さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

スポンサーサイト

Posted by 水市夢の on

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スコルピオン・ハイ  チェリー・トート・ロード vol6

Posted by 水市夢の on   0 comments   0 trackback

   スコルピオン・ハイ

 待降節に入ったというのに、今年は何故か街全体にクリスマスの華やぎが感じられなかった。
十一月にもなれば、気の早いクリスマス商戦で、デパートも商店街も、あらゆるショップのウィンドーには色とりどりのデコレーションや電飾が踊りきらめくものなのだが、
 初冬から真冬にかけて、茴の眼に映る街のたたずまいは、ひっそりと普段着のまま肩をすくめて、気まぐれな木枯らしの風向きをおそるおそる窺っているように見えた。
 が、それは茴の思い過ごしかもしれない。もしかしたら、去年も一昨年も、イルミネーションやツリー、サンタクロースやトナカイはキリスト教の典礼歴とは無縁に、資本主義物欲システムの販売促進フェスティバルとして利用され、茴はその有様を今年のように、自身が彩を欠いたまなざしで、茫然と眺めていたのかも知れなかった。
 茫然と、なすすべもない感覚で、この季節は茴の上をすべってゆく。三年前、櫂はこともあろうにクリスマスイヴに亡くなったのだった。
 ミサには出られる、と櫂は二十四日の朝、いつもと同じように機嫌よく出社していった。茴は数日前に仕込んだローストチキンの味を一日じゅう気にしていたと思う。櫂は食材には好き嫌いのない男だが、香辛料の好みに癖があり、遠慮なく茴の料理を品評したから。もっとも、文句を言っても、出されたものはちゃんと平らげた。食事に関しては扱いやすい夫だったと思う。そして櫂は食事以外のことで家庭の茴に不平を言ったことがない。だいたいが外向きの性格だった。
 夕方、櫂はもう冷たくなって霊安室にいた。心臓麻痺。耳を疑う隙もなかった。担ぎ込まれた横浜の某大学付属病院の地下で、茴は震えながらひとりで櫂の体を浄めた。陽奈に知らせることさえ忘れていた。葬儀のことも、死亡報告書も、二十四日の夕方から夜にかけての数時間、茴の脳裏から、言葉がすべて消し飛んでしまった。
 茴に話しかける医師や看護師たちの言葉が認識できない。何を言っているのだろう。蒼ざめた冷たい空気がこもる消毒薬臭いこの死体置き場で、口をぱくぱくさせて縁の太い黒い眼鏡をかけた救急医は、グロテスクな深海魚のようだ。
 白衣のぼたんがかけちがっているよそれでは死しゃの海をおよげないでしょかんごしのつめがひどくとがっている〈夫〉にさわらないであなたがふいたって?いいえわたしがもういっかいきれいにしますからおゆとたおるをちょうだいなんならこおりみづだっていいおさなごイエスが今夜馬小屋に降誕する、何事もなければ櫂といっしょにミサにあずかるはずだった、現在進行形の架空の光景が、亡骸を拭き清める間中、茴の頭の中で回っていた。
 顔、首、胸、腹…と清拭してゆき、どこかでぶつんと空白の緊張がちぎれた。まるで握り潰されたぼろくずのように、呻き声が洩れた。
「あなた、仏教徒のまんま」
 櫂はカトリック信者ではないから、死んでしまえば天国に行けない。現世肯定鳩派快楽主義の櫂は神仏混交即物利益の日本宗教によくなじんでおり、茴のカトリック信仰については、通りすがりの観光客的なおおらかさで眺めていた。茴は気のいい連れ合いが好きだったから、そのうち、最悪の場合は瀕死の枕元で洗礼を受けさせ、終油の秘蹟でなし崩しに天国に持ち込もうとたくらんでいたのが全部ぱあになった。
「バイバイ、バイバイ」
