さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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セデス・カデンツァ  チェリー・トート・ロード vol13

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セデス・カデンツァ

 L,Agreableanonymの邦題は、最初の「秘めた快楽」から亜咲の提案を容れて「匿名の愉しみ」に変わった。
「秘めた快楽ってちょっといかがわしい語感じゃない? 何ていうのかしら、例えばハーレクインロマンスの副題にありそう」
 カフェ・アンジェリコ名物ピッツアの八分の一ピースを長い指でひとつかみにし、フォークなど使わず、大胆できれいな手つきで亜咲は頬張った。ピッツァは片身変わりのマルゲリータで、正円の半分は一般的なトマトの赤、バジリコの緑、それにモツァレラチーズのカラフルな組み合わせで、もう一方はチーズとオリーブだけで焼かれていた。
トリコロールでない反面のほうがチーズの量が多い。ピザ生地の何倍もの厚さでたっぷりとしたチースがとろけ、アクセント程度に表面にオリーブが乗っている。マルゲリータはピッツアの中ではシンプルで低カロリーというのが魅力なのだろうが、アンジェリコはその逆を売る。じっさい芳醇なチーズを口いっぱい頬張る美味しさは格別だった。
チーズはやわらかいモツァレラだけではなく、味の奥行を深めるために、ブルーチーズのような癖のあるものも混じっている。それに松の実なのか、しっとりとした歯ごたえのあるかけらも混じる。
「ワインが欲しいところだけれど、今夜はだめね、車だから」
 言いながら亜咲の視線はまず豹河にゆき、その隣の蝶に流れる。蝶児は亜咲の無遠慮なじろ見にちっとも臆せず、小皿にサラダとピッツァをとりわけ、亜咲と同じようにピースを手でちぎって口に運んだ。蝶の食べる仕草もきれいだった。
「ハーレクインロマンス、なるほどね、そうかも。やぼったいかな」
 茴は同意し、指を汚さずチーズをからめる女たちの手つきを感心して眺めた。手でじかにいただくのはマナーに反するのか、どうか。気軽な食べ物なのだから、ナイフとフォークで食べるのも似合わない気がする。亜咲のこういうセンスは好ましい。
 豹河はチンザノドライをジンジャーエールで割っている。マルゲリータは二枚ある。豹は遠慮なく自分の前にギリシア風の黒い半獣神が縁に描かれた陶器の大皿を引き寄せ、ピッツァを四分の一に切り分けると、そのひときれをサンドイッチのようにさらにまた二つ折りにし、がぶりと噛みちぎった。豹の名前は伊達ではない。茴は彼が噛んでいるピッツァの中身が小羊の肉でないのが残念な気がした。
「匿名のほうがいい」
 豹も同意した。
「秘めた、だと個人的に狭い感じだけど、匿名って単語なら不特定多数の感性にひっかかる」
「その説明いいわ、吉良さん」
 茴は豹を見る目を改めた。この子はどういう育ち方をしたのだろう。勢いのいい派手な音楽少年だけではなさそう。気品のある地唄舞の母親といい、いずれ並の家の子供ではないだろうが、才能はもとより、知性や感性はただ金を注ぎこんでも培われない。
「あなたは仲間と定期的なライブ活動しているの?」
「はい」
「何人で?」
「七人」
「いわゆるロック?」
 もってまわった形容詞に豹は噴き出した。
「いわゆるって何ですか? そう、いわゆるロックもやるけど、基本ジャズバンド」
「みんなうまいですよ」
 蝶がにこっと笑う。笑うとぷっくりした頬にえくぼが浮かぶ。可愛い。この子がただのマネージャーなんてもったいない、と茴は眺める。
「オリジナルを演奏?」
「いろいろよね、コピーも」
 亜咲が言う。彼女はアルコールなしのジンジャーエール。蝶はレモネード。
 トマトジュースをストローで吸い込んでから、茴は重ねて豹に尋ねた。
「作曲するのもあなた?」
「いや、スナフキンてペッター。それとピアニストも曲は作るけど」
