さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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白いひとびと   後編

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 7 夫人の恐れ

 マクネアン氏とその母上のために、わたくしはその年にかぎって、ロンドンに数週間も長く滞在しました。この二人の傍を離れがたかったのでした。
 マクネアン夫人は、もうすでに語ったことですが、とても不思議な魅力的な女性でした。この方の傍にいると、わたくしは自分がすこしも内気ではなく、それに世界のすべてが他の場所で見るときとは違って眼に映りました。これはヘクター・マクネアン氏と一緒にいるときも同様だったのです。
 この母子はとても聡明で、この世のあらゆるおもしろいことを知り尽くしていましたが、決してその才気や知識のひけらかしで、わたくしをまごつかせたり威圧したりしませんでした。
「あなたは生まれながらに素敵な子だったのよ、イザベル。その上、アンガス・マカイアがあなたの心を変わった華やかな飾りやすばらしい彩と形で充たしてくれたのよ」
 夫人はわたくしの手をとり、そっとゆっくり撫でながら話してくれました。わたくしの手や腕、髪などに触るのは、彼女の癖だったのですが、また夫人はいつもできるだけわたくしをそばにひきとめておきたがりました。
「あなたがほんとうに傍に在て、消えたりしないのを確かめるために、あなたに触るのが好きなのよ」
 と夫人は言いました。なぜそんなことを言うのか、そのときはわからなかったのですが、あとになってわかりました。
 その夏のわたくしの思い出といえば、マクネアン夫人と彼女の息子、それにわたくしとの三人で、大きな林檎の木陰でゆったりと過ごしたお茶の時間のすばらしさで埋め尽くされています。
折節、わたくしたちは暮れなずむ夕闇が深くなり、庭園に棲む夜鶯が囀り初めるまで林檎の樹の下に座っていたものでした。それはまるで、永遠に続くたのしい満ち足りた時間のように感じられ、三人とも言葉を消して、しだいに濃くなりまさる夕闇の中、爽やかな声で歌い続ける小夜鳴鳥に聞き入るのでした。      ああ、わたくしはなんとこの親子を愛していたことでしょう。マクネアン氏と母上とわたくしは、まるで古い幼馴染のウィー・ブラウン・エルスぺスと同じように、いえ、それ以上に、言葉なしでお互いに優しく慕わしい愛情を通わせることができました。
 ある晩、マクネアン夫人は言いました。
「人がもし、暗闇の中で小鳥の姿を見たり、その声を聴くことができたら。もし死すべき人間が闇のなかに光を垣間見ることができたら、《死の恐れ》などは永久に消えてなくなることでしょうに」
 林檎の樹とわたくしたちは、そのときもうすっかり深い闇に包まれていました。椅子に腰かけ、野薔薇やアイリスの香の漂う夏の大気を呼吸しながら、わたくしはこんなに美しい時間のなかで、マクネアン夫人の声がはっきりといつになく怯えを含み、歎きに充ちているのを感じ、驚いたのでした。すぐに彼女の息子が応えました。
「おそらく、あらゆる神秘はそんなふうに単純なのかもしれない。人間の耳では捕えがたい精妙な旋律があるように、人間の眼には見えない光の振動があるのかも知れない。音や形、色があるのかもしれない。人間の認識を超えているにもかかわらず、我々が存在しているのと同様に、確かに実在し、かたちをなしているもの。それは異次元の存在だろう」
「おお、神秘とは! この世を去り、もはや共に生きることかなわぬと思われている者たちが……じつはすぐ傍にいて共に生きているのに、わたしたちはその姿を見、声を聴くこともできないということにすぎないといういう、せめてその証が得られたら」
 夫人が両手で顔を覆っているのがわたくしにはわかりました。そこにはまだランプも灯もなく、月明かりもなかったので三人ともお互いの姿を見ることができなかったのです。
「ヘクター、そう確信できたら、わたしは《死への恐れ》など感じないのですよ」
「だいじなひと!」
 マクネアン氏は声に力をこめて母親に呼びかけました。彼は母上のことをしばしばそう呼んでいました。その闇の中で、相手を力づけようとする彼の声は特にすてきな響きを帯びていました。
「恐れるべきではないと誓い合ったではありませんか。信じようと」
「ええ、ええ、そうよ。でもヘクター。時にはわたしも、ときには」
 夫人の声はもうはっきりと震えていました。
 けれど、マクネアン氏はますます落ち着いた声で言いました。
「ミュアキャリーさんは恐れていらっしゃらないのですよ」
