さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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ミッション・イノセンタブル  チェリー・トート・ロード vol8

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   ミッション・イノセンタブル

 まぶしいですか、と茴はさっきからずっと冷蔵庫と電子レンジを往復している自分を見ている湯浅徳蔵さんの耳元へ口を寄せて尋ねた。茴の立ち働いているキッチンは、陽射しから離れた北側で、蛍光照明はついているが薄暗い。湯浅さんは 日の当たるリビングルームから顔を背けるように、台所のほうばかり見ている。
耳元で尋ねるのは、湯浅さんの耳が遠いせいだ。多くの難聴高齢者と同じように湯浅さん、もとい徳ちゃんも補聴器をいやがり、ほとんど装着しない。それほど重症ではないから、大声でなくても、傍ではっきりと発音すれば意思の疎通ができる。
「んー、あー、ねえ」
 徳ちゃんはきりっとした男前に、曖昧な笑みを浮かべ、キッチンで動きまわる茴から眼を離さない。
 火曜日の十一時半から蘇芳山での昼食介助ケア。父親と息子だけの男所帯というのに掃除の行き届き、無駄のない清潔なダイニングには、いつものように、レストランシェフの長男が調えた美味しそうな1プレートランチ。
先週、徳ちゃんは口癖の「ああおいしい」を連発しながら、茴の羨ましそうな視線に見守られて、御馳走をぱくぱく食べていたのに、今日はちっとも箸が進まない。
「食欲ないの? 徳ちゃん」
「なんだかねえ」
 ぼうっとした表情で、徳ちゃんは箸の先でマカロニサラダをこねた。こねるだけで口に運ぼうとしない。眼をしょぼしょぼさせて、茴をじっと見つめる。
 おかしいな、と茴はそこで気合いを変えて徳ちゃんの様子を観察する。両眼は充血していない、顔色も悪くない。ケア開始時に測った体温血圧心拍酸素量のバイタルも平常。
 この間ずっと、徳ちゃんはキッチンのシンク前に立っている茴を見たままの姿勢を変えない。眼だけしきりにぱちぱちしている。
変だ、と茴は徐々に異常に気付いてゆく。
 日光は南面のリビングにあふれ、そちらのガラステーブルには長男が豪華な紅いシクラメンを飾り、その隣にはとりどりのオーナメントや星を吊ったミニチュアのクリスマスツリーまで立っている。目に快いのはごたごたしたシンクの暗がりではなく、花や樅の木の飾られた明るい居間の方だろうに。
「徳ちゃん、あっち、シクラメンきれいですね」
 茴はにこにこしながらリビングのほうに徳ちゃんの注意を向けた。うん、と徳ちゃんは素直に頷いて、リビングルームに首をねじったが、視線はシクラメンとツリーをほんの一瞬掠めて、すぐにまた茴の立っている暗いほうに戻ってしまった。
「まぶしいの? あっち」
「まぶしくない」
 またぼそっと徳ちゃんは答えた。茴は時計でケア時間を測り、ともかく食事を進めようと、徳ちゃんの手に箸を握らせた。徳ちゃんは気のない手つきで箸を持ち、ご飯を口に入れたが、茴が期待した「ああおいしい」発言は出てこなかった。それどころか、
「もういいや」
「え、なぜですか。だめですよ」
 だめですよ。言ってはいけないケア禁句もつい洩れてしまう。
「食えねえ」
 徳ちゃんは箸をテーブルにぱらりと置き、その手で無精ひげの生えた下顎のあたりを撫でまわしている。茴はかがみこんで眼を凝らすと、徳ちゃんが指三本でしきりに抑えている顎の付け根にしこりを見つけた。
首のそちら側は南から光のあたる方で、高齢者の乾いた皮膚の下に、骨や腱の硬ばりとは明らかに違った不健康な白い隆起がありありと見えた。