「すごいわね」
「やりたいことをやる、他人の意見は無視しあうってのが俺たちの最小公倍数、同時に最大公約数」
「ごめんなさい、算数わからないの」
「テキトーなこと言ってますから」
 にたっと豹は口を開けて笑った。その口腔に白い牙を期待した茴は、自分の心の動きにぎょっとする。
豹河の牙で噛まれたら気持ちいいだろう、と求める感覚が、この驚きのすぐ傍にあった。隣の亜咲の顔を見ないように茴は緊張する。けれども、今この瞬間、彼女の眼がちかりと光った気がする。
「森さんに二月のライブ情報送ります。メアドいただけますか?」
 近寄ってくる豹の声は丁寧だった。

 いつも亜咲といっしょでなくてもいい、と思いながら、茴はこの翌日の夜、早速届いた豹河のメールを読んだ。
メアドはpanthegrue550gaとある。
「ぱんてぐりゅ、が」
 フランス語の辞書を引くと、ガルガンチュワの息子パンタグリュエルの名前に豹河の意味と綴りをひっかけたものとあたりがついた。フランス古典文学の素地があの青年の中にあると知って茴は嬉しくなった。幼児期にジュブナイル版で読んだガルガンチュワ物語は毒消しされていて、ほのぼのした印象しかなかった。 
 豹河が自分のキャラクターにかぶせているのは度はずれな快楽と哄笑に溢れたあく抜きしない原作のほうだろう。なるほどわかりやすい、と茴はパソコンを眺めた。数字は5が好きなのね。黄金比の聖数だ。偶然でなければ弱冠二十一歳の現代ロック青年にしてはキャパがひろい。いや、ジャズメンか。
(どう違うの?)
 とにかくいっぺんは聴きに行こう。他のメンバーも見てみたいし。
 二月の第二週の土曜日、夕方五時開演。銀座金春通りクラブ〈パヴォ〉1ドリンク付きで三千円。五時からという早い開演は幼い冬狼のためだろう。誘うなら亜咲が適当なのだろうけれど、と茴はパソコンの前で迷った。
 きっと亜咲にもメールは届いている。彼女が行くならいっしょに行けばいい。そうでなければ…と考えたとき茴は苦笑してしまった。
「ほんと、誘いたい男友達っていないわ」
 バレンタインデーに近いし、花の銀座というおしゃれな場所なのだから、気軽で親切なボーイフレンドといっしょにライブを覗けたら楽しいだろうに。
(だけど、堅気の主婦ってそんなものよね。旦那以外の男性と、ただの娯楽のために土曜の夜にいっしょに出かけましょうなんて福祉コミュの誰もたぶんできないな)
 溜息が出た。櫂が亡くなってから、今の仕事のおかげで福祉コミュ的主婦意識がしっかりと心の真ん中に根を張り、実は自分も亜咲と同じくやもめフリーランス、という感覚が皆無なことに今気づいた。なんて滑稽な自己認識だろう。
 パソコンから離れてリビングの卓袱台に座った茴の背中に、柔らかくて重いカイトがするりと身を寄せてきた。ライオン顔が茴の首にくっつく。ふふん、と舌なめずりしかねない呼気がうなじにかかった。
「おまえ、あたしのリビドーですって?」
 茴は半身をひねってカイトの顔を胸前にまわし、ぺしんと鼻づらを叩いた。これが自分のデザイアのごんげなんかではなくて、櫂のへんげだったらよかったのに。だけどそれでは無理して教会葬に押しこんだ天国送りの企みが無駄になる。
「かわいいね。櫂さんの声で何か言って」
 カイトは長い睫毛をかぶった金と黒の山羊の両目をぐるりと動かし、茴の胸にぐいっと片頬をおしつけ、その押しつけた強さのまま茴の膝に頭を乗せてのうのうとフロアに横になった。声は聞こえないが、この仕草は酔っぱらったときの夫に似ていた。

 福祉コミュの同僚たちの中でライブに誘えそうなひとはいないだろうか、と考えた。三藤町の本部で事務ワークを担当しているのでもないかぎり、訪問介護いっぽのワーカー同士ふだん顔を合わせることはない。職場は直行直帰の利用者宅。多くのワーカーたちは子供を育て終えた中年以降の世代で、堅実な暮らしのひとたちだった。亜咲のような有閑マダム然としたひとはいない。二月半ばのイベントまで、もうあまり日もない。人手不足の業界だから、いっぽのワーカーで誘えそうな女性は、たぶん週末でもひとつかふたつ訪問を入れているのではないだろうか。
