さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

スポンサーサイト

Posted by 水市夢の on

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

メシア・エントロピー  チェリー・トート・ロードvol16

Posted by 水市夢の on   0 comments   0 trackback

   メシア・エントロピー

 三月に入るともう心は桜前線到来が待たれる。毎週火曜日、湯浅徳蔵さんケアのため蘇芳山にモノレールで登るたび、駅前ロータリーの桜並木の枝の莟が、あたかも春の大気をまとうかのように、先週よりもほんのりと大きくなってゆくのが目に嬉しく見えた。
 ネットで調べたら開花予想は弥生の下旬。まだ間がある。しかし桜の枝の樹皮は、つぶつぶした固い莟といっしょに全体にうっすらと鈍い紅色を帯びている。
  年々歳々人相似
  歳々年々人不同
 七世紀初唐の詩人劉希夷の長詩を、櫂は何故か諳んじていた。いっぱしの読書家ではあったが、それほど古典に興味のあるひとではなかったのに、「白頭吟」の有名ないくつかのフレーズだけ、酔っぱらったついでに呟くこともあった。何の感傷だったのだろう。彼はすっかり白髪頭になる前に逝ってしまった。
このごろは文芸誌をめくっても漢詩を血肉にした作品などあまり読めない。茴にしても唐代の有名な絶句律詩のいくつかを教養の一部にしているにすぎないけれど、ふだん忘れているフレーズが、この花盛りの季節の前後、静かに心に昇ってくる。
  今年花落顔色改
  明年花開復誰在
 湯浅徳蔵さんは今年必ず蘇芳山の爛漫を見られるだろう。だけど来年はどうだろう。
 首のリンパ腫の憎悪が速いのかどうなのか茴にはわからなかった。高齢者は新陳代謝が低いので癌の進行も遅いはずだが、二月下旬から衰弱は顕著だった。
「起きられますか」
「うーん」
 目をぱちぱちさせて徳蔵さんはにこっと笑った。顔じゅう皺だらけにして茴に向ける笑顔は無邪気で明るいが、起きられるとも起きたくないとも判断がつかない。無理してベッドから起こさなくていいから、という指示も出ているので、茴はゆっくりと電動ベッドの背中をあげて、脇のサイドテーブルを昼食のために引き寄せた。 
 徳ちゃんの顔は首の腫瘍のためにむくんで、皮膚がぴしっと張りつめたように丸みを帯びていた。徳ちゃんが茴の声かけに応じていろいろな表情を作ると、ここ数か月ろくに陽に当たらず、栄養不良で脆く薄くなった皮膚に無数の縮緬皺が寄る。
 ごほん、徳ちゃんが咳き込んだので茴はティッシュペーパーを二三枚あげた。腫瘍の膿が喉に出るのか、徳ちゃんは頻繁に黄色い痰を吐いた。他人の手で喀痰吸引を要するほどになったら、もう自宅介護ではおぼつかないかもしれない。
 昼食は息子さん手作りの1プレートランチではなく、レトルト介護食とラコール、経口補水液OS―1をその都度〈臨機応変〉に組み合わせたものに変わっている。レトルトのお粥や肉団子をプラスティックの器に移し、サイドテーブルに乗せてすすめると、徳ちゃんはげそげそに細くなった手首をパジャマの袖からにゅっと突き出して受け取る。スプーンもプラスティックだ。箸だけが以前と同じ塗り箸。
「あ、あ、おいしい」
「そう、よかったね、よかったですね」
 精一杯大きく口をあけて食べることを楽しむ徳ちゃんの笑顔は今もこれからも明るいだろう。だが、喉の具合が悪いので、徳ちゃんはせいぜいスプーンで三口か四口ほどしか食べられない。噎せるという感じではなく、レトルト食材を飲み込むたびに、ごろごろ、と徳ちゃんの口の奥で粘液が泡立つような音が聞こえる。何の原因なのか茴にはわからない。
 看護師だったらよかったのに、と思うことがこれまで何度もあった。介護では医療行為ができない。もっとも現場はそんなに厳密に仕切りできないこともあるから、茴自身どこまで介護でどこからが看護師の領分なのかはっきりわからない場面がある。じわじわと苦しんでいる徳ちゃんや、また月さんを見ていると、何と自分は無力なのだろうと思う。
(無力と思わないで、今できることをしなくちゃ)
 気持ちが滅入りそうになると、茴は自分に言い聞かせる。茴が笑ってくれると嬉しいというひとがたくさんいるのだから。
 レトルト食材が無理になった後に、ラコールをストローで飲んでもらう。とろみはついていないが、飲料なら喉も楽に通るようだ。ラコールが飲めるなら経口補水液はいらない。
「ラコール、おいしい?」
「へへえ、まあ」
 徳ちゃんは眉を寄せた。ストローを銜えたままの口許は笑っている。ミルクコーヒーのような匂いと色だが、味はさてどうだろう。
 こんな食事のあと、パジャマの胸をあけて蒸しタオルで手早く肌を拭く。下着は前開きに変わっている。寝ていることが多いので、背中や腰の床ずれなども調べる。赤みを帯びた部分にはアズノールを塗る。むくんで丸くなった顔に較べると、栄養不良の体の衰えは茴の目につらい。タオルで拭くと、脂肪の激減した肋や腰の黄ばんだ皮膚が、骨から離れてタオルといっしょに皺を作って動いた。

