さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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プネウマ・シェル チェリー・トート・ロード vol12

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   プネウマ・シェル

「あのひとをバンドに入れようよ」
 レモンイエローの二人乗りスマートを運転しているのは蝶児だ。豹はシートを後ろに倒して眼をつぶっていたが、
「あのひとってどっちだ」
 はっきりした声で聴き返した。
「白いほうのひと」
 可愛らしい声で蝶児は答えた。
「白い? ああ、顔がね。着てた服は何色だったかなあ」
 欠伸まじりに豹が言う。
「黒のレースブラウスよ。爪は短く切って銀色」
「おまえ、よく見てるな」
 豹は感心して蝶を見上げ、弾みをつけてシートから起き上がった。八時半。店を出たのが七時四十五分だったから…。
金曜宵の湾岸道路は他県から乗り入れてくる車両が増えるために渋滞気味で、テールランプがイルミネーションのように連なってところどころ動かない。車内BGMはソーヤ・クリスタル。
「ソーヤ、すてきね」
「ああ、色褪せない、彼女」
「いくつ?」
「誰が」
「白ちゃん」
「森さん? さああ、千尋さんと同い年くらいだろ。とすると四十」
「いいよ、彼女入れよう。ファンがつく」
 蝶は自信たっぷりに断言すると、豹河は濃い眉を左右非対称に動かして疑念を表明した。
「そうか? きれいだけど目立たないぜ」
「それがいい。今スタコラーズの女はアフリカだけでしょ。アフリカ目当てに千人くらいの男は寄ってくる。だけど違うタイプの彼女がいると、三千人になるよ」
「どっからそういう数が弾きだされるんだ」
「ものは言いようだって。白髪三千丈とか。唐代の酔っ払い大詩人李白の秋の歌。豹は知らない?」
 蝶はころころと笑った。渋滞が緩んだので彼女は大胆にアクセルを踏む。黄色いスマートは敏捷でこまわりが利く。
「知らん。教えてくれ。いや後で調べる。彼女をアフリカの引き立て役にしようっての?
だめだよ、彼女プライド高いから」
「違う。バンドってたくさんの色が見えたほうがいいんだ。いろんな集まり方があるだろうけど、うちの場合、男たちってみんな主役はるじゃない? 豹も、鬱金も、餡爺、緋朗、冬狼、それとスナフキンね。誰が一番でこれが二番手ってことがない。だから、女もアフリカ紅一点じゃないほうがいい」
「千尋さんは?」
「女剥き出しだからアフリカとぶつかるし、キャラは派手だけど、エンタメの舞台は抑えられない。あたりまえすぎる何もかも」
「きついね」
「正味なんぼが人生」
「なぐるぞ、たかが十八で」
 つんのめるほど急ブレーキでスマートは信号停車した。ソーヤのソプラノがクレシェンドする。オンブラ・マイフ。懐かしい木陰。そよ風きらめく木漏れ陽の代わりに、狭いスマートの内部を赤信号と青信号の点滅が機械的にリフレインする。
「豹はいくつなんだ?」
 どこまでも愛らしい声で蝶は刺す。
「二十一」
「お互いなぐりっこしようか」
「お前の親父に殺される」
 うふふ、と蝶は眼をほそめた。
「ペンタゴンから戻ってこない」
「いくらでも手下がいるだろ」
「そうだね、スマートのうしろのうしろの」
「げ、マジ?」
 豹河はシートベルトを着用したまま上体をひねって後ろを窺うふりをしたが、蝶児にどんな監視がくっついていようと本音はどうでもいいのだった。
「わかんない。あたしにも。子供はあたしだけじゃないしね」
「だけどお気に入りなんだろ、おまえ」
「面白がってるだけよ。子供は財産だって言ってた」
「華僑の親分は肝っ玉が違う」
