さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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ひとり芝居 吸血鬼カーミラ

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   吸血鬼カーミラ

 1 最初の夢

 子どもの頃、わたくしは不思議な夢を見ました。
 ある晩、ふと夜中に目をさまし、ぼんやりとあたりを見回しました。子守も、乳母の姿も見えませんでしたので、わたくしは自分が一人でいるのだとわかりました。怖い気はいたしませんでした。わたくしはその頃、お化けの話も、幽霊の言い伝えも知らず、蝋燭の火影が壁にゆらゆら揺れたり、夜風に古い扉がひとりでにギイッと鳴っても、それを怖いと感じる理由を知らない、まるで無邪気な子どもだったのでございます。
 恐ろしくはございませんでしたが、わたくしは自分がみんなに取り残され、、一人ぼっちなんだと思い、寝台に座り込んで泣き出したのでした。すると、ベッドの端から、わたくしの寝間着の裾をそっとひっぱるひとがいます。わたくしが顔をあげると、寝台の下に横座りになり、見たこともないきれいな若い女のひとがいるではありませんか。
 わたくしは見知らぬひとに泣き顔を見られたのがきまり悪く、布団のなかへそろそろと後ずさりして潜りこもうといたしますと、女のひとは、わたくしの寝間着の裾を握ったまま、後について寝台にすべりこんでいらっしゃいました。
 嬉しいような、怪訝なような心もちで、どうしたらよいかわからず、わたくしはじっと女のひとに抱かれていました。女のひとはわたくしを優しく撫でながら、小声で歌をうたってくれました。ひんやりとつめたい、その方の肌の感触も泣きべその頬には気持ちよく、また、この方からはなんともいえないよい香がいたしました。
 後年、わたくしが大人になり、夜の花園を散歩いたしましたとき、薔薇の繁みからふんわりと漂う匂いを闇の中で嗅ぎましたが、それはあの夜の不思議な香によく似ているようでございました。
 わたくしはじきにいい気持になり、うとうとと眠りこんでしまいました。ところが、眠ったと思ったとたん、胸のあたりに針でずぶりと刺されたような鋭い感触に、叫び声をあげて飛び起きました。
 女のひとは寝台の傍らに立って息をひそめ、無言でわたくしをじっと見下ろしていました。その瞳は闇の中できらきらと緑色に輝き、まるで獲物を狙う猫の目のようでした。
 ただならぬわたくしの叫び声を聞きつけて、乳母たちが階段を登ってくる物音がいたしますと、女のひとはさっと後ずさり、でも少しも慌てた気配はなく、わたくしの首筋をほっそりした手で撫でて、
「きっと、また会いましょうね」
 とつぶやいたのですが、わたくしは逆に、その指のしっとりとした氷のような冷たさにぞっと恐ろしくなり、あらんかぎりの大声で泣きわめきました。女のひとは眉根を険しく寄せたかと思うと、するりと身をひるがえして床にすべり下り、寝台の下に隠れたようでございました。 
 すぐに大人たちが駆け込んでまいりましたが、部屋のどこにも女の影もかたちもなく、みんなはしゃくりあげるわたくしを、怖い夢を見ただけとなだめすかすのでした。ですが、その一方で、大人たちは小声でささやいておりました。
「ちょいと、嬢やの寝床の脇をご覧よ。誰かあそこに寝ていたんだよ。窪んでいるじゃないか」
「ええ、それにこのむっとする匂いったら!
まるで棺桶の薔薇をぶちまけたようだよ」
 乳母はわたくしが刺されたと言い張る胸のあたりを丹念に調べましたが、何の傷痕もないということでした。
 育ちざかりの子どももこととて、しばらくは毎晩夢魔におびやかされたものの、いつしかこの夢は記憶からおぼろに遠ざかってしまったのでございました。
 十八の年の、あの出来事が起こるまで…
 もっとも、ほんとうにあった現実の経験であっても、時が過ぎてしまえば、記憶の中では夢と区別がつきません。曖昧な現実の思い出と、鮮烈な夢の経験とでは、あざやかな夢のほうが人生に深い影響を与えるとしたら、夢とうつつは、時に優劣を逆転することもございますのでしょう。