 気が狂うのではないかと思ったが、涙も出なかった。手に触れる夫の体はもう死後硬直が始まっている。……。
 日常、茴は櫂の追憶に耽ることはほとんどない。死を迎えるためのいっさいの心の準備なく櫂は次元をまたいで消えてしまったので、悲嘆が成熟するゆとりがまったくなかった。まるで、世界の裏側に長期単身赴任に出かけてしまったひとのように、櫂は生きているともなく、さりとて死者とも思えず、いつまでも「櫂の不在は何かの間違い」ではないかと、茴は心身の空白をぼんやりと、三年経った今も、持て余し続けているのだった。その空白がキャンバスならば、茴はいずれ新しい絵を描くだろうと思う。
 まだ十七歳だった陽奈は大泣きしたが、泣かない茴を睨むこともなかった。
「パパかわいそう」
 それから、まっさおな顔をして娘と自分の喪服を揃えている茴に抱きつき、
「茴ちゃんかわいそう」
 わあわあと気持ちよいほどの大声をあげて泣いていた。
 葬儀は、茴の希望で降誕祭のミサが終わったあと、鹿香の教会で簡素に行われた。生前信者ではなかったが、茴は夫がカトリック入信を切望していたと捏造して、無理やり天国行の切符を握らせたのだった。死後洗礼はない。茴の気休めだった。

「こんにちは、おひさしぶりです」
 おお、と車椅子で玄関フロアに現われた矢田部冨美男さんは、ギャザリングの後ろから首を出した茴を見て、顔をほころばせた。
「やあ、森さん、前あなたに世話になったよねえ、よくスパゲティ作ってくれた、アルデンテで」
 ははは、とギャザリング向野さんは、自分を素通りして茴に流れてゆく矢田部さんの視線の中に、よいしょ、と小太りの体を横から割り込ませ、
「はいはい、若いの連れてきましたよ。もうおなじみだから。大丈夫だとは思いますが、いちおう前と違うところもあるからね、今回は二人でさせていただきます」
「よろしく頼むよ」
 白髪頭は二年前より薄くなり、なにより頬の削げ具合が目立った。全体にひとまわり小さくなった矢田部さんの上半身はセーターをかぶっているが、下半身はパジャマズボンのままだった。
「どうです、調子は」
 向野さんはエプロンをつけ、矢田部さんの後に続いてリビングに入った。
「悪くないよ。病院はとにかくめしがまずくてかなわない。食べないと点滴ですからね。点滴ばっかりだと、喰うのが面倒になってくる。それが自分でもわかるから、つくづく入院なんぞいやなものだと思い知ったね」
「さすが先生、でも入院前にしたっておひとりで自立して暮らしてらっしゃったんだから男のひとにとってはすごいことですよ」
「そうかね」
 矢田部さんは奥さんを亡くしたあと、桔梗山の広い一戸建てに一人暮らしだった。桔梗山界隈も湘南エリアの高級住宅地と言える。須磨子さんの住む西香枕よりグレードは高いかもしれない。西香枕より後で開発され、もとの地価が高いから、冠木門のついた長い土塀越しに見越しの松が枝を伸ばすという邸宅はないが、ほどほどの庭を備えた瀟洒でモダンな建築が目立つ。矢田部さんの家もそのひとつで、一階フロアは広い玄関から扉を入ると全面バリアフリーのリビングダイニングだった。二十五畳はあるだろう。キッチンは仕切りの向こうに隠されているが、ダイニングテーブルとリビングセットが1フロアに並んでいる。
「あら、すっかり片付けたんですね」
 向野さんはきょろきょろとあたりを見回した。茴もお愛想でひかえめな歓声を添える。
「ほんと、パーフェクトなびょ、寝室」
 病室と言っては矢田部さんの機嫌をそこねる。
 茴が生活援助で通っていたころは冨美男さんの寝室は二階にあったが、車椅子生活になった今、ダイニングとリビングの家具を半分取り払い、入口近くにパラマウントの電動ベッドを置いていた。トイレの都合のためだろう。ベッドの真向いに大画面のテレビがあり、応接セットだった低いマホガニーのテーブルがベッドサイドの物置になっている。
