さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

スポンサーサイト

Posted by 水市夢の on

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

アンドロメダ・マスカレード  チェリー・トート・ロードvol17

Posted by 水市夢の on   0 comments   0 trackback

アンドロメダ・マスカレード

 満席だ。立ち見も出ている。
 〈ラグレアブルアノ二ム〉開演十分前、茴と亜咲と豹河はもう舞台にいる。
 茴は黒のサテン生地に孔雀の羽根を裾回りに刺繍したドレスを選んだ。金ラメの深い裳裾に、孔雀の羽根のヘッドだけは刺繍ではなく本物。たくさんの孔雀の羽根を腰で束ねて深緋のサッシュで絞り、長い裾まで末広がりの、まるで極彩色の羽扇を重ねたようなデザインだった。
 片肌脱ぎに襟ぐりの大きい胸元もエメラルドグリーンの孔雀の羽根で飾り、あらわになった二の腕と首には、サッシュと同じ緋色のスワロフスキ―のクリスタルチョーカーとリングを嵌めた。茴は自分のほっそりした腕や鎖骨のかたちがきれいなのをよくわかっているので、豪華な孔雀の羽根でヴォリュームのない胸や腰をカヴァーし、見せるところは華やかに魅せる。髪はうなじを見せて高く結い、髪飾りもやはり孔雀の櫛を挿した。スカートに万遍なく散った金色のラメは上半身で規則的な青海波模様になっている。
 亜咲はワインレッドの衣装を選んだ。自分の肉体美をよく承知して、胸と腰をはっきり強調するシンプルなマーメイドラインだ。バレーボールのような胸のふくらみ二つを見せて、マリリンモンローばりに細い今夜のウエストは、あるいは秘密のコルセットのおかげかもしれない。お互いほとんど夜の蝶ね、と亜咲は控え室で茴にささやいたが、夜の蝶々なんて大時代な言葉いまどきわかるんだろうか、と心で思って茴は返事をしなかった。亜咲は髪を上げず、肩の上で大きく内巻きにし、長い黒真珠の二連ネックレスをつけている。イヤリングはバロックパールだった。『シェリ』のヒロイン、レオニー・ロンヴァルの太い首を飾った四十九粒の真珠より、亜咲の黒真珠はずっと数が多いだろう。
 マジック・ミラーの機能を備えた半透明なシェードで仕切られた向こう側で、客のざわめきがやまない。まだ照明があかるいそちらから薄暗い舞台は見えないが、茴たちのほうからは観客のさんざめきが透視できる。ギャラリーは高さの変わらない平土間を適当に仕切っただけの舞台空間だった。
 最初に茴の無伴奏チェロ組曲五番サラバンドから始める。万が一出しものが足りなくなったときの用心にと、あとからつけ加えた曲を意外にも豹河と亜咲は気に入り、出のつかみに弾くことに決まった。
「サラバンドの途中から俺が被ります」
 豹河は今日になって言い出した。出演者の着替えが終わった直前に、だ。
 茴は微笑した。否も応もない。彼がやると言ったらやる。茴は違うことを言った。
「あなたの衣装はロットバルト?」
「わかります? ガーネットの弟子から借りてきた」
 ベルベットのような手触りの、濃紺に黄金の羽根をつらねた両翼とタイツ。フルートを吹くために両手は翼のさきから出るようになっている。背面正中線に沿って恐竜の背びれに似た雲母いろのぎざぎざがついている。悪魔のひれはいったん腰でとまり、タイツの膝から下、ひかがみから足首にかけてまた続いていた。
  豹河の腰の大きさに茴はおどろく。自分よりはるかにしっかりした厚みとしなやかな起伏を青年の下肢は備えている。茴の骨格が普通の女性一般より華奢なのだとわかっていても、手の届く距離に見る溌剌とした異性の若い弾力はまぶしかった。櫂はどうだったろう、と考えようとしたが、これはどうもアリバイめいて茴自身に説得力を持たなかった。
 豹の胸前はインディゴ・ノイズとおなじようにざっくり臍の上までⅤの字に切れ込み、乳首をあやうく隠し、なめらかな胸板と腹筋を見せている。臍上ぎりぎりで節度を保ってくれたのは茴への配慮というものだろう。挑発しなければ豹のファンは不満だろうし、逆に茴や亜咲の友達は眼を剥く。あやうさとぎりぎり、影を見せずに欲望を喝破する豹河の表情は、贅肉がなく大きい。
 開演三分前。少しずつ、観客の気付かない速度で会場の照明が落ちてゆく。夕闇の気配がしのびよる。茜色の倦怠に気付かない観客の無駄話はやまない。
 一分前、はっきりと宵闇。誰が指示したわけでもないのに、話声は静かになる。溶暗はひとの視線を外から内面にいざなう。ざわめきが騒音からひそひそ声に移ったあたりで、観客の耳はぼんやりとした時計の音を聞きはじめる。一分は六十秒。チクタクでもカチコチでもない、水音でもなく、角を柔らげられた秒針の進む音。聴くと聞かないとにかかわらず、わたしたちが乗せられている世界の秤の進む音が聴衆の鼓膜を叩く。
 さあ、すっかり真っ暗だ。だけどプレーンシェードは上がらない。パフォーマーはガラスの壁の向こうがわ。突然藍色の光が帳に弾けて、正面いっぱいにアンドロメダ星雲がゆったりと旋回を始める。観客が座った白いギャラリーの壁や床に渦巻の銀河はひろがり、時を呑みこむ宇宙空間がl,espritaeriensを覆う。もう秒針の音はない。銀河の向こうから、時の流れに変わって、茴のサラバンドが始まった。

