さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

スポンサーサイト

Posted by 水市夢の on

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

タマゴ・ダンディ  チェリー・トート・ロードvol10

Posted by 水市夢の on   1 comments   0 trackback

タマゴ・ダンディ

「それは大きな間違いよ」
「間違い?」
「そう、勘違いと言ったほうがいいかも」
 亜咲は両耳の大きなゴールドのイヤリングを揺すって豪快に笑った。イヤリングではなくてピアスだ。プリミティブでシンプルな正円のリングが彼女のふっくらした耳たぶをちょうどよい具合に貫いて、リングのぶらさがる重心の真ん中にサファイア色の大粒のビーズがきらめいている。ビーズは今彼女が来ている長いガウンと同じ色だ。ガウンの下は白いレース地のワンピース一枚。こんな薄着でも汗ばむほど部屋の暖房が利いている。
 東洋人の女性にしてはややきつく見える輪郭で、顎と頬のほそい彼女には、直径十センチくらいのヴォリュームのあるゴールドリングは細面の顔の周囲に、亜咲を華やかに見せる空間を補ってとてもよく似合う。いつものように口紅のラインをきっちりと曳き、シャドウもチークも丁寧に塗っている。気の置けない女友達ひとりを相手にするためなら、もっとくだけた顔でもいいのではないか、と茴は眺めたが、これは化粧を好まない自分のための弁解がましい感想だった。
 もうじき除夜の鐘が鳴り始める。得鳥羽島の亜咲のマンションからは、橋を渡った本土の龍光寺の鐘が聞えるはずだ。茴は大晦日の夕方から亜咲の招きに応じて泊まり込んでいる。陽奈は大学の友達と蔵王にスキーに行ってしまった。
「あなたみたいに真向勝負カラタケ割りの文学少女だと、まんまと真に受けちゃうんでしょうけれどね、ポールは全然自分のことおばあさんなんて思ってないわよ、だから言えるのよ、そういう自分にとって残酷な台詞」
 亜咲はワイングラスの茎を親指と一指し指できれいにつまんで、くいっと傾けた。酒が強い割にはすぐに顔が赤くなる。ボルドーの赤葡萄酒は茴が持ってきたものだが、半分くらい飲んでしまった。この赤の前にすでにフルボトルの白を空けている。茴はうわばみのお相伴といった感じで、グラスの縁を舐めるようによちよちと亜咲についていく。全然飲まないのもつまらない。
「残酷、そうよね。おばあさんって、きびしい自覚よ」
「だから自覚してないから言うの。ほんとに自分の衰えを自覚してたら絶対言わないわ。ポールはまだ自分の容色に自信があったの」
「自覚じゃなくて自信?」
 無意味な語呂合わせが茴の口から酔いといっしょにこぼれ出た。茴の酒量の限度は日本酒なら二合、ワインならグラス二杯というところか。白を一杯開けた。この赤ワインも自分の好みで甘口を買ってきたから、用心して飲まないと元日早々宿酔で苦しむことになる。
「自分自身を叩くのは、叩いても凹まないキャパがあるからできるの。だからフランソワ―ズの本音は四十歳でもまだまだって」
「ポールよ」
「サガンのヒロインはみんなサガンよ」
