さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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白いひとびと  前篇

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   白いひとびと

 1  ミュアキャリーに生まれる

 あのような体験をしたのは、もしかしたらこの世でわたくしだけなのかもしれません。自分の経験と同じ事件が他のひとの身にふりかかった、ということは、これまでついぞ聞いたためしもないのですから。わたくしの生涯をふりかえると、それらの一連はじつに奇怪な出来事だった、としみじみ感じます。
 わたくしはスコットランドの荒涼たる僻地ミュアキャリーに城主の子供として生まれました。中世に建築された大きな城はヒースの繁みの点在する岩山の一角に、厳めしい銃眼つき胸壁をめぐらしてそそりたっております。わたくしは生まれ落ちたときからこの城の主で、スコットランドおよび全イングランドに枝分かれしているおびただしい氏族を統べる女族長となったのでした。
 それと申しますのも、わたくしを出産すると同時にうら若い母は息をひきとり、城主であった父はといえば、その何か月も前にすでに亡くなっていたからなのでした。
 両親はともに若く、スコットランドきっての美男美女であったそうです。二人は結婚すると同時にミュアキャリーにやってきて、新婚の楽しい一年を過ごしました。釣りに乗馬、荒野の散策、あるいは書庫の炉辺で、古書を
若い城主夫妻の新生活の介添えをいたしましたのは、後にわたくしの守り役となった遠縁のアンガス・マカイア、それにやはり一族の女、ジーン・ブレイドヒュートでした。両親の生前のよろこばしいさまざまな逸話は、この賢明なふたりの縁者がわたくしに伝えてくれたものなのです。
 母がわたくしをみごもって間もないある晴れた十月の昼下がり、妻を残して友人たちと狩りに出かけた父はものいわぬ姿となって戻りました。父はヒースの繁みに足をとられ、そのはずみに発射した自らの銃弾に倒れたのです。変わり果てた姿の夫が友人たちに運ばれて城門に近づいてきたとき、母は城の礎をなす岩の張り出したテラスで、城を訪れた婦人客たちとともにゆったりと座り、おしゃべりに打ち興じておりました。
そのテラスからは、幾重にも坂をつらねる荒地の紫けむる世界が一望されました。樅の木の担架に亡骸を乗せ、ヒースの繁みをぬってうねうねとゆっくり進んでくる一行を眺めたとたん、母は弾かれたように立ち上がり、あたかも跳びかかろうと身構える若い女豹のように、石つくりの手摺にしがみついたそうです。母は、担架を囲んだ男たちが一様にうなだれ、帽子を被っているものが一人もいないことがはっきりとわかるほど行列が接近するまで、声もたてず身じろぎもしませんでした。それからごくゆっくりと、
「みんな……帽子を脱いでいるわ」
 と言ったかと思うと、落石のようにテラスにくずおれたのでした。
 母はそのまま意識を失い、ロンドンから駆け付けた名医たちはアンガス・マカイアとジーン・ブレイドヒュードに硬直症(カタプレシー)だと告げました。眼も開けず、声もなく、蒼ざめ冷たくなって倒れた母はわたくしが生まれたことも知りませんでした。
 わたくしを育てた保母兼家庭教師のジーンは、わたくしが成長してからこう語りました。
「お母様は、はじめ死んだようになっていらっしゃいました。まるで最初から命を持たないひとのようにね。ところが時計の針が十二時をまわり、お父様の死の翌日、新しい一日が始まったとき、そのお顔にかすかな変化が生じたのを見て、わたしはベッドに屈みこんだの。べつに血の気が射したのではなく、顔に変化の表情が動いたわけでもありません。わたしは今までそれを、男であれ女であれ、誰にも話さなかったわ。なぜならそんなことを口にしたら気がふれたと思われてしまうでしょうから。でもイザベル、あなたにはお話ししましょう。わたしにはね、あなたのお母様が何かに耳を澄ませているように見えたの。じいっと、ね。遠くはるかな物音に。
 石のように冷たく蒼ざめたお顔に、やがてほんのりと安らぎが、それからはっきりと悦びの色が浮かんだの。お母様はあなたを生み落すまでその硬直した肉体にとどまっていらっしゃいました。そうして、あなたをこの世に送り出すと同時に力尽きてしまわれたのよ。
 ねえ、イザベル、わたしはわかるの。お父様が亡くなられたとき、彼の魂はその体からあまり遠く離れていかなかったのよ。そうしてすぐに、御自分の心臓と同じくらいにたいせつなお母様に呼びかけ始めたの。それがお母様の聞いた声だったのよ。そうして、その次にはきっと夫の姿が見えたのね。何故ならお母様のほうも半ばこの世を離れていたから。そして彼女は夫が自分を待っていてくれ、自分と一緒でなければどこへも行かない、と知ったの。あなたのお母様は身じろぎもせず固まってしまったので、お医者様は一度ならず死んだものと考えたほどでしたが、そうではなかったの。お母様はお父様の魂の呼びかけを絶えず聞きながら、イザベル、あなたのためにだけ、しばらくこの世にとどまっていらっしゃったのよ」
 

 2 ウィー・ブラウン・エルスぺス

 先祖伝来の古城に、わたくしは同じ年頃の友人を持たず、召使と従者に囲まれて育ちました。幼女のころ、わたくしは自分が重要人物だとも思わず、氏族の女族長であることの
