さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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ジルベルト・ブリッジ  チェリー・トート・ロードvol14

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   ジルベルト・ブリッジ

 陽奈と二人きりの暮らしになってから、いや、その前から洗濯物を片付けるのは茴の役目になっている。櫂の生前は陽奈がまだ高校生だったこともあって、家事全般茴が済ませていた。娘は片付けがあまり得意ではない。乱雑というほどではないが、家の中で陽奈が動きまわるそのまわりは、なんとなく家具の姿や雑貨のありかが緩くなった。
櫂が逝き、翌年大学生になってから、茴は娘と家事をシェアすることにした。福祉コミュの仕事を始め、決心してチェロを再開したためもある。
 立春を過ぎてもなお寒さは厳しいが、日中の陽射しはふっくらと大きく、風の中にふと早春の香り高い花の気配が混じる。洗濯物の籠を抱えてベランダに出ると、五階の高みまでどこからか沈丁花の匂いが漂ってきた。
 女ふたりだけの生活の割には、他の家庭より洗い物の量が多いかもしれない。衣類肌着などはもちろん、キッチンや浴用タオルなどをまめに交換する。
 いくつかある洗濯ネットのひとつは陽奈だけの小物だ。下洗いしてからネットに入れるように、陽奈が初潮を迎えた十三歳の春に教えた。そうだ、ちょうどこの季節だったのではないだろうか。
 ピンクやすみれ色、白、ブルー、ときどき赤、黒。ストライプに水玉、ハローキティに小花模様。柔らかいフリルや透かしの入った陽奈の小さく賑やかな布を洗濯ばさみに挟みながら、茴はこのごろ、このかるく甘い彩りが、陽奈という少女鳥が日ごとに自分から抜き散らすふわふわした羽毛のように見えることがある。
よごれどめを使っているそれらは、繊維が擦り切れても視覚にはただ甘い。陽奈がいつから生理の期間以外にもよごれどめを使うようになったのか茴にはわからない。そうしろと茴が教えたわけではないが、真似をしたのかもしれない。
 茴の小物は陽奈のそれより白や黒が多くなる。赤系統の下着は昔からほとんどなかった。水色、ピンク、生成り、白、黒。大きさは娘と変わらないがレースの装飾などは若い陽奈よりむしろ多いかもしれない。このごろは生成りの薄いシンプルな下着を選ぶようになっている。飾りや透かしが鬱陶しくなってきたようだ。櫂がいなくなったからだろうか、それとも介護福祉、あるいはチェロを始めたからだろうか。肉体をラッピングする手始めの布一枚の装飾を五線譜への感情移入に移し替えた、と青空にひるがえる洗濯物を眺めればきれいな言葉だが、娘のあれこれと並べるとやはり寂しさがあらわに見えた。
 嗅覚は二月の大気に透きとおる沈丁花の香を嗅いでいる。
(女ってめんどうだなあ) 
「茴ちゃん、コーヒー淹れたよ」
 何してるの、と陽奈が出てきた。水色のセーターにたまご色のミニスカートを穿き、セーターの上に紺のジャケットをひっかけている。陽奈にはぶかぶかしてしまうそれは櫂のニューヨーカーだった。
 陽奈が出てきたとたん、彼女のうしろからトーストとコーヒーの焦茶色の香りがベランダにあふれ、沈丁花と青空の透明感を駆逐してしまった。陽奈は手に黄色いマフラーを握っている。それもジャケットと同じブランドで、もう出かける寸前という顔だった。
「それ大きすぎるわ」
「ジャケット? いいの、これ着てく。あったかいもん」
 陽奈は口をとがらせた。口紅のグロスが朝陽にぴかっと光る。
「それとも茴ちゃん欲しいの?」
「欲しくない。着られない、重くて」
「重いかなあ」
「メンズ用品てほとんどは鎧みたいよ」
「そういう意味ね。あたし違う意味かと」
「気持ちが重いかって? そんなことありませんよ。あたしそんなにウェットじゃない」
 あそう、と陽奈は茴の口癖をなぞって眉をあげ、室内に戻っていった。窓はあけっぱなしのままだ。暖房の風がゆるゆると外気に流れてくる。茴は窓を閉めた。
 陽奈の洗濯ネットから濃いグリーンのブラジャーを出す。濃い緑に濃い赤のドットが飛んでいる。ワイヤーの入った曲線を飾る細かいレースも赤。カップの真ん中に黒い小さなリボンが金のビーズボタンで標本箱の蝶のように留まっている。サイズは
「まあ、あたしより大きいの」
 おかしくなった。自分より体格がいいのだからあたりまえではないか。胸も腰も、陽奈は健康にまるい。そのように育ってほしいと願い、ひそかに自分が童話の継母みたいになったら怖いと自制しながら、亜咲の言い草を借りるなら慎重に雛鳥を餌付けしてきたのだから、何を驚くことがあるの?
