さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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ハッシャバイ・オーライ  チェリー・トート・ロード vol9

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   ハッシャバイ・オーライ

 峰元君は機敏に働いてくれた。茴と飯島さんを水品紗縒の家に連れてゆき、故人の娘というひとに二人を委ねてしまうと、
「僕、薬局に行ってリハパンかおむつ買ってきます。駅前のドラッグストアならいろいろあるはずだから」
 くるりと踵を返して、駆け足に今来た道を戻っていった。
 遺作展示に訪れた当人の血縁に助けられる、という偶然のなりゆきに、茴は驚く余裕もなかった。
門のところまで来て、飯島さんはまた立ち止まり、見知らぬ古民家に足を踏み入れるのをいやがったが、重厚な大島をすっきりと襟を抜き、裾短かにきりっと着付けた若い女主人は、いやがる気配をつゆも見せず、飯島さんの手をとってくれた。
「お茶さしあげますから、どうぞ」
「あなた、お召し物が汚れるわ」
「え、そうですね」
 茴が気遣うと、紗縒の娘は端正な横顔にかるく笑みを浮かべ、手は握ったままだが、足元あやうくよろよろしている飯島さんから少し体を離した。いい娘さんだな、と茴は眺めた。過度な善人アクションをしない。峰元君のコットンデニムと彼女の泥染め大島とでは善意の犠牲度がざっくり違う。
 いい紬だ。着丈を短く着付けてもおはしょりの襞がちいさい。ということは彼女に合わせた仕立ではなく、譲られたものか、アンティーク、もしかしたらヴィンテージレベルかもしれない。箱根細工のような細かい亀甲の織模様、こくのある染めの風合いなど、現代の生地とは思えない。和服好きな茴は、こんな非常時でも大島紬の品定めに眼が動いてしまう。ケアワーカーとしてはたいへんよろしくない物欲根性だが、飯島さん本人も、
「いいねえ」
 と涙の後の残る顔に他愛ない笑をひろげて、着物の袂を触った。茴はひやりとする。幸い飯島さんの手は汚れていなかった。
 表玄関からではなく裏口に案内された。昔の農家のようなつくりだ。勝手口からすぐにバスルームに入れるという。
「お風呂お使いになりますか?」
「そんな申し訳ありません。シャワーで大丈夫。でもいいんですか? この方」
 茴は最後まで言いあぐねる。飯島さんの腰から下、そして靴の中まで汚れているだろう。屋内に上がる前に、まず足を拭かなければ。
「あの、ほんとに失礼なんですが、ぼろ布ありますか? 使い捨てできるような」
「雑巾では?」
 落ち着かなければならないのだが、茴は泣き笑いしたい気分だ。若い彼女は失禁した高齢者の下半身を想像できない。足首までぐずぐずした汚物で覆われているかもしれないことを、どうやって婉曲的に伝えたらいいだろう。
「こちらの始末をしたら使いまわしはできないでしょうから。古いタオルのような」
「はい…」
 ダイニングの向こう側の引き戸がからからと開いて見知った顔が現れた。百合原だ。
「あら、茴さん」
 臙脂色のタートルネックのセーターに、きっと自分で染めたに違いない鬱金と藍の片身代わりのトーガを重ねている。サッシュはセーターと同じ臙脂。大きな緑色の天然石をゴールドチェーンと組み合わせたペンダントを下げている。華やかな姿は記憶に残る以前の百合原と寸分違わない。じかに顔を合わせるのは二年ぶりくらいだろうか。
「どうしてここへ、おひさしぶり」
