さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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カフェ・アンジェリコ  チェリー・トート・ロードVOL11

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   カフェ・アンジェリコ

イースターは今年の四月第一週なので、茴はその前に自分たちのパフォーマンスをしようと考えた。三月下旬でもいい。場所はここ十年ほどおつきあいのある青山骨董通りのギャラリー〈EspritAerien〉天使、だった。ここは現代作家の絵画・オブジェも扱うが、主にフランスのアールデコの小さい家具や、ガラスなどを商っている。
 それほど広いスペースではないのにフロアにはグランドピアノがある。オーナーの夫人が音大でピアノ専攻だった。彼女は今も季節ごとに自分のギャラリーでサロンコンサートを開いている。客席は三十から詰めて五十席ほどだろうか。骨董通りという土地柄もよく、茴が考える少しひねって洒落たパフォーマンスの箱として最適だった。二年に一度くらい亜咲もここで個展を開いている。
「曲は決まった?」
 仕事始めであたふたしているころ亜咲から気楽な声で電話がかかってきた。
「だいたいね」
「何を奏くの。一月中に吉良君と三人でコンセプトと演出の打合せしたいんだけど」
「質問が多いわね。今のところドビュッシーとフォーレの小品いくつか。リリ・ブーランジェの夜想曲も」
「いいんじゃない。茴らしい。それならあたしたちが何演奏しようと…」
 亜咲はうまい言い回しを探して黙った。
「ええ、何?」
 茴は苦笑する。結果を仕切りたがるひとだ。
「茴はおいしい水よね」
 期待しなかったが、亜咲の許容範囲でまずまずの形容をくれた。
「褒めてるんでしょ」
「もちろん」
「亜咲は?」
「いろいろとりどり。ジャズとシャンソン、クラシックにロック。Jポップも入れようかなんて」
「テクニックあるんだからリスト弾くとかしないの?」
「飽きちゃうのよ、途中で」
「吉良さんは?」
「わからない。技芸に関しては予測不可。でも周囲に気配りして折り合いはつけるし、バンドをちゃんとまとめられる子だから」
「バンドやってるんだ。見た目ド派手だから普通のフルートじゃないと思った」
「いつかライブいきましょう。東京スタコラーズって。みんな可愛いの」
「あそう。で、いつ打合せする? 基本土日空いてるけど、成人式の日はだめ。場所はやっぱり東京?」
「豹はちょくちょく神奈川にバイトで来るから、上京しなくても済むかも」
 吉良豹河の話題になると亜咲の声は弾む。年末の銀座で豹河の恋人という紫羅にひきあわされ、その場で竦んだ亜咲だったが、紫羅は男性だし、豹河とは微妙なニュアンスで隙間が見えた。亜咲には嬉しい隙間だ。
 こじあけて割り込むのに亜咲は躊躇しないだろうが、気軽にとっかえひっかえする相手にしては、豹河は色合いがヘビーだ。真面目な青年とは思えないが、紫羅を見る眼や茴への接し方にくずれた弱さがなく、浮ついた子には見えない。
「じゃあ陽奈の成人式が終わった次の週末に横浜くらいで。上京してもいいけれど」
「わかった。伝えます」
 じゃあね、とうきうきした雰囲気で亜咲は電話を切った。豹河とコンタクトできる口実がうれしいのかな、と茴は珍しく気を回す。いったいに茴は他人について関心が乏しいのだが、吉良豹河については常になく心が…感情までいかない…動く。
(ちょっと待て、ポールetシモンどころじゃないわ。二十一歳。陽奈とほぼ同い年か) 