(これのせいで、窓のほうを見なかったの)
 そちらを向くと首の腫瘍が痛むのかもしれなかった。 
「ここ、痛いですか?」
 徳ちゃんの指の上から、茴はそっと患部を指摘する。徳ちゃんは首を振った。茴を見上げるその怯えた表情に、はっとして笑顔を作る。徳ちゃんはまた首を振って、用心深く、
「痛く、ない」
 いつも気が向けば、するするつるつる喋り続ける陽気な徳ちゃんの口が、今日はほとんど回っていなかった。失語傾向の高齢者のように、ごく短い単語しか出てこない。
 それも腫瘍のせいだろうか。
「いじらないほうがいいかな、徳ちゃん。ご飯無理なら、お薬だけ飲みましょうか」
 できるだけ温かい声で服薬を勧めた。食欲がないのも、もしかしたら飲み込みにくいせいかもしれない。息子さんはまだ知らないのだろう。こうやって徳ちゃんが日光から顔を背ける姿勢で首をねじらなければ、組織に埋もれた腫れ物は見えてこないのだから。
 患部を発見したものの、ケアワーカーは医療行為はできないので、茴はともあれ昼食後の服薬を見守り、トイレ誘導、それから寝室で休ませた。トイレは湯浅さん一人で済ませたし、用を足した後の手洗い、歯磨きもいつもどおりできた。着脱は介助が要るが、これまで以上に体の動きが鈍いということはなく、痛みも訴えない。ただぼんやりと言葉すくなく、横になると徳ちゃんはすぐに目を瞑り、軽い鼾をかき始めた。
 茴は寝室の扉をちゃんと閉め、キッチンに戻ると、自分の携帯からギャザリングに電話した。ケアの異変は地域ギャザリングワーカーにまず知らせることになっている。運よく向野さんはすぐにつかまった。
「息子さん知らないみたいだね、それじゃ」
「だと思います。腫れ物に痛みはないようですし、パジャマに着替えるときに全身の素肌を確かめましたが、首以外に異常なむくみや湿疹などもありません」
「ケアマネに連絡して、できるだけ早いうちに医者に行ってもらうことにしましょう。湯浅さんもじき特養の空きが出るってときに、気の毒だねえ」
「はい。息子さんに特別にメモ残しますか?」
「いいよ、あたしから言う。普通に連絡ノートに状態を記録しといて。それに晩御飯のワーカーがまた入るしね。彼女にもこれは知らせておくし、首の患部の確認とってもらって、ひょっとしたらまた状況が変わるかもしれないからね」

 来週の今日はもう降誕祭、いや、心臓に正直に思い出すならその前日に櫂の命日が来る。しかし、茴は櫂の一周忌はしなかったし、三回忌もしない。彼は主の慈悲にあずかってきっと天国にいることだろう。洗礼は受けさせてあげられなかったが、イエズスのふところは宇宙大に広いからあたしは安心しよう。
 それに今年は、迂闊にも突然気づいた陽奈の成人式の衣装で茴の心痛はだいぶ紛れる。
 湯浅さんの家を出てしまうと、茴は徳ちゃんの症状についてくどくどと気を回すことはしない。介護をはじめて足かけ四年、この間に茴の担当した高齢者さんの何人かがひっそりと他界していった。その方たちは最終的に病院で息をひきとったので、在宅介護で最期の看取りまで経験したことはまだないが、認知症であろうと、クリアであろうと、死に近い高齢者には共通する寂滅の気配があって、それを見守り寄り添ううちに、哀悼を超えた諦観のようなものが身についてくる。
 もちろん利用者は他人だから冷静でいられるという理由もあるが、人ひとりなだらかにこの世から彼岸へ送り出す煩雑を底辺で支えていると、悲嘆の感情に揺さぶられること自体、病者に対する非礼のような気がしてくるのだった。高齢者の晩年に寄り添う、というつとめは介護従事者の個人的な感情とは別なものだろう。その一方で、いくばくかの利用料で一定時間淡々と働くだけのワーカーのほうが、ときには、いや、しばしば高齢者のかけがえのない心の支えになっていたりすることもある。
