さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

スポンサーサイト

Posted by 水市夢の on

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

フラクタル・ムーン   チェリー・トート・ロードvol5

Posted by 水市夢の on   0 comments   0 trackback

   フラクタル・ムーン

 すっかり積もったよ、という嬉しそうな声に呼び出されて茴は長い廊下を歩いた。踏みしめるたびにかすかな鼠鳴きの聞こえる磨かれた木造建築の床は素足に冷たい。幅一間ほどの回廊は、ひときわ太い柱に区切られたところどころで規則的に折れ、傾斜は天守閣をゆっくりと登っていくようなゆるい爪先上がりだ。さらに、周囲に漂う古い建築内陣独特の黴臭い気流の感触で、ここがどこか非日常的な屋敷の中なのだとわかる。
 第一声はすぐそばで聞えた。誰の声、鶸の声だったろうか。鶸なら施設にいるはずだ。茴を案内してくれる人影は見えない。灯もないが、回廊隅々に翳のないひたひたとした平淡な明るさがゆきわたっている。
(積もったというのは雪かしら、そしたらこれは雪あかりかしら)
 そんなことを考えると楽しくなった。
 空間には古代神殿の廃墟のように回廊から中空へ延びる柱の列だけが見え、壁はない。銀鼠いろの濃淡がわだかまる無彩色の左右には、剛毅な木造建築の骨格だけが茴の視界遠くまでおぼろに霞みながら連なって見える。
「ここですよ」
 やはり鶸だった。いつのまにか目の前には大きな襖障子があり、唐紙には四条円山派ふうの四君子がさらりと描かれている。緻密に描きこんでも清潔な画面を印象付ける四条派の薄から、茴の目の前に、いますぐにでも応挙のなよやかな幽霊が現れそうだ。襖を開けるより画に見とれる茴に、内側にいる茴は苛々と、
「早く来てよ、ひとりにしないで。ここはどこ。誰か来て、こわい」
 ああまた始まったと茴は黄菊白菊から眼を離し、雪の輪型の取っ手に手をかけた。睡眠薬が足りなかったのか、鶸の愁訴よりは応挙の幽霊と出会いたい。だが目の前には失認した母親が嬰児のようにしゃくりあげ、手足をばたばたさせて排尿をせがんでいる。ポータブルはどこだったろう。たしかベッドの脇に置いたはずだ。夕方ヘルパーがちゃんと洗っていってくれた。
「茴ちゃん、ああよかった来てくれた」
 鶸は茴の顔を見ると、涙を吹いてにっこりと笑った。色の白い、眉の濃い小造りな顔はベッドサイドの淡い光に加齢を暈されて、皺も見えず、盛りのままに愛らしかった。
「立てる?」
「ひとりにしないで」
「お母さん、一人じゃないよ。隣の部屋にあたしがいるって」
「でも姿が見えないんだもの」
「あたしだって眠いもん」
「そりゃそうだけど」
「おしっこ?」
「うん」