 美しいものを見ると命が伸びる、と茴は二十一歳のころ『源氏物語』の若紫巻で読み、当時はそれほどの感銘もなかったのに、心に残っていつまでも忘れなかった。視覚はともかく、美しい音を聞くと、その感動はリフレインしていつまでも記憶にとどまると知っていたので、若紫の印象がそれに重なったのかもしれない。介護という仕事に対して誠実であろうとするなら、茴は自分のためにこの職業を美化するまいと思っていた。
 利用者さん、高齢者さんからさまざまな学びやパワーをいただく。それは間違いないが、同時に、できれば日常避けていたいつらくむごいことを五感で体験しなければならない。さらにまた社会的には3Kの汚名が被せられ、よい資質を持ったケアワーカーが人生を拓くためには難しい問題が多い。
 福祉コミュがおだやかで険しさのない職場というのも、ここが報酬を活動の目的にしない非営利福祉団体だからだ。主婦たちの温和、やさしさ、思いやり、ケア時間を無料で延長して高齢者の心に寄り添おうとするおおらかも、経済行為の凌ぎを免れているおかげが多分にある、と茴は眺めている。
 一般の介護現場はどうだろう。さまざまな困難に介護従事者の心身が痛めつけられない社会であればよいのだが、ネットを覗いても身近な噂でも、社会貢献のやりがい以上に厳しい現実が介護福祉の未来を暗くしている。
徳ちゃんのケアを済ませた後、茴は家に戻らずそのまま鹿香翡翠房に足を延ばした。チェロの総ざらいもしなければいけないのだが、たった今目にし、手で触れ、ほんのすこしは心で分かち合った湯浅さんの老衰に、気持ちが萎えてしまった。雛人形を見るのは楽しいだろう。命が伸びるだろうか。
(それでは介護現場では命が縮むの?)
 そう考えたくはないが、どんなに元気な利用者さんと接するにせよ、タナトスの波が絶えず静かに聞こえる時間ではある。快楽について唯美主義を貫徹した三島由紀夫が老いを恐怖したのも無理はない。
(何を得られるか、ではなく、何を捧げられるか、そう思わないと挫けちゃうな) 
 自分の中から生のエネルギーが溢れて、老病の利用者さんに流れていく。他のケアワーカーとこんなことは話さないが、茴のひそかな実感だった。
 古都鹿香は観光客で混雑していた。二月の梅から始まり、三月はもう市内あちこちの古寺名刹に花を楽しむひとが押し寄せる。鹿香八幡宮では寒牡丹が最後の見ごろだ。二月下旬までが盛りというが、今年はまだ花の寿命が長いらしい。雛人形でなく寒牡丹もよいかもしれない、だが開花に疲れた大輪よりも、うら若い透姫子や気丈な百合原の守る翡翠房のほうがいい。そうだ、これも紫式部のつぶやきだった。「植物の花はよく見るときっと歪みや傷があるが、美しい女というものの魅力は〈際なき〉かぎりがない」と。
(どこだったろう? 野分巻だったかな)
 人間の女はいつまで花でいられるものだろう。まちがいなく透姫子は花だ。たとえるなら水仙か、杏か…。初対面の大島紬の清楚な印象がそのように想わせる。百合原も。
百合原と自分は同年代だから、彼女が花なら自分もまだ花と言えるかしら。介護を働きながら茴は老いをみつめている。避けがたい傾斜、凋落、愛のありか。キリストの愛は貧しい者病んだ者を包む。
 まだ自分を恃む奢りを魅惑と信じて日々を生きる亜咲や自分、百合原はどうだろう。茴以外はクリスチャンではないけれど。