「イザベルと呼んでください、おねがい」
「イザベルはね、ぼくと出会った最初の晩に、不思議なことを話してくれたのです。彼女の父上は不慮の事故で亡くなったあと、愛する妻の許を離れず、赤ちゃんがーーイザベルがこの世に誕生するまで、妻とともに城にとどまっていたのだ、という」
「そんなことが?」
「本当のことですわ。父はあの世に旅立つのを遅らせ、ショックで倒れたきり、意識不明の母にずっと呼びかけ続けたのです。そして母はもうこの世に何の未練も持ちませんでしたが、半分生きている身ながら、はっきり父の声を聴いていたのです」
「どうしてそんなことがわかるの?」
 夫人のわたくしへの質問は涙を抑えているために低く、くぐもっていました。
「なぜでしょう? わたしはそうしたことを疑問に思ったことがないのです。高地人の間ではそうしたことがよく信じられているからでしょうね。千里眼の持ち主のこととか。それに人間に変身して陸にあがり、娘に恋して結ばれる海豹の話など」
「それは、どんな? 聞かせてくださいな」
「ええ、昔、ミュアキャリーからほど遠からぬ所に、濡れたような黒い眼の、きれいな見かけぬ若者がふらりと現われ、船頭の娘と結婚しました。ところがそれからしばらくたったある夜のこと、彼はまんじりともせずに転々としていましたが、起き上がると妻を残して出てゆき、それきり二度と戻りませんでした。数日後、小屋の近くの浜にみごとな海豹の死骸が打ち上げられました。海豹は人間の妻との中を裂こうとする仲間たちと戦ったあげくに殺されたのだ、と漁師たちは言います。残された妻には父親そっくりの、風変わりな天鵞絨のような眼をした息子が生まれましたが、彼女はこの子を水から遠ざけておくことはできませんでした。息子は大きくなって泳げるようになると、沖に泳ぎ出てしまい、それきり陸には…人間の世界には戻って来ませんでした。父親の一族に連れ去られたのだと漁師たちは噂しました。
 こんな言い伝えを聞きますと、一生のうちに特に不思議なことはない、という気がいたします」
 わたくしのおしゃべりをひきとってヘクターが続けました。
「そう、ほんとうになにごとも不思議ではないのだ。あらゆる時代を通じて人間は繰り返し神々の不可思議と『掟』の驚異を教えられてきた。人々はそれを崇め吹聴してきたが、実際には信じなかった者が大部分だ。だが、すべては単純かつ明快なのだ、と信じれば恐れはなくなるだろう。イザベル、伝説を信じるあなたには恐れがない。母に言ってやってください」
 暗がりのなかで耳に聞えるヘクターの声は切実な哀願のようでした。彼は何かの理由でわたくしに救いを求めているのだとわかりました。そうして、今、この闇の中で、わたくしは自分にとってかけがえのない友人となった二人の声によって、自分でも知らなかった
天性のような力が呼び覚まされるような気がしました。わたくしの躊躇を推し測るヘクターの穏やかな声がもういちど聞えました。
「イザベル、ぼくにはわかっているんです。あなたはあなたの心に浮かぶままお話しになればいい。そうすればぼくたちは慰められ、母には救いになるだろう。あなたの言葉はあなたを超えたところから発せられるものだ」
 

 8 夢

 ヘクターに促されてわたくしは語り始めました。
「あなたのおっしゃる《死への恐れ》の感情をわたしはついぞ覚えたことがないのです。かりに何かについてそうした恐れを懐いたとしても、以前に見たある夢のおかげで、恐れの感情は消えてしまうのです。その夢は……わたしは夢だったとは思えないのですが、かりに〈夢〉と呼んでいます。とても単純で、ことさらお話するまでもない、短い、夢うつつの経験です。でも、それはわたしとっては大切な人生の一部なのです。『丘の中腹』にいたあのとき。そう、わたしはその夢を『丘の中腹』と呼んでいます。
 ある晩のこと、わたしはミュアキャリーで眠っていました。するとふいに、いつのまにかわたしは今まで見たこともないほどやわらかく美しい月明かりのもとで丘の中腹に立っていたのでした。たぶん寝間着姿のままで。素足の下には草があり、寝間着は何か軽くて白いもののようでした。着ていても、それは肌に触れていないかのようでした。同じように足の裏にある草むらも、そこにはあってこちらの肌には触ってこない。ほんのすこしばかり宙に浮かんでいるような感覚でした。
 そこは低い丘で、中腹に浮かんでいるのはわたしひとり。心ときめく美しい月光がきらめいているのに、わたしが立っているあたりは上も下も、やわらかく美しい影にひたされているのでした。
 そこでわたしは言葉には表し難い幸福感を味わっていました。純粋で、晴れやかで、うっとりとした感覚と感情! ああ、とても言い表すことができません。言葉はなんと貧しいのでしょう。わたしの言葉は!