 家事介護に入る独居高齢者の家族が懇切に老親を見舞うことは少ない、と茴は思う。茴自身、心身ともに手に余る母の介護を他人であるヘルパーたちにおしつけ、ある時期呵責から逃げたから、それを責めることはできない。肉親の錯乱は血がつながっていればいるほど耐え難いだろう。
幸い鶸は施設で安定し、回復はみこめないが、破綻と平穏の波を客観的に見極められるようになった。
 湯浅さん宅か ら戻ると、茴は鶸の残した衣裳箪笥を開いた。三棹ある桐の箪笥のなかには、鶸と茴と毬の和服が百五十枚ほどある。
 曾祖母の代から着物道楽の家系だった。茴の成人式のとき、鶸は二枚中振袖をあつらえ、毬のためには一枚新調した。長女と次女とで差別したのではなく、毬は振袖は要らないと言ったのだが、鶸は着ない娘のためにも加賀友禅を作った。和服をあつらえるのは、きっと鶸自身の楽しみのためなのだった。
 結局毬は茴の結婚式のときにだけ振袖をまとい、それはまだ茴の箪笥の中にある。舞台女優を目指した毬は中途半端にさすらって自力で和服を着るたしなみをおぼえなかった。それでも性格のよさと美貌は彼女を救い、毬の夫は寛容な暮らしを妻に与えた。この夫婦にも子供がいない。
 どうせ着ないから和服はいらない、と毬はつねづね言っていたから、叔母の加賀友禅を陽奈に譲ってもいいかもしれない。地色は藍色。肩と裾模様に宝尽くしと四君子を組み合わせた古典柄は、今時の趣向とは違うが気品があり、華やかだ。
 色白の毬には藍色がさえざえと映えたが、小麦色の陽奈の顔にはひんやりとした藍よりも可憐な赤系統のほうが似合うかもしれない。紅地に、贅沢な匹田絞りを飛び雲に大きく意匠した京友禅のほうが、ごく普通に可愛らしい。鶸は袋帯まで、振袖一枚ごとに彼女の好みで揃えていた。ずいぶん贅沢をしたものだ、と茴は畳紙をひらいて、文字通り絢爛豪華な全通袋帯の金襴緞子を眺めた。
 チェロ も弾かなくてはいけない。だけど櫂のためにも、陽奈の二十代の初めはできるだけ華やかに調えてあげたい。
くふん、と鼻を鳴らして、茴の寝室から猫のような忍び足でカイト・キメラがすりよってきた。
「触っちゃだめ。染みになるからね」
 人間の皮脂、それに動物の肉球の湿り気などは、上等の絹には厳禁だ。
 カイトは兎耳をやわらかく後ろに寝かせ、くつろいだ表情でぴったりと茴の脇腹に頭をおしつけてきた。
 この甘ったれなけものが餓鬼だとは。しかし餓鬼とはいったいどういう邪悪なのだろう。古典文学を気の向くままに読み込んだくらいで、仏教には疎いクリスチャンの茴には、むしろ悪魔、悪霊のほうがわかりやすい概念だ。
一昨日の横須賀線で自殺者の魂を貪りくらっていたカイトの凶暴と獰猛は今、微塵も感じられない。銀座で出会った紫羅という美しいヘルマプロディトスにもっと詳しいことを聞いてみようか。メアドが記された名刺をもらっている。信じられないほど端麗な青年だが、応対に権高な雰囲気はなかった。茴を好いたようだし。
 ひょい、とカイトは紅の長着に片方の前足をかけた。こら、と茴がライオン顔カイトの長い鼻筋を叩いてしかると、けものは金褐色とモスグリーンの背中の毛波をふうっと機嫌悪く逆立てたが、牙を剥く反抗は見せずにひきさがり、両前足を重ねて顎を載せた。
「可愛いね」
 茴は敏感な兎耳を避けてカイトの頬や首を撫でてやる。緻密な毛並にゆったりと、冬の寒気にかじかんだ手のひらが沈んであたたかい。悪魔でも餓鬼でも手につたわるカイトの感触は心地よい。餓鬼というものが死霊のヴァリエーションなら、陽奈の言うとおり、これは中途半端に突然死した櫂の、茴への愛惜かもしれない。それなら。