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
 わたしは敵対させるために来たからである。 
 人をその父に
 娘を母に
 嫁と姑に
 こうして自分の家族の者が敵となる。

 マタイ34章が茴には不可解な真実となって心に迫る。「汝の敵を愛せよ」という御言葉は素直な感動とモーチベーションをくれる。だけれども、34章の糾弾はどういうことなのだろう。いつか懇意にしている神父に尋ねようと思っているが、理屈でわかっても、魂で受け入れられるかどうかわからない。エロスへの執着、嫉妬を醜いとも、またそのような感情の歪みから免れて、最後まで女性として美しくありたいとも願う自尊心が四十の声を聴いて切実に見えてきてから、この御言葉が茴の感情に食い入る。義理の娘に知られたくない葛藤だった。

 うらうらとした午後の弥生の陽射しは蘇芳山よりもまろやかで、上着を脱いでしまいたいほど心地よかった。小町通をしばらくぶらぶらし、賑やかな観光地の景色を眼に入れる。女性とカップルが多かった。働き盛りの男性はウィークデイにはふつう遊べないはずだ。徳ちゃんや月さん、矢田部さん、松井さん…利用者さんの誰彼に似通う観光客はいない。あたりまえだがいない。
 みんな自分の足で歩き、腕を組み、笑い、喋り、甘酒を飲んだり、クレープをぱくつきながら自由に遊んでいる。ほっとする日常だ。三十分前に自分が置いてきた徳ちゃんの光景が、このなごやかな日常の裏側に感じられる。
 翡翠房の前にもう一軒覗きたいアンティークドールの店がある。鹿香八幡宮に近い奥まった平屋で、さほど品数は多くないがジュモーの人形など、めずらしいビスクドールをいくつか所蔵していた。せっかく来たのだからと茴はそちらにまず足を向けた。翡翠房の後に立ち寄るのは面倒な気分になるだろう。どちらもひっそりした小家だが、手入れをした庭と、奥行のあるたっぷりした間取りの翡翠房のほうが、通りに面した展示室ひとつの西洋人形の家よりも華やかだった。
 小町通は駅前から離れて八幡宮に近づくほど、個性的な店が多くなる。お香や人形、文具、菓子、和紙、アクセサリー、ジュエリー、古書店、和服、陶器、鹿香彫りの店いろいろ、店の構えも凝って、並べた品物の値段も高くなるようだ。
 歩きながら、ふと陽射しを含んで漂う白檀の匂いに惹かれた。藍色の暖簾に紅白の飛梅が大きく染め抜かれている。凛としたたたずまいのそちらへ近づきかけ、途中で茴は立ち止まった。香店の隣は大きな文具店で、便箋葉書、封筒といった一般文具以外にも、日本各地さまざまな和紙の品揃えで知られていた。茴も一年に一度くらいは入る。普段使いの習字紙から高級料紙まで幅広く、見ても触れても楽しい。ちょうど、ひときわ明るい彩の少女が上半身を半ばうしろにひねるように振り返りながら、店から出てきた。
 橙色のショートコートに黒い膝上のミニスカート。キャメルのショートブーツにすっぽりおさまる膝から足がのびのびときれいだった。脚がきれいだなと感じるのと、それが陽奈だと気付くのと、どちらが先だったろう。自分が実母ではないと自覚する一瞬だが、実の母親でもすっかり女性になった娘を偶然街で見かけたとき、品定めのような視線をまず注ぐのだろうか。そうかもしれない。
 ひな、
 声をかけようとしてまた茴は停まった。陽奈の向こう側、文具屋の中から男が出てきて娘に寄り添う近さで笑いかけたからだった。反射的に茴はすっと人波に隠れた。陽奈より青年はだいぶ背が高い。陽奈が顔を仰向けてにこにこしながら何か答えている。もちろん声は聞こえない。陽奈はこの店で買ったらしい巻紙を大事そうに持っている。青年は青いダウンベストを着ていた。彼はすぐ後姿になってしまったので顔がはっきり見えない。
(予想本命君かな) 
 妙な具合に胸がどきどきする。が、青年のまた後から、もうひとり陽奈の友達らしい女の子が出てきて、二人に何か言いかけ、弾けるようにみんなで笑った。陽奈の友達はベレーのような毛糸の帽子をかぶり、白いダウンに赤いロングスカートを穿いている。その子はスマホをとりだすと、文具店の軒先でまず自分撮りし、それから青年を真ん中に挟み、三人で肩をくっつけて撮影した。
(声かけてもよさそうな感じなんだけど)
 茴が人ごみの中で迷っている間に若者たちは行ってしまった。
(別にあたりまえのことよね)
 中学、高校と陽奈の遊び相手に男の子は多かった。そのひとりを時々家に連れてくることもあったし、今年の正月のスキーだって女の子だけで行ったわけではないだろう。今見た男の子もそんなボーイフレンドの一人だと思う。それにしても、陽奈が家に男の子を連れて来た時には感じなかった今の寂しさは何だろう。カップルでもなく、女友達もいたのに、茴はまだちょっとどきどきしている。
(きれいになったわ、陽奈は)
 遠目に眺めて、家庭内の至近距離では気付かなかった手足のすこやかさと顔立ちのみずみずしさが周囲のワンサと比べて際立って見えた。最初自分の娘だと気付かずに、のほほんと視線を誘われたことへの驚きのせいかもしれない。
 春の光が小町通を八幡宮へ遠ざかってゆく陽奈の上にまぶしい。その光は道端に所在なくつったっている自分にも注がれている。汗ばんできた。さしずめコートをちょっと脱ごうかしら。
 
