだ〈外〉がどういうものかわからない。いや、ずっと後になってもわかりようがないものを、水晶は毎日潜って戻るのだろう。肌理のあらい…。
 が、彼女は自宅にそうした雑音を持ち込むことは決してしなかった。衣装を乱して戻ったこともない。子供が見ていたのはせいせいとした母親の姿だけ。部屋着に身なりを改めても水晶は自分のペルソナの向こう半分を決して見せなかった。そちらはたぶん深くて波の荒い外海なのだ。おそろしい獰猛な魚や、巨大な甲殻類が潜んでいる。水晶はきっとぎりぎりの深海までもぐり、提灯鮟鱇や蛍光色のエイやシーラカンスと商売をしているのではなかろうか。
寝ぼけ眼で母親の寝床を探ると、ひんやりとその布団がつめたい。彼女はいない。子供は不安になって起きだす。桜織を探して泣いたときとは違う。草紫は、叔母が消えて以来、いつか水晶も自分を残してどこかに行ってしまうのではないか、と考え始めていた。三人で楽しく過ごしていたころ、この家はアルカディアだった。夜中に桜織がいないにせよ、それはきっとどこかにいて、戻ってくるに違いない不在だった。子供は甘えて泣いただけだ。
 でも今は違う。きっと母親も消えてしまう。今ではないにせよ、今かもしれない、いつかわからない、そうちゃんは置いていかれる。
 まるで足元からいきなり暗闇に転げ落ちそうな不安だった。
 母親の消えた寝床はすっかリ冷たく、部屋の空気も静かだった。草紫は気配を探して廊下に出る。虫の声が聴こえる。鈴虫か、松虫か? まさか、今は一月も終わり。師走の大雪を経て、年明けにはもういちど降雪があった。雪の積もることなど滅多にない湘南には災難と言えるほどの豪雪だ。だから秋の虫の声など聴こえるはずはないではないか。
 でも聴こえる。かぼそく、震えるような、陶器の縁をてのひらでかるくこすったときのような。そうすると焼きの佳い器は、澄んだ吐息を漏らす。あれとこれとの混じりあう音色が遠くから草紫の三番目か四番目の耳に聞こえる。行ってはいけないのかもしれない。でも夜を探検する好奇心は、闇の恐怖と不安に尻を叩かれ、みんな露わな真昼よりさらに強くなるものらしい。
 しゅ、と蛇が床をすべるような物音。
 するり、と畳の上を柔らかいものが移動する気配。
 古屋の奥の二部屋は、桜織がいたころから使っていない。納戸兼用の道具置き場のはず。
そのひと部屋から、ほのかな光が襖の隙間からほんのりと橙いろ。
 どうぞ覗きなさい、と言わんばかりにたてつけの歪んだ襖障子の間。草紫はちいさい顔をくっつけた。火の気のない廊下を歩いてきた素足がかじかんでいる。手も、顔も。寒いので余計にそこの橙いろに惹かれる。
 ここの明かりは裸電球だったはず。
 畳は黴と埃にまみれ、あちこち破れた葛篭や茶箱、長持箪笥などがごたごたしていたはず。
 が、子供の眼が見たそこにがらくたは一切ない。底光りするほど清められた床に、水晶は仰向けに寝そべり、水を含んで黒々とした髪を枕上に末広がりに放っている。着ているものは寝間着ではなく、水色の着物。もしかしたら長襦袢だったかもしれない。帯は締めていなかった。赤い伊達締め、それに赤い下紐数本が、体の下であやふやにほどけていた。彼女の上を、ゆっくりと馬が踏んでゆく。栗色の、毛並みのつやつやした馬が、水晶を蹄の下に敷いていた。
顔を左右にひとつ振って、馬がうなだれると、さらさらしたきれいなたてがみが水晶の首や顔に触れる。こんな大きな動物に全身を踏まれて母親は痛くも苦しくもなさそうに、薄く笑っていた。
 馬の蹄の大きさに草紫は目をまるくした。自分のてのひらほどもある。腹と尻の逞しさ、首の強靭など、こんな目と鼻の先に大型哺乳類を見たことがなかった。
馬は草原を歩むように母親の肉体をゆっくりと、念入りに踏み続ける。そのたびに鈴虫の声が水晶の喉から漏れる。

「人魚になったおばさんはどこに行ったの」
「きっと海だ。でなければ大きな湖」