「あたしは日本人。日本にいるときは日本人。アメリカに渡ればアメリカ人」
「気分は、だろ」
 それ以上蝶児は応えず、話を戻した。
「あのひと相当弾けると思う」
「たぶん」
「彼女混ぜると東スタファンはさらに広範囲になる。一年こっきりなんだから」
「おまえ、森さん気に入ったの」
 豹河は首筋をがりがりと掻いた。暖房が暑すぎる。レザーのジャケットをむしるように脱ぐ。迷彩シャツを盛り上げる胸と腕の筋肉が大きい。蝶児は豹を横目でちらちらと見て
「女は全員ライバルよ。アフリカも、シーラも彼女も。女が女を気に入るなんてありっこない。スタコラーズはゲリラで移動するんだから、全天候、全方向型戦闘機にする」
豹河はうれしそうに舌打ちした。
「ったく親父の血か」

 二つの情景が茴の目の前を流れている。いっぽうの世界に茴は主に属し、もうひとつの物語は空間全体が実物大の画面となって、片方の世界にいる茴のすぐ傍らで事件を映していた。それを見ているのは茴だけだ。
 茴は病院かデパートのような四角い建物の中にいる。白っぽいネグリジェのような軽いふわっとした寛衣を着て、まだ二十代のような気分がする。これからエスカレーターを昇って誰かに会いに行く。
ところが茴が乗ったエスカレーターは昇りではなく降りで、茴以外にもそこに並んだ人達は、階上からこちらへ降りてくるエスカレーターを死にもの狂いに駆け上ってゆく。茴は途中でこの無理に気付いて離れた。
 だがそれでは目的に到達できない。
(どうしよう、会わなくちゃいけないのに) 
 茴は途方に暮れて階上を眺める。それはそうと、いったい自分は誰に会いにいくんだろう。ここは騒々しく、おかしなところだ。なぜ不自然に〈さかのぼろう〉とするの? あたしもそうしなくちゃいけないの? 
再度周囲を見回すと、いつのまにか降りエスカレーターを逆走していた人びとはいなくなり、がらんとした上のホールから少女がひとり、エスカレーターに乗ってこちらに降りてきた。髪をポニーテールに結んで、茴と同じような白い貫頭衣を着ている。陽奈だ。立ちすくんでいる茴に陽奈は言った。
「遅くなったね」
「何が遅かったの?」
「いいから、こっち」
 陽奈は茴の質問に答えず、建物の別な場所へ案内してくれる。
「この部屋」
 示された部屋は壁も床も真綿のような柔らかいもので覆われている。部屋全体がそのまま鳥の巣か繭のようだ。
「二人目が生まれるから」
「二人目って?」
 陽奈は困ったような笑みを浮かべた。
「最初は女の子だったの。今度は」
 陽奈は茴のお腹に触った。驚いたことに茴は臨月のお腹になっている。もうじきよ、きっとこれは男の子、と陽奈が言う。
 大きなお腹を抱えて陽奈と会話しながらも、茴にはこの世界と並んで進行してゆく世界が見える。そちら側では、茴は雲の上か、塔の窓のような高所から一部始終を眺めている。
 凶暴な囚人が刑務所から脱走してきた。彼を捕まえようとする男たちに、囚人は日本刀を振り回し反抗する。追手は彼に迫り刃物を取り上げようとする。何かの拍子にその刀はひとりでに宙に舞い上がり、みんなの頭上で半回転すると脱走者自身の顔を真横に斬った。ちょうど唇の両方の角を裂くように刃が閃き、男の顔から鮮血がほとばしる。
まるで口裂け男だわ、と茴はぼんやり見物している。怖いがどうすることもできない。男は見たこともない人物で、三十そこそこの西洋人のような髭面だった。少女時代に読んだ『罪と罰』の解説に掲載されていたドストエフスキーの肖像写真、あるいはフィンセント・ファン・ゴッホの自画像に似ている。どちらも眼に狂気がある。
こちらの世界で自分はもうじきもうひとりの子供を産む。誰の子供だろう。櫂はもういないのに、と二十代の茴は現実年齢の思考回路で思いめぐらしている。そこにもう陽奈はいない。胎内で赤ちゃんが動いている。痛くないの、すぐに出てくるよ、と耳の傍で誰かが言っている。