 その上に事務整理用の小抽斗があり、書類ケースが並び、雑誌や薬、インシュリンセットなどが冨美男さんの几帳面な性格を映して整頓されている。ベッドの頭のほうには半透明なプラスティックの衣装ケース。下着やパジャマなどが詰まっているようだ。衣装ケースを三つ重ねた隣にパソコンがある。車椅子で入れる高さと幅の、シンプルなパソコン机が用意されていた。衣装ケースの上にはノートやCDが、こちらは乱雑な感じで散らばっている。何もかも、ベッドの冨美男さんのすぐ手の届くところにある。
「矢田部さんのお宅は間取りがたっぷりしてるからいいですよね、悠々車椅子でトイレでもどこでも入れるからさ」
「そう」
 向野さんの言葉に矢田部さんは苦笑した。地域ギャザリングの向野さんには矢田部さんもいちおうの敬意は払う。
「森さん、それじゃあたし簡単にここら掃除機かけるから、あなた夕飯の支度とか」
「あ、今日はいいんだ。晩に娘夫婦が来るんでね、彼らといっしょに喰う」
「あそう。娘さんえらいよね、ここの整理整頓全部やってくれたんでしょ?」
 会話しているうちに向野さんの口調はどんどん気さくになってゆく。気位の高い矢田部さんも、素朴なギャザリングのため口を面白がっている様子が見える。
「全部ってわけじゃないが、まあよくやってくれたかな。婿も性格がいいから」
「うんうん、どのくらいの頻度で来てくれるの?」
 頻度、という向野さんのおばちゃんボキャブラリーには馴染まない厳めしい単語に矢田部さんは妙な顔をしたが、両手を頭の後ろに組んで、ちょっと天井を眺め、
「退院してからはときどきね」
 もう向野さんは矢田部さんの返事を聞き流す感じで、茴のほうを向いた。
「それじゃ森さん、向野さんの足浴してください。フットバス、洗面所にあるはずだから」
「お湯はやかんで沸かしなおしますね?」
「そうだね、給湯じゃあ、ちょっとぬるいから、気持ち熱くする程度でいいから」
 茴は矢田部さんに尋ねた。
「足浴はお風呂場で? それともここで?」
「こっちでやれたらやってください」
 電動足浴機はお湯を張ってスイッチを入れるとミニジャグジーのような気泡噴射の水流が起こる。鶸が自宅にいたころも愛用していたが、思うように入浴できない者にとって、足浴はとても気持ちがいいのだった。
足は第二の心臓というが、母親の鶸をはじめ、何人かの、何人もの身体介護を経験すると、足の状態である程度利用者の体調が洞察できるようになった。
 矢田部さんのパジャマズボンをたくしあげ、すっかり細くなった脛と、脛の太さのまま足首のめりはりのないまま薄紫に変色してむくんだ甲を見た。茴が動顛するほど、どちらの足もまだ病んではいない。良家の子息でゆったりと育ったに違いない矢田部さんの足は、玄関に並んでいる何足もの上品な皮靴にふさわしく、指が長く甲が狭かった。顔の皮膚よりも足のほうが白く柔らかいかもしれない。とがったハイヒールや無理な先細りのパンプスで歪曲された女性の足より、健康ならば矢田部さんの足はうつくしいに違いなかった。
 茴は矢田部さんの気持ちを驚かさないように、いったんたくしあげたパジャマズボンの手を放し、ベッドサイドに介護用ゴム手袋を探した。見当たらないので洗面所に行く。以前矢田部さんは浣腸をしていたので、それがそこにあることを茴は覚えていた。手袋をぴちっとはめたあとで、さりげなく尋ねる。
「ルリコン液はお使いですか?」
「そっち」
 自分が両足を晒したあとで、ゴム手袋装着をした茴を見て、矢田部さんの口調は多少ぶっきらぼうな感じになった。浮腫でふくらみ、静脈が紫がかるほど蜘蛛の巣状に走っているのがはっきり見える矢田部さんの足の爪は全部、肥厚し、渇き、ねじれていた。