「陽奈のおっぱいと、あたし、か」
 四十代に入った自分の胸の触り心地はどうだろうか、と茴は考えようとした。考えられなかった。
 リビングに戻るともう陽奈鳥は飛び立って姿が見えなかった。食卓の上にトースト、ママレードの壜、コーヒーと食べきりサイズのミニヨーグルト、それに自家製野菜ジュースがランチョンマットの上に並んでいた。
 野菜のスムージーはその都度陽奈が作ることになっている。ミキサーにバナナかリンゴ、ニンジン、アボガド、セロリなど、そして必ずプルーン、蜂蜜、豆乳を加えている。
 このごろ陽奈はダイエットを始め、朝食は自作のスムージーとカルシウムウェハースだけの日もあるようだ。まったりと濃いスムージーのグラスがどかんとテーブルに出ているということは、陽奈は今朝もダイエット食で済ませたに違いない。茴の眼に陽奈が太っているとは見えない。痩せてはいないが、プロポーションはよいのに、と思う。だが本人の自分を見る眼は厳しいのだろう。
「パパさんへの紅茶忘れてる」
 つぶやいて、自分ひとりの声の大きさに面喰らった。ラジオもBGMもないリビングに、かすかな風の音とエアコンの振動、いくつかある掛け時計、置時計の音だけが、茴以外の気配だ。陽奈がいない、ひとりの空間の静けさ広さが、きれいに整理された住まいの中で圧迫に近い確かさで浮き上がってきた。
 とっさに、独居高齢者、身寄りのないそのひとたちを抑える静寂の嵩はどれほどだろう、と茴は今感じた幾瞬間かのストレスを自分より弱い他者を思いやることでカタルシス…かるく…した。自己防衛かもしれない。陽奈がいなくなったら。週に一度は、いつか来る親離れの未来が心をかすめる。
 茴はアッサムの紅茶を淹れて、陽奈が買ってきたヘネシーを垂らすと櫂の遺影に供えた。生前愛用していた赤茶色の唐津のマグカップは、紅茶には向かない厚手だが、土の感触をほのぼのと手に伝える器の質感は櫂そのひとを偲ばせる。
(カイトはどこかしら。陽奈の部屋かな)
 ケアは午後からなのでチェロを弾く時間もある。そういえば一両日カイトが現れない。茴も陽奈もすっかり能天気にカイトの出没を気にかけなくなっているが、もしかしたら人間側のこうした非現実な許容を誘うことが、キメラの妖怪性なのかもしれない。
 茴はチェロの箱を開く前に陽奈の部屋を覗いた。櫂と結婚したとき、七歳の陽奈の部屋は、親たちの寝室から遠く離れた西側の洋間になった。
「カイト、いる?」
 言いながら、茴は多少やましい気分になった。娘の部屋を親が覗くのはいけないことではないはずだが、茴ははっきり気持ちが小さくなる。他人の室内に踏み込む躊躇を打ち消すための言い訳に、ことさらカイトを呼んでみる。いないことはわかっているのに。
「カイト?」
 壁紙から始まってピンク色の多い室内の家具は少なく、整理整頓されてはいなかったが、雑誌や衣類の散らかりようも女の子らしくつつましかった。入ってすぐ目の前の壁にアンディ・ウォーホールのポスターがわっと大きい。サイケなブルーバイオレットとレッドのマイケル・ジャクソンの顔。すぐ傍の窓際の机の上にはパソコンとミッキー&ミニーの大きいぬいぐるみ、画材いろいろ。ベッドの上には彼女の幼馴染のトトロがみっつ。レースのカーテンが吊られた小さい張り出し窓にプリムラの鉢。
 マイケルが陽奈の好みのタイプ? いいえ、ベッドヘッドの間上の壁にはカラフルなレイモン・ペイネの額絵が飾ってあった。コバルトブルーの空のなかで赤い服を着た少女と黒いジャケットを着た青年が白い鳥に乗って寄り添う。恋人たちの周囲には南国のような色とりどりの小鳥がたくさん飛んでいる。