 翡翠房の庭先には姿のよい山桜が二本あって、陽当たりに恵まれ両方とも目の粗い竹箒を逆さにしたようにまっすぐで豊かな枝ぶりを空にひろげている。春空の青に山桜の枝が銀色にいきいきと光り、樹木全体が春を深呼吸しているようだった。二人連れ、三人連れの女性客ばかりが次々と翡翠房へ入ってゆく。ちょうど旧暦雛祭りのころだから、店は繁盛しているのだろう。
 それほど広くはないが、錦木の生け垣や庭石の並べ方の古風な庭の奥のほうに緋毛氈を敷いた縁台と赤い花見傘があって、そちらのほうに数人、やはり女性たちがさんざめいている。中にひとりだけ粋な黄八丈を黒い帯で着付けているのは透姫子でも百合原でもないが、翡翠房のスタッフに違いないと茴は好ましく眺めた。帯は喪服の帯か、黒繻子だろう。近寄って彼女の着こなしを鑑賞したい気がしたが、雛人形を見てから、と古めかしい千本格子を残した引き戸をあけた。
「や、また会いましたね」
 早々親しげに男の声が飛んできて、違和感に茴は驚いた。ここは女性しかいないものといつのまにか固定観念ができてしまっている。
(藪から棒に何よ誰?)
 いまどき古い形容だが、男の声は「藪から棒」にぴったりの頓狂な感じがした。そのすぐあとに
「いらっしゃいませ」
 控えめな声がして、いくつか並んだガラスのショーケースの向こうに透姫子が見えた。彼女は和服ではなく、春らしい水色のゆったりしたチュニックを着ている。ここの作家作品なのか、イヤリングとお揃いの天然石のペンダントを胸前に長く下げている。石は何だろう。透明感のある黄緑色のブロックだった。
「どうもお」
 また横から声が来て、茴は多少いやいやながらという気持ちでそのほうを見た。男は店の奥、天井から色とりどりの可愛らしい吊るし雛が垂れ下がり、古風な五段飾りの雛壇を壁に添っていくつも横並びに飾った薄暗がりに座っていて、声をかけた後に立ち上がってこちらに挨拶に来るでもなく、組んだ足の上のほうをぶらぶらさせて腕組みしている。
「またって、わたしのこと?」
「はいそうよ」
 男はまなじりを下げて笑い、片手でくしゃくしゃした赤毛を掻いた。
「失礼ですが、どちらさま?」
「銀座で会ったでしょ」
 銀座、ああ、東京スタコラーズの。
 茴は当日の出来事を脳裏に巻き戻して彼の姿を探すが、言葉を交わした何人かのなかに垂れ目貧乏ゆすりの記憶はみつからない。
「これわたしの父です。ずうずうしくて申し訳ありません」
 すまなそうな声で透姫子がやってきて、ちょこんを頭を下げ、茴はさらにびっくりした。仰天に近い。
「あなたの、おとうさん、まあ」
 親子というのはたとえ顔が似なくてもどこか空気がつながるものだと思うけれど。にやにや笑っている垂れ目貧乏ゆすりを茴は再三見た。清楚のせの字も彼にはない。椅子に深くもたれかかる猫背。着ているものはくたびれたデニムのジャケット、ジーンズ、年のころは六十代、半ば、かな。
爪先を小刻みに上下ゆらゆらさせている靴は、たいそうおしゃれな白と茶色のメッシュコンビだ。日本人一般の足にはなかなか合わない先細のデザインはイタリアだろうか。さぞ面倒くさいはずの網目のすみずみまで手入れが行き届いて、薄暗がりにも細かい革細工がつやつやしている。
 蓬髪にやすっぽい上着と気取った靴のアンバランス。悪がり、実はおぼっちゃま。デニムジャケットの下のコットンシャツは黄色。
思い出した。色は雄弁、おBなオヤジ。
「会場入り口で挨拶してらした方」
「そ、あなた渋い結城着てたでしょ。あの窮屈そうな着付けが忘れられなくてさ」
「……それはどうも」
「森さん、ジンさんはいつもこうなんです。気になさらないでください。あがってお人形をご覧ください。二階にもいろいろ可愛い子たちが来ていますから」
 二人のやりとりを見かねた透姫子がひきつった顔で割って入り、とりなす。
「ジンさんて」