介護は誰でもできる仕事と勘違いされていると思う。確かにそういう面もあるし、学歴や特殊能力がいるわけではないが、家族とさえも疎遠になりがちな殺伐とした世相のなかで、時間労働以外にも、利用者の孤独や痛みを見守る暖かく丁寧な心を届けるのは、文字通り円満な人間力の成熟がいる。
介護従事者は派遣のお手伝いさんではないのだった。同じ労働時間で高い報酬を得たいのなら、そういう働きかたもある。ワーカーたちは報酬とは違うものを求め、そこに誇りや自己実現を見出しているのだろうと茴は思っている。
 いっぽのワーカーの中で、年に一度の茴の演奏会に欠かさず来てくれる春日さんという女性がいた。年齢は茴と同じか、少し上に見える。高校生と中学生の子供がいる。御主人の職業は知らない。彼女は今三藤町本部の役員をしていて、事務所に電話を入れると、品のよい声と言葉で応対に出てくる。月一回のワーカーの例会幹事も担当していて、その場では春日さんはよくベージュやグリーンの服を着ていた。眼に鮮やかな赤系統を着ているのを、茴はこれまで見たことがない。ベージュ、グリーン、母親、主婦の色だ。
彼女は事務ワークだけでなくケアも入っているから、余計に隙ではないだろうけれど、このひとならいいかもしれない、と茴は思い切って電話をかけてみる
「ジャズライブのチケットがあるんですけれど、いかがですか?」
「ジャズ? あんまり知らないけど、面白そうね、行きたいなあ。場所どこですか?」
「銀座金春通り」
「へえ、あたし銀座は目抜きの大通りしか知らないわ。興味あるけれど」
「あたしも行ったことないです、そんなところ。チケット二枚あるから春日さんいつもあたしの舞台来て下さるし、どうかなって」
「たぶん大丈夫と思うけど、家の予定確かめます。待っていただけますか?」
 電話を切って茴はほっと息を吐いた。チケットが二枚あるというのは嘘だ。多少強引だけれど、このひとといっしょに時間を過ごすのは楽しいだろうという気がした。家庭を守っている主婦の自由時間は少ない。経済的な配慮もある。銀座まで往復の足代、チケット代、そして銀座でのお茶や外食費用まで考えたら、一万円はかかるだろう。
春日さんの御主人は寛容なひとなのかな、と茴は想像する。おだやかに笑っている表情が多い銀縁眼鏡の春日さんの向こうに、彼女の夫の顔は思い浮かばない。熊や猪を連想するほうが楽だ。
 春日さんと電話で話した後で、思いついて百合原にも電話をかけた。飯島さんの徘徊騒動で彼女や水品紗縒の娘に助けられたのに、きちんとしたお礼もしないまま一月は過ぎてしまった。もっとも、妃翠房で陽奈のために螺鈿の櫛を買ったからあちらは喜んでいた。
「その後あの方はいかが?」
 春日さんの丁寧さとは違うニュアンスで、百合原の口調も鷹揚だ。
「おかげさまで風邪もひかずに無事に暮らしてらっしゃるそうよ。ほんとに助かった。百合原さんにお礼しなくちゃって思ってるのにもう二月」
「気にしなくていいわ。透姫さん大喜びだったし。挿櫛ひとりお嫁に行ったって」
「ええ、一生ものどころか七代あとまで娘の宝物になるでしょう、いい品と出会えてこちらこそ感謝」
「お母さんどう?」
「ときどきお見舞いしてくださるんでしょう。ありがとう。彼女は相変わらず良くも悪くも変化はないわ。ただ落ち着いているから」
「それが一番じゃない? 本人が楽なように過ごせるのが。せっかくの才能は惜しいけれど」
「母はもうあんまり書いてなかったから、そんなに未練はないみたい。ただ今も作家って誇りはあるわね、これは手放さない」
「でしょうね、アイデンティティですもの。ところで二月の第二土曜日空いてる?」
「残念、予定入れちゃった。何?」
「なあんだ。銀座で友達の子がジャズやるの。ただうまいだけじゃなくライツがあるのね。ライツって、つまり魅惑よ。あなたの感性に合いそうだからどうかって」
「それ東京スタコラーズ? もしかして」
