さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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サイコ・ヒーラー 2ペリドット

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2 ペリドット

 花野。
 いちめんの透かし百合、あるいは野菅草。白い紫苑に……水いろ桔梗。風のつたう湖の波紋。夏か秋か。さびしげに群れる女郎花。青白い電光は絶え間なく明滅し……幻燈のスイッチは誰が入れたのでしょうか? メグはぱっちり眼をみひらき、安美さんの腕からするりと抜け出し、花野へ駆けてゆきます。
「行ってはだめ」
 安美さんはメグをひきとどめようとするけれど、どうしたわけか、その手に力が入りません。安美さんをふりかえり、メグはにこっと笑いましたが、両目はあかるい青いろに輝き、その形容しがたい光りの強さに、安美さんは思わず目を逸らし、眩暈をこらえるように、瞼を閉じてしまいとました。
走り出したメグの手を握って離さないのはシーラだけ。
そのシーラの髪がたてがみのように放射状に逆巻くくらい、彼女の周囲にはものすごい突風が吹きつけているのでした。彼女は片方の肘で、顔を覆い、向かい風を防ぎます。つむじ風のような大風は安美さんにも牙をむいて吹き付け、こちらは立っていられず、緑の草原にすわりこんでしまいました。
ふたりの大人がこの有様というのに、シーラと手をつないだメグは、まったく無風で全身に何の動揺もないのでした。
メグは風上に向かって、華奢な胸を張り、突然歌いだしました。

  遊ビヲセムトヤ生マレケム
  戯レセムトヤ生マレケム
  遊ブコドモノコヱ聞ケバ
  我ガ身サヘコソ揺ルガルレ

「いったい誰の声?」
 安美さんは叫びました。メグの喉から放たれているのはメグの声ではないし、歌詞もまた、メグが知るはずもない昔の言葉です。
 メグの喉からは、つぎつぎと、同時に、いろんな声があふれ出るのでした。
 ここはずっと夏なの…。ぼくと遊ぼうよ。誰か教えて、わたしはいつから、いったいどこにいるの? 静かで、こわい。どこまでいってもどこまでいっても草迷宮って…。 
「ずっと、いっしょに、遊ぼ」
 メグは安美さんをふり返って笑いかけました。その笑顔はやさしくおだやかで、けれども、どこかものさびしく、十一歳のこどもの表情ではありませんでした。
「あなたはだれ」
 シーラはメグに向かって落ち着いて問いかけました。メグではない、メグに向かって。
「きれいなひと、あなたもおいで」
 メグはシーラの手をつかんだまま、いきなり背中からのけぞり、ケモノのようにくるりと虚空を回転しました。シーラが手を離さなければ、シーラもひきずられて回転するところでした。いつのまにか、とうに、ここは銀座久我ビル306号室ではなく、梅雨空さえ突き抜けて、爽やかな夏の濃い青空の下に、見たこともないこんもりとした落葉松の森、湖を囲んで点在する白樺林、湧き上がる積乱雲、虚空に舞い上がるのは無数のたんぽぽの綿毛のような野の精草の魂。
それはみんなさまよう人魂の群れ。あの世へ行けない、行きたくないモノたちが、道半ばでとどまり、いつまでも漂い遊び続ける、ここは生と死の境の異次元なのでした。
 メグは、人魂がまっしろな尾をひくように、草原をくるりくるりと回転しながら、遠くへ飛んでゆこうとしていました。跳ねてゆくメグの体からまばゆいオーラが放たれて、メグが回転するたび、それはふさふさしたケモノのしっぽのように、空に踊り、地上に跳ねるのでした。シーラはメグを逃がすまいと、片手ですばやくそのしっぽをつかみ、もういっぽうの手で、しゃがみこんでしまった安美さんの腕をつかんで、しっかりと小脇に、彼女を抱きかかえました。
「安美さん、あたしにつかまって、離れないで」
 メグのしっぽを握ったとたん、シーラの全身にものすごい電波が突き抜け、シーラは歯を喰いしばりました。
「いったいなんなのよ?」
 安美さんはシーラにしがみつきましたが、ふたりともに虚空に跳ね上がるメグにひきずられて、地面から弾かれ、高く飛びあがりました。メグは二人をひきずっていることなどまるで気にとめず、青く輝く視線は遠くに注がれ、かるがると空を渡ってゆくのでした。髪を逆立て、ビリビリと全身を走り抜ける波動に耐えながら、シーラは安美さんに言いました。
「エネルギーをコントロールできない」
「何のエネルギーなの?」
「何かに、この子は感応して、磁石が鉄を引き寄せるように、そちらへ飛んでゆこうとしている。ひっぱられている。いいえ、逆にひっぱっているのかもしれない。この子の内包するエネルギーを、誰かがつかんで、この子もそれに反応して、この結界にものすごい気流が生じている」
 背骨ごと揺さぶられるような振動に耐えてシーラはまなじりをつりあげ、メグを見やりました。
「どこへ行くの、あたしたちをどこへつれて行くんですか」
「ぼくの(あたしの)お城」
「(閉じ込められて)きれいなお城」
「いつまでも遊んで(動けない)白い無垢なお城」
「(年をとらない)影のないお城」
「みんなで(さびしい)いつまでも(つめたい)遊べるよ」
 メグの声のうらがわに、別な誰かの声が貼りついてひびき、それはメグの魂のしっぽを
握っているシーラの手に、ぞっとするような冷気を感じさせるのでした。危険だ、とシーラは直感し、そんなことができるかどうか自分でもわからない、今まで相対したこともない強力なモノに対抗して念をしぼりました。
「メグ、戻って!」
「イヤ」
 シーラの握っているメグのオーラのしっぽがその瞬間ざわっと炎上し、見るまに這い登り、メグの全身を焼き尽くすかのように空のまんなかで曼荼羅のようにぴたりと静止しました。
「安美さん、あたしにしがみついて、離れないでね。離れたら、飛ばされてしまう」
 言い終えるや、シーラは安美さんを抱えていた片手を離し、メグのオーラの尾を両手でつかみ力任せに手元にねじふせました。
 ねじ伏せようとするシーラの念の反動で、オーラの輪のなかで、メグはひっくりかえり、逆立ちになりましたが、真っ青な両眼のいろはまったく変わらずに、ぴかぴかと金属質の光を放ち、両足をばたばたと前後に動かし、怒ったような声で、
「ジャマシナイデ。イッショニオイデ」
 一緒に、来てよ。
 幼いメグの声の裏側にずっしりと重いリフレインが響くと、翳りない草原の明るい青空はその瞬間布を裂くように暗転し、逆立ちしたメグといっしょに、シーラと安美さんは、いきなり割れた群青闇に呑みこまれてゆきました。

