さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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カイト・キメラⅡ    チェリー・トート・ロード vol4

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   カイト・キメラ2

「それで茴ちゃんはどう答えたの?」
 レーズン・ウィッチの真ん中にかっちりと前歯をあて、笑うような表情をつくって陽奈はビスケットを噛み砕いた。レーズン・ウィッチは水曜日の施設訪問手土産の自宅副産物だった。
毎週水曜日は昼食から午後五時まで茴は母親について、食事、排泄、入浴介助、また車椅子あるいは杖での散歩など、ふだん職員が担当している介護ケアのいっさいをすませる。介護保険を利用してヘルパーを頼むことはできるが、施設費用とヘルパー利用料は別だ。五時間分の節約と寂しがりやの母親への思いやりだった。
「あたしが帰ってきたとき、ぜんぜんそんな深刻な状況には見えなかったよ」
「深刻じゃないわよ。ていうか、お母さんは
あなたがお弁当持ってきたら、もうすっかり忘れちゃって…まあ、いつものことなんだけれど」
 陽奈は近所のスーパーではなく、王船まで松花堂弁当を買いに行ったのだった。「やすらぎ」の三度の食事はなかなかおいしい。老病人相手の調理なのでだいたいにおいて味は薄いが、もとは濃い味志向だった鶸も、片麻痺の今となっては文句は言えない。それでも茴たちが見舞う水曜日だけは外食の味をあげたくて、ちょっと贅沢な懐石弁当を買うのだった。ずいぶん歩けるようにはなったが、すぐ近くの香枕王船の街を散策できるほどではなかった。
 彩りあざやかな弁当箱を開いたとたん、鶸の頭から茴の縁談などは飛んでしまった。茴も面倒だから蒸し返さなかった。世話焼きの百合原香寸が何か言ってきたのだろうかと想像したが、彼女の親切心はそういう方面に発揮されることはないはずだ。
「じゃ、作り話ってことかな」
「まあねたぶんね」
「お母さん茴ちゃんのこと心配してるんじゃないの」
「まあね」
「パパが亡くなってもう二年?三年になるんだから、あたらしい恋人できたって誰も非難しないよ」
「たぶんね」
「てゆーか、あたし茴ちゃんこっそり見つけてるんじゃないかと思ってた」
 まあね、と言いかけて茴は目を剥き、ふるふると首を振った。ティー・ポットからアップルティーを注ぐ一息おいて、
「残念ながらアルコールフリー」
「酔ってる場合じゃないって?」
 ころころと陽奈は笑う。木曜日の午前十時、この時間まで自宅でごろごろしている彼女の今日の講義は午後からということか。素顔の娘の頬や手首のすがすがしさに茴は目をとめる。茴の話などよりこの子こそどうなのかな、と探りたくなるけれど、これはただの人情で、母親ごころというものではない。
「もう多少酔っぱらってもいいんじゃない。まだ若いからねえ」
 いきなりしたり顔のおばさん口調で同情されて茴は口に含んだ紅茶を吹きそうになる。陽奈はけろけろと続ける。
「茴ちゃん、継子のあたしにもやさしいし、美人なんだから、セールかければ売れ行きいいんじゃない」
「なんだそりゃ」
 ままこにセール。つまりあたしは継母か。
「ままはは、ってこわい語感じゃない?」
「そぉ? ママと母とミックスで、悪くないと思うよ」
「けど、セールって褒め言葉になんないよ」
「まあね」