「え、そうよ、なぜ?」
 とたんにいつも落ち着き払った百合原の声は転調して高ぶった。つられて茴も少し早口になる。
「あたし、そこのバンマス吉良さんと共演するの。今年の四月」

 〈パヴォ〉は銀座中央通りの一筋内側にはいった小路「金春通り」沿いの地下にあった。長さ百三十メートルほどの金春通りの名は、古く江戸時代に能楽金春流の屋敷があった史実に由来するという。JR駅からもメトロからもやや距離があって、あらかじめネットで付近の地図など確かめておいたものの、夜遊びや繁華街には疎い春日さんと茴は、都会に迷いこんだ田舎の鼠よろしく、目的地にたどり着くまでうろうろしてしまった。
 百合原は茴たちとは別に、自分の友人と鹿香から上京するということだった。連れは透姫子で、彼女の従弟がスタコラーズのピアノマンだという。世の中はどこで縁の糸がつながっているかわからない。
 茴は今回亜咲に連絡しなかった。彼女が誘いたければあちらから言ってくるだろうと思ったからだ。茴に来た黄金比豹河のメールは必ず亜咲にも届いている。が、亜咲からは何もなかった。ライブ会場で顔を合わせるならそれもいい。亜咲は亜咲で別な誰かを連れにしたいのかもしれない。
春日さんは目黒に生まれ育ったという。
「おばあちゃんのお伴で銀ブラしたことあるけれど、結婚したらもう忙しくなっちゃって、こんな奥はあたし全然わからないわ」
 ベージュのコートに茶色のロングブーツ。ヒールは五センチ。コートの下にはコーラルピンクのモヘアのセーター、クリスタルの二重のロングネックレスはイヤリングとお揃いだ。マーメイドラインの膝を隠す程度に長いタイトスカートは濃いブルーの地に萌黄のジャガード織が重なっている。二人の子持ちというのに春日さんもほっそりしている。いつものように化粧は薄い。
 茴は着物を着てきた。ジャズライブに和服もどうかと考えたが、透姫子が来るというので、多少負けん気が動いたようだ。透姫子はうら若いのに大島紬を裾つぼまりに上手に着付け、よく似合っていた。髪をくるりと巻いてあげた襟足が白かった。自分もそんな姿に装いたいと思う。それに日頃ケアワーク中心の暮らしをしていて、和服を着る機会もあまりないから、こういうときに着物に風を通しておこうとも。
選んだのは結城紬だった。銀鼠色というのか利休鼠というのか、花曇りの空のような色合いは、如月ではやや早いが、これに藍色の刺繍半襟を重ね、帯だけ明るく錆朱の地に銀桧垣の大柄を選んだ。着物も帯も鶸のものだった。彼女はこれをお茶席に着ていた。丈も裄も少しずつ茴には短い。
 風月堂のティータイムセットをいただいてから、予定では開演三十分前に到着するはずだったが、夕暮迫ればネオンが灯る銀座の街は物憂げに面変わりし、午後とは景色が違って見え、茴ひとりでは眩惑されてしまう。春日さんは冷静に通りを読み、目印をかぞえてくれた。
「雰囲気あるところよね」
「派手な店がないところがコアな感じ」
 金春通りに入るとこんなセリフが二人の女の口から時々こぼれた。観光地ではないから特におしゃれな店構えが目に入るわけではないが、小料理屋なのか飲み屋なのか、それともいわゆる高級なバーなのかクラブなのか、チェーン店とは違う構えはどれも、表は小造りに瀟洒で、客を惹くぎらぎらした彩りがないのは気持ちよかった。
「こういうところで遊ぶひとってどんな人かしら、春日さん」
「さあ。会社の社長さんとか? 芸能人?」
 櫂もそれなりに遊んだ男だし、営業接待などもあったから、こういうところに入り込んでいたのかもしれない。茴はまた自分の無関心にあきれる。わたしは自分のテリトリー内の夫しか興味を持たなかった。領域の向こう側で男が何をしているのか、茴はほとんど気にかけたことがない。櫂が自他の境目をきちっとつける、家庭に対してまともな男だったということかもしれない。思わずぽつりと、
「あたし幸せだったんだ」
「なに?」
「春日さんの御主人、お仕事どんな?」
