さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

スポンサーサイト

Posted by 水市夢の on

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

翠琴晶  夢浮橋vol6

Posted by 水市夢の on   0 comments   0 trackback

   翠琴晶

 少女たちの赴(ゆ)く野は踊る
   ほそやかに爪先立てて風が光るよ 
 
 六歳の僕と十三歳の僕との間に、約七年のギャップがある。夢の中の僕は、この七年間の出来事を想起できない。だって、僕は自分を十三歳だと思っているけれど、目が覚めたらまだ六歳かも知れないんだ。そして、ママも桜織も僕の両側にいて、僕たちは川の字になって、香枕海岸の古い家に楽しく暮らしているのかも知れない。そうだったらどんなにいいだろう。
 僕の見る夢はてんでばらばらなつぎはぎだけれど、ゲネラルバスみたいに一貫して心に流れてやまないのは、桜織がいなくなってしまったかなしさ、彼女にもう一度会いたい、ということだ。もうここにはいないひと、手からすりぬけてしまったアルカディアの記憶、ただ幸福にだけ満たされていた時間。その真ん中に叔母がいる。
「でもあなた、そのひとほんとにいたの?」
 なに、と僕は耳をそばだてる。それから、声のほうに顔を向けた。
キイ、とブランコが僕の眼の前でこきざみに揺れていた。からっぽの、誰も乗っていない古いブランコ。鉄塔と鎖は剥げかかった赤いペンキが塗られている。昔風に木の坐り板。ふいにぐいっと鎖と板が大きく傾いて、ブランコは中空へ飛んだ。誰かがそこに坐り、力いっぱい漕ぎ出した瞬間のようだ。
だけど誰もいない。ブランコと鉄塔の向こうに黄色と青のジャングルジム。ゾウのかたちの幼児用滑り台。ここは僕がちいさいころ遊んだ近所の公園らしい。ブランコが往来する風景は雑草が繁茂する荒れた公園。僕以外にここには誰もいない。だけど声は聞こえる。キイキイときしむブランコの中から。
「いたの?、彼女は」
「姿を見せろよ」
 僕は言い返した。すると、
「見せたくても、実体がないのよ」
 どこかで聞いた声だ。
 キイ、キイ、とブランコがしきりにきしむ。前後に大きく揺れながら、キイ…。
「美青? もしかして」
「あたり。よくわかったわね」
「車椅子の回転音とブランコの錆びつき具合の相似が絶妙だよ」
「そう。あたしが意図したわけじゃないけれど、ヴァリエーションには必ず原型と展開があるからね」
「理窟っぽいな。透明人間になった気分はどう?」
「人間じゃないわ。あたしいったんは人魚になっていたじゃない」
 そうだった。
「人魚草を食べて、のっぺらぼうになったんだっけ」
「それどころかあたしは、無、になってしまったの。最初に表情を失い、それから表情だけじゃなく、しだいしだいに肉体のすべてが気化していくように消えてしまった。そして心だけ残っている。魂じゃないわ。美青というキャラクターはちゃんとあるんだもの。記憶も、感情も失われていないの」
「人魚草の副作用かい?」
「副作用じゃなく、たぶん、どういう筋道であれ、人魚って水の泡か空気の精になってしまうんじゃないの? 最終的に」
「アンデルセン童話ならね」
 ブランコはそこでぴたりと静止した。ちょうど僕が立っている目の前で、運動を終えた坐り板はちょっと揺れ、目に見えない美青がブランコから地面に降り立ったのがわかった。