 陽奈の部屋のアンディもペイネも、ポリクロームで抑圧がない、と茴は眺める。銀髪のアンディは少し上目遣いで「世界は遊園地だ!」と皮肉る。だけど彼はきっと自分の台詞じたいちっとも信用しなかった。ペイネはどうだろうか? 血のつながらない娘。七歳から時間と空間をシェアしてきた無垢な友人の選ぶ世界はシニスムやニヒリズムではなく、鳥たちに祝われたまるいペイネふうな花輪の中であれと願う。
 ミッキー&ミニーの前に、色鮮やかな手提げ紙袋がきちんと肩を並べている。隙間なく並んだ赤と茶色と金の手提げ紙袋は、茴も好きなショコラの名店のものだ。
(バレンタインデー、誰にあげるのかしら)
 のんびりした部屋の中で、そこだけぴしりと揃ったお菓子の姿に陽奈の緊張感を見て茴は微笑んだ。ひとつ、ふたつ…。
 六個ある。義理と感謝のチョコサービスも高級ブランドを選ぶとお財布がたいへんだ。ホワイトデーに元がとれるのかな? 似たようなショコラ、貰う相手はどんなひと。
 袋にはそれぞれ目印に小さい附箋が貼ってある。蛍光色のピンク、ブルー、イエロー、グリーン、オレンジ。
ではそれぞれ中身が違うんだわ、と茴は次第に詮索を始める。五色、ひとつだけ附箋がない。袋の大きさは同じだけれど、似たような袋の中で目印なしでチョコレートを贈るということは、中身と受取人を陽奈が絶対に間違えない大切な相手ということだ。
(マジ告白チョコだったりして)
 それをそっと袋ごと手に取ってみる。おきまりの派手なラッピングペーパーで包まれた小箱はどれも大きくはない。他の袋と手重り具合を比べてみる。思いなしか、予想本命君は附箋付対抗君より軽い感じだ。
(ということは甘いものがあんまり好きじゃない相手なんだ、本命ほんと?)
 アーモンドチョコと思って噛んだら、ウィスキーボンボンだった、というほどの驚き。

 水曜日に篠崎さんの朝ケアが入るようになって、昨年よりもこの日はずっと慌ただしい。自信たっぷりにひきうけたものの、老衰が重くなった月さんの身体介護は、しばらく家事介護ばかりつとめていた茴には、やはりうろたえる場面が続出するのだった。
 九十歳を超える高齢ということもあって、一月退院以来、月さんの回復はおぼつかない。排泄はできればポータブルで自立してもらい、ベッドに寝たきりにさせず、寝間着から普段着への更衣もする、などとケア依頼書にはあったが、ヘルパーが入らない時間帯は、結局寝かされきりの月さんの脚は萎えて、すぐにおむつになった。
「時々は自分で動いてポータブルも使うんだって」
 ギャザリングの向野さんからサポート電話が時折入る。福祉コミュのギャザリングは上司とは違うが、温かい声と気遣いがうれしい。じっさい、単独で重度介護者のケアを済ませるのは、体力と度胸がいる。
「動くって、どうやって」
「さあ。お嫁さんから連絡があったんだけど、ポータブルに済ませて、それからがんばって自分でベッドに戻ったんだけど、ほら、疲れちゃうでしょ、お尻とかうまくきれいにできないで、おむつも剥いじゃって、自分で直せなくて、夜になってお嫁さんが行ってみたら、まあ、後始末がどうしたとかってさ。夜までほっとかれた月さんのほうが大変だよ」
「ヘルパー入ってなかったんですか?」
「家族対応で日曜は済ませたかったらしい」
「月さんおむつ嫌なんでしょうね」
「だろうね。ぼんやりしてるように見えても本人は結構クリアなのよ。自尊心があるから、やれることはやりたいんじゃない。だから、森さんケアに入って篠崎さんが返事しなくても、ちゃんと彼女の意思を尊重して、いちいち聞いてからおむつ交換してください。ヘルパー都合でがんがんやると、きっとほら悲しいのよ」