 ごく普通の老化現象でも爪水虫は出現するが、糖尿などではことにそれが際立つ。命にかかわる兆候ではないが、今すでに死後硬直のように蒼ざめ、ところどころ皮膚の色むらが生じているくすんだ両足は、今後病勢の進行によっては切断の憂き目を見るかもしれない。鋭敏な矢田部さんはきっと承知しているに違いない。

 十六日日曜ミサのあと、茴は陽奈も連れて上京した。亜咲とは新橋駅で待ち合わせる。
陽奈は信者ではないが、近頃はカトリックに気持ちが動いているのか茴についてくる。若い娘を連れていくと、顔見知りの信者たちは一様によろこんだ。日本じゅういたるところで進む高齢社会の波は、キリスト教会にも例外でなく押し寄せている。ミサにあずかる二百人ほどの信徒をながめわたせば、十代、二十代は数えるほどしかいない。
 森さんのお嬢さん、お母さんに似てかわいいわねえ、と二人の面相部品をよく確かめもしないで老婦人が褒めあげる。いや、茴と陽奈とではきっと遺伝子の原型が南北遠ざかっているからちっとも似ていない。しかしお母さんに似てかわいい、とくすぐられれば茴は黙ってにこにこしている。
「娘さん、おいくつですの」
「もうじき二十歳ね、成人式」
「あら、いいわねえ、お振袖?」
 すぐに返事をせず、よそゆきの笑顔のまま陽奈は茴を見た。
「どうする、陽奈ちゃん、お着物にする?」
 茴はどきんとして陽奈にすまない気持ちになった。そうだ、この子はもうじき成人式だった。あたしは櫂の命日にひっかかってクリスマスも何も本当には見えないでいる。だけど一生に一度の陽奈の晴れ着まで忘れるなんて、ばか。
 死だっていっぺんこっきりだが、陽奈の人生はまだ過ぎ去ってしまったわけではない。
「うーん、どっちでも」
 聖体拝領は、信者ではない陽奈はいただけないが、司祭からの祝福は受けられる。先に立って陽奈を歩かせ、軽くウェーブのかかった娘の茶色い髪を眺めながら、茴はいまさらながら血のつながらない自分の母性の希薄を恥じる。  
実の母親なら夫の命日がどうであろうと、娘の晴れ着を忘れることはないはずだ。そういえば陽奈の実母はどうしたのだろう。櫂の葬儀のとき、離婚した前の妻は現われず、学生服を着た中学生の弟だけが列席した。陽奈にも櫂にも少年はあまり似ていなかった。最期の別れの際、棺に注ぐ視線も涙ぐんではいたが、姉のように大きな感情をまる出しにする子ではないようだった。
「ごめんあたし忘れてた、成人式のこと」
 教会を出たあとで、茴はしおしおと娘に謝った。そらぞらしくつくろってもすぐばれるから、とにかく正直にしよう。陽奈は茴を斜めに見て、笑顔半分でしかめっつらをした。
「だよね。でも茴ちゃんこの時期いつもよりさらにぼんやりだからしょうがないかって思った。パパのこと考えてくれてるんでしょ」
「そうねえ」
 考えてる? 考えている偲んでいるというのはどうもあたらない。未消化な感情の塊が病院の霊安室でフリーズしたまま茴の中でふらふらしている。それがときどき胸や頭にぶつかると、叫びたいようなその逆に膝を抱えてうずくまってしまいたいような衝動にかられる。あちらに揺れこちらにぶつかる感情のはざまで、ようやくチェロの弓を取ってフリーズドライの何かに潤いを注げるようになってきたところだ…。
「まだるこしいね」
 陽奈はそっけなく決めつけた。
「茴ちゃんがそんなにクールじゃあ、パパも無念だよ」
「え、そう?」
「やっぱりカイトはパパの未練の権化かもしれないよ」
「未練て」
 そんなにウェットなひとではなかったと思うけれど、それにカイトは怨霊モードには遠いキャラクターだし。
「未練て、エネルギーの無駄遣いじゃない?櫂さんはそういうことしないでしょ」
 ぱたっと陽奈はロングブーツの両足を揃えて立ち止まった。ちょうど駅前交差点、段かづらの石段が終わるあたりだった。
「何?」