「無じゃないよ。君はちゃんとブランコも漕ぐし、地面も歩ける、移動できる」
「歩いているんじゃないの。あたし自分の好きなところへ瞬時に行ける。海でも、空でもどこへでも。だけど誰にもあたしが見えない。
さびしいわ」
「人間に戻りたいのか」
「いいえ」
 きっぱりと美青は否定した。僕は何もない風景だけの空間に向かって話しかけている。たしかに彼女の声は聞こえるのだが、どちらの方角から耳に届いてくるのか定まらないのだった。僕は漠然と赤い鉄のブランコに向かっている。
ブランコの向こうに青と黄色のジャングルジムが見える。ネコジャラシやアザミなどの秋の雑草がそこらじゅう伸び放題だ。古びた遊具のペンキはどれも剥落が目立ち、赤茶けた地金が露わになっている。滑り台のゾウの模型は、片方の耳が半ばで欠けている。荒廃した公園。風が吹くたび、ざわざわと草が壊れかけた遊具をなぶる。このどこかに実体を失った美青。
「人間にではなく、あたしはあたしの風景を取り戻したいのよ」
「どういうこと?」
「草紫、あなたが見ているこの廃園の姿が、今のあたしの風景なの。さびしいでしょ。実体を失った美青は、こんな景色になってしまった。見捨てられた児童公園。幼児のかたちのまま時間だけが過ぎていった空間。あたしは世界中どこにでも行ける。でも、どこに行ってもあたしの見ている風景はこう。人間は―人魚でも―見えるものしか見えないの」
「君の取り戻したい風景って?」
「いちばんきれいなあたしの顔」
 僕はしばらく考えた。ヴァリエーションには原型と展開がある。美青の提示したテーマをここでひとつ束ねるために、僕は少し残酷な台詞を選ぶことにする。
「いちばんきれいな瞬間って、誰が決めるんだ。ほんとにあるものなのか?」
美青は落ち着き払って答えた。
「有を無に変えればいいんだと思う。その逆でも」
 それからさらに付け加えた。
「だから桜織は消えたのよ。消えたことで彼女は必ず〈いた〉ことになったの」

「昨日ははなびらだったものが今日は砂糖になる。恋の初めってそんなものじゃないかしら?」
「それでは明日は? その砂糖は今日の翌日には何になるの?」
 水晶と桜織が対話していた。草紫は居間の炬燵に潜りこみ、大きなテディ・ベアを枕にうとうとしかけていた。半分眠っている頭に、大人たちの声が聞こえ、同時に、春のつぶらかな陽光あふれる新緑の丘いちめん、桃の花が咲きつらなっている光景を見ていた。声は幻聴ではなかったし、濃いピンクいろの桃の花もまぼろしではなかった。居眠りからはっと覚醒すると、横になった子供の顔から炬燵布団の向こう、居間と二間続きの部屋の床の間に、花ざかりの桃の枝が長々と活けられているのが目に飛び込んできた。それに、草紫が潜っているところまでは届かなかったが、午後の陽射しが目と鼻の先の縁側に斜めに差し込んでおり、埃のない床に光はルフレして、幼児の顔をほんのりと暖めていた。
 桃の花は肌のふっくらとした淡紅色の萩の花器に活けてある。その濃いピンクいろを飾って、純白の雪柳もゆったりと房を桃の花の周囲に伸ばしていた。
 母と叔母の声は炬燵布団に隠れて見えない所から聞こえている。古い漆の匂いがふわりと漂ってきた。きっと午後の春の陽に暖められて、匂いの粒子はこちらに動いてきたのだろう。湿った黴と埃の陰気な匂い、樟脳と絹の佳い香りがする。子供はまだ眠い目を少しこすって、もぞもぞと炬燵から這い出した。小腹の空く時刻でもあった。
 桜織の声はちいさかったが、まだ続いている。