 陽奈は茴の口癖をむしりとる感じで、にっと笑った。自分の意地悪を承知しているつやつやしたもうじき二十歳の笑顔を眺めると、小憎らしさにむかっ腹がたつよりも、茴はへのへのもへじ気分になる。まあね、この子たちなら早生か先走りなんだろうけれど、あたしは旬とは言えないよね。四十代、中年直球どまんなか。事実はストレートにうけとめよう。剛速球ではないにせよ、時は過ぎてゆく。でも、
「安売りしないよ。冗談じゃない」
 でも、と茴は二つ目のビスケットに手を伸ばした陽奈に
「お菓子ばっかり食べないでちゃんとごはんにしなさいよ。太るわよ。お父さんみたいにリンゴ腹になったらどうすんの」
 とたんにぱっと陽奈はクッキーを離した。風をうかがう小動物のように小鼻に皺を寄せて茴を上目に見て
「ふうん。まあだパパのこと覚えてるんだ」
「もちろん。だからね、あたしは人間の男といっしょになるより、大型の動物、いや怪物と暮らしたいって思うことがあるわ」
「犬とかじゃなく?」
「犬だけじゃなく、いろんな種類の動物が混じり合った人間大の、強烈なキャラ」
「スフィンクスとかウナギイヌとか? 茴ちゃんらしいけれど非現実だ」
「現実ってちょっと酔っぱらうには面倒なことが多いの。ウナギイヌじゃあ小型よ」
「そうは思えない」
「どっちのこと?」

 この日の午後は月末の最終週なので、三藤町の福祉コミュ総合事務所で月例会議があった。月に一度、香枕王船エリアのワーカーたちが集まって、月ごとの活動を知らせ合い、簡単な研修、連絡、交流をする。家事介護は基本的に自宅から各利用者宅への直行直帰なので、月例会または新年会でもなければ同僚と会うことはほとんどない。せいぜい近所のスーパーで顔を合わせたりすることがあるくらいだ。
 茴が福祉コミュに参加して数年たつが、ワーカー仲間と茶飲み友達以上のつきあいをすることはなかった。メンバーは一番若くて三十代後半。最年長は七十代もいる。子育ては一段落し、子供たちが手を離れていったあと、ぽこんと生じた時間の余白に、地域奉仕の福祉コミュの輪が入った。余白の労働で得られる金額は多くないが、地味で、かつ汚れ仕事ばかりの介護など、芯が強く優しくなければ続かない仕事だから、あえてこうした活動を選ぶ主婦たちの心の充足は、人生にとってかけがえのないものであるはずだった。
 労働ではなく活動。福祉コミュの基本理念は非営利なので、仕事の代償として受け取る時給は賃金ではなく分配金、さらに自分たちは金稼ぎの労働者ではなく〈ワーカー〉と呼び合っていた。
「帰りがけにひきとめられて…。おことわりするのも何だから、いただくんですよ」
 六十前後のワーカーがぽつぽつと温和な声で話す。茴も顔見知り程度に彼女を覚えている。いつも会議の最初にひとわたり、それぞれの名前と活動地域を告げる自己紹介をするのだが、名札でもつけていないかぎり、出席者の名前を最後まで覚えているのはむつかしい。月例会が始まって一時間。茴もすでに、いったん耳にした彼女の姓名を忘れている。月にいっぺんの顔見せ会議の席は、事務局の役員でもないかぎり、同じ顔ぶれにはならないからだった。
二時間ほどの月例会では通常の報告のあと、ケア活動について懇談の時間を設けている。出席ワーカーの困ったこと嬉しかったことなど自由に話し、その経験をみんなでシェアする。
「いただいたっていいんじゃないですか?その方にとっては、お茶するのもワーカーとのだいじなコミュニケーションの一環ですからね。ただ時間的にあんまり負担にならないようにしないと」
 会議を束ねる事務局理事が発言者に劣らずおだやかに応じる。彼女も六十代半ばだろう。