がたん、と物音が聞こえて茴は眼をあけた。真っ暗だ。何の音だろう。まだ夢かしら。ごとん、ともう一度、今度ははっきりと重いものが床に落ちる音だった。
 灯りをつけると足元にカイトがいる。カイトは巨大な猫のようにベッドの端に丸くなり、カイトの顔が乗っていた茴の膝から下は獣の体温で温かかった。ふうふうという寝息が聞こえる。熟睡している。カイトの閉じた眼の長い睫毛が自分の鼻息で薄い扇のようにひらひら上下に揺れていた。
(この子のたてた音じゃない)
 サイドテーブルに畳んであるカーディガンをひっかけて廊下に出る。まだ厳冬の深夜の空気がひっそりと冷たい。玄関に照明。ごろん、と陽奈の片腕と手が角の向こうに見えた。手の先に花柄のサマンサタバサのバッグがひっくりかえっている。ひっくりかえっているのは持ち主も同じだろう。ダイニングの掛け時計を見れば午前一時半。
「午前様。幽霊出現丑三つにはまだ間があるぞ、こら」
 スリッパの爪先で、仰向けに寝そべっている陽奈の肩を軽く蹴った。この娘が泥酔の醜態を見せたのはこれが初めてかしら。成人式済ませたらいきなりこれだ。お酒強いのかな。
「生きてる? 陽奈」
「健在」
 眼をつぶり、眉をしかめたまま、陽奈は片手を顔の高さまで持ち上げてチョキを作った。

 松井須磨子さん宅の台所はいつもよく片付いていた。松井さんだけではない。茴が見る範囲でなら、介護保険を利用して生活援助のヘルパーが週二回以上派遣される高齢者宅は、忙しい主婦が自宅を整理するよりもきれいになる。現行の制度では生活援助を受けられるのは独居高齢者か、家族がいても、日中一人暮らし同然の状態になるひとに限られている。
 ヘルパーによって掃除が行き届くとはいえ、冷蔵庫やシンク回りなどは古い食品、食材などがうっかりすると何か月、ときには何年も放置されていることがある。腐敗し、黴が生え、ときにはかちかちに干からびていても、ほとんどすべての当人は自分で捨てようとはしない。自分で冷蔵庫を開けてみれば、そこにそれがあるのは目に見える筈なのだが、ヘルパーが処分を促すまでいつまでも、何年でも残されている。
「今日はお昼に何を召し上がりましたか?」
 ケア開始のたびごとの挨拶と食事や体調の確認。これを紋切型の生活チェックにしないように、もっと優しくさりげない尋ね方ができないだろうかと茴は毎回考えるが、今のところうまい言葉は見つからない。
 居間の長椅子に足を投げ出すように横になり、背中にクッションをあてがい、日中BGMがわりに点けているテレビをリモコンで切ってから須磨子さんは答えた。
「バナナと紅茶。それからパンを少しね」
 長椅子の前のガラステーブルの上には山積みの雑誌、新聞紙、メモ帳などの谷間にすっかり黒くなったバナナの皮と汚れたティーカップが残っている。カップの中にはまだ紅茶が半分ほどある。
「お風呂の前にもうちょっと水分補給なさったほうがいいですよ」
 茴が勧めると須磨子さんはにこっと笑って
「じゃ冷蔵庫からエビアン持ってきて。ミニボトルがポケットにあるから」
「はい。あの、素足で寒くないですか?」
 厚手フリースのパジャマにウールの膝掛をしているが、ズボンの下からにゅっと細い足首が突き出ているのがさむざむと痛々しい。
「あたし平気なのよ。昔から割と寒さには強いのね。だいたいもう寝てばっかりいるじゃない。暖房してるし。ねえ、ところで」
 寝そべったまま須磨子さんは茴を下から眺める。自分が利用者さんを見おろす位置はよくないので、茴は膝をかがめて須磨子さんと同じ高さの目線にする。
「何か?」
「あたしこのままここにいていいのかしら。森さんどう思う?」
「ご不自由ですか?」
「まあね。一人だから面倒なこと多いのよ。不用心だし、寂しいし。施設に入ろうかって時々考えるわ」
