さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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インディゴ・ノイズ  チェリー・トートロードvol7

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   インディゴ・ノイズ

 『ブラームスはお好き』のヒロインは三十九歳で二十五歳の青年と恋に陥り、四十歳で別れた。これを読んだのは茴が十六歳の時だが、恋人と別れる際のヒロインの台詞を覚えている。あるいは自分自身が四十代に入って唐突に思い出したものかもしれない。
「わたし、もうおばあさんなの、おばあさんなの!」
 哀切な叫びだ。半世紀前のフランスでは四十代から老女の自覚をしなければならなかった。当時の日本なら三十歳を過ぎればもう姥桜、くらいだったかもしれない。
 少女時代の終わりに、茴はもう一冊女と老女のさかいめを揺れる美女の物語に出会った。こちらのほうがサガンの通俗小説より濃厚な感動をくれた。
 時代は世紀末パリ。もと高級娼婦のレアは二十四歳年下の愛人と四十五歳から同棲し、四十九歳で別れる。レアの人生は、彼女のゴージャスな首を飾る四十九粒の大玉真珠に象徴されていた。レアは我が子のような愛人をシェリと呼び、甘やかし、育て、最後には諦念とともに別れる、いや手放す。したたかな作家コレットは自分の実人生を織り込ませながら、衰えていくヒロインに同情することなく、若い強者が奢る結末を冷静に描き切っている。
 コレットはそれからしばらく茴の愛読作家になったが、この『シェリ』の続編として書かれた『シェリの最期』は太っ腹なはずのシドニー・コレットの姑息な復讐譚のような気がしてつまらなかった。アラビアンナイトの王子のように美しいシェリは、初編でレアと別れた後、若い妻とともに第二の人生を成熟させることができず、またレアのもとに戻ることもできず、拳銃自殺するのだった。
 コレットがどこまでも芳醇で冷徹な著述家であるのなら、ビクトル・ユゴーのように人間の盛衰を華麗な油彩で描き抜いて欲しいと茴は残念だったが、多少の瑕を見せたからといって、ユニークなコレットの魅力が減るわけではなかった。
 そして、二十一世紀の日本ではどうだろうか。認知症ケアに携わっていると、男女ひとしく、心弱くなった人間は、自分がもっとも輝いていた時期の精神年齢を離れることができない。八十、九十になろうと、当人の中では自分のはたらき盛り女盛りだった年齢が、加齢後の今の時間と錯綜しながら循環し続けている。ケアワーカーたちは、そうした高齢者たちの幻想を破ることなく見守る。もっともそれは女性性のアイデンティティボーダーラインとは別な次元だった。
別次元ではあるが、かぎりなく近接している、と介護経験を積んだ茴は思うのだった。わたし、いつまでセクシーな女性でいられるかしら、と。
 三島由紀夫がどこかで書いていた。そう、ニヒルな口調で、屈折したインテリの口を借りて、あれはきっと『暁の寺』だった。「美とは性的だってことですから」
 それが三島本人の主張かどうかはわからないが、毒を含んだアフォリズムは、少女期の茴の心象に濃い蘇芳いろの沁みのように、不快感とともに鮮烈に残った。急所を直撃された不快感だった。それにしても『豊饒の海』四部作は、なんときらびやかな極彩色で人間性の裏表を造形していることだろう。これを愛読するという人を、茴は自分と千尋唯由以外についぞ聞かない。