福祉コミュでは四十代はまだ若手でとおる。ここで主力となって高齢者福祉を支えているのは子供をちゃんと育て上げ、自然に夫とも距離を抱え込むようになった五十代六十代の意識性の高い主婦たちだ。
 発言者は目じりにいくつも健康な笑い皺を作って、困惑したような、嬉しいような、曖昧だが明るい表情を見せた。
「それがね、こないだはそのお菓子、おまんじゅうだったんだけど、食べかけたところで包み紙を見たら、賞味期限がねえ」
 ああ、と会議室に集まった一同は終わりまで聞かずに微苦笑でさざめいた。
「去年の十一月何日かまで、だったんです」
「ええ、じゃあ丸一年?」
「そう、ちょっと固いなって思ってたんですけれど、ごそごそしてるし味も乾いてるし。でも吐き出すわけにもいかないんで、飲み込んじゃった」
「あら、おトイレに行くとかすればよかったんじゃない?」
 発言者斜向いのワーカーが笑いながら口をはさむ。彼女は七十代だろうか。福祉コミュ創立のときからの古株のひとりだった。理事もうんうんとうなずいている。
「そのときは智恵がまわらなくて、相手を傷つけちゃいけないってまず考えちゃったんですよ。だからお茶を飲んでぐいっと」
「まあ、やさしい。ワーカーの鏡ですよ、その気遣いは。お腹こわすほどじゃないわね、それぐらいじゃあ。生菓子じゃなかったんでしょ?」
 古株さんは動揺のない声で受ける。進行の理事よりすばやく対話の舵を取れるのはやはり伝統的な年功かな、と茴は眺めている。
「もとは生だったんじゃないかしら。もう一年間菓子箱のなかにあったから、すっかり乾いてミイラ状態で」
「お砂糖は腐らないから大丈夫。よくあるのよ。羊羹を食べきれないで何年もとっといたりね。干菓子と思えば気分もなおらない?」
「さあああ」
 若干あ音が一呼吸多いあたりに、発言者のワーカーと古株さんとの腰の据わり方の落差が知れる。この程度は愛嬌だった。認知症が進行すれば味覚がなくなるから、一人暮らしの高齢者などは、ひょっとすると腐った惣菜を捨て忘れ、そのまま口にすることもある。いや、この程度なら、なおディープ介護の底には遠い。「いっぽ」が受けるケア訪問ではそれほど崩壊の深淵は見なくて済むが、鶸の世話になっている「やすらぎ」では日常茶飯に起こりうることだ。
「それで、そのことを利用者さんにお伝えしたものかどうかって、迷って。傷つけてはいけないでしょ」
「そうそう、高齢者の皆さん、プライドが高いですからね。でも申し上げないわけにはいかないわねえ。だってその方完全な認知、この言い方も変だけど、そんなに混乱しているひとじゃないですもんね。他にも痛んだ食品がたまってるかも」
「それそれ、あたしが心配なのもそこなんですよ。おひとりでしょ、ご家族は月に一度くらいしか寄らないし、自立してらっしゃるからほんとにご立派なんですけれど、そろそろもう落ちてきてもおかしくない」
「おいくつでしたっけね、その方」
 理事がようやくハンドルを握る。
「ええと、まだ九十歳にはなってない。たしか八十八、九」
「うーん、むつかしいですね。なんといっても自尊心がおありですからね。婉曲的にお伝えしたほうが。冷蔵庫のなかみなんかはどうなんですか」
「配食サービスを利用されてて、わたしの場合、調理は電子レンジでチン、です。だからあんまり点検してみることもしなかったんですけれど、今度お許しをいただいて、調べてみたほうがいいでしょうか」
「そうですね、ただその理由をソフトにお伝えしないと」
「あたしも似たような経験あります」
 茴の隣のワーカーがはずんだ声をあげた。