 異性をめぐる亜咲の嫉妬の激しさを友人として推測する茴は、それだけで吉良豹河には自分的距離を置こうと思う。向こうだって相手にしないだろうが、亜咲に釣られる坊や程度なら、横並びどんぐりよろしくすべった視線は茴にも向くだろう、という自意識は過剰でなくある。
(亜咲はいいやつなんだけど)
 ここで考えを切った。誰憚るところのない寡婦歴十三年なのだから、どんな交際も自由だ。吉良豹河の初夏の梢のような青春を渇望する気持ちはよくわかる。
 くいっとスカートのすそを引っ張られて茴は腰の下にすりよったカイトに気付いた。
「ハロー」
 茴はカイトのむくむくした頭を撫でた。カイトは黒い鼻に小皺を寄せて頭を振り、茴の愛撫を振り払うようなジェスチュアをした。うう、と喉から不機嫌な唸り声。
「怒ってるの? 機嫌悪いの?」
(豹君のこと考えてたからかな)
 そうだよ、と言わんばかりにカイトは左右の牙をちらりと覗かせた。それから茴の手の甲を舌の先でぺろりと舐める。
「お腹すいた? 今日は人魂食べてないの?おまえ、毬が泊まっているときはどこに隠れていたの?」
 独り言をつぶやきながら冷凍庫から袋売りのクリームパンを出し、電子レンジにいれた。それから牛乳の1リットルパック全部を大鍋でぬるめに沸かし、バケツに注ぐ。カイトはミルクバケツに顔を突っ込んでぴちゃぴちゃ飲み始めた。矢印の先端のついた赤いしっぽが嬉しそうに左右に触れる。
(これで人間を刺した)
 茴は鋼のような鈍い光沢のあるカイトの尾を手にとった。カイトは横を向いて茴を片目に伺い、ミルクから顔を離したが、じきにクリームパン六個の山に噛みついた。
(人間じゃなくて死霊か。自殺した男の魂はカイトの体内からどこに行ったのかしら。お腹の銀河の一粒に変わったのかな)
 そうするとカイトは異次元ポケット、または巨大な宇宙キメラということか。
 あ、と茴はカイトの尻尾を握る自分の手にべったりと付着した黒い粘液に眼を剥いた。
黒ずんで見えたが二度目に見直すとやはり血だった。尻尾の全体に粘液は乾ききらないでべたべたしている。それが動脈なのか静脈なのかわからない。獣の血なのかもしれない。ただはっきりと、動物の血のなまぐさい匂いが両手から立ち上ってくる。

 一月も半ば近くなると大寒前にしても空気が潤い、早朝見上げる冬空の青は師走の乾燥とは異なる、ふっくらと視線を吸い込む柔らかさを帯びている。
 朝八時。この時間帯は通勤ラッシュで、松井駅近くの大手企業の化学プラントに勤務するひとがここで大量に降りる。おしあいへしあいするサラリーマンやウーマンに囲まれ、モノレールの各駅中、化学プラントの恩恵で、この駅だけのエスカレーターに乗り込みながら、茴は周囲のいくたりかの男たちの後姿に櫂を錯覚する。
こんな惑わしは早く消えてくれればいいと願いながら、錯覚の揺れるたび、かたん、ころん、と乾いた音のするフリーズドライの塊を、心の指でもてあそんでいるのかもしれないと思う。
 ギャザリングは茴よりも早く来ていた。門構えの大きい農家の庭先に向野さんの電動自転車が留めてある。りっぱなものだ。上り下りの急な坂道ばかりという香枕桜沢地区を、向野さんは地域貢献高齢者介護の旗印を背中にしょって、小さな電動自電車で雨の日も風の日も縦横無尽に駆け回る。いや、これでは冗談すぎる。仰々しい旗指物など何も持たず、世に目立たない地道なケア活動で高齢社会を支えるひとびとが、向野さん以外にもいる。
「こんにちは」 
 土間のように三和土のひろい玄関で声をかけると遠くから向野さんの返事。
「もう来てます」
 十二月に入院。それから年を越して一か月半ぶりだろうか。古い台所や、一足ごとに床板の鳴る建付けの傷みはじめた廊下がひんやりと黴臭い。
(それもそうよね、月さんが退院してきて一週間くらいだし、彼女が留守中この古家は無人だったんだもの)