 2 登場

 わたくしどもがそのころ住んでおりましたお城は、森の中の小高いところに建っておりました。お城は中世からの建物でして、くすんだ古い石壁に、えぐったような小さい窓がたくさんあり、ゴチックふうの高い礼拝堂や、もう使われなくなって久しい、反り返った跳ね橋などが遺跡のように残っておりました。
 馬車がようやっと一台通れるくらいの小道は、雑木林を抜けて、一方は村里に、もういっぽうは、父のお友達のスピエルドルフ将軍がお住まいの、古城に通じておりました。将軍のお城もまた、わたくしどもの住いにしている城のかつての主で、今はもう断絶してしまったカルンスタイン伯爵家とゆかりがあるらしく、将軍のお城の近くには、カルンスタイン家の納骨堂が、すっかり荒廃した姿で残っているそうでございました。
 爽やかな夏の宵のことでございました。
 わたくしは父とお城の森を散歩しておりました。父は歩きながら申しました。
「スピエルドルフ将軍は御予定どおりにお越しになれないそうだ」
「それではいつごろいらっしゃいますの?」
「秋までは無理らしいな。お気の毒なことに、お嬢さんが亡くなられたのだよ」
 わたくしはびっくりいたしました。将軍は二、三週間前にこちらに遊びにいらっしゃるはずでした。将軍の姪御さんはわたくしと同じ年頃で、たいそうきれいな方と聞いておりましたので、お友達になれるのを楽しみにしていたのでございます。
「これが、今朝届いた将軍のお手紙なんだが、あの気丈なひとがすっかり動顛しておられるようだ。支離滅裂で、ひどく迷信的に興奮しておいでなので、おまえに見せるのは憚られたんだが」
 と、父は将軍からの手紙をひらき、声に出してゆっくりと読みはじめました。
«私は最愛の娘を失った。まさかこんなことになろうとは夢にも思わなかったのです。我々は誠心誠意で歓待した悪魔めにまんまとしてやられた。ベルタのために、わたしは陽気で美しい友人を迎え入れたと思っていたのに、なんと愚かだったことか。せめてもの慰めは、ベルタが自分の死の原因をつゆ知らずにみまかったことです。
 私は自分の余生を、怪物の捜査と撲滅に捧げることを決意いたしました。貴君のもとに参上するのは、いくばくの成果を得てからのことにさせていただきたい。条理のないこの文面のまことに非礼ながら、子を失った親の闇をお察しください。とりあえず調査のためウィーンへ向かう»
 しどろもどろの手紙を、父が読み終えた頃には、夕陽は既に沈み、あたりには黄昏にいろが濃くなっておりました。わたくしは言葉もなく、将軍のお手紙の激した内容を思いめぐらしながら、なんともいえずあやしい気持ちでございました。
 父も無言で、わたくしたちは寄りそって森の小道を歩き、ぐるりとひとめぐりしてまいりましたころには、城の荒れ果てた物見櫓を影にして、ぬるいお濠からたちのぼる、夕暮れのうっすらとした狭霧の彼方に、キラキラと夏の月が輝き昇っておりました。
 父は嘆息して呟きました。
「何とも静かな美しい眺めだね。将軍の悲嘆もこんな月を見ればいくぶんか和らごうというものじゃないか」
 と、その言葉をおしまいまで言い終えぬうちに、城の跳ね橋の前で、馬の鋭いいななきと、絹を裂く悲鳴が同時に聞え、わたくしははっと身をすくめました。
 城の前の小道は片側に大きな菩提樹があり、そのためにいっそう道が狭くなっており、もう片側には、無縁仏のしるしが傾きかかって残っております。夕陽の残影がくろぐろとたなびく丘の彼方から全力疾走してきた馬車は、両側からふいに狭まった曲がり角で均衡を失い、その上、四頭の馬が道に突き出た十字架に驚いて菩提樹のほうへ車輪を乗り上げるように身をよじったものですから、馬車はガラガラっとすさまじい音をたててひっくりかえってしまいました。
 父とわたくしが小走りに駆けよりますと、馬車の中から気絶した少女が担ぎ出されてきたところでした。傍らの年配の婦人が少女を無理に掻き起そうとする様子を見かねた父が、
「奥様、しばらくお嬢さんを休ませなくてはならんでしょうな。ご覧なさい、血の気がぜんぜんありませんよ。無理に動かすと大事にもなりかねんでしょう」
「まあ、大事ですって。この旅ほどわたくしども一家にとっての大事件はございませんのに!」
 と婦人はふりかえり、父をきっと見据えました。ほう、と父が思わず声を呑んだほど、お美しい方でした。すらりとした痩せがたちに、高価な黒びろうどのお召し物、抜けるように白いお顔は少女の母上にしてはみずみずしく、只今の驚きに表情は険しく取り乱しておいでですが、並々でない気品がおありで、一見しただけでよほど高貴な方のお忍びと察せられました。
「生きるか死ぬかのお家の命運をかけてここまで参りましたのに、このありさま。娘の容態は心配ながらも、一刻の猶予もなりません。これでは、この子はここに残し、大願を果たしたあかつきに、またここに娘を拾いに戻るしかございますまい。恐れ入りますが、この近くに娘を託せる手頃な宿をご存知かしら」
「奥様、こんな田舎にお嬢さまにふさわしい宿などありませんよ」
 父は婦人の切羽詰った権幕にたじたじとなりながら答えました。貴婦人は御自分の娘の容態より、御家優先という態度があからさまでしたが、それも高い御身分の方にはありがちなことなのでしょう。
「お父様、この方をお城におひきとめしましょうよ」
 わたくしは父の袖をひっぱり小声でささやきました。召使に囲まれて介抱されている少女の華奢な風情に、わたくしはすっかり同情してしまったのでした。
「奥様がもしもわたくしどもを御信頼してくださるならば、うちの娘のお客さまとしてお迎え申し上げようと存じますが」
「旅先で見ず知らずの方の、偶然の御好意をこうむるのは厚かましすぎるいうものでございますわ」
「娘はかねてより同じ年頃の友達を欲しがっておったのでございますよ。間もなくこちらへ逗留するはずだったある娘さんが、突然お亡くなりになった知らせが届きまして、これはたいそうがっかりしておった矢先でして。いや、貴女のお嬢様には演技でもないことですが、そういう偶然から、こちらにはお客様を迎える用意はすっかり整っておった「わけでして」
 婦人は父の言葉を半ばで遮り、青白い額に手の甲をおしあて、もう結構、とばかりに横を向きました。その人もなげなそぶりに、父が憮然として口をつぐむと、貴婦人はうってかわったしおらしさで、
「それでは偶然のゆかりに甘えて、この子をお預けいたします。不幸な事故もそちらさまのお嬢様とうちの情けない娘との運命の輪が結び合う機縁だったのでしょう。うちの子とお嬢様との相性がよろしければ、未知の偶然、この世ならぬ運命の扉もひらくというものでございましょうから」
 とひどく重々しい口調でおっしゃると、おざなりに父の手を握り、気絶したままの少女にはキスもせず、さっさと馬車に乗り込んでしまいました。
 黒塗りの四頭立て馬車は、それから夏の夕霧をつんざく蹄の音をたてて、疾風のように森影に消えてしまいました。
 馬車が行ってしまうと、あたりはまたひっそりとして、こうこうと輝く月光だけが、水のように城内にあふれています。
 なにもかも、あっという間の出来事でございました。


