さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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カイト・キメラ    チェリー・トート・ロード vol3

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カイト・キメラ

 座り心地のよい店に行こう、と亜咲に誘われ、茴と陽奈と三人でタクシーに乗った。
「飲んでなかったらあたしが運転するんだけどね」
「どのみちご飯食べながら飲むでしょ。だめよ」
 茴も免許は持っていたが、ほぼペーパードライバーだ。陽奈は成人式を済ませたら教習所に通うと言っている。亜咲は運動神経は鈍いほうだが、車の運転はうまく、ことに唯由が亡くなってからは、たびたび愛車をとりかえた。古めかしい言葉だが、未亡人になってから最初の車は白いプーマ、数年後には赤いBMW、それから今はブルーグレーのシャトーに乗っている。
 シャトーは伊仏合同ブランドで、豪勢な名前の割にはこぶりで、フィアットより大きいが、すんなりとした車体の後部座席は小さく、家族向けではない。だが乗り心地はよかった。ことに助手席のサスペンションは快適だ。そこで一夜を明かしても熟睡できそうなシートのデザインは見事だった。茴は数度助手席に乗ったが、このなめらかなリクライニングを常時楽しむのは誰なのだろうと考えた。亜咲ひとりの椅子ではなさそうだ、と。シャトーは趣味の勝った高級車で、独身で金持ちの、何よりも美しい亜咲にはぴったりだった。
 が、今夜はタクシーだ。湘南タクシーは呼び出してからきっちり五分で到着した。
「遠いんですか?」
 心配そうな陽奈の問いに、
「都合悪いの?」
「別に何もないです。でもきっと先生いっぱい飲むからぁ」
 可愛く言葉を濁す陽奈の上目づかいに、茴も亜咲も吹き出した。
「大丈夫よ、あなたたちに迷惑かけないわよ。ひとりで帰れる程度に飲むから」
 亜咲は陽奈の頬を人差し指でちょん、とつついた。茴も笑っていたが、自分の笑顔の下ですうっと危ういものが走るのがわかった。陽奈は亜咲の泥酔の世話をしたことがあるようだ。それも一度や二度ではないな、と茴は察し、産毛の浮いている娘の横顔を見つめるまなざしがやや強くなった。
 亜咲に連れまわされ、どこを遊んでいるのやら。亜咲といっしょなら心配ない、と思えるほど友人は方正ではない。方正な女だったら魅力は少ない。同性にも異性にも。完全な方形、完全な円より多少抑圧された楕円、乃至はバロックなもののほうが目を吸われる。夫の死後歪んだとしても、亜咲はなおつややかなバロック真珠であってほしかった。今は陽奈のために。
「草壁に、ちょっといい感じのお店がある」
「草壁? 山の中ですね」
 陽奈は目を丸くした。蘇芳山から桔梗山に抜けていく県道沿いで、地形から谷戸と呼ばれる鄙びた土地だ。
「だいたい予約なの」
「今夜はいいの?」
 茴が尋ねると、亜咲は赤い唇を片側だけつり上げて笑った。
「あたしはそこではVIP」
「先生はどこでもプラチナです」
 すばやい陽奈のフォローに、茴は思わずじろっと彼女をにらんでしまう。この子はいつから幇間になったのだろう。いや、これでいいのかもしれない。だが、亜咲ごときにしっぽを振るなと内心舌打ちもする。いや、ひよこだから許そう。ひよこのほうがいい。
 得鳥島を出て湾岸を鹿香に向かって少したどり、桔梗山に登る県道からいくつめかの分岐点を過ぎ、落葉樹のさらに奥まった山間に、数軒の明かりが見えた。
「ここは陶芸村というの」
「ええ。アートな地域よね」
 二十年ほど前にはただの雑木林だったが、いつしか拓かれ、最初にコテージのような外観の、壁は薄いが見た目はきれいな家がとびとびに建てられた。軽井沢あたりのペンションに似ているが、それほど規模は大きくない。鹿香、香枕は古都であると同時に海山をいただく自然が豊かなので、ハイキングを楽しむ観光客も多い。草壁はその名のとおり大昔は草ぼうぼうだったに違いないが、鹿香が徐々に観光化するにつれて歩道も森も手入れがされた。茴が少女のころは、県道の奥に瀟洒な煉瓦の小道などなかった。