 鶸は苦しまずに逝った。
篠崎月さんの介助を済ませ、王船市民病院に茴がかけつけたときもう意識はなく、それから一両日、点滴や酸素吸入でベッドにつながれていたが、さしせまった死はあきらかで、また茴は苦しい延命をのぞまなかった。
最初に茴が見た病院の鶸の顔は、眉間に薄く縦皺を寄せていたが、茴はそっと指で母親の眉を開いた。半開きの口許は吸入器のためにいじらなかったが、臨終を告げられると同時に、茴はへの字のかたちを上向きの微笑に整えた。眉をひらきうっすらと笑った顔は、もっとも鶸らしく美しくなった。
  鶸もカトリック信者だったので葬儀は近所の王船教会ですませた。〈やすらぎ〉職員が参列し、妹夫婦と、それに幸府在住の鶸の兄姉もやってきた。鶸は作家としてまだ一応名前を保っていたから、懇意にしていた編集者も何人か来たが、茴はできるだけ簡素にと願い、新聞広告もすぐには出さなかった。
 櫂が亡くなっているので、親類縁者を狭くした葬式の参列者はほとんど女になった。
「鶸さんいいお顔で」
 着物の喪服の襟をさわやかに抜いた百合原が、ハンカチを鼻先に押し当て、絵のような仕草ですすり泣きながら、きれいな言葉をくれた。棺の中の鶸の顔は死化粧を厚くして、口紅を塗り眉を細く描き、皺もしみも消え、とりどりの花と折鶴に埋もれ、さながら能の女面のように清々として見えた。
 くしゅくしゅと陽奈は茴の脇で泣いた。鶸は陽奈を特に可愛がっていたから、衝撃は実の娘の茴や毬よりも、陽奈に大きかった。
「こんなに急に死んじゃうなんて。一言でも話ができたらよかったのに」
 陽奈は講義を休んで病院の鶸に付き添い、臨終後の湯灌を茴といっしょに浄めた。死顔のメイクも茴や毬ではなく陽奈がした。
「おつかれさま」
 亜咲は言葉を連ねず、ごく短く茴を労わってくれた。それが耳に浸みるように聞こえ、茴の頭のてっぺんが、亜咲の一言で天高く突き抜ける感じを覚えた。
(疲れていたんだ、わたしは)
 司祭の司式で聖歌を歌い、死者を悼む言葉を聞く。しめやかな葬儀の最中ずっと茴はぼんやりしていた。放心のはざまにこんな問いが湧く。わたしに悲しみがあるだろうか。鶸が施設に入ってから、すっかり楽になったと思っていたのに、今の自分の感情の淡さはどうだろう。
「お姉ちゃんありがとう」
 毬は言った。葬儀でも毬はちゃんと付け睫毛にアイシャドー、チークは濃いめだった。口紅だけ淡い。
(妹のメイクがしっかり観察できるということは、わたしは冷静なんだわ。悲しい?)
 茴の顔を見つめて、それからさらに毬は言った。
「ママは幸せなひとだったよね。実の娘にこんなに世話してもらえたんだから」
 茴は答えられなかった。悲しみの実感がわかない。〈やすらぎ〉の職員は一様に涙をこぼしてくれる。メダカちゃんもケアの合間に来てくれて、眼を赤くして茴に言った。
「鶸さん、うちで一番若くて美人だったのにこんなにあっという間に逝っちゃうなんて。ほかの入居者さんも悲しがってる」
「みんなにさんざんお世話になって」
 夜毎の鶸の愁訴や失認に、どれだけ職員は手こずったことかと茴は想像する。
「世話がかかるから施設に入るんだから当たり前よ。クリアなときはいい人だったし」
 メダカちゃんは涙をこぼしながら茴を労わってくれた。茴は言った。
「みんなに優しくしてもらって、母は幸福だったわよ」
 それはほんとうだった。
 全能の神の憐れみにより、マリア・ベアータ…鶸は帰天する。地上におけるいっさいの束縛を免れ、母にまつわる茴の罪悪感も鶸の魂といっしょに天に昇る。
 聖堂の前にまだ若木の桜がある。これは染井吉野だろうが、関東一般の開花よりずっと早く、ちらほらと咲き始めている。
 軽くなった、と茴は早咲きの桜を眺めて思った。七十前の死は早いが、鶸の状態は不可逆で、肉体はともかく心はゆるゆると壊れていくばかりだった。妄想や強迫神経に加え、認知症がひどくなったら、周囲への迷惑もさりながら、抑鬱や発作に蝕まれる鶸のほうが苦しいだろう。
 『恍惚の人』の舅はアルツハイマーで、最期は嬰児のような笑顔になって崩れていったが、鶸はそうはいかないはずだった。茴には鶸の行方が見えたから、水曜日に母親のケアに入るたび、自宅で介護していたころとは色合いの違う虚無感を湛えて鶸を見ていた。
 ターミナルは予想以上に迅速に、それこそ神の恩寵のような一撃で鶸に訪れた。
「これでよかったの」
 ぼそりとつぶやくと、ちょうど傍にいた毬と陽奈がいっしょに、
「茴ちゃんがいちばんしんどかったよね」
「お姉ちゃんにお母さん感謝してるよ」
 今日、虚無は青空の色をしている。せめて初桜の枝ごしに青い色を眺めたくて茴は樹下に立った。