 茴は鶸の両膝を揃えて立ててから背中と腰に腕を回した。それから仰向けに寝そべった鶸の尻を軸にして、彼女の体をフロアのほうに半回転させながら、自分は中腰になってゆっくりとひきおこした。ヘルパーの所作を真似ているのだが、彼女たちのようにスムーズにはできない。腰にも背中にも相当負担がかかるきつい動作だ。鶸自身も茴の所作が痛みを伴うらしく、両眉をしかめている。だが文句は言わない。
 ポータブルの肘置きを鶸の利き手で握らせ、どうにか立たせてから、これは娘の無遠慮で、パジャマズボンの中を後ろ側から素手で探った。おむつではないが、夜にはリハビリパンツを使用している。体温のくぐもった熱さは鶸の股間に濃かったが、茴の指先のパットはさらりと乾いていた。ほっとする。
「ああ、情けないわ」
「なに?」
「あんたにおしめをあててもらうなんて」
「これおむつじゃないわ」
「似たようなもんですよ」
「激しく違うわよ。いいから、ポータブルに座って、座れるでしょ」
「急かさないで」
 座ってしまうと鶸は急にしおらしく肩をすぼめた。もともと撫で肩小柄なので、うつむいて前髪など掻きあげていると、小さい子供をおまるにさせているような感じにもなる。足首までおろしたズボンとパンツからにゅっとのびる感じで白いふくらはぎが伸び、片麻痺のために、すこし左右の太さが違っていた。
「じろじろ見ないで」
 鶸は眼をとがらせた。
「ごめん」
 茴は重圧のかかった自分の腰をさすりながら後ろをむいた。
「あたし、重い? 茴ちゃん」
「んー、軽くはない」
「ヘルパーさんたちはあたしのこと細くて軽いって言うわ」
 これだ、と茴は内心舌打ちし、自分の背中から手を放した。謝っているのかなじっているのか。とりあえず話題をそらそう。
「お母さん、雪が降ったの?」
「積もったわね」
「カーテン開けていい?」
「いいわよ」
 排尿困難なのか、ここでようやくプラスティックにせせらぎの音。いや雫かな。ほとほと、ほと。おしっこの色を確認するほど深夜の娘は優しくない。
 窓はどこだろう。窓の代わりに煤けた古い襖が見えた。さきほどの優婉な京襖ではなく、ごくありふれた白砂青松に金銀箔の、それでも由緒ありげな、黄ばんだ、ところどころ破れた、馴染みのある埃臭さは。
 あらかた塗りの剥げた取っ手も罅の入った平凡な木枠の円だ。引き開けようとして、茴は悲鳴を抑えた。
 ぷつぷつ、と泡だちながら深紅の湧出が漆の輪の底から溢れ、見る間に襖を汚して流れ出した。襖は四枚ある。どれも擦り切れて芝居の道具のようだ。その引手も四つ。そこからだらだらと緋色の流血が始まっている。
「これ、なに」
 茴の声は震えている。
「ああ、しょうがないねえ」
 しわがれた声。ふりかえると、ポータブルには鶸ではなく、篠崎月さんが座っていた。月さんの顔はベッド側の半分は翳になって青く、茴に近いもう半分は黄ばんで、その両面のどちらにせよ不健康にくすんでいた。
 月さんはばさばさに乱れた髪をして、あきらめたように首を振った。
「膨れんぼうが来たんだ」

