さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

スポンサーサイト

Posted by 水市夢の on

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

緋王号  夢浮橋 vol7

Posted by 水市夢の on   0 comments   0 trackback

   緋王号

 そびやかに世界超えてむたてがみは
   委ねよ闇を陽(ひ)と抜く乙女に

 香枕海岸から星月夜岬へは歩いてゆける。草紫の家から海辺まで五分、海に出ると西のほうに黒いシルエットとなって岬が見えた。女子供の足ならば、だらだらと三十分、往復すれば小一時間はかかるが、桜織はこの遠距離を子供を連れ歩く午後の散歩の道のひとつにしていた。観光地の鹿香、香枕、星月夜岬をつなぐ海沿いの歩道は、花や動物を象ったカラフルなタイルを敷いてきれいに舗装され、防波堤に守られて、歩き心地も眺めもよい。朝昼晩と、ここは付近の住民、観光客で人通りが絶えなかった。
 海沿い道の岬への往復は、幼児の足には長い時間歩き続けなければならないし、直に海風が吹きつける厳しさもあって、たぶん桜織が子供を連れて歩いたのは、四季のうち気候のよい、暖かい日だけだったのに違いない。 
砂浜と崖を埋め立てた道には、真夏の直射を防ぐ大きな街路樹もなく、あまり丈の高くない夾竹桃や芭蕉などで景色の緑を補っている。
 だからその季節が春夏秋冬のいつだったかわからないのだが、午後の三時くらいだったろう。陽盛りを過ぎ日没まで、時間の進行がゆらゆらと長く感じられるころだ。
 視界に西のほうの海がほのかに橙色がかって明るかった。海岸の湾曲は星月夜岬へさしかかって登り坂となり、ちょうどそのあたりで湾岸道路ごと歩道は岬の山翳にすっぽりと覆われた。犬の散歩、ジョギング、ウォーキング、それに観光客のカップル…桜織は通りすがりのそれぞれのひとびとに、必ずかるい会釈をした。見ず知らずのひとなのだが、誰しも桜織に視線をよこし、彼女は汗を拭ったハンカチをその都度たたむように、こくん、と頭を下げるのだった。
「休もうか?」
 岬に近づくころ、子供の足はくたびれてくる。星月夜岬の岸壁に張りつくように削られた円形の平地には、このあたりの海に素潜りするひとや釣り人、足弱のひとのために、木組みのベンチが数台備え付けてある。その休憩所から階段を降りればすぐに海に入る岩場で、潮も風も遠浅の結衣ヶ浜より荒い。そして海風の匂いも砂浜より生臭いのだった。
 岩がちで、波のえぐりの深いここらへんは遊泳禁止とされていたが、岬のすぐ向こう側の得鳥(えとり)ヶ浜は波が荒くても海水浴場で、サーファーが多かったから、毎年岬付近で水死者が出る。その遺体は潮流に流されて鹿占半島へ遠ざかることが多いが、まれに桜守湾のなかできりきり舞いして、この磯に戻ってくることもある。
「誰か戻ってくるかしら」
「誰?」
 尋ねなくても子供にはわかっている。桜織は草紫を黒いベンチに座らせ、ペットボトルのフルーツジュースを飲ませ、波の刻みめの深い磯に眼を泳がせた。後ろの護岸の罅割れたコンクリートの隙間いっぱいに、雑草が乱れ丈高く繁って、海風にざわざわと鳴る。
 ちょうどこのときふたりの周囲には釣り人も観光客もいなかった。晴れた海は明るかったが、陽射しがまぶしい分だけ、星月夜岬の影に入ってここは暗い。海の反映のおかげなのか、日向の歩道を歩いてきて海とタイルの眩しさに慣れた目には、この円形の休憩所を覆う影は、ただ暗いのではなく、海水の延長のように青みがかって見えるのだった。
「そうちゃん、見える?」
「うん」
 子供は曖昧に頷いた。見て欲しいのかな、と内心困惑している。魚の顔になった母親たち、光りながら水死者を運んでくる船。その陪従のように周囲に集まってくる幻の…あるいは古い死者たちを乗せた小舟の群れなど、草紫はあれもこれも特に見たいわけではない。だが、星月夜岬の近くにくると、たしかに草のざわめきや波の遠鳴り、古い崖の壁などに、常とは違う幽かなちらつきが絶えず子供に訴えかけてくる。それをはっきり知覚しようとするなら、どんな異様が出現するものやら。桜織や水晶には見えないのだろうか、と草紫はいつも不思議に思った。
「波の上に」
 幼児は星月夜岬の真横を指差した。そこに岬の影と午後の光の境界線がある。日影の海は藍色がかった鼠いろ、日向は白に近い銀色で、白い海面に絶えず浮き沈みする波の陰影が濃い。
「あれは藤塚の乗馬クラブの…いいえ、あんなところまで馬が入るわけないわね。だって今満ち潮に近いし」
 叔母の声は嬉しそうだった。
「さおちゃんにも見える?」
「見える相手と見えないものがあるの」
「なぜ?」
「あちらのほうで、見る相手を選ぶのよ。見てほしいひとに姿を見せるということ」
「そうちゃんも?」
 桜織は首を傾け、ベンチに座って、地面に足の届かない両足をぶらぶらさせている小さい草紫の背中を撫でた。目は海を見ている。
「わたしたちが選ぶのではなく、あちらが選ぶの。子供のほうが好かれるのね」
 光と影が拮抗する磯に馬が一頭泳いでいる。たくましい胸や腹に飛沫を躍らせ、肢で海を漕ぐたび、太い首とたてがみが、風をとらえる帆船の帆柱と帆のように大きく前後に揺れる。馬は太陽のまばゆい白い波に乗って濡れた鉄のように輝いている。
それから馬は、桜織と草紫の視線に気付いて首をこちらにねじると、まるで蹄で海底の岩を蹴るようにかるがると方向を変え、星月夜岬の影のなかに踊りこんできた。影に入っても、馬の金属質な輝きは変わらない。陽光の眩しさに見えなかった獣の大きな眼や、飛沫を浴びて踊っていた、長いたてがみの艶などが、かえってはっきりと見える。
 女と子供が腰を下ろしているベンチの後ろを、そのときちょうど通った者がいた。桜織は馬から視線を離さず、その影に会釈をしなかったが、こう聞こえた。
「得鳥羽島に流れついたって」