 3 カーミラ

 翌日、わたくしは午後もだいぶ遅くなってからまれびとのお部屋を訪ねました。
 眠りから覚めたばかりの病人に過度の刺激を避けるため、窓の帳はすべて降ろされ、室内の灯りは寝台の傍らに蝋燭が一本きり。そのほの闇の中で、一族に置き去りにされた少女は寝台の背に寄りかかってもの憂げに俯き、わたくしにきれいな横顔を見せて、傍らのゆらゆら揺れる蝋燭の火に見入っていらっしゃるようでした。
 どきどきしながら少女に近寄り、軽く会釈をしたわたくしは、次の瞬間、あっと息を呑んで立ちすくみました。
 青い絹の花模様の部屋着を着た少女は、わたくしの会釈に応えて、ゆっくり顔を上げ、まだ夢の中のような笑顔を浮かべたのでした。 
 そのお顔が!
 きれいな、非の打ちどころのない美貌でいらっしゃいました。ですが、そのお顔は!
 ……あの、幼いころの夢魔に現われた女の方そのものだったのでございます。
 わたくしは呼吸をとめて、ただしげしげと少女の顔を見つめたまま、挨拶のお言葉を申し上げることもできませんでした。
「まあ」
 凍りついたような沈黙を破り、少女の方から口をひらきました。
「不思議なこともありますのね。わたくし、あなたとそっくりな方に、昔、夢でお会いしたことありますのよ」
「なんですって?」
「もう、十二、三年前にもなりますかしら。わたくし、どこかの古いお城の見知らぬ部屋に参りましたの。夢ですわよ。子ども心にも、ここは自分の知らないおとぎの国なんだと思って、あちこち見回しておりますと、大きな寝台の上に、あなたそっくりのお姉様が泣きながら座っていらっしゃるの。ほんとうにあなたそっくり! 金髪で、青い目で、色白の頬にすこし雀斑が浮いて、お優しそうな方。
 わたくし泣いているお姉様がとてもおいたわしく感じられて、寝台に上がり、そっとお姉様に抱きついたの。わたくしたちはそれから寄り添って寝床に入りましたら、しばらくしてお姉様がキャッと叫び声をあげ、わたくしを突き飛ばしたものですから、わたくしは仰向けに寝台から転がり落ち、そこで泣きながら目が覚めました」
「泣きながらですって?」
「ええ、わたくしてっきりお姉様に嫌われたんだと思って、眠りながらわあわあ大泣きしたものですから、自分の泣き声で目が覚めました。乳母がすぐにびっくりして飛んで参りまして、悪夢だとかなんだとか言い聞かせてくれたんですけれど、わたくし、それから長いこと夢の哀しさを忘れられず、どうかして、もういちどあの夢のお姉様にお会いして、わたくしの不作法を許していただきたいって、そればかり願って夜眠ったものでしたのに、二度と同じ夢を見ることはかないませんでした」
「何ていう偶然でしょう。わたくしも六つくらいのときに、今あなたがおっしゃった夢を裏返したような夢を見ましたの。とても怖かったの。自分でも、何故あんなに怯えてしまったのかわかりませんわ。夢に現れた女の方は、今のあなたとまるっきり同じお顔で、ほんとうにおきれいで、優しくしてくださったのに」
「それでは、わたくしたちは、もうずっと前からここでめぐりあうように決まっていたんですわ。それこそこの世ならぬ縁(えにし)というものでしょう」
 少女はぱっちりした黒い瞳で、じっとわたくしを見つめ、嬉しそうに微笑みました。
 こうしてわたくしと少女はいっぺんに初対面のぎこちなさを飛び越えてしまったのでございます。
 彼女は、カーミラという名前以外、いっさいの経歴を明かそうとはしませんでした。
「なにごとも母が戻ってまいりましたら包み隠さず申し上げますわ。それまでは古臭い血筋の面倒な掟と思し召し、御寛容くださいませ」
 と、カーミラはそれこそ王女のような威厳で冷然と父に申しましたので、人の良い父はさばけた鷹揚な人柄のせいもあり、それ以上の詮索は控えました。
「まあ、あの晩ちらりと拝見した母上の御様子といい、カーミラの姿かたちといい、ただ者ではない。いかがわしい身分でないことは明らかだから、あの冷淡なおっかさまにしても、このまま娘を放り出して雲隠れするような仕打はしないだろうさ」
 父はどうやら、政変がらみの急場だろうと見当をつけているようでした。
「もしもご家族が戻っていらっしゃらなかったら、カーミラはずっとここにとどまることになるのね。わたしそのほうがうれしいわ」
「おやおや、おまえはすっかりあのお姫様に夢中なようだね」
 父はわたくしをからかうのでしたが、ほうんとうに、わたくしは数日のうちにすっかりカーミラにひきつけられてしまったのでございます。
 カーミラは、女性にしては背が高く、ほっそりした姿は風に揺れる柳のようになよやかでした。ちょっとした身のこなしやしぐさにいかにも優雅な風情がおありで、目鼻だちはほんとに非の打ちどころなく整い、憂いを含んだ黒い瞳は表情豊かに、透けるような白い肌をして、ふさふさとしたおぐしが、またとなく見事でございました。
 わたくしはたびたび、ほどいたカーミラの髪の下に手を入れ、そっとそれを持ち上げては、髪の重みに目を見張ったものでございます。すなおな、まっすぐなおぐしで、色は金茶の混じった焦げ茶いろでございました。
 わたくしは、カーミラがお部屋で椅子の背にもたれ、低い、甘い、彼女独特の耳に快い声でお話しているとき、こっそり彼女の後ろにまわっては、ほどいた髪が自然の重さでしどけなく結ばれたのを、手で梳いてあげながら、はらりとまたほぐして髪いじりをするのが好きでございました。まあ、それこそ、なにもかも存じておりましたなら、どうしてそんなことを……