意味も弁えませんでした。いつも城で暮らしていましたが、城の一隅しか知らず、ここにはごくわずかな住人しかおらず、城の住人は行きずりの人すべてから挨拶を受けるものだとばかり思いこんでおりました。また、あらゆる幼い少女にはテラスを行きつ戻りつするバグパイプを吹く従者がついており、客たちが大食堂でもてなされるときは、バグパイプが演奏されるものとばかり思っていました。
 たまにロンドンや南イングランドの親切な親類縁者が、わたくしの遊び相手になりそうな小さい子供をわざわざ連れて訪れることもありましたが、そうした都会っ子たちは、荒野に聳える中世以来の暗く広大な城で、すでに族長として周囲の大人たちに重々しくかしづかれているわたくしのことを、まるで自分たちとは毛色の違う異人種を眺めるような壁のある目で見据え、よそよそしく黙りこくったまま、訪問の時間が過ぎてしまうのでした。
 そのため、幼児期のわたくしのお相手は守り役のアンガスと家庭教師のジーンだけでした。彼と彼女は心からわたくしをいつくしみ、三人で毎日のように荒地を散歩したものです。 
 アンガス、ジーン、そしてわたくしは、荒野につきものの天候の変化を恐れませんでした。もしも驟雨や霧を懸念していたら、到底荒野のピクニックなどは楽しめません。保温と雨除けの準備はいつもぬかりなく、一族伝統の織模様の格子縞の肩掛けを持参したものです。
 唯一の幼馴染ウィー・ブラウン・エルスぺスに出会ったのは、たぶん六、七歳のころでした。その日も、散策の最中、ふいに霧がたちこめてきましたが、わたくしたちは戻ろうとは考えませんでした。そのうち晴れるだろうと考え、霧の湿気をできるだけ避けて岩陰に腰を下ろしてやりすごそうとしました。ほんのしばらく前、出発したころには、陽射しが燦々と降り注いでいたからです。
 待っていることに退屈したわたくしは、ふたりのお守から少し離れて一人遊びを始めました。わたくしは冒険好きな幼児ではありませんでしたが、霧は大好きでした。荒地独特の濃い霧に包まれると、恐怖よりも安らぎを覚えるのでした。白くてふわふわしたものに包み込まれる感じが好きだったのです。
 わたくしと守り役たちの距離を、じきに霧が厚く隔て、お互いの姿は見えなくなりました。ですがわたくしも彼らも驚きませんでした。霧の中でイザベルの一人遊びはいつものことだったのです。
 ふと、わたくしの耳にくぐもってゆるやかな馬の蹄の音が聞こえてきました。それから騎兵が通り過ぎるときに聞える武器や鎖のガチャガチャ鳴る音にも気づきました。いろいろな音が何の音なのか見当がつくとすぐに、白い霧を分けて、武装した騎兵の男たちが現れました。男たちは粗野で無骨で、衣服や鎧は敗れて薄汚れ、体中のそこかしこに血糊が飛んでいる者も見えました。いずれも蒼白な貌をして、携えている剣や短剣は激闘のために折れ、刃がぼろぼろに欠けていました。     
領袖とおぼしき男は、長身痩躯の浅黒い人物でしたが、地肌の黒さにかかわらず、やはり彼の顔色は蒼白な印象でした。彼は黒い馬にまたがり、きらびやかな衣装をまとった七歳くらいの小さな女の子を左の腕にしっかりと抱きしめていました。少女の服は茶色、髪も茶色、仔鹿のようにつぶらな瞳も薄茶色でした。少女の左胸のあたりには暗赤色の大きな染みがひろがり、男は手のひらを大きく広げて、少女の胸の染みをどうにかして隠そうとしているようでしたが、わたくしの眼にも、その赤い滲みは男の手からはみ出して見てとれました。
 黒い馬はわたしの目の前で立ち止まると、馬から降りた長身の大男はわたくしにじっと目をとめ、屈みこむと、腕に抱えていた少女をそっとわたくしの隣に下ろしました。
 わたくしは少女を一目見て好きになり、相手もこちらが気に入ったのがわかりました。少女とわたくしがお互いに微笑んで挨拶を交わすと、その瞬間男はひらりと再び黒い馬にまたがり、一隊をひきつれ、くぐもった蹄の音をたてて白い霧の中へ駈け込んでしまいました。
 わたくしは騎馬隊の登場も、長身痩躯の男も、そして茶色い髪の少女が残されたこと、何一つ不思議とも思わず、自分に同じ年頃の遊び友達が初めてできたと心得、霧の中で楽しく遊び始めたのでした。ヒースや金雀花の繁みのなかで、わたくしと少女はすぐにうちとけ、長いこと一緒に遊びました。少女は最初に、自分の左胸にひろがった暗赤色の染みを隠すために、周囲に群がり咲く青い釣鐘草の一束を摘み取り、ベルトに挟みこみました。
 それにしてもわたくしたちはどんな遊び方をしていたのでしょう? それは言葉でうまく説明することはむつかしいのです。霧と草むらの中で、何か不思議なことがおこるので、わたくしたちは一緒に逃げて、架空の城に隠れるような遊びだったかしら。
 その遊びの途中で、少し霧が晴れてきたころ、少女は針金雀花のこんもりとした大きな藪に駆け込んで、それきり姿が見えないので、わたくしは諦めてジーンとアンガスのもとに帰りました。彼らに会うなり、わたくしは、
「あの子、どこへ行ってしまったの?」
 にこにこしていたアンガスとジーンは顔を見合わせて黙りました。ジーンは蒼白になり、すこし震えているようでした。
「あの子って、誰?」
「あたしと遊ぶために男の人に連れられてきたの。茶色い髪、仔鹿みたいに薄茶色の眼をしていたわ。黒い馬に乗った男の人の額には、星がついていたわ」
 わたしは男の傷痕のあった額のあたりを自分の顔で指し示しました。とたんにアンガスは顔色をはっきりと変え、だしぬけに叫びました。
「それはグレン家のダーク・マルコムとウィー・ブラウン・エルスペスだ」
「でもあの子は色白よ。とても白いの。あの子はどこに行ってしまったの?」
 こちらに差しのべられたジーンの腕がぶるぶる震えているのがわかりました。彼女は動揺を抑えながらわたくしを抱き寄せ、ささやきました。