 わたしの感覚、わたしの感情、わたしは自分の肉体を忘れてしまったかのようでした。わたしは幸せそのもの、歓びそのものでした。
月光、夜、空、きらめく星々、丘の中腹をひたひたと包む影、そのすべてがこの上なく美しく、それでいてわたしはそれらを見てはいませんでした。見ないで、ただ、わたしはそれらすべての一部であり、同時にすべてと一体だったのです。
 うまく言えないわ。わたしはただその場にたたずみ、たたずみ……顔をあげ、そこに自分が在ることの歓びと驚きに満たされていたのです。耳にはかすかに声が聞こえていました。自分の声、自分のつぶやきです。
〈まあ、なんて、美しいこと、うつくしいこと!〉
 自分でも意識できないわたし自身の声は、それから消え入りそうに低く、ゆっくりした声になって、こう言っていました。
〈おお、この、草の、上に、横たわり、眠り、ましょう。一、晩、じゅう、この、つき、かげの、もとで……わたしは……ねむり、ましょう〉
 たとえようもないほど深い安堵と悦びに包まれ、わたしは足元の草原にゆっくりくずおれるように伏しました。そして横になった頬が草に触れたと思った瞬間、夢が終わったのです」
「まあ、目が覚めたのね?」
 マクネアン夫人は言った。わたくしはかぶりを振りました。
「いいえ、目が覚めたのではなく、戻ってきたのです。わたしはどこか、外、に出かけていて戻って来たのです」
 わたしは闇の中でマクネアン夫人の手をとりました。
「どう申し上げても嘘になります。説明のしようがないの。でも、いくらかは分かっていただけたかしら?」
「ええ、ええ、夢なんぞであるものですか。あなたは丘の中腹から戻ってきて、この世には帰らぬひとたちが、あなたが味わったような陶酔のなかで目覚めているのだと、わたしに教えてくれたことを、神に感謝します。そうね、きっとそうね、《死の恐れ》なんてないのよね。この世の時間を離れて目覚めた者たちは丘の中腹にいるのだわ。ああ、ほら、また小夜鳴鳥の歌が聞こえるわ」
「鳥たちは知っている」
 ヘクターの低い声がナイチンゲールのさえずりに混じって響きました。
「イザベルのそれが、夢でなかったことを」
 鳥のさえずりがはたりと止んだとき、ヘクターは静かに椅子から立ち上がり、わたくしたちを残して去ってゆきました。
「ぼくはさきに行くよ。おやすみ」
 息子が行ってしまうと、マクネアン夫人はささやくような声音で打ち明けました。
「イザベル、わたしとあの子は単なる母と息子以上に愛し合っていたのよ。二人だけでとても満たされていたの。でもね、あの子は汽車の中であなたを初めて見たときから、あなたを愛するようになったの。あなたの夢見るようなまなざしにひかれたのですって」
 そんなことを告げる夫人の声音は優しくてわたくしの困惑も動揺も包み込むかのようでした。それでわたくしもごく自然に
「わたしもあの方を愛するようになりました。」
 告白するのにためらいも恥ずかしさも感じませんでした。
「イザベル、できれば三人でいっしょに暮らせたらよかったのに。そうしたら何も言うことはなかったでしょうに。でも、でもね」
 夫人は静かに椅子から立ち上がり、わたくしのほうに身をかがめると、腕を伸ばしてわたくしを抱きしめ、
「あの子は、いなくなるの、イザベル」
「いなくなる、ですって?」
「ああ、いつかはそんな悦ばしい日が来るでしょうね。愛し合う者たちが別れなくてすむ日、老いや病が消え去る時、苦しみや悲しみのいっさいが地上からなくなる時が。
 でもそれは今の時代ではないわ。ああ、イザベル、ヘクターの心臓には生まれつき致命的な欠陥があり、いつ…逝ってしまうとも限らないのよ。話しかけ、仕事をし、眠っている最中に、そうなるかもしれないの。ただいなくなるだけのことだけれど、あの子はいなくなるのよ」
 わたくしの心臓が止まるような想いでした。呼吸をのみ、瞼を閉じ、わたくしは夫人の震える体のぬくもりを抱きしめていました。数瞬がゆっくりと流れゆき、それからふいにナイチンゲールの澄んだ歌声が耳に飛び込んできました。するとあの美しい幻影が、暗闇の中に鮮やかに揺らぎ始めたのでした。
「丘の、中腹に、行くのね」
 わたくしはささやき、夫人の髪や腕をそっと撫でてあげました。夫人がよくわたくしにしてくれたようにやさしい手つきで、
「ヘクターは丘の中腹に行くのね」
 わたくしにはそのときようやく、この母と息子が真剣な面持ちで《死の恐れ》について語り合ってきた理由がわかりました。一心同体のこの二人は、死を身近なものにしながら、別離の悲しみに耐え、本質的には決して引き離されることはないと信じようとしていたのでした。
 夫人はわたくしをかたく抱きしめてつぶやきました。
「ナイチンゲール! ナイチンゲール! おまえはなにを語りかけているの?」


 9 ダーク・マルコムとイアン・レッド・ハンド

 そのころ、まだほんの小娘にすぎなかったのに、わたくしは人生に偶発時など存在しないと確信するに至っていました。不祥事が起こるのは、わたくしたちがみずからの是非を弁えないか意に介さないためであり、善い結果がもたらされるのは、わたくしたちが意識的にか無意識的にか、その理由を認識しないままに義を選んでいるからなのだと。