 四十九日は〈ラグレアブル・アノ二ム〉を終えてからと決め、だとしてもイベントまでいくばくのゆとりもない茴は、チェロの傍ら母を天に送ったあと現世の手続きに忙しかった。この間ケアは休んだ。
 篠崎さんも湯浅さんも気がかりではあるし、人手が足りている福祉コミュではないけれど、冠婚葬祭は別だ。またそうでなくても「地域貢献人助けはお互いさま」の精神で主婦たちが集まるコミュニティの縛りはゆるく、ワーカー本人が体調を崩したり、子供が熱を出したり…といった割合些細な急の事情の際もかなり気楽に休めた。誰かの休みは別なワーカーが補う。これも助け合いの精神だ。一般企業ではとてもこうはいかない。
 気楽に参加し、束縛はゆるく、質の悪い職場でのいじめも、まあ、ない。反面、しっかりした企業が労働者に保証する労災や保険、年金などの福利厚生も、まあ、ない。ワーカーは分配金を共有するので雇用関係にある労働者ではない、という思想だからだ。
 長い眼で将来を見据え、家族を持とうとする若者が安心して長く働ける所ではないから、おのずとある程度暮らしにゆとりがある主婦たちか、男性ならば現役を引退した年金世代の、ボランティア半ばアルバイト半ばという善意がコミュ運営の頼りになっている。
 茴の休みはきっと向野ギャザリングが補うことになるのだろう。桜沢地区の福祉コミュヘルパーは他の地域に比べて多いほうだが、請け負う仕事に派遣の数はいつも追いつかない。家庭をちゃんと守りながら働く主婦たちはそれぞれ無理をしない範囲で、めいっぱい仕事を入れている。七十歳という向野ギャザリングは、コミュの役員をいくつか務めながら、自分もケアワークに行き、さらに休んだワーカーの穴埋めに走る。心身ともに丈夫なひとだ。
 〈やすらぎ〉の鶸の部屋を片付け、役場の手続きを済ませ、霊園に納骨し…形見分けも相応に。書きにくいボールペンで日記を書くように母の死が感情を離れて整理されてゆく。 
 自分はもっと悲しまなければいけないのではないか、と茴は時々考えたが、この起伏のないすべすべした気持ちのまま、神の手に母を委ねて安心していても構わないだろう。
 鶸の死の後、世界はいっきに春爛漫に突入していった。教会で青空を透かし見た早咲きの染井吉野から始まり、連翹、木瓜、杏、たんぽぽ、道端の犬ふぐり、しろつめくさ。温暖な湘南の大地にはしっとりした若緑が柔らかく広がり、雑草のなかでクローバーだけが可愛らしい姿でひとの注目を浴びる。桜前線が日々南から北へと登ってくる。
「今度の演奏会に友達連れてく」
 陽奈は言った。
「ありがと。どんな子?」
「ないしょ。見てのおたのしみ」
 陽奈がちょっとずるそうな顔をするので、茴はつついてみたくなる。
「それ、本命君?」
「なにそれ」
「命短し恋せよ乙女。この台詞はヘッドに音符つきで言うのよ」
「めちゃくちゃ懐メロだね」
「そうね、懐メロも懐メロ、ペトラルカだったか、ロレンツォ・デ・メディチだったか。でも中国の詩文にもたくさんあるの」
「古すぎる。懐メロ通り越して化石」
「心のルーツです」
 陽奈は肩をすくめた。この子の世代は文庫本をひらくよりスマホを撫でる時間のほうがはるかに多い。茴がダンテと言ってもトーマス・マンと言っても噛みあわない。これはこれでいい、と茴は娘を眺める。東西古典の大文豪を語って茴とぴったりうまがあうような二十歳だったら、そのほうがむしろ心配だ。
「カイトはどこにいるんだろう」
 茴は娘の気持ちを逸らす話題にした。ついでにキッチンに行って陽奈にココアを作ってやる。砂糖とヴァニラ。少女と妖精はお菓子が大好き。もうしばらく陽奈をここに、自分の傍にひきとめておきたい。甘いもので手なづけ、フリルやレースのいっぱいついたピンクのドレスを着せて。だけど陽奈はもうじき野暮ったいお人形ドレスを捨て、すっかり生えそろった長い羽を伸ばし飛び立ってゆく。