 小道の左右には、もう暗くてよく見えないが、かなり大きなオブジェがいくつもランダムに立っている。それらは全部陶器ではないのかもしれないが、この集落のどこかに独自の登り窯を設けた陶芸家がいて、ニックネームはそこから付いた。益子と萩をかけあわせたような鹿香焼と称する壺や皿、茶碗は、今や観光土産のひとつにのしあがっている。
交通の不便な地域なので湘南にしては地価も安いのだろうか。一軒ごとをとりまく庭がゆったりとして見える。聞くところによると、ここの住人に堅気の勤め人はいず、皆自営業を兼ねた職人かアーティストというから、互いのエゴを隔てる庭の空間が必須なのだろう。
 目当ての家は平屋で、鉄格子の丈高い門の両脇は薔薇の生け垣になっている。真冬というのにまだ白い薔薇が花を残していた。温暖な湘南ならではの冬の薔薇。それにしても手を入れる主の丹精がうかがえる。目を凝らすと花は白と赤らしい。もう闇が濃いので、白い花のほうが、門柱に点った薄明かりにくっきりと群がって浮かぶ。冬なのに香りが強い。どこにも仰々しい看板などなく、ストライプの鉄柵に、つやのあるエナメル樹脂を塗ったカリグラフィーの唐草がななめにからみついていた。    
Chiaroscuro
「キアロスクロ?」
 茴は顔を近づけてざらざらした鋳鉄のゴシックスクリプトを読んだ。亜咲はケーキとブランディの混じった匂いの息を吐いてつぶやいた。
「人生の基本」
「陰影が? そうね」
「料理も、出会いも」

 楕円形の半透明なうす赤いゼラチンの中に、細かな銀色の破片が箔のように浮いている。はなびらをかたどったピンク色の生ハムと星型に抜いた青いチーズに飾られ、小さめのプリンくらいの大きさだ。
「七面鳥のゼリーです」
 ほそく、白い手をした女がきれいな声で説明してくれる。手だけではなく、全身ローティーンの少年のようにすんなりした彼女がキアロスクロのただひとりのフロアらしい。厨房からパスタを茹でる待ち遠しい匂いがこもる店内はそれほど広くなかった。黒と白の市松模様の床。太い木枠の窓。脚の太い円卓が二つ、いや三つ。カウンターは五席ほど。扉から入ってすぐ目の前の壁にはレオナール・フジタのリトグラフ。テーブルを囲む少女たち。おでこがまるく大きい、手足のほそいフジタの少女。誕生日の祝いに集まったというのにただのひとりも笑っている子のいない不思議な少女たちは、フロアの女性の雰囲気に似ている。装飾よりもテーブルクロスの白さが際立つシンプルなインテリアは、重厚で簡素だ。
 店の奥三分の一ほどはガラス張りの温室のようだ。そちらに置いてある椅子やテーブルはこちらの質朴な食卓とはうってかわって、アールヌーヴォーふうな曲線だった。きっとガラスの向こうには雑木林に面してちいさなパティオがあり、真昼には四方八方からティーサロンに日光が降り注ぐのだろうか。夜の今は碧がかった暗さに沈み、アンティークめいた調度の光沢だけがつややかに浮かぶ。
 鳥のゼリーといっても、ガラをとった煮汁に薄い塩味をつけただけという。煮凝りの硬さはゆるく、匙を差し込むとほろほろと崩れる。生ハムにくるんで口に含むと香ばしい桜の味が口のなかに拡がった。塩味は桜の塩漬けのものだった。
「蘇芳山の桜を毎年松島の塩で漬けるんです。
震災ですっかり痛めつけられてしまったけれど、古来の塩釜を守っているひとたちがいて。このおいしさは、自然の海と桜のたまもの」
「桜は朱鷺さんが漬けるのよね」
 亜咲に朱鷺と呼ばれた女性はなめらかな顔に淡い笑顔を浮かべた。笑顔と肢体のどちらからも彼女の年齢が測れない。若い女でないことは確かだが、この朱鷺のように、年がいっても肌や顔の輪郭のみずみずしい女が、当代の日本には増えた。朱鷺はその上に表情もうぶだ。見ようによっては陽奈と同じくらいの顔に見える。撫で肩からすっと上に伸びる首の長さが印象的だった。鈴木春信の女に似ていると形容したら失礼だろうか。