 翌日水曜日は「やすらぎ」のクリスマス演奏会だった。義理の娘の晴れ着に気を取られ、チェロの準備は怠ってしまったが、午前中全曲をざっと総ざらいして、まんべんなく瑕のない程度にまとめた。茴の演奏を聴いてもらうというよりも、唱歌やクリスマスメドレーなどは、主な聴衆である入居者さんたちに、いっしょに歌ってもらうために弾くようなものだ。
認知症が重くなって、音楽を受け身に鑑賞することができない高齢者も、自分自身参加して歌うことはできるのだった。歌ったそばからすぐ歌詞を忘れてしまうにしても、みんなの脳裏を走りぬけてゆくその日その時の一瞬、心からのよろこびとともに声をあげてくれる、ことがある。が、その逆も。
 やさしい笑顔で丁寧に誘っても受け入れず、どうにかヘルパーに誘導されて客席に座ったものの、むっつりと中座し、介助さえも拒んで失認状態のままどこかへ行ってしまうひともいる。常態ではないそれぞれの感情の機微を傍から予測できない。
 鶸は依然からのクラシックファンなので、茴のチェロを喜んでくれる。ただし褒めない。「やすらぎ」入居後もプレイヤーを持ち込み、気分のいいときには世界のヴィルトゥオーゾの演奏を鑑賞するだけの知性が鶸にはまだたっぷり残っていた。
 衣裳やチェロの搬送に手間取り、昼食時間より少し過ぎて鶸の部屋に入ると、鶸は自室のテーブルの上にデリバリーのピッツァを用意して茴を待っていた。
「ひよこは来ないの?」
「忘年会だそうよ」
「そう。おまえ今夜何を着るの。まさかジーンズじゃないでしょうね」
「ブラウスとロングスカート。ピンクのサテン。どっちも」
「ああそう。まあ、どうせ音楽のおおかたはみんなわかりゃしないんだけどね」
 鶸が投げやりな口調で言い捨てたので、茴はひやりとした。周囲を見下したような物言いは、鶸の脳血管障害と片麻痺が回復するにつれ、増えてきているような気がする。
 病の兆候もなく健康なとき、こうした唯我独尊的なまなざしは、苦労知らずの鶸の個性のひとつだった。それは欠点とばかりも言えない。おどおど周囲の顔色を伺うことなく、鶸は独善的な自分の感性を信じて文章を書いていたから。もっとも、負けず嫌いでよく勉強する作家ではあった。旧家に生まれ器量もよく、人並み以上の才能に恵まれ、さまざまなめぐりの良さにあずかって、皆が羨む望み通りの職業に就くことができた女というものは、家族にとってはときどき嬉しくない存在になることがある。
 脳血管が破裂して数年前に絶筆した鶸の作品は、ボールペンよりも高速度で文芸が費消されてゆく当世では、すでに過去のものとなりつつあるが、代表作のいくつかは電子化されて余命を保っている。病んで年齢を重ねても、なお美しい女なので、その魅力もあるのだろう。絵描きの長女と女優志願だった次女は、母親の文芸作品よりも、鶸の「絵になる」美貌のほうが、よろずの価値がデジタル・ヴィジュアル化されるこの世の通行手形としては確実だと思っていた。
「ピザ、お母さんが頼んだの?」
「そうよ。たまにはこういうあらっぽいの食べたいわ」
「夜は御馳走なのに」
「だってピザは出ないからね」
 昼食が済んだ階下の厨房では、そろそろスタッフが勢ぞろいしてケーキやチキンの仕上げを始めているころだろう。福祉コミュの配食サービスは、施設高齢者向けのパーティメニューも商品に揃えていて、キッシュやサラダ、ローストビーフやカナッペなどは、じつに食べやすい大きさと歯ごたえに調えられてワゴンで運ばれてくる。「やすらぎ」のスタッフはそうした外注メニューとは別に、フルーツポンチやデコレーションケーキなどを自作する慣わしだ。主婦歴○十年に相応の料理自慢もいるのだった。
「ピザなんか…でもまあ、いいか」
 茴はデリバリーピザのケースを開き、母親と自分の前に紙皿を置いた。鶸は、
「オレンジジュース、ううん、トマトジュースにしておこうかな、夜甘いものたくさん食べるから」