 ばしゃっと顔にサイダーをぶっかけられてタイジは眼をさましました。
「えー」
「昼間から酔ってんのかい?何寝てんだよ」
「イタタ。寝てたんじゃないっすよ」
 異界の雷に打たれて気絶し、仰向けにひっくりかえったタイジは、ギャラリーの床に寝っころがった姿のまま、ぱちぱちと瞬きしました。タイジの童顔を覗き込んだまま、斜にくわえた煙草の灰をぽんぽん、とサイダーの空き缶に落としたのは、久我ビルに入っているギャラリーの名物オーナーのひとり、ジンさんでした。
ジンさんは酔っ払いで遊び人で、頓狂な、久我ビルの人気者でした。この禁煙のご時世に、彼は片肘張って煙草を吸い続け、唇にはいつも、ハイライトとかショッポとか、丈の短くて強い煙草を斜めにくわえていました。火をつけていなくても、彼はたいてい煙草をくわえているようでした。年は六十歳くらい。ずいぶんおしゃれで、けっこうセンスのよい高価なジャケットやスラックスを着て、夏も冬もコンビの革靴を、ぴかぴかに手入れしていながら、どういうわけか、赤茶けて、あぶらの抜けたぼさぼさ髪のまま銀座を闊歩し、うわさでは、なかなかりっぱな洋画を描くという話ですが、彼本人の作品を見た人は誰もいません。
ジンさんのギャラリー〈個室〉は、ほんとにそのものずばり彼の個室で、採算がとれるのかどうなのか、気に入ったアーティストには、ギャラリー企画の無償メセナで、気前よく展示させてくれるので、貧乏な学生や作家さんたちから慕われていました。
「飲む?」
 とたった今、煙草の灰を落としたばかりのサイダーの缶を口元に突きつけられて、タイジは顔をしかめました。
「遠慮します」
「じゃ、正気だ」
 ハハハと笑われて、タイジは後頭部を撫でながら床から起き上がり、
「今何時?」
「五時半くらいかな」
「やべー」
 我ながら間抜けだなー、とつぶやいた瞬間タイジは思いました。遮光カーテンもおろしていないのに、〈花絵〉の内部はほのかに暗がり、冷房もはいっていない真夏の室内はむしむしとして、背中はべったり寝汗まみれでした。シーラとメグが消えた。目の前で飛んでいった、とタイジは気を失う寸前にかいま見た光景を、首筋の寝汗をぬぐいながら、思い出し、ぶるっとひとつ震えました。
「こうしちゃいられない」
「じゃ飲みにいくかい」
「行きません」
 タイジは脳震盪をおこした脳みそをたたき起こすように、げんこつでごちんとこめかみをひとつ、痛くないように殴ってから、携帯をとりだしました。が、携帯を握った手や指がへんにべたついているので、
「なんか、顔が……ジンさん、俺に何かけたんですか」
「ジンジャーエール」
 タイジはものも言わずに廊下に飛び出し、トイレの脇にならぶ古風な鏡つきの共同洗面所にゆき、水道の(いまどき)蛇口をひねると頭から水道水をざーっと流しました。
「あータオル忘れた。コンチクショー」
 はいよ、とジンさんはおもしろそうに後ろからついてきて、タイジに清潔なタオルをくれました。
「スイマセン」
「ただごとじゃなさそう」
「そう」
「女?」
 タイジはにやりと笑い、両手の小指をいっぽんずつたて、それから器用に左手の薬指まで伸ばし足しました。
「両手に花、プラス1」
「いいねー。君にしちゃ晴天のヘキレキ」
「あーこの会話のほうがうそみたい。そ、ヘキレキ、かみなり」
「君の瞳は百万ボルトって、もうナツメロ」
「こけますよ。雑巾飛びます。でも、ひとりはシーラさん」 
「うっそ。薔薇が降るぜ」
「ジンさん、悪いけど相手してらんないよ。、マジですから」
 雑巾投げるかわりにタイジは顔を拭いたタオルをジンさんにちゃんとたたんで返し、携帯をあらためてつかみなおしました。
「もしもし……。ぼくです。おひさ、でもないか。これから行っていいですか。ドミのことでシーラさんに頼んだでしょ、その件で、ちょっと……先が見えないんです」
(マジ、お先まっくらだよ。え? いったいどこに行ったんだ、ふたりとも、いや、三人か)
「ガーネットさん、申し訳ないんですがどうしたらいいかわかんない、どう説明したらいいのかも、携帯じゃ。だから」
 途中からタイジは情けなくも半泣きみたいな声になってしまいました。
 途方にくれたタイジは、とりあえず娥網と会うことにしたのでした。
 電話を切ると、まだジンさんはタイジの横にぬぼっと立っていて、
「ガーネットさんとこ行くんなら、送ってってやろうか?」