「ですね」
 わかりました、と答えたが、この翌日、時間よりも少し早目に入った月さんの寝室のベッドはからっぽだった。
「うそでしょ」
 茴は布団がずれてめくれた月さんのベッドを手でさぐる。シーツはひんやりしているが、掛け布団の奥には体温が残っている。
 ポータブルの蓋を開ける。使っていない。
「うそでしょ」
 まぬけなつぶやきが繰り返し漏れる。アドレナリンが急上昇して硬直しそうだ。
「月さん、どちらにいらっしゃるの?」
 寝室の暖房は適切だが、この古い家で空調が整っているのはここだけだ。廊下もキッチンも外気と変わらぬ二月の冷気そのまま。
 空腹をこらえかねたのか、と最初に台所を探す。朽ちた木造家屋の、湿った土によく似た匂いが籠るキッチンは、茴が毎週水曜日に来るたび荒れまさる雰囲気で、今朝はLED照明まで動顛のあまり暗く見える。月さんの影も形もない。茴はぞっと鳥肌がたった。
「月さあん」
 トイレ、いない。風呂場、いない。寝室以外の生活空間はどこも暗くて寒い。納戸はどうだろう? 月さんが納戸と言っていただけで、昔は立派な奥座敷だった。今は篠崎家の古道具や葛籠が積んである襖の奥は?
「歩けないわけじゃないんだった。這っていけるかもしれないんだわ」
 襖絵は住吉の浜に金銀箔の松風が吹く。いつだったかこの襖障子を夢に見た。
(月さん、ふくれんぼうが来るとおっしゃっていたわね)
 夢の中で、黒塗りの取っ手から血がたらたらと流れたことを茴は思い出し、寒気のせいではなく背筋が冷たくなるが、ケア中だから余分な恐怖は蹴飛ばす。月さんの身に万が一のことがあったらそのほうが怖い。
「入ります、月さん、いる?」
 建付けが歪んだ座敷の敷居は力一杯でなければ開かなかった。ずっと前に覗いたときは、唐草模様の布団袋のようなものが見えた、気がする。
 軋みながら細く開いた中はまっくらだ。閉めきり同然の雨戸と襖を隔てて日光はここに届かない。茴は体をひねってするりと入り込み、眼が慣れた薄闇のなかで裸電球を点けた。
 いた。
 布団袋から紅絹の真綿布団をひきずりだし、月さんはその上に肘枕で横たわっている。豪華な金銀の日本刺繍で鶴亀が縫い取りされた厚い昔布団は、婚礼用でもあったのだろうか。
 凍える寒さなのに、月さんはパジャマ一枚で、ズボンから二本の槍のように両足が覗いている。痩せた両肩に較べて、夜用おむつをあてた腰回りが大きい。視線を腰から下半身に移すと、パジャマから突き出た足の細さが余計に痛々しく見える。
「月さん? 風邪ひいちゃうよ」
 とりいそぎ呼吸を確認。はっきり寝息が聞こえる。顔の表情はしろくおだやかだ。苦悶を表す眉間の縦皺、口元のすぼみ皺はない。頬はこけてしまったが、こんなに寒いのに、月さんは気持ちよさそうに、眉を高くして眼をつぶり、すうすう寝息をたてている。
 認知症のひとは、往々にして温度の感受性が狂う。それかもしれない。
「這ってきたの? ここまで」
 茴は月さんの腰の周囲を探った。夜間は大量失禁対応のおむつの中にさらにパットを重ねているおかげで、美しい婚礼布団は汚れていない。だが、これから茴はひとりで月さんを寝室へ移動しなければならない。車椅子を持って来よう。

「それで、あなたどうしたの?」
 向野さんが呆れ半分、感心半ばで尋ねてくる。電話の向こうのギャザリングのちょっとめんどくさそうな顔が見えるような声だ。福祉コミュの古株ワーカーは現役時代相当のキャリアを積んで、まだ働ける職後余勢のエネルギーを、社会貢献に捧げる女性が多い。彼女は幼稚園の園長先生だったそうだ。