「花が砂糖になって、その次にはジャムか蜂蜜になるのなら、それではまるで影を書かない色彩だけの油絵のよう」
「鬱陶しい?」
 水晶は笑っているようだった。顔だけでなく女たちは声もよく似ていたので、耳だけで聞いていると水晶か桜織か、どちらかが独りごとをつぶやいているようにも聞こえる。
「陰影は最初から入っているのよ。はなびらにもお砂糖にも裏表はあるんだもの。どんな微細な粒だとしても裏は絶対にあるわ。点であってもね」
「言わないだけ?」
「わかりきったことは言わないほうがスマートだわ」
 水晶の声はそこでややひややかになった。子供はその冷たいニュアンスに刺激されて炬燵から抜けだし、母親たちの方に行った。
 昔風に長い廊下が部屋の隣にある床の間はよく掃除されていたが、普段使われてはいなかった。
違い戸棚は造り変えられ、紫檀に螺鈿細工をほどこしたアールデコの飾り箪笥がその空間にきっちりと嵌めこまれている。仏壇がわりで、青い色ガラスの開き戸の中には、先祖の遺影や形見の品が納められていた。ステンドグラスのように厚みのある青いガラスは滅多にひらかれることがなく、そのときも陽光を弾いた鈍い光沢を畳に落としながらひっそりと閉まっていた。
「そうちゃん…」
 子供は言いかけて口ごもり、それから先へ言葉が続かなかった。障子を開けて、母親は庭から射しこむ陽だまりをのどかに浴びている。彼女の周囲には古い茶箱やダンボール、桐の小箱などが置いてあり、緋毛氈、大小の花台、ままごとの道具のような厨司。古い絵本の中からそのままとりだしたような造りものの桜、橘。
藤沢樟脳の、鼻腔から頭の天辺にすうっとつきぬけるよい匂いが強くなっている。水晶は雛人形を取り出していた。ホットカーペットを敷いてその上に横坐りした彼女の膝には赤い十二単の雛の体があり、手にはおすべらかしの人形の首があった。雛と対のお内裏さまはまだ桐箱の中らしい。水晶は両手でそっと雛の顔を包んでいる。桜織はいなかった。水晶は手の中の雛の顔をかるく揺すり、
「これは、おばあさんが生れたときに揃えたお雛さま」
 現代雛のまるみを強めた可愛らしさとは明らかに違う細面に、きつねのような切れ長の眼元口許。百年以上もたって人形の地肌はくすんでいるのに唇は赤い。そして口紅の上下の色が微妙に異なる玉虫に塗られているのを、子供は敏感に見て取った。陽射しを享けて、人形の肌は皺のない老女のそれのようにもろくなめらかに見えた。もしかしたら、桜織がその口紅の色をどこかで足したのかもしれなかった。雛にせがまれて。
 ここに桜織の姿はない。
水晶はつやつやした漆黒のおすべらかしを乱さないように、人形の首を十二単の体に嵌めた。人形たちの髪は本物の人間の女の髪を細工したものだった。匠の手になる人形の肌は古びたが、人毛の光沢は時間の経過とともに妖しいぬばたまの精気を増す。
雛の顔を胴体に当て、細い指先でかるく頭を左右にねじり、力をこめて押す。きゅ、と囀りをたてて首は平安装束におさまった。そのとき細面の古い雛は、緑と朱の唇を開いて笑ったように見えた。

海沿いのマンションかホテルのような四角い大きなビルに僕はいる。ここは寄宿学校かもしれない。住人はこの建物のどこかに散在しているようだが、はっきりと姿は見せない。
外は大嵐だ。大波がこのビルの外壁に打ち寄せる音、風雨のどよめきがひっきりなしに聞こえてくる。まるで何十人もの男たちが空と海にひしめき、このビルめがけて怒鳴り声を浴びせているみたいに、空間が叫ぶ。
「こわい?」
 耳許で静かな声が聞こえた。また声だけ?