 あっさり決めつけて亜咲はソファに上半身を反り返らせ、ワンピースの裾を大きくはだけて膝を組んだ。その下はちゃんと黒いタイツを穿いている。亜咲は茴に尋ねた。
「だってあなた、自分のことバアサンだってほんとに今思える? 思ってないわよ、その顔じゃあ。あたしだって思えない」
「おばさんだとは思ってるかも」
「あたしそれもいやね。お姉さんか先生で通す。おばさんなんて誰にも呼ばせない」
「ばあちゃんじょうちゃん」
「よく覚えてるわね千尋の口癖。いいわよそれで。いい子ぶって、あたしはもう女ではございません、非戦闘員ですからよしなに、なんて冗談じゃない」
「非戦闘員?」
「そうよ。女であること、男であること、つまり性的であることというのは徹底的にハンターであるってことじゃない? おばんはプレデターとは言えないもん」
「亜咲、だんだん呂律が」
「明日は極楽寝正月よ、あ、鐘が鳴るわ」
 ふふふ、と亜咲は片手を青いガウンの合わせ目から胸に差し込み、汗を確かめるような、あるいは自分の肉体のありかをさぐるような仕草をしながら含み笑いした。
 それからまたさっと顔をあげると、
「茴は品行方正に福祉やって、これからどうするの」
「方正じゃないわよ、別に」
 酔うほどに口調がぞんざいになってゆく亜咲を、茴はいい気分で眺めた。酒量がこなせない茴は、へべれけに酔うという楽しさがわからない。だが相方の亜咲が酔うと、その乱れに自分も同化できる気がするのだった。
「でも、ひとりなんでしょ」
 夜気を動かして除夜が始まった。海風の向きによって響き方が違うというが、今夜はセロニアス・モンクのピアノを流していても、はっきりと煩悩失滅の鐘が聴き取れる。
「気になる? あなたこそ。シャトーは誰と乗るのよ」
「えへへ、豹河と。嘘よ。今のところソロ。アカンパニュマンなし」
「ナビゲーターは」
 茴の私生活の詮索よりも、亜咲は自分のことを話すほうがうれしいのだった。顔の表情をぱっと拡げると、
「ナビはね、それなら掃いて捨てるほどいるわ。あんなものは機械的だから」
 これを聞いて茴はちょっと黙った。虚栄の声ではなさそうだった。機械的…亜咲らしい攻撃的な言い方だ。
自分もワイングラスを傾け、口の中で液体をころがしてからこくんと飲み下し、茴は奢る亜咲を言葉で軽く刺した。
「非戦闘員のほうが確かに楽ね。機械にならなくてすむもん」
 亜咲は一瞬きりっと眉を吊り上げたが、茴の目が笑っているので、すぐさま癇を抑え、茴の皮肉と同じ程度のユーモアを投げ返した
「わかったわ、茴、あなたってやっぱり被略奪願望のまんま、あなたもばあちゃんじょうちゃんなんだわ」
 そう、と茴は臆せず頷いた。除夜の鐘はいくつ鳴ったろう。煩悩はちっとも減らず、あたしたちは本能の探り合いで年越し。
亜咲は畳みかけた。
「ポールは土俵を降りるふりをしたのよ。自分はおばあさんだなんてシモンに言うのは。だけど嘘。すぐに次の戦場に出ていくわ」
「そしてロジェも彼女以外の若い愛人を離さない。年をとるって、エイジレス志向の現代人には自然にできないことになっちゃった」
「ええ、年齢を重ねるというメイクはするけれど。でも化粧しない素顔をさらすよりはメイクした自分のほうがあたしは好き」