 夫に選んだ櫂は茴に劣らぬ読書家だったが、彼は現実に即したプラクティカルな教養主義で、芸術的な感受性には遠かった。カトリック信仰を眺める視線と同様、櫂は三島文学を遠くから眺めて中庸に感心する、という程度の理解だった。社会人としては、櫂のありかたのほうが有能でありまた健康なのだろう。
それにしても、言葉や文章が難解だの思想がどうの、と核心とはほど遠いところで『豊饒の海』は理不尽に敬遠されている。
 しかし、茴の読後感では、三島の思考はきわめてシンプルで、耽美から破局に至る長い物語は、三島自身が語った「浜松中納言物語」よりも、さらに古代の「竹取物語」に依拠しているのではないかと思う。
 永遠の二十歳、永遠の処女、美しい若者たちは、俗世の垢にまみれることなく、次元を超えて天上月世界へ飛び去ってゆく。なぜ三島はかぐや姫の物語をひきあいに出さなかったのだろう。天才の気取りだろうか。かぐや姫では平凡すぎると思ったのだろうか。それでは『シェリの最期』に私怨を込めたコレットとちょっとばかり親しすぎる。紫式部はもっと素直で誠実だった。彼女は言った。「(竹取物語は)ものがたりのいできはじめのおや」
 今、溶暗の舞台で純白の裾を引き、透明な踊り傘をかすかに傾け、日本髪を結い、緋色の蹴出しを褄どりから裳裾にかけてただしく三角形に見せた舞手は、彼女の周囲だけに霏々と降る白雪を小さな片手に享け、静かにたたずんでいた。
 銀座のモダンダンスパフォーマンスで武原はんさんの芸に遭遇するとは思わなかった、と茴は最前席から数列下がった座席で、わずかな舞台照明を頼りに、もういちどダイレクトメールを眺めなおした。もちろん地唄舞などとはいっさい書かれていない。ダンサーはガーネット、笛は豹河、パーカッション〈水珠〉は冬狼。ふゆおおかみ? ルビが欲しいなあ、と茴はまた首をかしげる。それに水珠ってなんだろう。パフォーマンスのタイトルは〈インディゴ・ノイズ〉
「きっれーいい」 
 茴を挟んで右手に亜咲、左に陽奈が座る。亜咲は白と赤の薔薇の花束を抱えている。正直な嘆声は左右どちらからのものだろう。
 白塗りにくっきりと富士額を描いたダンサーの年齢は至近距離でも測れない。晩年のおはんさんは八十余歳というのに、舞台では三十そこそこにしか見えない艶冶な芸を見せたというが、今、眼前で背筋を伸ばし、深く膝をかがめ、プロジェクションマッピングの青い雪のなかをゆるゆると、片足を軸にしてなめらかに回転しているガーネットは細い首に高島田がいたいたしいほどあどけなく、十代の少女のように見えた。雪をみつめて立ち尽くすかと見えて、ごくわずかな呼吸のはざまにゆらり、と手首を返し、踊り傘を回し、うつむき、白妙の袖を返す。
 踊り手とともに舞台に流れ始めた低いフルートは日本調ではなく、ドビュッシーだった。牧神の午後への前奏曲。打楽器はまだ何も聞こえない。舞台上には踊り手の姿しか見えない。いい音だ、これが豹だな。若いのに音のおしまいをたっぷり余らせて吹く。これは千尋の教えと同じだ。情を紡ぐ楽曲において余韻のない演奏はみすぼらしい。せっかちにリズムを急ぐな、と。
 どこにいるのだろう豹と狼は。あるいはこの暗闇の中に、再びカイト・キメラが潜んでいるのかもしれない。ここに自殺願望者がいないことを茴はイエズスに祈る。
 打楽器が聞こえない。始めはなびらのようにあえかにひらりはらりと間歇的に天上から舞い降りていた青い牡丹雪は、フルートの緩急に添うようにやがて小止みなくひらひらと視界を覆う粉雪になってゆく。舞手の背後は群青の闇。雪の斜線はただ舞手の白い衣装と透きとおった踊り傘の上にだけ見える。
 フルートの音色、それから半畳の空間を天からの操り人形のように動いてゆく白い裾曳きの衣擦れの音だけ?