 寝室に入るといきなり暖房が強くなった。向野さんは電動ベッドの背をあげて、もう月さんの上半身を起こしている。ベッド脇のパイプ椅子に座っているギャザリングに目礼し、茴は篠崎さんに向かって大きい声で挨拶した。
「あけましておめでとうございます。森です、お久しぶりですね、退院されてよかった」
 ああ? と月さんは茴のほうに顔を向けた。
 ああ、と茴は心の中で息を吐いた。月さんの顔かたちは昨年とそんなに変わっていない。頬骨の張った肉の厚い丸顔、福耳と呼ばれる耳たぶが赤い。愛嬌のある団子鼻、ちんまりした口元。夢に見た「痩せ女」の凄絶はないが、全体に生気が抜けている。
 染めてはいなかったが、いつも見目よくカットし後ろに撫でつけていた髪が、今日はすっかり乾いて枯れ薄のようにばさばさと顔の周りで乱れているのが痛々しい。器量よしではないが、昨年までの月さんはいつもさっぱりと身じまいのよい女性だった。
 茴を見ようと首をめぐらす表情は茫然と、視線が緩んでまとまらない。つやつやと浅黒かった肌の色も、入院中日に当たらなかったのか、水っぽくふやけて見える。いのちの密度がはっきりと淡くなってしまった月さんに、茴は胸を突かれた。
「ああ、森さん、よろしくねえ」
 間を置いてかぼそい声が来た。即座にギャザリングが明るく返す。
「やあだ、ちゃんと覚えてるんじゃない。大丈夫大丈夫、これから森がちゃんと篠崎さんのケアしますからね。あたしも時々は来るしね。だからごはん食べましょう」
 月さんに話しかける向野さんの声が大きく感じられる。茴は向野さんに尋ねた。
「前よりお耳が遠くなったんですか?」
「そうじゃないと思うけど、ちょっと意識がまだぼんやりしてるようなんだ」
 向野ギャザリングは茴には声をひそめ、また月さんに向かってはきはきと、
「おしっこしましょうか。起きれたんだからポータブルでできるでしょ」
「はいはい、まあどうだかねえ。すっかりへにゃへにゃになっちゃって、すいません」
 向野さんの肩に月さんは片方の腕をかけ、もう一方の手でベッドのサイドレールをつかんで体を回し、どうにか両足を床につけた。向野さんは月さんを介助しながら茴に、
「今日はこれあたしがやるから、あなた朝ごはんお願い。お嫁さんがお粥と卵焼き作っておいてくれたって。とろみなしで大丈夫だから、急須にあったかいほうじ茶ね」
 小柄な向野さんが抱えると、老衰したとはいえ骨太な農婦だった月さんの体格のよさが目立った。ある拍子に、月さんのよじれた寝間着の首元からはだけた鎖骨と肋骨が見え、その奥の痩せた上半身が予想され、茴はまた初夢を連想してどきんとする。抱えられてポータブルに移乗する月さんは身体のどこかが痛むのか、きつく眉間に皺を寄せた。あたしゃ鬱陶しくてならないよ。夢で聴いた月さんの声が耳の中でもう一度リフレインする。
「あとお箸じゃなくてスプーンにして。いや、お箸も一応持ってきて」
「わかりました」
 床にも壁際にも、いろいろな保存食品やミネラルウォーターのボトルがひしめく倉庫のような台所の雑然は去年に変わらなかった。ガス台に乗った小鍋にお膳二杯分くらいのお粥。冷蔵庫を開けるとタッパーに市販らしい大きな出汁巻き卵のかたまり。こんなに沢山どうするんだろう。
 別居の息子夫婦はこちらで食事はしない。まさか月さんのおかずだけ三食全部これで済ませるするつもりではないだろうに、冬にしてもそんなに日保ちがしないのに、と茴は持ち重りのする厚焼き玉子を二切れほど食べやすい大きさに切った。

 月さんの後そのまま鶸のところへ行く。「やすらぎ」の玄関先には亀田さんもといメダカちゃんが、箒と塵取りをそれぞれ両手に持って、甲斐甲斐しく掃いていた。もう昼食戦線スタンバイという十一時なのに、「やすらぎ」職員は休みなく働いている。メダカちゃんは茴を見とめると、血色のよい笑顔で