 ほのぐらい部屋の、何も敷いていない床上に女性が仰向けに寝ていた。灰色の短い髪にはきれいにパーマがかかっている。着衣は病院の入院患者が着るような白い前開きの寝間着だった。
 茴は室外に立っていて、開いたドアの外から眺めている。茴の位置からは女性の全身は見えず、床に倒れた上半身だけが見えた。うすら寒い蛍光灯の光は、心臓麻痺で倒れた櫂が直行した地下室に似ている。櫂はパイプベッドに寝かされていたが、老女は無造作に地べたに投げ出された感じだった。
(誰だろう? 知っているひとかな?)
 茴は老女の顔を確かめたかったが、その場に立ちすくんだまま足が動かない。青黒く痩せた顔は、茴の視点からは細かい面相の判断がしにくかったが、鶸ではない。施設に入った今でも鶸は、毎月一回美容室に通い、髪をセットし、きれいな茶色に染めている。
(誰かいないの? こんな冷たいフロアに寝間着一枚で寝ていたら風邪ひいちゃう)
 でなければ死体なのだろうか。
 そう思ったとき、ううん、と老女は唸って顔を横に向けた。苦悶の縦皺が眉間にくっきりと刻まれている。真上からの平板な蛍光照明は、横向きになると急に顔の陰影を深くし、老女の腱の浮き上がった首筋のやつれや、はだけた寝間着の胸元から肉の落ちた胸の肋骨の起伏が険しく覗かれた。
(ああ、かわいそうに、毛布でもかけてあげなくちゃ)
 だが茴は棒のようにつったったままだ。開いたドアの向こうが見えているのに、茴はそこへ入ってゆけない。部屋の中は明るく、茴の居る外側の場所は闇ではないにせよ、ぼんやりとした暗さに覆われていた。
 室内の白っぽい床を踏んで、のっそりとカイトが茴の視野の中に現れた。カイトはもとからそちらにいたようだ。カイトは茴のほうを一瞥し、睫毛の濃い両眼をほそめ、人間のする冷笑のように広い口角を吊りあげた。
「やめなさい」
 カイトが何をするのかわからなかったが、茴は声をあげた。動けないのに声は出る。カイトはぶるるっと黒い鼻を馬のように震わせ茴の制止を無視するように横を向いた。そのまま老女の上に顎を寄せる。
「だめよ」
 喰い始めるのではないか、と茴は全身が冷たくなったが、カイトは片方の前足を老女の胸に乗せ、ぐいっと手前に引き寄せた。その仕草を繰り返す。
前足で寝間着を引き剥がすと見えて、そうではなく、寝そべった体はカイトのひっかく動作につれて、ゆらゆらぐらぐらとこまかく痙攣し、どこかでカイトの前足の爪は老女の皮膚に程よく食い入り、びりびりと薄皮を剥ぐように、上半身全部が剥け始めた。
 剥ける、という言い方はおかしいかもしれない。皮膚を剥ぐのではなく、半透明な老女の被膜がカイトの爪で引き裂かれる。パーマをかけた白髪の頭から首、寝間着ごとまず上半身が、そしてきっと下半身まで、果物の皮を剥がすようにずるりと本体から分かれてゆく。カイトはときどき牙や顎で剥がしにくいところを喰い破り、そうすると人体の生皮が剥がれるウェットな音とは違う希薄であやふやな剥離の音が、凝視している茴の耳にまで聞こえるのだった。
 剥がれた被膜の下にはもう一体の老婦人が変わらずに残っていた。前と同じ寝間着をちゃんと着ている。そして血は一滴も出ていない。冷たい床にあおむけになり、しらじらとした蛍光灯に照らされた老女は、落ち窪んだ眼窩とこけた頬、半開きの口のそれぞれにぱっくりと濃い影を満たし、はだけた胸元から除くあばらの畝もそのままだった。
「あんた、いったい何をしたの」
 怒鳴ろうとした茴は前に倒れた。まるで自分の怒りに後ろから突きとばされたように転んだ。床に手をついた感覚があるのに闇に覆われて茴自身の手も膝も見えない。そうか、と茴は今の事態がわかった。あたし肉体がないんだわ、あたし声だけなんだ。それじゃ彼女の傍にだって行けるはずよ。
 そう思ったとたん、茴は老女の横にいた。視線はしゃがんだ位置にある。血の気のない荒れた肌が洗いざらした古い布のよう。だれ、このひと、知らない、こんなおばあさん。 
 カイトがやってきた。ぐふふ、と唸り、たった今自分が掻き集めた老女の被膜を両前足の間に抱えこんでいる。
「おまえ、それを食べるの?」
 がっ、とカイトは赤い口腔を開いた。肉食獣の鋭い牙の列が蛍光灯の光を弾き返してぎらぎらと光る。
「森さん、あたしゃ鬱陶しくってならないよ。あんたにはまたお世話になるねえ」
 カイトの喉から聞こえる声の芯はしっかりと明朗だった。鬱陶しい、と放り出された自分の状態にうんざりしながら、茴の驚きを面白がっている。篠崎月さんの声だ。