「おいらジンさん、よろしくね。口は悪いけど女性の味方よ」
(味方? その〈女性〉はあたしにはあてはまらないってこと?)
 茴はむかつくが営業用スマイルで微笑んだ。「お父さんのこと、ジンさんて呼んでるの、透姫さんは」
「一昨年再会したんです。もうおわかりでしょうけど、我が道だけしか歩かないひとなので」
 察すればむつかしい経緯をすらすらと面白く透姫子は言った。
「ジンさんて呼んでくださいよ。女にはやさしいですから」
 そうかなあ、と茴は疑惑を伏せた営業用スマイルのままジンさんに会釈して、透姫子の勧めるまま二階に上がった。福祉の仕事をしているせいか、茴は自分の言葉遣いに気を遣う。むやみやたらに食いつくひとには近寄らない方がいい。普段、多少大袈裟かも、と自制するくらい、柔らかい優しい言葉で病人や高齢者に接するようにしている。
だが結局それは、壮年や若者相手でも同じではないかと思う。言葉は力をふるう。キリストは神のみことば、と称えられているではないか。プラスに働く愛の言葉ならいいが、暴力はだめだ。ジンさんはやばいな、と茴の心に警戒心がちょっと涌いた。
が、それなのに茴が二階に登ると、すぐ後ろからとんとん、と板を踏む足音を高く立ててジンさんが追って来た。
「え…何か」
「いや、これらの人形の由来をあなたに説明してさしあげようと思いましてね」
 ジンさんは顎を少し斜めに傾け、いつも笑っているような垂れ目をさらに細くして、やや横目に茴を見ると、ポケットから仁丹のケースを取り出し、手のひらに何粒かこぼしてぽんと口に放り込んだ。ガリガリ、と奥歯で粒を噛む音が聞こえる。
「はあ」
 要りません結構ですとも断れず、娘の透姫子がまた出てきてくれないかと念じたが、階下では新しい客が入ったらしく賑やかで、不良オヤジの監督どころではなさそうだ。
 半ば仕方なく茴はジンさんに従って、二階の雛人形、市松人形、現代作家の新作まで彼の長い説明を拝聴してまわった。
 ジンさんの薀蓄はじっさいたいしたもので、端々に山田徳兵衛の『日本人形史』を引く。現代の一点制作の球体関節人形作家の名前もぽんぽん飛び出し、茴はいつのまにか煙に巻かれ、すっかり感心してしまった。
 博識の披瀝の最中、ジンさんは自分の流暢に陶酔してしまうのか、とげとげした嫌なちょっかいも言葉に出てこないので、素直に気持ち良く聞けた。ただ、貧乏ゆすりの癖は講釈の間も止まず、Tシャツと同じ黄色い五本指ソックスをはいたどちらかの踵を、常に交互にかたかたと上下させている。相手をしている茴は自然に職業意識が働いた。
(もう少し目つきや様子がおかしかったり、高年齢のひとだったら、抗精神薬服用による副作用かもって思うところだけれど)
 しかし、多動性障害ではないようだった。
ぺらぺらへらへらと知識を並べる口車のなめらかさに、第一印象の悪さも払拭されそうになったころ、百合原が登ってきた。
「森さん来てるんですって?」
 階段を登りきらない彼女のあっけらかんとした声が下から聞こえた。そのあとでまったりとした濃い袖香の匂いといっしょに、あでやかな和装の本人が現れた。絨毯のような濃いペーズリー模様の更紗の小袖を着ている。趣味の着物らしく元禄袖だ。海老茶の綴れ帯に、大きな貝殻の帯どめをしていた
「小一時間もひっぱりまわされて、茴さん、ジンさんの長広舌にふりまわされちゃだめよ。庭でお抹茶点てるからどうぞ。ジンさんもういいでしょ。さんざんしゃべったでしょ」
「ちぇっ、うるさいのが来やがった」
 いたずらを見つかった子供のような表情で舌打ちしたジンさんは眼を細め、両手をGジャンのポケットに突っ込み、ぷいと踵を返して、またとんとんと階下へ降りてしまった。
 あっけにとられた感じで茴は香寸を見た。
 うさぎの国の女王陛下、百合原香寸は配慮はしても遠慮はしない。
「偏屈な女好きだから、森さん騙されちゃだめ。あのひとはあれで親切ではあるのよ」