「お母さん、その前にお手洗い行きましょうか」
 茴はこういうとき、ケア時の他人行儀な声になる。鶸は素直に立ち上がった。洗面所とトイレは共同ではなく、入居者それぞれの個室にある。高額な有料施設だけあって、車椅子でもゆったりと出入りでき、手すりや洗面の位置も配慮が行き届いていた。
 便座の前に立って、鶸は茴に一切を任せて満足そうな顔をしている。片麻痺もずいぶん回復したから、時間をかければ排泄も一人でできるが、やはり茴は急いであれこれさっさと片付けてしまう。これが仕事なら、「高齢者の残存能力を生かす」ために、不必要な手は出さないに違いなかった。
 施設に入ってから、鶸は常時リハパン着用になっている。膝まで下ろしたリハパンの股間部に濃い茶色い染みがあった。下着は水分を溜めてかなり重くなっている。一回だけの排尿ではなさそうだ。鶸には失禁の自覚がない。鼠蹊部に麻痺があるのかもしれない。それは娘でも尋ねにくいことだった。問いただしても鶸はきっと正確に応えない。
食事前だが、腰まわりを交換したほうがよさそうだ。午前中のワーカーは何をしていたのだろう、と茴は憤慨気味にフロア担当者を思い浮かべるが、借りたい猫の手も見つからない施設の状況を察することにした。午後に仲間内ケアワーカーの茴が来ることがわかっていれば、こんな物日はどうしたって、介護度の軽い鶸などは後回しにされる。

 アドベントの最終、第四主日のミサはもうじき降誕祭ということもあってか、聖堂に集まった信徒の数は多くなかった。ミサにあずかる熱心な信者は、どうしても高齢者が多いから、イヴと当日の夜間聖体拝領めざして、ふだんの日曜ミサは体調管理のため自宅に籠っているのかもしれない。
 司祭の純白のアルバの上に、長い掛け帯のように左右均等まっすぐ垂れた濃紫のストラが目に鮮やかだった。大聖堂内陣は白い漆喰で、眼に立つ色彩は司祭の紫とカリスの黄金だけだ。献花は白百合、淡いピンクの透かし百合。紫の印象の方が圧倒的に強い。
 紫と黄金の組み合わせなら、たぶん一般には王権の象徴だろうが、キリスト者にとって紫は受難の色だ。悔い改め、懺悔、苦行、節制、キリストの尊厳と待望、悲しみ、厳粛さ、そして祈りを象るという。
 アレルヤ唱を歌おうとして、茴は声が出ないことに気付いた。それでようやく、自分の肉体がすっかり疲れているとわかった。
 この一週間何をしていたろう。月曜日はさりげなく過ぎた。火曜には湯浅さんの腫瘍を発見し、水曜日には母のケア、それからクリスマス演奏会。木曜日は休んで、陽奈を連れて振袖に合わせる正装用の草履そのほかの小物を買いに横浜へ出かけた。和服など着たことのない娘だが、茴の勧める紅地裾暈しの中振袖をコスプレ感覚で喜んでいた。
 彼女がこれから和服を着こなす女に成長するかどうかわからないが、最初に髪を結うかんざしや髪飾りなど、成人式だけのその場しのぎでなく、一生ものの上等を買ってやりたかった。これをきっかけに和のものに興味を持ってくれたなら、あの世の櫂も喜ぶだろう。
 帯揚げ、草履はデパートで適当な品が見つかったが、かんざしは気に入ったものがなかった。晴れの当日まであまり時間がないが、買い急がないで伝手をたどろうと思う。新作よりはアンティークでもよいのではないか。現代工芸には見られない優雅がある。
 金曜日、土曜日、そして今日だった。司祭のストラの紫は、ちょうど陽奈が選んだ絞りの帯揚げの色と同じだった。生地全体にびっしりと高いしぼの帯揚げは振袖の濃紅によく映るだろう。若い娘のまとう着物は派手なほうがいい。着物がすっかり過去の文化遺産、非日常になってしまった今日びはなおのこと、思い切って華やかに身を飾るのがいい、と茴は思う。
 陽奈の選んだ色には受難の匂いはなく、助六由縁江戸桜の粋な鉢巻の江戸紫に近い。