 ガーネットは、南青山の骨董通り近くに住んでいました。銀座ほどではありませんが、繁華ではないにせよ、ずいぶん瀟洒な、ふつうのひとが住める土地柄ではないのですが、彼女の住まいは表通りからすこし奥まった五階建てのマンションでした。この建物の地下一階の半分は住人の駐車場、もう半分はダンススタジオになっていて、ガーネットはここでお弟子さんたちに整体やダンス、またリラクセーションパフォーマンスなどを教えています。
マンションのエントランス脇に南面した一階全部は喫茶店で、これもガーネットさんが経営しているのでした。往来をゆくひとは、表を前面硬化ガラス張りのここを見て、喫茶店とはたぶん思わないでしょう。ウィンドーのなかは、ちょっと見にもめずらしい、熱帯や異国の樹木草花がおいしげり、温室か植物園のようでした。花屋と勘違いして寄っていくひともいます。それというのも、天井から地面まで、壁面いっぱいに蔦や広葉樹、シダ類がはびこりおいしげり、ガラス越しの外からは、内部がほとんど覗けないからなのです。
 入り口は自動ではない手引きのガラス扉で、握りはほんものそっくりにとぐろを巻いている真鍮の蛇体神ナーガでした。その握りの上に、七宝の嵌め板がガラスにじかに埋め込まれ、〈吉舎室 珠螺木〉と、癖のある字体で記されているだけ。
 たいして宣伝もしないのに、ガーネットのファンの口コミというか、ツイッターなどのネットづたいに、ダンサー、また宝石占師娥網のパワースポット・ジュラキは、かなり有名でした。とはいえ、やっぱり何気なく気楽にお茶を飲みたいひとが立ち寄るには珠螺木の敷居はだいぶ高く、足を運ぶのは、ガーネットに魅せられ、あるいはいっぷう変わった宝石占いを希望する人たちなのでした。
「カザマ、メグ。その子のママで柳のフェアリーだけが飛んでいって、あなたは残されちゃった、というわけ」
 タイジの息せききった説明を、ガーネットは、フロア中央の紫檀の中国椅子にもたれて聴き、しばらく黙っていました。
彼女は光沢の強いボディ・スーツのようなマーメイドラインの、深緋いろに金銀刺繍で竜虎の縫い取られたチャイナドレスをまとい、すんなりとうつくしい自分の両手の、長く伸ばし、きらきらとビーズやスパンコールで七色にデコレーションした自分の爪を、灯りに透かして眺めながら、ゆったりと、まるでひとごとのようにつぶやきました。
 珠螺木の中は、まるでアンリ・ルソーの描くジャングルのようでした。この室内、いったいどれほどの奥行きがあるのか、皆目見当がつかないほど、フロアの壁も床も天井も、空間の全域を埋め尽くす勢いで、シダやソテツ、見たこともないような熱帯樹で覆われ、天井や壁面のあちこちに、日光を補う人工照明が葉隠れにぼんやりと、昼も夜も灯っているのでした。木々の幹はその照明のせいで、目に快い穏やかな橙色に輝き、パイナップルの実を包む皮のような鱗状の樹皮を持つ、いちばんふとい〈バンブー〉だか〈バオバブ〉だかの幹には、大人の腕ほどもある太さの純白の蛇が巻き付いていました。その白蛇はホンモノではなくて、精巧なフィギュアでした。フィギュアとはいえ、白蛇は人肌の温度と湿度に反応して、とても複雑にうごめきました。これは、ガーネットのファン(もしかしたら恋人のひとり)の、某外国工科大学の教授が、彼女に贈ったものでした。
 珠螺木には、この密生する植物の合間に、来客用の丸テーブルが六つほどあり、椅子と机はどれも紫檀の中国製で、二人掛けでした。
テーブルには全部真紅のクロスがかけられ、周囲の濃い緑陰とのコントラストで、目にしみるほど鮮やかな、樹海に浮かぶ赤い星座のようでした。じっさい、ガーネットは、このテーブルの配置を、中心に一つ星を置いたアスタリスク型にしていたのです。
「相変わらずきれいだねえ、ガーネット」
 とタイジを自分の車で送ってきたついでに、いっしょにあがりこんだジンさんは、沈黙の緊張に耐えられず、脇からずけずけした口調で言いました。
 ふ、とガーネットは唇のはしっこだけで笑ってこくびをかしげ、耳たぶの少し下まで伸ばして先端をきれいな直線にそろえたおかっぱに近い黒髪を、長い人差し指の爪にからめながら、両目を猫のように細めました。
「相変わらず、は余計」
「あーシツレイ。いつまでもきれいだねえ」
「いつまでも、も余計よ。あたりまえのことを言わないで」
「きれい、はいいの?」
「それは百万回でもいいわ」
 ガーネットは澄まして答え、ジンさんは薄汗のにじんだ太い首筋を短い指でぼりぼりと掻きながら、彼女の気を惹く台詞をさがしましたが、ガーネットと珠螺木の雰囲気に圧倒されて、即座にはなんにも出ませんでした。
 タイジとジンさんが到着したとき、もう店をしまう準備をしていたガーネットは、夜の衣装を纏っていました。一般のお客(?)向けの喫茶店珠螺木の営業時間は、午後二時から夜の八時まで。そのあとガーネットは昼間とは別な装束をまとって、夜の商売を始めるのです。夜の商売といってもいかがわしいものではなくって、完全予約の宝石占いでした。
 ガーネットの容姿は、生身の人間離れした人形めいた印象で、そんな雰囲気がちょっと紫羅に似ていましたが、背は高くなく、どちらかといえばむしろ小柄で、直射日光を避けた昼夜逆転の「吸血鬼暮らし」を自称するだけに、全身の肌は透き通るように白く、輪郭の柔らかい顔に、目尻はきつい印象ではない程度に吊りあがり、オリエンタルな顔幅のわりに、ほっそりした鼻筋と、鼻翼とちょうど同じ横幅の、小さな受け口をしていて、この顔だけ見ていると市松人形か、陶で出来た博多人形が生きて動き出したような感じでした。
輪郭の整った顔には皺ひとつ、しみひとつなく、陰影のコントラストを抑えた珠螺木の照明のなかで、ガーネットは三十そこそこにしか見えないのですが、彼女はあっけらかんと自分の年齢を隠さず、じつは今年六十二歳になるのでした。
彼女の年齢を聞いた人が驚くのはアタリマエで、次の瞬間、まず例外なく美容整形を疑うのですが、彼女の衰えない美貌に、いっさい顔面工事の人手はかかっていません、というのが本人の弁でした。
「んじゃあ……、きれいだねえ。ゴホン。ガーネットさん。その秘訣なんだい」
 もたもたとジンさんが、おもしろくもないことをおもしろくなさそうな口調で、それでも必死で彼女の機嫌をとるような上目づかいで、台詞の合間に咳まではさみながら言葉をかき集めたので、ガーネットは、
「自分自身を、純粋な宝石の一種だと信じることよ」
 とジンさんにウインクしました。すると彼女の付け睫毛が照明の加減で、蝶々の燐粉のような、てらっとした七色に光りました。
 珠螺木では、数種類のお茶しかお客様に出しません。それもジャスミンとか薔薇とか、紅茶とか、そこらのお店で、普通に注文できるお茶ではなくて、彼女が自分で茶葉を選び、ブレンドした特別なお茶でした。それに小さな焼き菓子が付きます。茶器はマイセンのブルーと白だけ。室内のエキゾチックな熱帯樹林や、奇妙な風味の金いろや紅色の匂いの強い飲み物、中国趣味の調度と、優雅で冷たい青のマイセンは、なんともミスマッチなのですが、その不調和がまた、おもしろい刺激でもありました。お菓子もたった一種類、蜂蜜とバターで焼いた貝殻型のマドレーヌです。
「どうしてふたりともそんなに悠長なんですか。ガーネットさん、心配じゃないの?」
 タイジはいらいらして自分のジーパンの膝を握りこぶしで叩きながら、催促しました。
「心配したから、シーラに頼んだのよ。でも、あのひとがひきずられて飛ぶなんて、よっぽどのことだわ。どこに飛んだかあたしにわかるはずない。話に聞けば、メグがフェアリーのママを、あなたの眼の前で、難なくこの世にひっぱりだしたそうね、結界も結ばず、いっさいガードもなしで、日常のなかに他界から精霊を呼び出して、裂け目の衝撃や違和を作らない、というのは大変なことなのよ? そんな話、そんなことが出来る霊能者なんて、あたし知らないわ。激レアロリータね」
「ちゃかさないでくれ」
「ちゃかしてません。どうしたらいいか、考えているの。あたしにできるのは、宝石たちに、彼女たちの行方の方向を尋ねることくらいかしら。うまくいけば、シーラか、メグとコンタクトできるかもしれない」
 タイジは返す言葉に詰まりました。というのも、ガーネットの霊感を知ってはいたものの、彼女のなりわいである宝石占いについては、半信半疑だったからです。
(どうかなー)
 というタイジの内心の疑念は、本人は抑えたつもりが、そのまま無邪気に童顔を曇らせたので、ガーネットは思わず笑ってしまいました。
「いい性格ね」
「みんなそう言いますよ。でも、やだね、いいひとって」
「なぜ?」
「人畜無害って、男としちゃ情けない」
「得もするわ」
「どんな?」
「シーラやあたしみたいな女が、警戒しないこと」
「……さらにガッカリしました」
 ガーネットは知らん顔をして、チャイナドレスの胸元からハローキティの顔型の手鏡を取り出すと、付け睫毛の具合を直し、
「ちょうどよかった。豹河がいるから、あの子にも助けてもらおうっと」
「えっ、ヒョウガ、戻ってるの?」
 ジンさんは頓狂な声をあげました。
「ぼく帰ろうかな」
 豹河、と聞いたとたん、そろーっとジンさんは椅子からたちあがりました。
「なんだよ、ジンさん。うしろめたそうに」
「ヒョウガに会いたくないの?」
「そういうわけじゃないけど」
 と言いつつ、ジンさんもまた正直に顔にバツ印を浮かべているのでした。
 ガーネットはジンさんの顔色などおかまいなしに、フロア真ん中に葉蔭を茂らすどっしりと太くゆたかなバオバブの後ろ側に、すい、と姿を消してしまいました。
「ぼくも同席していいですね」
 タイジも立ち上がり、ガーネットを追いかけて、バオバブの木の後ろ側に口を開けた地下への螺旋階段を駆け下りました。ジュラキのフロアから地下のスタジオまで直通の螺旋階段は、マンションエントランス内のエレベーターとは別に、ぐるりと二回転半ねじれて、地下スタジオの更衣室につながっています。ガーネットの内輪のパフォーマンスのときなど、ここが楽屋への入り口になるのでした。
 取り残されたジンさんは、ぼりぼりと首筋や頭を指で掻き、しばらく迷ってから、やっぱりタイジの後についてゆくことにしました。
(妖精だの霊魂だの、あんまりわかんないけどさー。ガーちゃんのダンスは見たいよな)
 おおむね野次馬根性のみのジンさんには、つまるところ、トランスもダンスも同じことなのでした。