「いつからの知り合い?」
 朱鷺は茴に視線を向け、微笑をさらに深くしたが答えない。声だけ優しげにして、亜咲がずけずけと答えた。
「千尋の共演者が朱鷺さんの保護者だったのよ」
ほごしゃ、と陽奈が口の中でつぶやいた。亜咲はまた、
「素敵なピアニストだったわ」
 朱鷺は笑って声を出さない。茴は星型の青いチーズを口に運び、
「このチーズはどこの?」
「チーズではないんです」
「何ですか?」
「酒粕とカッテージチーズに生クリームを加えて練ったもの。青い色と香りづけはミントです。アーモンドを刻んだかけらを歯ごたえに混ぜ込んで」
「酒粕? 朱鷺さんのアイデア?」
「いいえ」
 朱鷺は柳腰をひねって湯気のこぼれる厨房を振り返った。
「ひびきが」
「ひびき?」
「響く樹と書くの」
 亜咲が説明をくれた。
「もうじきご挨拶に来ます」
 朱鷺は亜咲をなだめるように答えた。亜咲の眼の周りがはっきり赤い。塗りなおした口紅はざっくりした白いセーターに不釣合いに紅い。いやセーターに似合わないのではなく、カーキ色のスラックスに不釣合いだ。いや、亜咲は普段着ではなくミッドナイトブルーの胸元が大きく開いたドレスに着替えている。いつ衣装を変えたのだろう。細いゴールドの肩紐で吊った胸のカップから、乳房のヴォリュームがあふれそうだ。脂の白い張りつめた胸元。むき出しの両肩が茴を威圧するように盛り上がっている。亜咲は赤ワインのグラスを傾け、くい、と喉を鳴らして飲んだ。
「茴は再婚しないの?」
「からむな、こら」
 茶化したが亜咲はひきさがらない。
「面倒なのよ」
「ひよこはじきに鳥になって飛んでくよ、そしたらどうするの」
「何も変わらないわ、今のまま」
「寂しくないの。思い出だけで」
「演歌にするのはよして」
「紹介しようか」
 舌なめずりして顔を寄せてきた亜咲の顎を茴は人差し指でもちあげた。
「これ、至近距離」
「何の?」
「キスできる距離、張り倒せる距離、絞め殺せる近さ。あなたこそひとり、なはずないわね。シャトーは誰のために買ったのよ」
「ここのマエストロとデート」
「響樹さん? 彼は朱鷺の夫でしょ」
 ふふ、と亜咲は目を細める。
「いきなりレスボス、やめてください」
 快活な声が来た。茴は亜咲の顎から指を抜いた。最後に少しばかり爪を立ててやりたい衝動はこらえた。
 響樹というキアロスクロのシェフは背が高く、眼窩の窪みが深かった。やや削げた頬と鼻梁の隆起の鋭さに茴は目をみはる。イケメンだなあ、とは素朴な感想だが、亜咲を眺める彼の眼はおだやかで、女に対する淡白な感情が知れた。年齢は自分たちと同じくらいだろう。こめかみに白いものが混じり始めている髪の色が全体に明るいから、混血に違いない。蒼みがかった氷のような色の瞳もカラーコンタクトではないのだろう。端正を通り越して惹きつけられる深い造形だが、視線が柔らかくなかったら、灰色狼のような孤独な表情をしている。もっとも、腕のよい職人は、少なからず孤独を喰って成熟するものだった。
「亜咲さん、逸脱は椅子の上だけでいいでしょ」
「どの椅子?」
「あそこ、いつもの」
 響樹がパティオに面したサロンを指さした。
数脚あった椅子はみな、敷石の床から浮き上がって宙に浮いている。いや、椅子は見えない。響樹が示す空間のどこにも椅子はないが、ガラス張りの天井と床の間のなかほどに、フジタのリトから抜けだしてきたような人形が腰かける姿で座っている。作家作品に違いない精巧な球体関節人形。かるく波打つ金髪、象牙いろの硬い肌。だらんと垂れた両手足。少年だろうか少女だろうか。人形ははだかで、亜咲と茴の座っているテーブルからは中空に浮かんだ後姿だけ見えて、ここからは両性のどちらともわからない。

「お母さん、時間よ」
 半透明な碧の空間に向かって瞬きしているうちに、視野にいきなり赤い光が射した。それと同時にずっしりと重い頭痛が来て、茴は小さく唸って「お母さん」と呼んだほうを見た。けろりとした笑顔の陽奈がいる。この子があたしをお母さんと呼んだの?