「茴ちゃん、いまさらですが、なんでパパといっしょになったのよ」
「ええ?」
「未練はエネルギーの無駄遣いってすごい。まるでスケコマシの捨て台詞」
「どこでそんな単語仕入れたの」
 言い合っているうちに駅に着き、横須賀線に乗る。小腹が空いたので駅前で鯛焼きを買うことにする。昼食は銀座で亜咲と一緒にする約束だが、ありつくまでに小一時間はかかる。栗餡だの抹茶餡だのと揉めているうちに未練モードは飛んでゆく。
「カイトの朝ごはんは何だっけ」
 師走の寒さに湯気の立つ焼きたての鯛をはぐはぐしながら陽奈が尋ねる。
「クリームパン三つとフライドチキン。牛乳一パック、ニンジン二本、それから」
「晩御飯は」
「ドッグフード盛っておいた。あとジャムパンとボンレスハムブロック」
「雑食だね、あいつどこから来たんだろう」
 考え出せばきりがないおかしな不思議な生物だった。鍵のかかったマンションの部屋になぜ自由に出入りできるのか。利用者さんの自宅になぜ上がり込めるのか。いや、空に浮かぶこともできる。先日西香枕で、苦し紛れに「スカイウォーカー」と言ったが、カイトは確かに羽もないのに空を歩ける生き物なのだった。
「きっと宇宙人なのよ」
「そうだね、きっとUFOの乗組員でさ、あたしたちなんかよかIQ高いんだ」
「目的は何かしら」
「だから茴ちゃんへの執念モード」
「気味わるいからやめようよ」
「再婚したら? そしたらあたしも出ていける」
 陽奈は横目で涼しく笑った。

 鹿香、北香枕、王船。優雅な文字を連ねた風光明媚を謳われる湘南の風景は、王船から樹相が変わる。
「大昔にね、まだ中国大陸で恐竜がいばっていたころ、三浦半島は太平洋をゆっくり旅して日本にくっついたのよ。だから香枕あたりの植物の先祖はきっとムー大陸とかアトランティスとかの名残で、葉っぱが広くてつやつやした樹が多いでしょ?」
「そういえばそうかも」
 陽奈は小春日和になごんでいる車窓からの景色に視線を泳がせながらテキトーに相槌を打った。ほんとうのところ茴のセンチメンタルな解説は、陽奈には自分の付け睫毛の重さほどにも実感を伴わない。
王船にせよ、鳥束(とつか)にせよ、コンクリートの無表情な集合住宅が山肌を埋め、駅前には一様に総合開発された各駅モールが、規模の大きいパチンコ屋さながら、ポリクロームのど派手な外壁を誇示している。線路沿いに見る植樹はごくありふれた街路樹のいろいろで、そこから数百万、数千万年前の原始樹林、あまつさえ伝説の古代大陸を彷彿とさせるのは常識的に無理だった。
(ほんとに茴ちゃんて変だよね。パパはなんでこのひとと結婚したんだろ。なんでこのシチュエーションで恐竜が出てくるの? カイトのせいかな。カイトだってきっと茴ちゃんにひかれて寄って来たんだ。類ともだよ)
 日曜の横須賀線はほどほど混雑していた。鹿香から乗り込んだ陽奈たちは座れずに、出入り口近くに立っていた。
この時間帯は、寝坊した周辺住民が遅いブランチの後、横浜へ出撃するのにちょうどよいのだろう。車内は家族連れが目立つ。クリスマス前の最終日曜日、こどもたちはきっとさんざめきながらデパートのおもちゃ売り場やファンシーショップで、パパママサンタにいろんなおねだりをするのだろう。
(恐竜空想するんだったら、あたしのクリスマスでも考えてよ茴ちゃん)
 陽奈は隣で携帯メールを打っている茴をチラ見して心の中でぶつくさ言ったが、すると
「陽奈ちゃん、プレゼント何がいい。今日銀座で、ついでにあなたの欲しいもの買ってあげようか」
「ほ、ほんと」
(マジコワイときがある茴ちゃん)
 がたんごとんと悠長に横須賀線は走る。鳥束を過ぎ、やがて横浜、というあたりでいきなり電車は停まった。
 不意の異変にざわざわ、と乗客は色めき立ったが、すぐに取り繕ったアナウンスが入る。
「やだ、飛び込みみたい」