 勝手口に立ったまま途方に暮れた茴と、その横で茫然としている飯島さんを見ると、挨拶の半ばで百合原はすばやく事情を察してくれた。彼女は障がい者支援事業をしている。
「透姫子さん、タオル出して、それからキッチンペーパーでもいいから、どっさりお願い。早くしないとこの方風邪ひいてしまうわ。浴室に暖房つけて」
 てきぱきと追い立てる。百合原香寸と紗縒がどんな関わりだったのかわからないが、香寸は紗縒の娘をすっかり支配している。助かった、と茴は神と聖母に感謝した。今は香寸も紗縒の娘も天使に思える。紗縒の娘はすきこ、というのか。
「着替えがいるでしょう。透姫さん、何かある?」
 いったん消えて、また現われた透姫子は白い割烹着を紬の上に着ている。キッチンペーパーのロールを二巻茴に手渡すと、すっかりこの場を仕切っている百合原に向かって、
「母の寝間着があります。でも下着は」
 茴は慌てて口をはさんだ。
「下着はいりません。さっき峰元君が買いに行ってくださったので」
 
  陽奈と連れだって銀座に出かけた先週の主日に増して、この日曜もめまぐるしく過ぎた。結局水品紗縒の展示も見るどころではなく、飯島さんの体を浄め、彼女をタクシーで「やすらぎ」に連れ帰ったら、短い冬の日中は終わってしまった。
 バスルームで飯島さんのパジャマを脱がせたら、リハパンではなく、普通の下着に厚手の尿取パッドを装着していただけだった。これでは尿が溢れても無理はない。高齢者用のリハパンは高性能で、種類にもよるが、相当な吸水力と、横洩れ防止機能があるはずだった。幸いお尻のほうは、アクシデントに逆上した茴が危惧したほど軟便ではなかったので、ペーパーであらかたを拭き取り、そのあとシャワーで陰部洗浄した。
 普段入浴介助を受けている飯島さんは、脱衣場までくると条件反射的に温和で、自分から上半身の脱衣をしてくれたが、セーターの下にパジャマを着て、その下にさらに薄手のブラウスを重ねていた。長袖の肌着も二枚着ていて、今は真冬であり、本人が痩せ細ってもいるから、ちょっと見には異様な厚着がわからなかった。下半身はパジャマとパンツだけで、靴下も穿いていなかった。
 「やすらぎ」の職員は何をしているのだろう、と茴は降ってわいた事件の疲れも加わって怒りを覚えた。施設では毎朝職員が入居者へ個人対応し、寝間着から普段着への身支度をケアするはずだ。こんな手抜きをして、と茴は母親を任せていることもあり、いやな気持になったが、すぐに、これは飯島さん自身がワーカーの着せたものとは違う衣類を、手当たり次第に着替えてしまったのかもしれないと思い当たった。
衣服の混乱は認知症高齢者にはありがちだった。だが、それにしてもリハパンを穿かせていないのはいかがなものかと思う。飯島さんは日中尿取パットで過ごせるひとではないだろう。
 峰元君と透姫子が用意してくれたあれこれに着替えてバスルームを出ると、百合原だけがほうじ茶を用意して待っていてくれた。
「透姫子さんと峰元君、ギャラリー行ったわ。もう客入れが始まるのよ」
「助かりました。あなたがこちらと昵懇だとは知らなかった」
「水品紗縒の仲間だったの。茴さんのお母様といっしょ」
「母も?」
「知らなかった? 結構仲が良かったんじゃないかしら。鶸さんはファンというよりは紗縒さんの遠くの知人という感じかな。あなたは妃翠房に来たことないわね」
「ええ」
「この家の表半分、ちょっと凝ったショップになってます。今度寄って。あなたの好きそうな骨董あるわ」
「ここが妃翠房なの? 名前だけは知ってます」
「そう、今は紗縒の娘さんが継いで、あたしたちも共同経営してるの」
「骨董って、かんざしや櫛笄もある?」
「ええ。数は多くないけれど、いいものよ」
「覗きたいけれど、別な日に来るわ。娘さんにお礼もしなくちゃいけないし」