「それは施設に入れば、医療や介護、お食事も全部提供されますから安全は安全ですけど、あたしの知っている限りでは、みなさん自宅のほうがいいっておっしゃいますね」
「そお?」
 松井さんは長年手入れを続けたおかげで、今もつるつるしているおでこに長い横皺三本を寄せて眼をまるくした。
「自由がなくなるってほどじゃないですけど、やっぱり制限されますし、施設内の他の入居者さんとの相性がいいかどうかわからないですから」
「じゃ、喧嘩とかいじめとかあるの?」
「うーん。誰でも好き嫌いはありますよね。うまくいけばいいんですが、例えばご飯にしたって口に合わないことあるでしょう。だからケアマネやご家族と御相談なさって、どこかよさそうなところがあったら、一週間くらいお試し入居なさるといいんですよね。それでお食事とか雰囲気とかだいたいわかりますでしょ」
「そういうことできるの?」
「はい、やっぱり下見は必要です」
「あなた、どっちがいいと思う? あたしがここにいるのと、集団生活に入るのと」
 尋ねられて自然に茴は須磨子さんの居間とその向こうの和室を眺め渡した。洋間の隣は広い床の間のついた八畳間で、今では家具は何もない。使われていないポータブルトイレだけが部屋の隅に無造作に置かれている。床の間には山岡鉄舟の書という立派な掛け軸が下がっている。その前にからっぽの青磁の花瓶。和室とリビングの隣の幅一間のサンルーム兼縁側は、今では洗濯物の干場だ。
何度か骨折を繰り返した重い骨粗鬆症の松井さんは、もう二階に自力で登ることが難しくなり、親から譲られたこの重厚な日本家屋の一階だけが生活空間になっていた。
「施設にお入りになったら、個室でもおひとりで六畳間か八畳間になりますよ」
「やだ狭いわね」
 須磨子さんは顔をしかめた。
「ええ」
 茴は須磨子さんの無邪気な表情と感想に微笑んだ。狭いわね。それはそうだ、ここの居住空間を有料老人ホームにまるごと持っていけるわけがない。
「ここよりのびのびとお住まいになれる施設なんてありませんよ」
「そりゃそうだけど、不安なの。これからどんどんあたしが衰弱していったらどうしようかって」
「在宅で最期まで過ごされる方も結構おいでです。介護度が重くなったら、それに応じてヘルパーを朝昼晩三回入れれば在宅でも大丈夫ですよ」
「家でお亡くなりになったの?」
「そのようです。私はまだ未経験ですが」
「そおおおう」
 須磨子さんは溜息まじりに長い返事をした。
「どうしようかな。お金はまあ、貧乏だけどないことはないのよ」
「はいはい」
 茴は笑った。須磨子さんなら貧乏ではないだろう。今の年金や資産に加えて、この家を活用すれば、高齢者施設で充分安楽な余生が送れる。
「気苦労があるってことよね」
「はい。どの方も好きで施設に入るわけではないと思います。中には御自分で決心して入居される方もいらっしゃいますが。至れり尽くせりで楽ちんだけれど、自宅がいちばんいいって、あたしの知っている方はみなさんおっしゃいますね。あたしも御自宅にいらっしゃるのがいいと思います。ここより広い快適な空間は、施設ではないでしょう」
 Plus須磨子さんの性格で施設内の人間関係その他、さまざまな制約を受容できるかわからない。今後認知症がどんな具合に出現するかにもよる。認知がなくても、気は強いがほっそりと神経質な須磨子さんはみんなからいじめられそうな感じだ。
「うーん。やっぱりここにいようかな。気兼ねや管理はいやだわね」
「ええ、そう思います」
 須磨子さんはさっぱりとした笑顔を見せた。
「やっぱり森さんに相談してよかった!」
 それから数日後茴にギャザリングからCメールが来た。まついさん入居決心されたそうです。今後どうなるかわかりませんが一応ケア終了。

 火曜日の徳蔵さんは新年のケア再開からまだ数週間というのに、目に見える速さで病状が進んでゆく。ケアのたびに、首の腫瘍は大きくなっていた。ガーゼ交換、薬剤塗布などの手当ては看護師か息子がしている。