 元日はそのまま得鳥羽島の亜咲の許で過ごし、二日には妹の毬が桜沢にやってきた。毬は茴とは三つ違いで今年は三十八歳になる。六月生まれの双子座。大学を中退して劇団に走り、器量がよく、きれいな声で上手に歌もうたえたので、ちいさな成功をいくつかおさめ、三十まで芸能界の外堀を泳いだあと、おだやかに釣り上げられた。釣った男は彼女の学生時代の友人で、地方公務員をしている。
 道を歩いているとみんなあたしのこと振り返るの、と無邪気に嬉しがっていた少女時代と、四捨五入すれば四十歳の大台に上る今と、ほとんど顔立ちも人相も変わらない。昔から茴とは双子のように似ていると言われたが、引退して気楽な主婦生活に入ってから、毬はのんびりと太ったようだ。それも容貌を損なう中年太りではないので、茴は夫婦の仲がよいのだろうと、派手好みだった妹のまるい変化を眺めていた。
 二日の昼過ぎ、ピンクの取っ手のついたコーチのトートバッグを抱え、フェイクファーの襟の白いダッフルコートを着た毬がやってきた。玄関先で妹を迎えたとき、茴は一瞬蔵王から陽奈が戻ってきたのかと錯覚してしまった。衣装や持ち物のの好みが二人ともよく似ている。
「混んだ?」
「そうでもない。鹿香通過で王船からでしょ。初詣の観光客はあっちで降りるし、モノレールはまあ、普通程度のラッシュ」
 茴と毬が育った実家は鶸の施設入所のときに整理して、茴の判断で貸家にしていた。その家賃が現在の鶸の施設入居費用の大部分になっている。今では毬の戻る故郷は姉のところしかない。そう思うと茴は妹に対してすまない気持ちになる。家を始末するとき妹は文句ひとつ言わなかったが、姉妹にとってなつかしい道具類のおおかたを勝手に処分してしまったのはすまないと茴は自責している。
「志方さんご実家?」
 結婚後の毬の姓だ。毬は頷き、
「直之は今日まであちら。明日戻ってくる」
「毬ちゃん行かなくてよかったの?」
「もちろん行きました。二十九日から昨日まで高知。一日に飛行機で戻って来たんだからママに褒めてもらえる。褒めてくれなくてもいいけど」
 コーラルピンクのルージュを塗った唇の上下をきれいな船型に開いて笑った。お昼ごはん買ってきた、と言って毬はデパートの包み紙をばりばりとひらいた。パーティーメニューのような各種オードブル盛り合わせだ。茴は軽い白味噌仕立のお雑煮など用意していたのだが、自分ひとりの正月にお節の重箱などは調えなかったので、毬の買い物はちょうどよかった。
「ありがとう」
「よしてよ。お姉ちゃんどうしてた?」
「いつも通りよ。でもないか。昨日おととい千尋さんのところでうだうだ」
「亜咲さん? まだ独身貴族なの」
「もちろん。変わらないわよ。毬ちゃん来るって言ったら連れてこいだって」
「会いたいけど時間ないな。明日の昼はママのお相手でしょ。夕方からちょっと会いたい友達とかいるし」
「そう。で、そのまま帰る? 陽奈とすれ違いになるわね。あの子は明日の晩には戻ってくるの」
「ああ、残念。きれいになったでしょ。何年ぶりかなあ。二年ぶり? 今年成人式」
「そう。あたしの振袖あげるの」
「気前いいわね、お姉ちゃん。これから先自分の子供が女の子だったらどうするの」
 え、と茴は毬の顔をしっかりと見た。さらりとすごいことを言う、と妹の感情を測ったが、毬はさばさばした他意のない口調で続けた。
「直ちゃんとときどき話してるのよ。お姉ちゃん、ずっと一人なのかなって。亜咲さんとは性格違うしね。まだ若いんだから」
「そういう言い方、もろおばさんぽい」