「あたしは帰りがけにチーズケーキの包をいただいたんですけど、家で開けて見たら、発酵してて」
 ざわわ、と棕櫚の梢を揺するような会議出席者の控え目な笑い声。
「それであなたどうしたの?」
 古株さん。彼女はグリーンのセーターとカーディガンのアンサンブルに、くるぶしまでのベージュのロングスカートを穿いている。エレガントでさえある服装に反して、靴は用心深く底の厚いウォーキングシューズだった。彼女はさすがに訪問介護の第一線からは退いて、自動車の運転能力を生かし、デイサービスの送迎などを担当している。ワーカーたちは皆、この集団の作り出す雰囲気を壊さない程度にアクセサリーをつけ、化粧をし、地味だが…この単語はもしかしたら福祉コミュの雰囲気をよく表現するかもしれない…あくせく働く雰囲気には遠い、ささやかなおしゃれで身を飾っていた。
 介護従事者としては、本来ならいけないことなのだろう。ネックレスもイヤリングも、石のはまった指輪など、相手の体を傷つけるおそれがあるから。手と指、爪の清潔を保ち、調理をする場合にはマニキュアも基本的にしない。ユニフォームはないが、グループごとにおそろいのエプロンをかけ、控え目な日常着でケアに入る。今日は月例会だから現場ではない。だがほとんどのワーカーは、この前後にどこかの訪問を入れている。
 重度身体介護をのべつまくなし働かねばならない「やすらぎ」でさえ、女たちは自分をあざやかに見せるものをひとつかふたつ、きっと工夫していた。 

 月例会は定刻の四時を過ぎて終わった。出席者の中では茴が一番若いので、世話役の理事ではないが、湯呑茶碗や菓子皿などの片付けを手伝う。帰り支度をしたり、また事務所に残って仲良しと歓談し続けているワーカーたちの動作を眺めていると、時の流れのなかでそれぞれの老いに向かって、自然なよいかたちでまとまってゆく温かさが感じられた。そうすると、反射的に思い返されるのは亜咲であり、また自分自身だった。
「森ちゃん、いつ見てもスリムねえ」
 事務所の誰かが声をかけてくれる。聞き覚えのある声だが、顔は思い浮かばない。痩せているのがワーカー同士なら、まだ褒め言葉になる。微妙な感じだ。高齢者の身体介護をいくつか経験した茴は、痩せ細り、やつれたひとのいたましさを心に刻んでしまった。それは若いさかりに罹る摂食障害による痩身などとは異質な、静かで残酷なオブジェだった。この場合、感情を除くためにはオブジェ、と形容したほうがいい。生きているものの優越感を茴の視線から除くために。わずらわしい思考回路だが、美術と音楽を半端に蓄積した茴の海馬ゆえにいたしかたない。病み衰えたひとの肌をぬぐうとき茴は優しいが、骨と皮膚のつくる陰影の微妙を幾何学に移し替える視線をつくってしまっている。それは冷静になるための、一種の自己防衛でもある。
 介護に携わってから、茴の作るパレットの彩は柔らかく、さらに優しくなった。おそろしいものを見通してしまったために。病気も老も、死も文学的絵画的なおもちゃではない。
「彼女はガラス食べて生きてるんでしょ」
 ガラス? 誰だこのろまんちっくすぎる不自然な形容は、と振り返ると、それも古株さんのひとりで、こちらは目にしみるような真っ赤な合成皮革のベストに、白黒豹柄のタートルネックを着ている。かなり威厳のある体型をものともせず、ボトムは大胆にもべロアふう光沢のある黒いスパッツだ。さらにベストと同じ色のフラットパンプス。両耳にはルビー色のティアドロップピアス。ショートカットのヘアはオレンジ色のシャギーに決め、目張り口紅しっかりと、言わぬが花の御年も、このひとぐらいになると褒めてもらえるおそらくは最年長の七十五歳、現役ワーカーだった。もちろんハードケアには入らず、介護度の軽い高齢者の外出介助、通院の付き添い、茶飲み相手、またイケイケの外見どおり自動車の運転が得意なので、送迎などもできる。名前は忘れたがこのひとも福祉コミュたちあげからの〈顔〉だった。