おしゃれな徳ちゃんは初めネッカチーフを首に巻いて患部を茴に見せたがらなかった。ところが翌週は患部を覆う滅菌ガーゼの幅がチーフよりも大きくなっていた。そして眼をこらすと徳ちゃんの耳の後ろから顎にかけて紫いろの変色が生じているのが見えた。
「いやだねえ、これは」
 徳ちゃんはそれでもからりとした明るさでこぼすのだった。
「お医者様のおっしゃるとおりにお薬飲んで治療すれば治りますから」
 茴は気休めを承知で答える。今自分が心から温かい笑顔を浮かべていればいいと願う。徳ちゃんの施設入居はやめになった。悪化したら入院。しかし手術はしない。きっと退院はない。
それがいつかわからない。徳ちゃんの体力と寿命は紫色のリンパ腫の中で刻々と喰われている。徳ちゃんは時々ふいにぼんやりすることがあるけれど、一月下旬の時点ではおおむね快活だ。食事の量は減ったが、自分で箸を取って食べている。
「ああ、おいしい」
「はい、おいしそうです」
 小さいオムライスにミートボール、かぼちゃをつぶしたサラダ、煮豆、ミニトマトは湯むきしてあるし、柔らかめのチキンライスに
は色鮮やかなグリンピースが混ぜてある。みートボールはどこかで見たことがありそうだから、市販レトルトか、もしかしたら介護食かもしれない。ちょっとばかり鮮やかすぎるかぼちゃのサラダも。
食事に出来合いの品が混じるようになったところに、老親を在宅で看取る覚悟の息子さんの苦労も察せられる。そろそろ六十代のはずだ。重労働の厨房につとめながら、こざっぱりと父親の身のまわりを調える息子の根気は、きっと茴も及ばない。連日昼と夜、合わせて三時間ほどヘルパーが入っていた。
 ごほん、と徳ちゃんが咳をする。茴は急いでティッシュを渡す。軽くむせながら徳ちゃんは苦しそうに首の上を手でさわり、顔をぐいっと北側にねじった。そうしないと腫れた患部が食道か頸椎かを圧迫し、飲み込むのが苦しいらしい。勢い徳ちゃんは台所の殺風景なシンクのほうばかり見ることになる。
(次から椅子を反対側にしよう。そしたら窓のほうを眺めることができるわ)
 窓辺に飾ってある真紅のシクラメンが真っ盛りのリビングを、茴が残念そうに眺めたとき、徳ちゃんは言った。
「俺、紀州熊野灘にいたんだ」
「はい」
「あそこから舟に乗って沖へ出て、それからずっとずっと海の向こうまでいくとふだらくがあって、そこは極楽浄土なんだよ」
「はい、ああ、補陀落ですか」
「森さん知ってるの? えらいねえ」
「名前だけです。補陀落渡海」
「そう。俺今年病院で夢見たんだ。舟に乗って浜から沖へ乗り出す初夢。俺はその浜はここの結衣ヶ浜か得鳥浜かと思ったんだが、そうじゃないね、紀州だね。婆さんが迎えに来てくれるんだ」
「やだそんな。まだ早いですよ」
「あはは」
 徳ちゃんはオムライスを半分、そのほかのおかずを三分の一ほど食べ残した。
「あいつには悪いが、もういいや。あいつもさんざん親を泣かせたが、こうやって最期の最期までうまいもの喰わせてくれるんだからありがたいね。あいつは子供のころからほんとうに…」
 ぶつんと徳ちゃんは黙った。茴は次の言葉を待つ。だが行間余韻の数瞬が自失の空白一分になる前に茴は言った。
「お薬飲んでいただけますか? そしてお口ゆすぎましょう」
 感情を静めてケアの流れに漕ぎ出さないと
徳ちゃんの生命の残照がぎらぎらする補陀落の波濤に二人とも呑みこまれてしまいそうだ。
「ン、ああ」
 徳ちゃんはふわっとした笑顔になった。腫瘍のできたほうの頬がふくらみ、顔の輪郭が変わっている。痛みはないんだって、とギャザリングが教えてくれたが、痛覚や不快感を共有することはできない。苦しんでいる相手の痛みがわかるなどと自惚れてはいけない。痛いでしょうね、と心の中でつぶやいてさらさらした水のような心でそこに佇み、決められた仕事を果たすのがいい。