 4 彼女の奇妙な性癖

 カーミラは生来体が弱いというので、一緒に住んでおりましても、わたくしどもとはまるで違った起き伏しをしておりました。
 貧血の持病といって、昼過ぎでなければサロンには降りて来ず、また食の細さは家政婦泣かせでした。
 カーミラが起きてくる時間は、わたくしどもの午後のお茶のころでしたので、カーミラはわたくしたちと一緒にチョコレートを一杯飲み、他はせいぜいお菓子か果物をつまむくらい。お夕食もおおかたは手をつけず、こんなひよわでは、なるほど遠路の旅などできるはずもございません。起きてまいりましても、昼は室内で寝椅子によりかかるか、客間のピアノを弾くかして、決して外に出ようとはいたしませんでした。
「カーミラ、少しお外を散歩しない? 森の風が気持ちいいわよ」
「ありがとう、でもわたくし強い光を浴びると頭がくらくらするの。夕方になったら御一緒してちょうだい。夜風は好きよ。舞踏会の晩、踊り疲れて庭に出ると、広い庭園一面に、色とりどりの提灯が、夜のしめった風に揺れていたのを思い出すから」
「カーミラ、あなた舞踏会に出たことがあるのね。どんな様子なのか聞かせて」
「そんな……あまり昔のことなので忘れてしまったわ」
「あなたときたら、わたしと年も違わないって言うのに、まるでおばあさんみたいな言い方をなさるのね。それとも、そんなことまで万事秘密にしなければならないあなたの御身分柄なの?」
 わたくしが恨めしげに申しますと、カーミラはうら悲しげに眉を寄せ、謎めいた微笑を口許に浮かべました。カーミラはわたくしの手をとってひきよせ、自分の頬に押し当て、低い声で囁くのでした。
「わたくしが素性を明かさないのは薄情のせいではないのよ。むしろその逆。あなたをあまりに大切に思っているから、今は何も申し上げられないの。でも、いつかおわかりになるわ。いずれあなたとわたくしが一心同体になったら」
「それは大袈裟過ぎてよ、カーミラ」
「あなたには、まだ、わからないのよ。無理もないわ。だって、まだ、わずかしか生きていないんですものね。かわいいひと! 人間はなんてみじめなものかしら。この世にごくわずかな時間しか存在を許されず、本当の美や官能のすばらしさを知らぬまま、あっという間に死んでしまうのよ。ごく稀な僥倖にあずかった者だけが、かりそめの人生に隠された永遠の美の世界に入ることができるの。そこでは時の流れは消え、夢は覚めることなく、闇に輝く宝石のように輝き続ける」
「カーミラ、何をおっしゃるのかわからないわ」
「あなたにも今にわかるときが来るの。わたくしがあなたをこの上なく愛しているということだけ、わかってちょうだい」
「あなたの友情を疑ってはいないわ」
 その時のただならぬカーミラの口調に、わたくしは薄気味わるくなり、そうかといって彼女の手をふりはらうこともできず、そうこうするうちに、青白い額にうっすらと汗の粒さえ滲ませているカーミラの顔をはらはらしながら見つめていました。
「カーミラ。あなた変よ? おからだの具合が悪くなったのね。ちょっと横になって」
「平気よ。わたくしには聞えるの。ねえ、あれは讃美歌ね? お葬式の歌だわ。いや、いや、ぞっとする。きっと、村の若い娘が死神の餌食になったのよ。朽ちてしまう者などほっておけばいいのだわ。ああ、怖い。わたくしは死にたくないわ。ねえ、あなた、わたくしを抱きしめて、ほら、窓の外を十字架が通る!」
 カーミラは歯を食いしばり、蒼白になってわなわなと震えだしました。最初わたくしは彼女が何を怖がっているのかさっぱりわからなかったのですが、カーミラが悶絶するほど身をよじり、こちらにぎゅっとしがみついたとき、ようやく城の前の遠い森の名から、風に乗って、きれぎれに葬列の歌声が聞こえてまいりました。
「窓を閉めて、カーテンを下ろして!」
 カーミラが悲鳴をあげますので、わたくしは慌てて窓を閉ざし、帳をぴったりと下ろしました。カーミラは今にも失神せんばかりに寝椅子に仰向けに倒れて四肢をこわばらせ、両の拳をぎゅっと胸の上で握りしめていました。
「カーミラ、カーミラ、今お医者さまを呼ぶわ。しっかりして」
「いいの、誰も呼ばないで。あなた以外のひとを部屋に入れてはだめ。ああ、行ってしまう。汚れた娘の棺が去ってゆく。あれはね、蝶になれなかった芋虫なの。わたくしにはわかるわ」
 カーミラはうわごとのように口走りながら、わたくしの首に両腕を巻き付け、こめかみに唇を押し当てました。そうしていると次第に全身のけいれんがおさまり、氷のような冷たさがほぐれてまいります。
 わたくしは身震いいたしました。カーミラの口づけは、父や乳母がわたくしに情愛でするやさしいキスとはまったく違った感触だったのでございます。
 ひんやりと、それでいて執拗な、餓えた獣のような貪欲が直観され、わたくしは反射的にカーミラを押しのけました。
 カーミラは怒るでもなく、椅子の背にぐにゃりともたれかかり、瞼を閉じたまま、うわごとのようにつぶやくのでした。
「蝶のように、羽化するわ。きっと」


 5 悪夢

 物狂いのようなカーミラの振る舞いに、わたくしは怖気をふるいましたが、発作が治まると、カーミラはまた優雅な美しさで、そうした平静の姿からはよこしまな気配など微塵も感じられません。
 その後も、ときおりカーミラの眸の奥に、得体のしれない光がわたくしに注がれるような気がすることもございましたが、ちょうどその頃、城の周辺にひどく物騒な出来事が持ち上がってまいりまして、カーミラとのささいな波風など、念頭から消し飛んでしまいました。
 領地の村は、長年事件もなく、平和な田舎暮らしが続いておりましたが、最近になって奇妙な疫病が発生したというのです。
 何ですか、村のそこかしこで、娘や、若い嫁などが、理由もなく二、三日患ったあげくに死んでしまったのでございます。慎重な父はむやみに騒ぎ立てることを嫌い、
「たった数人の死人が出たからといって、伝染病だの悪霊だのと騒ぎ立ててはならん。共同井戸の水が悪いのかもしれん。まず十分な調査をしてからでなくては」
「お父様、病気ってどんな症状なの?」
「よくは知らんのだがね、夜ひどく寝苦しく、悪夢に悩まされる状態がしばらく続き、そうこうするうちに全身が衰弱してしまうらしいんだ。しかし、女性というものは本性的にそうしたヒポコンデリーに陥りやすいものなんだよ。偶然引き続いて起こっただけかもしれん。迷信深い村人には困ったものだ」
 ところが、わたくしは心配かけまいと父に黙っておりましたが、その時分似たような症状に悩まされ始めていたのでした。
 夜、眠っておりますと、得体のしれないものが胸の上にのしかかってまいります。それは、ぞっとするような冷たい感触で、喉や胸を撫でまわし、ときには湿った唇のような感じに変わります。胸苦しいものなのですが、熟睡の寸前で意識と無意識の間をとろとろとさまようような、ものうい快さも伴っておりました。
 それから先は全身が冷たい川の流れにひたされるようで、耳の中にさまざまな幻聴が聞こえてまいります。遠くで歌っている澄んだ歌声のようであり、または切ないすすり泣きにも聞こえ、それがじきにハアハアと気違いじみた喘ぎに変わり、強い力で全身をぎゅっと抱きしめられたかと思うと、急に突き放され、暗闇の中をゆっくりと落ちてゆきますが、泣き声のようなせつない喘ぎ声はその間中耳元でずっと続いているのでした。
 朝になって目が覚めると全身冷や汗まみれで、ぐったりと疲れておりますが、悲鳴をあげて飛び起きるようなはっきりとした怖い夢とは違って、まったくわけのわからない混沌とした幻覚でした。
 ですから、村の女房たちが悪夢に苦しんで……という話には一瞬ぎょっとしたのでしたが、そうした女たちは数日のうちに悪化しているのに、わたくしの方は、何が何だかわからない、不透明なまま、ぐずぐずとした状態が何週間も続いておりますので、自分では神経を患っているのかしらと、誰にも言わずにいたのでした。
 ところが、わたくしの変調に、カーミラは目ざとく気付きました。
「あなた、どこかお悪いのじゃなくて?」
「別に――ただちょっと夜の眠りが浅いようなのよ」
「うそ、嘘。あなたの顔色の悪さはただごとじゃないわ。恋煩いのとき、そうした隅が浮くものなのだけれど、あなたはまったくのねんねなのだもの」
「カーミラ、からかわないで」
「いいえ、実はわたくしもずっとおかしな夢にとりつかれているの。まるで暗い沼の底を見えない手でどんよりとひきまわされるような」
 カーミラの打ち明け話は、まったくわたくしの病状と同じでしたので、わたくしはほっとしたような、またかえって不安が倍加したような思いでございました。
「ともかく、村娘たちみたいな急性の疫病でないことは確かね。古いお城には神秘的な力が潜むのかもしれない。あなたのように感じやすい、きれいな少女には、そうした魑魅魍魎が力を及ぼしやすいのね。わたくしの方は、きっとあなたの巻き添えなんだわ」
「なんてことをおっしゃるの!」
「でも、あなたのお付き合いなら、わたくし夜毎の夢くらいなんでもないわ。遠い昔の夢といい、今の二人の症状といい、わたくし、あなたとの絆の深さに驚いているの」
 カーミラはゆるやかな微笑をひろげました。
得も言われぬ笑顔でございました。わたくしは思わず彼女に魅せられながら、またしても始まりそうな、いつもの物狂おしいカーミラの発作を、どうにか冗談事にしてしまおうと、笑いながら、
「カーミラ? それも立派な殿方が現れるまでのことよ。いずれあなたのお母様がお戻りになり、あなたをどこか遠い宮廷にお連れして、あなたはわたしなど想像もできない方と恋をなさるのよ」
「わたくし、恋などしないつもりよ」
 カーミラは、ぷい、と立ち上がり、わたくしから離れて窓にもたれかかりました。
 折しも窓辺には十六夜の月が濡れしたたるように覗いておりました。
 月光を背負って、暗い影になったカーミラの表情はわたくしには見えません。カーミラが窓ガラスに額を押し当てると、月明かりに彼女の端麗な横顔のシルエットがくっきりと浮き上がりました。
 カーミラは低い、びろうどのような甘い声で囁きました。
「あなたとでなければ」