 タクシーに乗ってから、茴は「やすらぎ」に電話した。もう三時だった。もっと早く連絡しなければいけなかったのだろう。
座席に座ると、茴は自分の穿いたブルージーンズの膝から下がすっかり湿って冷たくなっているのに気付いた。飯島さんを浄めるとき、裾をまくっていたはずだが、湯気や飛沫を吸ってしまったのか。上に着たアルパカのチュニックはそれほどでもないようだ。それにしても師走の街からいきなりバスルーム、そしてまた外へ、と気温差の激しい出入りで、暖房の効いた車内にいるのにずっと背筋が寒い。
 飯島さんはどうだろう。様子を眺めると、襟元をきっちり合わせたコートとマフラーに埋もれるようにうつむき、眼をつぶってタクシーの揺れに身をまかせている。眠りかけているのかもしれない。彼女が風邪をひかないといいけれど、と茴は心配する。高齢者の風邪はやすやすと肺炎に進行するから。
 「やすらぎ」事務担当者とつながると、聞き覚えのある誰かの、悲鳴のような安堵の声が携帯の小さい送話口から飛んできた。
「よかった、よかった。もう警察に連絡しなくちゃとか、消防がいいかとか、心配どころじゃなく、ああ、ありがとう」
 三藤町の施設事務室の電話口にかじりついている職員の取り乱した姿が目に浮かんだ。
「いつ飯島さんいなくなったんですか?」
「昼ご飯の前よ。風邪気味でお昼欲しくないって駄々こねて、ワーカーが勧めても拒否して自室にひっこんじゃったの。こっちも忙しいでしょ。日曜は〈いっぽ〉の介助ワーカーも来ないから、下の事務も総出でフロアに入るじゃない。みんなてっきり飯島さんお部屋にいると思ってたのよ」
「それじゃ、飯島さんタクシーで鹿香まで来たんでしょうか?」
「でしょうねえ。通院で鹿香にいつも行く医院があるでしょ。そのとき介助ワーカーがタクシーの運転手に話すことを聴いてて覚えてたんじゃない。お財布だけはいつも肌身離さず持ち歩くひとだから、お金もちゃんと払ったんでしょ」
 事務担当ワーカーの声にも安堵のうちに疲労が滲んでいた。「やすらぎ」の食事時は、介助ワーカーにとって分刻みの戦争だ。自立して食事がとれない入居者が、各フロア五人はいる。週日なら茴の属する〈いっぽ〉など外部の介護士がヘルプで入るが、日曜はそれがない。
 食事介助ヘルプは、往復の通勤時間がかかるのに時給対象になる仕事時間は短く、非営利を標榜する福祉コミュでもワーカーの好まない仕事のひとつだった。ことに日曜となれば、夫や家族の世話のために主婦は家にいなければならない。
 平日より少ない人手で、施設ワーカーたちは各フロア十人の入居者について、食事開始前のトイレ誘導から始まり、ひとりひとりの食前食後の服薬管理、厨房からワゴンで人数分送られてくる食事の盛り付け、配膳、中で食事拒否する入居者がいれば、そのひとが食べ始めるまで、あの手この手で食べることを勧めなければならない。
 摂食拒否は体調からというよりも、やはり認知症高齢者の食欲中枢の狂いから起こることが多いようだった。でなければ、わざとワーカーを困らせて、自分に関心を引き寄せたがる心理かもしれない。
 そして後片付け。食器洗い、お茶出し。この他にも嚥下障害のあるひとにはとろみをつけたスープ、お茶を準備する。
 「やすらぎ」のフロア日勤職員は、原則一人でこのすべてをこなさなければならないのだった。茴は毎週水曜日に鶸のために昼から夕方まで「やすらぎ」に詰めるので、およその事情を知っていた。つくづく「やすらぎ」の職員はよく働くと感心する。入居者の一人が食事拒否などして騒ぎ始めたときに、別な誰かがトイレへ行きたがる、そして対応するフロアワーカーは一人、という事態が頻繁に起こっていた。