それでは、さおちゃん、あなたは僕の幻聴のよう。あなたは実在せず、僕が空想で捏造した〈もうひとりの、実母以上にやさしい母〉と誰かに揶揄されても仕方ないね。
「ひねくれすぎです」
「そう?」
 凛とした否定は、今とても嬉しい。
「じゃあ、なぜ僕にはさおちゃんの姿が見えないの?」
 僕の訴えは自然と甘ったれた声音になっていたろう。言い終えるやいなや、僕は僕の斜め後ろ側、左肩甲骨のあたりに、桜織が現れたのを感じた。十三歳の僕より彼女はまだ少し背が高い。僕の背中に桜織の体温が触れる。ちょうど心臓の裏側、貝柄骨に、彼女はそっとてのひらをあて、
「下へ行きましょう。外から還ってきたひとたちを迎えに」
 聴覚と触覚、それに嗅覚は桜織を感じ取っている。ヴァーベナの香りではないけれど、例えば体を洗ったあとで、その石鹸の残り香が消え、きれいな温かい、そのひと独得の皮膚の匂いがふっくらと昇る。それは嗅覚に快く馴染んで彼女の記憶の忘れられない一部となっている。香りが僕にぴったりと寄り添っていた。
 だけど僕はうしろを振り向くことができない。なぜかできない。これではまるでオルフェウスではないか? 振り向けばエウリデーチェは冥界の闇に吸い込まれてしまうかもしれない? いや、僕はそんなことは考えない。だって、桜織はじかに僕に触っているじゃないか。
 かるく顔を俯けると目の端に彼女の衣服の裾が見える。白っぽい、香枕で彼女がいつも着ていた衣装のどれかの色。青でもクリーム色でも、ピンクでも、どれもほとんど白に近いパステルを春夏秋冬変わらず彼女は選んでいた、そのスカートの色。
 嵐が咆哮している今は夏か秋だろうか。でも海沿いには冬でも凄まじい低気圧が押し寄せることもある。空調の利いたビルの中は暑くも寒くもなく、かすかに汗ばむくらいに湿度が高くなっている。それはきっと外壁を揺るがす大波のせいだろう。
昼か夜かわからない。がらんと飾りけのない室内は、机や椅子を片付けたあとの会議室のようで、天井の長い蛍光灯が、しらじらと影の薄い明るさを撒いている。
桜織 と僕との会話が途絶えると、その隙間に、どっと雨風、海の轟きがなだれ込んでくる。僕たちはさながら嵐の海岸に並んだテトラポッドのように寄り添っている。僕と彼女のつかず離れぬ空隙に、波濤は間断なく襲い掛かり、叔母と甥の微妙なすきまを押し広げようとする。僕らが口の重いコンクリートなのが幸いだ。
僕らは風音のわずかな間を選んでほんのすこしの言葉を交わす。短い会話で、とうてい互いの感情を全部すくいとることなんかできない。僕らは―少なくとも僕は言葉に表せない自分の感情を探しあぐねて、嵐に揺さぶられるまま、時間の潮にずぶぬれだ。
桜織りの手が僕の背中をかるく押した。
「こっち」
 促されるまま、僕は階段を下りてゆく。エレベーターやエスカレーターではなく、古典的に階段というのがいい。腰までの高さの簡素な手摺りには、いたるところ折り紙の花や鶴がいっぱい飾り付けられ、密閉したビルの中でも、どこからともなく吹き込む風に、鮮やかな千代紙細工がちらちら揺れる。
ここは病院なのかもしれない。折り紙は入院患者の手芸か、お見舞いなのかも。それにしても医師も看護師もいない。遠くで人の声らしい物音、気配はするけれど、僕の眼に映るのは無機物ばかりだ。
 有機的な要素は眼に見えない。気配、温度、声、この建物内部の温かいシチュエーションを集約した桜織が僕の背後にぴったりくっついて、僕たちは階段を降る。
 地下ではなく、二階か三階で僕たちは立ち止まった。このビルの入り口は、一階ではなく二階にあるらしい。一階のエントランスは国道に通じ、二階は崖際の岩場に向いている。
外から還ってくるひとは、海のほうの玄関から入ってきた。開口一番、
「命の危険はないよ」