「茴ちゃん、九時過ぎてる。お母さんのところにお見舞いにいく予定でしょ」
「よく覚えてるわね」
 ありがと、と続けたが鈍痛のために声にならなかった。茴をお母さんと呼んだのではなく、茴の母親のことを言ったのだった。
 陽奈には血のつながらない祖母。いや、茴と陽奈とは養子縁組をしたわけではないから、法的に親子ではない。だから茴の母の鶸は陽奈の祖母と言えない。だが七歳から茴が育てた陽奈は、鶸にも可愛がられた。実の娘ふたりには厳しかった鶸は、陽奈をスポイルといっていいくらい甘やかした。おかげで陽奈は、一緒に暮らしている父親の二度目の妻は名前で呼び、別居して、時々甘やかしてくれるだけの鶸をお母さんと呼ぶ。
 昨夜の自分の酒量がはっきり思い出せない茴はぼそぼそと、
「そんなに飲んだっけ? 赤と白と」
「シャンパン、最後にいっぱい」
「一杯でしょ。ほそいグラスに、めちゃ高いお酒」
「悪酔いするのよ」
 どこまで夢だったかな、と茴はのろのろと上半身を持ち上げた。寝室のカーテンは開いていて、ガラス越しに長い冬の陽射しが茴の顔のところまでさんさんと注いでいる。眠りの中で碧の幻想に耽っていたおかげで、瞼に太陽の深紅の影が濃い。
 どんな夢? 青白い朱鷺さんと背の高いハンサムなマスター、いや板前マエストロ、が出てきたキアロスクロ。光と影、光トカゲ、とか、あたまいたい板前すとろ。ストローなしでもいいから水が飲みたい。訳のわからないオノマトペが脳味噌を走り回る。これが宿酔いか。支離滅裂だけど呂律はまわる。ちゃんと喋れる。
「あんた、授業は?」
「自主休講」
 ならどうして薄化粧してるの? と問いただす元気もなく、待てよ、陽奈もいっしょにお母さんのところに行くのだったかしら、などと考え出せばこちらはまとまらない。
「水持ってきてくれる?」
「そう言うと思って」
 ん、と陽奈はすかさずミネラルウォーターのミニボトルを突き出した。ストローなしだもちろん。こういう機転は茴からではなく、たぶん鶸か、亜咲の御機嫌とりによって習得したのに違いない。
昨夜どれだけ飲んだのかよく覚えていないが、赤白炭酸と混ぜ飲みしたせいだろうと考えても仕方のない理由をつけ、立ち上がれるのでそのままバスルームに行った。もうちゃんと口紅まで塗っている陽奈は、エビアンplusさらに気を利かせ、リビングをよろよろと情けない足取りで歩いてゆく茴にクリームいろのバスタオルを投げてくれた。タオルからはミントの匂いがする。いやラヴェンダーかな。嗅覚もおかしいのかも。
「思い出せる? 茴ちゃん」
「ぜんぜんだめ。人形が宙に浮いてた」
「それそれ、有名作家の作品だった。茴ちゃんの知り合いだって、先生が」
「そうだっけ?」
 人形の顔の記憶がない。酔いが覚めれば思い出せるかも。ともかく今日は水曜日。母親に会いに行く日だ。
 鶸は湘南モノレール沿いの有料老人ホーム「やすらぎ」にいる。最寄り駅は桜沢から二駅離れた三藤町で、入所施設と隣接して福祉コミュの総合事務所もある。ここには茴の働く家事介護グループ「いっぽ」のほか、さまざまな地域福祉活動グループの事務いっさいが集まり、湘南エリア数百人のワーカーたちの労働を束ねている。「やすらぎ」もまた福祉コミュニティが経営母体だった。福祉コミュは介護、保育、配食、さらにはデイサービス経営など、部門ごとに多様なセクションに枝分かれして、どのグループも小規模だが、それぞれ主婦の智恵を集めて社会的弱者の援助にきめこまかい活動を捧げている。
「やすらぎ」は、もともとは湘南エリアで福祉活動グループをたちあげたとき、ここで働く主婦たちが「自分たちの将来安心して入居できる快適な施設」を目標にして施設運営を企てた。だが、現実に軌道に乗った有料老人ホーム「やすらぎ」の入居費用は安くない。