 ワーカーはアクシデントに優先順位をつけて、手際よくさばいてゆく。しかし不手際があってもおかしくない坩堝の時間だ。そして坩堝は大小とりまぜたくさんあるのだった。

 騒動の疲労は翌日も茴の中に溜まって抜けなかった。今年は第四主日の翌日の月曜がイヴ、続いて降誕祭というあわただしい暦になっていた。
 イヴが櫂の命日に当たるので、夫の死以来、心重い季節になっている。それでも去年はイヴも降誕祭もちゃんとミサにあずかった。ホスチアをいただいたからといって、櫂への哀惜がやわらぐということは正直全くなかったが、いっさいを主の御旨に委ねる、という諦念に似た静けさは与えられた。自分がいったいどんな罪を犯して突然夫を奪われたのか、と神に訴えた時間もあった。それは長い時間だった。
 三年過ぎて、自分に形見として残された娘が成人するという今年に入ってから、櫂の死、ではなく櫂の不在あるいは非在が、記憶と感覚のなかでぎざぎざした刺を失い、角をまるめ、あたかもリビングにいつのまにか備え付けられた小さい家具のように、茴の心のなかで眼立たない一部となって日常に同化してきた。歌人の大西民子だったろうか、夫と別れた後の空白を、象徴的に「椅子」に象って歌ったのは。
 椅子、なるほど生きていたころの櫂は座り心地のよい大きな椅子ではあった。そして今、茴がときどき心の中で腰をおろす思い出の椅子は、踏み台くらいの小さな木の丸椅子で、長く座り続けることはできなかった。
 悪寒をがまんしながら月曜午後の松井須磨子さんのケアを済ませたあと、自宅に戻って熱を測ったら三十七度七分ある。好都合なことに、明日火曜日の湯浅徳蔵さんは、首の腫瘍の検査入院で、ケアキャンセルになっていた。降誕祭には出席しよう、と今夜のミサは休むことにした。そうでなくとも、荘厳なミサの最中、突然櫂の急死の衝撃があたかもトラウマ記憶のフラッシュバックのように襲ってきて、ベールを被り祭壇の前にこうべを垂れても、この晩の祈りは到底心安らかとは言えなかった。
 飯島さんは大丈夫かしら、と茴は寝床で昨日の騒動を思い返した。自分が責任を負わねばならないアクシデントではないから心配することは少なかったが、認知症高齢者の失認と失行をありのままに受け止めると、かつての鶸との葛藤がよみがえってきて、これは喜怒哀楽よりもずっと乾いた、人間の終末を眺める寂しい景色で心を流れた。この穏やかな風化も、鶸の安定と施設入居によって確保できた距離のおかげだ。
 夫の命日だからというわけではなく、微熱に浮かされた体が中途半端に苦しく、茴は自分の衣装箪笥の一番下の抽斗から、櫂の遺品をいくつか取り出して、寝床の中に持って行った。匂いが残っている。性を忘れたわけではないが、女とは不自由なものだ。少なくとも、主婦の日常をだいじにしたい平凡な女にとって、肉体の渇きは、それが道徳的法律的に正当な欲求であっても、たやすく満たされるわけではない。
(陽奈がいる)
 陽奈の敵意をおそれてはいない。だが、七歳から愛情を注いで、我ながら上出来に育てたと眺める娘の視線に、うすぐらいものを見るのは、同居しているうちは耐えられないだろう。それなら、下手でもチェロのアルペジオに苦闘しているほうがいい。性欲はときにエキセントリックなアレグロ・アパッショナートのように襲ってくる。風邪の高熱とどっちがましだろう? 衝迫をあやす自分の弓使いは。
 掛け布団にすっぽり頭まで埋めて猫のようにまるまっているうちに、緩い睡魔が来てくれた。魔というほど強くないから眠りの精が訪れて、茴のでたらめなボーイングをなだめてくれたようだ。体の節々の痛みをいつしか忘れ、滅多にないことだが櫂の思い出がそのまま夢につながった。命日なのに、茴は花も用意しなかった。妻のつれなさをなじって櫂が冥土から戻ってきたのだろうか。
