さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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カノン・エアリウム  チェリー・トート・ロード vol15

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   カノン・エアリウム

 灰の水曜日はバレンタインデーのすぐ後に来る。受難節、レントの始まりの日だ。この四十六日あとにイースター。茴たちのパフォーマンス〈匿名の愉しみ/ラグレアブル・アノ二ム〉は復活祭直前の土日に決まっている。本番までもうほぼ四十日しかない。
 教会では灰の水曜日の特別ミサがあるが、働いている茴は毎年受けられない。今年は水曜日朝一番に篠崎さんのケア、それから施設の母の相手をする。母も洗礼を受けたカトリック信者なので、時々思い出したようにミサに行きたがる。灰の水曜日のことも覚えていて、雛祭りや端午の節句と同じ程度の季語として話柄にすることもあった。
「これ、今度のダイレクトメール」
 ラグレアブル・アノ二ムのカードを見せると、鶸は眼をほそめ、化粧気のない白い顔にきれいな笑顔を浮かべた。おしろいを塗らなくても肌は白く唇が赤い。病に倒れてから髪は短く切ったが、毎月美容院でヘアダイしてつやつやと明るい栗色に整えている。頭のかたちが扁平な短頭形ではなく、適度に長頭形なのでショートカットもよく似合った。
「こちら千尋さんで、もうひとり誰?」
「吉良豹河君。まだ少年ぽい青年。イケメンでしょ」
「うん、ロック少年ね」
「ジャズだって。でもクラシックも」
「へえ、髪がすごいわ。毛皮みたい」
「でしょ。亜咲がもう、夢中でもないか、ちょっと気がある」
 鶸は吹き出した。
「千尋さん落ち着かないのね」
「一生お姉さんか先生でいるって豪語してるわ。おばさんなんかいやだって」
「おばさんになりそうもないひとじゃない」
 毒のない笑顔を見せる鶸の左目だけが充血している。茴は気になって顔を近づけた。
「お母さん、頭痛する?」
「別に」
 幼児のように鶸はかぶりを振った。
「ものが見えにくいとかない?」
「もう老眼だからね。本も読まないわ」
 鶸は茴の凝視をよけて顔を背けた。病院へ連れて行ったほうがいいだろうか。麻痺はどちらだったろう、と茴がとっさに迷うほど、ほとんど体の麻痺は回復したが、修復されない脳血管のどこかが綻びたのかもしれない。もちろんただの眼の充血、夜間の不安衝動の際、涙に濡れた眼を強くこすったせいかもしれなかった。
 昔から鶸は自分の傍に誰かがいれば安定していた。家にいるときは茴か毬、ここでは「やすらぎ」の職員か。流行作家として全盛だった数年間は、何人もの編集者が入れ替わりに香枕の家に来ていた。
 不安発作、不定愁訴は身のまわりに人けがなくなると始まる。これは脳血管障害の認知症状とは関係ないのではないかと茴は内心思っている。若いころの鶸の写真を見るとタレント志願だった娘の毬よりもくっきりした目鼻だちをしている。さぞ周囲からちやほやされたことだろう。
誰からもかまわれなくなる恐怖が鶸を失調させる。脳血管が破れたあと、まだ施設に入らず、夕方から夜にかけては茴ひとりが自宅で介護しているとき、鶸は深夜になると形容しがたい声で泣き叫んだ。ひとりはいや、誰か来て、こわい、さびしい、お願い、おねがぁい…。隣室に寝ている娘が不眠症になるのもまるでお構いなしだった。
 体裁も恥もかなぐり捨て、慰めを求めてすすり泣く鶸のほうが彼女の本質なのではと茴は眺める。距離をおいて、淡々と眺めている。