「そうね、色の白い子よ。また来ますよ。何度でも来るわ。でも、今はもうあの子は帰ってしまったのだから、わたしたちも城に戻りましょう」
 城へ戻る道すがら、賢い大人たちはわたくしに何ひとつ問いただしたりしませんでした。おかげでわたくしは、不可思議な出会いをしたという奇妙な違和感なく、ただ嬉しい思いだけ胸に残すことができたのでした。ただ一言アンガスはさりげなくこう尋ねました。
「その子は話しかけてきたの?」
「いいえ」
 そのとき初めて、わたくしは自分と少女とがひとことも言葉を交わさなかったことに気付きました。言葉なしでもわたくしは少女の言いたいことがわかりましたし、ウィー・ブラウン・エルスぺスもそうでした。そのほうがすてきだったのです。


 3 幼年時代

 ジーン・ブレイドヒュートの言ったとおり、それから少女は自分から城へ何度もやってくるようになりました。思い返せば、幼年時代、エルスぺスは数日おきに現われ、わたくしたちは最初の出会いの日と同様、まったく言葉を交わすことなく、長い時間楽しく遊んだのです。もっとも、少女を抱いていたいかめしい長身の男や、歴戦の騎馬隊は二度と見ることはなかったのです。
 わたくしはまだ七歳になるかならずでしたから、この年頃の子供が一般に遊び相手の素性などまったく気にしない例に違わず、わたくしは少女が荒野のどこに住んでいて、どんな家族に囲まれているのかなどといっこうに知りたいとは思いませんでした。彼女が不意に城内の子供部屋に現われたときも、わたくしはちっとも驚かず、それが当然予定されていた登場であると弁え、無邪気に喜びました。
 少女がやってきたとき、ジーンはさりげなくわたくしたちを二人きりで遊ばせました。いつもわたくしの傍についている子守女を、エルスぺスが来ているときだけは城内の別棟に下がらせたのです。それがなぜなのかわかりませんでしたが、少女はジーンの気配りを喜んでいるようでしたし、わたくしも、なぜかはわかりませんが、二人きりのほうが安心できました。
 二度目にやって来た時、初対面のきらびやかなドレスではなく、少女は落ちついた青か白の服を着ていました。清楚な服には左胸の赤黒い染みはありませんでした。衣裳が変わったからといって、相手が仔鹿のような眸と抜けるように白い肌、とても綺麗に整ったちいさな顔のウィー・ブラウン・エルスぺスであることに変わりはありませんでした。
 少女や、少女を取り巻いていた荒地の騎馬隊の顔面は、一様に冴えた青白い色をしていました。ふしぎなほどの色の白さです。わたくしや、アンガス、ジーン、城の住人や、周囲の村人たちと全く違います。けれどもわたくしは少女と出会って以来、彼女の他にもあちこちで時折、同じような顔色のひとを見かけるようになりましたので、数少ないけれど、世間にはこんなに蒼白なひとびともいるのだと考えるようになっていました。わたくし自身、それに親類縁者の誰一人として、エルスぺスのような顔いろのひとはいなかったのですが。
 十歳になったころ、ふっつりとウィー・ブラウン・エルスぺスは姿を見せなくなりました。わたくしはしばらく彼女を恋しがったものの、それほど深い悲哀はおぼえませんでした。初めて出会ったときと同じように、エルスぺスは荒地のどこかへ行ってしまっただけのこと。そんな感情だったのです。
 変わってアンガス・マカイアがわたくしの家庭教師となりました。彼は博学の士で、書物に囲まれて生きてきたひとでした。
 彼はわたくしに古代ゲール語、ラテン語、ギリシャ語を教えました。城の膨大な書庫に入り、二人して古書をひもといて学んだのです。それは少女の教育方法としては風変わりであり、こうした独特な教育のおかげで、わたくしは以前にもまして風変わりな女の子に育っていたのに違いありません。ですが、わたくしはそんな毎日が好きだったのです。
アンガスとともに学び、わたくしの部屋は四方を本で囲まれた書庫にようになりました。
 いっぽう、ジーンは気立てのよいしっかりした女性で、わたくしの相手を勤めるために申し分のない教育を受けており、アンガスと二人して、わたくしの幼年時代のよい家庭教師でした。古書に埋もれ、数百年来風景や人情に変化のない城の周囲の高原や農場しか知らないわたくしを眺めて、彼女はアンガスに告げました。
「イザベルは古代ではなく、現代に生きているのよ。この世から何も学ばせないのはよくないわ」
 彼女の口調は、まるでわたくしが以前別の世々を経てきて、いつかまた別の世々に移ろいゆくとでもいうように、「この世」という特殊な言い回しを使いましたが、でもそれは彼女の口癖で、誰もその言い方がおかしいとは感じていないようでした。
 アンガスは言いました。
「ジーン、君は賢明な女性だ。君の言う通りだよ」
 彼はロンドンの本屋に現代の最良書を手紙で注文し、わたくしに与えました。現代の書物に触れた当初、わたくしは不可解な世界に突き落とされた気がして困惑し、それどころか怒りさえ覚えたものです。なぜなら、アンガスとともに学び、親しんだいにしへのことがらが、現代の書物の世界においては、もはや忘れ去られた昔の人物の織りなす信憑性のない歴史であるがごとくに言及されているからでした。しばしば、偉大な人物によるもっとも偉大な時代は、史実であったかもしれない単なる伝説として軽視されていました。けれどもわたくしはまだ少女でありながらも、なぜ人が死に、殺され、暗澹たる恐怖を覚えるのかその理由を知っていました。古書や写本を読み漁り、何世紀にもわたって父親から息子へと受け継がれてきた物語を聞かされていたからなのです。