(ちがう、繊維の音じゃない) 
 かすかな雑音。ざざざ、ごおっ、ふうっ、どしん、と地鳴りのようにも嵐の前触れのようにも聞こえる。茴の感想はいつも唯美に傾く。現実を美的に脚色したがるのは、中途半端な作家だった鶸の遺伝だろうか。娘二人をほとんどかまいつけず、夫さえないがしろにして奔放な文筆生活を続けたあと、鶸の思考回路は壊れた。母性の欠落した成長期を姉は内向して読書と絵と音楽で埋め、妹は女優に憧れて家を飛び出し、成功はしなかったが良縁を得て、今は安穏な地方公務員の妻におさまっている。……。
「洗濯機の音かなあ」
 ぼそりと陽奈がささやき茴は頷いた。
「それ正しい。全自動じゃなくて、古い昔の二槽式みたいな」
 陽奈のほうが茴よりもずっと現実認識能力は高いようだ。この子は現実逃避をする必要はなく、父親と母親と義理の母親と祖母の庇護の中で、温かく守られて育った。
「違うわよ、わからない? あれ心臓の音よ。でなければ聴診器で聴く血流の音」
 亜咲は唇の前に指を一本まっすぐたてて、
茴と陽奈をかるく睨んだ。
 ころりん、ちーん、と小さい鈴のような響きがいくつかころがってきた。同時に、こちらを睨む亜咲の背後で濃い舞台溶暗はふわっと緩み、会場全体が深海の底から日光の届く水面近くまで昇ってゆく浮遊感がきた。

「髪を染めていらしゃるんですか?」
「そんなめんどうなことしないわよ。洗いっぱなし。あ、リンスちゃんとして」
「はい」
 若井須磨子さんの髪は八十二歳というのに遠目にほとんど白髪が見えない。今日のように茴が髪を洗ってあげるときには、さすがに根本から幾筋もの銀髪がちらほらと、冬の枯れ草のようにそよいでいるのがわかる。
「お若いですね、ほとんど白髪がないです」
「そうねえ、すっかり薄くなっちゃってあなたみたいに若くてきれいなひとにやってもらうの恥ずかしいんだけれど、底冷えがするともう肩とか痛くて上がらなくなっちゃうのよ。年は取りたくないよねえ」
「ははは」
 うっかり同意するわけにはいかない。おだやかに曖昧に笑顔でまるめるのが最適だ。若いころおしゃれだった須磨子さんは籠りきりの生活になってから、服装はすっかりかまわなくなっているが、石鹸やシャンプー、リンスなどは結構な高級ブランドを使っている。
「若井さんこそいつもきちんとしていらしゃいますよね。お肌もきれいですよ」
 ここはともかく相手を持ち上げる。お世辞だろうと何だろうと、相手の美点をつかまえて話題にし、沈みがちな高齢者をよろこばせる。いや、こうしたことをお世辞というにはあたらない。高齢者の心身を労り、慰め、見守るのが、具体的な労働以外の精神的なケアだから。
「そお? ありがと。まあ、顔はお金をかけたからねえ」
「?」
「あなた化粧品何使ってらっしゃるの」
「え、その、ありふれた何かです」
 茴の前に痩せ細った背中をまるめてしゃがんだ須磨子さんは、がはは、とシャワーを浴びながら豪快に笑った、ようだった。もしかしたらシャワーが開いた口腔に飛び込んでがぼがぼ、という音になったのかもしれない。
「若いっていいわねえ、雑にしててもお肌ぴかぴかだもんね。でもあたし若いうちからお手入れしたのよ、五十年も」
 と、茴もよく知っている有名化粧品会社の名前をあげた。
「まあ、おしゃれ、さすがです」
「何おっしゃいます。もういいから、お湯に入るから、ごくろうさん」
 須磨子さんの顔はやつれてはいるのだが、額も頬も磨いた石のようになめらかだった。それはまだ健康だったころの鶸が、定期的にスキンケアしていたパックのあとの皮膚の光沢と同じだった。須磨子さんはそれに加えて、未婚だったためか顔全体に浮かぶ表情がこどもっぽく若々しい、そして無防備だった。てひどい悪意や攻撃をうけた経験のない顔。そして自分の主張をおおむね気兼ねなく周囲に通せる安全な人生の範囲を選んだ女性の顔だった。