「今日は灰の水曜日よ、お母さん」
「そうだったわね。すっかり忘れちゃった。このころになると、庭に春の小鳥が来るのよ。目白とか、鶯とか。今も来る?」
「家はひとに貸しちゃったわ。でもきっと来てるでしょう」
「そうか。それも忘れてた。もうぼんやりしてしょうがない。お父さんは元気?」
 茴は呼吸を呑んだ。五、六秒考えてから、
「お父さん? ここにいるじゃない」
 衣装箪笥の上の写真を指した。イランの手織りタペストリーを敷いた上に家族写真が飾ってある。父親の写真は黒枠の遺影ではなく夏の芦ノ湖を背景に鶸と並んで笑っていた。何の不足もない仲の良い夫婦に見える。
「これは昔のでしょ。ひさゆきはどこよ」
 ひさゆき、という名前が鶸の口から洩れたとき、茴は父の名前の漢字がすぐに思い浮かばなかった。一瞬、誰のことかと面喰ったほどだ。そうだった、鶸はもう長いこと、夫の名前を呼んだことがなかった。鶸の声と父親の名前が結びつかない自分の記憶回路を、茴は歪んだレールのように感じた。感情はいびつな軌道を走ることができない。どこかで覆ってしまって…。父の葬式の時、母はどんな顔、姿だったろう。
 とっくの昔に死んじゃったわ。我ながら根拠のない怒りがこみあげ、突き飛ばすように鶸に向かって現実を告げたい衝動を、茴は喉元でこらえた。ケアワーカーとして適切な回答を、適切な笑顔、やさしい声で言う。
「藤塚で元気に仕事してるわ。お母さんのこと心配してるよ。だけど会いたくないでしょ。お母さんのほうが」
「時間が解決するってこともあるかしらね」
 鶸はまぶしそうに眼をほそめて早春の日光がさんさんと輝く窓のほうを見た。

「これは夢じゃない、茴ちゃん」
 バレンタインデーを過ぎたら髪を肩の上で切りそろえた陽奈が真顔で言った。ジャン・ピエール・ジュネの『アメリ』のヒロインのような髪型だ。髪が短くなって前よりあらわになった顔は女優のオドレイ・トトゥよりおっとりとまるい。
「わたしはわたしで勝手にやるから大丈夫よ」
 荒い言葉の語気をやわらげて茴はつぶやいた。何を勝手にするのか考えの埒外だった。
 茴と陽奈は最近開館した得鳥羽エアリウムに来ていた。隣接の水族館はずっと前から湘南の観光スポットになっている。新しい別館エアリウムは列柱や前庭のないタージ・マハルといった第一印象だ。こじんまりとしているが、中央にドームを内包した白亜のすがたはアクアリウムとほぼ同じ。早春のくきやかな海の陽を浴びて、波のうねりを模した青と白のモザイク壁画がまぶしい。
 世界中さまざまな名所旧跡の大気をご堪能になれます、歴史に残る宮殿、神殿、霊廟、ピラミッドからマヤ・アステカの墳墓内陣の空気を臨場感とともに御体験できるエアリウム。さらにはお客様が追体験なさりたい思い出の季節、気候、場所の空気を可能なかぎり再構成してご提供いたします。
 エントランスからすぐにほのぐらい円形の展示室に入る。周囲の壁には隙間なく色とりどりのガラスの筒がびっしりと並んでいる。まるで密教の曼荼羅画面にそのまま入りこんだようだ。きらきら光るガラスの筒は試験管よりも太く、おひやのコップよりも細い。どれも金属の蓋が付いているので、解剖標本を保管する壜に似ている。ひとつひとつの筒の中には、世界各地、各時代の空気が詰まっていると係員が説明してくれる。
 大聖堂のように建築の中心真上に向かって、壁の一定の高さから円錐形の傾斜が伸びるギャラリーには茴と陽奈のほかに今十人ほどの観光客がいる。開館したてのエアリウムの職員は、まとまった数の客を集めては、再現された過去の空気を追体験する楽しみ方を、宣伝を兼ねて説明してくれるという趣旨らしい。