 それを聞いて茴はなるほどと思った。向野さんは初対面の高齢者を少しも緊張させない。堅苦しくなく相手の警戒心や不安を、気さくな口調でやすやすとほぐしてしまう。園長先生だったころ、向野さんが幼児にしっかりと、だけど優しく話しかける表情と腰をかがめた低い姿勢が茴には見える気がする。
「車椅子でベッドの傍に運んで移乗させたんですけれど、時間がかかってしまって」
「重かったの?」
「いえ、納戸で寝ていた篠崎さんを引き起こして車椅子に座ってもらうのがちょっと力仕事で」
「ああ。腰がたたないからね。抱き上げたのまさか」
「はい、まあそうです」
 やつれたとはいえ月さんの体重は茴とほぼ同じくらいある。全体にぐにゃりとして、同時に手足の硬い篠崎さんは、最初車椅子の肘当てをしっかり掴んでくれず、頭もぐらぐらしてまるごと茴にもたれかかってきた。
(ああ、腰やっちゃいそう)
 篠崎さんの後ろに回り、膝の筋肉を梃子にして、どうにか月さんの上半身を起こした。
「なんだい、できますよ」
「はい、起きてください、あたしひとりじゃできませんよ」
「あんた仕事でしょ、ちゃんとやってよ」
「なんだ月さんしっかりしてるじゃない。どうしてここに来たんですか、寒いのに」
「お姫さまとかくれんぼう」
「え、何ですって? お姫さまって、あのザシキワラシ症状、学名なんだっけ」
 レビー小体何とかだっけ。またあの青い眼のきれいな子が来たの? 彼女は、え?
 茴の脳裏を甘美な耽美が錯綜するが、目下それどころではない。正気づいた月さんは遠慮なく文句を言う。
「寒いよ、森さん」
「はいはい」
 汗みずくになって茴が格闘しているうちに月さんの意識はしっかりしてきたようだ。肘骨の突き出た腕を自分から伸ばして車椅子の肘当てをつかんでくれた。
「ハイ、オッケー、立ちますよ、いいですか、せえの」
 もういっぺん身体介護の技術をおさらいしなくちゃ、と茴はしみじみ思った。介護福祉士試験のとき実技を必死になって先輩介護士から習ったが、現場で使わないとすぐ忘れ、あたふたしてしまう。
「いたた、やだよ森さん」
「すみません、我慢してください」
 骨折後の膝は今も立たない。最後に茴は火事場の馬鹿力をふり絞り、大柄な月さんを後ろから赤ちゃんのように抱えて腕ずくで立たせたのだった。
 ここまで話すと、電話の向こうの向野ギャザリングはけらけらと笑い転げた。
「あんた、そんなこと重ねるとぎっくり腰やっちゃうよ。腰ベルトしてください」
「今度から持っていきます」
「大丈夫? 体は」
「少し首と腕が…。腰も」
「仕事できるの?」
「え、なんとか」
 から元気でもへこたれない。向野さんはまだ笑っている。それで、
「何事も経験よ。じゃこれからもよろしく」

 師走にケア担当となった矢田部冨美男さんは回復めざましい。ヘルパー訪問は今のところ週二回。その他にデイケアにやはり週二回通い、きちんと時間をとってリハビリにつとめ、自宅ではちゃんと食事療法を守る。認知症状はまったくない。車椅子生活の今も、パソコンを使って負担のない程度に会計士の仕事を続けている。向野ギャザリングから前もって忠告された易怒発作も、リハビリ計画を立て、日々実践する消耗に紛れるのか、今のところ茴は蒙っていない。
 奥様が亡くなってから独り住まいなので、晩御飯は福祉コミュの配食サービスを利用し、朝昼は野菜中心の医食同源を心がけていた。包丁を使えなくてもいまどきは千切りも薄切りも専用スライサーで簡単にできる。主な食材は、離れて住む息子さんや娘さんが宅急便で送ってくれる。