 が、このひともまた福祉コミュのヘルパーたちの間ではいくらか持て余し気味だった。矢田部さんほどではないが、女性ワーカーとの折り合いが悪く、自分の意に添わないワーカーとはかなり凄まじい口論になり、ケアを断って追い出すこともあるというのだった。茴は三人目か四人目のバトンタッチでここに来た。実年齢よりずっと若く、いや幼く見えるので、矢田部さんが茴を好くのと同じ理由で、須磨子さんも茴を気に入った。
 脱衣場で手を洗うと、爪の隙間に須磨子さんの黒髪がまつわりついている。パーマをかけていないまっすぐなセミロングヘアだ。八十代なのに奇跡のような黒髪だった。ストレスの少ない人生を過ごしてきたんだろうな、と誰でも思うに違いない須磨子さんの黒髪。
 浴室の湯あみの気配が長い。茴はリビングの室温を確認し、手早く掃除機をかける。いつだったかここにカイトが来た。今日はいない。部屋に残ってクリームパンを食べているのか、それとも脱け出してどこぞで人間の魂を喰っているのか。
(たいへんなものが来ちゃったなあ)
「おまえは餓鬼の一種なんだって、カイト」
 どういうマジックなのか、フルートと心拍それとも血流の体内ノイズとのセッションがクレッシェンドし、続いてガラスの風鈴をいくつも打ちたたくまろやかで澄んだ響鳴が始まるとすぐに、舞台中央の雪の精はかき消えた。舞手が奈落に降りたにしては、舞台からの彼女の喪失は一瞬で、それこそトリックとしか思えなかった。
そして、舞手が消えた舞台後方に、天上から目に見えないテグス糸でそこかしこにこどもの頭ほどのガラスのボールが吊り下げられているのが見えてきた。碧や青、透明なガラス鉢は、最初海にうかぶブイのように思えたが、薄闇の明るさに眼が慣れると、ブイよりもよほど薄い透明度の高いガラスの球と楕円であることがわかった。その中には少しずつ水が入っているようだ。
 いくつあるかしら、と茴は心の中で呟き、ゆらゆらと宙に浮いている珠をかぞえた。水珠に違いないが、下からのころがし照明を浴びて、たぶん蛍光剤の混じった水はLED照明のように闇の中で鋭く青光りし、人魂のようにも思えるのだった。ガラス水珠は大小とりまぜ二十個もうすこしあるようだ。
 そのガラス玉を、十歳くらいの男の子が、両手の金色の棒で叩いている。ピックは木製ではなく、金色をしている。ガラスの縁を叩いて砕かない硬度ならば、きらきら光って見えても金属ではなく、珪素に限りなく近い素材だろう。
「あの子ほんとにそこにいるのかな。アニメキャラのプロジェクションみたい」
 陽奈がささやき、茴も同感だった。
彼は幼くて、まだ頭でっかちなマッチ棒体型だが、すんなりと手足が伸び、鼻筋のくっきりと通った清楚な顔だちの男の子だ。のび太くんのような前髪揃えた坊ちゃん刈りの髪は染めているのか照明の加減なのか、周囲のガラスよりも明るい純白に光っているし、両眼はルビーのように紅い。これが冬狼、狼少年か。にしては品がよく可愛らしい。
「眼はきっとカラコンよね。すごいレッド」
 とまた陽奈がぽそぽそつぶやく。
 男の子はフリルの襟飾りの派手な緑色のコスチュームを着ている。中世のロビンフッドかディズニーのピーターパンみたいだ。彼らのように三角帽子はかぶっていないが、尖った爪先にどんぐりのボンボンのついた黄色い長靴が洒落ている。
すごく手首が柔らかい、と茴は冬狼のピックに感嘆する。さざなみのようにガラスの縁を金色のピックが小刻みに走る。ただ一直線に水珠の縁を撫でてゆくのではなく、きりっと鋭い拍を刻み、要所で強弱のアクセントをつけながら、肉眼では測りがたいスィングでフルートの背景を飾ってゆく。
(あれがガラスだとしたら、そんなに強く叩いたら割れてしまうだろうに、あんな脆いものでこれだけディナミズムを表現できるのはすごい。まだこどもじゃない? よっぽど手首と指が柔らかいんだ。打楽器というよりも、この子はリストっぽいわ、いっそ)
 さきほど雪の精が消えた舞台中央にまた明かりが射し、今度もマジックのようにフルーティストが出現した。これも奈落から昇ってきたにしては突然で瞬間の登場だった。
「きゃー」 
 隣で亜咲がちいさく猫声をあげ、茴はぎょっとして半身をひいた。だいじょうぶ?