「この中に空気が入っているんですか?」
 客のひとりが周囲のガラスの列を指でさした。まるでピアノの鍵盤を指いっぽんでなぞるような手つきだ。エアリウムの学芸員は青と黄色の制服を着た若い女性で、にこやかに答えた。
「空気そのものが入っているのではなく、空気の記憶を封じ込めてあるのです。このアクリルガラスの中には、世界各地、各時代のオブジェから読み取った大気構成要素のチップが無菌状態で保存されております。お客様がどれかひとつお選びになって、個別ブースにお入りいただきますと、当館エアリウムのコンピューターマザーがチップを解析しブースのお客様の感覚器官に空気の記憶を提供させていただくということでございまして」
 まわりくどい説明も妙齢ウグイス嬢の美声で囀られると、それだけでいい気持ちになって納得させられる。
 陽奈が興味しんしんの顔付きで手をあげた。
「質問! つまり空気そのものを保存してるわけじゃないのね」
「さようでございます」
「過去のオブジェって何ですか?」
「たとえば、衣服などの繊維。また大理石の石や、当時からそこに生えていたとおぼしき樹木の細胞などから読み取ります。衣装の繊維などはオブジェとしてはとくにすぐれものでございまして、匂いや触感、織りかたや、その衣装をまとうていた貴婦人や貴公子の汗などの残留成分から、膨大な往時の記憶を再構成することが可能なのです」
「じゃあ、ミイラの髪の毛とか、土や砂も」
「はい。こちらにはツタンカーメン王のミイラはじめ、副葬品などの宝物から採集し、再構成した紀元前三千年のピラミッド内の空気を御体験できます」
 うわあ、と陽奈が眼をくりくりさせる。観光客たちも一様に、ほおお、と吐息を漏らした。嘘かほんとかわからないが、つまりは脳細胞にマザーコンピューターから電気信号を送って、その空気を味わったのと同じ感覚を味あわせる。つまり幻想。
「つまり、マザコンの子守唄ね」
 ぽろりと茴がつぶやくと、学芸員はじろっと冷たい横目をくれた。
「皆様どうぞお好きなエアをお選びください。当館のブースは百五十ございます。一回の入館につき追体験できるエアの本数は特に制限されてはおりませんが、空気を味わう、ということは視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、さらに記憶や情緒を含めた全人格的時間体験となりますので、せいぜい三つ、できれば一つか二つの追体験になさったほうがよろしゅうございます。事後の情緒障害などの事例はまだ報告されておりませんが、タイムワープはドラえもんのどこでもドアでもないかぎり、大変エネルギーを消耗いたしますから」
 ドラえもんを引き合いに出しても誰も笑わなかった。
「あたし、これにする」
 わらわらと観光客の輪が学芸員の周囲からほどけて、レインボーカラーに発光している壁に散った。陽奈はほとんど迷わずひとつのエアを探し当てた。
「何にしたの?」
「マリー・アントワネット全盛期のヴェルサイユ宮殿」
「ええ、そんなのあるの」
「あったのです」
 陽奈が両手で握りしめたガラスの筒は鮮やかなマゼンタとワインレッドのマーブルが液体のように揺れている。まさにべるばら色。この着色はきっとエアリウムの演出だろう。
「オスカルはいませんよ」
「そんなことわかってる。あの金ぴか時代を追体験したいんだ」
 さて自分はどうしよう。茴はゆっくり曼荼羅の円陣を一周した。腰の高さから天井への円錐の傾斜が始まる一線まで、壁面に隙間のない膨大な色付きガラスの陳列は、さながらイスラム寺院のモスクのようにも見える。