 多くは空疎な読後感しか得られない現代書にがっかりしかけたわたくしでしたが、ただひとり共感できる作家を見出しました。その作家は、世界が自分とともに始まり、自分とともに終わるのだと信じている書きぶりでした。彼は己れがただひとりしか存在せず、しかも、その他すべての人々の一部であることを弁えていました。彼の名前はヘクター・マクネアン。スコットランド生まれですが、諸国を遍歴して暮らしてきたひとでした。


 4 出会い

 ヘクター・マクネアンの著作に接したとき、わたくしは現代書の中から始めて気の合う友人を見つけたと思いました。とはいえ、このひととじかに顔を合わせることがあろうとは夢にも思いませんでした。彼は全世界から称賛される錚々たる作家です。それにひきかえわたくしはミュアキャリー高原の辺鄙な城にひきこもっており、やせっぽちで見栄えのしない容貌、聡明さとも無縁でした。女族長としての責任を果たすために、節目には豪華なイブニングドレスに身を包み、宝石をちりばめた装身具を飾って一族の式典に臨んでも、自分の姿が似合わない晴れ着を着せられた田舎の鼠のように思われるばかりだったのです。
 マクネアン氏のすべての著作をわたくしは繰り返し熟読しました。彼は随筆、詩、そして虚構とはいえ現実感あふれたすばらしい短編小説を著していました。それらを常に座右の書とし、ときには書庫の炉辺に座って小一時間もそのどれかを膝にひろげていたものですが、そうしたことは、とりもなおさずわたくしにとっては、温かで親密な友情のひとときを持つことでした。炉辺のかすかな火明りのなかで、作家はわたくしのかたわらに座っており、わたくしと彼とは言わず語らずのうちに互いに理解しあっているように感じられたのです。それはちょうど、もっと幼いころ、ウィー・ブラウン・エルスぺスと言葉なしに心を通わせ合ったことに似ていました。
 わたくしは尊敬する作家、またひそかな親友として彼の存在を身近に感じつつ、その後の数年を過ごし、その間にマクネアン氏の名声は高まる一方でした。
 ある年の六月のこと、ロンドン在住のわたくしの後見人イアン卿から、土地の管理に関する重要書類にサインするために顧問弁護士と相談の必要ありとの要請をうけて、わたくしはミュアキャリーから後見人の許を訪れ、一週間あまり彼の館に滞在しました。この間は連日のように、族長の親類縁者への義務として沢山の客人と会い、大パーティーに出席したのですが、毎年恒例の、こうしたさまざまなロンドンでの企ては、わたくしがみなの前に顔を出さないために後見人が義務不履行を咎められたり、あるいは族長たるわたくしが不健全な精神の持ち主で、わざとミュアキャリーにひきこもっていると思われないようにするための、イアン卿夫妻の配慮であったかと察せられます。後見人は立派な人物で、夫人も温和な女性でした。
 わたくしは夫妻の配慮をないがしろにしたくなかったので、イアン卿に呼ばれるたびに彼らを訪問し、後見人の望むように振舞っていたのですが、社交場で豪華な晴れ着をまとい、ダイヤモンドの装身具で頭のてっぺんから爪先まできらきらと飾りたてるのは、どうしても好きになれませんでした。
ロンドン滞在中は、どうしてもこの、自分には似合わない仰々しい仮装パーティにいくつも出席しなければならず、それを思うと後見人夫妻の人当りのよさにもかかわらず、ミュアキャリーを出発する気持ちは重くなるのが常でした。
 ところが、その六月にかぎっては、旅立ちにつきものの憂鬱がなく、むしろ心待ちに嬉しくさえ感じられました。大都会ロンドンは高原から出てきた者の眼には、人がひしめきあう絶え間ない喧噪が渦巻き、そこに入ってゆかねばならない自分はただのちっぽけな田舎の鼠で、もみくちゃにされてしまいそうな不安を感じたものなのですが、今度だけはそうした不快感は少しもなかったのです。心の落ち着きと晴れやかさに我ながら驚いたのですが、それは、あとあと起こることになっていた不思議な変化の前兆だったのだ、とのちに理解することができました。
 例によって、ジーン・ブレイドヒュートが旅に同行しました。長い汽車の旅の終わりごろ、ロンドン到着の一、二時間前にわたくしたちの乗っている車両に、一人の男性が乗り込んできて、片側の隅に腰を下ろしました。それからしばらくして汽車は、名高く美しい墓地のある駅に停車しました。ここのプラットフォームには必ずといっていいほど、悲しげな顔と喪服のひとを見かけるのでした。
 その日は、悲哀に沈んだ家族は一組以上おりました。わたくしとジーンの席の反対側に座った男性は、慈愛に満ちた視線で、そうしたひとびとを眺めていました。やがて駅から喪服の婦人が子供連れでよろめくように車内に入って来ますと、彼は立ち上がり、手をさしのべて彼女に自分の席を譲りました。混んではいない車内でしたが、喪服の婦人は泣き濡れて眼がかすみ、その足元が危なっかしくふらついていました。上品な容貌の婦人でしたが、辺りはばからぬ激しい悲嘆ぶりで、見ているわたくしもジーンも胸が詰まるほどでした。きっと彼女は墓地に自分の心も魂も置き去りにしてきたのでしょう。そうせざるをえないほど、愛しい亡骸を葬ってきたのです。
 わたくしは、彼女が弔いをしてきたのは彼女の子供の墓で、そこを立ち去るときに、彼女は限りない孤独に突き落とされたのだということが、はっきりわかったのでした。理由のひとつには、婦人の喪服のドレスに、ひしととりすがっている幼児に、彼女がいっこうに気付く気配がないからなのでした。この女性がもう一人の子を亡くしたにせよ、こちらの子供はまだ生きており、母親の膝にとりすがった小さなその顔は、とても悲しげだというのに! 