「あれ、豹よ、かっこいいでしょ」
「はいはい」
 吉良豹河は背が高く、胸板の厚い大きな体をして、背中まで豹柄の金髪をばさらに垂らしてしていた。額には黒い革のセルクルを巻いている。セルクルの真ん中には、暴走族じゃあるまいし〈神風〉の筆文字。彫りの深い,俗に言う濃い顔だち。京人形のような典雅な容貌の母親に全然似ていない。印象的だけれど、これが美形かどうかわからない、と茴は眺める。整っているというのなら狼少年のほうが美しい。
だがセクシーだ。黒い光沢のあるボディスーツは、若いころのレディガガがよく着ていたラバーではなかろうか。それこそ肉体の線がどこからどこまでぴったり現れる。スーツには金色の鋲がびっしりついている。それがギラギラ光って彼は巨大な爬虫類のようにも見える。
 黒いラバーは胸元から臍のあたりまでざっくりⅤに切れ込み、胸郭と鍛えた腹筋の地肌が見える。視線が集まる下腹部のあやういところで太い金属のベルトで腰回りを隠し、バックルは日本刀の鍔のような髑髏。亜咲がのぼせるはずだ。性を挑発してるじゃない。思わず茴はつぶやいた。
「ド、派手」
 亜咲は知ったかぶりで、
「あら、豹は礼儀正しい子よ、シャイだし」
「うん、レディガガも基本ナイーブだしね、表現は逆噴射で」
「見た目九割って言うでしょ?」
「まあね。だけど、こういう子があたしのパフォーマンスに調和するかなあ」
「視覚的に逆ベクトルだからいいんじゃない。いまさらひかないでよ」
「え、じゃあ決めてきたの?」
「もちろん」
「そんな!」
 顔を寄せ合ってぶつぶつ喋っていると、近くの観客からいくつも白い眼が飛んで来た。
 豹河のフルートは純金だ。柔らかい音がする。牧神の後は何だろう。旋律が途絶えても、狼少年のスィングパーカッションは時間の空白を埋めて雪の降る音のように続いている。強靭な筋肉だ。力任せにひっぱたくのではなく、十分にコントロールしたバチさばきが叩いた音を適切に空間に拡げている。遮二無二ぶん殴った音は遠くまで響かず、すぐに力尽きて重く沈む。ピアノでもチェロでも、歌声でも同じことだ。
 ふわり、と巨大な薄衣が舞台全体にかぶさるように、あたらしいプロジェクションが始まった。緑色、あかるいエメラルドグリーン、襞のような流線型の波紋がおおきく揺れ、観客の眩暈を誘う。水流? それともオーロラだろうか。舞台全体に青と水色、エメラルドグリーンの波が立った。狼の打ち鳴らす水珠のビートが続けざまに高く響く。豹がフルートを構える。
 フルートの旋律の直前にレクイエムが入った。誰だろう、数小節の断片のような合唱。モーツアルトだろうか、フォーレか。いつもなら聴き取れるはずなのに、レクイエムといっしょにマッピング画面に落ちてきたグランドピアノの映像に驚いてしまう。ピアノは水上からゆっくりと海中に沈んでゆく。実物の何倍も拡大されたグランドピアノの映像に豹と狼と青い人魂が透け、水底に沈んでゆく黒いピアノの箱は、当然ながら棺のメタファのように思える。
 スローモーションでリピートされる入水ピアノの動画の中で、豹が吹き始めたのはやはりドビュッシーの「沈める寺」だった。旋律の隙間を狼のパーカッションが埋める。水珠の中に入っていた蛍光色の水の意味がここでわかる。狼はピアノがわりに水珠で音程をつくり、単音のフルートでは表現しきれないピアノの伴奏譜を強拍で、そうでないリズムは弱拍で、この上なくデリケートに表現する。
原理を誰かに教え込まれたとしても、この表現力ならば狼は天才肌といえる。これから本物の天才に育っていくのかもしれない。
「茴ちゃん、あれジョン・ケージでしょ」
 陽奈がささやいた。
「よく覚えてたね」
「強烈だったから」
 そうだ、水中ピアノを音楽と言い張った永遠の少年ジョン・ケージ。ああ、だから狼はピーターパンのコスチュームなんだ。
 大人になれない永遠の少年ピーター。
 なれない、じゃなくならないんだ。
 ピーターパンはむっとして茴にまぜっかえしたようだった。 
 パフォーマンスはそれから群舞が入り、また別なプロジェクション、そして最後に再びガーネットが舞って締めた。
群舞は彼女の弟子たちだろう。色とりどりの花を飾った少女たちはロマンティックバレエの長いチュチュを着て、いかにもパフォーマンスの中休み、ただ気楽な眼の楽しみのためだけに、可愛らしいしぐさで飛んだり跳ねたりして、観客の緊張をほぐしてくれた。
 群舞の間は狼も豹も演奏しなかった。ただ通奏低音のような体内ノイズだけが聞えていた。リズムも旋律も聞こえない舞台空間で、青い水珠を背景に、花飾りの可憐な少女たちが血流の音響を背負って踊る姿は、すこしデカダンスに視点を変えるなら、ディベルティスマンではなく、シニカルなダンス・マカブルとも眺められた。