「うどんお願いします」
 矢田部さんが茴に頼む昼食は麺類が多い。連絡ノートに記録された相方ヘルパーの献立を見ても、そうめんやそば、たまにパスタなどとなっている。
「うどんは半玉でいいです」
 カロリーを計算して主食を減らし、その分野菜をたっぷり入れる。うどんの時の蛋白質は鳥ささみ二本と決まっていた。 
 茴が料理を作っている間、矢田部さんは大画面で健康体操のDVDを見ながら手足を動かしている。移動はまだ車椅子だが、動画のインストラクターの運動に合わせて、上半身をストレッチし、下肢筋力トレーニングに膝上げ運動を左右決まった数だけこなす。このごろは膝上げのとき足首に重りを巻いている。
「がんばってらっしゃいますね、すごい」
「死ぬまで元気でいたいからね」
 茴が声をかけると矢田部さんは微苦笑を浮かべた。たぶん、自分の子供たちよりはるかに若い茴に真顔に褒められるのは微妙な気分なのだろう。大手町にオフィスを持つ矢田部さんの眼から見たら、茴や相方の澤田さんなど小魚に見えるかもしれない。
 だがヘルパーやギャザリングに対する言葉遣いは丁寧だった。そして時々、茴の耳にせつなく聞こえることを言う。
「ねえ、森さん」
「はい」
「僕はこうやってちゃんとリハビリして調子を取り戻したらあと十年かそこらは生きられるよね」
「もちろんです。ご立派です。矢田部さんくらいきちっとお食事や運動に自己管理されて、意欲がおありなら、百歳までも」
 矢田部さんは口を開けて笑った。
「ははあ、百まではしんどいね。だけどあと十年はぴんぴんしていたいよ」
 いくらかその笑い声に力がないのは、不自由な下肢がつらいからだろう。元気なときはスポーツマンだった矢田部さんのリビングには、ゴルフのトロフィが何本もある。そしてトロフィの並んだ飾り棚の中には、高価な洋酒の壜が沢山。
 鳥ささみうどんは簡単だから、二十分の動画体操が終わるころ、ちょうどできあがる。
「あなた料理うまいね」
「そうですか? ありがとうございます」
「もうちょっと味付け濃くしてくれてもいいよ」
「はい」
 茴は内心小さく舌を出す。人の上に立つ賢いひとはこういう物言いをするのかと思う。苦情も褒め言葉のオブラートで包む。糖尿病を気遣う茴や澤田さんの手料理は、美食に馴れた矢田部さんの味覚には物足りない感じがするのかもしれない。高齢者と病人対象の配食サービスも基本は薄味だが、
「このごろあなたのところの弁当もうまくなったよ」
 と、矢田部さんはまたしてもデリケートな感想をぽろりとこぼして箸をとった。
「森さんの御主人どんなひと?」
 うどんを啜りながら茴の身の上を尋ねる。
「亡くなりました」
「なんだ、悪かったね。じゃやっぱり結婚してたんだ」
「はい」
「お子さんはいるのかい」
「娘がひとり」
「ほう」
 昼ご飯を食べている間はどたばたしないでほしい、という矢田部さんの希望で、ヘルパーはキッチンで待機することになっていた。無理もない、ご飯を食べているすぐ傍で洗濯だの掃除だの忙しくされては、食べた気がしないだろう。矢田部さんはテレビや新聞を眺めながらゆっくりと食事をする。よく噛んで、味わって食べるひとだ。きっと回復して九十五歳目標を達成するに違いない。
 テレビや新聞に飽きるとヘルパーに話しかける。
「娘さんいくつですか」
「今年二十歳になりました」
 矢田部さんは箸を動かす手をとめ、眼を丸くして茴をまじまじと見た。
「あなた、そんな大きい娘がいたのか。驚いたね」
「そうですね、よくみんなに驚かれます」
「僕は君がまだ三十そこそこだと思ったんだよ」
「ありがとうございます。四十代です」