 わたくしは、母親が膝の幼児をおざなりにして、自分だけの悲愁に暮れているのは不公平に感じられました。その小さな子は、母親のスカートにしがみついて乗車したのですが、そうでなければプラットフォームに置き去りにされたかもしれない、と思われるほど、泣き続ける母親は膝にすがる幼児に目もくれないのでした。
 どんなだいじな子を亡くしてしまったにせよ、そこにいるもうひとりの幼児を慰めてあげなければいけないのじゃないかしら、とわたしははらはらしながら見つめておりましたが、母親はハンカチに顔を埋め、ただ啜り泣くばかりでした。しがみついている幼児は無邪気に、一心に母親を慰めようとしているかのようでした。婦人に体をすりよせ、腕やヴェェールに何度も口づけしては彼女の注意を惹こうとしていたのです。年のころは五、六歳で、百合の花のように色白な小柄な子どもでした。
 この小さな白い子は、一生懸命に母親に仕草で訴えかけるのですが、はっきりとした言葉を話すには幼すぎるようでした。
 気の毒な婦人はあまり遠くまで同乗しませんでした。彼女の近くに座っていた相客のさきほどの優しい男性は、数駅目で彼女が下車するとき、ホームに先に降りて、乗車のときと同じように手を貸してあげました。彼は礼儀正しく帽子をとっていたのですが、泣きじゃくる婦人は親切な彼さえ見向きもしませんでした。色白な小さい子供も、母親に相手にされないまま、スカートにすがったまま、引きずられるようにして降りてゆきました。小さな子が車両の出口に立ったとき、わたくしはこの子が転ぶのではないかと心配になり、思わず立ち上がって手を差し伸べました。でもその子は落ちませんでした。子どもは小さな白い顔をこちらにむけ、にっこりとほほ笑みました。
 母親に手を貸した親切な男性が車両に戻ると同時に汽車は駅を離れ、動き始めた窓から眺めますと、あのヴェールをかぶった黒衣の婦人はうなだれ、ハンカチを顔におしつけながら、プラットフォームをゆっくりと歩いており、彼女のスカートには、相変わらず白い小さな子供がとりすがり、自分を見てくれない母親を一心に見上げているのでした。


 5 白いひと

 ロンドンに到着したその晩、後見人はわたくしのために盛大なパーティを準備していました。招かれる上流人士のなかには、たいてい著名な文士が必ず若干ふくまれており、今夜はその中にヘクター・マクネアンがいる、とジーンが教えてくれました。
「イザベル、あなたが彼の著書をいかに愛読しているかお話なさいな」
 ジーンは晩餐会のためのわたくしの盛装を着付けながらにこにこして言いました。ジーンはもの静かで、母親のような雰囲気のあるひとでした。
「あの方に話しかけたがる人は、私以外にも大勢いるでしょう? それに私は内気だからそんなことをちゃんと言えるかどうか」
「彼を恐れてはいけないわ。きっと御自分の著作と違わぬ人物でしょうし、彼の作品はあなたにとっての生きる喜びなんですよ」
 縁者の立派な年配の男性にエスコートされて晩餐会の席についたものの、わたくしは例によって口が重く、華やかな会場で豪華な衣装に身を包みながら、社交用の作り笑いの下ではそこはかとない孤独を味合わなければなりませんでした。
 どこにヘクター・マクネアンがいるのかしら、とわたくしはパートナーとの会話もそっちのけで、広間のあちこちにそれらしい人物を探しましたが、これは、と思うひとはなかなか見つかりませんでした。ところが、自分が座った食卓中央の飾り皿の向こう側にふと目を移したとき、見知った顔に出会ったのです。それは、数時間前、ロンドン到着前の汽車の中で喪服の婦人に手を貸し、彼女の悲嘆に脱帽して敬意を表したあの親切な相客の顔でした。
嬉しくなったわたくしは、思わす隣席のパートナーに尋ねました。
「あの方はどなたですの? テーブルのはす向かいのあの方」
「彼こそは、最近世界中の人々の話題をさらっている作家ですよ。ヘクター・マクネアン氏、あなたもご存知でしょうな?」
 わたくしは嬉しさで飛び上がりそうになりました。文字通り、椅子から立ち上がってしまいそうになるのを我慢しなければなりませんでした。とはいえ、憧れの作家にすぐさま話しかけられるほどの勇気はなく、わたしはどきどきしながら、食卓に飾られた花瓶の山盛の花越しに彼を見つめたのでした。
 何かの拍子に、マクネアン氏はこちらに目を向け、わたくしと偶然のように視線があいました。それはほんの数瞬のことでしたが、わたくしは彼もわたくしを覚えていて、ここで思いがけず再会したことを驚きながら喜んでいることがはっきりとわかりました。
 晩餐のあと、イアン卿は男性の客たちを女性たちとは別なサロンに案内しましたが、しばらくすると、こちらの女性客の部屋にだれかを伴ってやってきました。なんとそのひとはヘクター・マクネアン氏でした。イアン卿はこちらに合図して、
「ミス・ミュアキャリー、マクネアン氏の話ではあなたがたは今日の午後、偶然同じ汽車に乗り合わせたそうだね」
「そうですわ」
「彼はミュアキャリーのことを噂に聞いておられ、あなたにもっといろいろな話を聞かせてほしいそうだよ、イザベル。マクネアンさん、この子は中世風のお城で小さな幽霊みたいに独りきりで暮らしておいでなんですよ。なんとかしてロンドンを好きになってもらおうと努力したんだが、だめなようです」