 師走に入ると曇りがちの天気が多くなった。朝から上空いちめん雲の蓋に覆われ、昼になっても気温は上がらず、時折の西風とともに香枕の街中になだれこんでくる汐の気配も底澱みして爽やかさを欠いた。
 十二月最初の月曜日の午後、茴は西香枕のケアに入った。午前中のケアが急にキャンセルになったので、気分はゆったりとしていた。
昨夜、福祉コミュ桜沢地区のギャザリングワーカーから、篠崎月さんが大腿骨骨折のために入院し、しばらくケアは休みとなったというメールが来た。ギャザリング、とは人と仕事を集めるという意味合いだろうか。原則上下関係を作らない福祉コミュでは地区ごとのワーカーの元締めを、ギャザリングと呼んでいた。このひとを中心に、地域訪問介護の派遣が回るのだった。
福祉コミュでは、ケアマネージャーの依頼はまず三藤町のセンター事務所ヘ届き、それから地区のギャザリングに連絡が来る。地域に長く住んで経験豊かな、人間的にもそつのないギャザリングは、自分もケア活動をつとめながら、依頼先の高齢者に適切なヘルパーを割り振る。ギャザリングの介在は福祉コミュ独特だが、地域に根差した身近な介護を届けるためには、必須の存在と言える。ひらたくいえば、大昔の口利きおばさんということだが。
膨れんぼうが来たんだ、というあたりでうなされながら飛び起きた茴は、それからすぐに当の月さんのアクシデントを聞いて、予知夢だったのかと思った。夢の中の月さんの顔は、日ごろの円満な温顔とはがらりと変わり、苦しげに険しかった。九十歳過ぎての骨折は大袈裟でなく命とりだ。
おおかたの病院では事故をおそれて怪我人病人を寝かせきりにする。するとてきめんに全身の筋力が衰え、ひどい場合には嚥下能力さえも失って退院してくることもある。肺炎で入院したら、安静第一の療養生活に肉体の機能は却って衰え、自宅に戻ってきたときには食事を飲み込むこともできなくなり、さらに介護負担が増して家族の嘆きの種になったという話は少なくない。
入院前には、歩行器と杖でよく歩いていた月さんは、よしんば順調に退院できたとしても、もとどおり自立できるかおぼつかなかった。茴はしゃっきりした陽気な月さんが好きだったので、悪夢の符号に胸が痛んだ。だが、おかげで余暇は増えた。
 西香枕の午後の訪問先は三時から四時まで一時間の入浴見守りで、一人暮らしの八十二歳の女性だった。鬱傾向にあり、ほとんど外出せず、居間のソファに横たわってテレビを見ている毎日を過ごしているが認知はなく、室内ならば重度の骨粗鬆症の四肢も普通に動かせる。お風呂もほぼすべて自分だけですませている。
茴の仕事はお風呂の準備と後片付け、頼まれれば髪を洗ってあげること。彼女が入浴している間に簡単にリビングとトイレの掃除をすることだった。時間的にはせわしないが、身体介護の負担が少ないので気楽ではある。
「こんにちは、いっぽです」
 呼び鈴が故障しているので、玄関先で大声で名乗る。聞えはクリアだから、茴の声は彼女に届いているはずだ。
「はい、開いてるから、入って」
 甲走った高い声が聞こえた。生涯未婚のまま通した須磨子さんの声には、声帯が枯れ衰えても、どこか少女っぽい硬さが残る。
(開いている、と言っても開いてないんだ、これが)
 茴は通過儀礼的に、玄関脇に置かれたアロエの植木鉢をずらし、ビニール袋に包まれた鍵を取り出した。洒落たファサードの壁面は古色蒼然としかけてはいたが、色石を張ったモザイクで飾られていた。あがりかまちは御影石だ。須磨子さんの家は豪邸とまでは言えないが、造作のひとつひとつがいかにも裕福で幅がひろかった。
 西香枕も湘南地域でまずまずの高級住宅地と言える。高度経済成長期に計画整備された家並みは、いずれも小庭ながら余白がたっぷりとして、数寄屋造りの軒深い、いかにも重厚な昭和建築が眼立つ。庭の植樹もイチイや松など格の高い木が多く、たいていきちんと刈り込まれている。
 バブル期以降いっきに観光地化し、それにともなって地価の高騰ただならぬ鹿香旧市街地では、古い住人は法外な税金を納めきれず、広い邸宅をつぶし手放し、郊外の集合住宅に逃げてゆくが、観光には無縁の香枕では急激な沈没は免れ、おっとりした数十年前の風情を残していた。
 玄関の扉も蝶番の錆ついたぶあつい欅と樫の寄木細工だ。開閉の具合がよろしくないので、鍵が外れても、ノブを握る手にある一定の角度で力を集めなければ開かない。ぎしぎしばたんと、開けるたびに扉は文句を言う。
「あっ」
 茴は口を手で抑えた。こぶりのシャンデリアが天井からぶらさがる小さい玄関ホールには、午前中丁寧にブラッシングしてやったばかりのカイトがうれしそうな顔をして腹ばい、茴を待っていた。一瞬めまいがするが、かろうじて須磨子さんの居室を伺うと、リビングのドアはうまいことしまっている。
おかしいな、あたしには須磨子さんの声が聞こえたのに、と安堵しながらもさらなる疑問に茴は首を傾げる。二枚の古風な厚い扉を貫いて外に届くほど須磨子さんの甲走った声は大きくない、はずなのだが。
そこでカイトはあんぐりと口をあけた。
「森さんでしょ。入ってちょうだい」
 茴は再度眼を剥いた。兎耳ライオン顔のカイトの鮭紅色の口から、まぎれもなく神経質なお嬢さま須磨子さんの声が聞こえてくる。
「早くったら!」
「は、はい」
 反射的に返事をしてしまう。カイトは赤い鏃もとい矢印のついたしっぽで、パタン、と床をたたき、眼を白黒させている茴をうながすように、しっぽの先端矢印で、斜め向こう側のリビングの扉を指し示した。進行方向はあっち。
「あんた、いったい何なの」
「お湯、ちょっとぬるめにして、脱衣場にヒーターつけてくださいよ。寒いわねえ」
 肉食獣の獰猛な牙を備えたカイトの口腔を通して須磨子さんの催促が来る。