「そのネクタイすごいね」
「第一印象を悪くするのにナイス」
 僕はうかつに同意せず、相手の胸元を見て、にかっと笑ってやった。オヤジは真っ赤なワイシャツを着ている。色が地味なら、襟のきっちりとしたふつうのサラリーマンが着ているものと変わらない。だけどあっけらかんとした赤いシャツ。坊ちゃんに出てきたっけ、赤シャツ。やっぱりすごいパンチだね、この色。桜織もママも嫌がる色彩だし、僕の周囲をずらっと見渡しても、真冬でもないかぎり、この色を好んで着たがる奴はほとんどいないと思う。悪くないけどね、元気に見えるしね。だけどサラリーマンシャツに使うなおっさん、いくら夢でも。
 そう、ネクタイだった。真夏のクールビズ以外で、ふつうの堅実な勤め人スタイルなら、最初に視線が集まるのはネクタイだ。だってジャケットもシャツも地味だから、その中で比較的自己主張ができるネクタイのセンスは、周囲へのアピールを測るポイントになる。
 赤茶けた髪の毛がもしゃもしゃで、色白の皮膚に細かい皺がいっぱい寄り、無精ひげだらけの六十がらみのおじさんは、真っ赤な(深紅とか真紅とかいうきれいな形容とは絶対に結びつかないあっけらかんとしたまっかっか)シャツを着て、胸元には黒白真横ストライプのネクタイを結んでいる。その上にデニムの背広。ジャケットといっても、見るからに継ぎはぎで、穿き古しジーンズの寄せ集めリメイクに違いない。両方の前ポケットの縁にLivi`sとBIGJHONの皮のブランドプレートがある。すりきれたデニムの端切れは揃った方形じゃなく襤褸なランダム。でも素材の色むらと継ぎはぎ具合で、藍色のクロコ模様に見えなくもない。こんなの着ている奴いないだろう。
「おじさん、そのネクタイ、古い言葉ですが、もろに前科者って感じする」
「人類はみなつみびとだよ坊や」
 猫撫で声でうれしそうに言う。彼はがりがりと頭を片手でかいて、
「このタイのココロはなあ、俺たちは囚われびと、そのヨコシマゆえに」
 格調と卑俗をわしづかみにする言葉の抑揚がへんだ、と僕は半分納得し、半分面白がっていた。縞のネクタイなら、普通は左右どちらにせよ斜線だ。モノトーンの真横ストライプネクタイなんて、僕は見たことがないし、じっさいものすごく目立つ。この縞がもっと細くて、藍色と白ならマリンファッションだと言い張れるのかな、いや無理だ。だって真っ向から「上下の秩序なんか認めない、世界は横並びアナーキーさ」なんてあっかんべーしてるんだもの。そうだ、これは彼の長いべろなんだ。舌をぶらさげてそこに黒の太字油性マジックでぎゅうぎゅう横縞を書く。
彼は背広のポケットから黒い細長い外国煙草を出し、百円ライターで火をつけた。シガレットはなんだろう。ジタンかな、よくわかんないけれど、おやじの指には似合わない。  