 それはわたくしの育ての親アンガス・マカイアとともにミュアキャリー城の書庫のさまざまな古書、奇書、現代書を読み進め、彼とお互いの心の奥深くまで分け合って語り合ううちに得られた信条でした。
アンガスはミュアキャリーに所蔵されている古書や古文書のことごとくを熟読していました。彼はとてもすばらしいひとです! アンガスは、偶然なるものが存在しないことを知っています。人間自体が、超越者の定めたもうた『掟』の現われなのだ、と。
 ロンドンから戻ったわたくしは、城に帰り着いたその日からマクネアン親子の訪問を待ちわびる気持ちでいっぱいでした。彼らはわたくしの語ったミュアキャリーと、この荒野が垣間見せてくれる神秘に惹かれ、その一週間ほど後には、やってくることに決まっていたのです。
 ジーンとアンガスはマクネアン親子とわたくしの友情をとてもよろこんでくれました。ことにアンガスは、天才作家であり、自分にも劣らぬ博識のヘクターのために、書庫の整理を始めました。文献目録を調べたり、書棚を点検したり、そこかしこの本をとりだしては、マクネアン氏が関心を寄せるに違いないと思われる写本や書籍の注釈をつくったりしました。彼はこの書庫を心から愛していたので、自分と同じようにここを愛するに違いない人と会話するのを心待ちにしていたのです。
 ある日のこと、わたくしは何気なくアンガスの留守に書棚に入りました。書庫を点検中のアンガスは脚立を書棚の前に出しっぱなしにしていまおり、いつもなら届かない高い棚にある古書に目をやったわたくしは、そこに立てかけてあった脚立に登って、その写本にめぐりあったのでした。
 長い精密な写本には、ダーク・マルコムとその子供にまつわる残酷な復讐譚が含まれていました。その子供とは、ウィー・ブラウン・エルスぺスだったのです。
 二つの氏族の間で、三代にわたり抗争が繰りひろげられました。ダーク・マルコムとイアン・レッド・ハンドの逸話はその一部にすぎませんでしたが、身の毛もよだつおそろしい話でした。血で血を洗う残酷な所業で知られたダーク・マルコムの生涯で、唯一の人間らしい感情は幼いわが娘への愛情だけでした。彼女は茶色の眸と茶色の髪をしていたので、彼女を深く愛する者たちは彼女を、「小さな茶色のエリザベスちゃん、ウィー・ブラウン・エルスぺス」と呼んでいました。
 イアン・レッド・ハンドはグレン家のマルコムよりも富裕で権勢を誇ったので、マルコムよりもたやすく暴虐の限りを尽くすことができました。彼は敵のマルコムが娘を溺愛しているのをよく知っていたので、その子を利用して相手を苦しめるはかりごとをたくらみました。
 ある夜のこと、攻略に失敗し、部下の多くと兵力を失い、意気消沈して自分の城に戻ってきたマルコムは、我が子ウィー・ブラウン・エルスぺスが連れ去られ、イアンとその部下たちが愚弄と狼藉のかぎりを尽くしていったのを知りました。ダーク・マルコムは躊躇なく、即座に、傷口に包帯もせず、折れた短剣とぼろぼろの剣を帯びて、生き残りの兵士たちと世闇に出撃しました。
 彼は憤然として喚きました。
「人力でも、武器をもってしても、わが娘を取り戻すことはならぬ。よいか、娘の小さな胸を短剣で突き、イアンめによるさらにむごい死から救い出すために、儂が傍に寄るのに死力を尽くせ」
 彼らは絶望のどん底に突き落とされた狂気の一団でした。彼らがいかにして闇夜を駆け抜け、イアンの城壁に見張りのいない盲点を見つけ、攻め入り、彼らの通り道に死体を残しながら戦い進んだかは知られていませんでした。泣き出されて居場所が発覚しないように、イアンの子とかくれんぼ遊びをさせられていたエルスぺスを、奇妙な偶然からダーク・マルコムはついに見つけ出し、その胸ぐらをとらえ、心臓に短剣を突き立てました。
我が子を敵の手による惨殺から救い出した父親もまたすでに深傷を負っており、茶色の髪を振り乱した娘を抱きかかえたまま、その場に倒れ死んだのです。その夜、生きて自分たちの城に戻ったグレン家の兵士はただの一人もいなかったのでした。
「お嬢さんが読んでいるのは、ダーク・マルコムとイアン・レッド・ハンドの話だね」
 脚立に座ったまま時のたつのを忘れて長い物語に没頭していたわたしに、足元の薄暗がりからアンガスが声をかけました。いつしか陽はかたむき、書庫の床のほうは戸外の夕闇と同じようにとっぷりと暗くなり、わたくしが腰を据えていた脚立の上のほうは、夕空の残照を享けて、ほのかな明るさに包まれていました。
「ウィー・ブラウン・エルスぺスは、殺されたのね。争奪の的になり、そのあげく父親の手にかかったの」
 アンガスは落ち着いた声で応えました。
「マルコムにしてみればそうするより外なかったのですよ。イアンは地獄の番犬みたいな男だった。人でなしだったんですから」
「アンガス、この本を書棚のこんな高いところに隠したのはあなた?」
「そうです。それは子供が読む本じゃない。だけど、あなたは小さなころから書庫の隅々まで歩き回っていたからね。イザベル」
「なぜ、わたしは一緒に遊んだ女の子のことをウィー・ブラウン・エルスぺスと読んだのかしら?」
「気まぐれでしょう。それとも女中たちのおしゃべりから、あなたは小耳にはさんだのかもしれません」