追体験したい時代、記憶、一瞬か数分かのタイムワープが許されるとしてどこへ行こう。嗅ぎたい匂い、触れたい感覚、見つめたい光、聴きたい音あるいは声は。

 帰ってきちゃったのよぉ、と向野ギャザリングはおかしそうに告げた。
「有料老人ホームに入ったんだけど、何か不都合があって昨日から西香枕の自宅に戻ってるの。入居してまだ日が浅いから、家に住むのに支障はないんだけど、とりいそぎヘルパーに来てほしいって」
 一月に施設入居した松井須磨子さんは、無断で自宅に戻ってしまったという。
「お元気なんですか」
「自力ですたすた出てくるんだから元気でなくちゃ。まあ、彼女の性格ならそういうこともありと思うけど」
「そうですね」
 いじめにでもあったのかな? でなければ食事が合わないとか。だけど自宅で松井さんが食べていたのは、果物やパンの他は宅配弁当かコンビニの惣菜などだったから、施設の御飯のほうがずっとよかったはずだ。
まあ、我儘なひとだから、周囲といろいろ衝突はあったろう。独り住まいの孤独よりも集団の中の孤立のほうがやりきれないというのは推測できた。独りなら女王さまだけれど、集団生活ではともすると魔女にもされる。
「変則だけど、明日の午後行ける?」
「ちょうどまるまる空いてますから。ケア内容は同じですか?」
 三月近い木曜日、大気はしっとりと潤って松井さんの家に登る坂道沿いの梅林には、紅白の梅が満開で、蘇芳山から澄んだ鶯の声も響く。西香枕住宅地には、まだあちらこちらに畑があって大根や青菜など作っている。そうした菜園や家々の庭先の陽だまりに、菜の花に雪柳、たんぽぽ、木瓜などなどがゆったりと咲いていた。
(こういうのんびりした景色から離れて、施設に移るのはいやだろうな)
 目に映る世界中に弥生の土と陽射しの匂いが溢れている。気温は冷たいが、日光はジャケットを貫いて体の芯まで温めてくれる。小鳥のさえずりが絶え間ない。あれはミソサザイだろうか。施設だってお日さまも小鳥も来るだろうけれど。
「森さん、出てきちゃったの、またよろしくお願いしますね」
 松井さんはすべすべした顔に泣き笑いのような表情で迎えてくれた。前と同じくフリースのパジャマに毛糸のカーディガン、素足で居間の長椅子に寝ていた。BGMがわりのテレビが大きい音で鳴っている。茴が入ると、須磨子さんはぱちっとテレビを消した。
「合わなかったですか?」
「うーん、なんかねえ、疲れちゃって。四六時中回りを気にしてなくちゃいけないってやっぱりねえ。自由がない気がして。入居しているひとたちはそんなに悪くなかったんだけど、認知の人が多いから、噛みあわないっていうのか、話しをしててもあんまり楽しくないの。スタッフは忙しいでしょ」
「そうですね、しんどいですよね」
 溜息まじりにこぼす松井さんの顔はさっぱりとしてむしろ明るく、やつれた気配はない。体もしゃんとしているように見える。
「髪を洗ってもらえる? 施設にシャンプー持ってくの忘れちゃって参ったわあ。髪の匂いってあたしこだわりがあるから。施設の近所に売ってないのよね」
「あはは、そうですか」
 湯船に入る前に須磨子さんは頭髪から始めて全身を洗う。
「もっと強くこすって」
「こう、ですか」
「がりがり洗ってよ」
 全身の骨格が表面からたどれるほど皮下脂肪のほとんどない須磨子さんは、かたい頭蓋骨の形が薄い頭皮の下にじかに感じられる。髪の量が少ないせいもある。セミロングの髪はお湯をかけながら指で梳くと、ところどころに大きく地肌が覗く。力をこめてこすったら、皮膚がもろく破れてしまいそうな気がして、茴は須磨子さんの気に入る強さで洗えない。茴のぬるい手つきに、須磨子さんはシャワーの中で笑ったようだ。