 あ、そうでもない、柄は悪いけど、このおっちゃんの手は白くてきれい。男にしては指もほそい。爪はちょっと汚れているけど、箸より重いものは持ちたくない手だ。手の甲に黄ばんだ染みが薄くいくつも浮いているのは老斑かな。顔も手も、色は白いけれど、どことなく不健康に皮膚がゆるんでいる。よく見ると整った顔立ちなのに、へらりと垂れた両目が、かったるそうに常に笑っている。このタレメには警戒心ゼロだ。相手が僕だから?
「その背広の意図も説明してよ」
「見たとおりさ。おいらはブルーカラー、何本もジーンズ穿きつぶし、ヴィンテージへの愛着ゆえにリメイクし、腐っても鯛とブランドをこれ見よがしに貼り付ける見栄っ張り」
「見栄っ張りは自分のことをそんな正直には説明しない」
「ジャリの年齢なのに鋭いな。だけどきみのまっすぐな視線よか、現実はひとくせもふたくせも灰汁があるの。そうだな…虚栄は擬態の一種なの。人間はつみびと的カメレオンなの。もしくはその逆もあり」
「わけわかんない」
「あと二、三年もすればわかる。衣装はすべて制服さ」
「その継ぎはぎ、職人芸に見えるよ。それにおじさんぜんぜんブルーカラーに見えない」
「それじゃおいらの経歴(まえ)をあててみな」
 おじさんは足を僕の眼の前で高く組んで、両腕を頭のうしろにまわし、煙草を斜めに銜えてうれしそうに笑った。
「最初に名前教えてよ。どうしてここにやって来たの?」
「俺はジンさん」
 ぷかっと煙草の煙を上を向いて吐き出し、
「水晶の息子に会いに来たのよ。あいつ、死んだんだって?」
 この一言で僕はいっきに全身の血が冷えた。
かなしみのためではない。
 七歳から十三歳に至るまでのいずれかの年、母親の水晶は亡くなっている。なのに、夢を見ている僕はママを恋い慕うよりも、六歳で喪失した桜織のことばかり考えている。
息子なのになんたる薄情。だけどこの結果は僕のせいじゃなく、ママのほうにあると思う。ママはもちろんやさしかった。だけど、僕と母親をつなぐやさしさのはざまには、厚ぼったいふんわりしたクッションがはさまっていて、その抱き心地はよかったけれど、僕は彼女の温かさを実感できなかった。
 ママはいつ死んだ? そうだ、まずそれを思い出さなくっちゃ。夢においては部分的記憶喪失、自己中心的健忘症はつきものだ。
それにしても、この初対面のジンさんはどうしてママを知っているんだ。僕の無意識のなかにこんなへんちくりんな不良おやじのヴィジョンがあったなんておどろきだ。こびとが出てきても夢なら想定内ファンタジーだが、ジンさんのキャラクターは、僕個人のマインドレパートリーにはありえない。
「俺、きみに会いに来たんだ」
 煙草を指に挟んだまま、ジンさんは片膝を抱え、膝上に髭だらけの顎を乗せた。ふてくされた少年みたいな格好だ。
「僕のこと知っているの?」
「水晶はきみのことよく自慢していたから」
「ジンさん、ママの友達なの?」
 ジンさんは、垂れ目の笑い皺をさらに深くして言った。
「人魚の息子って、やっぱり魚になるのかね?」