「この季節多いのよ、中央線とか横須賀線とか、特に多いそうよ」
「なんでだろうね」
 陽奈は興味なさそうに欠伸した。たった今、自分たちの乗った車両の一部が誰かの命を轢いた。すぐそばで無残な残骸があわただしく取り片づけられ始めている。迷惑そうに小鼻に皺を寄せる陽奈の顔には自殺者への憐れみは微塵もなく、茴もまたそうだろう。
「この分だと一時間か、三十分は動かない」
「茴ちゃん先生にメール、遅れるって」
 見渡せば乗客たちはいっせいに目の前に携帯をとりだし、そっくり同じ手つきで、そっくりけだるい表情で、こちょこちょとどこかへこのアクシデントを知らせていた。
 うん、と茴もガラケーを取り出し、亜咲へメールを送る。しかし、ぽつぽつと文字を打ち込みながら、鼻の奥から延髄にかけて奇妙な違和感を感じ始めていた。
「茴ちゃん? 気分悪いの?」
 ガラケーを放り出し、いつしか両目の上を手で抑えていた。眼精疲労のような鈍い痛みが眼球の底から膨らんでくる。それと同時に、さっきまでまったく気にならなかった周囲の匂いが、喉にむかつく激しさで嗅覚につきささってくる。こどもたちのつまみぐいのジャンクフード、缶コーヒー、若い男のきつい整髪料、埃、アスファルトの匂い、焼けたゴムのような化学繊維の焦げ臭さ。暖房と日光に温められた車両シートの人間臭さ。禁煙なのに煙草の臭気は誰のもの?
 中でも、茴ちゃん、と自分の肩に手をかけ、おろおろとこちらを覗く陽奈の肩先から、彼女のパルファムがハイクロマなピンクで圧迫する。平常なら、子供っぽいが可愛らしい香と笑ってやり過ごせるものが、こういう瞬間には耐えがたい汚臭に感じられる。まずいな、と茴は陽奈の手をおしのけ、
「ちょっと過呼吸みたいだから、乗務員さんに頼んで外の空気もらう」
「それあり? できるの?」
「動かないんだから、大丈夫でしょ」
 吐くよりましだ、と茴は空元気を振り絞ってすたすたと最前列の車掌室にゆき、自分の状態を説明した。血相ただならぬ茴の顔に若い乗務員はおそれをなしたのか、割合素直に聞き入れてくれた。都合よく東鳥束駅からほとんど離れていなかった。
「十分くらいでいいです。深呼吸すれば、なんとかなりますから」
「現場には寄らないでください」
 黒と黄色の制服制帽の男たちがどこかで作業をしている。茴は車掌室の反対側の出口からこっそり地面に戻った。降りるなり、目の前の枯れた薄原の淡い光が視覚にあふれた。薄の中には十二月になってもまだ静かに咲き続けている野菊の群れが混じる。白、紫、茜に蘇芳薄蘇芳、ゆるし色など花弁にも茎にもほのぼのまじる自然色の繊細が、陽奈の体臭で感覚を殴られた茴の凹みを埋めてくれた。
 そして、より鮮明に血と異臭。
 身体介護で体液に接した経験がなければ感じ取れないかもしれなかったが。
 茴は薄と残菊に向かって、後ろ側から忍び寄る破けた体腔からのなまあたたかい伝播に背を向けた。茴の心象からムー大陸とアトランティスを隔てて現実に轢死した亡骸が搬送されつつある。放水で浄められ、飛び散ったあれこれはじきに野鳥に食い尽くされ、バクテリアが土に戻す。
 あおっ
 聞き覚えのある声は木枯らしの咆哮ではなかった。茴は地面を避けて車両の上をふりかえった。声は上から聞こえた。もう驚かない。
横須賀線の紺色と白の車両真上に、カイトが四肢をふんばって乗っていた。冬の陽光と烈風を浴びて、金属質に体毛が逆立ち、兎耳は逆光に黒々と二本の角のように光っていた。
「付いてきたの、また」
 カイトは茴を見下ろし、見たこともない表情でぐわっと顎を大きく開いた。何本もの牙が凄まじく光る。ごつん、とカイトの尻のほうで物音がしたが、それはきっと矢印の尾で電車の屋根を叩いたのに違いない。今日の進行方向はどっちだ。