 アンガスの端正な顔は彼の足元から這い上がってくる夕闇にしずしずと覆われはじめていました。彼は蝋燭を手にしていましたが、天井近い高みから見下ろすわたくしの眼には、彼の顔があたかも、膨大な古文書を収めた書庫の闇から浮かび上がる伝説の登場人物のように思われました。
もちろんウィー・ブラウン・エルスぺスのような白いひとではありません。アンガスのふだんは温和な灰色の両目は、そのとき蝋燭を映してなのか、古代の松明の残り火のように、かすかな、でもはっきりとした光をたたえているように見えました。
「最初にあの子をわたしのところに連れてきた浅黒い男たちは誰だったのかしら? あの日、荒地で。覚えているわ。彼らは蒼ざめ、凶暴で、勝ち誇った様子をしていた。破れて
血まみれの服、折れた短剣と刀。でも喜ばしげな顔をしていた。誰だったの? あれは」
「私は見なかった。霧が深かったので。きっと興奮した狩人たちだったんです」
「思い出そうとすると奇妙な気持ちになるの。わたしはまだ赤ちゃん同然の幼さで、まるで忘れかけた夢を思い出そうとするみたい」
「おやめなさい。その写本をこちらへよこしなさい。わたしといっしょにマクネアン氏のために作った文献リストを見ましょう」
 わたくしはぼんやりした気持ちでアンガスの傍に降りました。床に足がつくと、それまで夢うつつのまま中空に浮かんでいた自分がアンガスの属している現実に戻って来た気持ちになれましたが、蝋燭を手にしたアンガス自身のほうが、今度はわたくしより深い物思いに、なお浸っているように感じられました。
 書庫を出て、晩餐に供えて着替えるために階上の自分の部屋に行こうとした時、アンガスはゆっくりと、低い声で言いました。
「今まであなたに打ち明けようかと、ジーンと二人して迷いに迷ったんです。ヘクター・マクネアン氏は凡庸な人物ではない。我々は彼と母堂とお嬢様との親交を心から喜んでいます。マクネアン氏は凡人には確信できないことでも決着をつけることができる俊敏で立派な御仁だ。きっとその母上もね。私は氏に、ジーンは母堂に、私たちが今まで守ってきたことを話すつもりだ。我々は正しかったのか、そしてこれからどうすべきなのか、と」
「あなたとジーンは、ずっと昔から大きな秘密を知っていたのね。でもこわくないわ。なぜなら、あなたがたはそれがわたしを傷つけるような秘密だったら、決して明かさずに、墓の中まで持っていくでしょうからね」
 アンガスはわたくしの両手をとり、くちづけをしました。彼は感極まったようにつぶやきました。
「お嬢様。ああ、お嬢様」
 けれども、それ以上は何も言いませんでした。わたくしは彼が手を放すと、その部屋を出てゆきました。


 10 親子の訪問

 マクネアン親子は約束の当日、午後おそくにミュアキャリーに到着しました。彼らをテラスに案内したときは、夕陽が荒地を紅く染め上げ、城壁近い粗造りの望楼も薔薇色に染まっていました。あたりには眠り前の小鳥たちが歌う美しい夕べの調べが流れており、眼下の庭園の眺めはさながら宝石をちりばめた絢爛たるタペストリーのようでした。
「ここか! ここなんだね」
 おもむろにあたりを見渡してヘクターが言いました。それから続いて、
「あなたを育んだのはここなのねイザベル」
 彼の母親がきれいな声で静かに重ねました。
この荒野を深く静かに味わい、ここがわたくしの一部であり、わたくしがここの一部であると考えてくれるとは、この方たちはほんとうに天使のようでした。
 やがて月がさしのぼり、夏の陽炎とそよ風のせいで、眼に映る月あかりはひたひたと優美にふるえていました。微風はヒースや羊歯をやさしくゆさぶり、ナイチンゲールがあの夜、林檎の樹下のお茶会の夜と同じように鳴いていました。小夜鳴鳥の歌はミュアキャリーの高原に棲む精霊の声に違いないのでした。
 林檎の樹の下でマクネアン夫人からヘクターの死を予告されてから、わたくしは彼を、地上を歩く天使長のように感じてきました。きっと、そのときのわたくしの感じ方は大袈裟だったに違いありません。
 ヘクターは自分の身にいつ大きな変化が起こり、この地上とはまったく別なところで目覚めるとも限らないと知りながら、ごく自然にわたくしたちの間を歩き回り、仕事をし、友人たちと会って談笑していました。
 もし彼が普通の男性で、わたくしもまた普通の娘であったら、愛する人を見舞う容赦ない運命の事実を聞かされたその夜から、悲しみにうちひしがれ、泣き暮らしたあげく、自分も死んでしまいかねなかったでしょう。
 けれども彼もわたくしもそうはなりませんでした。なぜなのでしょう? 当のヘクターがいかなる嘆きにもとらわれないのだから、二人の間に悲しみが訪れることはありえない、と感じていたのです。彼が死ぬなんてこと自体、ありえない。――死ぬなんて。もし彼を見ることができなければ、それはただ、わたくしの眼力がそれだけ強くも鋭くもないせいなのです。死――それは存在の変化のひとつの姿に過ぎないのでした。わたくしは何事かを待ち受けている気持ちでした。いつまでもヘクターの傍に居たかった……。
「あそこですわ。ウィー・ブラウン・エルスぺスが初めて連れてこられたのは」
 指さす荒野のその一帯には、針金雀花がまっさかりで、明るい月光の中で、大きな金の塊が丘のように盛り上がって見えました。