「そう? だってずっと一人ってわけに行かないでしょ」
 よく言うよ、と茴は呆れて毬を眺めた。耳元までウエーブをかけた髪にビーズのカチューシャを挿している。見た目二十代を固守してしっかり女優肌キープ。胸も腰もゆったりとまるい彼女に旦那さんはうれしいだろうが、妻の姉の心配をするよりは自分たちの子孫繁栄に励めと勧めたい。
「お雑煮、伸びるわよ」
 面倒な時には話を逸らすにかぎる。毬は食道楽だ。茴と同じで小料理上手だった。お雑煮は関東風ではなく白味噌と湯葉、ささみ、椎茸、百合根などで調えた。これは櫂の好みだった。だいたいに濃い味付が好きな男だったが、雑煮は白味噌を好んでいた。
「うーん」
 毬はお椀を口にあてて知ったかぶりに唸った。
「櫂さん、生きてるね」
「わかる? まだ死んでない」
「去る者は追わずって、お姉ちゃんの座右の銘じゃない?」
「その日本語変だよ。モットーにしてるわけじゃありませんが、介護やると人生観変わる」
「なんで介護なんか」
 毬ははっきり言葉を切って一呼吸置いた。
「やるの?」
「たくさんのひとがそう言うわ」
 茴は受け流す。毬は知らない。もう結婚して他県にいたから、鶸の錯乱の夜毎、茴が揺さぶられた感情の嵐がわからない。
「お姉ちゃんのことちょっと知っている人はみんな言うよ。よくあのひとに介護ができるって。えらいと思うけれど、もっと楽な仕事でもよかったんじゃない」
「介護って言っても、今の仕事はそんなハードじゃないもん」
「そうかなあ」
 毬はうさん臭そうに姉を見上げた。食事のとき、毬は少し前かがみにものを食べる癖がある。それを自分でもわかっていて、人に見られる商売の女優業のときに意識して姿勢矯正したのだが、姉や母の前ではなんとなく昔の姿に戻ってしまう。
 身長は茴とほぼ同じなのだった。姉は四十一になるのか、自分のことはさておき、介護職という重労働のなかで、昔に変わらずなめらかな顔をしていると思う。
 サーモンピンクのニットワンピースを着て、クリームモヘアのカーディガン。通販カタログのモデルのように普段着の姿が整っている。茴のまっすぐなままの睫毛と自分のマスカラで伸ばした睫毛のどちらが長いだろうと毬は考える。茴は毬の視線をつかまえて軽く目だけで笑った。鶸の介護をほとんど知らなかった妹をなじることはできない。あのころ自分も優しいとは言えなかった。それどころか。
 何のための信仰なのか、とずっと考えている。何のためにキリスト者なのか。好きこのんで「身をかがめて他者の足を洗う」仕事を選ぶひとは少ない。また自分もイエスに倣うほど真摯な姿ではないと思う。福祉コミュの善良な同僚たちも。
物質的な報酬以上の何かを無力な他者に捧げる気持ちが続かなければ、こうした仕事はつとまらないにせよ。
 信仰のおかげで、イエズスを身近に想うことはできる。それは人間との対話とは別だ。キリストその人こそ、生涯迫害され卑しめられたではないか。「他者の足を洗うものになれ」という御言葉を茴はアリバイにしたくない。だがしているかもしれない。
 茴は窓のほうを見た。クリスマスの名残のポインセチアとシクラメンが小春日和になごんでいる。シクラメンは白い。陽奈が買ってきた。言葉を選んで茴は言った。
「お母さん、施設ですっかり落ち着いたの」
 妹に知らせずこらえた苦痛はやがて彼女の誇りに変わる。それを誇りとひとに知らせなければさらに。
ころりん。携帯が鳴ってメールが入った。
ギャザリングからの連絡。篠崎月さんと湯浅徳蔵さん退院、ケア再開。それでは初夢は正夢だった。