 6 マーカラ

 不思議な女友達に惹かれるいっぽう、彼女の度を越した奇異な愛情表現に、わたくしはしばしば困惑いたしました。カーミラの風変わりは、あるいは都会の爛熟した社交界で培われたものかもしれないと考えることもございました。繁栄がきわまると退廃した快楽がはびこるようになり、そうした社会では逸脱もたいした悪徳とはみなされないことなど、わたくしはうすうす存じておりましたが、田舎者のわたくしには無縁な世界としか思えませんでした。
 とはいえ、夜毎の悪夢のせいか、カーミラはますますものうげになり、熱にうかされたようなまなざしでわたくしを見つめることはしょっちゅうでしたが、なれなれしすぎる行為は絶えてなくなりましたので、わたくしの方はおかげで彼女に対する警戒心が消え、傍目には二人の仲は前にも増して親しくなったように見えたことでございましょう。
 ある晩のこと、グラッツからお城に表具屋がまいりました。父はだいぶ以前に、、お城に長年所蔵されていた絵画を修繕に出していたのでございます。
 ホールにこうこうと燭台が灯され、すっかりきれいになった絵や美術品が、一枚いちまい丁寧に箱から取り出されました。それらの絵の多くはハンガリアの旧家の出だった母が里から嫁入りのときに持参してきたものでございます。
 大部分が肖像画でしたが、どれもが何百年もの歳月に煤けきって、何がなんだかわからなくなっていたものなのです。
「旦那様、これが一番の傑作でございますな。お預かりしたお道具の中では、一番美しい、できのいい骨董でございますよ」
 最後に表具屋が得意満面で取り出した肖像画は、縦の大きさが一フィート半ほどで、大作ではございませんが、なるほど華麗な肖像画のようです。
 一目見て、わたくしは驚きの声をあげました。
「まあ、カーミラ! ここにもうひとりあなたがいるわ。まるでこの絵は生きていらっしゃるみたい。にこにこして」
「なるほど、瓜二つだな」
 父も申しましたが、内心ひどくぎょっとした様子でした。
 バロックふうに広いフープスカートの裳裾を長くひき、ふんだんにリボンをつけたバッスル・スタイルのあでやかな婦人は、まったくカーミラそのひとと言ってさしつかえございませんでしたが、こちらは一六八九年に描かれたマーカラ・カルンスタイン伯爵夫人なのでした。
「マーカラ夫人は、見ればみるほどあなたそっくり」
「そうかしら?」
 カーミラ本人はむしろ気のないふうでした。
「わたくしの先祖にはカルンスタイン家の血も入っているから、きっとそのおかげね」
「この伯爵夫人の、お喉にあるほくろまであなたと同じだわ。あなたは、まるで絵から抜け出た画像のようよ」
 カーミラの長い睫毛がゆっくりと瞬きをしましたが、口許にはまた例の曖昧な微笑が浮かんだだけ、何も答えませんでした。
 父は表具屋と熱心に話し込んでおりましたが、絵を見終わったわたくしとカーミラは、連れだって夜の庭に出てゆきました。
 カーミラはわたくしの背中に手をまわし、うれしそうにささやきました。
「あなたのお母様がカルンスタイン家のお血筋なら、あなたも末裔のひとりというわけね。それではわたくしたちは夢のつながりだけではなく、実際の血縁でもあるわけよ。あの肖像画のおかげで、わたくしは自分がどうしてこうもあなたに惹かれるのか、その理由が少しわかったわ」
 またおかしなことを、とわたくしはどきんとしてカーミラの様子をうかがいましたが、カーミラはしなやかな首を傾け、夜風のさやぎに耳を澄ませているようでした。
「夜の闇は素敵ね。闇は何もかも隠してしまうなんて、想像力のない連中の言い草よ。じっと耳を澄まし、目を凝らすと。月明かりの靄や、暗い森影の中に、さまざまな幻影が湧きあがってくる。闇は自分の内面を映し出す鏡なのよ。夢もまた。もし誰かが、昼の光で見るものよりも、甘美な幻影を夜の闇に描けるとしたら、きっとそのひとは夢まぼろしに身を捧げてしまって、二度と退屈な白日の世界に戻って来たがらないでしょうよ」
「それ、あなたのこと? カーミラ」
 カーミラはわたくしの首に額を押し当てたまま、何も申しませんでした。