 イエスタディ。
どこにいましたか? 今日誰と会いますか、明日は? 昨日のわたしにわたしは戻れない。
 亜咲はビートルズを選んできた。
 茴のバッハに豹河は途中から被さり、短い舞曲は合奏してごく自然に二度、繰り返された。それから静寂。シェードの銀河は滲むように消えて、舞台に照明が灯り、するするとプレーンシェードが巻き上がった。
 中央にグランドピアノの亜咲、その手前左右に茴と豹河。ロットバルトの豹は亜咲の斜め前に黄金のフルートを構えて立っている。デヴィッド・ボウイふうに前髪をたてて額の生え際に黒と金の輪をインディゴ・ノイズの「神風」鉢巻と同じように飾っている。今夜の鉢巻のエンブレムは金色の眼の蝙蝠だ。
三人が姿を見せた瞬間、観客席から熱気のような嘆声が湧き、茴は〈ラグレアブル・アノ二ム〉の成功を確信した。芸もさりながら、舞台はまずパフォーマー登場の瞬間に客の心を魅了しなければ。見た目百とは言わないが、舞台の成功九十までは容姿で決まる。
 亜咲はすぐに弾きはじめない。いったん完全に沈黙し、二重奏のサラバンドの余韻を残す空間に、またひそひそと何かの雑音が忍びこんだ。
 車の排気音、エンジンの唸る音、駅に電車の入ってくる、あるいは出てゆく音。雑踏の騒音、急ブレーキ、御乗車になってお待ちくださいのアナウンス、おしあいへしあいしてひとびとが歩いてゆく繁華街の気配。靴音。笑い声。だよね、とか,マジ、とか、めちゃ、とか、アイスクリームのトッピングのように小さくて、感覚に鋭い単語。
道路と街にあふれるノイズの多重奏は出だしの秒針と同じように音質の角をまるめられ、あるいは空間のゼリーに包まれたようだ。ゼリーの塊の中に、時折ふいに「え、やば」という笑い声が原色で突出する。すぐにそれは引っ込み、またとろりとしたゼラチンの鈍さに全体が沈む。
 亜咲はピアニシモでイエスタディを弾いた。これにも豹河は途中からフルートを付ける。二人の間に打ちあわせがあったのかどうか茴は知らない。リハでは三人それぞれソロで通すはずだった。もちろん亜咲と豹の個性だからアドリブ乱入あり、という前提でだったけれど。
 イエスタディを全部しめやかに弾き終えてまたノイズ。今度ゼリーが包む音のかたまりは人間の話し声だ。子音が曖昧なので何を言っているのかはっきりとは聞き取れない。耳が慣れてくると、世界各国の言葉だとわかる。映画だろうか、ニュースだろうか、ラジオのパーソナリティの喋りか、あるいはネットの動画からか、いくつもの国の言葉が脈絡なく重なり、ピアノの休む沈黙を不透明な渦で埋める。
 それからまたピアノ。バッハのゴールドベルグ変奏曲。グレン・グールド風に? だがバッハは途中で止み、またノイズが入る。多彩なコラージュのはざまを人間世界の雑音を鈍くしたノイズがつなぐ。感情を揺さぶる旋律のはざまで、曇りをかけた騒音は無彩色に〈聞こえる〉。
 時を想うのは人間だけ。わたしたちの時間はひたすら前へ突き進む。人間が消えてしまえば世界に時間は消える。宇宙空間に燦然と輝く超新星も、ブラックホールも、銀河も、生成と消滅は直線の時間軸上ではなく、永遠に循環する螺旋軌道。始めも終わりもない。愛すべき人類を失った神は素粒子の天使団を従え、絶対0度の宇宙に孤独に君臨する。
 六十年代から八十年代にかけてのロックミュージックを亜咲は選んできた。亜咲にしてはメロウな演目で、パッチワーク技法にせよ、バラードを弾くときは中断せず、ジャニス・ジョプリンなどは無造作に切った。モダンのはざまには必ず、まずノイズとそれからゴールドベルグを入れるのだった。
 豹河は亜咲のポップス演奏に気ままに出入りしていた。豹河が旋律に侵入すると、亜咲は器用に伴奏にまわる。豹はバッハには触れなかった。ノイズを挟みながら亜咲のパートのラストは〈TAKE5〉 
その直前のノイズは何かがたたきつけられ、粉々に砕ける音だった。いくつもの、いくつかの、重く軽い破壊音。すべてゼリーの中だ。
 記憶の中に封じ込められた音の破片は、時間によってまるめられ、胸を突き刺す痛みを消して、わたしが砕け散ったその日その時の残響となって、会場にぬるく拡散してゆく。
 森、入って。
 出だしのスイングで豹の命令が茴に飛んだ。いきなり呼び捨てだ。茴は弓を握った。亜咲を見ると頷きながら笑っている。いいわよ、と茴は弦に弓を添えて高く肘圧をかけた。それを見た亜咲の鍵盤を叩く両手が、一段と高くあがった。
ジャズは初めてだが、聞き覚えがある名曲なのでコードでどうにかつけられる。掛け合いの呼吸は勘、音量はベタ弓で勝負。肘をかけて全部フォルテ、啖呵のようにフォルテッシモ。