「あら、今日は早いね。外出だっけ?」
「そう、美容院に連れていく日、どう?お母さんは」
 メダカちゃんは浮かべた笑顔を変えずに
「鶸さん変わらないよ。先週何人か友達が年始のお見舞いに来て、楽しそうだったよ。だからかな、夜間も割に安定してたみたい」
「そう。誰かな。付き合いの多いひとだったから、忘れずに来てくれるのは嬉しいわ」
 茴はメダカちゃんの「夜間安定」には触れずに避けた。今週安定とわざわざ告げるのなら、いつもは不安定ということだった。夜勤の職員はどれほど母の妄想と愁訴に煩わされていることか。麻痺による失認が回復しても意識がクリアであればなおさら、家を出て施設に移住した我が身の寂しさが衝迫となって鶸を揺さぶるらしい。
「これ、みなさんで召しあがって」
 茴はメダカちゃんに菓子折りを見せた。
「悪いねえ、いつも。そんな気を使わなくても、こっちはちゃんといただくものはいただいてるんだからさ」
「そういう問題じゃないよね。さぞ疲れるだろうと思うわ。だからちょこっと甘いもの」
「あ、り、が、と。ご家族がみんな森さんみたいだったらこっちも楽なんだけどね」
「クレーム来る?」
「うーん。欲と我儘はきりがないよ」
 メダカちゃんの天真爛漫な笑顔が、少し酸っぱくなった。
「あたしは同業者だから、ここにひとつも文句なんか言えません。よく見てもらって、母にとっては最高の終の住処と思ってる」
「おお、感激。あやば。出撃準備しないと」
 メダカちゃんは腕時計に眼をやり、大きい身振りでがさがさとあちこちのごみを集めた。
 両手を消毒し、専用のスリッパに履き替えて居室フロアにあがると、インフルエンザの季節柄、職員はマスク着用していた。
 鶸の部屋は南西の角部屋で、二面ある窓からの採光と眺めは悪くない。早春の柔らかい陽光がカーテンを大きく開けた窓から鶸に降り注いでいた。テーブルの上には黄色いフリージアの花が白い花瓶に活けてある。鶸は椅子に座り膝上に週刊誌を拡げていたが、雑誌の活字の何を眺めるでもなく、視線はぼんやりと窓のほうへ泳いでいた。茴が入ってゆくと、鶸は彼女を見て驚いたように、
「毬ちゃんかと思った」
「こないだ毬は来たわよ」
「ああ、見違えた。あの子元気になっちゃって。昔とすっかり変わって」
 鶸はタレント時代の毬の姿を茴に見たのだろうか。顔と体型は似ているが、雰囲気や物腰はかなり違っていたと思う。体重だけなら茴のほうが今も以前も毬よりだいぶ軽い。
「そうかな? 昔と変わんないわよ。五キロ太ったくらいでしょ」
「五キロって大きいわよねえ」
「昔ダイエットしすぎだったから、今が健康なんじゃないの」
「そうかしら」
 鶸はミッソーニのアンサンブルを着せてもらっていた。二十年も前にミラノで買ったものだが、鶸のお気に入りで今の彼女にもよく似合った。今朝の身支度を整えてくれたワーカーに茴は感謝する。
 ここは朝食まで夜勤ワーカーが勤め、そのあと日勤に変わる。ただ一人のフロア職員にとっては、十人いる入居者のモーニングケアも、食事どきに劣らぬ汗まみれの修羅場だ。着替えてもらってもすぐに脱いでしまう人、起床拒否、また脱衣拒否、目覚めるやいなや不安発作にとりつかれ、フロアを徘徊して施設脱出をはかる人…。それらすべてを万遍なく目配りしながら、一人ずつの服薬、中にはインシュリンの注射、トイレ誘導、おむつ交換をこなし、同時に着替えを見守る。全介助の入居者の場合は全部職員が更衣する。
 もう鶸をケアしてくれた職員はいないが、早朝分刻みの重労働の中で、鶸の外出予定を弁え、いつもよりおしゃれな装いに着付けてくれた彼女の心遣いは、掛け値なしにすばらしい。こんな気持ちも現場の忙しさを仲間内の噂話で知る茴でなければ起こらないに違いない。
「これ、陽奈の成人式の写真よ」