 百合原に忠告されたが、ウォーキングオンリーマイロードジンさんのおかげで、この午後の自由時間はたいそう楽しく、湯浅さんケアの気疲れはとれた。雛人形はもちろん、お茶もお菓子も、翡翠房の女性たちの応対も快く、軽くなった気分で翡翠房から自宅に戻ると、中から玄関にぬっとカイトが迎えに来た。
「あらどこにいたの」
 カイトはいつものように何も答えず、湿った鼻先を茴の手に押しつけて甘えた。茴はカイトのしっぽを見た。赤銅いろの矢印がついた悪魔の尾。また血で濡れているかしら。
 茴の怯えた視線に気づいたのか、カイトの尾は宙を飛んで、ぴしりと茴の腿を叩いた。鞭でかるく叱責されたような気がする。鮮血はない。どこかに乾いた血痕は残っているかもしれない。餓鬼妖怪だとしても、何かを餌食にせずには生命を維持できないはずだ。
「あなた、いつまでわたしの傍にいるの?」
 リビングに上がり、冷凍庫からアンパンを取り出して解凍すると、話しかけながらカイトにやった。カイトはパン一個をひと舐めで皿から掬い取り、噛まずに飲み込む。返事はない。
「今日、陽奈に会ったのよ。男の子と一緒だった。女の子もいたけど。何だかこっちが変な気分になっちゃった。どう思う?」
 山盛りのパン皿にうつむいていたカイトは金褐色の眼をあげ、長い睫毛をゆっくり瞬きさせると口を半分ほどゆるく開けた。上顎口角に二本の長い尖った牙が光る。
「茴ちゃん、このままだといつかカイトに食べられちゃうよ。そのためにカイトは来たんだから」
 いきなり陽奈の声だった。陽奈はカイトの喉の奥からさらに言い募る。
「キリストは自分の体と血を契約のしるしに弟子たちに与えたんでしょ。司祭さまは言うじゃない。これはキリストの体、キリストの血。愛する者に自分を与えるって、食べさせるってことでしょ。カイトは茴ちゃんに愛されたくて、茴ちゃんを食べるためにいるの、このままだと」
「陽奈、あなたどこにいるの?」
「あたし餌食になるのいやだからね。カイトは可愛いけど、喰われるより喰うほうが」
 むう、とカイトは口を締め、牙が隠れた。陽奈の声もそこで途切れた。
 同時に、まだジャケットを着たままの茴のポケットの携帯にCメールが届いた。陽奈からだった。
「今夜みんなとばんごはんたべますいりませんごめん」
 帰りは何時になるのか、と質問を折り返そうと思ったがやめた。ばかなことをする子ではないし、もう二十歳なんだから。
 カイトがぐいぐいと胴体を茴の膝に押しつけてきた。茴はたった今キメラの口から聞いた陽奈の忠告とメールのなかみと何か係り結びがあるのかと思いめぐらしたが、心あたりはつかなかった。陽奈の声だったろうか?
(確かにカイトは陽奈の声でしゃべった)
 だがリアルタイムで陽奈は友達と楽しく遊んでいるようだ。須磨子さん宅にうかがった時のカイトは、隣室の須磨子さんの拡声器となっていた。今とは違う。
「わからないわね。あなたわたしを食べたいの? ほかの人も食べたの? わたしが死ぬのを待ってるの?」
 夭折の予感なんかちっともないけれど、と茴は膝元のカイトの背中をぽんと手でひとつ叩き、ようやくコートを脱いだ。四十過ぎてもう夭折とは言えないかも、それともまだ若死と惜しまれるかしら、と茴はリビングを通りながら櫂の写真を見た。四十代半ばで逝った夫は、まだ今の自分より老けている。それが嬉しかった。夫の遺影がいつか自分より若く見える時がくる。どんな気がするだろう。
何はともあれ、ラグレアブル・アノ二ムのために、もう一曲手に入れておこう。バッハ無伴奏チェロ組曲五番サラバンド。