「お母さんのことで大変な時期なのはわかってるんだけど、他にどうしても都合がつかないから悪いんだけど入ってもらえますか?」
 向野ギャザリングから電話が入った。〈ラグレアブル・アノニム〉上演直前の火曜日だった。篠崎さんのケアはパフォーマンスが終わるまでお休みということにさせていただいた茴だが、変わりのヘルパーが風邪で倒れてしまったということだった。鶸の死後のあれこれはひととおり済んでいたので茴は承知した。鶸を悼む香典やらお花など連日届き、チェロのお稽古以外はそれぞれへの香典返しをしたためるために、気持ちだけが忙しい。相続のことも早めに毬と相談しなければならないが、施設に鶸を入れるときに、いろいろな整理を済ませておいたから、揉める心配はなかった。
 鶸の急を知らされたのは篠崎さんのケアの最中だった。それから半月近く過ぎている。この週末はキリスト教暦では「枝の主日」にあたり、同時に茴たちの〈ラグレアブル・アノ二ム〉当日になる。「枝の主日」とはイエスのエルサレム入城記念日だった。
 三月下旬の朝、前回訪問のときより、篠崎邸の景色は木立や庭草に萌黄みどりがいきいきと繁りを増している。庭の黒土も飛び石を敷いた通路以外はびっしりと雑草に覆われ、緑のなかにしろつめくさやタンポポがたくさん咲き出ていた。チューリップと水仙の咲いていた花壇には、今日は水仙だけたくさん残っている。開花を終えたチューリップの茎と葉は雑草に紛れていた。茴はまた水仙を摘んで玄関に入った。
「おはようございます、月さん、お具合いかがですか?」
 月さんはベッドで寝息をたてている。カーテンを開けると、室内はいつものようによく片付いている。たぶん長いこと未使用のポータブルトイレは乾いて、臭気もない。
 窓からの光の射し方が前回と変わり、濃い明るさのせいでひっそりした月さんの寝室の印象が違って感じられる。明るさはより明るく、ベッドや家具の作る物影は、ユトリロの筆のように太い。
「聞こえますか、森ですよ、月さん」
 ああい、と月さんは眼をつぶったまま口を開けた。もう義歯は入っていない。ゼロ歳児のように歯茎だけで笑う。たぶん笑ってくれている。茴が来たので、声をかけたので、月さんは白く乾いた丸顔に笑顔を浮かべた。
「お顔を蒸しタオルで拭きますよ」
 ん、ん、と下顎が動く。掛け布団から両手の細い指が出る。爪が伸びている。あとで切ってあげよう。月さんの声が来た。
「おあよう」
「はい、おはようございます。ご飯召し上がりましょうね」
 物置と化したキッチンで蒸しタオルを作る。ついでに水仙を活ける花瓶を探す。青い信楽ガラスの器。
(ザシキワラシのメグが来ていたんだっけ、カイトと一緒に。あの日、振り返るとメグはいなかった。青い夏服のまま、このガラスに溶けちゃったのかな)
 脈絡のない連想が茴の頭の中をよぎってゆく。物悲しかった。空気の抜けた風船のように、見るたびに月さんの顔や体は小さくなってゆく。美少女のメグが幸福をもたらす妖精なら、月さんを早くどこかへ連れて行って、と茴は祈るように願ってしまう。身体介助は重労働だが、たぶん介助されるほうが苦しいだろう。それでもまだ病院でのチューブ漬けよりましだ。