 彼は彫刻のように均整のとれた白い体と顔をしている。僕たちを見て、かるく唇を緩めたが、笑顔には遠かった。表情が硬いのは血の気のない頬のせいかもしれない。少女にしては首が太く、胸がまったいらでなかったら、混血美女だと誰でも勘違いするだろう。眉間からまっすぐ伸びる鼻梁は生粋の西洋人ほど高すぎないが、日本人には滅多にない彫りの深さだ。
二十歳くらいかな。もう少し上かな。そうだ、豹河と同じくらいだ。肩にかかる長髪は黒い。青みがかって見えるほど黒い。インド人の髪の毛みたい。嵐のために濡れてしまったのか、僕たちの眼の前に現れたとき、すでに彼はすっかり衣服を脱いで、タオルを体に巻きつけていた。崖に続くエントランスから彼の足元まで、濡れた体からしたたった水が帯のようにつながっている。濡れ羽いろの髪をひとまとめに片手でしぼり、
「シャワーを浴びる」
 短く言うと、背を向けてすたすたと歩き始めた。尊大な印象。ちょっと細いけれどまっすぐな肩と背骨、腰に巻いたタオルの下から伸びる膝の線の、日本人離れしたなめらかさに驚く。白くて半透明で、まるで美術館で見たアラバスターの彫刻みたいだ。いや彫像なのかな。これは夢だから、そういうものが動いていたっておかしくないぞ。
 海から彫刻が歩いてきたなんて、いかにも夢らしい夢だ。僕と桜織はヒトデみたいなテトラポッドで、こいつは芸術作品だなんて多少むっとするが、桜織が側にいてくれるなら許容範囲だ。今、僕のキャパシティは広い。
 そのまま僕たちはなんとなく彼の後をついていった。こいつは豹河とどことなく雰囲気が似ている。豹は人なつこくて、触れば気持ちのよい熱のかたまりみたいな印象だったけれど、こちらはひんやりしている。
白い顔に黒髪、黒い眼。唇は赤い。睫毛が濃い。それは強い雨風に打たれても、瞳の周りにまっすぐ開いたまま剥げ落ちないから、天然睫毛だ。ひややかに見えるのは、彼の肌や唇の鮮やかすぎる艶のせいかな。男には見えない。でも少女でも女でも、もちろんない彼。僕らの前に現れてから、ほんのわずかな時間だけれど、いちいちの行動があらかじめプログラムされたアンドロイドみたいに落ち着き払っている。豹河とどこが似ているんだろう?
似ているものを眺めていると安心する。
安心する…。そうだ、こいつはあいつと同じように、リラックスした雰囲気なんだ。α波って言うのかな。豹河もこの青年も表情や動作の中にいつも青空がある。冷たくても温かくても、ふり仰ぐなら青い空がいい。

何度めのクリスマスだったかプレゼントの空き箱を数えればきっと思い出せる。赤い服に白い髭の肥ったサンタクロースは画像や夜の夢のなかにだけいて、イヴの真夜中、草紫の枕元にそっと贈り物を置いてくれたのは叔母だった。水晶ではなく桜織。なぜなら桜織がいなくなった年から、クリスマスイヴの夜は水晶と二人で祝うことになり、プレゼントは枕元ではなく、ローストチキンやミニサイズのホールケーキが並んだ食卓で、じかに母親から貰うことになったからだ。
贈り物の包装紙と空き箱を草紫は捨てなかった。草紫がというよりも桜織がしまっておいたのだった。こどもの寝室の押入れに、大小の箱は自分の中に包装紙とリボンをおさめて並んでいた。ラッピングペーパーもリボンも桜織の好みだったのだろう。棚に並んだ空き箱とリボンを眺めると、ショップで一律に飾ってくれる包装ではなく、幼児のよろこびそうな模様と色どりを、彼女は毎年念入りに選んでいた。
 草紫をよろこばすためではなく、きれいな箱や包み紙、リボンをそろえるということを、桜織のほうが好んでいたのだろう。とてもたくさんの女が、箱や袋、布や紙を必要以上に好むのは、それが女性性の最たる象徴だからだ。きっとナルシシズムに近い。  
時々彼女は押入れの棚に並んだ空き箱を、コレクションを鑑賞するように眺めていた。
「箱がからっぽなのはさびしいわね」
「さびしい?」