 声が出なくなるほどなぜ疲れているのだろう。ケアワークの合間にチェロに集中し始めた。そのせいかもしれない。演奏するときは必ず歌う。心で歌う。実際に発声していなくても、声帯は緊張し、粘膜は充血するから、数時間も弾き続けると、そのあと喉がひりひりすることもあった、と茴は昔の経験を思い出して、少し安心した。
 教会を出ると、段かづらから鹿香八幡宮につながる小町通に足を向けた。春夏秋冬観光客で混雑する騒然とした表通りから、さらに奥へひとつふたつ路を分け入ると、間口の静かな、さりげない居住まいのショップが民家に混じって点在している。民家といっても地価税金のただならぬ旧鹿香市街に一戸を構えていられるのだから、こじんまりとしていても壁が厚く、戸主の住まいへの好みを自在に表した瀟洒な建築が多かった。どの家も少し手を入れればギャラリーでもブティックでも、また喫茶店、バーなりとも開業できそうな雰囲気だ。
 その一角のあるギャラリーで、鶸の旧知の挿絵画家の展示がある。女流歌人でもある作家は一昨年亡くなっている。このひととはまた、百合原香寸を通じてもつながっており、ダイレクトメールは香寸から来たのだった。
今日が日曜の午後では、平日ならそれほど混雑しない鹿香の奥向きも人波しきりだ。作家本人は亡くなっているが、今日は画廊にそのひとの娘と百合原がいるはずだった。香寸は会えば楽しい女友達のひとりだし、彼女は茴に歌人の娘を紹介したがっているようだった。
 花屋、古書店、一膳飯屋、骨董屋、低い軒をばらばらにつらねた街並みは鄙びて、また雅びに感じられる。おかしなことだ。古語では鄙と雅とは対照される景色のはずなのに。金属と硬化ガラスで武装する都会の洗練とは別に、二十一世紀の日本では、土と緑の湿潤を豊富にまとうのも、地価の高い鹿香ならではの贅と雅の演出だった。
 手入れの行き届いた山茶花の生け垣が丈低くつらなる一筋の先に、目当てのギャラリーがあるはずだ。
先を急ぎかけてふと茴は足をとめ、眼をみはった。
「イイジマさん?」
 紅い山茶花が咲きこぼれる垣根のそばに、見覚えのある老婦人が一本杖をついて立っていた。鍔の短い青いベルベットの帽子、グレーのコート、首にベージュのモヘアのマフラー。それは確か、孫が編んでくれたの、嬉しそうに茴に見せてくれたものではなかったかしら。
 飯島多江さん。そうだ、間違いない。「やすらぎ」の入居者さんで、昨年は茴もこの方の通院時外出介助をつとめたことがある。確か水曜日の演奏会にはいらっしゃらなかった。風邪でもひいていたのだろうか。なぜ今ここに、一人で立っているのだろう。介助のワーカーはどこにいる。
 茴の方を見て、多江さんは曖昧な微笑を浮かべた。それは顔なじみへの親しい挨拶ではなく、途方にくれた認知症高齢者の警戒心を潜めた笑顔だった。
「いいじまさん」
 茴は相手を驚かさないような小声で、でも抑えきれない動揺でうわずっていた。
「どうしてここに? 通院ですか」
 そんなはずはない、今日は日曜日。言ってしまってから気づいた。
「お天気いいですねえ」
 飯島さんはのんびりと返し、古風に指先を揃えて青い帽子の縁に片手を添え、茴に向ける笑顔をさらにひろげた。大きく剥き出しになった総入れ歯が茶色く汚れている。
茴はグレーのコートの下を見た。まず革靴。外履き用に違いない。そして、ズボンはピンクに青い花模様がプリントされたコットンのパジャマらしかった。パジャマの上にコートを着て彼女は街に出てきた。徘徊だ。
「ひ、ひとりで」
 思わずどもる。北香枕から鹿香まで歩いて来られる距離では、一応ある。だが一番近道でも茴の足で二時間はかかるだろう。源氏山を越えたのだろうか。それとも迂回したのだろうか、どちらにせよ。
「誰かいないんですか」