 しゃらん、としゃがみこむたび、ガーネットの腕輪が鳴って、彼女は照明を極限まで落とし、ようやく足元が仄見えるくらいに暗く、静まり返った地下スタジオの床のあちらこちらに、ひとつかみずつ宝石を置いてゆきました。
地下スタジオは、真上のジュラキとそっくり同じスペースで、ふたつの空間は、二段かさねの重箱のようになっているのです。そうして、ジュラキの丸テーブルを配した位置は、スタジオの床に銀線でほのじろく描かれたアスタリスクをそのまま上に移したものでした。星型の中心にある少し大きめのテーブルだけ、横ひろがりの楕円をしているのは、一般の宝石占いなら、そこで石をひろげるためです。ガーネットは、占いをするためのジュラキのテーブルを〈鏡〉あるいは〈場〉と呼び、自分専用にしていました。大きな〈鏡〉を動かす地下のスタジオでは、アスタリスクの中央がガーネットの〈踊り場〉になります。
 今、ガーネットが皮袋から無造作につかみ出し、アスタリスクの角のそれぞれに置いている宝石たちは、全部本物でした。
 日常生活の中でさえ、宝石や貴石、鉱物の名前は、どれも不可思議で、魅惑的ではありませんか?
 緑あかるく青みの澄んだパライバトルマリン。え? 闘うマリン? バトルマリン、ではなくてパライバ・トルマリン。ふつうのトルマリンより銅の成分を多く含み、それゆえにみずみずしい透明感を持つ、と。重たい金属の成分が多いのに、なぜ石の透明度が増すのでしょう? 対照的にあでやかなピンキッシュオレンジのパパラチャサファイヤ。サファイヤは青だけではなく、スリランカの言葉で「蓮の花」を意味するパパラチャをいただいたのがこのピンクの石。アフリカの宵を思わせる群青のタンザナイト、したたる雨の雫のような、淡い水色のブルーカルセドニー。水底深い湖いろのアクアマリン。炎のすがたのファイヤーオパール。ひとつ石のなかに緑とピンクのふたつの色相を備えるウォーターメロン。二色混じりあう玉虫いろならアレキサンドライト、カトマンズの僧衣のようなトパーズの黄、桜いろに淡いモルガナイト、前世の縁をしのばせる紫水晶、アメジスト。さわやかな若草いろにペリドット、形容詞のいらないひたくれなゐのルビー、それからエメラルド、ラピスラズリ、トルコ珠、翡翠、ロードクロサイトは砂漠に咲いた薔薇の石、と零れる石の彩りも種類も語り尽くせず……。
 スタジオフロアは照明を落とすと、蛍光塗料のアスタリスクがくっきりと浮き上がり、床のころがし照明を頼りに歩むガーネットの、先細りのなめらかな手から、大粒の宝石たちは、七色の星屑を積むように床に注がれ、寄り合った石と石とのほんの少しの隙間から、さらに複雑に屈折した光線が妖しく揺れてガーネットの白い皮膚に照り返すのでした。
 ガーネットは、こまかくあみ上げた黄金の網にラピスラズリとルビーをびっしりと埋めこんだ首筋まで長く垂れる繊細なヘッドドレスをかぶり、頬やうなじに揺れる、そのキャップの房の先端には、小さな金銀の鈴がついていました。両手、両足には何十本もの細い金の腕輪。ヴェールのように全身にまとっているのはギリシアふうの真紅のうすもので、闇のなかで彼女が何かの所作をするたび、半透明な薄物のかるい裾や袖がゆらゆらとひるがえり、腕輪がしゃらしゃらと揺れ、ヘッドドレスの鈴も、夜空に低い星のつぶやきのように鳴り続けるのでした。
 豹河…、とガーネットはアスタリスクの中央にたつと、ささやき声で少年を呼び出しました。ぼうっと浮かぶ星型の〈座〉の一隅に、足音をたてずどこからともなくタイツ姿の豹河は歩み寄り、ガーネットの斜め後ろにたちどまり、黄金のフルートを構えると、いきなり旋律を吹き始めました。
 ガーネットは爪先立ちで外輪に踊るバレエの足取りとは逆に、地唄舞のような内股に腰低く、膝をかがめ、べたりと床に土踏まずを付けたように見えるすり足でそろそろと歩み、五つ星の角のひとつひとつに宝石の小山を作ってしまうと、蛍光塗料を塗ったアスタリスクの輪郭にそって、まだ皮袋にずっしりと残った石を、ポツポツと並べてゆきました。その所作は、ヒョウガの吹き鳴らす得体のしれない旋律に添っているようでもあり、また無関係のようでもありました。
じっと見ていると、星型ラインをなぞってゆくガーネットの動きは、星の輪の中心に向かって石を並べてゆくにつれ、しだいに早く、ものぐるおしいくらいに小刻みな指や手の速度を伴って、次から次へ、きらきらと撒かれてゆきました。
「アクマが来たりて笛を吹く」
 ジンさんは、タイジの耳たぶをつまんで、ささやきました。タイジはいやな顔をし、
「言うと思った。ガーネットさんに聞こえたら蹴飛ばされるよ」
「もう何度も蹴られてる」
「ふられてんでしょ」
「おおあたりのリラックマ」
「今度なにか喋ったら、俺ジンさんと縁切るから」
 と言い終えるよりはやく、タイジは無遠慮にジンさんのアタマを腕で抱え込み、ぶあつい片手の掌で、ろくでもないジンさんの口をふさぎました。それでもタイジは、ちゃんとジンさんが窒息しないように、口をふさいだ指と指の間にすきまをつくり、さらに鼻の穴をふさがないように配慮しました。
最後のダメ押しで、タイジはジンさんの耳に口を寄せてささやきました。
「お願いだからヨダレたらさないでね」

 ここからさきは独りで行きな、と誰かが言い、背中を押されていつのまにか真っ暗なほそ道をメグは歩いていました。それまで誰かといっしょだったのかどうなのか、夜道を明かりもなしに歩く心細さはたとえようもなく、ふりかえっても誰も、何も見えない暗闇、郊外の住宅地らしい周囲はどこか見慣れた風景ですが、メグの前方、行く手にだけ、長い間隔を置いてポツポツと灯る電信柱のおぼろな光は、かえって周囲の闇の深さを際立てるようでした。
 深夜なのか、あたりの人家には窓明かりもなく、メグは泣き出したいのをがまんして、ゆるい下り坂を一心不乱に歩きました。地面はちゃんと舗装されたアスファルトで、足元がよく見えなくても転ばないのが幸いです。
(どうしてこんなところに来ちゃったの?)
 考えてもわからず、とにかく灯りの点いているほうへと歩きました。どのくらい進んだのか、いつしかほそ道は終わり、眼の前に大きな灰色の四角い建物が見えます。
(学校だ!)
 メグの通う小学校の校舎に似た白っぽい壁と、たくさんの窓が見え、ストイックな四角い建築物の電灯のついていない窓は、周囲の壁の白さのせいで、夜より深い闇を蓄えて、仕切られた窓枠の内部にくろぐろと口を開けているのでした。
 そっちに行っちゃダメだよ。と耳の奥でまた声が聞こえた気もするのですが、校門の前で一瞬ためらったメグは、校舎の二階か三階の隅のひとつの教室に、ほのあかるい光線を
見つけ出し、しぜんと足はそちらへ向かいました。校門をくぐるや否や、なにか甘ったるい芳香が漂い始め、それは梅雨のさなかに咲く梔子の匂いに似ていました。
(音楽の授業?)
 梔子の匂いにメグが気づくと同時に、うっすらと灯りらしきものの見える教室から、歌声が聞こえました。合唱です。
  
ひらいた ひらいた
  何の花がひらいた
  蓮華の花がひらいた
  ひらいたと思ったら
  いつのまにか しぼんだ……

 こどもたちのユニゾンは、メグの聴きなれた授業の歌声でした。たくさんの声。メグはすこし元気が出て、校庭を横切り、その合唱の聞こえる窓のほうへ近づいてゆきました。声が近くなるほど、あたりに漂うクチナシの香りは濃く深くなってゆくようでした。
 ダメだよ、戻って……
 ささやきか、ため息に近い制止の声も、合唱とは別にメグには聞こえたのですが、メグは独りの不安と行く先知れずの闇の怖さに耐えられず、合唱のほうへと進んでゆきました。
 音楽室らしい窓のなかは、傍に行って見上げても、あまり明るくありませんでした。電気が点いているようでもなく、ただぼんやりと、そこだけ闇の分量が少なくなっている、という感じで、周囲から浮き上がっているのです。繰り返し同じ歌が歌われている合唱教室の真下に行ってみましたが、そこへたどりつくために、このひろい校舎の入り口が、建物のどこにあるか見当つかず、メグは途方にくれました。
 突然またふいに、メグは宙に浮いていました。教室を下から見上げていたはずなのに、メグはいつのまにか、その教室の窓と同じ高さ、室内がある程度覗ける位置に立っています。浮き上がり、あるいは羽ばたいているという感じではなく、立ち止まっていた校庭が、その部分だけ急激に盛りあがり、メグはその地面に押し上げられる感覚で、少し離れた丘陵から校舎を覗いているのでした。

  ひらいたひらいた
  何の花がひらいた
(行っちゃだめだよ)
  蓮華の花がひらいた
(こんなさびしいところへ閉じ込めないで)