 ひたひたと器の縁を満たすように雨音が続いている。梅雨の蒸し暑さは空調のタイマーが切れると同時に寝室に被さってきて、子供は寝汗を掻いて目をさました。何か夢を見ていた気がする。夢のなかでも雨の音がしていた。自分の目の前の紫陽花の葉っぱに大きなでんでん虫がほそい角をゆっくりと伸ばしながら這っていた。雨粒がでんでん虫の角に触るたび、ちかちかと水のこまかい粒子が弾け、それは、この雨に打たれて楽譜から流れ出た音符がピアノの鍵盤にこぼれ落ちるような、でたらめできれいな和音となって耳に聞こえていた。
 雨音はでんでん虫の鳴声、彼が機嫌良く不思議な歌をうたっているように聞こえ、子供は手を伸ばして、緑の木下闇にふかぶかと咲き群がっている紫陽花の蕊に身を乗り出した軟体動物をつまみあげようとした、ところで夢は終わった。
パジャマの襟ぐりを探ると、汗を吸った繊維がひんやりと感じられた。頭皮も湿っている。口を開けると、家をおしつつむ雨音といっしょに、湯のような湿度が喉と肺に侵入してきた。子供は習慣でズボンのお腹に手をさしいれ、お漏らしをしていないかどうか確かめた。パンツは汗を吸っているが、やんわりとした湿り気は洪水とは違う。よかった、おしっこは洩れていない。桜織でなければ水晶が横に眠っているはずだが、白い布団には誰もいない。不安より先に尿意が来た。お手洗いに行かなくちゃ。
 こども部屋には必ずひとつ豆電球が夜通し点っている。夢から醒めたばかりの眼にはそれで十分な明るさだ。草紫は母親の夏掛けが斜めにめくれているのを確かめ、母親もトイレに行ったのだろうと勝手に考えた。障子を開けて廊下に出ると、いきなり雨音が大きくなった。そして真っ暗だ。ざわざわ、ざあざあと軒を叩く気配は豪雨に近い。まだ夜明けには遠く、闇の懐は世界を包んでなお深い。
 人間を襲う幽霊や悪魔を女たちは子供に教えなかったので、草紫は夜の闇を恐がらなかった。本能的な不安はあるが、女ふたりと幼児ひとり、川の字に暮らす世界では海の深さと夜闇の暗さとは同じ混沌から流れてくる。
 なまあたたかいカオスに水晶と桜織は常に出入りし、夜であろうと昼であろうと、それは明るいか暗いかの相違だけだった。さらに、人魚の女たちは水中でも呼吸できるのに違いなかったから。
 こどもは恐れ気もなく長い廊下をひたひたと素足で歩いた。床もじっとりつゆを浮かべている。古い木造家屋は夏には夏の湿度に馴染み、冬ならば北風を木目の繊維に滲みこませる。ひた、ひた、ひた、と足音も雨の音に近づいてゆく。
行く手の雨戸が開いており、そこから室内に庭の匂いが入ってきている。樹々と水の匂い、濡れた土とでんでん虫の匂い。ほのかな明るさは雨の光の反映だろうか。月光などあるはずもないが、玄関先か、隣近所のものか、ほんのわずかな常夜灯の輝きでも、流れる水は映してきらめくだろう。そのうっすらと心ひかれる明るさに子供はおずおずと近づいた。手洗いはその明かりの先にある。
 ぱしゃりと水を跳ね上げる音がはっきり聞こえた。黒い雨戸の縁からちいさい顔だけ横に突き出して外を見ると、庭面は紫陽花の満開で、暗闇の中にその青紫や赤紫の球形があざやかに浮かんでいる。花を支える茎や葉は夜の闇に紛れて沈んでおり、天からまっすぐに降りしきる雨の中に、色鮮やかな毬が無数に浮かんでいるように見えるのだった。 
夢の続きかと子供は思ったが、膀胱をせきたてる尿意ははっきりしている。だが動けなかった。低い壁のように庭を囲む紫陽花の群れのまんなかに、母親と桜織がいる。