 B5に拡大された義理の孫娘の画像に鶸は柔らかく眼をほそめた。素直に嬉しい感情が彼女の頬に昇ってきた。肌理のこまかい白い顔に、高ぶるとその感情が血の色となってきれいな朱鷺いろが射す。
「お父さん似で、いいじゃない」
「そう思う?」
 紅地裾暈しの中振袖に合わせた袋帯は黒地に金糸で雲立涌の有職文様をとりあわせた。京友禅の振袖がややごたごたと華美なので、帯は幾何学模様のシンプルをと、これも茴が決めた。自分のときにはこの帯ではなく、金地に五色で六歌仙の歌留多が刺繍された昔の丸帯を締めた。丸帯は現代ではほとんど着用されない。少女時代の鶸の帯だった。
六歌仙の帯はさすがに古びてもいるし、黒地のほうが陽奈には似合うはずだった。
 前髪をあげて舞妓さんのようなお福に結い、花簪と櫛を飾り、目元に紅をさした陽奈は、どう見ても父親の顔や姿を連想させないが、茴は鶸の感想が微笑ましかった。鶸は陽奈をとても可愛がっていたから、その気持ちの表れなのだろう。だが、櫂も陽奈も、鶸が一番危うかったころ、実際に鶸を介護したことはない。もっとも陽奈はまだ幼かったし、中年男性の櫂に、まだ色香の残る姑の肌を浄める業などできるはずはなく、茴も望まなかった。
「寒いから帽子かぶりましょう、お母さん」
 茴は衣装箪笥を開けて鍔の広い黒いフェルトの帽子を探した。小作りな鶸の顔と、色とりどりのミッソーニに似合うだろう。今は茴が母親の衣服を選ぶほうになっている。
「あらよく覚えてるわね、この帽子」
 外出がうれしい鶸はにこにこしながら帽子を被り、コートに腕を通した。黒いフェルトの鍔の影からすこし上目づかいに茴の表情を測る表情は、いたずらっぽく若々しい。古稀に近づき病んではいても、物を書く、創造する営みを血肉として人生を過ごした鶸は、その精神のおかげで肉体もまた通常の褪色速度から免れ、同年齢の高齢者よりはみずみずしさ を多分に残していた。内的な潤いが彼女を美しくする…。それはドストエフスキーの慧眼だった。
 『罪と罰』は二十歳そこそこだった茴の読後感としては、やはり重苦しかったが、重厚な文脈から茴は当時の自分の好きな表現だけを記憶し、温和で澄んだ青い眼のソーニャに会いたいといろいろ空想したものだった。
アニエスbのフェルトの帽子は毬が鶸にプレゼントしたものだったと思う。鍔の影から斜めに覗く鶸の顎の輪郭が、あらためてすっきりと若々しく見えた。老女とは思えない。感心してそう眺めたとき、目の前の鶸よりさらに洗練された輪郭を持つ紫羅の顔が連想された。
(彼に連絡しよう。彼女? どっちでもいい。カイトについてちゃんと知らなくては、あのしっぽの血はいったい…)
 吉良や亜咲とのミーティングよりも餓鬼というカイトのほうが茴や陽奈の生活にとって重要に違いない。師走の銀座で紫羅は茴の背後にカイトを見ていた。だが茴にはそのときカイトの姿がわからなかった。茴にも見えるときと見えないときがある。今もカイトは自分に付いてここに来ているのかもしれない。
(お母さん、見えていないわね)
「茴、今日は何を食べさせてくれるの?」
 上目遣いのまま甘えるように鶸は言う。施設に入居以来、心細さが募るのか、鶸は茴に依存的な感情を向けるようになっている。

「今、あなたが囚われているものはなんだろう。それがたぶんカイトなんですよ」
 もらった名刺のメアドにテストメールとアポイントメントを送信したら、意外なことにその日のうちに紫羅から電話がかかってきた。直接すぐに会話が始まるとは予想していなかった茴はかなりうろたえ、言葉を選ぶゆとりもなく、単刀直入に、カイトは何なのかしらと質問した。紫羅はすこし含み笑いしながら
「餓鬼って、さまざまな妄執のかたまりです。西洋なら悪魔とか妖精とかそんなものだ。日本なら妖怪ね」
「そんなおとぎ話のようなことが!」