どれほど耳驚かす大音響であろうと、人工ノイズは〈無〉及び〈不毛〉の拡大再生産にすぎない。それでは生体出現の瞬間からいのちと切り離せない心拍や循環器の雑音はなんだろう。こちらは海の音に近い。いや、そのものだ。心臓や血流の音波数列を解析するなら、きっと黄金比で割り出される自然界の美度に比例するはずだ。
 パフォーマンスが終わっても、一礼して退場した出演者はアンコールに応じず、客席には追い出しのアナウンスが流れた。亜咲はいそいそと花束を抱えて楽屋に向かい、茴もついていった。
「吉良豹河です。はじめまして、よろしくお願いします」
 茴が何も言わないうちに、でかいラバーボーイはきちんと豹柄の頭を下げた。間近で見ると童顔で、西洋風五月人形のような印象だ。
「素晴らしかった。いい演奏でした」
 つつましく応じる。そうとしか言いようがない。こんな手練れは茴自身の演奏能力をはるかに超える。亜咲にしたって足元にも及ばない。音楽の有機的なアゴギグ、ディナミズムが作れないから亜咲はパッチワークの曲芸に走る。
豹は違う。どういう研鑽を積んだのかわからないが、ヘルツもテクニックもある。勘もいい。なにより見た目百パーセントの舞台映えもするし、これはいったいどうなることやら。言い出したらきかない亜咲だから、なあんだ、つまりあたしは彼女が豹に接近するためのダシの素。まあいいか。
「四月に共演してくださいますの」
「はい、よろこんで。チェリストって、千尋さんの御弟子なんですね」
「先生と親しかったんですか?」
「ピアノ習ってました。二年くらい。もうすごくて、お稽古のたびにスリッパでひっぱたかれて、きっと俺あの経験で打たれ強くなったんだと思ってます」
「ああ、よくわかります、その雰囲気」
 茴は声をあげて笑った。いい子だ。
 豹からは全身全霊のパフォーマンスをつとめあげた若い異性のさわやかな汗と精気が熱くかぶさってくる。もしかしたら茴は上気して頬が赤らんでいるかもしれない。掛け値なしに豹は魅力的な男だ。悩殺されたとして、大胆にアプローチするのが亜咲なのだろうし、一歩ひいて自分の状態を客観視してしまうのが茴なのか。
なぜだろう、自信がないわけではない。すれ違う男たちの視線は、陽奈へ向かう直線とはちがうニュアンスを含みつつ、まだ茴に吸い付いてくる、それがわかる。何が自分にブレーキをかけるのだろう。茴としては、いっそ豹河に一目惚れしたいところだ。
 サガンの全盛期から五十年、コレットから百年ばかり過ぎて、茴は四十歳にして、いや茴だけではない、多くの現代の女たちが「わたし、おばあさんなの」とはいつまでたっても自己認識できない。たぶん…異性の側からのまなざしに我が身を測るしかないのだろう。男たちは社会的な配慮や体裁を剥げば残酷だ。うまみのありかを熟知している。
女であり続けることだけがアイデンティティだなどと思いたくはない。にしても。
 豹でなくてもいい。自分の心のなかで櫂の急死と同時にフリーズしてしまった塊をぶち壊すくらいの衝撃があったら。
 意気投合しそうな豹と茴の様子に、横から亜咲がやきもきと割り込んできた。ボリュームのある肩で茴の全身をぐいっと豹河の前からおしのける感じだ。
「ねえねえ、そうと決まったらどこかで打ちあわせしましょうよ。まだあたしたちラストクライマックスのオチを考えてないんだ、豹君に何かいいアイデアもらいたい」
「いいですよ」
 突然すっと豹河の視線が目の前の茴と亜咲から逸れ、楽屋口に泳いだ。表情が変わる。
「来てたの?」
 茴と亜咲はいっしょに振り向いた。
真冬というのにシルバーグレイのタンクトップ、豹と同じ黒のラバータイツという一見ダンサーに見まがう長身が入ってきた。下から上へ這い上がってゆく視線の第一印象で、まずファッションモデルのように膝が長いのに驚く。
その場の空気が変わるとはこういうことか、と茴は眼をみはる。顔もモデル仕様だ。東洋とも西洋ともつかない完璧な比例。白系ロシア、スラブ、中東にならばこの種の美貌がうようよしているらしいが、極東の島国ではめったに見ない。テレビに出たとしても九頭身の造型は高貴すぎて他のタレントと調和しないだろう。やっぱりモデルかな。
 長い首にダイヤをちりばめたチョーカーをつけている。さらりとしたセミロングの黒髪は毛先だけ金色。睫毛が長い。付け睫毛か、指でつかめそう、マッチ棒なら三、四本乗せられそう。胸はまったいら。ニューハーフにしても姿態にも物腰にも荒削りなところがまるでない。不自然な媚態も皆無。このひと女性?男性どっち?