 さらりと訊けた。相手のプライヴァシーを質問するのは職場のタブーではないが、夫の仕事≒社会的なランク付けになりがちなのでなるべく踏み込まないほうがよいのだろう。おおざっぱに見て福祉コミュは程よい暮らし向きの主婦の集まりだった。ただ必ずしも夫婦仲がよいとはかぎらない。働き蜂だった夫が退職後、妻への過依存にたまりかねて福祉活動に逃げこんだという女性もいる。
 春日さんはごく自然に、
「サラリーマンよ」
 それから茴も知っているある企業の名前を挙げた。エンジニアなの、と。
「働き盛りですね」
「そうね、だって先が長いもの。しっかり働いてもらわなくちゃ」
「どうして福祉コミュに参加したんですか」
「自分のため。社会に自分の力で貢献できるっていう実感が欲しかったの。それとやっぱり自由に使えるお金が欲しいから。あと、おじいちゃんおばあちゃんが好きだからかな。森さんは?」
「あたしも自分のためです。楽器だけじゃなく、何かしっかり社会に足場が欲しかった」
「そういう意味ではうちはやさしいところよね。いじめとかないし、お局さんもいない」
「そう、ほんとに。人間関係の難しさがないですよね」
「森さん、楽器が弾けていいわね。あたしも小学生のころまでヴァイオリン習っていたのよ。やめなければよかった」
ここでしょう、と春日さんはヒールの足音を速めた。茴たちの前に数人、さらにその先に十人近くのグループがまとまって、皆ぞろぞろと黒いビルの脇に入ってゆくのはきっとライブの客に違いない。
このビルの一階は呉服屋で、ショーウィンドーに袋帯、名古屋帯、帯締め、紬の反物などが飾ってある。列に並んで待つ茴は、ウィンドーの名古屋帯のお太鼓部分の飄げた一筆書きの絵に眼を奪われる。染めではなくきっと一点制作だ。面壁九年の達磨大師をうまへたで大胆に描く名人芸の筆は、仙がいさんに似ている。やっぱり銀座はちがう、と茴は他愛なく感心してしまう。
「お寒い中、お待たせして申しわけありません。エレベーターに多人数は乗り込めないので、もう少々お待ちください」
 パヴォのバーテンか、スタコラーズの関係者とおぼしき声の柔らかい中年の男性が出てきて、寒気にさらされながら入場を待つ行列に軽く挨拶してまわった。予定五時の開演時間は過ぎている。彼は余裕のある物腰で客にいちいちお辞儀をする。その姿が自然で大きく、何かの使用人という小さい感じがしない。光沢のある黒いシャツ、黒いズボン、頭を赤いバンダナで覆っている。
続いてもうひとり、エレベーター口とは異なる非常階段扉から現われた。夜目にも鮮やかな黄色いジャケットを着て、黒服の男の後ろからぬっと首だけ突き出すような感じでこちら側を見ている。天に逆立つふわふわもしゃもしゃした髪が、黒服のぴしっとした赤いバンダナと対象的だ。彼はわざわざ首を右左に大きくめぐらして長い行列を見渡すと、前歯を見せてひゅひゅっと笛を吹き、言った。
「満席だ、いたでめ」
 いたでめ?
 隣で春日さんがくすっと笑った。ああ、めでたい、ね。茴はささやいた。
「ちょっとおBなオヤジじゃないですか?」
「おB、ほおんと。あ、エレベーターに乗れそう」
 会場は半照明でほの明るい。ステージにはグランドピアノ、ドラムセット、いろいろ並んでいる。間口は狭いが奥行があって、客席は百くらいありそうだ。ライブ会場として大きいのか小さいのか茴にはよくわからない。
椅子を真横に十ずつ並べた客席の反対側にL字型のカウンターがあり、そこに東京スタコラーズのメンバーらしい少年たちが屯している。そちらは照明を絞ってあるので、顔見知りの豹河と、もうひとりスカーレットレーキのワンピースを着たグラマラスな黒人の少女以外の印象がつかめない。
髪を縮らせ、スカーレットにお盆のような大柄の白抜きドットを飛ばせた膝上ミニワンピースの彼女は少年の群れの中で太陽のように輝いて見える。客の視線はきっと全部彼女に集まるだろう。黒い顔の中で不敵な光を放つ彼女の白目が際立って大きい。シンガーのアフリカというのはこの少女、と茴は眼を見張る。目立って小さい冬狼はカウンターの前の高い回転椅子に座って、ペットボトルのドリンクを飲んでいる。