「いいわ、あたしやる」
 がりり、と須磨子さんは指四本をほぼ直角にたてて、音が聞こえるほど自分の頭を掻いた。茴の洗い方でも十分汚れは落ちているだろうに、また改めてシャンプーをとり、くしゃくしゃと泡立てた。
「痛くないですか?」
 聞かなくてもいいことを、つい尋ねたくなってしまう。
「いい気持なのよ。リンスください」
 地肌と髪に丁寧に椿オイルを揉みこんで、須磨子さんはタオルを頭に巻いた。それから体を洗う。施設入居まで洗身は自立していた。
「森さん」
「はい」
「もういっぺんシャワー頭にかけてよ」
「は?」
「髪、あたし洗ったわよね」
「はい」
「心配だからもう一回洗う」
「今リンスをお使いになりましたよ」
「でも気になる」
 ざあっ、とシャワーの水流をさっきよりも強くして須磨子さんはもう一度髪を洗い始めた。がりがり、と指を直角にして頭皮をこする音がまたきこえる。
茴は須磨子さんの体から離れ、ヒーターで暖めた脱衣場で見守った。
(強迫神経症みたいだけれど、認知かな)
 気も強く口も達者な須磨子さんを、すっかりクリアだとは思っていなかった。これまではっきりした記憶障害や失認などは見られなかったが、頑なさや気まぐれ、短気など、人格の縁で綻びは広がってきていた。
 須磨子さんは何度も何度も髪を洗いなおした。洗いあげてリンスをつける。またシャワーをかける…。いつまで続くこの循環。
「松井さん、もう風邪ひいちゃいますよ。髪はぴかぴかですから」
 どこかで見かねた茴の口から妙な形容が飛び出した。反復強迫に憑かれた須磨子さんを無理やり制止したら、茴はこの風呂場で突き飛ばされるかもしれない。
「ぴかぴか? うまいこと言うね、森さん」
 須磨子さんは両手を頭髪に差し込んだまま、茴のほうをふりかえり、笑った。

 茴の報告を聞いたギャザリングは小さく唸ったが動じなかった。
「そりゃあなた大変だったね、寒かったでしょ。長いこと」
「ヒーターが脱衣場にありますからあたしはそんなに疲れませんでしたけど、松井さんこれからどうなるのかしら」
「どうって言っても本人が施設いやなんだから自宅でやってくしかないよ。洗髪で、その、何度も何度も皮がすりむけるくらいこするっていうのも、ヘルパーが付かなければお風呂には入れないんだから、命にかかわることじゃないでしょ。万が一頭皮が破れて出血とかそういう事態になって、痛くなったら松井さんだって考えるっていうか、おさまるかもしれないじゃない。痛いのはやだからね」
「はい」
「骨折とか肺炎とかに気をつけて、見守ってください。強引にすると、彼女なんか、まあ松井さんだけじゃないけど、認知症のひとは逆上することがありうるから、そこのところは臨機応変に、淡々と」
 老衰しても髪や肌のお手入れに気を使ってきた松井さんが気の毒だった。かわいそうだと思うのは失礼なのだろうが、洗髪のたびに十回も洗い直しが続いたら、そうでなくとも弱くなった地肌や髪はどうなることか。施設での入居生活はやはり相当のストレスだったのかもしれない。そこでいやいや使った安物のシャンプーが彼女の誇りを傷つけたのかもしれない。
 茴はそこで考えをやめた。余計な詮索というものだ。臨機応変、何が起こっても対処できるように柔軟な心で見守るのがいい。
 チェロを弾かなくては。
 自宅での演奏なら、音色、ディナミズム、アゴギグすべて、ほぼ自分の思い通りの表現ができる。だけど舞台に出たら、お稽古のときの半分くらいのレベルになるだろう。コロリ―ト、音色だけは練習よりむしろ舞台のほうがいいかもしれない。大勢を前にして肉体が緊張しても心は逆にリラックスするということが、茴のようなタイプにはあるらしい。家事と仕事の合間の四時間のお稽古では多いとは言えないが、これでめいっぱいだ。