 メグは呼吸がとまりそうになりました。音楽教室のなかは、電気など点いてはいませんでした。それなのに、外からその窓だけほの白く見えたのは、窓のなかで、たくさんのこどもたちの足が、ぐるぐる回り続けていたからなのです。足だけが。足たちだけが。
 しかも、その足は空間のなかで逆さになっていました。上下逆転したこどもたちの下半身だけが、メグの眼に映ったのです。上半身は、窓から下の壁に隠れて見えないのか、それとも腰から下しかないのか、男の子や、女の子、ショートパンツやスカートから、にゅっと伸びたこどもの足たちが、輪になって闇の中に逆転し、歌声といっしょにぐるぐると回っているのでした。窓が白っぽくあかるんで見えたのは、その回転し続けるこどもたちの足の青白さのせいでした。決して灯りがついているわけではなかったのです。
 メグは喉までこみ上げた悲鳴を押しころし、来た道をひきかえそうとしました。

  ひらいたと思ったら
  いつのまにかしーぼーんだっ

 いきなりぐいっとつかまれた二の腕の感覚に、そこにある空間を振り仰ぎましたが、誰もいません。すごい力でひっぱられる、イヤだ、とメグは髪の毛を逆立てました。離してよ。べちゃっとした冷や汗の感覚がつかまれた二の腕に流れ、メグは必死でもがきました。
(来てよ)
「やだ」
(逃がさないよ)
「ヤダ」
 メグは見えない相手に向かって逆らい、手足をつっぱりました。懸命に反抗しながら、相手の腕力に負けて、ぬかるみに踏み込んだときの身動きのとれなさで、ずるっとかかとからすべってゆきました。
 暗黒から伸びる無数の透明な触手は、ざわざわする感触で、メグの足や腕をからめとり、校舎のほうへとひきずってゆこうとしました。
 さっきまではメグが見上げていたはずの四角い灰色の建物は、いつのまにかすり鉢の底のような大地のくぼみの中にあって、ざらざらと土を崩しながら、メグを引き寄せる間にも、重い地鳴りとともに、徐々にめりこみ、そのまま地面の中に沈んでゆく気配でした。
「跳ねればいいの。憑依をふりほどいて、自分は飛べる、と念じてごらんなさい」
 べったりとした夢魔の触覚とは違う、落ち着いた声が頭のなかで聞こえます。それは終わりのない呪文となって、白い足たちといっしょに鼓膜のはざまで踊り続けるノイズとは違う、強い意志を持ち、まっすぐな杖のように、おびえるメグの眉間を打ちました。
「シーラさん? どこにいるの」
「すぐそばに、近くにいる」
「助けて」
「近づけない。メグ、あなた自身の力のせいで、わたしはその悪夢の中に入ってゆけないの。自縛を解けるのは、そのひと自身だけ」
 姿の見えないシーラの声だけは、はっきり聞こえます。メグには何がなんだかわかりません。ずるずると砂に埋もれてゆく四面体建築の窓という窓から、赤黒い粘液が滲むようにあふれて流れ出し、細かく泡立ちながら、ねっとりした血の池がこの夢の真ん中に出来つつありました。
(あれはぼくが流した血なんだ)
 鼓膜で回る合唱のはざまに、あどけないつぶやきが混じってきます。耳と、頭のなかで、いくつもの声があちらこちらから同時に聞こえ、がんがん響き、我慢できないほどうるさい、やかましい、だから耳をふさぎたいのに、手が重くて持ち上がらないのでした。

  なんの花がひらいた?