 福祉コミュのワーカーたちというのは、平均的に衣食住に不自由のない暮らしをしている主婦たちだが、個室完備でヘルパーたちが入居者それぞれに、食事から排泄まで個人対応してくれる上質な施設の生活費用は、専業主婦のこじんまりとした老後のお財布をはるかに超えている。年金と個人資産が頼りの後期高齢者とその家族にとって、毎月最低でも二十六万から七万円の出費は、停年までしっかりした夫婦共稼ぎか、稼ぎ手の本職とは別なまとまった資産でもないかぎり、現役時代並の収入家庭では適わない。
 それにしても、ここのスタッフの女たちは、「やすらぎ」に自分たちではとうてい入れない、とぼやきながらも、少ない人手と安い時給、何よりも肉親の代わりに最期の看取りまで寄り添う重度身体介護がほとんどという精神的にも肉体的にも厳しい労働条件の中で、よく働いていた。
 同じ福祉コミュの中で動いている茴は施設の内情をある程度知っているので、介護者にとっては厳しいが、入居者には安心な「やすらぎ」の空室を待って鶸を入れたのだった。まだ七十歳前の鶸は、「やすらぎ」では一番若い入居者だ。ふつうには、心身が不自由になった八十代後半から、亡くなるまでの十年ほどを測って、こうした施設に安楽を求める。
 鶸は何年生きるだろう。夫の年金とそこそこ実家の資産に恵まれたおかげで、死ぬまで経済的な不安はない。脳梗塞の片麻痺も徐々にリハビリを重ね、車椅子生活から、近頃は杖歩行でゆっくり施設の周囲を一回りするくらいのことはできるようになった。だが脳の壊れた血管は修復できず、記憶と感情の障害は当初のころと大差ない。意識の正常と混濁を傍から予測することなどできない。
 鶸の身体は手厚い介護とリハビリによって回復していっても、精神はむしろ緩やかに瓦解、いや解体していくように見える。老衰にはこの逆の場合もある。
 どちらが楽なのだろう。すくなくとも鶸の早い最晩年は仕合わせ、という単語で整理がついた。財力と、「やすらぎ」のケアスタッフの誠意と善意のおかげだ。
 茴は自分が身を置いているからではないが、日本の福祉を支えているのは、それこそ「伝統的良き日本人」の健康な誠意としか思えなかった。尽くすことは多く、物質的な報酬はあまりに少ない。しかし、善意は報いを求めたらかけひきにかわる。誠意と営利のあわいで、素朴なワーカーたちの体温がおっとりと地域福祉をあたためている。

「おひさ、でもないか。森さん相変わらずほそいなあ。すこしあたしのお肉あげるよ」
 「やすらぎ」の受付の亀田紀子ことメダカちゃんが朗らかに迎えてくれた。
「一か月ぶりくらい? あたし水曜日いつも来てるのにね」
 茴に贅肉をよこす必要があるとも見えないしっかりした中肉中背のメダカちゃんは、「やすらぎ」のフロアリーダー兼副施設長。四十半ばくらいだろう。ころころした丸顔は重労働にもへこたれず、いつも笑っている。どれだけ陽気に笑えるかが、ことに介護労働では勝負の分かれ目なのではないかと茴は思う。何の勝負? はい、もちろん生と死の。
「シフトが変わったからさ。こちら娘さん?だっけ。可愛いねえ」
 ほめられて陽奈はうれしそうに笑った。フリース素材のもこもこしたピンクのフードつきパーカーに黒いセーター、このごろ流行りのキラキラパワーストーンネックレスのヘッドは、エターナルキャラに王手をかけたピンクと赤のハローキティだ。が、ボトムにはこのごろ巷にあまり見かけないタータンチェックの膝上ギャザースカートを穿いている。チェックの赤と緑のコントラストが目立つ。それにダークグリーンに細かい星のラメの入ったタイツに、リボンつき黒のショートブーツ。