「ガラス、ですか」
 おずおずと肩をすくめる茴はこのひとがちょっとこわい。彼女は茴が「いっぽ」の新人として参加し始めたとき、福祉コミュにもようやく孫と同じ年の若い子が入るようになったとよろこび、いっとき事務所で会うたびに傍に来て、茴の髪や腕をしきりに撫でまわし、困惑する新米を無造作におもちゃにしたのだが、やがて茴の実年齢がわかったとたん、彼女の茴への関心は八割がた消えた。彼女の孫、というのは大学生だった。茴は三十六だったから、十五歳ばかり若く見てもらえたわけだ。
「ガラス食べられませんよね」
 ばかみたいな返事だが、目の前の女史の圧倒的な色彩感&存在感にたじたじとなり、ひたすら笑顔でへらへらとかわす。女史は茴をハナエモリのロゴのついた金縁眼鏡ごしにじろりと見て、
「あなたまた演奏会なさんの」
「ハイ、来年」
「それじゃクリスマスなんてどう、お忙しいかしら?」
「そうでもありません」
「イブ当日じゃないんですけどね、「やすらぎ」で毎年クリスマス会あるでしょ。あのときいつも出演してくれてるヴァイオリニストがだめらしいんで、あなたどうですかきよしこの夜とかジングルベルとかグローリアとかわかりやすい歌弾いてくれません?」
「え、いいですよ。あたしでよければ。都合つくなら友達のピアニストも連れてきます」
「ピアノ? 電子ピアノなら調達できます。ただギャラは出ないの」
 女史は口紅をきっちり塗った唇の両端をつり上げてにっこりと笑った。茴はふと、三島由紀夫ならこういうひとをどんなふうに形容するかなあ、などと考えてしまう。三島由紀夫は加齢に対して酷かった。『豊饒の海』四部作の最終巻「天人五衰」を読んだのは高校生のころだが、思春期のただ中だったのに、老醜に対する作家の叙述の苛烈に茴はたじろいだ記憶がある。
中年を過ぎると、化粧するたび女は皺を鏡のなかに捨てる。いいではないか、と思う。自分の見苦しいものをナルシシズムの鏡に捨て去り、華やかに日常に立ち上がることができるのなら、老い衰え、死のその日までうつくしく化粧を続けるのがいい。
ごとんごとんとモノレールが揺れる。高架線から吊られた銀色の箱は、すっかり夜に沈んだ町を見下ろすかたちで、ゆっくりと走ってゆく。三藤町、松井駅、それから湘南桜沢。
松井辺は片側の山手がとっぷりと暗がっていて、裾回り数軒の人家の窓明かりから離れて、紅葉の残る小山の中腹にうすぼんやりと青白い電燈が見える。松井公園の常夜灯だろう。
(月さんどうしたかな、またあの子来てるのかな)
 そうだ、篠崎月さんの家で青い服のレビーちゃん、いやメグさんに遭ったのは、まだ今週のことだったっけ。今五時半だから、どこかのヘルパーが来て夕ご飯の介助か、でなければ息子さんが付いているかもしれない。木曜日はたしか「いっぽ」ではなく別な事業所の担当だったと思う。ヘルパーも息子さんも月さんの食事、排泄、就寝まで付き添い、夜には月さんひとりで古家に眠る。フランス風出窓のついた、朽ちかけた木の匂いが漂う寝室。遮光カーテンに集まった埃が黴臭い部屋。そこに毎晩、月さんの枕元に青い服の美少女が出現するのかと想像すると、寂しい心が慰められた。なぜ寂しいの?