水曜日の朝、篠崎月さんのケアには腰ベルトを準備した。汗まみれの奮闘が今日は起こらないよう祈りつつ、とはいえ重度の身体介護に予想外はつきものという心構えもベルトといっしょに持ってきた。
 モノレール松井駅で降りると、こちらも桃や紅梅が盛りだった。農家の居住まいを残す月さんの家の広い庭にも蝋梅や山茱萸、沈丁花などが気ままに咲いて、春おだやかな朝の光に馥郁と香っている。手入れを怠っているのは一目瞭然なのに、前庭の花壇にはチューリップや水仙がにょきにょきと咲いていた。
(月さんに見せてあげたいなあ、殺風景だから、あの寝室)
 花壇から水仙とチューリップを数本摘んで玄関に上がった。
「おはようございます、篠崎さん、森です。起きられますかあ?」
 声掛けして、窓の遮光カーテンを開けた。明るくなった室内はいつものようによく片付いている。今朝の月さんはちゃんとベッドに寝ている。すすす、と軽い鼾が聞こえる。
「月さん、ごはんにしましょうか」
 上半身をかがめて月さんを覗いた。浅黒かった顔がすっかり白くなったと思う。血の気がないというのだろうか。入院してから眉が薄くなり、染めなくなった頭髪は綿のように柔らかく、顔の回りでふわふわしている。上瞼と下瞼が目脂で糊付けされてくっついていた。その裏側で眼球が動いているのがわかるから、月さんは眼を開けたくても開けられないのかもしれない。
「月さん、お顔拭きましょうね。聞こえますか?。これお庭のお花、切って来たんです。いい匂いでしょ、ほら」
 茴が月さんの鼻に水仙を近づけると、
「はあい」
上下の義歯が入っていない口が開いて、欠伸のような返事が来た。月さんの声が呑気に聞こえた茴は、つい余計な冗談口をきいた。
「今日は脱走しませんでしたね。よかった」
 茴は腰ベルトをきつめに巻いた背中に無意識に片手をやった。これが活躍しないですむケアだと助かるんだけど。
半ば物置と化したキッチンでおしぼりを電子レンジにかけ、蒸しタオルを作る。その間に周囲のどこかから適当な花瓶を探し出し、花を活けた。毎日ヘルパーが入るから、誰か水を換えてくれるだろう。
 花瓶とおしぼりを持って月さんの寝室に戻りドアを開けると、そこにまたカイトが来ていた。カイトの傍にはもうひとり青い服の女の子が立っていて、ほっそりした上半身をかがめ、さっき茴がしていたように月さんの顔を覗いていた。
カイトは狛犬のように床に腰を落とし、少女の脇に控えている。茴が入ってゆくと首だけこちらへ向けて歯を剥いた。にっと笑った感じだった。
「お姉ちゃん、こんにちは」
 人なつこい笑顔で茴に挨拶する少女の両目はあざやかなセルリアン・ブルーだ。
「あなたはメグさんだっけ」
 茴はもう動揺しなかった。世の中に不思議が存在しないことのほうがおかしい、いつのまにかそんな気持ちになっている。
 こくん、と可愛い仕草で少女は頷き、また月さんを見て
「おばあちゃんをそろそろ連れていかなくちゃいけないの」
「あなたは天使なの? 月さんをどこへ運ぶの?」
「あたしはおばあちゃんに呼ばれて来たのです。行きたいところを知ってるのは月さんで、あたしはそれを助けるだけです」
「月さんに呼ばれた?」
「はい。あたしはどうして自分がここにいるのかわからない。今までも何度か、気が付いたら月さんの傍に来てるの」