 察しのよい後見人は適当な紹介を済ませると、わたくしたちを二人きりにして出て行きました。マクネアン氏とわたくしの両方にとって好ましい配慮でした。
 ヘクター・マクネアン氏はミュアキャリーについて豊富な知識を持っていました。わたくしたちはサロンに並んで座り、たくさんのことを語り合いました。ミュアキャリーのように独特な風土の土地はイングランド、スコットランドじゅうに数少なかったので、彼は書物で手に入れられるかぎりのことは残らず知っていたのでした。家庭教師のアンガス・マカイアに劣らない豊かな知識とミュアキャリーに好意ある理解だとわたくしは感じました。
 彼との会話はいつまでも尽きませんでした。城の書庫の管理人のようなアンガスについて、それから思慮深く物静かな育ての親ジーン・ブレイドヒュートにも話が及び、
「ジーンはいつも私と一緒にロンドンに来るのです。今日、あなたが喪服の御婦人と彼女の幼い子供を庇ってさしあげていたときも、ジーンはわたくしの隣にいて、あの御婦人の愁嘆に胸をいためていましたわ」
「子供…幼い子供ですって?」
 ヘクターは怪訝な顔をしました。
「ええ、とても小さな色の白い子で、きっと婦人の二番目のお子さんなんでしょう。お母様のほうにすがって、なんとか慰めようと小さい白い手で撫でたりさすったりしていましたわ。なのに、婦人のほうはその子のほうを見ようともしないんです」
 マクネアンはしばらく口ごもり、優しい目つきでわたくしの顔をじっと見つめ、
「そう? こどもだって? しかしぼくはきっとその子とは反対側に座っていたからなあ。それに母上のほうに気をとられていたから見えなかったのかもしれない。その子のことを話してくれませんか」
「そのかわいそうな子は、たぶん六歳よりは下でしたわ。とても色白で……わたしは時々あの子と同じような透きとおるように肌の白いひとたちを見かけるのですが、その子もそうでした。お母様とは違いますね。母親のほうは《白いひと》ではありませんもの」
「しろいひと?」
 マクネアン氏はゆっくりとわたくしの言葉を繰り返しました。
「あの御婦人が白いひとでない、ということは白色人種ではない、とおっしゃるのですか。そうではありませんね」
「ええ、もちろん。ごめんなさい。わたしは自分で勝手に《白いひとびと》と呼んでいるのです。時折見かけるそのひとたちは、わたしたちとは明らかに違う透きとおって見えるほど白い肌をしているの。数は多くありません。ですがあの人たちが通りを行き過ぎたり部屋に入ってきたりすると、あまりに白いので人目を惹かずにはいないのです。あなただってご覧になればきっと眼を瞠ることでしょう。あの子のお母様は白いひとびとではありませんでしたが、子供のほうは透けるような肌をして、繊細な顔立ちの、白いひとだったのよ」
 マクネアン氏は考え深げに、おだやかな口調で言いました。
「そうだね、僕ももっとその小さな子を見ておけばよかった。その子は泣いていたの?」
「いいえ、お母様にしがみついて、母親を慰めようとでもするかのように黒い喪服の袖を撫でたり、ヴェールにキスしたり。見ているわたしのほうが泣きたいくらいでした。なぜって、お母様がその子が生きて傍にいて、自分を愛しているのに気が付いてやれば、その子は母親を慰めたことになるんですもの。誰かに死なれても、それですべてが終わりだなどと感じなければよいのに。その子はちゃんと傍にいて、生きているのに」
「どう思うの、イザベル、死について」
「分かりませんわ。瀕死のひとを見たことがないんですもの。わたしには、死なんてとても信じられない」
 マクネアン氏は静かな声で応えました。
「信じられない? それはすばらしいことだ。誰も死を信じなかったらどんなにすばらしいだろう」
「ええ、気の毒なあの母親は死にうちのめされていましたわ。もう、何もかも消え失せてしまったかのように」
「あなたが彼女にそれを話しておやりになったら彼女は慰められたかもしれない」
「わたしはとても内気なんですもの。彼女に話しかける勇気はきっとなかったわ。自分でも自分のことを臆病だと思います。それに婦人はわたしを煩わしくお感じになったかもしれませんわ」
「いや、あなたがお話になったとしても、彼女にはわからなかったかもしれん」
 マクネアン氏は、自分はまだ白いひとびとを見たことがないといいました。そう聞いても、わたくしは驚きませんでした。
「教えて下さいませんか? かれらはまるで別種の人間であるかのようなあなたの口ぶりから察すると、彼らと我々とははっきりとした相違があるんだね?」
「そう、おっしゃるとおりですわ。わたしはあなたに指摘されて、今初めてそのことに気付きました。なぜかあの人たちのことを自分達とは違う別物、異人種と思っていたんですわ。あたかも土着インディアンか日本人に対するような感情で」
「うまい比喩だね。かれらはそんなにも違っているのですか。あなたはかれらをよく知っているの?」
「いいえ、わたしは親しい友人としてはウィー・ブラウン・エルスぺスしか知らないんです」