「茴ちゃん、大丈夫?」
 覚めたくない夢ほど途中で終わってしまう。寝顔をぽちゃぽちゃした手で触られて眼を開けると、毛糸の帽子を被ったままの陽奈がベッドの真上から自分を覗き込んでいる。天地逆さになった義理の娘の顔が、今まで自分の傍に…夢で…いた櫂に酷似していることに茴は驚いた。それほど似通っているとはふだん感じられなかったのに。
「熱っぽいね」
 陽奈は手のひらをぴったりと茴の額に押しつけて目をくりくりとさせた。少し笑っている。寝込んでいる母親を心配している顔ではなかった。きっと茴の寝顔はそんなにやつれていなかったのだろう。いつからわたしを見ていたのかしら、と茴は陽奈の目を覗いた。もうじき二十歳になる娘の目は澄みきって、茴の羞恥心を測る屈折は見えない。
「微熱よ。喉乾いた。ポットからお茶か…」
「葛湯作ってあげようか」
「できるの?」
「幸府のおばちゃんが葛湯セットくれたでしょ」
「ああ、それでいいわ」
 幸府市には鶸の実家がある。故郷に鶸の兄と姉は健在で、今も夏と秋にはその地方名産の桃と葡萄が兄姉どちらかから送られてくる。箱の中には果物以外にも必ず地元のお菓子や山菜などが入っていた。
「晩御飯はどうしましょうか」
 尋ねる茴の声はキッチンに入ってしまった陽奈には聞えなかったようだ。代わりに、開けっ放しの寝室の入口からカイトがぬっと現われた。むくむくした首の回りの毛並が暖房の風にふくらんでたてがみのように見えなくもない。もともとライオン顔だから、正面から見るなら百獣の王だ。けれどもぴんとたって柔毛がそよぐ二本の兎耳は、王者にしてはどうしようもなく可愛らしかった。
「あんた、いたの」
 茴は上半身を起こした。夕方戻ったときにはいなかった。体と頭が重い茴は、カイトのために、袋売りのアンパンをどさっと大皿に積み、それといっしょにボンレスハムのブロックをまるごとひとつ開封しておいた。神出鬼没のカイトが視野に見えても見えなくても、茴も陽奈も気にしなかった。世話も手間もかからない大きな愛玩動物だった。茴が寝ているときにカイトはどこからか戻ってきたのだろう。
 おいで、と手招きするとカイトは嬉しそうに目をほそめてベッドに両前足をかけ、ぐいぐいと茴を壁に押しつけるように大きな頭で甘えてきた。ふさふさした首回りの手触りはやはり兎の毛のように柔らかかったが、顔のほうでは短い剛毛に変わっている。金褐色に黒い楕円の縦筋の入った両眼だけが、おおらかな顔のなかで酷薄な印象だった。
「鳴かないね、おまえ」
 うん、とカイトは茴の手を舐めた。濡れたサンドペーパーみたいにざらざらした触感だった。カイトの舌は茴の手よりも大きい。この口腔にひきずりこまれた死霊を見たことこそ夢の出来事のようだった。
 ひょい、とカイトはベッドに飛び乗った。茴の伸ばした足の上にどっしりと腰を据え、両前足はひろげて茴を自分の体の下に抱え込む姿勢をとった。金と黒の山羊の目が、今は茴の顔を斜め上から見つめている。カイトの口が半開きになった。
このけものの匂いをどう形容したらよいのだろう。動物は食べたものの匂いを放つ。カイトに茴が食べさせているものはこどもだましの菓子パンやハムだが、本当のところカイトが栄養を摂っているのは横死した人間の魂、ということらしい。それなら、この酵母のような、あるいは蒸れた干し草のような香ばしさは、人魂のものということだろうか。
 茴に覆いかぶさる金褐色のカイトは温かく、餓鬼とはいえ墓場の陰惨な景色は少しも連想されない。匂いは心地よく、けものらしく熱っぽいが植物質とも思える。人体を離れた霊魂は進化の過程を遡り、植物の静けさに還るのかもしれない。