 7 スピエルドルフ将軍

 それからしばらく経った朝、父がわたくしに告げました。
「スピエルドルフ将軍が、昨日御領地に戻られたそうだ。至急こちらに会いたいと使いをよこされた」
「ご無事でお戻りになったのね」
「うむ、しかし容易ならん事態のようだ」
 父はうかない顔で将軍からの手紙を眺めておりました。
「お父様、何かあったの?」
「お前は何も案じることはない。将軍は十二時にカルンスタインで待っているということだから、お前もおいで。この季節、遺跡のあたりはピクニックにはもってこいだろう。カーミラはまだ起きて来ないなろうから、目が覚めたら女中を連れて後を追いかけてくるように伝言しておこう」
 父はほがらかな口調でわたくしを誘いましたが、何か隠し事をしている気配がはっきりと感じ取れました。
「お父様、何か隠していらっしゃるの?」
「実はね、あのマーカラ伯爵夫人の肖像画が気にかかってな。先日の将軍へのお便りにちょっと書いたのだよ」
「カーミラのことも?」
「いや、まあ、そう詳しくは書かなんだがね。そしたら将軍はひどく関心を持たれて、即刻ウィーンから帰国されるという。その返事がまた取り乱したものでね」
 ともあれ、父とわたくしは支度をし、馬車に乗ってカルンスタインの廃墟へ出かけました。
 森の中を馬車でドライブするくらい、楽しいものはございません。なだらかな丘や谷間を縫い、どちらを向いても夏の樹木のみずみずしい緑があふれています。高い緑の丸天井に陽光がきらめき、小鳥がさわやかな声でさえずっています。そうして、しみとおるような緑蔭のはざまに、遠い山の景色、近くの小川のせせらぎなどが、とりどりに目を楽しませながら変化してゆくのでした。
 林道を逸れ、カルンスタインの古城の影が青い染みのように森の彼方に見えはじめる山の三叉で、わたくしたちは道の反対側からやってくる、騎馬のスピエルドルフ将軍にばったり出会いました。
「これは将軍! おひさしぶりでございますな」
 父はにこやかに帽子を取って挨拶をしかけたものの、次の言葉を呑みこんでしまいました。わたくしも目を疑いました。しばらくお目にかからなかった間に、将軍は何とまあ面変わりなさったことでしょう。
 陽気な、剛毅な方でしたのに、別人のようにめっきりとお痩せになり、晴れやかだった青い瞳はとげとげしく光り、眉間と口許には深い皺が刻まれ、色褪せた灰色の巻き毛はもじゃもじゃと乱れて垂れ下がり、顔全体に拭いきれない暗い怒りと悲嘆がみなぎっているのでした。
 将軍は馬を降りてこちらの馬車にお移りになりました。馬車がふたたびカルンスタインめざして走り始めますと、将軍は軍人らしい率直さで、御息女を亡くされた悲しみと、それにまつわる不可解な顛末について、呻くように口を切りました。
「いったい、神ともあろうものが、ああいう不埒千万な地獄の惑溺をのさばらせておくのは理解できんよ。奇怪極まりない。悪魔の犠牲になった憐れな娘を思うと、わしは神の存在を疑う」
「たびたび君から手紙をもらったがね。正直わたしにはよくわからんのだ。令嬢を失ったのは本当にお気の毒だが、他の物騒な敬意は君の文面からは察することもできなかった。ただごとではないね。ひとつ、こちらにもわかるように説明してくれないか」
「そりゃ、話せというならば喜んで話すさ。しかし君らは決して信用せんだろう」
「なぜだね」
「つまり、ほかならぬ儂自身も含めて、人間というものは、自分の短い人生経験と浅い洞察で培ったちっぽけな料簡に見あう考え以外はよう認めようとはせんのよ。この事件の前まで、儂自身がそうじゃった。しかし、この悲劇以来、さんざ苦労したおかげで、愚鈍な儂もだいぶ利口になったよ」
「とにかく話してくれないか。わたしは長年君とつきあって、君がむやみに乱心する輩ではないということを熟知しておるよ」
「儂も君の寛容な友情は心から信頼しておる。しかし、人間の条理をはるかに超える奇怪な事実を第三者に信じさせるには、やはり動かぬ証拠がないといかん。君たちをカルンスタインの廃墟へ連れ出したのはそのためだ。あそこには儂の正気と憤怒の正当性を明らかにするものが巣食っておるのよ」


 8 舞踏会

 儂は娘を心から愛しておった。あの子は養女だったが、儂は目に入れても痛くないほどかわいがったし、あの子も儂の人生を楽しくすべく、誠心誠意儂を慕ってくれた。ベルタの望みはできるかぎりかなえてやったよ。もっとも娘はつつましい質だったから、父親を困らせるような我儘などついぞしなかった。
 この春先のころだ。知人のカルルスフェルド伯爵から仮面舞踏会の招待が来た。なんでもシャルル大公がお見えになる祝いということだった。儂は娘を着かざらせて出かけた。たいそう盛大な舞踏会で、城の庭は全部解放され、空には花火、バンド演奏は超一流で、歌手はわざわざイタリアから呼んでくるという凝りようだ。招待客はやんごとない貴族ばかりで、それぞれ趣向を凝らした仮面をつけ、仮面をつけない者も、これでもかと言わんばかりに衣裳を派手にしておった。儂の娘は仮面を付けずに踊っておった。親の欲目のせいか、あの子の器量はめかしこんだ何百人もの貴婦人の中でもずばぬけておったよ。
 遊び疲れた儂と娘が、城の回廊で冷たい飲み物をもらっておると、人ごみの中から近づいてきた婦人がおる。ひときわ豪華なドレスで、身分ありげな威のある姿だが、仮面をかぶっておったので顔は半ばしか見えん。しかし、それにしても相当な美人のようだった。
 彼女は儂に挨拶し、実はどこそこの宮廷や貴族のサロンで、儂とはしょっちゅう会っていると言うのだ。ひどく親しげな口調で、あれやこれや言い立てる。それから、自分の娘と言って、年の頃は十七、八の目の覚めるような美少女を紹介した。
「娘のミラーカですの。体が弱いものですから、ついぞ社交界にも出しかねておりますが、今夜は気分がよいようなので、連れてまいりましたのよ」
 儂とベルタはほれぼれとミラーカに見とれた。正直、あんな別嬪を見たことがない。目鼻立ちが美しい上に、人なつこくて愛嬌があり、初対面というのに娘に冗談を言いかけて笑わせ、あっという間にベルタと仲良しになってしまった。
 儂もだいぶ酔いがまわっておったので、平静よりも気が大きくなっておったんだね。仮面をつけた母親のほうも娘の顔立ちから推測すればさぞ……と、まあ、年甲斐もない好き心が動いたんだね。こっちの気持ちが緩むのを見計らって貴婦人はこんなことを切り出した。
「昔馴染みのよすがに甘えて、ひと月ほどミラーカをお宅様にお預かりいただけませんかしら。わたくしは今抜き差しならぬ大事を抱え、至急パリへ参らなければなりません。あいにくミラーカは蒲柳の質。今夜はこうして機嫌よくしておりますが、明日はどうなることか。あなたさまのお心の広さはよく存じております。こうして偶然お目にかかったのは、わたくしどもにとって幸運でございました」
「しかし、マダム。儂はあなたがどなたか存じ上げんのですよ。そちらの身分相応のお世話が、儂のような下衆につとまりますかどうか」
「将軍ともあろう方が、あまり御謙遜に過ぎますわ。わたくしのほうがあなたを十年来存じておりましてよ。いずれ万事かたがつきましたら、きれいさっぱり秘密ぬきでお目にかかりましょう。わたくしが今夜ここに参っておりますこと、皆に内緒にしておりますの。後生ですから、この子の命を救うと思し召し、ひと月ばかりお屋敷で雨露をしのがせてやってくださいませんかしら」
 貴婦人は両手を合わせて頼む。よほど高貴と察する女にこうも下出に頼まれれば悪い気はしない。その上娘が脇から、
「お父様、ミラーカをお泊めしましょう」
 と加勢する。儂と母親が押し問答している間に、ベルタはミラーカとすっかり意気投合してしまったんだね。女二人にやいのやいのと責められて、儂もつい首を縦に振ってしまったが、それこそうまうまと妖魔につけいる隙をくれてやったことになった。