「なんだって! 今なんと言った、イザベル」
「ウィー・ブラウン・エルスぺス。十歳になるまでの、わたしのたったひとりの遊び友達でした。彼女が何か?」
 マクネアン氏のおだやかな微笑はウィー・ブラウン・エルスぺスの名を耳にした途端、さっと蒼ざめ、こわばった表情に変わっていました。わたくしはおそるおそる尋ねました。
「エルスぺスは幼馴染ですわ。いつのまにか城に現れなくなってしまいましたが」
 わたくしの怖気づいた動顛ぶりに、マクネアン氏は表情をやわらげ、おかしそうに笑いながら、
「いや、失敬、ぼくはこのごろ体調が悪くて少し神経質なんだ。君は幼馴染のことを語っただけなのにね。どうぞ彼女のことを話してください」
「エルスぺスも、今日の小さな子と同じように色白でした。周囲の誰とも違う白い肌色の子で、荒地で出会ったのよ。深い霧の中を騎馬隊に守られてやって来たの」
 わたくしはマクネアン氏の求めるままに、幼少の思い出をできる限り詳しく話しました。荒野のぶきみさ、白い霧のなかに隠れているものたちへの幼い夢想、岩盤にそびえる城、塔のなかのこども部屋で窓ガラスに顔をおしつけて高原を見つめた幼いイザベル、博学多識のアンガスと書庫、優しく賢いジーン……言葉を交わさずに、互いに意志を通じ合ったウィー・ブラウン・エルスぺスとの数年間の楽しかった遊びのさまざま。マクネアンは熱心にわたくしの多言に耳を傾けてくれました。
「誰だったのだろう。エルスぺスを運んできた騎馬の男たちは?」
「わかりませんわ」
「エルスぺスに聞いたことはなかったの?」
「お互いに無頓着だったのです。ただ一緒に遊んだだけ。それに男の人たちは最初だけ現われ、二度とやってくることはなかったから、まるで幻影のような感じですわ」
「彼らは不思議な運命を負った者たちのようだ。物知りのアンガスは?」
「アンガスは何一つ詮索したりしませんでしたわ。何か知っているのかもしれませんが、話してはくれませんでした。子どもの頃はいつも、アンガスとジーンとは幼いわたしに聞かせたくない秘密を持っているような気がしたものです。彼らは悲しいことや醜いこと、子どもの心に耐えられないおそろしいことを隠していてくれたのです。とてもしっかりしたひとたちなのよ」
「そうに違いない」
 マクネアンは考え深げに相槌を打ちました。それからサロンをぐるりと見渡すと、
「ここに今、白いひとびとはいますか?」
「いいえ、一人もおりませんわ」
 わたくしは少し恥ずかしくなりました。当代きっての天才作家相手に、自分が一生懸命滔々と説明したことを証明できない羞恥心で顔が赤くなるのがわかりました。
「ごめんなさい。わたしはつまらないことをながながお話いたしましたわ」
「いいえ、とんでもない! あなたとお話できて僕がどんなに嬉しく思っているか、イザベル、おわかりにならないでしょう。イアン卿のお話ではあなたはおしゃべりではないということでした。だからこそ、僕はあなたとお話ししたいと願ったんですよ」
「ミュアキャリーのような土地がお好きなんですね? だからわたしがお話しする前からあんなにも詳しくミュアキャリーについてご存知だったのでしょう」
「ええそうです。イザベル、あなたの眼のなかにはミュアキャリーの荒野があり、霧があり、その霧のなかにひそんでいる不思議なエルスぺスたちが見て取れる、まさしくね」
「汽車のなかでわたしのほうをご覧になったのですか? わたしもあなたに気が付いていました。あの気の毒な御婦人に親切にしておやりだったとき、あなたの眼にはわたしはきっと野暮ったい田舎の小娘に見えたことでしょうね」
「ぼくが気付いていたのは、あなたのなかの夢見るようなまなざしだった」
 マクネアン氏はつぶやきました。
「ぼくと母とで住む郊外の家にお茶にいらっしゃいませんか。大きな林檎の木陰で、天鵞絨のようなやわらかな影が芝生に落ちる午後に。きっとそれは一日のうちで一番美しい時刻だ」
「ぜひうかがいますわ。さあ、マクネアンさん、そろそろわたしたちはみんなのところへ戻らなければなりません。ミュアキャリーには無関心な人たちのところへね」


 6 林檎樹の下のお茶会

 マクネアン氏とその母の住む家は、かたちのよい煙突と,角櫓づきの風変わりな高い壁で囲まれた大庭園のある館でした。彼の母親は美しいひとで、その日の午後、わたくしを迎えるために夫人が庭の林檎の木陰の椅子から立ち上がり、こちらに近づいてきたとき、わたくしは、まず彼女のかろやかな足取りに感動したのでした。それから象牙で彫り込まれたようなすっきりした横顔と形の良い顎、きれいに結われた髪型に気付きました。頭や腕、身のこなしのいちいちがすべて優雅でした。と言っても華やかに現代風な初老の女性というわけではなく、古風で、どこかしら一般的な女性たちとは異なるみずぎわだった雰囲気が感じられました。ヘクター・マクネアンが母親をこの上なく愛しているのはすぐにわかりましたし、夫人の姿や物腰を拝見すればもっともなことでした。
 わたくしの他にも数人の人がお茶に招かれておりましたが、夫人を敬愛するそれらの友人たちも、マクネアン氏や母上と似た雰囲気のすてきな人々でした。