「それでケアは無事済ませたの?」
「ばっちり。カイトはほんとに賢いわあ。あたしがお風呂場の準備してるでしょ、その間じゅう台所のほうに行っていた。須磨子さんは必要のないところへは歩かないから、カイトを発見することはないって、この子察してるの。リビングでテレビを見ている須磨子さんにはカイトが見えないし、そのうちお風呂の準備ができて須磨子さんが出てくると、すっと物陰に入っちゃった。まあ、大きなお家だから隠れるところは結構あるの」
「カイトだって結構大きいよ」
「須磨子さんのお家は昔の間取りだから空間デザインがいまどきの建築とは根本的に違うのよ」
 うん、と陽奈はエビフライにタルタルソースをなすりつけながら曖昧な顔でうなずいた。めずらしく早く帰ってきた陽奈と茴はダイニングで夕食を一緒に摂っている。ふたりの足元には毛深いライオンという感じで、ふさふさした毛皮のカイトがのうのうと前足に長い顎を載せて寝そべっている。
「カイトの口から利用者さんの声が聞こえたって?」
「そうなの。でも扉を開けて、ふつうに須磨子さんの声が聞ける距離になったら、カイトは黙っちゃった」
「音声伝達機能不要モードってわけ」
「まあね」
 陽奈は指に自分の皿からエビフライを一本つまむと寝ているカイトの鼻先に向けて、
「カイト、よしよし、これ食べる? ごほうびだよ」
「何のごほうび?」
「茴ちゃんのお守」
「お守なの?」
「それ以外にある?」
 陽奈は疑問のない笑顔で、にやっと笑ってみせた。
「カイトはさあ、やっぱパパなんだよ。茴ちゃんが心配で、あの世からモンスターに変身してやって来たの」
 茴の指からカイトはエビフライをひきちぎり、一瞬で飲み込んでしまうと、一本では不満と言いたげにぶるぶるっと鼻を鳴らした。
「あんた、さっきハンバーグ食べたでしょ」
 叱りながら、茴はうれしい気持ちになって自分のエビフライを分けてやる。兎耳のライオン顔カイトは、原型櫂とは似ても似つかないが、彼岸からの力で自分が庇護されているかもしれない、と想像するのはファンタスティックで楽しい。
「で、帰りにカイトはモノレールにいっしょに乗ったの」
「いいえ、駅で別れた」
「一人で帰れるって? 茴ちゃんカイトがちゃんとここに戻るって確信してたの」
「たぶん」
「いいなあ、そういうアバウト」
「だって大型犬はモノレール乗れないしね」
 いなくなったらそれまでのことではないか、と茴はハーネス替わりに握っていたカイトの矢印しっぽを西香枕駅前で放したのだった。
 冬の夕闇が迫っていた。日中から陽射しのないまま、木枯らしが葉の落ちつくした雑木林の枝のあわいを凄まじく揺すって吹き抜けてゆく。どんよりした大気が動き始めたのなら、明日は雨、その逆に西高東低の冬晴れになるかもしれない。只今茴たちを揺さぶって過ぎていった大風に汐の匂いは希薄で、明日の冷たく乾いた朝を予兆させた。
「まあ、大きい。珍しい子ね」
 おだやかな笑顔の主婦がカイトを暗がりに見つけて近寄ってくる。彼女はつやつやした小型犬を連れていた。シルキーテリアだ。気弱なテリアはカイトを見ると、両足をつっぱってこちらに来るのをいやがったが、上品な主婦はさっさと愛犬を抱き上げ、ものめずらしげに傍に来た。
「初めて見るわ。ほんとに犬って多種類だから。みたところバーナードでもない、ラインベルガーに似てるけど、ボルゾイみたいな長毛だし、ピレネーなら白だし」
「ええと、十年くらい前から限定繁殖された新種なんです。何ていったかな、その」
「おとなしいわねえ」
 主婦はしきりにカイトの頭や首を撫でまわした。
「思い出した、スカイウォーカーです。ほら、スターウォーズのヒーローにちなんで」
「まあ、ぴったりね、この耳」
 主婦が耳に触ろうとすると、カイトははっきりあとずさった。主婦は手をひっこめ、好奇心まる出しのまなざしを申し訳なさそうな笑顔に変えた。いい人だなあ、と茴は思う。  
主婦の胸に抱かれたシルキーテリアはまだ怯えていたが、金色の瞳孔の中央が縦に裂けた眼でカイトが小犬をちらりと見つめると、服従するように、そろそろとしっぽを振り、顔を飼い主の胸に押し付けたままキューンと鳴き、鼻をひくつかせた。
 主婦は臆病な愛犬を抱き上げた片手で撫でながら苦笑し、
「おたくさまのワンちゃん威厳があるわ、名前は?」
「カイトです」
「スカイの?」
 はい、と茴は頷いた。