空席を探す茴に、客のざわめきの中から百合原の声が聞こえた。
「ここよ、席とっておいた」
 前から二列目の、ほぼかぶりつきに近い椅子に百合原香寸と透姫子がいる。透姫子は今夜は和服ではない、と茴はまず彼女の衣装をチェックし、当てが外れたような気になった。
 百合原は立ち見も出る混雑の中で、堂々と自分たち以外の席を二つ確保してくれた。
「ありがとうございます、迷っちゃって」
「そうだと思った。こちらは?」
「森さんの同僚です、よろしく」
 春日さんが言うと、百合原は、
「あら、じゃ介護の。あたし丹階堂で助け合い作業所やってます。ご存知でしょうか。卯咲苑、一般にはうさぎの国」
「え、知ってます。うさぎの国って、福祉バザーで商品出されてますよね。うちの配食サービスにもそちらさまの方がワーカーで参加されてますね」
「そうよ、まあ偶然。でも湘南エリアなら当然な偶然よね」
 百合原と春日さんはうまがあうようだ。二人とも弱者を庇う仕事をしているから、すぐに相手との適切な心理的バランスをとる。
 茴は後ろのほうを見回した。亜咲がいるだろうか。彼女の姿は見えない。別な誰かが首を伸ばした茴に向かって長い手を振ったように見えた。紫羅だった。太陽の反対側に月光が射す。紫羅は会場中程に座っているが、姿は周囲のすし詰めにちっとも紛れず、彼(彼女)の美貌の特徴である卵型の輪郭と,眉間からまっすぐに抜ける快い高さの鼻梁で異国の血を明らかにしていた。
茴はまた紫羅の隣の少女にも驚いた。遠目だが、少女が紫羅の連れだとはっきりわかる。別におそろいの服を着ているわけではない。アンドロギュヌスは黒っぽい服を、十二、三の少女は白いタートルネックのようだ。これぞ端麗という紫羅に並んでも、少女の清楚で晴れやかな印象は見劣りしない。まだ幼げな、今は昔の全盛期少女漫画のヒロイン顔そのまま、絵に映しとりたいほど。少女は美しいが、東洋人に違いない。いや、日本人。大和撫子…若紫。自然にそんな言葉が茴の記憶から紡がれる。
(あの子、どこかで)
 見たこと…会ったことがある、と脳裏をよぎった瞬間、少女と茴は視線が絡み、彼女の眸がぱっと大きく見開かれ、茴の海馬にセルリアンブルーのフラッシュが走った。
 マイルスに捧ぐ!
 ざわめきをつんざいて絶叫。同時にいきなり暗転した。茴は溶暗の眩暈でぐらりとする上半身をどうにか椅子に納めた。
 グランドピアノを取り巻いて演奏が始まった。トランペットがメインの出だし。茴はこの楽器をよく知らないが、緑の帽子を被ったプレイヤーが相当うまいということだけはわかる。強弱、アクセント、タンギング、ときに指使いを駆使して、弦楽器のグリッサンドのような水飴音を作る。
「TUTUよ。マイルス・デイヴィス晩年の名曲」
 茴の隣で百合原が教えてくれた。
「初めて聞くけど、いいわね」
「ペットがうまくなくちゃ聴けない曲よ」
 百合原もたしかピアノを嗜んでいた筈だ。
 トランぺッター・スナフキンは、その名前のとおり、緑色のスナフキン帽を目深にかぶっている。帽子の山裾には黄色と赤の花輪。それに白い半そでTシャツに膝の抜けたジーンズ。着ているものはラフだ。彼は客席に背を向け、猫のように上半身をまるくして演奏しているので顔が見えない。がっちりした中肉中背は二十歳をだいぶ過ぎているように見える。Tシャツの背中には初老のハンサムな黒人男性の顔が大きくプリントされている。威厳のある王族のような顔だ。
「あれがマイルスよ」
 百合原がまたささやく。茴は思わず、
「あなた、ジャズ好きだったの?」
「そうね、どっちかといえば好きよ。透姫さんの従弟がジャズメン目指すって聞いてから、前より聴くようになったわ」
 茴は百合原の向こうの透姫子を見やった。ステージに注がれる彼女の睫毛が長い。誰を見ているのかしら。従弟かな? 茴は透姫子の視線を追ったが、ミラーボールのカクテル光線に透姫子のまなざしのベクトルはかき消されてしまう。
 豹河のフルートがひかえめにトランペットに絡んでくる。緩急吹きまくり遊びまくるペットをそっと脇から支えるような、自分を抑えた吹きかたをして、昨年末の〈インディゴ・ノイズ〉の独壇場とはまるで違う。