 ばしん、とカイトはもういちど尾を打ち鳴らしたようだった。彼の体毛は、一方向からの風にふきつけられて、べったりと厚く体に張り付き、まるで背びれを立てた甲殻類のように硬張って見えた。カイトは腰を落とし、背骨を反らし、両前足をまっすぐ突っ張って、背伸びをするように顎を天に向けた。 
 茴は眼をまるくした。
 背伸びをしたカイトは、その反動で獲物を貫いた鏃をびゅん、と自分の顔のほうへ振った。赤いしっぽはいつもの三倍くらいの太さに膨張している。カイトの後ろ足と同じくらいの逞しさだ。ぎらりと鋭い鏃の先端はどす黒く濡れ光り、男の延髄から顎の下まで、きっとひとおもいに貫通し、彼は即死だったはずだ。大の男の人体ひとつ、らくらくと刺し貫かれたまま宙を半回転に飛んで、カイトの待ち構えた口腔へ来た。
 蛇が蛙を飲み込むより早い。カイトの顔はぜんぶ牙と舌なめずりの粘膜と化し、ずるずると男はカイトの中へ吸収されていく。
 茴は腰を抜かすこともなかった。どこかで、きっとこうに違いないと予感していたことが現実を侵食している。カイトがむさぼっているのは、きっと只今制服制帽の鉄道職員たちが必至で清潔にしている投身自殺した男なのだろう。男の肉体は散り散りかずたずたか物切れかに裁断され、カイトは死の瞬間の男の魂を串刺しにし、美味として味わっている。悪魔がクリームパンやジャムパンで養われるはずはなかった。
「もういいでしょうか」
 おそるおそる、車掌室から声が降ってきた。
「ええ、すっかりさっぱりしました」
 茴は調えた笑顔を返した。彼女は自分が美しいことをよくわかっているので、どこでも、そうしようと思えば、その場にふさわしいきれいな表情で時間をつなぐことができた。
「貧血ですか?」
 車掌はほっとしたように、自分も思わず明るい表情になり、茴に手をさしのべた。
「そう、低血圧で、ときどきね」
 茴は逆らわず男の手をつかんだ。そして淡泊な感情のまま、櫂の死後、成人した健常な異性の肌に触ったのはこれが初めてかもしれない、と考えた。ホワイトカラーの櫂の手は大きくて柔らかかった。この青年もそうだ。
車内へ上がり込む寸前に、カイトの姿を車両上空に探したがもう見えなかった。見えないとしても、彼はどこへでもついてくる。きっともしかしたら銀座でも姿を見せるかもしれない。陽奈にはカイトが見えた。亜咲にはどうだろう。そして銀ブラを楽しむ大衆には、カイト・キメラの姿が見えるのかしら。
「あとどのくらいかかりますか?」
「三十分はかからないと思いますが」
「亡くなった方は男性?」
「それは申し上げられません」
 車掌は笑顔を強張らせた。
 茴は会釈をして陽奈の待つもとの車両に戻った。
「大丈夫?」
 陽奈はしっかりした足取りで帰ってきた茴の姿に頬を緩め、また頭の片隅で、なぜあたしは茴ちゃんについていかなかったんだろうと考えた。介抱してあげるべきだったんじゃない? 
 何か、そのときの茴には陽奈を寄せ付けない感じがしたのだった。蒼白になってうつむいた茴の顔はきれいだった。普段よりもいっそう血の気がひいて、こめかみから頬まで透きとおるように白い。唇だけ紅い。母と姉のはざまでゆったりと陽奈がくつろげる日常の慕わしさには相容れない美しさ。陽奈はきっと怯えたのだ。さらには嫉ましかったのだろう。
茴はしばしば年齢を超えた表情をする。それは古代から現代まで、数々の名画に残る女性たちの顔に共通する何かだった。喜怒哀楽のいずれでもない顔。

スポンサーサイト

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://donanobispacem717.blog.fc2.com/tb.php/75-70184db8
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。