「中身が入っていたほうが箱らしいの」
晩秋で、風が強かった。風いろはもう木枯らしめいて、間歇的に音をたてて樹々をなぶる風の穂先は冷えてするどく、残り少なくなった枝のあわいをすり抜ける北風の響きは夕方にはことに際立った。強い風音のたびに、枝から離れた、あるいはどこかの樹木からむしられて飛んできた落葉の、屋根にぶつかる音がばらばらと聞こえた。
風はひっきりなしに吹くのではなく、時々唸りながらやってきて、草紫たちの小さい家の周りで地団太を踏むように樹々を揺すってあばれ、いつのまにか去っている。そしてしばらくするとまたやってきて、さっき自分が枝から弾き落とした庭の枯葉をすくい上げるように吹きあげ、中空にきりきり舞いさせ始めるのだった。
冷たい風がやむと桜織は窓をあけて部屋の空気を入れ替えることがあった。きれい好きなこのひとは、締め切った押入れや納戸の澱んだ臭気を嫌い、数日置きにあたらしい空気を入れた。子供の宝物箱を眺めていた日もきっとそうだったのに違いない。
 桜織は薄いクリーム色の箱をひとつ棚からとって、大きなさいころを降るように、子供の眼の前でカタカタと振った。音は彼女が箱の中にしまったリボンの束が揺れる気配だ。
「ね、つまらないって文句を言っている」
「リボンの音でしょ?」
「違う。空き箱の寂しさです」
 にこっと桜織は笑った。数字の配列と同じように左詰めに整理されたコレクションの何番目のものだったか。押入れを開ければいつでも確認できる。子供の顔くらいの大きさの、なめらかに樹脂コーティングされた光沢のある正四面体。手にとった桜織が箱を揺さぶるたび、ちかちかきらきらとこまかい粒子が光を弾くのは、箱に塗られた樹脂加工にマーブルのラメが練りこまれているせいだった。  
クリーム色の地に、やはり薄青や緑の細かいラメの渦が表面をくるりと巻いている。箱だけでもずいぶん高価だったはずで、おもちゃしか興味を持たない幼児に、箱の細工の価値がわかるはずもなかったから、それは贈るひとの楽しみのために違いない。
「箱が寂しいの?」
「たぶんね。きっと」
 子供は叔母の手から空き箱を受け取り、その軽さに少し驚いた。大きくて、見た目もきらびやかなので重さがあるように想像されるのだった。けれども、手にもらった箱はほんとうにあっけなく軽く、子供はうっかり箱を取り落とした。無意識に重いものを待ち受けていた両腕のあてがはずれた勢いは、空き箱を下から跳ね飛ばしてしまったのだった。
 かたん、と箱はつぶやくような音をたてて下に転がり、蓋がはずれた。
 桜織は空き箱をひろい、中身のないからっぽの内部を覗き込んだ。箱の中にはリボンの束がひとつあるはずだ。桜織は白い歯を見せて笑った。晩秋の薄暗い室内で、彼女の顔は物影の薄紫に表情を消していた。笑顔を薄闇のなかに窓のようにひろげると、桜織は草紫に言った。
「そうちゃん、この箱のなかに去年の風がいた」
「去年?」
「この箱を最後に開けたのは去年だったから、それが残っている。ほら、それが今出て行く。窓が開いているから」
 桜織は蓋のとれた箱を開け放った窓に向けた。いっとき止んでいた北風は、いつのまにか小刻みに木々の枝を揺さぶり始め、夕焼けを兆して茜に染まった雲のかたまりが、黒ずんだ裸木の向こうを速度を増して飛んでゆく。
 ほら、と桜織は力をこめて箱の中身を外へ放り出した。まるで盥の水を縁側から庭先にうちやるような所作だった。
 そのとき吹き始めたのは北からの風だったから、窓を開けていても南面のこの部屋に飛び込んでくるはずはない。けれども、桜織が放った箱から巻貝のように束ねられた赤いリボンが飛び出し、同時に開けた窓がめりめりと軋むように鳴ると、あっ、とふたりの人間が顔を背けてうしろに片足を一歩引くほど強い風がなだれこんできた。風はばたん、と片手開きの押入れの扉を閉め、桜織と草紫のおそろいのギャザースカートをカーテンのように煽り、宙に飛んだリボンは風の中でころがり、リボンを束ねていたゴム輪がぷつりと切れた。