「人間は必ず自分の見たいものを見るんです。いや、もっとはっきり言ってしまえば、自分の見たいもの、自分の内面の投影が、その人物の世界観のすべてです。わかりますか?」
 わかりますか? 茴の理解を気遣っての言い回しなのだろうが、いかにも怜悧で、ごく自然に相手を見下すエリート意識がまる見えだった。この子はよほどのアリストクラートの出自なのかと茴は考える。言葉や語調に癖がなく明晰で、この世代の若者らしいアクセントの歪みやねじれがない。
「ええ、わかります。でも妖怪が実在するなんて」
「実在します、森さん。あなたがこの世に存在している。その確かさと悪魔や天使、神の存在の確かさは等しい」
「形而上的なことおっしゃられても」
「そうですか。とてもプラクティカルな答えなんですが。あなたはカイト・キメラを飼っている。食べ物と飲み物を与え、カイトはあなたの部屋に排泄物も汚れも残さず、ときには投身自殺者をまるごと食い尽くし、鏃の尾を血塗れにして戻ってくる。神出鬼没のカイトは文字通り鬼神です」
「そうでしょうね」
 茴は素直にうなずいた。よく調えられた声の紫羅と話すことが楽しくなってきた。聴覚に快い声だ。紫羅の声は少女のそれではないが、すっかり青年の太い響きでもない。感情は控え目に抑制され、生来の高貴さが端正な言葉となって滲み出る。だが、聴いていて茴は窮屈な感じがしない。この声には気取りや威圧の力みが皆無だからだろう。
(王子様とお話ししているみたいね)
 ふふふ、と一人笑いが浮かぶ。電話の向こうの紫羅は今どんな衣装を着ているの?。
「わたしはどうすればいいのかしら?」
「ご自分ではどう望んでらっしゃるんですか? どうしたいのか」
「え?」
「カイトはあなたやあなたの娘さんに今のところ災いをなさない。だけどあなたの生活領域周辺の人間に牙を剥く。精神エネルギーの集合体が何かの機縁でひとかたまりの現象となって餓鬼化する。機縁は怨念でも執念でもいい。激しく強い一つまたは複数の念を芯として、出現したんだ」
「念? こわいわね」
「そうですか。恐ろしいことを念じる人間のほうの罪なんですけれども」
 紫羅は茴の怯えを察して声を柔らげたようだった。
「念がきよらかな祈りであるなら、出現するものは天使です。自然への素朴な憧憬ならフェアリー」
「カイトは…」
 茴は言いよどんだ。丁寧に茴に教えようとしている紫羅の意図が見えてきた。
「カイトは天使や妖精じゃないわ」
「はい」
「あなたの説明だと、つまりカイトは私が念じたものということね?」
「そうです」
「誰かにたいする怨念や恨みを?」
「森さん。僕がお会いしたあなたにはそんな澱みは見られなかった。そして」
 そこで紫羅は黙った。
「あなたは福祉のお仕事をなさっているそうですね」
「ええ、介護福祉士」
「愛がなければできない仕事だ。低い処遇に甘んじ、死にゆく老病人の心を労わる。満足していますか?」
「どういう意味?」
「失礼ですが、御主人はどんな」
「三年、いえ四年前に亡くなりました」
「それからおひとりで?」
 茴は笑い出した。二十歳そこそこの青年が身の上相談めいた話柄に淡々と踏み込んでくるおかしさ。物悲しさを含んだ可笑しさに揺さぶられ、茴は紫羅を無視して携帯の送話口を手で抑えて笑った。
 動揺を静めてからあらためて携帯に戻ると、紫羅は電話を切らずに待っていてくれた。
「ごめんなさい。あなたたぶん娘と同じ位の子なのよ。それでそういう言い方って」
 紫のアンドロギュノスは鋼のような声で告げた。
「ええ、失礼を承知ですが、カイトはあなたのデザイアです」
 