 椅子にもたれてくつろいでいたヘクターは背筋を伸ばしてそちらを眺めやり、
「明日案内してもらえないかな。そこを見たいとつねづね思っていたんだ」
「明日の朝早くはどうかしら? そのころでしたら霧がたちこめているでしょうね。あの日のようにね。とても神秘的で美しいわ」
「願ってもない! 朝出かけよう」
「今夜はあのウィー・ブラウン・エルスぺスがとても身近に感じられるの。ふしぎね。しばらく前、わたしは書庫の高い書架にある写本を発見しました。アンガスはそれが残酷な物語なのでわたしに見せまいと隠したのだと言っていますが。イアン・レッド・ハンドとダーク・マルコムとの間の殺戮。マルコムの子はウィー・ブラウン・エルスぺスと呼ばれていたの。たぶん五百年ほど前に。わたしは自分が幼女のころいっしょに遊んだ幼馴染のことを思い出すと、とても奇妙な気持ちになるの」
「あなたと遊んだ子は、きっとその中世の姫君の名前を受け継いだ子供なんだろう。実を言うとちょっと驚いたけどね」
「マルコムの娘は……かわいそうに、心臓から血を流し、茶色の髪を父親の胸に振り乱して! ああ、今思い出したわ。わたしのあの子もドレスの刺繍飾りに大きな染みをつけていたわ。彼女はそれをじっと見ていた。どうしてこんな染みがついたのかしら、といぶかるように。あの子は胸の染みを青い花をつけた釣鐘草で隠したわ」
 荒野の丘にむらがり咲く金雀花は月明かりを映す透明な水たまりのように見えました。幼いころ霧の中でかくれんぼをした草むらにウィー・ブラウン・エルスぺスが今も潜んでいそうな気持がしました。
何気なく顔をあげると、わたくしのほうをじっと見つめるヘクターのやさしいまなざしに出会いました。それはひたむきで、ふしぎな、やさしいまなざしでした。


 11 霧の中

 夜明け前に起きだすと、荒野は期待通り、神秘的な装いに包まれていました。城の周囲はたいそう柔らかな、雪のような白さの渦巻く霧に覆われ、霧が薄くなったところには黒ずんだ樅の木が聳え立ち、あるかなきかの風につれて、霧は濃く薄く、とぎれたかと思うと、また漂い流れていました。それはヘクターに見せてあげたいと願っていたとおりの光景でした。
 小道に続く垣の廻り木戸に出るためにわたくしたちは猟園をつっきってゆきました。ここの一部はかつては荒野で、ほそい樅ノ木とヒースや金雀花の鬱蒼たるしげみで薄暗かったので、わたくしが道をよく知っていなければ、きっと霧の中で迷ってしまったことでしょう。純白の霧の中で羊歯とヒースの湿った薫香が鼻を突き、さらさらと歌う小川のせせらぎを聞きながらわたくしたちは丘へ登る坂道を歩きました。
「この辺りにはこの世ならぬ美しさがあるね」
「わたしたちは幽霊かもしれませんわ。霧の中に隠れているものたちの仲間なのかも」
「そのうちの一人に出会っても、あなたはこわがったりしないでしょう」
「ええ、きっとね、自分達は似たもの同士だと思うでしょうよ。彼らの声が聞こえるなら、彼らは、きっと、わたしが知りたいと思っていることを教えてくれるはず」
「あなたの知りたいことは何? イザベル」
 低い声でヘクターが尋ねました。彼の声や話し方は母親によく似ていました。
「みんなが知りたいと思っているに違いないことです。真に、自由に、目覚めていること。新しい状況に備えること。驚異の只中に自分自身を見出すこと。過去現在未来のどこにも恐れの責苦なしに美を見ること。その美、とは竪琴と冠を帯びた天使ではなく、今わたしたちが目にしているような美、という意味ですが。
 恐れる理由など何もありません。人はみな、恐れすぎています。わたしたちは、何を、いかに、恐れるべきかを知らないのよ」
 わたくしはヒースの藪の間で立ち止まり、両腕をひろげました。
「こんなふうに、自由にね! わたしが一番だいじに思うのは自由、かがやかしくすばらしい自由だわ!」
「自由か! そう、自由だ。いっさいの恐れから解き放たれた自由だ!」
「美しさとは。わたしはこの荒野に数限りなく立ち、そのたびに身震いするような美を見てきました。人の魂はもはやそれ以上を望まないでしょう。《丘の中腹》では自らが美の一部であり、美は陶酔だと知りました。美は自由だと」
「そう、自由だ」
 彼は繰り返して答えました。
 そこから散歩の目当ての針金雀花のしげみにたどり着くまで、わたくしたちはもう一言も話しませんでした。言葉は不要だったのです。彼はわたくしを知り、深く理解し、身近に感じていてくれる。それはヘクターと母親との間に通う感情と同じものでした。
 前日の夕方に見た金色の輝きのところまできたとき、そこはふたたび黄金の炎のように燃え上がりました。ほんの一瞬でしたが霧が晴れて、金雀花の上に朝陽が降り注いだからでした。
 金色まばゆい炎のなかにたたずんでいると、ヘクターは辺りの美しさに棒立ちになり、ゆっくりと両手をひろげました。朝陽と花々の照り返しで彼の全身と顔は天と地の両方から明るく照らされていました。わたくし自身の姿も彼と同じだったことでしょう。
 その輝きはすぐにまた白い霧に閉ざされ、花々と羊歯植物の香が霧の流れに濃く漂い始めました。ふとわたくしは霧の中に、小鳥のさえずりとは異なる聞き馴れた音色を聞きつけました。