(メグ? めぐみ、恩寵、グレイシア、ガラシャ。細川ガラシャというひともいたっけ。アメイジング・グレイス)
 あの子はほんとに天使なのかも、と茴は思った。まぼろしでも、死に近い高齢者の枕頭に天使が現れるのはすばらしい。
 蒸しタオルで月さんの瞼を拭く。鼻と口の周り、こめかみまで、薄くなった皮膚をいためないように拭いてあげる。睫毛はほとんど残っていない。
 ぱちりと月さんの眼が開いた。
「おかげんいかがですか?」
「まあまあよ」
 はっきりした月さんの答えに茴は笑った。月さんは大袈裟に眉間に皺を寄せ、いたずらっぽく言う。
「なかなかお迎えが来ないねえって、おじいさんにこぼしてたところ」
「夢ですか? 御主人見えたの。いいなあ」
「夢でがっかりしちゃったよ」
「御主人はいつも月さんの傍にいらっしゃいますよ」
「そうお?」
 満面に笑い皺を作る月さんは機嫌よさそうだった。朝ごはんの前に月さんのお下を交換しようか。茴はゴム手袋をはめた。ふと何かが窓をよぎった気がしてそちらを見ると、いつのまにか両開きの張り出し窓が開いている。カーテンを開けたときは、確かに閉まっていた。古いクレセント錠はどうなっていただろうか。レースのカーテンが春風をはらんでふくらんでいる。
 窓を閉めようと茴は窓辺に寄った。寝室の前は正面とは離れた中庭になっていて、ここにものどかな春の光があふれている。この庭を今までケア中にちゃんと見たことがなかったが、母屋の壁で隔てられた敷地いっぱいが天然の花壇のような小さい野原だ。
 あ、月さん。
 茴は心で呼びかけた。中庭の真ん中に介護用のピンクのつなぎパジャマを着た月さんが座っていた。クロッカスと水仙、たんぽぽ、フリージアにチューリップ、紫禁草の群れに囲まれ、月さんは痩せた背をまるめて顎を前に突き出し、よもぎか何かの若草を摘んでいるようだった。月さんの肩のあたりに紋白蝶とキアゲハが飛んでいる。
 その月さんの前に明るい茶色の野兎がいる。
 いえ、兎ではなくて。
「カイト! ミニチュアカイト」
 茴は窓から上半身を乗り出した。月さんの前に、兎の耳のライオンカイトは、かたちはそのまま、大きさは十分の一以下になって、ちょこんと月さんを見上げていた。月さんはミニカイトに、自分が摘んだよもぎを少しずつ食べさせている。カイトは仔山羊のように口を動かして月さんの手から草をもらって食べていた。ほら、と月さんはカイトに草をやる。カイトはぐいっと顔をひねってそれをひきむしり、ついでに茴のほうを見ると、ぴくんと片耳を中程で折って挨拶した。
 茴は室内を振り返った。月さんはベッドに寝ている。寝具の中からピンクの袖の細い片腕が上がり、茴の佇む窓のほうに向かって、おいでおいでと、手が動いた。
 もう一度茴は中庭を見た。
 春の野花がいっぱいだ。
 光に踊る蝶々と。