 ほどけた赤いリボンは羽根さながら、のびのびと空に吹きあげられ、風の流体運動をなぞって飛んでいく。
「迎えが来たのね」
 晴れやかな桜織の声。

「僕はあのとき箱の中に残ったんだ」
「何も見えなかったぞ」
「風や水は不透明より無色とうめいなのがいいだろう?」
「中身はリボンだけかと思った」
 僕は半信半疑でクリーム色の箱を覗いた。赤いリボンが赤い鳥になって飛び立ち、晩秋の夕焼けに紛れてしまった日、あのあと必ず
桜織は箱の蓋を閉め、片手開きの押入れの棚に戻したと思う、よく覚えていないけれど。
 深くて滑らかな、ラメのマーブルで飾られた手箱の中に、膝を抱え、額をその膝頭にくっつけたこびとがいる。苔いろの上着に黄色いズボン。髪は縮れてもしゃもしゃだ。顔を伏せているから、いったいどんな奴なのかわからない。マルチーズとかシーズーとかの仔犬くらいの大きさで、見た感じもころころしておもちゃの人形のようだ。なぜ顔を伏せて猫のようにまるまっているんだ?
あのとき僕の顔くらいの大きさに感じられた箱の様子は、十三歳の今も変わっていない。頭の大きさはあのころと同じくらいということか。違うのは、六歳の僕は四頭身くらいだったけれど、今は六頭身半はある。僕の体の横に僕の頭が六つ半、この箱もまた六つ半並ぶ。
「痛いんだ」
「何だって?」
「体じゅうちくちくずきずきするんだよ。身動きできない」
 こびとは小さい声で言った。激痛のため顔をあげることができないって? だけどその割には彼の声ははきはきしており、苦悶に歪んでいない。
「いつから?」
「ずっと前から」
「どうしてそうなったの。病気かい?」
 僕はこびとの入った箱を膝に抱えて座り込んだ。ここはどこだろう。家ではない。座った底面には、灰色と緑のペーズリー模様みたいなでこぼこした襞が、ところどころ剥げかかった魚の鱗のように平らに続いている。この床のこの模様は絨毯なんだろうか。いや、床を手で探ると、それは繊維の柔らかさではなく、つるつるしたプラスティックの床に、肌理の粗いアクリル樹脂のペイントが施されている感じだ。整然とはほど遠い行き当たりばったりな床のでこぼこ。
上のほうは起伏のないクリーム色。この箱と同じ中間色だ。この空間は建築でもなければ自然のイメージでもない、中途半端にねじれた空間のヴィジョン。ここはまるでどこかに到着するために歩き始めた僕が迷いこんだ脳細胞のひずみのようだ。どこでもなく、ここでもない。僕の意思や願望とは想定外の空間。底面に描かれている、ぐにゃりと歪んだ灰色のペーズリーは、僕がこれまでに流した冷や汗の雫をプレスして長く広くひきのばした模様かも。それは嫌な汗に決まっていた。
 そうして箱の中で苦しがっている、冷静に苦しがっているこびと。
「いつのころからかわからない。だいじなのは今痛いんだ。いつからなんてどうだっていいだろ」
「それもそうだね。僕は医者じゃないしね。何故痛むのか理由はわかっているの?」
「ああ」
 こびとはもぞもぞと箱の中で顔を動かした。肯いているみたい。そして、
「僕は全身刺だらけだ。体のいたるところから鋭い刺か角が飛び出して、僕の周りの空間を突き刺す。すると突き刺された空気の痛みが僕に跳ね返って、ぞれでひっきりなしに全身が傷むんだよ」
「何も生えてないぜ。もこもこして、緑いろの上着と黄色いズボンしかない。刺も角もないよ」
「きみに見えないだけだ」
 こびとは頑固に言い張った。
「僕がちょっとでも身動きすると、周囲の空気は僕の刺に触れてぴしぴし言う。僕の首も背中も足も、空気の粒子の痛みをくらってひどいもんだ」
「それじゃ、僕、きみに触ってもいいか?