「娘さんひとりじゃ寂しいでしょ」
「そうかもしれないんですけど、忙しくしてると感じないですね」
「介護で?」
「他にもいくつか」
 そうですか、と矢田部さんは頷き、そこで質問をやめた。きれいな音をたてて残った麺をすすりこみ、きりのいいところで、かたん、と丼に箸を入れて離した。
 ごちそうさん。
 無造作な言葉を投げ出すと同時に両手をテーブルに置き、胸郭をひらいて背を伸ばす。まるで、このあとすぐに次の仕事が迫っているかのような声と雰囲気だ。いくつかの日本のテレビドラマで繰り返し見た〈多忙な男のごちそうさん〉ジェスチュアを、矢田部さんもする。櫂もしていた。
 父親はどうだったろう? 鶸と仲が悪かった父は、矢田部さんと似た職業の税理士で、藤塚に事務所を開いていた。交通事故で急死する前の数年間は、事務所の近所に賃貸マンションを借り、鶸とは別居状態だったから、茴は彼の日常の姿をよく覚えていない。両親がいっしょにいるときの、なごやかとはいえない家内の雰囲気が嫌で、茴は自分の記憶から消去してしまっているのかもしれない。
父は娘たちには潤沢に小遣いをくれた。親子らしい暖かい団欒の時間は少なかったが、それなりに思いやりのある男だったと思う。公平に眺めれば、家庭よりも才能を選んでさまざまな手段を講じた鶸のほうが、妻の姿としては無理だった。が、鶸は娘二人を自分の傍から離さなかった。これも奇妙な心理だ。櫂が亡くなったあと、ひとりで陽奈を育て上げた今、茴はいくらか鶸の心を理解できそうな気がしている。まだできていない。
 櫂はたぶん父よりも我儘な男だった。だが優しいひとでもあったので、櫂の我儘に自分の器を合わせてゆくのは、女としてむしろ楽だった。櫂のいろいろをくまなく思い出にするのは、まだ苦痛だ。非在の不在。部屋のどこかに夫がひそんでいる気がしている。
あるキャラクターのサラリーマンはこういう動作をするのだろうか、と茴はデジャビュと記憶を照らし合わせる。空き時間をチェロに集中するこのごろはテレビも見なくなっている。矢田部さんの恰幅のよい上半身にはっきり重なるのは、死後四年になるというのにまだ櫂だけだった。

「バレンタインデーにお墓参りって寂しくない?」
「付いて来なくたっていいのよ」
「もう遅い。こんなところまで来ちゃったんだもん」
 海面から吹き上げる西風に帽子を吹き飛ばされそうになった陽奈は慌てて片手で頭を抑えた。もう一方の手は自分たちが跨っているカイト・キメラのうなじの毛をしっかりつかんでいる。長毛スカイウォーカー種のカイトは見た目を裏切らず、大きな胴体の背はひろく、乗り心地は悪くない。陽奈が前、茴はその後ろ。
 カイトはマンションの窓からまず結衣ヶ浜へ飛んで、桜守湾上空を鹿香に向かって進み始めた。飛ぶといっても犬が大股で走る程度の悠々とした速度のように感じられる。茴も陽奈もダウンジャケットの襟を立てて、毛糸の帽子やマフラーで完全装備だ。二月半ばの海風は冷たい。鼻の頭がじんじんする。マスクをかけて来なかったことを茴も陽奈も悔やんだ。海辺に出た当初、肺いっぱいに爽やかだった潮の香も寒気のせいで鼻が麻痺し、じきに感じなくなった。
 視線を落とすと、陸を離れた海面が午後の太陽にぎらぎらと荒い波の織目を際立てている。星月夜岬周辺の岩場で砕ける波濤に、光線の加減で明るい虹がまたたくまに浮かんでは消えるのも見える。得鳥ヶ浜や結衣ヶ浜にはウィンドサーフィンの帆が何艘もひらめく。虚空から眺めおろすその帆は、青い水面に貼りついた蜻蛉の羽根のようにかぼそい。
「ここ上空何メートルかしら?」