声は低い。
「途中から聞いてたよ。沈める寺くらいから。とうるは?」
「上々だった。親が迎えに来てて、終わったらさっさと帰った。児童の就労可能時刻ぎりぎり」
「こちらは?」
 東西混じり合ってエキゾチックな目鼻だちは、角度によってイザベル・アジャーニか、ペネロペ・クルスにちょっと似ているかしら、と茴は最初の驚きのあと、自分に納得できる既成のフォルムに当てはめて観察していた。未知のものを既知の要素に転換する手順。
テリトリー内では勝気で鼻っ柱の強い亜咲は、自分のアベレジを突き破る太刀打ちできない相手には、あっさり気圧され、鼻白んだまま口を開かない。
そこで茴が応える。
「吉良さんと来年四月に共演するチェリストの森茴です。あなたは?」
「千手紫羅です。吉良の友達」
 ぴくりと豹のこめかみに癇が走ったのを茴は見逃さなかった。
「いまのところ、まだ僕の女です」
 即座に豹は縄張り宣言し、紫羅は紅い唇を少し緩め、豹河が抱えた白と赤の薔薇の花束を、香を嗅ぐような仕草で覗きこんだ。
「きれい、いい薔薇だね」
 亜咲は深呼吸する多少の間をおいて、
「ピアニストの千尋亜咲です。あなたモデルさん? お美しいわ」
「モデルもしますよ。本業じゃないですけど」
「本業がおありなの? まだお若いのに」
 亜咲の声はとりつくろって硬い。彼女は紫羅の存在を知らなかったようだ。もちろんイケメンパフォーマーの豹にガールフレンドがいないとは思っていなかったろうけれど、女友達がここまで飛びぬけた美人だとは予想していなかったに違いない。しかも一瞬でばれるが、豹河は彼女にぞっこんじゃないか。
「本業あります。いくつか」
「いくつか?」
 ほほほ、と亜咲は気の抜けたお愛想を返した。紫羅は亜咲から茴に視線をめぐらし、数秒呼吸をとめた。唇だけの微笑が深くなる。
「あなたは、いつもペット同伴なんですね」
 あ、と茴は察する。紫羅には見えているんだわ。
「ええ、ついてくるんです。どこでも。紫羅さん、ご存知なの」
「はい。森さん、勇気ありますね」
「そうですか? ふだんおとなしいわ」
「そばに?」
「ええ、だいたいいつも近くに。家にいるときはべったり」
「ひよこは甘ったれだから」
 亜咲が軽い声を挟んだ。すると、
「呼んだ?」
 と入口からコートを着た陽奈がおずおずと前かがみになって入ってきた。すぐ紫羅に眼を奪われ、無邪気に口が半開きになる。
 紫羅は首輪のような自分のダイヤのチョーカーに触り、
「ペットは餓鬼だよ。餓えた鬼だ。森さん甘やかしちゃいけない」
「まあすごい、ひよこ聞いた?」
 訳もわからず亜咲は笑い、陽奈の両眼にはクエスチョンマークが浮かんでいる。豹河はむしろおだやかなまなざしで紫羅と茴のやりとりを眺めている。
「餓えてる…。どうしたいのかしら」
「森さんのこと好きなんですよ。あなたは全然喰い荒らされていないから。そうでなかったら、あなたはとっくの昔に廃人になるか、死ぬかしてる」
 あたしお腹すいた、と陽奈が小さい声でぼやいた。豹河が噴き出す。彼は会話の裏を察しているのにいい顔で笑う。陽気な青年だ。
「これからもあたしのそばに居続けるかしら」
「自立目指してますう」 
 陽奈は指でⅤの字をアピールし、アヒル口の変な声で応える。
「悪さしなければ、共存もありかな」
 結論を避ける表情で紫羅は茴から顔を背けた。すると正面からは見えなかった男の喉の太さがチョーカーの下にはっきり見えた。豹河の女は、性転換手術はしていないということだ。

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