 地方から原宿に上る高校生みたいな恰好だが、これはきっと鶸をよろこばすためにわざとこどもっぽくまとめてきたのだろう。髪はポニーテールにしていた。もうじき二十歳になるが、この姿はまもなく別れるティーンエイジャーへのカリカチュアのようだ。
 でも、茴も義理の娘のこういう愛嬌が好きだった。褒められててらいなく喜ぶところなども。どちらも周囲に気配りを欠かさなかった父親によく似ている。確かに茴の目から見ても十人並以上の顔立ちなので、彼女と連れだっていると、三人に一人くらいの男はふりかえる。亜咲の言ったとおり、もうじきひよこは巣立ってしまう、その前兆でもあった。とはいえ、茴は一応謙遜して見せる。
「お世辞言わないでいいって。メダカちゃんの娘には負ける」
「和子? あれ、親不孝でさあ」
 笑いながらメダカちゃんはしかめっつらをした。
「なんで? 成績優秀で、美人でそれこそ」
「大学受かったのはいいけれど、タイだかインドだかに出撃するつもりみたい」
「何それ」
「海外青年協力隊」
「マジ。陽奈に爪の垢煎じて飲ませたい」
「冗談じゃないよ、こっちは。まあ、いまさら親が何言ってもきかない子になっちゃってるから、自分の責任でやらせるけど」
 メダカちゃんはちょっと寂しそうな顔をした。飲んだくれの亭主と協議離婚して女手ふたつ(メダカの母と共同だ)で育てた長女と長男それぞれ出来がいい。ことに長女のほうは母親には似ない細面の器量良しな上に、聡明な性格で、ばかを言って親を困らせることもなく、去年立派に都内の国立大学にストレート合格し、メダカちゃんは大喜びしたのだが。
「大器晩成って思えば」
「女の子なんだからねえ、それより東南アジアで人さらいにでも逢わないか心配よ」
「和子ちゃんきれいだからなあ。誘拐はともかく、国際結婚ありかもね」
「玉輿? 和子ならそれもありかな」
 かしこい娘を自慢に思っている本音がぽろりとこぼれた玉輿あたりで、メダカちゃんの横目が事務室の壁の時計にちらっと流れた。茴は察して即座に無駄話を止める。どこの施設でもそうだろうが、「やすらぎ」も分刻みでワーカーが動く。ことに昼食前後は修羅場だ。受付の副施設長も人員不足を補うためにフロアへ走らなければならない時刻はちょうど十一時十五分。
「それじゃ、鶸さんは昼ご飯は自分のお部屋なのね」
 茴はそわそわし始めたメダカちゃんに小川軒のレーズンウィッチの菓子折りを渡してエレベーターに乗った。

「水を換えてくれる?」
「どの水?」
「それ、そこの花瓶。きれいでしょ。友達が持ってきてくれたの」
 鶸はベッドから離れて車椅子に座り、もうテーブルの前で待っていた。
「やすらぎ」の個室はトイレと洗面所がそれぞれついて八畳弱くらいだろうか。ベッドと机、衣装ケースに小物や下着類をしまう飾り箪笥ひとつ。それに折りたたみの丸いスチール椅子がひとつ入っているが、これは施設が貸してくれたものだろう。ベッドはレンタルの福祉用具だが、椅子とテーブルはイケアで買った。この部屋の間取りにふさわしいこぶりな、向かい合わせの二人掛けだ。
 週に一度、当番のワーカーが隅々まで掃除してくれる部屋は窓枠に埃ひとつ見えない。住人が半病人だから汚れないということもあるだろうが、「やすらぎ」の徹底したきれい好きはりっぱなものだ。
高齢者施設には独特の加齢臭、また粗相の臭気が漂うこともあるらしいが、ここにはない。芳香剤を散布するのではなく、ある種の善玉菌を発酵させた酢をぼろ布に浸み込ませ、床から家具からいたるところを拭いている。
この善玉菌はチェルノブイリの放射能除去だか洗浄だかに使用され、効果をあげたといういわくつきのもので、ワーカーは薄茶色の液体をモップや布に吹き付けて働いていた。共同の洗面所に行くと、霧吹き器そっくりな専用の容れものがあり、試しにシンクに噴霧して匂いを嗅いでみると、酢酸に違いないが、はっきりと不透明な発酵臭が混じる。鼻の奥にすうっとぬけてゆく、きもちのよい匂いなのだった。