 水香は髪をポニーテールにまとめ、襟ぐりのおおきく開いた袋のようなワンピースを着ている。大きな袋に頭と手を通す穴をあけた
どこかの山間地帯の民俗衣装みたいに見える。白い生地には向日葵が大きくプリントされていた。僕が水香に抱いている潜在的なイメージは向日葵なのか? そうかもしれない。夢にせよ、果敢にテロリスト三人ぶった切っていい気持ち、かどうかわからないけれど、意気揚々としている水香に、朗らかな向日葵はふさわしいだろう。
 僕たちは大きな水面の上に浮かんでいる。ここは海か、湖の真上だ。くるりと周りを見渡しても四方八方はるかに曖昧な靄につつまれ、水平も地平も、山の稜線もまったく見えない。線のない世界。ゆるやかな凸面に輝く水と空の曲面だけが見える。
 上空は青い。雲ひとつないが太陽もない。時折無数の黒い細かい鳥の群れが、ゆっくり東から西へ、あるいは南から北へ、かんだかい声でさえずりながら渡ってゆく。でも東西南北がどうなっているのか,ほんとうのところわかりはしない。だから上空には、僕たちの左右前後に渡り鳥がひっきりなしに飛んでゆく、と表現したほうが正確かもしれない。だけど〈左右前後〉では僕の見ている青い虚空のひろさと高さが伝わらないだろう。
鳥たちは、水の周囲に唐草模様のように渦巻いている低い靄から現れ、頭上高く飛んでゆく。靄は絶えず風にあおられ、いろいろな姿に変わっている。熱湯から白い湯気がたちのぼるようにも見える。
「それではこの中にいるのかもしれない」
 水香は顔を下に向けた。僕たちは水面から十メートルくらいの高さに浮かんでいて、ここからある程度の深さまで、水の中の様子が見えるのだった。
「これ、海なの? それとも湖?」
 僕の問いに水香は両手を腰にあて、上半身をすこし反り返らせた。児童を叱る先生のような格好に僕は吹き出す。だってそのとき、僕は自分の背丈がほんの少しにせよ、水香より高いことがわかったからだ。夢の中でも僕は成長している。僕は十四歳になったのか? これは夢で現実の僕は何歳なんだろう、という疑問がちらりと脳裏を掠めたが、僕が自分の問いに耽る前に、水香は
「言わずと知れた、これはあなたのコンプレックスエナジーなのよ」
「コンプレックス? なんだって?」
「深層心理学では、たとえばぬかるみや沼のイメージは、母親コンプレックスの端的な象徴とされる。でもあなたは泥沼に這いこんでうろうろしているわけではなく、足元にひろびろした巨大な水がめを眺め下ろして宙に浮いているんだから」
 水香はいまいましげに口をとがらせた。
「だから? どうなの」
「水とか海とかって、エネルギーそのものなのよ。現実でもそうよね。水力や火力で発電するわ。そのひとに内在する力あるいはそのひとの個性ではないにせよ、サブリミナルな無意識の象徴として海や湖が夢に現れる」
「で、これは?」
 僕は風に前髪をなぶられながら、親指を下にして水香に尋ねた。ほんとうのところ、もう訊かなくてもよかったんだけれど、水香と何か言葉をかわしていたかったんだ。
 さっきまで僕たちの周りは無風状態だったのに、今はそよそよと微風が通り過ぎてゆく。水香の白い向日葵のワンピースの裾がはためく。僕は自分が何を着ているのかわからない。
「この四方のどこにも陸地が見えない。草紫の上陸先はどこなんだろうな」
 水香は何もない空間にいきなり腹ばいになった。そして下を見る。
 海水なのか淡水なのかわからないが、透度の高い水中を、ゆったりと小魚の群れが銀輪を輝かせながら往来していた。水族館で見た鰯や鯵の魚群のようだ。鉱物質の光がこもる水中を、無数の魚のかたまりは、おだやかな水のたゆたいに細かな織目をつけるように、縦横に泳いでいる。彼らを襲う天敵の鮫や鯱はここにいないようだ。水面には上空を渡る鳥影が映っている。彼らの啼き交わす声が単調に、時間を測るリズムのように聞こえる