 照明が豹河ひとりに絞られる。
ピアノもチェロも消え、舞台には若い豹一頭、黄金のフルートを構える。上半身をやや前かがみにひねり、あらわになった胸と腹の筋肉を彫り上げるスポットライトを独占した濃くなめらかな影がまぶしい。汗ばみ、濡れた皮膚の上に、ところどころ光が七色のプリズムで走る。豹河は地肌の部分にも金ラメをまぶしている、と茴はそこでようやく気付いた。
 彼のフルートは何だろう? 聞いたことがない。洋楽でも邦楽でもない。アラブ、インド、アフリカ、世界の民族音楽のどれでもない未知の音程を自在に行き来する。茴は楽典をきっちり学んだわけではないが、単純に聴覚から、音楽のさまざまなハーモニーが綴る物語を感じるセンスはある。
 民族音楽でも西洋クラシックでも、一つの音の次に来る音は、まるでスタンダードなおとぎ話の展開のように、人間の心がこうあってほしい、そうだったらとても気持ちがいい、という普遍的な希求に適う。だから楽曲出だしの動機を聞けば、ほぼ全体の構図を予測することもできる。
 だが、豹河のフルートは次の音を予兆させない。
(Fで、その次はC? 今度はAで、さらに♯A)
 シェーンベルクの十二音技法の響きとも違う。また耳障りな不協和音でもない。体温を持たない音符の散らばり。音と音とがつらなって美しいハーモニーを醸しだす古典音楽の世界以前の、あるいはその世界の裏側にひそむ…
(これは宇宙空間を旅するいくつもの星の光が、億年隔ててすれ違う響き)
 茴は豹河のフルートを、すこしロマンチックに形容して耳を澄ませた。豹の吹き鳴らす一粒ずつの音には、互いに遠い距離感があった。人間感情に抵触しない音列は、ドビュッシーとはまた違うクールな慰めをくれる。
(G、C、E、♯GでA)
 豹の肉声を聞くようだった。自分は確かにこの青年に欲情している、と茴は疚しさのない自覚を溶暗の中で想った。恋でも愛でもない、ダイレクトなリビドーを彼の音色はかきたてる。
(嘘だわ、あたしはこの子に恋してる、今とても)
ピアノの前の亜咲もきっとそうだ。女なら、いや女性でなくても、彼に魅了されて当然だと思う。インディゴ・ノイズよりも、パヴォのリサイタルよりも、今聞くフルートソロはラグレアブルだった。
くらやみに豹河の体臭が濃くなる。彼のフルートと一緒にわたしたちは彼の匂いを〈聴いている〉
ふっと音列が途絶えると照明も豹も消え、真闇にノイズのゼリーが被さってくる。
ゼラチンに封印されているのは、今度はさまざまな音楽だ。ベートーベン、ビートルズ、Jポップ、演歌、民謡、スペインのカンテ・ホンドは魂に届く深い声で…ボサノバ、レッド・ツェッペリンに、リュシェンヌ・ボワイエ、カザルスの鳥の歌は茴への敬意かしら、それからショパンは亜咲? マリア・カラスも、あ、藤山一郎の軍歌まで。いやだ、最後は絶世の美女李香蘭の歌う蘇州夜曲のフラグメントってことにして、みんなみんな半透明な虹色のゼラチンの中でねっとりと輪郭をゆるめて溶け合う。混じり合う音楽のノイズ。わたしたちのきおくにごちゃごちゃとまじりあううたのこんとん。