火曜日、水曜日…それからの日々はなだらかに過ぎていった。火曜日の湯浅さんケアのあと自宅に戻ると、ちょうどスカイプで亜咲からまた得鳥羽島へ来ないかと誘われた。
「もうレパートリーは決めたの?」
 昨今精度を増したスカイプ画像に映る亜咲は真昼なのに瞼の上を紫に塗っていた。
「だいたいね。ドビュッシーの小品と、バッハかな。ところでこれからお出掛け?」
「わかる?」
「その目の周り、ラメすごい」
「これ、ひよこに教えてもらったのよ」
「へえ、あたしにはあの子そんなことしてくれない」
 陽奈は化粧好きだろうか、どうだろうか。健康的な小麦色の地肌はきめ細かくきれいだった。ファンデーションなど塗ったら惜しい肌だと茴は見ている。
「そう? 茴はまだいつもすっぴんなのね」
 亜咲の言葉に微妙なニュアンスが籠る。亜咲は茴の皮膚のきれいさを羨ましがっていた。念入りに化粧を凝らしても、薄化粧の茴の顔の白い透明感は出ないのだった。四十歳というのに、森茴の顔には小皺ひとつない。二十代の肌だ、と亜咲は茴に会うたびに女友達のみずみずしさに驚くほかない。が、そうした内心のやっかみを茴に知られるのは口惜しいので、さりげなく、
「茴はお化粧する必要ないんでしょ」
「そうでもない。口紅くらいつけないと貫禄がないもん」
 それは自慢で、謙遜にならない、と亜咲はのうのうとした茴の返事にいらっとするが、
「ところで、茴、十五日前後ヒマある?」
「土日は基本的にお休みだけど」
「銀座ですてきなパフォーマンスがあるの。ダンスとフルート、水珠のコラボ」
「みづたま?」
「そう書いてある。土曜の午後。あたし、あなたとのセッションに、もうひとりタレント入れたいって考えてるんだけど、このフルートいいの」
「あ、そのはずんだ声、イケメンだな」
「あたり。でも腕もいいよ。千尋関係だもん、お母様も超美人」
「おかあさまって」
「踊りなのよ。ときどきテレビのバラエティにゲストで出てるけど、あなたは知らないよね、吉良娥網さん」
「うーん」
「いい、期待してないから。だから、あなたに彼の腕を測ってもらいたいのね、まず」
 そうきたか、と茴は亜咲の抜かりなさに感心する。だけど、あたしのパフォーマンスなんだけれど、どうも亜咲のやりたい放題にされそう、まあいいか、あたしはあたしの音で好きな曲を丁寧に奏でる。
 亜咲の先回りにむっとしないところは茴のいいところだろう。亜咲がどれだけエゴでかきまわしても乱されないという自信がある。
「いいわ、ちょうど予定ないから聞かせてもらう。千尋先生の弟子筋なら、まあ」
「弟子ではないけどね、交流はあった、という程度、千尋はフルートとの共演を嫌ったしね。だからつまりそうね、年下の友人。あたしこれから実は彼に会いに行くのよ」
「へえ」
 新しい恋人なのかしら、と気を回したくなる茴。亜咲はあっさり言ってのけた。
「出演交渉よ」
 茴は開いた口がふさがらない感じだった。まだわたしはOKしてないぞ、演奏を聴いてもいないのに。
「亜咲、わたしまだ了解してないわ」
「絶対気に入るわよ」
「ギャラ出ないかも」
「あたしと豹で集客するから」
 それなら話は別だ。社交家の亜咲は一定数の客をつかんでいる。亜咲の口振りから察するとフルーティストも相応のタレントのようだ。
「彼、名前なんて言うの?」
「吉良豹河。知らないでしょうけど、ジャズピアニストの丸茂譲の息子」
「本人も母親も父親も知らないわね…で、いくつ」
「二十一」
「ちょっと、若い」
 千尋が亡くなったのは一昔前だから、交流も何も、今二十一歳というフルーティストは当時まだやんちゃな児童だったはずだ。茴の躊躇を亜咲は快活に蹴とばした。
「活きのいい子も入れましょうよ」
 亜咲がマスカラで伸ばした黒い睫毛をばちり、とウィンクしたところでスカイプは突然切れた。亜咲は強引だが無礼な女ではないから、電波かパソコンの具合が悪いのだろう。切れてくれて茴にはちょうどよかった。吉良は亜咲の男友達のひとりらしいが、ここまで彼女が執着するなら呑むしかない。