 茴が尋ねると、陽奈は顔を横に向けて返事を怒鳴った。
「百メートルくらい? テキトーで」
海風の音が時折強くなると、くっついているのにお互いの声が聴き取れない。
星月夜岬の向こうには得鳥羽島が黒い模型の船のようにくっきりと見える。青空に突き出た白い展望台は帆柱、島は航海をやめて鉄の橋で陸につながれている。亜咲はどうしているだろう。パヴォには現われなかったが。
 得鳥羽島の左手真横はるか遠くに大島と丹沢山系が、距離によって濃淡を変えた青い影となって海と空の境目に浮かぶ。
 それより右手にうっすらと、雪を冠ったいただきだけ鮮やかに白く、裾広がりのなかみは透明な影のような富士山の稜線がある。なだらかな輪郭のなかに青空はその透明感のまま抱き取られて、周囲の空と山肌とは同じ色をしている。
 内陸に眼を向けると蘇芳山、源氏山、桔梗山、鹿香八幡宮の鎮座する丈の低い緑の山容、いくつもの谷間に家が集まって、それぞれが山から海へ向かう扇型にひらけた香枕鹿香の街並が見える。海辺からまっすぐ朱塗りの大鳥居につながる若宮大路が、入り組んだ大小の道路の中でひときわ白く明確だ。それらの道路を走るバスや自動車の姿はミニカーのように愛らしい。茴はまた、
「下界からあたしたちが飛んでるの見えるかな?」
「フツーだったら見えるんだろうけど、カイトはモンスターだから、きっとあたしたちは見えないよ。カイトって、日本の昔話の天狗とかそんな生き物なんだ」
 陽奈は面白そうに断定する。
「天狗って生き物? よね」
「茴ちゃんだってそう思うでしょ」
 カイトはゆるいギャロップで虚空を行く。長い兎耳は風にもめげずぴんと立ち、嬉しそうに胸を張り、堂々たるスカイウォーカー。陽奈が後戻りできるわけがない。今幻想から放り出されたら桜守湾に沈没するしかない。
「寂しくない? チョコあげるのパパだけなの茴ちゃん」
「運と努力の甲斐もなく、あたしはフーテンの茴ちゃん、ごひいきに」
「ばっかみたい」
 そういう陽奈の声は〈ばっかみたい〉な声ではない。
「マジよ。チェロのほうがいい、男より」
「うそつき」
「何よ」
「チェロと仕事だけで満足してるなら、カイトなんか来ない」
 茴は黙った。西の空に眼をやる。陽射しはまだ黄昏には早い。風の流れをなぞって横雲がいくつもたなびき、青紫の空の中でそれぞれが真昼のくっきりした白から、大気と溶け合う淡い茜を輪郭に帯び始めている。鹿香霊園からの帰路には、西方浄土の燦然たる耀きの只中を飛べるかもしれない。
 茴と陽奈の真横を鷗が数羽、大きく羽ばたきながら追い越して行った。すごい音だ。濡れたコットンシーツが風を孕んで空気を叩くような音。鳥といっしょに新鮮な汐の匂いが嗅覚に来た。鷗の翼に乗って下から運ばれたのかもしれない。
 ふ、おん、とカイトが吠えた。おおう、と風が応える。鷗たちは次々と、リモコン操作のグライダーのように斜めになってカイトの鼻先をかすめ、茴たちより早く櫂の眠る鹿香の山へと飛んでゆく。そこに櫂はいるの? 
いない。現世に残された者にとって死者は常に永遠という無時間の思い出の中だ。時の流れに生きているかぎり、幽明隔てた向こう側へは渡れない。
「茴ちゃん。女の時間がもったいないよ」
 陽奈が詰めてくる。彼女の背中にしがみついている茴は、頬と胸に伝わる娘のしっかりした温かさを快く味わいながら答えた。
「陽奈、今の台詞は親切すぎてリアルじゃないわ。そういうわたしに優しい詰問を聞くと
いうことは、きっとこれは夢なんだわね」

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