 金曜日の五時、星月夜岬のシルエットが甘い紫を帯びて桜守灘に伸びている。立春にはまだ間があるが、結衣ヶ浜に押し寄せる波は真冬の険しさを緩め、なだらかに一続きに長く、沖から高さを変えずにやって来た白い波濤が砂浜で脆い角砂糖のように崩れた。風景の一部が砂糖のように見えるのは紫羅の言い方を借りるなら、茴がそのように眺めたいからなのだろう。茴の心の中に、甘い砂糖の塊、あるいはブランディに浸してぽっと燃え上がる官能のマッスがあるのだろうか。
 あるに違いない、と茴はウエイトレスが運んできた珈琲をブラックのまま口に含んで思う。まだ亜咲も吉良も来ていない。
 吉良豹河が金曜日の真夜中に千ヶ崎のクラブに出演するというので、打合せの場所は香枕になった。星月夜岬にほど近いここはカフェ・アンジェリコ。櫂とよく来たイタリアン・カフェだ。得の電駅からほど近く、昼間は海岸や長谷界隈を散策する観光客が多いが、夕方から夜にかけては遠近の常連がやってくる。おもしろいことに、アンジェリコの従業員は昼間女性で、夜間は男だけになる。従業員の入れ替え時間は八時くらいなのだろうか。今茴の周囲を動いているのは二十代初めのウエイトレスばかりだった。
 アンジェリコと夜間のウエイターが何かの雑誌で紹介されているのを見たことがあるが、照明を抑えたロココ風のサロンでモノトーンのお仕着せを着てポーズしている男たちの雰囲気は、婉曲にアンモラルな愉しみを誘っているように見えた。ヴィスコンティのどれかの映画のワンシーンに似ていた。
 アンジェリコ、と名付けるだけあってインテリアは天使が多い。多少悪趣味なほど装飾過剰な猫足テーブルに椅子。光沢のあるたっぷりした豪奢なカーテン、すべて曲線の出窓。天井や壁にフラ・アンジェリコそのほか初期ルネサンスのフレスコ。ホール中央には緑がかった大理石のエンタシスを左右に飾った巨大な暖炉。秋冬は一日中、夏には夜だけ火が入っているが、これはフェイクだった。
絵のない壁面のいたるところにマリンブルーかシルバーグリーンのモザイクが施されている。カウンターを除いて十席ほどある丸テーブルのすべてに、白鳥の取っ手のついた一輪挿しと、天使が抱えた砂時計が置いてある。一輪挿しには季節の花、砂時計はポットサービスの紅茶のためだった。
「天使が時を計るというのがみそだ」
 櫂の趣味にはそぐわない少女趣味な空間だが、茴と陽奈が喜ぶので時々来ていた。そのたびに櫂は天使が抱えた砂時計を手にとってしたり顔で同じ台詞を言っていたような記憶がある。夫が亡くなってから、ここへ来たのは初めてかもしれない。
(天使は両性具有)
 茴は日が落ちて、ガラス越しに次第に見えにくくなる海を見つめた。もう内部の明るい情景のほうがガラスに映って、外景の海面や空は見えなくなっている。ここに紫羅が来たらどうだろう。いや、とても不調和だろう。
「何が見えますか?」
 背中から声をかけられて茴は飛び上がった。あやうく椅子を後ろにひっくり返しかねない勢いで振り返ると、豹柄の金髪を後ろに束ね、真赤なレザーのジャケットをミリタリー迷彩のシャツにひっかけた吉良豹河が笑っていた。
彼のざっくりと大きいレザーに貼りつくように寄りそった少女がいる。
髪を額の真ん中で分けて、ふんわりした猫耳両シニヨンにまとめている。濃いブルーのタートルネック、それに豹と同じような迷彩柄のブルゾンを着ている。やはりミリタリー迷彩の膝上十センチのミニスカートから柔らかくて白い素足がひょろりと伸び、ブーツは赤い。これも豹河とお揃いのつもりなのだろうか、ヒール十五センチはあるエナメルブーツだ。
「この子僕らのマネージャーです。家が横浜なんで、四月のイベントの話を聴きたいって付いてきたんです」
四人掛けの丸テーブルで、吉良と少女は茴の向こう側に並んで座った。座ると少女は吉良より頭一つ分背が低い。彼女は茴に向かってぺこりと頭を下げ、可憐な声で、
「厦蝶児です。はじめましてよろしくお願いします」
「かちょうじさん? 中国の方?」