刺があるんなら、僕の手もそれを感じるはずだよな」
「いいよ」
 僕は両手で小動物を抱えあげるようにこびとを箱の中から取り出した。温かくて柔らかい。仔犬か兎のような手触りだ。
「痛くもなんともないよ」
「そりゃそうだよ。だって、僕の刺によって傷ついたきみのてのひらが感じるべき痛覚は、全部僕の方にフィードバックされるんだから。僕は今内臓まで深々とえぐられる激痛だ。だって人間の手を突き刺すなんて、空気をちょっとひっかくのとは、桁外れの苦痛だろ?」
「激痛って言うけど、きみの声ぜんぜん落ち着いてる。冷静だ」
「わめいたって痛みが減るわけじゃない」
「ごもっとも」
 僕の腕に抱き上げられたこびとは、相変わらず膝をかがめたままだ。僕はこいつの顔が見たい。
「きみの顔を見せてよ」
「そんなことをしたら僕は爆発しちゃうかもしれない、痛くて」
こびとはますますかたく体を縮めた。まるで毛糸の毬みたいだ。もこもこしたアルマジロの編みぐるみ。こびとは両手で自分のそれぞれの肩を抱いて、ちいさい手のちいさい爪が苔いろの上着に食い込んでいる。たしかに痛いんだろう。だけど、と僕はふと考えた。空気に触っても痛い、のべつまくなしずきずき、ちくちく、ひりひりし続けるなんて、それは生きていること自体が苦痛ってことだ。
「爆発するの?」
「たぶんね」
「ずっとこうしてまるまって震えているのと、爆発して苦痛ごときみも消えてなくなるのとどっちがいい?」
「僕を消すの? 草紫」
 こびとは僕を名前で呼んだ。
「僕は思い出なんだ。箱の中にしまわれていた思い出さ。桜織は箱の中から鳥を追い出したけれど、僕は出て行かなかった。だってきみは叔母さんのことをずっと忘れないじゃないか」
「きみの台詞こそ謎だよ。きみが僕の記憶のかたちなのか」
「思い出だよ。記憶と思い出はちがう。きみのてのひらは何も感じない。だけど僕はこんなに痛んでいる」
 僕はたちあがり、こびとの手をいっぽんずつ彼の肩からひきはがしていった。生れたばかりの赤ん坊よりもちいさい手、爪、腕。こびとは抵抗らしい抵抗をせず、僕が彼の四肢をひろげる感触は、針金でつながった抱き人形の手足をひらくことと変わらなかった。錆びついた針金。しまわれていた思い出。こいつが爆発したら、僕の心か肉体に激痛が奔るの? 
 最後に顔。僕は、顔を顎にくっつけてもじゃもじゃと垂れかかる髪に覆われたこびとの顎に指をかけて、ぐい、と持ち上げた。
 悲鳴か絶叫を、僕は少し期待した。
 それが僕の喉から洩れるものであっても。
 こびとが僕の一部なら、彼を破壊する罪悪感はない。さらに、僕は自分の知らない自分の思い出なら全部知りたい。そのどこかに、六歳までのアルカディアが残っているかもしれない。思い出が爆発したら僕の心は痛むのか? それはきっと僕の記憶から滲み出た灰色のペーズリー模様を粉々にし、僕を覆うこのクリームいろの立方体の壁を崩し、すなわち箱の外の箱を吹き飛ばし、その爆発の中から閃光とともにこぼれてくる声は、きっとなつかしい、どこかの瞬間で耳にした母親たちの声の残響なんだ。

スポンサーサイト

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://donanobispacem717.blog.fc2.com/tb.php/68-fd1f074f
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。