 何をしているのだろう。立っているのは水晶で、桜織はすこしかがんで、うしろがわから姉の背中に触っていた。母親たちは衣服を着ていない。闇の中でも、ふたりの艶やかな背中や腕が雨にうたれて光る。さっき廊下で見た雨戸の隙間から屋内にほのめく明るさは、彼女たちの肌を映した雨の白さかもしれない。
 桜織は片手を姉のくびれた腰の一方の下に添え、もう片方の手で降りしきる雨をすくいあげるように享けては、水晶の肩甲骨や背骨のまんなかを丁寧に拭っていた。雨の雫で姉を洗っているようだ。いつもは結い上げている水晶の長い髪が水にほどけて首筋から肩に塗れて張り付く。ぬばたまの光沢は彼女の皮膚の白さを際立て、姉を洗っている妹も、同じくらいの長さの髪を中腰になった背中から膝まで、雨の流れのまままつわりつかせている。かるい笑い声が彼女たちの喉から洩れているように聞こえるのは、人間の声ではなくて、どちらかの長い毛先から雫となってしたたる水の落下音かもしれない。
 水晶は肉付きのよい腕をうなじにまわし、自分の髪の毛を頭上にひきしぼるように巻いた。片足に重心をあずけ、かるく腰をひねり、桜織を斜めに見て笑っている。それはアングルの〈泉〉の少女の姿だった。瓶から注がれる水流の変わりに、今はらはらと大粒の雫が、光りながら彼女の周囲に散りこぼれる。
 光りながら。
 草紫が呆然と眺めているうちに、雨の中で水浴している女たちの周囲はうすらあかりに包まれ始めた。彼女たちのほっそりとしてはいるが、女性らしいまるみと豊かさを白い脂肪に漲らせた肉体の内側から、薔薇色の光が灯っているように、紫陽花に護られた夏の夜の闇は、彼女たちのために明るかった。雨は小止みなく降り続いている。桜織は膝を伸ばし、姉の正面に周り、自分の髪を頭上に巻き上げたままの水晶の首から胸を撫でた。鎖骨の窪みに雨水が溜まっていたが、姉と妹とどちらのほうだったろう。
 子供はじりじりして無意識に足踏みを始めた。おしっこがしたいのだった。だが母親たちの光景から離れられない。桜織は子供のほうを振り返り、
「ひとりで行きなさい」
 それは手洗いの指図に違いなかったが、幼児の記憶に残った桜織の声の残響は、日常の些細な始末を促す声音の域を超えて、冷たく澄んだ響きを伝えた。ひとりで行きなさい、記憶と思い出の隙間にはさまった桜織の声のひとひらは、あとあと思い入れを込めて反芻するなら、特別な予兆として味わいなおすこともできた。
 草紫は頷いたが、切羽詰まった尿意に震えながらも動かなかった。雨は続いている。桜織と水晶は幼児を見て笑っている。天地の区別がつかないほどの夜の暗さは、どこかから希薄に退き始め、女たちの足元のほうからぼうっと明るんできた。
 子供の眼には、それが母と叔母の踏んでいる地面が発光しているように見える。彼女たちの前後で水の落下は白く明るんでいる。
 桜織は水晶の喉の下に人差し指を添え、つっと剃刀の刃をたてるように、一直線真下に、臍のなお下のほうまで指いっぽんの爪をたてた。赤い蚯蚓腫れが爪の後を追うだろうか? 到底そんな酷さで爪は動いていない。指先で雨の流れが澪を変えて女の胸や腹を流れるだけだ。くすくす、とどちらかの笑い声がまた聞こえる。彼女たちの背後でざわざわと紫陽花の群落が揺れる。それぞれの花が首を伸ばして、これを見物したがっているようだ。
 水晶は目をほそめた。桜織は自分のつけた筋に沿って、両手の指を添え、肩に力をこめて水晶の腹を左右に裂いた。鎖骨の真ん中から乳房の谷間、臍、いったんくびれた腰から、急激にひろがった下腹部まで、水晶の肌はゆったりとふたつに割れて、そこから向こうは夏の夜明けが始まっている。
 