 9 ミラーカ
 
 さて、儂はその晩のうちにミラーカを城へ連れ帰った。
 体が弱いと聞いておったが、なるほどミラーカはひどく風変わりな暮らしぶりでな、午後遅くなってからでなければ寝室から出ては来ない。またほとんどものを食べないんだ。儂もミラーカの一挙一動を見張っておったわけではないから、その当座は、この娘は食が細いんだろうぐらいに思っておったが、今にして考えれば、一日にお茶を一杯かそこらで、生身の人間が命をつなげるはずはない。何分、ベルタとミラーカの仲がたいそういいので、万事めくらまされてしまったのよ。
 ところが、それからしばらくしてベルタの具合がおかしくなってきた。なんでも悪夢が続くという。体が水に漬かるように冷たくなり、喉に太い針のようなものが二本刺さると、首筋を締めあげられるような眩暈に眠りの最中遅われ、それきり何もわからなくなると訴える。最初は気の病だと思っておった儂も、たった十日ばかりのうちにみるみるベルタが衰弱してきたのに驚き、あわててグラッツから医者を呼んだ。
 医者は娘を丹念に診察したあと、儂を別室い呼びつけ、すぐに牧師を呼べとぬかす。こっちは何がなにやらさっぱりわからん。医者はおおまじめに、娘は吸血鬼に襲われたのだと言って譲らない。この症状は古来、吸血鬼にとりつかれた人間の記録そのままで、首筋の針を刺したような二つの傷跡は、吸血鬼の牙のせいだという。ほっておくと病人の命は旦夕にかかわる。こんど襲撃にあったら、残ったわずかな精気がすっかりむさぼり尽くされるだろう、とな。
 あまりのばかばかしさに、儂は呆れて医者を追い出したが、さて夜になってみると、やはり心配になってきた。儂の屋敷に妖怪変化が潜んでおるのかしらん。ひとつこの眼で見届け、ついでに病人の寝ずの晩をしようと、誰にも内緒で、その夜はこっそり娘の衣装戸棚に刀を抱いて隠れた。 
 夜じゅう病室には蝋燭が一つ灯っておるだけじゃった。しんしんと夜は更け、一時をちょっと過ぎたころ壁にゆらゆら揺れる蝋燭の影が、ふいにぐっと膨らんだように見え、儂は目をこすった。蝋燭の薄い火影の中からすうっと、影よりもっと濃い影が、伸びをするように現れると、そのおぼろげな塊は、寝台に寝ている娘の上に翼をひろげ、さっと覆いかぶさったではないか。
 影の塊は波打つように広がって,うごめきながら娘の喉に喰らいついた。思いもよらぬ成り行きに、衣装箪笥の影に呆然と突っ立っておった儂は、そこでようやっと我に返り、わざものをふりかざして飛び出した。
 と、影はするりと寝台の裾に退き、床の上にぬうっと立ち上がった。いやもう、身の毛もよだつとか、身体が凍りつくとか、月並みな形容では追いつかんよ。
 闇の中に巨大な、爛々と輝く緑の目が儂を睨んでおる。ぐわっと、こう、両手を宙にあげたものすごい魔性の形相は、まごうかたなきミラーカじゃった。
思案の余裕もあらばこそ、儂が夢中でふりおろした刀の先をミラーカはするりとかいくぐり、ギロリと儂を睨みつけると、扉のほうへとびすさった。化け物を逃がさじと必死でもう一太刀浴びせると、閉ざしたままの扉に、儂の刃は化け物の体をつきぬけてぐさりと突き刺さり、ミラーカはそのまま雲を霞とかき消えてしまった。
さあ、屋敷は上を下への大騒ぎよ。ミラーカの幽霊はどこにもおらん。そうこうするうちに重態の娘の息は弱まってゆき、儂らはなすすべもなく、夜明け前にベルタはこときれてしまった」
 ……将軍のお話を伺いながらのわたくしの心中をお察しいただけますかしら? わたくしは半信半疑でした。もしや将軍の語るミラーカとは、カーミラではないのかしら。令嬢の患った悪夢といい、今の自分の悪夢といい、なにもかも、なにもかも。……。
「これでベルタの死にまつわる話は終わりだが、儂は妖怪変化に仇をなされて泣き寝入りをする男ではない。かたき討ちを果たさねば娘も浮かばれん。儂はこの夏、ヨーロッパじゅう手掛かりを求めて旅した挙句、ようやく解決の糸口を見つけたのだ。君はマーカラ・カルンスタイン伯爵夫人がどうとかと手紙に書いておったな」
「うむ。うちの先祖の一人だ」
「そうかね。そりゃあ奇遇だ。残念ながらその由緒が君の一家にとって名誉かどうか。マーカラ伯爵夫人は美人には違いないが」
「ああ、肖像画から測るに、生前はさぞ美しいひとだったろう」
「いや、彼女は今も別嬪だ。儂は伯爵夫人そのひとに会ったのでよく知っておる」
「おいおい、カルンスタイン伯爵夫人は百五十年以上も前に亡くなっているんだぞ」
「ところが死んではおらんのだ。おお、あそこが名門、カルンスタインの荒れ城だな」
 はるか昔に血筋が絶えて以来、寂しくだだっぴろい古城の奥、崩れたやぐらや胸壁、ひろい回廊、暗い廊下などの残骸が、昼なお暗い鬱蒼とした森に覆われ、馬車は恐ろしい夢の中に踏み込んだようでございました。