見上げれば空には鳥、海には―仮に海としておこう―魚たちが悠々と寛いでいる。水に映る鳥影と水面に浮かぶ魚影とは、中空の僕の眼からするとほとんど変わらない。僕は理解した。空の魂は鳥で水の魂は魚だ、水は空で空は水。鳥と魚はふたつに隔てられた世界で、空と海とが互いに呼び合う夢の指先のようなものだ。
 それでは詩的想像力に加担しすぎだろうか。だが世界創造の当初光あり、それから水と陸が形づくられたときから、永遠に空と海とは隔たって結ばれない。水平線のあわいは永遠の曲面であり、二つの世界は、ただ風や雨で互いを確かめ合うしかない。鳥は海への空からの贈り物。そして魚は空を見つめる海のまなざしだ、と僕は思う。そしてまた宇宙創成のとき、超新星の爆発によって飛び散る幾億の遺伝子記憶。それもまた鳥たち魚たちの姿で、僕たちの夢に導かれる。
 だから鳥や魚は、決して僕たちの思い通りにはならない。訪れるのは彼らのほうからで、僕たちには魚や鳥を支配することは、決してできないんだ。夢であっても。夢だから。
「では人魚はどうなの、あなたのおばさん」
 夢の水香は遠慮なく僕の心を読む。僕はそれをいぶからない。だいたい、水香という彼女はほんとにうつつの世界にいるのだろうか。夢の中の僕には現実の自分を確認する術などない。なぜなら理非善悪条理の係り結びなど、無意識無時間のこちらがわでは、それこそナンセンスだからだ。無条件にすべて受け入れるのが夢と仲良くする方法のひとつだ。
「人魚? 彼女たちは、水中から空を見つめるだけでは飽き足りない海が、魚を半分人間にして、上半身だけでもずうっと空に身を寄せることができるように願ったんだろ」
「願えば叶えられる、と?」
「そうさ。だって鳥はもともと魚だったんだぜ。みんな水の中にいたんだ。飛びたいと切望した魚たちはゆっくりと何世代もかけて自分の遺伝子をそのように変化させていった」
「なぜ人魚の半分は人間なのかしら。半分鳥で、半分魚なら」
「女の子とも思えないな。あ、怒るなよ。とてもわかりやすいことだと僕は思う。海と空はいつもいっしょになりたいって思ってるのさ。だから、魚や鳥じゃなく人の姿を選んだんだ。だってのべつまくなし恋歌をうたうのは、地球上のあらゆる生物の中で人間だけだよ。それに人間以外の動物や昆虫では、歌うのはたいてい雄だ。人間だけが男も女も歌ったり踊ったりする」
「男の人魚は?」
「僕にはわからない。いるのかもしれない。だけど、海の化身としてイメージするなら、やっぱりきれいな女性のほうがいいよ」
水香はごろりと空中で寝返りをうち、こんどは渡り鳥の行き交う空を見上げた。そして両手を空に差し出し、無限に高い青の空間を自分のほうに抱きとろうとするジェスチュアをした。水香のほそい両腕はもちろん空に届かず、吹き抜ける風をすうっとよぎって、向日葵のワンピースの胸元に静かな十字を組んだ。彼女は自分の胸を抱きしめる腕の形のまま、小声で言った。
「でも草紫は桜織さんに再会したら人魚族になるんでしょ?」
「決めてないよ。人間もきらいじゃないし。僕はただ、何とかして桜織にもういちど会いたいだけ」
「会いたいだけ?」
 言葉がまっすぐ来たので、僕も言い切った。
「だけじゃないよ」
 どうするの、という水香の突っ込みを予想したが、彼女は節度を守って、ただ笑った。
 それから、
「桜織さんがもうすでに人間であることをやめて、この源に還ってしまっているのだとしたら、こんな風に謎が解けるわ。花々は大地に据えられた樹と枝の、天に向かう憧れだと。花々はいっとき地の夢をうつして咲き、やがて風に吹かれて朽ちてしまう。だけどあたしたちのもらった爛漫のヴィジョンは重く暗い土の中にではなく、この水がめのような、あふれる大きなたゆたいの中に戻ってゆくのよね。花は樹々の歌なのよ」

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