 的外れな言葉しか出ない。
「できますよ、あたし一人でやれるんだからねえ。あなた」
 飯島さんは険しく白目を剥き、一本杖であらあらしくアスファルトを叩いた。茴の頭に血が昇る。
「ええ、そうですね。おできになります。ごめんなさい、失礼なことを申し上げて。飯島さん、でもここは車も通るし危ないから、ちょっと私と御一緒してくださいませんか。お天気もいいですし、お茶召し上がりましょうか」
「うるさいね」
 どん、と骨ばった手のひらで思い切り胸の真ん中を突き飛ばされ、茴のほうが車道にあおむけに転倒しそうになる。認知症高齢者は、譫妄状態になると、平素からは信じられない膂力、腕力を発揮することもある。
茴は一瞬よろけたが踏みとどまって飯島さんの手をつかんだ。譫妄中に走って転んだらまず間違いなく骨折だ。施設内に人気の少ない日曜日、飯島さんはふらふらと「やすらぎ」から抜け出してしまったのだろう。徘徊発見の連絡を事務所にいれなくては。
 片手に飯島さんの手をつかみ、もう一方の手でかばんから携帯をとりだそうとしたとき、多江さんは、きいっ、と声をあげて茴の手に噛みついた。わっ、と茴は叫びそうになったが、がまんした。噛まれるのは初めてではない。また、噛むのは飯島さんだけではなかった。かばんを探る茴の視線は、飯島さんの転倒を恐れて足元に集中した。一瞬、二瞬、視線が泳いで茴は声にならない声を漏らした。
 飯島さんの周囲のアスファルトに、小さな染みが点々とついていた。飯島さんの足跡だった。乾燥した冬晴れの乾いたアスファルトに、水分を含んだ多江さんの小さな足跡。香ばしい尿臭は視覚での気づきのあとに嗅覚に来た。
飯島さんはもう一回茴の手の甲を噛んだ。
「おばあちゃん、何してるの」
通りすがりの観光客が、異様を察して集まってくる。
「血が出てきた、手を離したら」
 今は飯島さんの方が、茴の手をつかんで離さない。
「痛い、です」
 さすがに茴は唸って、飯島さんの口から手を引き抜いた。総入れ歯だから噛む力はそんなに強くないはずだった。だが甲と手のひらには、渾身の反抗で喰いついた歯型と爪痕が赤紫に残っている。血は出ていない。茴の手は飯島さんのよだれでべたべただ。
「放してよったら」
 周囲の誰も多江さんの権幕を恐れて手は出していないというのに、多江さんは幼児のように肩を震わせて身を揉んだ。地団太を踏む多江さんの体からじんわりと滲むあたらしい異臭を嗅ぎ付け、茴は心臓が縮むかと思う。
(冷静に、落ち着け、ああマリア様)
 正直、信仰がなければとても対処できない「予想外」が介護経験ではたくさんあった。泣き叫んでいるのは自分ではなく飯島さんのほうだ。怯え、錯乱し、おしっこを漏らし、その上さらにこの寒気の中で粗相が始まった。
(どうしよう、事務所に電話して、でもお漏らししたまんまタクシーに乗れるかしら。多江さんのリハパンにおさまってくれるなら)
 それは望み薄だ。既に尿が漏れている。粗相が緩ければ、足首に滴ってくるかもしれない。そしたら…。
「ね、暖かいところいきませんか」
 数人か十数人か、周囲の人だかりから飯島さんに声をかけ、近づいてきたひとがいた。失禁に気付いたおおかたの観光客は汚れに触るのをおそれて遠巻きだというのに、赤いダウンジャケットを着た青年はごく自然な仕草で飯島さんのリーチ圏内に入ると、すっと彼女の背中を撫でた。
 老人が彼を振り払うかと危ぶんだが、飯島さんはあんぐりと口を開けて青年を見上げ、抗わなかった。青年は、
「寒いでしょ、風邪ひくとヤバいからね。歩けますね、こっちですよ」
 飯島さんの肩にぐるりと手を回し、彼女を胸の中に抱えるようにした。自分の衣服が汚れるのも平気だ。
「あなた、どこへ」