「あれはバグパイプの音だわ。フィアガスね。こんな早朝に荒野で、いったいどうしたこと?」
「ぼくには聞えない。きっと遠くに違いない。小鳥の声ではないの?」
「いいえ、バグパイプよ。たしかに変った曲だけれど、小鳥ではないわ」
 霧の彼方を見やると、透けて見えるように薄くなっている荒野の上のほうで、一人の男がバグパイプを演奏しているのがわかりました。間違いなく城のフィアガスでした。彼は牡鹿のような足取りでヒースの間を誇らしげに歩いてこちらにやってきました。
「フィアガス! どうしたの?」
 彼は丘の上からこちらをふりかえり、にこにこと笑いかけ、礼儀正しく帽子をとって挨拶しました。それからすぐに彼は再び霧の中に紛れ込んでしまったのでした。
「こんな時間にフィアガスが荒野にいるなんて。返事もせずに行ってしまったわ」
「どんな様子だったの?」
「青白かったわ。いえ、具合が悪そうだったわけではなく、陽気に笑っていたのだけれど、真っ白な貌をして、まるで《白いひと》のように見えたの」
「ぼくが夕べ彼に会った時、彼が白いひとでなかったのは事実だよ」
 ヘクターはわたくしの手をとり、じっとこちらを長い間見つめました。彼の真剣な凝視にわたくしはきまりがわるくなりましたが、ヘクターはわたくしの手をしっかりと握ったまま離そうとはしないのでした。
「可愛いイザベル、不思議なイザベル」
「わたしがふしぎ?ですって?」
「そう、神に感謝するよ」
 ヘクターはわたくしの手にくちづけをすると、
「ぼくのことは母から聞いたね?」
「はい」
「ぼくがあなたを愛している、ということも」
「ええ、わたしもあなたを愛しています。あなたやお母様と、もっと早く、いつも一緒にいられたなら、わたしの人生はこの上なく幸福だったことでしょう」
 ヘクターはわたくしを抱き寄せました。粗いツィードの上着の胸にかたく抱きしめられながらわたくしは言いました。
「いつ出会っていたとしても、きっとその瞬間から、わたしの心と魂はあなたがたお二人のものだったわ。わたしは二度と孤独になることはなく、何が起ころうとも、優しい喜びを感じるばかりだったことでしょう」
「何が起ころうとも? イザベル。今、この瞬間何が起きても、あなたは喜びを感じるだけなんだね。あなたなら大丈夫だ。丘の中腹を覚えておこう」
 顔をあげてわたくしは囁きました。
「ええ、丘の中腹を忘れないで、忘れないわ」


 12 自由に

 城へ戻り始めるころ、霧はふわふわとかき消え、荒野はなめらかな金色の朝日にひたされていました。城門をくぐると犬の吠え声が聞こえました。それはさっき霧の向こうへ歩み去っていったフィアガスの飼い犬ギーラトでした。
「ひどく吠えているわね。どこかへ閉じ込めているの?」
 わたくしたちを迎えに出た従僕は、生真面目な顔で少しためらい、
「いかにもギーラトでございます。お嬢様、あれは主人を探し求めて吠えておりますんで、しかたなく小屋に閉じ込めたのです」
「フィアガスならもう城に着いているはずよ」
 そこにアンガス・マカイアが現れました。彼は小脇に何冊か書物を抱え、たった今書庫から出てきたばかりの様子です。アンガスはわたくしの腕に触り、従僕に代って口を開きました。
「お聞かせするに忍びないが、フィアガスはいい奴でした。頼りになる召使でした。彼は昨夜母親に会いに出かけ、夜が更けてから荒野を帰ってきたんです。きっと道に迷ったんでしょう。あけがた、羊飼いが山の中の湖で彼の遺体を発見しました」
「そんなはずないわ! わたし、ついさっき彼を見たのよ。霧の中で、丘の上をバグパイプを吹きながら通り過ぎたわ。いままでに聞いたこともないような陽気な曲、愉快な、すばらしい音楽を吹き鳴らしながら、彼は」
 わたくしは隣のヘクターに視線を移しました。その時その場に彼もいたのですから。
「ヘクター、あなたも見たでしょう? 聴いたでしょう? フィアガスと彼のバグパイプを」
「いや、ぼくは見なかった。ぼくには見えなかった。音楽も聞こえなかった。だけどあなたははっきり、見て、聴いた」
「そうよ、とてもはっきりとね」
 アンガスとヘクターが蒼ざめているのに気付いてわたくしはうろたえました。二人の表情は優しかったものの、ありありと恐れの感情が見えたのです。
「フィアガスは数十ヤード先にいて、笑顔で、まるで白いひとびとのような肌のいろをしていたわ」
 わたくしはそれ以上続けることができず口をつぐみました。わたくしの説明へのヘクターの同意はなく、かといって否定もなく、ただ静かな沈黙がわたくしを取り巻いていました。アンガスが再びおだやかに言いました。
「お嬢様、ジーンもわたしもウィー・ブラウン・エルスぺスを見たことはありません。田が、あなたは見た。あなただけはいつも、他のひとには見えないものをしょっちゅう見てきたんです、しょっちゅう」
「他の人には見えないですって? それでは、わたしの見たものは何なの?」
 混乱してしどろもどろのわたくしをアンガスはいたわるように言いました。