するするとシェードが降りてくる。
  客席と舞台がまたハーフミラーで遮られると、淡い明かりがパフォーマーを照らし出した。三人は互いの顔を確認する。豹は最初にどちらの女を見ただろう? 亜咲の両目は潤んでいた。豹河だけが自分の愉しみじゃない、と言い切った彼女だが、中年過ぎて追い求める快楽の限界は女性のほうが早く知る。聡明であればなおのこと。サガンに戻ってふりだしだ。だが、人恋ふる心は泉のように、その人自身を潤してくれる。亜咲の濡れた瞳と唇。
 茴は弓を構えた。少しA線が下がっている。すばやく調節して豹の合図を待つ。
 客たちはシェードに新しいプロジェクションを見ている。生暖かい粘液と体腔、長い産道を螺旋に回転しながら地上に降りてくる嬰児の頭。赤ん坊の画像の上にアンモナイトの化石が被る。誕生のムーヴメントと貝殻の成長の軌跡は等しい黄金比。嬰児の顔がアンモナイトの中心から突出すると化石は消えて、今この季節、イースター直前の春爛漫、関東に踏み込んだ桜前線の光景が降誕のキリストのような赤ちゃんの顔の周囲を包む。花散らしの風に吹かれて虚空をぐるぐる旋回する花びらの渦もまた、銀河と同じ黄金比率で日本の春を覆う。
 クライマックスはトリオで。
「time to say goodbye」
 シェードのこちら側から客席に向かって、少ししゃがれた声で豹が言った。
何かが彼のハートを抑えつけ、たぶんそのせつなさが喉を締めた。誰? 茴は豹河の声の向こう側のシルエットに淡く嫉妬する。気のせいかもしれない、豹はフルートのソロに疲れて声が歪んだのかもしれない。そして茴の疼きも、きっと今このいっときだけのものかもしれない。舞台幻想にしても、恋に嫉妬はつきものだ。
観客は生まれたてのピンクいろの赤ちゃんと桜吹雪と、その上に重なる藍色の宇宙空間に輝く銀河の多重映像を見ている。
 豹河は前だけを見てeinsatzした。
 GO!
これまでのわたしにさよなら。
明日のわたしにわたしは会える。
   
                                                         (チェリー・トート・ロード 了)

スポンサーサイト

Post comment

管理者にだけ表示を許可する

Trackback

trackbackURL:http://donanobispacem717.blog.fc2.com/tb.php/86-5d70cd2d
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。