「篠崎さんは今ほとんど寝た状態よ。身体介護、あなた大丈夫ですか?」
「もちろんできます。どの程度ですか。退院が速かったので驚きました。骨折したのに一か月で」
「そうねえ。だから重症じゃなかったってことなんだけど、何と言ってもお年でしょ。入院すればどうしたってがっくり来るのよ」
「はい」
「介護認定の更新はまだなんだけど、とにかく、前より負担は大きいわ。もうお掃除はいいから、まず食事介助とオムツ交換」
「食事介助も必要なんですか」
 茴は胸が縮んだ。あの闊達でほがらかな、満月のような丸顔の篠崎さんが、自分でごはんも食べられなくなったのかしら。
「ケア依頼書にも書いたけど、朝の朝食ケアから始めて欲しいの。八時半からね。下肢筋力がだいぶ衰えて、もう自分では歩けないから、朝行って、できたらポータブルに座らせて下さい。起きれないようなら、オムツ交換になるね。息子さん夫婦も毎日は来れないからワーカーが入る日はあたしたちがやる。で、そのあとベッドにサイドテーブル寄せて、篠崎さんをベッドに座らせて、朝食を食べてもらって下さい。今のところ、お粥とかおかずとかだいたい普通食も食べれるらしいけど、気が向かないときはいやがるって。そういうときは、とにかくラコールだけでも飲ませて服薬。これだけでまあ、一時間半は過ぎちゃうわよね」
「ですね…。お食事は自分でできますか」
「食べたいときは自分で食べてるって」
「朝ごはんは、前みたいにあたしたちが作るんじゃないんですね」
「レトルト介護食中心。台所の段ボールの中にいろいろ種類があるから、見繕ってください。ときどきはお嫁さんが夜のうちにお粥とかご飯を用意してくれることもあるし、そのときはメモがあるから、そちらを食べさせてって。ご飯かお粥とおかず一品ね」
「わかりました。リハビリは行ってらっしゃるんですか?」
「まだですよ。退院したばっかりだから、自宅生活に慣れてから、デイケアに通うかどうか。それにしてもねえ」
 ギャザリンングはさっぱりとした、余分な感情のこもらない声で言った。
「篠崎さんも年だからね。これ以上落ちないようにケアしていくという方向で」
「はい。で、湯浅さんは」
「あちらは前とほぼ同じです。結局首の腫れも癌じゃなく、リンパ腫ということで、このひとももう手術する年齢でもないから様子見ってことなんだけど」
 ギャザリングの声は少し沈んだ。
「もう直しようがないということだから、たぶん自宅療養で通院。結構腫れちゃったらしいよ」
「患部を見てないんですか?」
「まだね。篠崎さんところと湯浅さんのところは、担当者会議が正月明けにあって、詳しい相談をするんだけど、とにかくヘルパーがとりいそぎ入らないとどっちもやってけないからって。息子さんの話だと、湯浅さん、ちょっと排泄危ないらしい」
「オムツとか?」
「自分で座ることはできるらしいんだけど、始末がわからなくなっちゃったって。リハパンをあげるとか、お尻を拭くとかね。ご飯なんかは前と同じように食べれる。だから、ちょっとてんてこまいだけれど、排泄の見守りと介助お願いします。お尻とか、床ずれとか、痒いところあったらアズノール塗る」
「湯浅さんと篠崎さん、認知どうですか?」
「はっきりとは言えないけれど、前ほどクリアじゃないよ。高齢者が長期入院するとやっぱ鈍るのよ。だけど自宅でまた活性化するかもしれないじゃない」
 向野ギャザリングは、それが彼女の性格らしく最後は明るい声で締めた。彼女はよく働くワーカーだった。六十代半ばくらいだろう。茴が福祉コミュで働き始めたとき、最初の訪問介護に同行して付き添ってくれたのが彼女で、待ちあわせ場所に自転車で現われた初対面の向野さんは、おずおずした茴を頭のてっぺんから爪先まで眺め、あよろしくと短く挨拶をくれた。可もなく不可もない声。何度も洗濯され、陽に干されて古くなった履き心地のよい布の運動靴のような挨拶だった。
 電話を切って茴は改めて新年のカレンダーを確かめた。篠崎月さんのケア日程は新年から変わり、月曜日ではなく水曜日の朝一番、八時半から十時になる。鶸のところへは彼女のあとに回ればいい。去年までの水曜日のワーカーの都合が悪くなったとかで、これまでの月曜日の茴のケアと交代だ。
 仕事初めは湯浅さんから。それにしても篠崎さんの激変がこわい。夢に見た老女は記憶の月さんとは似ても似つかない。まるで能面の「痩せ女」だった。そんなひどく変貌していなければいい。身体介護もひさしぶりだ。腰大丈夫かな。肩首、腕、だいじにしないとチェロ弾けなくなるぞ、と茴は右手を上から、左手を下から背中で組んで握手した。無理せず左右の手を肩甲骨の上で結べる、まだ柔らかい。そんなに丈夫でもない細い体でいくつかの身体介護をこなせたのは、持ち前の柔軟性のおかげだ。
 そこでもう一度携帯が鳴った。
「あ、忙しいところたびたび悪いんですけどね。あたし心配だから篠崎さんの年明けケア、あなたと行くわ。あたしも状態見ておきたいし。月曜日は別なケアがあるから行けないので。利用者宅五分前待ち合わせでいいよね」