(ひよこはじきに飛んでくなあ)
 義理の娘に依存しているわけはないが、これから帰っても夕食はひとりだ。会議のお茶菓子で小腹が満たされ、食欲はあまりない。櫂がいたころは、あちら中心に食生活が回っていたから、死後三年たっても、茴は帰り道には律儀にチェリー・ロードでお惣菜を買おうとしてしまう。今夜は鯵の開きに切り干し大根の煮物でもしようか。
陽奈はバイト先で済ませてくるだろう。そういえば、彼女のバイトが何なのか知らない。どこで働くとか言っていたけれど、ああそうそう、と聞き流してしまった。櫂だったらきっと目くじらをたてることだろう。やっぱりわたしは血のつながらないままはは。

「この子、何?」
「何って言われても…」
 バイトから戻った陽奈はリビングのカーペットにながながと寝そべっている異物を見て息を呑み、それから壁の鳩時計に眼をやった。十時半。
鳩時計は鶸の家にあったもので、彼女が「やすらぎ」に入所するときこちらへ移した。手作りの一品物だが、もう三十年近く働き続けて、時間は狂わないが定刻のたびに両開きの窓から飛び出す鳩は、九時であろうと十時であろうとたったいっぺんきりになっていた。鳩も年をとったということだろうか。ポッポ―、という一声はすべすべした木彫りの姿にふさわしく、まだ枯れもせず可愛い。
 リビングで茴はカーペットの上にクッションを敷いて横座りに膝を崩し、重ねた彼女の片膝に大きな顎を預けるようにして一頭のけものがいた。
「茴ちゃん、拾ってきたの?」
 陽奈は肩から帆布のザックをはずしてダウンジャケットを脱ぐと、カーペットに両手をつき、まるで彼女自身が大型犬になったような四つん這いの姿勢でそろそろと茴とけものに近寄ってきた。
ダウンの下に陽奈の着ているモスグリーンとクリーム色のセーターと、茴の膝で眼を細めているけものは偶然だが似たような毛色の背中をしており、けものの体温で膝をあたためられている茴は、這い寄る陽奈の背中とけものとを見比べ、ちょうど背中の面積が変わらないことに気付き、まるで大きな双子を自分の周囲に引き寄せているような気がした。ハイハイする、毛深い、可愛げのある巨大な四足の双子。
「拾ったんじゃないの、家に帰ったらこの子がいたのよ」
「わけわかんない。ロック解除して動物が勝手に上がり込んでいたってこと?」
「そうよ。あたし、六時に戻ったの。ちゃんと鍵を開けたわ。玄関からリビングに入って…」
 いや、その前に洗面所に行ってうがい手洗いをした。それからキッチンで晩御飯のおかずとして買ってきた惣菜を並べ、それからリビングルームを通り、自分の部屋に入った。
以前は夫と茴の寝室だった南面の部屋。そこにはまだシングルのベッドが二つあり、あるじのいなくなった片方の寝台は、チェロケースと楽譜、それから古い人形ぬいぐるみなどの無造作な置場になっていた。部屋は真っ暗だ。リビングの明かりもドアを閉めてしまえば届かない。リモコンで天井灯を点ける。
 黒いチェロのハードケースの周囲に、イミテーションと本物とりまぜたテディベアのぬいぐるみがいくつもある、はずだった。見慣れた安全な光景の中から、大きな首と前足を伸ばして茴の視界に立ち上がってきた獣が見えた。はう、という荒い呼吸のような唸り声が聞こえ、次の瞬間茴は床にあおむけに押し倒されていた。けものは無邪気に茴に全体重を預けて飛び乗り、茴はふんわりと腰から崩れるように転んだ。おかしい、とケアで鍛えた介護の常識が茴の脳裏を走った。こんなにゆっくり倒れるはずがない、この状況では背中と腰を思いきり床にぶつけるはずだ。
 わ、と茴はいちおう声をあげてけものに抗議してみせたが、恐怖もおどろきも皆無なので叫び声に迫力がなかった。
「あんた、どこからどうして来たの?」