「三世、いえ四世かな。おばあさんのほうならもう五世くらいです」
 人なつこい笑顔を見せた。十七、八だろうか。どう見ても二十歳はすぎていない。頬が光って見えるほど肌のきれいな丸顔で、目鼻がちんまりと顔の中心に集まっているのは、眼だけ大きくした東北のこけしに似ている。くりくりした両眼はアイラインで何重にも輪郭をなぞったのではないかと思えるほど、鼻や唇に較べて顔の中で際立って大きい。だがノーメイク、口紅も塗っていないすっぴんだ。
「マネージャーって、あなたぐらいの年齢でもうお仕事してるの」
 蝶児は豹を見上げて眼で促した。豹河は、
「彼女は学校行ってないんです。行く必要がない。もう八ヵ国語、九かな? ペラペラ喋れる」
「まあ、語学の天才ね」
「ハイ、みなさんそうおっしゃいます」
 謙遜せずに蝶児は頷いた。大柄な豹河の隣に小さい蝶がくっついているのはなかなかさまになる。この子は豹のガールフレンドなのかしらそのひとりなのかしら。
「マネージャーって、あなたの?」
 そこにようやく亜咲が到着した。約束は六時だから、そんなに遅くなったわけではない。
ライトグレーのムートンコートの下には鮮やかなオレンジ色の開襟シャツ、白いパンツ。淡水パールのネックレス。ルージュもオレンジ。どこもかしこも春先取りだ。ネイビーブルーのキャスケットが全体の印象を引き締めてよく似合う。
が、挨拶も早々に亜咲は、小柄だがステレオタイプグラマーのニューベビーフェイスに眼を光らせた。
「こちらは?」
「東京スタコラーズマネージャーの厦蝶児。四月のパフォーマンスに興味があるからって付いてきたんです。飛び入りですいません」
 豹は慇懃に答えた。
「よろしくおねがいしまぁす」
 蝶児は亜咲に向かっては、茴に対してよりさらに愛らしい声で小首を傾げた。亜咲は細い眉を吊り上げたが、にっこり笑って、
「若いのにね。お世話になります」
「スタコラーズって、どんな活動なさってるんですか?」
 茴は尋ねた。仲間うちの趣味バンドかと思っていたのに、目から鼻へ抜ける天才少女をマネージャーに従えて何をしでかすつもりなんだろう。
 豹は丈夫そうな歯を剥き出してにやりと笑った。
「期間限定バンドです。帰納的芸能活動って言うのかな。解散まであと一年ちょっと。来年の八月で打ち上げ予定です。その間僕らは音楽を通じて自分探しの旅をする」
「一年やそこらで自分が見つかるの?」
 思わず茴は吉良に質した。彼は平気な顔で、「自分に至る門を見出す」
「イニシエーションってわけね」
 亜咲が口を挟んだ。豹河は頷き、
「そうです。通過儀礼と言えるかな。でも正直そんな気張ったものじゃなく、面白い連中がたまたま出会ったから、人生で好きなことできる時代に好きなことやろうよって乗りです」
「じんせい…」
 茴は肩をすくめた。こんなすべすべした顔の坊やの口から「人生」なんて単語が飛び出ると嘘っぽく聞こえる。豹は真面目な顔して
「ガキだけが寄り集ってるわけじゃないですよ、茴さん。一度ライブに来てください。酸いも甘いも嚙み分けたオヤジ達がけっこうフォローしてるし」
「お父様? ピアニスト?」
「違います、父親は無関係。ええと、オヤジっていうのは、ベースにひとり、オブザーバーにひとり」
「ちょっと、スタコラーズは後にして、四月のイベントについてお話ししない?」
 逸脱しそうな会話の流れを亜咲が軌道修正してくれた。彼女はウエイトレスを人差し指一本で呼び寄せ、オーダーを促す。物を命じる手の仕草が毅然として優雅だった。
「四月のイベントのタイトルは決まった?」
 亜咲は茴に尋ねた。
 茴は頷いて、
「ラグレアブルアノニムl,Agreableanonyme。秘めた快楽。どう?」

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