 火曜日は午前中から空模様がぐずつき、朝の天気予報で昼過ぎから湘南でも雪が舞うかもしれないと聞いた。モノレール蘇芳山で降りると桜沢の自宅を出たときよりも空はずっと重い鈍色によどんでいて、ちらちらとほそい雨の糸が顔に降りかかってきた。駅周辺の桜並木はそれでも新芽を枝にはぐくみ、つぶらかな膨らみが雨の気配にしっとりと濡れて、寒さのなかでも活き活きして見えた。彩を消した冬の街並みのところどころに寒椿の赤が目立つ。
「こんにちは、いっぽの森です」
 昨年と同じように、入口のドアは鍵がかかっていない。息子さんは仕事。老父をひとり瀟洒なマンションに置いて、強盗も犯罪も心配しなくてすむのは、やはり鹿香・香枕という風光明媚な風致都市ならではの恩恵だ。
 玄関もきれいに浄めてある。松は過ぎたのに、まだ正月のリースが壁に飾ってある。靴箱の上に五色の錦を敷いて、紅白の梅の盆栽小鉢が見慣れずあたらしい。
「おひさしぶりです。森です。あけまして」
 挨拶と一緒に暖簾をくぐったが、リビングとダイニングに人けがない。こんな悪天候では日当たりもないので、外から入った茴の目に、屋内は真っ暗に見える。暖房だけ入っている。室内に漂う、嗅ぎ慣れないが覚えのあるいくつかの薬品の匂いが昨年と違う。それにかすかな尿臭。
湯浅さんは寝室だった。
「こんにちは」
 声を柔らかくしてドアを押す。
 湯浅さんは電動ベッドに寝ている。去年までは普通のパイプベッドだったのに。茴は天井灯をリモコンで点けた。徳ちゃんは両眼をぱっちり開けていて、茴のほうを見て笑った。
「やあ、おめでとう」
 枯れてはいるがはっきりした声で新年の挨拶をくれた。
顔はすこしもやつれて見えない。むしろ両頬がふっくらと、太ったように見える。バーバリーの赤と茶色、ベージュの格子模様の素敵なパジャマ。首には薄いブルーのチーフ。
 顔が去年よりふくよかに見えるのは、リンパ腫のせいかもしれない。
それはあとで確かめよう。
「今年もよろしくお願いします。バイタル測りますね」
 上下の血圧やや高め。血中酸素もまず平常。
「お起きになれますか。お手洗いすませてそれからお昼にしましょうね」
「ははあ」
 にこにこと徳ちゃんは笑う。あんまり無邪気な笑顔で素直に茴の指示に従ってくれるので、うっかり涙もろくなる。安全で優しいケアのためには余分な感情移入はしない。
 ごほっ、と徳ちゃんは咳き込み、
「トイレ行こう」
 電動ベッドの背上げをしなくても徳ちゃんは自力でサイドレールにつかまって体を起こし、ゆっくりとベッドから足を下ろした。素足に室内履きを急いで穿いてもらう。
 杖なしでは室内でも移動できないひとなので、茴の両肘をつかんでもらってトイレへ誘導した。足どりは以前よりずっと弱々しい。予想はしていても多少こわい。うっかりよろけて徳ちゃんが転んだら、茴は彼の全体重を支えられるだろうか。いきおい声かけが必死になった。
「いいですか、左右かわりばんこに足を出して、いち、に、いち、に」
「あかんぼじゃないんだからわかりますよ」
 徳ちゃんは閉口したように茴を遮る。茴は逆に嬉しくなった。
「あはは、それならオッケーね、はいすみません、このまま、ゆっくり」
「はい、はい」
 元気そうな応えを聞きつつ、ふとまた思う。徳ちゃんの余命はあとどのくらいだろう。リンパ腫ってどんな? 
 徳ちゃんは個室の便器の前に立つと、茫然とした顔で茴を見た。
「すまないがねえ、手が利かないんで、下ろしてくれますか」
 手が不自由ということはギャザリングも言ってなかったぞ。でも湯浅さんがそうおっしゃるんだから、そうしよう。
「はい、じゃおズボンとパンツ下ろしますから便器に座っていただけますね?」
 集合住宅の個室は狭い。互いの肌がすりあう近接距離での男性高齢者の排泄介助は経験がないので、覚悟はしていたものの茴の額と脇の下に汗がにじむ。ついでに誘導の敬語が妙な具合に歪む。ときめきとは真逆の心拍が聞こえる。これもちいさな修羅場なんだろう。
 膝まで露出させてから徳ちゃんの背中に両手をまわし、抱えこんで支えながらゆっくり座ってもらった。茴の背中と壁面はぎりぎりだ。体格のいいワーカーではこの介助は無理だ。他のひとはどうやっているんだろう。
「ありがとう」
 徳ちゃんは爽やかな声で茴を労わった。
「じゃ、外でお待ちしてますから、終わったらノックしてね」
 お小水だろうか、大きいほうかな。待ち時間が惜しいから、手早く両手を洗い、キッチンに行って昼ご飯をセットする。冷蔵庫には去年と同じできれいに調えられた1プレートランチ。おみおつけはなし。かわりにヨーグルトドリンク…。