(ぼくの血はどこに行った?)
「知らない。あなたなんか知らない。離してよ」
(ぼく君を知ってる)
「反応してはだめ。飛びなさい、メグ」
 があん、と殴られるような轟音。どろどろと沈んでゆく校舎。暗い澱んだ水に浮かぶ、こどもたちのちぎれた手、足、鼻をつく異臭。クチナシの甘ったるい匂いはいつしか腐臭に変わり、メグはもう足首まで血にひたされています。
「シーラ、どうやって飛ぶの?」
 手をさしのべたいのに、からめとられて持ち上がらない口惜しさ。ジバクって何? この池の水は、すごく重い。すごく冷たい。
 血と砂の湖の中心に沈んだ校舎はもう見えません。ばらばらになってその水面に浮かんでいるのは、さっきまで歌っていたこどもたちの逆転して回っていた足でしょうか。手と足だけ浮かんでいて、頭も胴体もありません。
 ぶくぶく、とまたあたらしい泡が立って、濁った血の底からなにかが昇ってきました。メグはもう腰まで、じきに胸までひきこまれかけ、恐怖にすくんだ極致の投げやりな感情が、心をちらっとよぎりました。このままひっぱられてしまえば、何もかもわからなくなって、こんな怖さも感じなくなる? そのほうが楽だよ、きっと。
 血の池地獄の底から、水面にぽかっと浮かび上がったのは、ちいさな男の子でした。
 蛹のように青白い、かなしげに痩せた、六歳くらいの男の子。
彼はふわふわした綿から抜け出すようにすぽんと水面にとびあがり、はだしのままかるがると、地面をごく普通に踏む感じで水上を歩いてメグに近寄ってきました。濁った池から飛び出したのに、全然血まみれではなく、まるでこわれやすいガラスか蝋細工のように髪も手足もまっしろで、寸法の合わないだぶだぶのパジャマを着ていました。
男の子は首まで血の池にはまってしまったメグの前まで来ると、ちょこんとしゃがみこみ、
「すごい血だね」
 と、無感動に言いました。
「あなたの血でしょ」
 ううん、と男の子は首を振りました。
「ぼくだけの血じゃない」
「ぼくが流した、って聞こえた」
「ぼくは、ぼくひとりじゃないから」
「わけわかんないこと言わないでよ。あたし動けない、あたしをつかんでいるのはあなたなんでしょ」
「そう」
「あたし死んじゃう」
「死なないよ。遊ぶだけだ」
「苦しいのイヤ」
「もぐってしまえば苦しくないよ。みんなけっこう楽しくやってる」
「うそつき」
 メグはじりじりして言い返しました。
「だってそう言うあなたが、ちっとも楽しそうに見えないもん」
 ぎりっ、と男の子は、その瞬間奥歯を噛みしめるような苦い表情をしました。
「助かりたい?」
「もちろん」
「じゃ、おいで」
 男の子はにやっと笑って、パジャマの袖から痩せた手首をのばし、メグのほうへ差し出しました。
「手が動かせない」
「こうしようか」
 男の子はひややかに笑い、メグの髪を無造作にわしづかみにしました。つかまれ、ねじあげられたのは髪だけなのに、メグはその瞬間、ぞっとするような冷気が頭のてっぺんからつまさきまで走り抜けるのを感じ、かぶりを振って拒否しました。
「触らないで」
「じゃ、行っちゃえ」
 男の子はつかんだ髪を離さず、そのくせ乱暴に、素足の裏でメグの頭を蹴りました。
「この……」
 と言いかけてメグはうまい言葉がみつからず、まじまじと眼をみひらいて、痩せこけたこどもを睨みつけました。
「こんなことされる理由ない、あなたなんか知らない」
 メグは怒鳴り、そのとき、とても自然にこんな言葉が口をついて出たのでした。
「あたし、いつだって飛べるのよ!」 
 メグは自分の両手で、この血の池全部を持ち上げられるような気がしました。まったく力がはいらなかった腕に、なにか熱い、煮えたぎるようなものが逆流し、まわりだし、メグはもういちど叫びました。
「あたし、いつだって飛べるもん」
 叫び声と同時に、重い血の水がばしゃっと割れて、メグは宙に飛び上がりました。男の子はそれでもメグの髪をつかんで離さず、いっきに湖のほとりに飛びすさったメグといっしょに、大地にころがりました。
 いたい……、と男の子は両膝を抱えてうずくまりました。周囲の風景は、いつのまにかまた変わっていて、メグのたどった住宅街の夜道はあとかたもなく、そこは、光と影の区別がつかないしらじらとした草原でした。
草原といっても、草の緑も花のいろもなく、明るいとも暗いともつかない、ただ草の葉の輪郭だけが、空気の流れに沿って動いている墨絵のような無彩色の景色でした。その灰色の世界の真ん中に、さっきの暗闇よりずっと鮮やかに、紅色の湖はやっぱり存在していましたが、おどろおどろしい無惨なこどもの手と足はもう浮かんではいず、風のそよぎのままに、水面にはこまかな波紋がいくつもいくつも生まれて、その波紋どうしがぶつかりあい、またちがった模様を描き、こちらの岸辺からあちらへと移ってゆく風の流れを、ゆっくりとなぞっているのでした。空も大地も灰色の世界で、この湖いっぱいの透明な紅が、唯一の、とほうもなく大きな彩りでした。
男の子は、蒼ざめた泣き顔でメグを見上げました。
「助けて」
 あんな失礼なことしたくせに、何て弱虫な台詞、とメグは思いましたが、口には出さず、だまって男の子の近くに座りました。腹も立ったし、怖かったのですが、べそをかいているこの子があんまり幼くて弱々しいので、蹴り返す気も失せてしまいました。
「君を呼んでいる声が、いくつも聞こえる」
 男の子はメグがいやがらずに自分の傍に座ってくれたのが嬉しい様子で、すこし表情をなごませ、遠くを眺める眼つきで、灰色の空へ顔を向けました。
 え? とメグは耳を澄ませました。そういえば、さっきシーラさんの声が聞こえていたっけ。ママはどうしちゃったんだろう。タイジさんは? いくつもの?がいっぺんに戻ってきました。声? どこに?
「ほら、聞こえない?」
「風の音だけ」
「風じゃないよ」
 男の子は片手を耳に添え、目をつぶりました。メグもそれを真似て耳に意識を集中させると、さわさわという草をなぶる風音にまじってひっそりした笛の音がかすかに聞こえはじめました。
「笛?」
 それから、しゃらん、しゃらん、という涼しく触れ合う腕輪の音。音色といっしょに紅色の湖の面がゆらめいて波立ち、踊り子の白いしなやかな腕と足がうっすらと浅瀬に透かし見えました。この湖は、男の子の歪んだ情念の凝り固まった悪夢の結ぶ血の池地獄とは、もうすっかり位相を変えていて、怒りに任せてメグが飛び出した瞬間に、悪夢とは違う次元に移っているのでした。
 あでやかな湖面の、大きな紅色の鏡にうつる、とても綺麗な女のひと。スローモーションのように、そのヴィジョンは湖面を動いてすぐに消え、笛の響きだけ、風の流れといっしょにいつまでも聞こえます。
「帰らないで、いっしょに遊ぼうよ」
 男の子は哀願するようにメグを見つめました。
「こんなところにいたくない」
 メグはきっぱり撥ねつけました。
「あたし、ママとシーラさんと、それに、もしかしたら峰元さんとここに来たんだと思う。みんなどこに行ったの?」