陽奈が大学生になり、手のかかる夫がいないからこれだけの勉強時間が確保できる。福祉コミュの同僚同士の会話でも、大きくなった子供たちより、中年過ぎた夫のほうがよほど世話が焼けるということだ。
 疲れた気分転換にパソコンを覗くとPanthegrue550ga豹河と亜咲からメールが来ていた。二人ともラグレアブル・アノニムのクライマックスをどうするか、という問い合わせだ。
(アナーキー、フラグメント、偶然、ノイズ。ジョン・ケージをモチーフにするのは壮大すぎたかな)
 巨匠の名前を引用して、はったりのつもりはないが、豹河のインディゴ・ノイズを観た茴は、少しばかり気分が低迷した。あれだけのパフォーマンスは自分の力量ではできない。
(ユニークなアーティストと共演できるんだから。怖気づくことじゃないわ。若いのに吉良君は場数を踏んで弁えがあるし)
大道具もプロジェクションもダンスも使わず、演奏だけ、音響と照明効果だけで日常とは異なる次元へ聴衆を運ぶ。
出演者三人の色彩は揃っている。統一する主観的意図を追い出すにせよ、ソロの継ぎはぎ、パッチワークや平面コラージュでなく、音楽の幻想は立体が好きだ。
メールボックスを掃除しかけて茴は雑多なスパムの中に翡翠房通信を見つけた。暮に挿櫛を買ったときにショップ&ギャラリー翡翠房の会員登録し、それからランダムに催しの案内が来る。メアドはajadenaturalw
(あじゃでなちゅらるう?)
 メアドはネットのハンドルネームと同じくらい興味深い。個人なら個人の、集団なら集団を表象するエンブレムを察することができる。Jadeは翡翠だ。A翡翠ナチュラルW?
 弥生のぬくもり、春の花の気配が古都にあふれる今日このごろ、翡翠房の奥座敷にて、当方所蔵また拝借の古典雛人形の展示。新作人形および吊るし雛の即売を行います。古典人形は江戸期流行の享保雛、芥子粒大の可憐な芥子雛、さらには個人所蔵の、雛人形原型という立ち雛、御所人形など、日本各地の貴重な文化財を御覧いただけます。また吊るし雛は鹿香丹階堂の地域ふれあい作業所〈うさぎの国〉スタッフ制作です。華麗で可愛く、気品ある雛人形の世界にどうぞお越しください。季節の和菓子付お茶席も設けてございます。期間は新暦四月三日まで、皆様の御来駕お待ち申し上げます。
 なんとなく、麗句の多いこの文章を書いたのは百合原ではないかという気がした。行ってみようか。お稽古も気になるが、亜咲や吉良ともういっぺんラグレアブル・アノ二ムを詰めなければならない。打合せに亜咲がこちらに来てくれるなら、そのついでに翡翠房を覗ける。
合わせ稽古はどうしよう。茴のマンションにはピアノはないし、亜咲のところでも無理だろう。市民センターか教養センターの一室を借りるなら早く予約しなくては。
「吉良君のダンススタジオ拝借できると思うのよ」
 電話をかけるとあっさり亜咲は解決策を提示した。
「彼のお母さん、青山でスタジオ兼喫茶店をやってるの。夜はジュエリー占い」
「ジュエリー占い?」
「ネット見ないの、あなた。しょうがないわね。珠螺木ってマニアックな中国茶を出すところ。そこの地下でガーネットさん、お弟子さんとって教えてるから、教室の都合がつけばそこで合わせられるでしょう」
「フェイスブック?」
「そうよ。東京スタコラーズのホームページもあるわ。まだあんまりコンテンツないけどね」
「あなたこないだパヴォのライブに来なかったわね」