 うん、とけものは茴の鼻先に湿った鼻を圧しつけて茴の匂いを嗅いでいる。顔はライオンに似ているがたてがみはない。真上にぴんと伸びた両耳はうさぎのように長く、両眼は大きく、つやつやした金いろの長い睫毛が生えている。猫の顔に生えているような毛は触覚かもしれない。大きな眼は睫毛より濃い蜂蜜色で、その中心に山羊のような楕円の瞳孔が黒く上下に裂けている。顔の毛色も金いろで、撫でてみるとふくふくと指を吸い込む毛並が厚く柔らかい。首筋から背中にかけて金色は光沢を抑えたクリーム色に変わり、モスグリーンにところどころ金茶色を混じえた虎毛に変わっている。顎から首にかけて、たてがみではないがふさふさとした長毛が伸び、そのままずんぐりした感じで胴体につながっている。
「あんた重いわよ、大きいなあ」
 未知との遭遇なのにちっとも驚かないのは『隣のトトロ』の薫陶のおかげかな、と茴は吹き出した。
(これ、ほんものかなあ。月さんじゃないけれど、あたしもひょっとしてレビー小体症候群なのかもしれない)
 ついさっき、モノレールの中で篠崎さんのことを考えていた茴は、突然出現した幻獣が実体なのかどうか自信がなかった。
 けものは、自分をしげしげ眺めて驚きもせず、妙な顔をしてただ首をひねっている茴の片頬を、いきなり長い舌で舐めた。ピンク色で表面がざらざらしており、外から帰ってきたばかりの茴の頬にはけものの粘膜がひどく熱く感じられた。動揺に冷や水を浴びせられるのとは反対に、せわしい呼吸を鼓膜に感じ、茴は喰われるんじゃないかと上半身をひねって脱け出そうとするが、けものはぼってりした二本の前足で茴の膝と肩をおさえつけ、しきりにふんふんと匂いを嗅ぎまわる。
顔をしかめながら、兎耳がなければ変種のレットリバーではないかと茴は眺めたが、しつこくべろで顔を舐めたがるけものをどうにか肘でおしのけ、自由になった片腕でけもののむくむくした首にしがみついた。おとなしく茴の腕に背中を預けたけものは、人間を喰うつもりはないようだった。
(お腹がすいてるんだ。何か食べさせてみよう。そしたら幻か実物かわかるわ)
 よしよし、とけものの耳を撫でてみる。ぴくんと耳は敏感に動いて、茴の手の先を逃げ回った。耳に触られるのは嫌なんだとわかり、けものが大人しいので、ふさふさした首の体毛を握って、
「こっちに来て、ほら、ごはんあげるから」
 キッチンまでけものはちゃんと茴についてきた。かしこいなあ、と感心する茴に警戒心は消えている。第一これが幻ならば物理的に怪我をする恐れはないし、実体ならばこんな動物は見たこともないからきっと実体ではないに違いないと確信していた。
「でもあたしにも見えるよ」
「そう、それにこの子ちゃんとご飯食べたのよ」
 陽奈と茴は示し合わせたように、意味もなく深く頷き合った。
「こいつ、何食べたの」
「ジャムトーストとぬるめのホットミルク、バナナ、プリン、バターのかたまり。陽奈が昨日食べ残してたピーカンパイ」
「あ、それ今夜これから食べようと楽しみにしてたのにぃ」
「全部食べちゃったわよ、この子。トーストは六枚切り二枚ペロリ。雑食みたいね、よかった」
「よかったって、茴ちゃんまさかこいつを飼うつもり?」
 陽奈は二重の眼をさらにおおきくまるくした。ナイスなオドロキ顔は櫂にそっくりだ、と茴は眺める。ほとんどぐずつきのない今夜の気分は涼しい。暖房があるから涼しい気分は快適だ。
「だってどうするの。こんな子保健所に連れてったって引き取り手なんかいない。すっかり大人でしょうから。どう考えても殺処分」
「待ってよ、この子、犬、なの?」
「たぶんね」
「耳長いよ」
「変種? 改良品種かも」
「どこから入ってきたのよ」
「さあ、窓からかしら」
「戸締りはどうだったの」
 これがこうでこうだから、と理詰めで陽奈は押して来る。茴はかわすともなくへらへらと応じ、自分の都合のいい結論に持ってゆく。
「玄関は閉めたけど、窓はどうだったか覚えがないなあ。だってここ五階だから窓のチェックなんていらないでしょ」
「それはそうなんだけど、犬や兎は空飛ばないよ」
 陽奈は泣き声にも笑い声にも聞こえる声で言った。