彼も白いシャツにジーンズだが、彼のボトムスには何色ものポスターカラーをぶちまけたようなカラーリングがしてあった。ジーンズの上からめちゃくちゃにいくつもの原色絵の具の壜をひっくりかえしたような色味だ。〈インディゴ・ノイズ〉で豹河は額に「神風」を貼り付けていたけれど、このジーンズも暴走族っぽいキッチュだった。
 ピアノにサックス、それにパーカッション、奥のベースは長い白髪を豹河と同じように後ろに束ねていた。
(高齢者もメンバーなんだ)
 つい茴はベースをしげしげ見てしまう。少年団と思ったのに、異色の顔だ。鼻の下のカイゼル髭はきっと付け髭だろう。老けたチャップリンのような感じだった。演奏はうまくない。ジャズ初めての茴の耳にも、彼の弾く音がときどきずれているのがわかる。それとも意図した不協和音なのかな、と首を傾げるが、ペットとフルートのハーモニーがぴたっと調和しているので、ベースの指の不随意運動の結果と知れた。
 ピアノマンは長めの前髪をときどきかきあげながら、さもめんどくさそうに鍵盤を叩いている。気取りかたが若いなあと思う。これも可愛げなんだろうな、きっと上がってるんじゃないかな。さらさらした癖のないきれいな髪だ。後ろは短く刈り上げて、前髪だけ長い。髪をかきあげるたび、顎を上に向けると、すっきりした横顔があらわになり、そのシルエットが紗縒の娘に似ている。なるほどこの少年が透姫子の従弟。
「みんな何歳くらいかしら」
 春日さんがつぶやいた。
「フルーティストは二十一だって言ってました。あとは…ベース以外はハイティーンか二十歳前後じゃないかしら」
 茴が応えると、春日さんはさらに、
「どうしてトランペットさん、ずっと後ろ向きなの?」
「さあ…」
 茴も同感だった。シャイなのかな。その割にはトランペットを吹きまくる後姿のアクションが大きい。
 シンガーが出てこないままTUTUは終わった。フルートとペットが客席に横向きに背中合わせになり、膝で弾みをつけてステージの真ん中でジャンプし、最期の音を高く吹きとばした。瞬間に暗転。 
しゃらしゃら…と残った闇の静寂を撫で、冬狼のスプラッシュだけが続く。闇の中で白いシャツの少年たちが移動するのが雲のようにおぼろに見える。客席の茴には一曲終えた彼らの弾んだ呼吸が聞こえる気がした。
再び照明。スポットライトだ。明かりは二本で、一本は背景の冬狼に、もうひとつはカウンターから長く豊かな膝を伸ばして、腰を揺すりながら中央に歩むアフリカに注がれた。ナイスバディのアフリカの胸や腰が歩くたびにふるふると揺れる。ウエストってどこ?と三回見てもくびれのわからない堂々とした美女、いや美少女かな? だ。粘膜の外側に大きくめくれでた唇が薔薇の一番外側のはなびらのように紅くしろい。闇の中でさざ波を寄せていたスプラッシュの刻む拍子が八分の六になった。

あたしはパパがいない
あたしはママをしらない
ヤカンの中はからっぽ
 夜には神様が来てヤカンをわかす 
 水のないヤカンのなかで
 神様は言う
 愛だけが人生
 愛だけが真実
 だけどあたしはあんたが好き

 あたしは家がない 
 あたしはふるさとがない
 パンティを洗うのはキッチン
 夜には神様が来てせっけんをくれる
 お湯の出ない蛇口で
 せっけんをくれる神様は言う
 悔い改めよ
こころを浄めよ
 だけどあたしが好きなのはあんた

 あたしは日本人じゃない
 あたしは地球人じゃない
 もうこの星がいやになった
 夜には神様がいろいろ言う
 パパもママもいらない
 地球が壊れたら天国があると
 バカヤロー
 あたしはあんたが好き
 あんたって

 誰? と小首を傾げてアフリカは冬狼の飾るリズムの中だけでブルースを歌い納めると、粒のそろった白い歯をゆったりと滲ませ、まだ少女っぽい笑顔を見せた。

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