「うふふ、別な先約で」
 亜咲はしれっとした声で言った
「あそう、それはそれは」
 が、茴は少し亜咲をつついてみたくなった。
「吉良が好きなんでしょう、いいの?」
「ええ、好きよ。だけど彼だけが今私の愉しみじゃないから」
「ふるってるわね」
「正直なだけよ。あなたとは違うの」
「…何よそれ」
 色をなす茴に応える亜咲の声は晴朗だった。
「ありもしない罪悪感をこしらえて天使ごっこ。森茴はもっと邪悪でいいと思う」
 正直な女、と茴は思った。自分の奔放の弁護のために茴をそそのかしているのとはちがう。また茴をことさら聖女貞女に仕立てあげ、エロスの圏外ラベルを貼ろうとする姑息でもない。千尋唯由は若い妻の精神に佳いものを残して亡くなったのだな、と茴は想像する。とりいそぎの返事はこうしよう、
「おあいにくさま。あたしはフローレンス・ナイチンゲールのファンなの」

 アレグロアパッショナートで、アクセントを強調する音を上げ弓で弾け、という千尋唯由の指示は、時折茴にはきつかった。丸一年かけて丹念に弾きこんだが、サン・サーンスの作品特有の奇抜でテクノモルフィックなフレーズにさしかかると、身覚えの抒情で暗譜できていたはずの楽譜が記憶から飛んでしまうのだった。
 これはどういうことだろう、と茴はたびたび言い訳がましく千尋の前で小さくなってみせたが、千尋先生は弟子の不勉強を甘やかさなかった。一日中頭のなかで歌ってれば弾けますよ、といとも簡単に言う。泣き言こぼすならおやめなさい、むいてないよと。彼に弟子が少ないのはそのせいだったろう。
(森のささやきはどうにかなるんだけど)
 茴はチェロのソフトケースを右から左の肩にかけなおした。撫で肩なのでうっかりするとベルトが背中からずり落ちてしまう。薄いコットンシャツの上からケースのベルトが食い込む。重ね着してくればよかったのかもしれないが、真夏の炎天下でタンクトップの上からシャツを被るだけでも汗びっしょりだ。冷房の効いた車内に座っても、チェロを庇う気遣いのために涼しさを感じられない。
 もうじき恵比寿に着く。会場に入る前にそこらへんの喫茶店で何か食べよう。開演は午後七時からだから、五時に会場に入れば間に合う。亜咲と先生はもう入っているだろう。他の演奏者も。
 メトロを上がったところに世界チェーンのカフェがあった。ここでいい、半端な時刻だからそんなに混んでいない。ちゃんと禁煙コーナーもあるし、奥のほうは空席が目立つ。チェロを抱えて入っても大丈夫みたい。
 チェロを運んでいるときはとにかく自分よりも楽器の場所を探す。ガラス越しに確かめたとおり、店内は混んでも空いてもいない。入口付近の二人掛け丸テーブル二つは、ノートパソコンを開いた男性と女性がそれぞれ独占している。窓際カウンターには、荷物置きの椅子を一つずつ隔ててカップル、シングルが飛び飛びに座る。大きな人形を運ぶようにチェロを背中から胸に抱え直し、茴は体を横向きにして丸テーブルの横を通った。ぱたぱた、とキーボードを叩いている男が顔をあげて椅子をずらして通路を広くしてくれた。
「ありがとうございます」
 男は笑って頷いた。もうひとつのテーブルでパソコンを開いていた女性はノートを閉じ、茴が通り過ぎたあと席を立って出て行った。どちらもサラリーマン、ウーマンのようだ。この梅雨明けの夏空に、二人とも禁欲的なダークスーツを着ている。もっとも、店内の冷房は効きすぎるほどだった。電車の中ではずっとひたひた汗ばんでいたのに、カフェに入ったとたん、すうっと襟足に風が入った。コーヒーの風だ。本日おすすめのコーヒーは何だろう。
(何だったろう?)