林檎樹は若木のころから数えるなら、きっと数百年はこの世に存在していそうな大樹で、何本もの大きな枝が広く張り出し、枝々はよじれまがり、節くれだち、幹はすこやかに樹齢を重ねた美しさに充ちていました。マクネアン氏がつぶやいたとおり、広い庭に落ちるこの樹の影は、天鵞絨のようになめらかで、濃く、やわらかでした。マクネアン氏の母がお茶の用意のためにその木の下に佇んでいる姿は、わたくしには、まるでこの樹が夫人をいとおしむために、そのおごそかで美しい影をのべながら生い育ってきたような気がしました。
 夫人はわたくしを自分の傍にひきとめ、息子と同じ柔らかい瞳に愛情をこめて、お茶会の親しい会話に誘ってくれましたので、わたくしは見知らぬひとびとの中ではいつも味わう窮屈さや居心地の悪さを、その日は微塵も感じることがありませんでした。わたくしだけでなく、マクネアン夫人の傍に居ると、みんな幸せな気持ちになるようでした。
 わたくしは夫人を慕って集まる客たちのなかに、ひとり興味をひかれる人物を見出しました。見るからに俊敏な容貌で、鷲のように立派な顔立ちをしており、談話をリードする話しぶりにユーモアがあふれ、しばしば彼の話術のおかげで一座に笑い声があふれました。それなのに、当人の眼は少しも笑ってはいず、深い哀しみのいろが浮かんでいるのが、わたくしには見えたのでした。顔では笑ったりほほえんだりしていましたが、眼は決して笑っていなかったのです。気になったわたくしは、そっと隣のマクネアン夫人に尋ねました。
「あちらはどういう方ですの?」
 夫人は静かに応えました。
「彼は英国最高の画家、ル・ブレトン氏よ。とても才能のある方。でもお気の毒なことに、最近お嬢様が亡くなってしまったの。それはそれは綺麗なお嬢様でしたけれど、不運な事故で、こともあろうにあの方の目の前で墜落死なさったの。お嬢様は彼の生きる悦びでした。あれ以来、彼の眼には宙に座ったような奇妙な表情が浮かんでいるの。お気づきなのね、イザベル」
 お茶のあと、わたくしたちは手入れのゆきとどいた花壇づたいにそぞろ歩きました。庭園の片隅に群がり咲く青い飛燕草をマクネアン氏に見せてもらっているとき、わたくしはふと、少し離れた向こうの小道で、白と紫のアイリスを眺めているル・ブレトン氏の傍らに、まごうかたなき《白いひとびと》の姿を見つけて、マクネアン氏に言いました。
「ほら、ル・ブレトンさんの腕に手をかけて立っている若い女のひと。彼女は白いひとです。これであなたもおわかりになるわね」
「ル・ブレトンさんだって?」
 マクネアン氏はとまどった口調でわたくしとル・ブレトン氏の両方を眺めました。
「彼と腕を組んでいる女性だって?」
「ええ、ほら、透きとおるように白い顔をしているわ。とても綺麗」
「そう……だね」
 マクネアン氏はわたくしの視線をたどってル・ブレトン氏と娘さんのふたりをしばらく凝視していました。
「ええ、わかったよ。あなたのおっしゃる意味がね。たいへん綺麗だね。あまりこのお茶会では見かけないお嬢さんだが、きっと母の友人に違いない。彼女はあなたの言う《白いひとびと》の一人なんだね?」
「そうよ。美しい方ね。まるで白いアイリスそのもののような娘さんだわ」
「ああ、わかった」
 そのあとで、わたくしはマクネアン夫人にその白い娘さんのことを訊ねてみました。自分同様マクネアン夫人にも白いひとびとの一員である友人がいるとは嬉しいことだったのです。そのときにはもうル・ブレトン氏は席を辞しており、白いアイリスのような娘さんもいなくなっていました。
「霧みたいな淡いグレーの服を着た、背の高い、とても色白な娘さんでしたわ。ル・ブレトンさんがアイリスの花の前に立っていらしたとき、あなたは数ヤード離れた先で薔薇を摘んでおいででした。きっと、あの色白な娘さんに気付いたでしょう」
 マクネアン夫人は少し黙り込み、怪訝な面持ちになりました。
「ミルドレッド・キースは色白だけれど、あのときには居なかったわ。娘さんなんていたかしら? わたしはアンストランサー夫人のために薔薇を摘んでいて…」
 夫人は息子のほうをゆっくりと振り返り、まばたきするぐらいの間、二人は視線を合わせました。そしてマクネアン氏は快活な声で、
「ミルドレッドではありませんよ。その娘さんは、ミュアキャリーさんのおっしゃる《白いひとびと》の一人だったんです。ぼくも見たことがないひとだったな」
 息子の陽気な声のあと、とても短い沈黙が
林檎の枝のざわめきのように三人の間を通り抜けました。マクネアン夫人は木陰を抜けてゆく風のそよぎよりもっと柔らかい声で言いました。
「ああ、思い出したわ。《白いひとびと》ね。
ヘクターはわたしもその一人ではないかと思っているのですよ」
 わたくしは遠慮がちにおずおずと首を振りました。マクネアン夫人は白いひとびとに似ていましたが、違うのでした。
 夫人はそれからそっと、わたくしの腕に触れました。まるで心に触れるように、そっと。
「たぶん、その娘さんはアナベル・メアよ。ミルドレッドよりも透きとおるように白い肌をしていて、髪ももっと淡い鳶色の。おそらく彼女でしょうよ」

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