 ふうん…やわらかい溜息は自分のものではなかった。椅子の脇に垂らした左手の甲にくい、と湿った鼻を圧しつけてカイトがすりよっていた。ぴくぴくと兎耳が茴の眼下で訴えかけるように動く。
「何?」
 カイトは亜咲の膝に前足をかけて、顎をしゃくった。寝室のほうだ。
「お稽古しろってこと?」
 カイトは眼を細めて薄く笑ったようだった。茴はカイトの耳に触らないように、くりくりとけものの頭を撫でてやった。そういえばカイトの地声、というか吠え声を聞いたことがない。カイトがこの部屋に出現して以来聞いた声といえば、甘えるような鼻息と溜息、驚嘆すべきは利用者さんの声の媒介だけだ。
「あなたってどんな声なの?」
 椅子から降りてかがみこみ、カイトの顔の前に自分の顔を真正面に据えてまじめに尋ねると、カイトはぷいと横を向いた。これだけの図体なのだから、きっと凄い咆哮が太い喉から放たれるはずだが。
「櫂さんの声でも伝えてくれないかしらね」
 つぶやいたが、カイトは知らん顔のまま立ち上がり、足音を立てずに悠々と寝室へ行く。
 十二月第三週の水曜日には三藤町の「やすらぎ」でクリスマス会がある。そこではソロで小さい童謡を何曲か弾く。たまたま水曜日で、ちょうど母親の家族対応のために午後いっぱい「やすらぎ」に詰める日なのは好都合だった。
浜辺の歌、赤とんぼ、故郷、四季の歌、この道。これらは認知症のかなり重くなった高齢者でもよく歌える。不思議なことだが、失認し、文字が識別できなくなったひとでも、幼いころ歌った唱歌はうたう。とてもたのしそうに歌ってくれる。そしてジングルベル、きよしこの夜、グローリア、グノーのアベマリア。グノーはもう茴自身の楽しみのために奏でる。
 今回で二度目の「やすらぎ」クリスマス演奏会聴衆の半数は、クラシックの名曲を味わう認識能力を失っている。かなしいことだが事実だった。意識が鮮明な若かりし日は、財力に恵まれたここの入居者は相当に、嗜みと教養を備えたひとたちだったろう。年末のお楽しみ会に通常シフト外の臨時で狩り出される施設職員たちは、メダカちゃんにせよ誰にせよ、会場に集まった重度要介護者のケアにつききりで、心澄まして弦楽器の音色を味わうことなどできない。
 それでも、茴のチェロの音を聞いて大喜びする入居者さんも少なくなかった。演奏中に席を立って近づき、いきなりぺたりと楽器の表板にてのひらをあてて
「震えてるわねえ」
 と幼児のような笑顔を見せたひともいた。曲想はわからないが、演奏者の心を映す音色はきっと聞こえている。
 クリスマス会より来年四月、イースターのころに作るパフォーマンスの下準備をもう始めなければ。亜咲はロマン派のテクノモルフィックな断片をランダムに弾くかもしれない。ほとんど芸当、それも奇芸としか思えない。あれこれのソナタやコンチェルトの楽譜を恣意に継ぎはぎ、切れ目なく弾いてゆく。いいとこどりといえばわかりやすいが、才気走った亜咲は曲の抒情的なムーヴメントが有機的にクレッシェンドしてゆく頂点手前で、いきなりポップスの、たとえばビートルズのイエロー・サブマリンなど叩きはじめる。
 それは洗練されたコラージュとも思えなかった。無意味に、気まぐれに繰り出される音楽の断片は、あたかもシュレッダーに粉砕された感情のパッチワークのよう、でなければ音楽のめちゃくちゃなチャンネル回し、と茴は亜咲の仕業をながめた。
 千尋忠由が教えたのだろうか。が、いいとこどりは亜咲の性格の本質だから、彼女は自力で舞台幻想を塗りつぶす手品を覚えたのだろう。奇妙奇天烈意想外、それもパフォーマンスのだいじな華だから茴は否定しない。
でも茴はドビュッシーの繊細であやしいハーモニーを好む。水面に滴らせたひとしずくの水彩絵の具が、ゆるい波動につれてゆらゆらとマーブル模様に拡がってゆく。彩りは海の碧、aquarell、みどりを奏でよう。海ではなく、あれはモネの睡蓮から発想した楽曲だったろうか、それはそれで。