カイトは雄だろうか。厚ぼったい腹の紺青の毛波はところどころ毛先が光って、その光沢はまるで螺旋の銀河、巻貝の渦のように見える。
ふわっ、とカイトは大口を開けた。茴は両肘をベッドについて、けものを見上げ、
「おまえの重さは、夢の重さ?」
 くずゆできたよっと勢いよく陽奈が入ってきた。ミッフィーとハローキティのマグ。ミッフィーが茴だ。
「あ、こら、カイトはあ、茴ちゃんを喰おうとしてる。あんたはアンパン食べてなさい」
 葛湯を載せたトレンチをサイドテーブルに置いて、陽奈はぱしんとカイトの頭の後ろを叩いた。カイトは眉間に皺を寄せたが、反抗して吠えるでもなく足音をたてずにベッドから飛び降りた。その跳躍は猫のようにしなやかだった。
「夢を見たのよ」
 カイトは陽奈と茴の間にうずくまった。ぺろりと舌を出して自分の鼻の頭を舐めている。
「どんな夢?」
「櫂さんが出てきた」
「今日命日だもん。すごい。やっぱパパ寂しくって成仏できないんだよ。あたしね、パパに上げようと思ってお酒買ってきたんだ」
 リビングの食器棚と本棚の間に、小さな祭壇を設けていた。十字架、イエズスの画像、白い陶器の聖母子、そこに櫂の遺影もある。
 茴は櫂のために毎朝故人の愛用のティーカップに紅茶を上げていたが、娘は飲兵衛だった父親の好みを承知して、毎年酒壜を買ってきた。日本酒の年もあり、ワインの年もある。
「何を買ってきたの?」
「ヘネシー」
「うわ、高かったでしょ」
「だってどうせ一年かけて二人で飲むじゃない。紅茶に入れたらおいしいよ」
 けろりと陽奈は言う。それもそうだ。毎朝櫂に上げるダージリンに垂らせば、彼も文句はないだろう。
「えらいなあ。あたし今年も何もしてない」
「茴ちゃんまだそんな余裕ないよね。そういう顔してる」
 まだ帽子を被ったままの陽奈は葛湯を啜りこんで言った。茴は驚き、
「どんな顔?」
「うーん。深刻っていうか、でもへらへらしてるんだけど、つまり、普段の顔の向こうにもうひとつ悲しそうな顔が見える」
「うまいこと言うわね。お母さんに褒めてもらえるよ」
「ママの小説の受け売りじゃないよ。ママはそういうの書かないじゃない?」
「あはは」
 軽く笑ったが、娘の洞察と表現の鋭さに舌を巻く。少女のアンテナは敏感だ。悲しい、か。でも。
「あたしは、まだ実感できないのよ。櫂さんがいないってことがね。それが情けない。自分の中で対象化されないでいる。宙ぶらりん」
「だから命日に動けないんだよ」
 ずずず、と陽奈は音をたてて葛湯を啜り、あっけらかんとしめくくった。
「茴ちゃん、そういうのやっぱ未練だって」
「あ、そう」
 ここは陽奈の結論に同意しておこう。フリーズドライに固めた感情の塊が茴の内部で、ことん、と揺れる。残り少なくなったお菓子の箱を揺するように、夢が覚めたあとの今寂しい。
 茴は話をもとに戻した。
「それでね、目が覚めたらあなたが見えて驚いた」
「あたし? なんで」
「あなたたち親子がこんなに似てるなんて初めて気づいたの」
「え、そう?」
 陽奈は茴の鏡台を覗いてはにかんだ顔をした。
「あんまり似てないと思う、あ、でも部分似てるかも」
「絵をひっくり返すと、正位置では見えない要点がちゃんと見えるでしょ。さっきそうだった。あたしも陽奈がこんなに面変わりしたのに気が付かなかったのよ。やっぱり成人するんだなあって、しみじみ」
「風邪っぴきのときにしみじみしないで」
「まあね」
「小さいころのあたしの顔のほうがよかったってこと?」
 陽奈は不満そうに口を尖らせた。
「そうじゃないの。まあね、あんたはアイドル顔で可愛いわよ。それは櫂さんとは違う。あたしが育てたんですもの」
「ナニそれ」