 ノックが聞こえ、あたふたと戻る。徳ちゃんは便器に座ったままだ。
「すみませんが、よろしく」
 介護用ゴム手袋をぴたっと填める。グローブの手は自分の手ではないみたい。
「おしっこですか? 大きいほう?」
「うん、小さいほうだよ」
 座らせたときと同じように両手を背中に回して立ってもらう。そして備付の手すりにつかまって暫くそのままの姿勢を保持してもらう。
 もらう、元気をもらう。介護ではずいぶんたくさん高齢者さんからもらうことやものが多い。福祉コミュの同僚も、また世間一般の介護職のコメントなどでも「利用者さんから元気と笑顔をもらってます」と何度となく耳にし、また目にする。ケアさせていただく、さまざまな学びをいただく…こんな心と言葉ですべての高齢者を労り尊ぶことができる介護福祉がいつまでも続けられるなら、日本は幸せな国だと思う。
 パジャマズボンは重かった。交換し忘れたパットが尿を吸っている。新しいものをパンツに入れようとした茴の手に、ぽとんと雫が落ちた。それから続けざまにまたぽたぽた。
「あれえ」
 徳ちゃんは残り僅少な白髪頭をガリガリと掻いた。終わったと思ったんですけどね。
「ちょ、っとだけですね」
 ちょっとばかり茴の言葉が切れる。失禁ではなく残尿だろう。トイレットペーパーをからからと巻き、まず自分の手と、それからパジャマの上着をまくりあげて徳ちゃんを拭く。
 袋の真ん中に頭を埋めた先端に、涙のような露が膨らんでいる。攻撃性を失いこじんまりと落ち着いた楕円形の受け口に、茴はそっとペーパーを押し当てた。力は入れない。肉を押すなまな感触もなく、紙を隔ててなかみのない袋が揺れる。
「悪いねえ、あなたみたいに若い子にこんなことさせて」
「いえ」
 そんなに若くもありません、と口の中だけで呟く。若くても若くなくても、こういう場合の驚きの質は変わらないだろう。既婚未婚性体験云々とも別だと思う。目の前の、静かにタナトスに向かい始めた肌一枚の寂しさをエロスの眼で判断するのこそ、ケアワーカーとしては失礼で冒瀆と思える。他の職業のひとは知らない。
 ごく自然に、主よ、と茴は心のなかでイエスを想った。母との葛藤、夫の急死、さらに介護を始めてからというもの、何千回マリアとイエスを想ったろう。恨んだこともある。だがそれでも、イエス、イエズスは必ず終生裏切らない隣人なのだった。
「すっきりなさいましたか?」
 徳ちゃんは少し顔をしかめて笑った。苦笑いのようだ。いくつもの情緒を含んだ微妙な笑顔が作れるのはまだ意識が…少なくとも今は…クリアということだ。
 声は明快だった。からりと一言、
「サンキュー」
 茴は吹き出した。サンキュー? 初耳かも。病院で覚えたのかな。今まで聴いたことないぞ徳ちゃん。

スポンサーサイト

Comment

つねさん says..."ブログを拝見しました"
こんにちは。
スペースお借り致します。

お友達がたくさん出来て、投稿に参加する度ごとに直筆のカード式のファンレターが3~30枚以上届く文芸サークル(投稿雑誌)をやっています。
ネットでのやりとりも楽しいですが、ぬくもりが伝わるアナログでの活動は温かい気持ちになり、楽しさや幸せをより感じられます。
イラスト・詩・漫画・小説・エッセイなどジャンルを問わず何でも掲載しています。
月刊で150ページくらい。全国に約180人の会員さんがいます。
あなたがブログで発表している作品を雑誌に掲載してみませんか?
東京都内で集会も行っています。お友達や創作仲間作りにご活用下さい。

興味を持たれた方には、現在雑誌代と送料とも無料で最新号をプレゼントしています。
よろしかったらホームページだけでもご覧になって下さい。
ホームページにある申込フォームから簡単に最新号をご請求出来ます。
http://www2.tbb.t-com.ne.jp/hapine/

これからもブログの運営頑張って下さい。
失礼致しました。
2015.02.26 14:26 | URL | #- [edit]

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://donanobispacem717.blog.fc2.com/tb.php/79-5a837202
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。