 尋ねる茴は、親切な青年の語調で同業者だと気づいていた。経験を積んだ介護者が高齢者に接するとき、話し方に独特のイントネーションが加わる。青年にもそれがあった。
「この近くに知り合いがいるんです。このままじゃタクシー乗せられないでしょ。ものわかりのいい家だから、いったん避難させましょう。あなた高齢者さんの知り合い?」
「ええ。この方のケア担当したことあります。ケアワーカー」
「やっぱり。俺もヘルパーなんで、こういう状況慣れてますし、とにかく人目があるからこの方を落ち着かせましょ」
「よろしくお願いします」
 茴は頭を下げた。血色のいい頬に人なつこい笑をたたえた青年は、飯島さんをうまく誘導した。いっとき荒れ狂った飯島さんは、今は青年の広い腕に庇われ、虚脱した表情でこつんこつんと杖をついて従ってゆく。が、
「いやよ、ひとりでやれるからね」
 小さく、子供が駄々をこねるように、飯島さんはずっとぶつぶつ訴え続けている。
「帰るの、もう帰る。家に帰るんだ」
 帰宅願望による徘徊。飯島さんの息子夫婦は実家を整理して遠い関西に移住している。飯島さんの帰りたい故郷はもうない。
 青年は優しく応える。頬の皮膚がきれいで、顎髭などうっすらと生やしているが、きっとまだ三十にもならない、二十代半ばくらいだろうと茴は彼を眺めた。
「帰りましょうね、すぐ着きます。みんな優しいからね」
「こんなとこやですよ」
「だよね。だから帰りましょう」
茴は二人の後ろから付いていった。飯島さんの足跡だけが地面に黒く残る。
 彼の言うものわかりのいい家というのが何なのかわからないが、飯島さんの下半身は相当凄いことになっているはずだ。このままタクシーに乗るにしても、座席にビニールシートか何か敷かなければならないだろう。
「足元気を付けてね」
 青年はおだやかに声かけを続ける。心破れて打ちひしがれた飯島さんはむっつりと押し黙ったままだが、茴の見つめる彼女の横顔から険しさは消えている。一応の安定を見計らい、茴はまず自分の名前を名乗り、
「お名前なんておっしゃるんですか」
「僕、峰元です」
「ヘルパーって、常勤で?」
「いやあ、アルバイトですよ。でも来年介護福祉士受けます」
「あなたみたいな若いひとが増えてくれたら、この業界も将来明るいわ」
「はあ、でも本業にするかどうかわかりません。今のところ本職は別かな」
「あらそう」
「あなたは常勤ですか」
「いえ、わたしもパート」
「そうですか。重労働ですから。女性のほうが忍耐力はあるけど、きついですよね」
 ふと青年は歩みを止め、それまでとは違う種類の声をあげた。
「あ、水品さん、ちょうどよかった」
 青年が合図の手を振る先に、笑顔で応える和服の立ち姿が見えた。みずしな?
 とっさに茴は百合原から届いたダイレクトメールを思い出す。挿絵画家の名前はたしか水品紗縒だった。驚く茴に、青年は続けて符牒の確信をくれた。
「すいません、ちょっと人助け、お願いしたいんだ。ギャラリートークの前でそちらが忙しいのわかってるけど」
 アスファルトの県道はいつのまにか黒土の私道に変わっていた。両側には竹藪や柊の雑木が目につく。観光客の視線を意識した表の瀟洒な街並みからさらにひっこんで、ここらは質素なしもたや風景になっていた。こちらのほうがもともとの鹿香村の姿なのだろう。
 片側の石組みのはざまに石蕗の黄色が数輪、つめたくはなやかに咲き伸びている。師走の陽射しはまひるも寂しい。明るい静けさをまとって、石組みのまたひとつ向こうの木戸の前から、うら若い女性が大島紬の裾前を片手に庇いながら、着物になれたきれいな足取りでこちらに駆け寄ってきた。彼女の若さにはやや渋い紬の袂から、伽羅の香の漂いそうな顔をしている

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