「育て方で顔は、ていうか印象は変わるのよ。つまりデッサンが同じでも置いてゆく色彩と絵筆のタッチが変われば、まったく違うものになる」
「うん」
「あたし、やっぱりあなたの育て方間違ってなかったって、さっき思ったの」
「ナニそれ」
 今度は陽奈は嬉しそうだった。茴の言葉は半分真実、半分嘘だった。嘘の半分は、陽奈の目を逸らせるために言った。布団のなかにはまだ櫂の遺品がある。陽奈は気付かない。気付いていないだろうが、この娘は処女であっても女なのだった。
分母を等しくする加減乗除の計算心理の気恥ずかしさが饒舌を呼ぶ。夫の夢を見たなどと、最初から話さなければよかったのだろう、だがそれでは心を包む表情の折り目からきっとこぼれてしまうものがある。
「陽奈、あなたボーイフレンドとかいないの」
「ギャー、茴ちゃん熱あるよ。そういう質問初めて聞いた」
「そうだっけ」
「うん。どうして? 気になる?」
「二十歳だもんね。もう」
「そういう問題かな。年齢って関係ないよ。あたし、ユニコーンとお友達」
「ふうん」
「ユニコーンなんて空想の動物だと思ってたけど、カイトが出てきたから、もしかしたら実在するのかもって」
「そうね、いるかもね。明日クリスマス、じゃあ先約はなし?」
「例年どおりフリー、アルコールフリーplusシュガーレス。糖質ゼロ。健全すぎ。あ、もしかしてこのほうが不健康?」
「どっちでもいいわよ。病気でなければ。約束ないのなら、観光気分でいいからいっしょにミサに行こうよ。その前にあなたに成人式とクリスマスのプレゼント買ってあげる」

 花飾りなどは縮緬の細工物で、色の褪めたアンティークよりは新作のほうが人生の門出にはふさわしいだろう。
 妃翠房の品揃えは現代作家のジュエリーとアンティークが半々、という印象だった。作家作品は手に取りやすい棚にはだかで並び、高価な時代物は鍵つきのガラスケースの中にある。ケースの中身は和の装飾品がほとんどだが、西洋のアクセサリーも少しあった。
「先日はお世話になりまして」
 まず茴はお礼を述べて、若い女主人の透姫子に菓子折りを渡した。古風な大島がよく似合った透姫子は、今日はピンクのプルオーヴァーに銀色のスパッツを穿いている。何気ないシンプルが舞台衣装のように見えるのは彼女の膝とふくらはぎがすんなりときれいだからだろう、と茴は好ましく眺めた。透姫子さんの恋人ってどんな感じなんだろう。こないだの峰元くんかな、彼も好青年だったけど。
「途中で消えてしまってすみません。百合原さんがいてくれたから大丈夫と思って」
「ええ、もちろん。出番ですから。わたしもあなたのトーク聞きたかったのに。ギャラリーにはこのあと参ります」
 ありがとうございます、と透姫子は営業用スマイルで返した。陽奈は眼をぱちぱちさせて女主人を見ている。店内には透姫子の他に店番はいない。有線放送かラジオからか、オルゴールのクリスマスメドレーが小さく鳴っている。客は観光客らしい二十代のカップルがふたり、棚のビーズアクセサリーの前で、たぶん男の子が女の子に贈るプレゼントの品定めをしている。
「どれがいい?」
 ガラスケースの前で、茴は一応陽奈に尋ねてはみたが、応えを期待してはいなかった。和服を着るのもほぼ初めてという陽奈に、時代物の櫛かんざしのよしあしがわかるはずがない。また茴はこの買い物は自分の好みで選ぼうと最初から腹を括っていた。安いものではないのだし、いつかは手放さなければならない陽奈に、ある意味で感謝のしるしとして贈る。
 夫は突然死んだ。何の前ぶれもなく。そしてこの業界にしてはゆるい職場とはいえ、いのちの終末を見守る介護現場で働き、いくたりかの死を見届けてきた茴は、四十代という、二十世紀のサガンならずとも、古典の世界ならば「媼」「姥」という世代に入って、自分もまたいつ天に召されるかわからない、という感覚を大切なものにしていた。