 壁沿いの長椅子をとって、奥にチェロケースを置いた。楽器の背中を上にして弦を張った表板を庇う。
(わたしは何を飲んだかしら? 何を食べたかしら)
 運ばれて、いやセルフサービスでガラスケースから選んだのはたぶんブルーベリーのベーグルサンドとチーズケーキだった。甘いものが欲しい。演奏前にアイスクリームはお腹をこわすからだめ。飲み物もホット。コーヒーではなくミルクティだったと思う。
 陽盛りの香枕からここまでチェロを担いで来るだけで、もうかなり疲れてしまった感じがする。亜咲の運転する車に同乗してくればよかったのかも、と考えるのだが、呑気な亜咲はともかく千尋がこわい。要所を抑えてくどくど言わない彼の指示を一年経っても十分に消化できていない茴の気分は疚しい。するすると音符を鳴らす程度ならつっかえないで最期までとおせる。誤魔化すことも。
 頭のなかで楽譜を読んでいる。ケーキもベーグルも、ミルクティも、カフェの中に流れている有線放送も聞こえない。楽譜をすっかり暗譜してもどうしてどこかでまっしろになるの? 
 今夜弾く楽曲三つを頭の中で最初から最後まで三回鳴らすと三十分たった。弾いてもいないのに左手の指とてのひらが汗でべったりしている。背筋は寒い。くしゃみが出た。
 そろそろ出よう。場所の確認をして。
 バッグからフライヤーを取り出す。チラシには千尋の大きい顔写真と亜咲、それからチェンバロ奏者とソプラノのディーヴァ。茴も写っている。千尋の伴奏をするのは亜咲ではなくチェンバロ奏者だった。
 座っている奥から出口までの通路を確認する。ぶつからないでちゃんと通れるかな。さっきよりも店内は混みあってきたみたい。
 さっき道を開けてくれたサラリーマンはまだ残っている。アイスコーヒーをお代わりしたのか、グラスが増えている。まだノートパソコンを叩いている。どんな仕事なんだろう。サラリーウーマンが出て行ったほうのテーブルには子供連れの若い母親が座った。二歳くらいの男の子の足は椅子から床にとどかず、靴をはいたまま宙にぶらぶらしている。あの爪先でチェロを蹴られたらどうしよう。だけどそこを迂回しては出口にゆけない。
 茴はチェロを残したまま立ち上がり、親子の脇を抜けて、親切だったサラリーマンの方へゆき、彼がテーブルの端に置いたアイスコーヒーのグラスを少し内側へ押した。
「すみません。失礼ですが、チェロを運びますので、これがあぶないかもって」
 ああ、と男はさっきよりもはっきり笑顔を見せた。そのとき二十五歳だった茴よりも彼はだいぶ年嵩のように思えた。
「気が付かなくて申し訳ありません」
「いいえ、こっちが我儘なんです」
 茴はそれを意図していなかったが、幼児を連れた母親は茴と男のやりとりを見て、子供の膝をテーブルの下に入れてくれた。
 茴は男と、その隣席の母親に目礼して席に戻り,改めて楽器を運んだ。
 チェーン店を出ると、午後の油照りは頂点を過ぎたようだった。だが太陽を溜めこんだアスファルトの輻射熱は湿度を増して暮れ方にはさらにひどい。冷房でいったん涼んだ体温はまたいっきに上昇し、胸にも顔にも汗が滲む。顔をハンカチで拭いても布にファンデーションは着かなかった。まだわたしはノーメイクだったから。舞台の前には口紅だけ、下手な手つきで曳いていたころ。
ここから先は地図を頼りに歩いてゆく。タクシーに乗るほどの距離ではないと聞いた。チェロケースのポケットから、さっきのフライヤーを取り出し、信号やら銀行やらポイントを確かめていると、肩ごしに櫂が声をかけてきた。
「どちらで演奏されるんですか? これから?」
 ふりかえると、カフェの中で来ていた上着は脱いで肩に担ぎ、ネクタイもはずしている。白いシャツの襟が開いて、屈託のない顔と首筋に大粒の汗が光っていた。
 時間をさかのぼり再会できるものなら、その日、その時に行きたい。

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