「湖の底」
「うそ」
「うそじゃないよ」
「だってここは血の池だったじゃない」
「今は違ってる。とても澄んで、向こう側まで透きとおって見える水晶の壁だ。君がぼくをここまで連れてきたんだ。女のひとがいただろ? この湖は、君の心の鏡になって、君のほうから彼女を見てるんだよ」
 メグは眼を凝らしてもういちど水面を凝視しました。すると、深い湖の中心に、ひとすじの明るい筋が湧き水のように立って、緋色のうすものをまとい、ゆったりと袖ひるがえし舞うガーネットが映って見えました。
「知らない、このひと」
「君を呼んでる。ほら、たくさんの鳥が生まれて、君を連れていくよ」
 亀裂の向こうで踊る女の人のうすものの袖や長い裾から、たくさんの小鳥がさえずりながら、メグの立っている灰色の草原へ飛んできました。小鳥たちは赤や青や黄色、黄緑、翡翠いろ、色とりどりの羽をして、メグと男の子の頭上でぐるぐると回っています。あんまりたくさんの小鳥が群れをなして向こう側からいっせいに飛んできたので、あちら側からこちらへと切れ目なくつながっている虹の橋か、雲の筋のように見えました。人なつこい何羽かは、メグの肩や腕にとまり、メグの髪や服をくちばしでつまんでひっぱるしぐさをするのでした。
「あの小鳥は、一羽一羽が、声であり魂なんだ。他の誰のものでもない、君を現世にひきもどそうとする、君自身の心の声、心の力なんだよ。踊りのひとは、それを知っていて、鳥たちを呼び出している。君は行っちゃうんだ。ぼくを残して」
「それじゃ、あなたもあたしといっしょに来ればいいじゃない」
「ぼく行けない」
「どうして」
「まだ生きている体がこっちにあるから」
「?」
 メグ、と虚空から呼ばれて降りあおぐと、きらきら光る湖の裂けめから、まっすぐ空に飛びたった小鳥の渦は、やがてひとつにまとまって、はっきりした太い柱になり、その芯に、今度はシーラが見え始めました。虹の光りのしぶきのように、小鳥の羽が湖面に舞って、シーラは羽根吹雪あいだから腕を伸ばすと有無を言わさずメグをひき寄せました。
「暴れないで、こっちに来て」
「あたし、暴れてない」
「行かないで」
 と男の子はまた顔色を険しくしてメグのもう片方の手をつかみました。
「やっぱりイヤだ。ぼく君を連れて帰る」
「坊や、メグを離して」
 灰色の空間のどこかが割れて、ふわりと安美さんが現われました。
「あっ、ママだ。ママどこにいたの?」
「なにも見えない中有で迷っていたけれど、笛の音にひかれてここまで来たのよ。坊や、メグのかわりにあたしがあなたといっしょに行く。だからその子を自由にして」
「お母さん?」
 男の子は安美さんを見上げ、はにかんだような、どうしたらよいかわからない、というふうな、ちょっと困った顔つきをしました。安美さんは、男の子が迷っている隙に彼を抱き上げ、メグから注意を逸らし、男の子をあやすように撫でながら、
「メグ、呼んでいるシーラさんが見えるでしょう。このあなたの心の鏡、次元の裂けめを通って、向こう側に帰りなさい」
「ママは?」
「あたしはこの子といっしょにいる」
 急いで、と安美さんはメグを促しました。
「ママ、でもどうやって帰るの?」
 メグは安美さんから離れられません。
「それに、ここはどこ? さっきまで、あたし真っ暗闇の学校みたいなところにいたの。学校はどろどろした血の底なし沼みたいになって、沈んでっちゃった。あたし溺れかけたんだけど……」
「全部わかってるわ」
 安美さんは、気もそぞろにメグの説明を途中で遮りました。男の子の気持ちが自分に逸れている間に、メグを違う時空に飛ばしたいのでした。安美さんは、男の子を抱き上げた瞬間、ずしっと腕にこたえる見かけによらない彼の重さに驚いたのです。
(まだ幼いのに、こんなにすごい怨念の質量を溜め込んでいるこの男の子は何? でもそんなことを探っているヒマないわ)
 安美さんは華奢な肩がぬけそうになるほど重い男の子を抱いたまま、けんめいに素知らぬ顔をつくり、
「さっきまでのどんよりしたおぞましい世界は、この子の内面に澱んだ冥界のもの。あなたは自力でそこから飛び出し、今眺めている湖は、メグ、あなたの心の万華鏡なのよ。この水面が今紅いろに透けているのは、あちらの世界で、あなたとコンタクトしようとしているガーネットさんという女性のかもし出す彩りです」
「ガーネットさんて?」
「ママにもよくわからない。説明している時間がもったいないわ。ガーネットさんは、こちら側に自分の声とイメージを送り出し、道筋をほのめかしてくれる。でも、あなたやシーラを呼び戻すほど力はないようなの。だから、メグ、今水面にたちのぼっている虹の柱のなかに、シーラが見えるでしょう。シーラに意識を向けてごらんなさい」
 メグは自分の周囲に群がる小鳥たちのはばたきに包まれながら、湖のまん中をもういちどじっと見つめ、呼んでみました。
「シーラさあん」
 あでやかな紅の水面から、ゆらゆらと裳裾をひるかえして踊るガーネットの姿はかき消えて、それと同時に湖は紅から緋色へ、次には、柔らかい金いろを波の縁に散らした、目も覚めるような青紫に彩りを移してゆきました。メグと安美さんがたたずむ岸辺に近い浅瀬では、水の深みの青紫はしめやかなラヴェンダーに明るさを増し、ひそひそとした風の流れも、ガーネットのイメージとはまた違った音色を加えたようでした。
「ほんとのサファイヤ・ブルーね」
 安美さんは青紫の水の縁に反映する、金波銀波の打ち寄せる湖上を透かし見て、
「メグ、あなたの心に映っているシーラのヴィジョンがこうなのよ。あたし、あなたが赤ちゃんのころ、あなたをとおして、いろんなひとのオーラの彩りを眺めたものだわ」
 としみじみ昔をなつかしむようにつぶやきました。
「ああ、もう腕が抜けそう。シーラさん、メグをお願い」
 安美さんは腕に男の子をしっかり抱きしめたまま、メグの眼の前で、岸辺から湖の真ん中にむかって思い切りジャンプしました。
「あっ、ママ、どこに行くの?」
「あたし、妖精だから飛べるのよ。メグもいっしょに来て」
 安美さんと男の子を取り巻いて、小鳥たちも何羽か飛んでゆきました。けれども、小鳥たちがさえずりながら往復し続けている次元の裂けめにたちのぼる虹の柱の手前で、安美さんはゆっくりと水に落ち、男の子といっしょに湖の底へ沈んでゆきました。小鳥だけが、波紋と水の泡の静かに浮かぶうつくしい紫の水面に哀しげにさえずり、あわてたメグは我を忘れて、
「待って、あたしも行く」
 と力いっぱい地面を蹴りました。自分でも想像もつかないくらい、両足はかるがると重力を離れて空へ飛び上がり、メグはひたすら
安美さんの沈んだあたりめがけて身を躍らせたはずなのに、岸辺を離れたとたん、周囲に群がる数知れぬ鳥たちはどよめいて、いっせいにメグをとりまき、包みこみ、湖へ落ちるどころか、小鳥たちの翼という翼にとりまかれ、まるで繭にくるまって運ばれる蛹のように、メグは、こことは違うパラレルへ、再び渡ってゆきました。
 