「立てますか」
「はい、どうにか」
 徳ちゃんは真面目な口調で言い、食卓に両手をついて膝をがくがくさせながら立とうとした。徳ちゃんの弱くなった腕もわなわなして食卓と食器がカタカタ鳴る。あわてて茴は徳ちゃんの椅子をどけて背後から腰を支えた。重い。全部の体重でないにせよ、茴の両手にもたれてくる体は大きかった。
「いち、に、で」
「やあ、どうも」
 さん、で立ち上がった徳ちゃんは、すまないと言いながら、その声は震えて笑っているようだった。何がすまないのだろう。茴に支えてもらっていることかしら。
 立った徳ちゃんの首は中腰になった茴の丁度目の前にある。後ろのほうにはガーゼが回っていない。まだ自然な皮膚の色をしている。

四月のパフォーマンスの茴の持ち時間はだいたい十五分から二十分だ。演奏曲目は十五年ほど前、まだ千尋先生に付いていたころ得意にしていたレパルトワールで、ドビュッシーの「グリーン」、「亜麻色の髪の乙女」「海は伽藍よりも」。フォーレから一曲「月の光」、才能を謳われながら夭折したリリ・ブーランジェの「夜想曲」に決めた。このほかにもう一曲フォーレの「パピヨン」を加えてもいいと考えている。どの曲も可憐で、♯やbで水飴のように暈された音符のはざまから月光や大気のそよぎが響いてくる。
やや長いパピヨンを入れると二十分を過ぎるかもしれない。足りないよりはいい。もしも時間が余るようなら、趣向を変えて三味線の都節の音階を使ってアンプロヴィザシオンの断片で場をつなげようと考えた。
ドビュッシーに接していると肉体感覚を忘れる。なまなましい人間ドラマから離れ、感覚は月光や海の響き、水面に映って 揺れ動く空や梢のとりとめのない陰影に浸される。フォーレのいくつかの曲も。
フォーレの「月の光」は同じベルレーヌの詩に付けられたドビュッシーの作品とは異なり、音触に当時のフランスの髪の美しい女性がまとう長い裳裾の襞や、繊細なレースの影が混じる。月明かりの中でささやくひとの声が聞こえるのだった。
一方のドビュッシーは時間と空間の限定を突きぬけ、人の気配も消して、ただひたひたと澄んだ月明かりの世界をうたった。
ドビュッシーの「月の光」のほうがフォーレより支持者が多い。千尋唯由は茴によく言っていた。音符を鳴らしたって音楽にはなりませんよ、あなたフォーレお好きってお言いなら、心がけて優雅なおひとになりなさい。そうでないとあらっぽくって聴けないよ。
千尋の言葉は丁寧だが、痛い言葉だった。痛い自覚をくれるから先生なのだろう。
 お稽古時間は夜明け前の一時間、運指とソルフェージュ。怠けていたので三指と四指がすっかり弱くなっている。指板を叩くとその音が指のなかに入ってくる気がする。だが音楽の優雅は指で刻んだ音のまたひとつ向こうにある。それから日々のケアワーク、家事の合間に二時間。これでは少ないな、と思うが仕事をやめるつもりはない。
きっと、もしかしたら一生介護福祉の世界を自分のフィールドにするかもしれない。キリストはそれをのぞんでいるようだ。高齢者さんから学びをいただく。そういう局面もあるが、介護職がさまざまな面で「荒野」であることは否めない。年を取らないひとはいない。誰でもいずれその荒野に入ってゆく。野の果てに何が見えるだろう。
 なろうことなら、ひとであることの反面の醜さを免れて生涯過ごしたい、と茴は思う。ドビュッシーを奏でているとことに思う。
「茴ちゃん、いい?」
 朝練を終えてチェロをケースにしまっていると、こんこん、とノックといっしょに陽奈が入ってきた。七時。陽奈にしては早起きだ。まだパジャマを着ている。襟や袖口にフリルのいっぱいついたハローキティブランド。
「これ、こないだのお詫び」
 B5サイズのピンクと薄紫のリボンキティの封筒を茴の胸元に突き出した。