 二十代初めのころ、ふと思い立って古語辞書をひきながらぼつぼつと読みふけった源氏物語から、相手に櫛を贈ることは、そのひととの「別れ」の意味を含むと知った。それは時の帝が伊勢の斎宮に冊立される皇女の髪に挿す「別れの小櫛」の儀式によるのだが、フォークロアを昇華させた宮廷儀式には必ず深層心理の裏打ちがある。
考えてみれば七歳から手元に置いた娘に対して、可愛がりながらも茴はいつも少しづつ隙間をおこうと努めてきたようだ。きっと母娘というよりは、友人に対する節度を、陽奈について守ろうとしたのだろう。寂しくなく、また息苦しさのない距離。
 これがうまくいったのは茴よりも陽奈のほうが本能的にかしこかったせいだ。
「着物が赤いから、どうしようかなあ」
 陽奈は開けてもらったガラスケースの中におそるおそる手を入れる。彼女が最初に取ったのは黒い蒔絵櫛だった。朱漆と金で杜若と流水、橋桁が描かれている。伊勢物語の八橋を意匠にしたものだろう。なるほど、赤、黒、金の組み合わせは迫力があってよく似合う。
「髪に挿すんだから、衣装の色はあんまり考えなくていいのよ。悪くないのを選んだね」
 透姫子は茴の無遠慮な感想を遠聞きにして笑ったようだった。妃翠房に悪いものはございません、と言いたげな微笑でこちらを眺めている。
「あたしはこれをあなたに贈りたいけれど」
 茴は水色のサテンを張った箱からひらりと一枚を掬った。この櫛一枚と振袖に締める西陣の全通袋帯と値段がほぼ等しい。それくらいいいではないか。着物一式揃える出費がないのだから。
 扇流し文様螺鈿櫛。黒漆の地に螺鈿の扇流水が虹を浮かべて典雅だった。二枚中啓に開いた扇面の模様は片方が桜、もう一枚は秋の菊。春秋の華をかざして末広がりを祝う。これなら陽奈がやがて白髪になっても似合う。また洋装にもひきたつだろう。陽奈はうわずった声で、ぼそっと言った。
「渋いね」
「いや?」
「いやじゃないけど、いいの?」
 陽奈の頬が上気している。この子がこれまでにもらったプレゼントの中で一番高価だ。
茴は自分の成人式のころを思い出した。母があちこちの着物のカタログを取り寄せて何か言っていた。自分はいい加減に聞き流し、写真を見せられてもはかばかしい返事をしなかった。娘が何を言おうと、鶸は自分の買いたいものを選ぶとわかっていたせいもあったが、あのころの自分に帯と着物の値段を気に掛ける配慮があったろうか。妹に至っては、振袖よりも海外旅行のほうがいいと宣言したくらいだった。
 茴は陽奈が最初に選んだ黒と金の櫛を見て言った。
「杜若もいいけれど、伊勢物語の別離を暗示するようでちょっとね。扇は吉祥だし、あなたにとっては最初の櫛だから」
「あたしわかんない。いせ?」
「からころもきつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞおもふ。夫婦離別の逸話よ」
 古典和歌をよどみなく暗誦する茴を見る陽奈の眼に畏怖が混じる。これも距離だ。
これでいい、と茴は思う。この子をちょっとずつ心から離してゆこう。鶸のように知性では自立を言挙げしながら、情緒で娘を締め付ける女になりたくない。
「これに決めた」
 茴はこちらを見ている透姫子に決定の視線を送った。
陽奈は感動した口調で呟いた。
「きっとこの櫛が最初で最後の櫛かも」
「そうね…。指輪やネックレスとは違うから。まあ、ままははとしては、おばあさんになっても白髪になっても日本の女なら
髪をだいじにしなさいっておせっかい」

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