「父親のことを知りたいとは思わなかったの」
 ママは水色のきものを着て僕の前に立っている。和服じゃない。大きな薄物の真ん中に穴を開けて、そのまますっぽり被ったような衣装だ。青い百合の花を下向きにして、うてなのところから水晶の顔が出ている感じ。百合の筒はシフォンのように半透明で、はなびらの内部でゆらゆらしているママの手足と胴体が見える。
「思わなかった。恋しいとも感じなかった。今も」
「桜織はあなたを上手に育てたわ」
「ママも、だよ。僕を育てたのはあなたたち」
 僕は母親への労わりではなく本音で答えている。水晶のお腹に僕を撒いた〈男〉=〈父親〉とはどうにも結びつかない。拗ねているわけではなく、ただ素直に皮肉るならばこの図式には〈父親〉という単語のかわりに何か別な、地味な単語を嵌めこんだほうが、僕の情緒にはリアリティがある。たとえば〈冗談〉とかね。いや、でもこれではママに失礼だろうか。それならば敬虔に〈偶然〉とでも思っておくことにしよう。いずれにしても父親は抽象的で、十三歳の僕のアイデンティテイーには関与してこない。これからはどうかわからない。
 ここはごつごつした岩場か、洞窟のようだ。天上から蒼白い鍾乳石か氷柱のような尖りがいくつも下がっている。蛋白石に似たほのかな虹が氷柱の周囲に浮かんでいる。洞窟のどこかで雫がゆっくりと、長い間隔を置いてしたたっているのが聞こえる。内部の岩壁の一定の高さまで、ところどころにうつぼのような貝がびっしりくっついているから、きっとその位置まではいずれ潮が満ちるのだろう。してみるとここは海のすぐ側だ。
 暗くはない。母親の姿も顔もはっきり見える。洞窟のどこかの天井か壁がぽっかりと抜けていて、そこから外光がシャワーのように注がれている。雲間からこぼれる光の筋ならば天使の階段というところ。
「僕を生んだのはあなたでしょう?」
「そうよ」
「僕が生れたときから桜織はいた?」
「わたしたちはずっといっしょだった」
「僕が七歳になったときなぜ彼女は消えたの?」
 水晶は大きな瞳をまじまじと見開いて僕を見つめた。僕は母親の顔を眺めて、いまさらながら彼女と瓜二つの桜織の記憶を確かめる。
「草紫は、わたしが死んだ日のことを覚えているの?」
 僕はなじられているのかな。そう、僕は彼女が亡くなったときのことを、思い出せない。思い出そうとしない。この夢の中まで、母親の死は僕の意識に侵入してこない。心をつかまえて離れないのは叔母のことだけ。
「七歳から十三歳までのどこかで、ママは亡くなったんだよ」
「それだけ?」
「今はそれだけ。僕の記憶にあなたの死の画像はないんだ。もしかしたら悲しすぎて思い出したくないのかも」
 水晶は笑った。ころころと笑うと、膝より長い薄物の裾が、風にそよぐ月見草のように揺れた。
「草紫、たとえばわたしは死んでいない、としたらどうなの?」
「え?」
「あなたはまだほんとうには六歳か七歳、いえもっとちいさくて、十三歳のあなたというのは、その子供が夢見ている仮想の自分だとしたらどうかしら」
「眼が覚めたら僕は六歳? そのほうがいいな。そしたらママもさおちゃんも僕の周りにいて、僕は女の子の服を着て」
「母親を殺したいの?」
 僕は絶句した。うっとりしたアルカディアの感慨にいきなり刺しこまれた水晶の錐だ。冷たく透きとおって、奥のほうまでつらぬきとおす。僕が出血したとしてもママは平気で言うだろう、あなたの心の穴に栓をしたのよ。OK。.
「癒着がひどいとそうなるかも知れなかった。でもあなたは死んだんだ。ジンさんもそう言った。もしかして、彼が僕の仕掛け人?」
「草紫、太陽の光を浴びるとき、あなたはその光の粒子の一滴、その一筋のルーツを気にかけたりする? ここに太陽が現れたとして、わたしたちが暖まるのは全身であって、皮膚の一点だけとか、髪の毛一本だけが熱を帯びるなんてことはないわ」
「男にとっては不本意で腹立たしい言い草なんじゃない、ママ」
「だからわたしたちは人魚なの」
 水晶はぬけぬけと答えた。
「僕もやがて男になるんだぜ。いや、七歳から僕は男の子にされた」
「桜織が消えたのもわたしが死んだのも、あなたが男だから」