 すると、茴の膝で半眼を閉じてまどろんでいたけものは、ぴくっと両耳動かし、長い、睫毛を震わせてかっちりと眼を開けると、陽奈のほうをふりあおぎ、ぶるぶるっと全身ふるわせてたちあがった。
「あ、しっぽ赤い」
「ほんと、バイキン君のやすり型しっぽじゃない。シュールだなあ」
「茴ちゃんどうしてそんなとろいの」
「どこが」
「これ、何かの陰謀だよ。ダースベイダーとか理研とかの実験動物が迷いこんできたんだよ。顔はライオン、兎耳、胴体は熊で脚は犬、しっぽはアクマ君だなんて黒魔術」
 陽奈の台詞は適切な時代性を欠いて信憑性がない。が、茴は半分聞き流しながらもうなずいてやる。
「陰謀ねえ、それ変な語彙よ。ブラックマジックだとしたら、ちょうど極め付けに両眼は山羊の金いろだわねえ」
 けもののしっぽは、茴も迂闊に今気が付いたのだが、鮮やかな紅色だった。熊よりもずっと濃い長毛で、抱きつくのに気持ちよく覆われた体から、突然な爬虫類的印象で金属質の赤い尾が太い蛇のように伸び、先端は鏃型に鍔をひろげてとがっている。蛍光灯の明かりを照り返して、今の今気づいた真っ赤なしっぽは、ゆらゆらとけものの後ろで揺れ、ふいに、鏃がすたん、と鎌首のように床を叩くと、金褐色のけものは、茴と陽奈の目の前でいきなり倍ぐらいに膨れ上がった。
 ふさふさした全身の金褐色と黄緑の体毛が、空気を吸い込んで、まるで襟をひろげて相手を威嚇するエリマキトカゲのように大きくなった。陽奈は大きな口をあけ、茴は反対に唇をひきしめて微笑した。
「浮いてる…」
「これ綿毛なのよ、綿毛モンスター。ワタモン。この子の毛が空気を吸って、たんぽぽふうに開いたんだわよ」
「茴ちゃん、もっと真剣に考えてよ」
「おおまじめですが」
「こんな動物いるわけないじゃない」
「いるのよ、ここに」
 茴は、体毛に空気を呼び込んでふっくらと床上十五センチから三十センチほどに浮かび上がった綿毛モンスターの、尻からだらんとぶら下がった赤いしっぽを触ってみた。しっぽは長く、先のほうはカーペットの上で短いとぐろになっていた。
冷たい。鉄のように固い。太さは幼児の腕くらいかな。ひんやりして、苺のアイスキャンデーバーみたい。じっくり見つめると、毛彫り細工のようなこまかい鱗でおおわれている。しっぽは蛇なのね。ふうん、つまりスタンダードな、この子はキメラそのものなんだ。
「茴ちゃんてば」
 陽奈は茴も自分もおかしくなったのではないかと泣きたくなった。だが同時に笑っていた。なんだかうれしい、なんだかおかしい。おばけの出現なんて、もしかしたらあたしたちラッキー&ハッピー。
「あんた、空飛べるの、飛んでみてよ」
 茴は矢印を握ったままけものに言った。
 けものはふふん、と鼻を鳴らすと四足を大きくひろげ、人間ならば大の字という姿で、茴にしっぽをつかまれたまま、リビングの天井近くまでふわっと昇った。
 四本の脚を凧のように開ききったけものの腹部に、人間の女二人は目を奪われた。
 体色はけものの胸から急激に彩りを濃くし、藍色と黒褐色の混じった、なめらかな光沢のある闇を後ろ足の付け根まで拡げている。
深々とした腹の毛並の中に、いくつものきらめく星座が見えた。正確には、全身の虎毛模様が腹のところでは明暗のコントラストを強めて、まるでマゼラン星雲か銀河の縮図のように金色の渦となっているのだった。黒い深々した体毛のなかで、きらきらちかちかと色変わりした毛先が光って描く模様は、光線の加減で、巻貝か、DNAの螺旋模様のようにも見える。陽奈は感動して、
「おなかに銀河があるよ、こいつ」
「おめぐみですよ。主は祝せられたまへ」
「茴ちゃん冒涜的、こいつデビルマンのしっぽだし」
「おとなしいわ。たとえ悪魔でもあたしたちを好きなのよ。良いアクマに決まってる」
「どうするの」
「名前はカイトに決めたわ。凧みたいじゃない?」
「茴ちゃんはぁ。それってパパと、でしょ」

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