「こないだって?」
「はつげろ」
 ああ、と茴は頷いた。
「懲りたでしょ。もうやめなさいって言ってもやるんだよね、性懲りもなく」
「えへへ」
 初めて泥酔午前様で玄関に転がった陽奈はそのあとさんざん茴を手こずらせた。吐くほど飲むなと口では叱ったが、まだ飲み方も限界もわからないのだから仕方がない。翌日宿酔で寝込んだが、もうけろりとして昨夜もどこかで飲んできたらしい。起き抜けの陽奈の口からかすかに酒の匂いがする。
「女子会、でもないか。先生といっしょだから」
「先生?」
「手漉き和紙の先生。ユネスコの無形文化遺産になったでしょ。美濃と埼玉から職人さんを招いて新年から半年間の特別講座。そこでこれ作ったの。初和紙です」
 封筒を開けると、ぽたぽたした手触りの葉書サイズが五枚、黄色と青、黄緑のリボンを結んだ栞が三つ入っている。
「和紙って、カルチャーセンターとかでも作れる…」
 ぼそっと言いかける茴に、陽奈は憤然と
「レベルが違います。そういう台詞茴ちゃんから聴きたくない」
「あそう。これあんたが漉いたの?」
「はい」
 お世辞にも肌理が整っているとは言えない。綿を薄くひきのばした感じで、葉書らしい厚みがぼこぼこしている。陽奈が何と言おうと、どう見ても趣味の日曜講座カルチャースクールレベルだが、葉書にも栞にも紅葉や押し花が漉きこんであり、繊維越しの半透明な彩りがそれなりに美しい。
「昔は紙が貴重品だったから、使った和紙を何度も漉きかえして使ったんだって。だから最初はまっさらでも、書いた墨色が溶け込んで、マーブルみたいな模様になるの」
「『源氏物語』や『栄花物語』などに、亡くなったひとからもらった手紙を漉きかえし、それに写経して死者の供養にしたって」
「知ってるの、そうだよね、茴ちゃん源氏好きだもんね」
「エコリサイクル。昔は無駄なものがなかったんだわね」
 ありがとう、と言って茴は葉書を朝日に透かし見た。不揃いな繊維に光がむらむら透けてきれいだ。この葉書に使える筆記具はサインペンか筆ペンだろうか。万年筆やボールペンでは繊維にひっかかってしまいそう。
 死者の手紙だけでなく、遺髪を漉きこみ、それに写経して供養したとも記憶している。紫の上の髪を源氏がそのようにしたと。茴は櫂の髪を一掴みしまってある。この子には見せていないが、そのうち光源氏よろしく和紙に仕上げてもらおうか。そしたらそこに自分は何を描くだろう。とはいえたかが半年の腰かけ講習では入門知識ならともかく、技芸は手に入らない。
朝ごはんの支度をしなければ。ケアは午後からだが、午前中できれば二時間の日課をこなしてしまいたい。ケアから戻ればもう五時近い。家事を 怠ければ時間はいくらでも作れるが、茴はいやだった。
 トースターに食パンを二枚いれ、卵を割る。今朝はチーズオムレツにしよう。それとほうれん草とベーコンのソテー。卵をかき混ぜながら陽奈に、
「実習で和紙を漉いてるのね」
「そう」
「どんな職人さん?」
「六十歳、五十歳、三十歳のおじさん」
「それはそれは」
 茴は軽く笑った。二十歳の娘にとっては三十男はおじさんか、そうに違いない。
「三十で一人前なんて職人としては若い」
「彼は助手みたいな役割。美濃の職人なんだけど、茴ちゃんが好きなカルチャースクールで、これまでも講師をしてる」
「別に好きじゃありませんよ。亜咲が藤塚の何とかセンターでデッサン教えてるでしょ。だからそう思っただけ」
「ふうん。あ、あたしベーコンいらない。パンもいらない」
「食欲ない?」
「昨夜食べ過ぎたから」
 茴は陽奈の顔を見た。きっと顔も洗っていない寝起きのままだが、サーモンピンクの頬は不摂生も知らぬげに光っている。体のなかに自然の明かりが灯っているような。
 

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