「人魚の息子は魚になるのかって、ジンさんが茶化したよ」
「夢のほうが不可能なことが多いのかもしれないのよ?」
 僕は黙った。天井からか、壁の穴からか差し込む光が濃くなった。それは溶暗の舞台に照射される幾筋ものスポットライトのように際立ち、光の筋の眩しさのために周囲が逆にかきくらがってしまう。同時に地鳴りのような低い震動が全身に響いてきた。
「潮の音?」
「そう、いいえ、わたしはもうじきこわれてしまうの。その音」
 言いながら母親は僕の手を握り、ごつごつした岩場を、鍾乳石や壁を伝いながら歩き始めた。僕は彼女の手の感触に驚いている。こんなにはっきりと、自分ではない誰かをつかんだことがあるだろうか? ママはこわれてしまうって? 夢のかけあいは理路整然からは程遠く、真実があることを前提としない謎の応酬だ。水香ならどんなふうにアナリゼするだろう。夢見る僕がじっさいには少年ではなく、六歳、七歳、いや十三歳でもなくて、夢の自我には想起することもできないキャラクターだとしてもいい。僕は桜織と再会できない。母親の死を看取ることもできない。いや思い出せないまま。
 僕は多少やけくそ気味になっている。だけど、そうしてあらためて僕は自分を気に入っていることを自覚した。僕は僕のままがいい。ああそうか、この長い一連の夢の結末はこうだ。とても単純に、僕は自分が気に入っている。悪くない。夢が醒めたとき願わくば僕は十三歳の僕でありますように。そして六歳のおわりに母親とそっくりの桜織が消え、七歳
から十三歳までの間に水晶が死んだ、というデッサンがクロッキー帖に残っているように願う。そのノートが擦り切れていたっていい。
「ここから彼がやってくる」
「彼って?」
 ぐいぐいと母親に手をひかれ、僕は息切れしそうだ。水色のシフォンを翻し、母親は険しい岩肌を蝶々のように身軽に登ってゆく。上へゆくと太陽に焼かれた岩の匂いがはっきりしてきた。熱の香りだ。彼って誰? ママは答えない。
 どこかでアーチのように突然壁がぶち抜かれ、真っ青にひらけた目路のはるかに大洋が見える。波濤が白い、風が荒い。鴎の声。右手に星月夜岬、手前には結衣ヶ浜。毎年得鳥羽島に水死者が流れ着く。ときには鹿占半島まで運ばれる。その逆か。
 海の中から赤銅いろの馬がやってくる。陽射しを浴びて、逞しい腹を鉄色に輝かせ、たてがみに花を飾り、そのたてがみを握っているのは桜織。見えるものと見えないものがあるの。相手がこちらを選ぶのよ。子供は好かれるのね。
 そうだ、謎解きはいっさいしない。すべて棚上げのまま夢はまた次の夢へ続く。僕は母親を見た。予想どおりもう水晶はいない。彼女はいつ死んだ? それも判明させない。必要がないから。
 僕はこれからさきもずっと桜織を探し続ける。僕が僕であるかぎり。僕が少年でも青年でも、老人になっても、僕から細胞分裂していった女性性の桜織を探す。
 僕の一部は永遠に僕のもの、僕自身だ。
 僕は海上で波をおしのけて堂々とこちらへ渡ってくる馬を見た。ほら、そこに母親と桜織がいる。白い人魚の彼女たちは馬の背に横座りになり、彼の真紅のたてがみに花を飾って獣をあやつり、誇らかに虚構と妄想の海を渡る。馬の周囲に飛沫く波紋を、時間の刻み目を、僕は数えることができない。この馬はかつて何度も何度も水晶を踏んづけた奴に違いない。母親は水色の着物に白い襦袢、赤い伊達巻をしどけなくして、馬に微笑んでいた。だけど服従していたんじゃない。
 今彼女は砕かれもせず、あでやかにその彼の背に乗り、太陽をひきまわす。彼女の妹といっしょに。太陽のど真ん中で海はうたう。蹂躙された海が今は御者だ。

                                                (夢浮橋 了)

スポンサーサイト

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://donanobispacem717.blog.fc2.com/tb.php/69-84981777
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。