 着地すると、小鳥たちはいったん翼を閉じて、目を閉じて横たわったメグの周囲にむらがり、きらきらひかる波紋のような七色の円陣を描いて、静まりました。
 半分眠っているような、意識のはっきりしないまなざしで、メグはぼんやりと上天を眺めました。
 サファイヤ・ブルーの湖はどこに行ってしまったんだろう? 視界をふさぐ小鳥たちのはばたきにつつまれて、来た道も着いた場所もわからず、メグは上下左右の感覚もうしない、今目に映っている深い紺青一面の上空を、しばらくは、男の子を抱えて安美さんの沈んでいった湖の深みかと思いました。見下ろしているのか、見上げているのか、どっちなんだろう? 自分をとりまいて、羽づくろいをしながら、気持ち良さそうにさえずり交わし、ちかちかときらめいている色とりどりの小鳥の群れが、どこからきてどこへゆくのか、メグにはわかりっこないのでした。
 メグ……。
 頭上から呼ばれて、そちらのほうに視線を向けると、メグの斜め上方の虚空に、逆立ちしたシーラがいました。シーラは片手をあげ、にこっと微笑みました。
「シーラさん。やっと会えた。なぜ逆さになっているの?」
「空間がねじれて、閉ざされているだけ。逆立ちしているのではないのよ。ここはまっすぐな時間軸などないから、空間もどうどうめぐり。始めも終わりもない」
 言いながらシーラは逆転したまま、手を振り、すたすたと難なく歩き、虚空をぐるりと半回転し、メグの傍に近づいてきました。シーラが歩み寄ると、メグの周りの鳥たちは、いっせいに羽根をひろげ、ばたばたと舞い上がり、ふたりから離れて〈夜空〉へと昇ってゆきました。
「あ、飛んでいっちゃう」
 メグはおきあがり、たくさんの小鳥の群れが、ひとすじのふぞろいな帯となって昇り去ってゆくのに、がっかりした声をあげました。
 打ち上げ花火がしゅるしゅると空に昇るように、それまで何もなかった藍いろ一色の闇を、小鳥たちの群れなす光りの帯はまっすぐにつっきり、一羽一羽のかたちが、まるでわからなくなる高みへたどりつくと、光る粒のかたまりはゆるやかにひろがり、ほぐれて、そのままきらめく星の座となって、メグとシーラの見上げる半球を形作りました。
「眼が覚めた?」
 シーラはまた、微笑みました。シーラさんがこんなにやさしく見えたことはないなあ、とメグは感じました。シーラさんはきれいだけれど、なんだか冷たくって怖いひと、と思っていたのでした。でも、今傍にいるシーラは、相変わらず美しいけれど、以前と印象が違っていました。
「鳥たちはどこへ行っちゃったの?」
「どこにも行ってない。あなたの意識がはっきりしたので、空間のねじれからこぼれたあなたのエネルギーの雫たちは、あなた自身にとって、わかりやすい状態で、あなたの認識にインプットされたの」
「えー?」
「ええとね、どう説明したらいいかな。例えば物理的なショックを受けると……ぶたれたりころんだりすると、眼の前がまっくらになり、ときには貧血を起こしたりもする。そんなとき肉眼にうつるものは歪んで、意識から消し飛んでしまう。ばらばらになってしまうわね?」
「見えなくなる」
「そう。心象のエネルギーもそれとおんなじで、衝撃や圧力で揺さぶられると、健常な姿かたちを失って、ちりぢりに砕けてしまう。でも、砕けてしまったとしても、そのひとつぶひとつぶは、当人の心象エネルギーであることに変わりないから、毀れた万華鏡の破片のように、散開はするけれど、やがて意識が一定のリズムで元通りに流れ出せば、イメージやヴィジョンは、またきれいなかたちを結ぶのよ」
「ちゃんと見えるようになるってこと?」
「そのとおり。あなたの理解のほうが、あたしの説明よりわかりやすいわね」
 と、シーラは苦笑しました。
「だから、あの小鳥たちはメグの心からこぼれでたかけらなんだけれど、あなたが憑依状態から脱出してきたので、ぐちゃぐちゃに逆転していた〈虚〉の世界に、すっきりと天地が別れ、星たちのすがたになったんだわ。メグは星空が好きでしょう?」
「うん」
「メグは、メグにとって好ましい風景の世界に、戻ってきたのよ」
「それじゃあ、シーラさんは、今までどこにいたの?」
「あの世とこの世のさかいめ。中有、というのかしら」
「チュウユウ。ママもそんなことを行っていた。だったら、ママといっしょだったの?」
「いいえ。安美さんとはコンタクトできなかった。妖精の安美さんは別な領域、たぶん精霊界に避難していたんだろうし、あたしは生死の境界にいたんでしょうね。どちらもボーダーラインに違いはないけれど、あたしはあなたほどかんたんにいくつもの領域をスイスイ渡れるわけじゃない。生者と死者のはざまを取り持ったり、往来する力はいただいているのだけれど」
「イタダク? 誰から?」
「さあ……あたしは特定の宗教を信じているわけじゃないし、こんな能力を持っていると、一元的な教義じたい、受け容れがたくなってしまう。世界は…」
 とシーラは乱れた髪をかきあげ、メグのヴィジョンの投影という星空を眺めやりました。そうすると、彼女の並はずれた印象深さのひとつ、指でつまめるくらいに長く、自然に反り返った睫毛の影が、上下の瞼にふっさりと映り、とてもきれいでした。
「リグ・ヴェーダの表現のように、光と影の織りなす七色の幻影なんだろうって思うわ。その向こう側にいっさいをつかさどる永遠の存在、神様がいるのかどうなのか、これはわからない。そこからさきは信じるか、信じないか、という個人主義」
「むつかしくってよくわかんないよ、シーラさん」
「そうね…。説明しているあたしにもよくわかんないことだから」
「リグナントカって何?」
「インドの経典のひとつ。いつか読んでみたら?」
「ミリンダ王の問い、もオススメだね」
 ふいにうしろから見知らぬ声で割り込まれ、メグは驚いてふりかえりました。
「あら、ヒョウガ。渡ってきたの?」
 シーラはちっとも驚かずに、声の主に微笑みかけました。夜空のはるか彼方に佇んでいる声の主の姿が小さく見えました。
 ヒョウガと呼ばれた少年は、片手をちらっとあげてシーラの呼びかけに答え、ほんの数歩あるいただけで、ずっと遠くだったのが、あっというまにすぐ傍に近づいてきたので、メグはびっくりしました。
「歩幅百メートル?」
「空間移動だからさ。ここは物理的距離なんかないんだよ。俺は豹河。きみがメグだね」
「うん」
 メグはつぶらなまなざしで、浅黒い皮膚の、精悍に痩せた少年を眺めました。豹河は上半身はだかで、腰から下は、ヌードカラーのぴっちりしたタイツを穿いていました。まだどこかこどもっぽく、筋肉ですっかり覆われてもいない肩甲骨を背中にはっきり浮きたたせた彼は、金髪をその辺りまで伸ばしていました。メグが思わず眼をまるくしたのは、彼の長い髪には、黄金の地色にくっきりと鮮やかな黒い豹柄が、動物園や写真で見たほんとのケモノみたいに、つやつやと浮き出ているのでした。
豹河は、自分の長い前髪を少女のようにオデコの上でひとつたばね、あとの毛先はさらさらと、肩や背中に奔放に垂らしたままなので、ちょっと見には、骨っぽい体格の、背の高い少女のように見えましたが、間近で見ると、彼の顔つきはずいぶんいかつく、顎の骨は角ばっていますし、ひろい額にくっきりと描いたような弓なりの眉毛は、髪とは全然違って黒く、濃く、まなじりの深い目元に、気性の深さと強さが、ありありと表れているのでした。
「メグ、帰ればわかるけれど、このひとは娥
網さんの末っ子で、笛吹きタマヨビのヒョウガです」
「宝石占いのガーネットさんだっけ?」
「そ。俺、彼女といっしょに〈占いの場〉をつくったんだけど、どこかから彼女のトランスに煽られる感じで、俺のほうがこんなところに離脱してきた」
 ヒョウガはニッと笑いました。ヒョウガが何かの、ちょっとしたしぐさをするたび、彼の髪の金と黒の豹模様はあざやかにはっきりと動いて、メグの眼には、まるでそれが、この少年(か青年か)は、頭の上に一匹の猛獣を飼っているような印象に見えるのでした。
「いや、ガーに煽られたんじゃなく、シーラとメグにひっぱられたのかな。ガーにそれほど力はない」
「たぶんね」
 シーラはうなずきました。
「そうだ。ガーネットさんの孫のドミや、自閉症のはっちゃんとか、ギャラリーのアスカさんとか、どうしたの?」
 メグの質問に、シーラは長い睫毛をすこし伏せて、顔を曇らせました。
「あのひとたちも、きっとすぐ近くにいるのよ。だけど、いったんはもう帰らなければ。安美さんを捕られて、またひとり(?)人質が増えたわ。ここにも長居しすぎ。いっぺんに片付くケースではないということはわかった。ヒョウガまで飛ばされて来たなんて、向こうじゃびっくりしてるでしょ」
「とおんでもない、のんきなもんだよ。なにせジンさんとミネモトのオブザーバーだもんね」
「ジンさん?なんでまた」
 ジンさんの登場と聞いたシーラは、愁いをほぐして、おかしそうに笑いました。
「きれいな女がいて、居心地よけりゃ、ゴキブリみたいにどこにでも出没するんだ、あのおっちゃん。でも俺が来てるって聞いたら逃げ出しそうになった」
「なんで?」
 ヒョウガはおどけた上目づかいをして、ちらっと赤い舌をひらめかせ、唇をなめました。
「賭け麻雀で借金あるからだろ、俺に」
「いつ? あなたとんでもないわね、未成年のくせに」
「一年くらい前かな。でもそんな言い方、シーラにふさわしくないぜ。未成年のくせにトンデモナイ? どっちが」
「さあね。とにかく現実に戻らなくちゃ。メグを送っていかないと、パパさんが心配するでしょ」
「俺、こういうシチュエーション慣れてないよ、シーラ。どうすりゃいいの?」
「あたしにはまだ、あなたの吹いている笛の音が聞こえている。メグ、わかる?」
「うん、聞こえる」
 メグも耳を澄ませると、今までに聞いたことのない奇妙な節回しの笛が、耳の奥で、はっきりと、輪を描くように響いているのがわかりました。
「ということは、あっちの世界で、あなたは忘我の域に達していながら、ちゃんと呼子の笛を吹き続けているのよ。トランスは続いている。〈場〉はそこにあるわ」
「そっか」
 ヒョウガはほっとしたようでした。
「トランス・ハイポジションだ」
「あたしたち、手をつないで意識を変えるのよ。呼子の笛を聴くんじゃなくって、その音を〈見る〉の。見ようと思えば音は見える。ここでは五体の感覚は、念じることによって互いに転移し、具象化するから。そうね、メグ、ヒョウガの笛の音は……たとえば架け橋、梯子みたいなもの。それがわかる?」
「……」
 メグはためらい、困惑しました。シーラは明るい焦げ茶いろの瞳でメグを覗き込み、メグの心の奥の奥まで届くような視線をくれました。
「あなたにも、〈見える〉はず。ヒョウガの笛の音が、ほら、星座を渡る小舟か、櫂のようになるのが。時間と空間を超えて、星座のなかを、ゆっくりなめらかに動いている、それが見えるでしょう?」
 言いながらシーラはメグの手をつかみ、ヒョウガの手もとりました。すると、その瞬間メグは、シーラの手の感覚が自分のものとなって、自分がじかにヒョウガの手を握りしめているように、シーラの感覚と自分の感覚が一つに結び合うのが、はっきりとわかりました。
「ふね?」
「たとえば」
 メグはシーラから伝わってくる笛の音色とシーラが握っているヒョウガの手のしっかりしたかたちを同時に感じ取りました。ヒョウガの手はずいぶん強い手だなあ、とメグはばくぜんと感じました。何が、どう強いのかうまく表現できないのですが、そう感じると、耳のなかで輪を描くように響いている笛の音のちらばりが、いっせいにまとまって、ヒョウガの方へ流れてゆくような感覚が始まりました。
いいえ、じつはその逆でした。とらえどころのない、大気の振動、空気のそよぎである笛の音たちは、ヒョウガの肉体そのものから、こちらへ向かって突進してくるのでした。眼を閉じると、金と黒の毛皮を波打たせて一頭の豹が、星合の空間を疾走し、虚空たかく跳躍するヴィジョンが瞼に映りました。
 そのケモノは、毛皮より濃い黄金いろの眼を見開いて、メグに語りかけました。
(ぼくのなかを通ってゆけばいいんだ。ぼくが次元の扉なんだ。無限転調するタマヨビの音の中に入ってしまえば、あっちに抜けられる)
「シーラさん、ヒョウガのなかに入って」
 メグの両目が、ふたたび青くつめたく光っているのにシーラは気づきました。メグはシーラをひっぱって、ヒョウガのみぞおち辺りを、無遠慮に片手でぐいっとおしあげました。ヒョウガは避けようとはぜず、かるく顎をうわむけ、自分の内部にめりこむメグの手をひきうけましたが、彼に苦痛の表情はなく、それどころか、ヒョウガのみぞおちをすくいあげるようにつかんだメグの手の力で彼は両足からうつぶせに宙に浮くと、まるで無重力の宇宙空間に漂うように、気持ちよさそうに、かすかにわらってさえいるのでした。
メグはシーラにさきがけて、ズボッと片手からヒョウガのなかに腕まで、それからじゅんぐりに肩、頭、胸と押し入ってゆきました。血は一滴も流れません。浮き上がったヒョウガの背中から、メグの頭突きが飛び出す、なんていうスプラッタな光景は出現せず、メグはそのまま、音の塊となったヒョウガを通過して、こことは別な、もといた現実空間へ帰ってゆくのでした。
シーラは小首をかしげ、不思議そうに何度か瞬きしましたが、メグにひっぱられるまま、メグの膝の辺りがヒョウガに入ってゆくあたりで、彼女といっしょに少年のなかへするするとひきこまれてゆきました。

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