 10吸血鬼カーミラ

 積み石がすっかり崩れた城の門の手前でわたくしどもが馬車を降りると、奥のほうのゴチックふうの大きな納骨堂へ繋がるどっしりしたアーチには、おどろおどろしい彫刻が蔦に絡められるように立っていました。家系断絶以来誰も寄り付かない荒れ城に、夏の樹木はほしいままにはびこり、かろうじて踏み分けられる城内の小道を進むにつれて、廃墟にはますます陰気で不吉な雰囲気が増してまいりました。
 わたくしはもう薄気味悪くてならず、後戻りしたくてたまりませんでしたが、将軍が断固とした足取りで進んでいらっしゃいますので、仕方なしについてまいりました。もとは中庭らしい、壁に囲まれた広場を抜け、裏手の丘の上の礼拝堂へは、うねうねと敷石の小道が爪先上がりとなり、登りの傾斜が急になる途中から、広い刻みのついた階段がございました。
 将軍は石畳の傍の石碑に目をとめ、真剣な面持ちで、すり減った碑文を拾い読みしておいでなので、わたくしと父は将軍より先に礼拝堂へ続く長い石段を登りはじめました。
 すると、彼方に見えるお堂の傾いた門柱の前に、なんともうカーミラが着いており、嬉しそうにこちらに手を振っているではありませんか。素肌にしみとおるような翡翠いろの木陰に、カーミラの小さな顔はふだんよりも青白く透きとおるようで、それなのに晴れやかな笑顔のなんとも言えず美しいのに、わたくしはついさっき耳にしたミラーカ云々のお話などはすっかり忘れ、思わず歩みを速めて石段を上がろうとしたとき、
「この悪魔めが!」
 突然わたくしどもの後ろからスピエルドルフ将軍が叫びながら躍り出ると、刀をふりあげ、石段をだだっと駆け上がり、カーミラに襲いかかりました。
 将軍の姿を見たとたん、天使のようにきよらかだったカーミラの顔はがらりと一変し、悪鬼の形相に変わりました。日頃の物憂げな風情からは想像もつかない敏捷さで、後ろへさっと退いて、うちかかる将軍の刃をするりとかいくぐり、次の瞬間には何と逆に将軍の胸倉に飛び込むと、華奢な拳で、たくましい将軍の手首をぐいっと鷲づかみにねじりあげたではありませんか! 
 カーミラの手をふりほどこうとする将軍と揉みあううちに、将軍の方が手首をつかまれた痛みに絶えかね、握りしめたサーベルがばさりと地面に落ち、それと同時にカーミラの姿もその場からあとかたもなくかき消えてしまいました。
 将軍はカーミラに握られた手首をもう一方の手でさすりながら、
「お嬢さん,今見ただろう? あれがミラーカだ。いや、正確にはマーカラ・カルンスタイン伯爵夫人だ。あなたも吸血鬼の餌食になるところだった。もうじきここに牧師が来る。
一刻の猶予もならんのだ。あの鬼が根城を移さんうちに、儂はこの老骨に鞭打って、きゃつの息の根を止めねばならぬ」
 将軍は顔いっぱいに脂汗をにじませ、苦しそうに肩で息をしておいででしたが、気持ちはしっかりしておいででした。
 わたくしどもは礼拝堂の前で、牧師様の到着を待ち、しきたりどおりに吸血鬼退治の儀式が執行されたのでございます。
 将軍がウィーンで手に入れた古い平面図を頼りに、礼拝堂の側壁に隠された伯爵夫人の秘密の墓室に至る扉があばかれました。
 精巧な彫刻で飾られた大理石の重厚な棺の蓋を開けると、そこには今しがた消え失せたカーミラが眠っておりました。内側に鉛を張った棺の内部には七インチも血がたまっており、少女はその血だまりのなかに眠っていたのでした。棺の蓋をあけたとたん、忘れもしない、幼いころの悪夢に嗅いだ、あやしい香がはっきりとたちのぼりました。朽ちた薔薇の臭気とばかり思っておりましたのに、なんとそれは血の匂いだったのでございます。
 それからあとのことは、あまりに無残でございました。父はわたくしをこの場から遠ざけ、残酷だから見てはならない、と申しましたが、わたくしは礼拝堂の片隅からこっそりと、女友達に裁きの鉄槌が下される一部始終を見届けました。おそろしゅうございましたが、そうしないではいられなかったのでございます。おわかりになりますかしら?
 礼拝堂の天井の破れ目から白い帯のような一筋の光が差し込み、将軍と父と、それから低い声で聖書を朗誦される牧師さまを照らしています。百年の荒廃に降り積もった埃が、日光にこまかな無数の白い粒となって中空に舞い上がり、暗い半影になった死刑執行人たちの周囲にきらめき、まるで古代の厳めしい秘密の儀式を目の当りにしているようでございました。
 将軍と父が二人してカーミラの体を棺から持ち上げますと、牧師さまは一段と声を張り上げてお経を唱え、声音は堂宇にいんいんとこだまします。カーミラの体は準備された処刑台に横たえられ、将軍が吸血鬼の胸に先のとがった杭を打ち込みますと、カーミラはかっと両目を見開き、ほそい両手で虚空をつかむようにあがき、彼女の喉から耳をつんざくような絶叫がほとばしりました。
 断末魔の叫喚は牧師さまの朗誦をかき消して、はるか彼方の村落まで聞えたということでございます。勇敢な将軍はすこしも動じることなく、さらにカーミラの首を斧で打ち落としますと、切り口から真っ赤な血潮がどっとほとばしり、ごとん、とカーミラの頭が床に落ちた音が聞こえました。
 そこでわたくしは気を失ってしまい、後のことは存じません。なんでも、切り離された胴体と首は薪を積んだ火に焼いて灰となし、その灰は近くの川に流されたそうでございます。
 その秋から、わたくしは神経衰弱のようになって病臥いたしましたが、二度とあのような悪夢を見ることはございませんでした。
 翌年の春、父はようやく床上げしたわたくしをともなってイタリアへ旅に出、一年以上も城へは戻りませんでした。
 不思議なことに、時がたつにつれて事件の恐ろしさは消えてしまい、凄惨な最後の処刑の記憶でさえ、古い絵画の情景のように思いなされます。
 カーミラは、カルンスタインの納骨堂でかいま見た断末魔の形相で思い出されることもございますが、月明かりの下で物憂げに微笑むすらりとした少女の姿で浮かぶことのほうが多うございます。そんな時、客間の入口に、ふっとカーミラの軽い足音が聞こえたような気がして、わたくしは夢のような記憶から、はっと驚くのでございます。

                                                 ( 了 )

 

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