 眼の色と同じ色の夏服を着た少女は、細い腕を伸ばして月さんの顔を撫でた。茴ははっとして自分の役割を思い出した。
「顔を拭くので、ちょっと離れてください」
 まぼろしと話すうちにも現実のケア時間は過ぎてゆく。
「カイトはあなたの知り合い?」
 月さんの眼脂を拭いながら茴はメグに尋ねる。
「この動物はお姉ちゃんの一部だわ」
「あなたもそう言うの」
「も?」
「紫羅も、そんなことを言った。あなた、銀座のパヴォで彼女?彼と並んでいたわね」
 応えがないので振り替えると、そこには誰もいなかった。メグもカイトも姿を消していた。メグが立っていた床の上には水仙とチューリップを活けた青い信楽ガラスがある。
(あたし大丈夫? 統合失調とかだったらどうしよう、幻影がちらつくなんて)
 世の中に不思議がないほうがおかしい、とさっき思ったそばから自分の正気を疑う茴。(でも精神て、きっとむしろ首尾一貫しない乱れがあるほうがナチュラルよね。かちんかちんに思い詰め、全然揺らぎがないなんて、それこそ狂信、パラノイア)
 ともかくケア中だ、ケア続行。既に二十分経過している。時の支配は狂気幻想にも及ぶ。
「おはよう」
 眼脂を拭いてしまうと月さんは両眼をむずむずと開き、大きく口をひらいて挨拶をくれた。
「気分いかがですか」
「ンー、ねえ」
 月さんはかなしそうな八の字の皺を眉間に寄せて、顔の前で痩せた片手を振り、サイドテーブルのほうを示した。介護用グローブやマスクの備品がある。失禁始末用のポリ袋や雑巾なども。しっかり者の月さんは茴に指示をする。
「マスクして」
はい、と茴は月さんの羞恥心を察してマスク手袋を装着した。羽根布団を剥ぐ。月さんはつなぎの介護用パジャマを着ている。腰の下に手を入れてみる。なまあたたかいが、シーツまで濡れてはいない。パジャマの中で留まっているようだ。
陰部洗浄をベッドでするのは初めてではないけれど、手際に自信がない。だけどやらなくちゃ。たくさんぼろ布がいる。ビニール袋と、それから。
 このおむつ交換に何分かかるかしら。十五分もっと必要だろう。月さんは朝ごはん食べられるかな。
陰洗用のボトルはどこだっけ、テーブルの下じゃなくて、たしかトイレか脱衣場か。時計を横目に見ながら小走りに廊下に出ると、エプロンのポケットの中で携帯が鳴る。ケア中だが三藤町の事務所からなので出る。
「あ森さん、やすらぎの事務です」
 本部事務所の電話番号は入居施設と訪問介護と共通だった。
「今ケア中ですけど」
 思わず切羽詰った返事をしてしまう。が、相手は茴よりも息せききった声で言った。
「鶸さんがね、さっき救急車で運ばれたのよ。朝からひどい頭痛がするって言ってたんだけどあなたが来るからって鶸さん我慢してたんだけど、さっきバターンて倒れたの。クモ膜下出血じゃないかって」

スポンサーサイト

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://donanobispacem717.blog.fc2.com/tb.php/85-1a9303fd
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。