「急で悪いんだけどさ、明日金曜の午後、森さん空いてる?」
 木曜日の朝、桜沢地区ギャザリングワーカー向野さんから携帯に連絡が来た。
「午前中仕事がありますけど、午後は場所によっては一時くらいからなら」
「ほんと悪いんだけどさ、いつも入ってるワーカーがぎっくり腰になっちゃって、もうあたししっちゃかめっちゃかで代わりを集めてるの。いろいろお忙しいとは思うけれど、何とか行ってもらえますか、ほら、あなたも一時ケアしてた矢田部さん」
「ああ、退院してこられたんですね」
 会計士の矢田部冨美男さんは心臓弁膜症、糖尿病、肝臓障害、などなどこじらせ長期入院をしていた。この入院前、まだかくしゃくとしていたころに茴は家事介護で矢田部さんの昼食づくりを務めていたことがある。
八十五歳、長身痩躯でダンディだと桜沢地区ヘルパーには人気があった。ただし頭の良いやり手自営業主矢田部さんは使用人を選ぶ感覚でヘルパーの好き嫌いが激しく、ただでさえ人手の少ない現状では、ギャザリングの向野さんは人材の工面に四苦八苦したそうだ。
「あのころだって大変だったのに、今はもっと介護度が重くなってるのよ。でも意識はクリアでさ、余計こっちは気骨が折れるっていうか。資格持ってないと身体できないしね」
 向野さんは半泣きのようにこぼした。福祉コミュでは無資格から活動できるが、家事援助以外に、利用者さんの身体をケアするためにはヘルパー資格が最低限必要だった。以前の矢田部さんは家事介護だけを利用していたのが、今度は入浴排泄食事の介助が必要になっている、ということなのだろう。確かに、プライドの高い高齢男性にとって、女性ヘルパーから慣れない身体介護を受けるのは、ただの羞恥心以上に、はっきりと心理的な苦痛があるかもしれない。
  幸い茴は昨年介護福祉士に合格、登録していた。福祉コミュでは国家試験に合格したからといって分配金や待遇があがるわけではない。いい意味でシンプルな達成感のため、またケアのスキルアップのために、福祉コミュのワーカーはさまざまな資格取得を奨励されている。茴はまた、いずれガイドヘルパーの資格も取りたいと考え始めている。視覚聴覚障がい者の支援にも関心が芽生えていた。
「矢田部さんのところにはどのワーカーが入っていたんですか?」
「ベテランよ。澤田さん。矢田部さんのところに行ってもらうんじゃあ、弱っちいひとだとすぐめげるからね。あなたなら大丈夫」
「はあ」
 それにしても急なことだった。澤田さんのあと別なワーカーが仕事に入って、矢田部さんの気に入らなかったのかもしれない。茴は代打のそのまた代打あたりかもしれない。
 矢田部さんは、世間でひそひそ噂されるヘルパーへの陰湿な乱暴行為などは決してしない往年の紳士だが、糖尿と脳溢血の発作を繰り返すうちに、いつからか易怒性格になり、ささいなことで声を荒げたり、ヘルパーの視線では洞察しえない何かのきっかけで、不意に端正な顔を形相おそろしくゆがめたりするので、もともとの人気はあるものの、その一方、修羅場を経験しない福祉クラブのおっとりした主婦ワーカーたちから、怖がられているらしい。

スポンサーサイト

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://donanobispacem717.blog.fc2.com/tb.php/74-73aec483
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。