 やや飾って形容するなら、散り積もった落ち葉をひっくりかえしたときに、しめった朽葉の堆積からつんとたちのぼる晩秋の香に似ているかもしれない。茴は、もしかしたらこの匂いが好ましくて、母親をここに入れたのかもしれない。
 鶸の部屋にはそれに加えて白百合のふくよかな香があふれている。シンプルな方形のテーブルを占領するような感じで、大ぶりなガラスの花瓶に、カサブランカがたっぷりと茎ながく活けてあった。花瓶の丈に比べて,茎がやや長すぎる。きっと鶸ではなく、ヘルパーが適当に活けたのだろう。南に面した窓から小春日和が射し入り、あたためられた大気の中へ、カサブランカの大輪の花からは、潤った香りが陽光と仲良く手をつないできらきらと躍り出ているようだ。香を吐く白百合が首を揃えて三輪。ほかにまだ青白い莟もいくつかついている。
「誰からいただいたの? お友達って」
 先週はなかった花だ。鶸は活花をたしなんでいたこともあって、ここでも花は絶やさないようにしている。今日は宿酔のせいで花は買ってこなかったし、お弁当もあとまわしになった。鶸の個室に着く早々、茴は陽奈を買い出しにゆかせた。
 脳梗塞で倒れたあとしばらく、鶸は普通食が摂れず、流動食、それから刻み食と徐々にリハビリを続け、施設に入ってからは完全にもとの食生活に戻った。
鶸は亜咲と似ていて、元気なときは勝手気ままに外食美食を楽しんでいた。もっとも、鶸のほうは料理上手だから、外食してはその味を覚え、器用に真似て自分でこしらえ、家族に食べさせてくれた。
 介護食がまずいと鶸はさんざん茴に文句を言い続けたが、口が麻痺している間はどうにもならなかった。麻痺しても咀嚼の感覚だけが鈍くなり、味覚は衰えないらしい。それは本人にしかわからない愁訴だが、食いしん坊の鶸は、心身不自由の憂さをまず食事に集中させたのかもしれなかった。
 六十代半ばでは老け込むには早すぎる。身体のほうはかなり回復した今も、脳障害のためになお施設に住む鶸は、フロアで働くケアワーカーより外見はよほどみずみずしい。
 内側はゆっくりと、ときにはっきりと、太陽にさらされた砂糖菓子のように崩れてゆくのに。精神の縦横が緩んでくると、その隙間から流れ出てゆくのか、鬱の密度はときどき薄くなるのかもしれない。冬の光を浴びた鶸の横顔は粉っぽい化粧が額や頬のかすかな産毛に浮いて、希薄で清潔だった。枯れてはいないが力のない声で、
「百合はね、百合原さんが持ってきたの」
 ああ、と茴は記憶のなかからまたひとつ、人形のような整った顔をすくいあげた。百合原香寸(かず)は染色家で、息子といっしょに丹階堂に住んでいる。鶸とは活花の弟子筋で、茴と同世代だ。鶸が脳梗塞で倒れた時、県外に離れ住んでいる実の妹よりも、この香寸がてきぱきと采配してくれた。たしか福祉コミュの情報をくれたのも彼女だった。アトリエ兼住居の丹階堂では、軽度の知的また身体障がい者の作業所を経営していた。
「どうりで。立派な花」
 百合が百合を持ってきたのか。ナルシストまるだしだと茴は記憶にある香寸の彫りの深い顔と、目の前の造花のような白百合を照らし合わせた。鶸の花好きは周知だが、香寸は自分の分身を抱えてきたということだ。このゆったりと豪華なカサブランカはいかにも百合原香寸に似合ったろう。
「いつ?」
「月曜日」
 それから鶸は百合のうてなのひとつに白い乾いた指を二本伸ばし、そのままつまんで折りたいような顔をして、まだ立ったままの茴をふり仰ぐと、
「おまえを貰いたいというひとがいるの」

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