「あなたは御自分で見た人たちを《白いひとびと》と呼んだのですよ。わたしとジーンはそのことをお嬢様がとても幼いころからわかっていたんです。あなたが赤ちゃんだったころ、あなたの顔を見た高齢の羊飼いは〈この子の目は透視する目〉と言いました。透視する目、とは古代高地人の俗説でしたが、あなたがウィー・ブラウン・エルスぺスと出会い、彼女を連れてきた浅黒い男たちのことを話したときに、わたしもジーンも俗説は真実だと信じるに至ったのです。ダーク・マルコムの伝説をわたしは知っていました。もちろんあなたは何も知らなかった。しかし幼いイザベルがわたしたちに話した少女は、まさにウィー・ブラウン・エルスぺスとしか思えませんでした。
 わたしとジーンはあなたの視力のことを秘密にしようと決めました。親族に対しても、です。話したって誰も信じないでしょうし、あなたはきっと異常な子どもとして嫌悪されてしまうでしょうからね。だから、あなたにとって、あなただけに見えるさまざまなことどもが、ナンセンスではなく、むしろナチュラルであると考えられるように努力したんです」
「二人ともずっとわたしを守ってくれたのね。何となくわたしは気付いていました」
「お嬢様、そうでしょうとも。あなたの周囲で起こるすべてのことが、自然で、ナチュラルであることが肝要だった。
 だが、わたしはしばしば自問自答したものです。あなたとも話し合いましたね。自然、とはいったい何なのか。何が自然で何がそうではないのか? 人間はまだすべての自然法則を知っているわけではありません。自然は豊かで、偉大で、無限だ。人間の眼には新しく見えることを書き付けた巻物を絶えず繰り出してくる。だがそれは新しくはない。人間の知らないはるか太古から、それはすでに書かれていたが、人間にはわからなかっただけのことだ。法則は破られることもなく、新しく生まれることもない。ただ、その巻物を読み取る、より強靭な眼が生まれ、それが新しく思えるだけのことなのですよ」
「そうだったわ。アンガス。わたしとあなたはいつだったか『聖書』のイザヤ書にある詩句〈見よ、先に予言せしことは既に成らんとす、我また新しきことを告げん〉とは、きっとその自然の繰り出す巻物が次々とときほぐされていくにすぎない、という意味なのでしょう?」
「そう、そのとおり。『聖書』には意味深い格言がたくさんあるのに、誰一人として耳を貸そうとしない。私ら人間は自分たちを完全無欠だと考えている。だが見るがいい、百万人人類がいたとして、その中のいったい幾人が美と健康、大いなる活力を兼ね備えているだろうか? しかも神の掟は反故にすべきもの、刻々と粉砕すべきものと考えているのだ。調子の狂ってばかりいる時計をわざわざつくる者がいるものか! ときが経てばもっといろいろなことがわかる。だから、今こそ、神の掟に思いを凝らすほうがよい。これがわたしらの精神の為すべきことなのだ。
 ところで、この神の御心以外の〈精神〉とはなにか? よく考えてみるなら自明の理。人の魂は眼よりもはっきりとそれを見る」
「魂が見るのね? わたしが見たもの、それらを見たのは、眼ではなく魂だと?」
「そうです。イザベル、あなたを産み落とされたとき、母上はこの世の外から呼びかける父上の声に耳を傾けておられた。その父上の声が、あなたに神秘の道を拓いてくれたのですよ」
 そこでヘクターが口を開きました。
「イザベル、あなたはぼくに、ロンドンへ来る途中の駅で乗り込んできた喪服の御婦人の膝に白い子がしがみついていたと言ったね」
「ええ、ええ、だけど母親は気付かなかった。自分自身の悲嘆にうちひしがれていて」
「いや、彼女には見ても見えなかったんだ。ぼくもそうだ。ぼくたちには見えない。しかしあなたには見えたし、見える。それから夜、イアン卿のパーティで再会したとき、あなたはウィー・ブラウン・エルスぺスについて話をした。ぼくは顔には表さなかったが内心仰天したんだ。ぼくはしばらく前に、スコットランド北部のある族長から、その伝説を聞かされたばかりだったからね。ところがあなたはその子と遊んだという。嘘を言っていないことはすぐにわかった」
 ヘクターの声はしっかりとして、熱を帯びていました。
「ぼくは帰宅するなり、すぐあなたのことを母に話した。母はぼくが心臓発作で逝ってしまうのを恐れ、苦しんでいる。ぼくは普通人にはない透視力を持ったあなたを母にひきあわせたら、彼女の哀しみはやわらぎ、すっかり消えてしまわないまでも、ぼくの存在が彼女の世界から失われてしまうのではないということで慰められるのではと考えた。
 あなたの透視力は林檎の樹下のお茶会ではからずも立証された。母は一目であなたを気に入っていたが、庭園散策の時に、彼女の好意は決定的になった。ル・ブレトン氏を覚えている?」
「ええ、著名な画家。たしか最近娘さんを事故で亡くされたという」
「そうだ。あなたはアイリスの花の前でブレトン氏の腕に手をかけて寄り添っている白い少女がいたと母に告げた。しかし母には見えなかった。それはブレトン氏の娘さんだった」
「そうよ、彼女はほほえんで父親を見上げていたわ。心配そうに、嬉しそうに」
「《白いひとびと》はいるんだ。あなたにだけそれが見える」
 断言するヘクターは爽やかな笑顔を見せました。少し離れたところに立っているアンガスも微笑んでいたが、彼のほうは微笑み終わった次の瞬間泣きだしそうな表情でした。アンガスはヘクターの余命少ないことを知っていたからです。わたくしも。
 でも、それがどうだというのでしょう。わたくしたちはいずれ年を取り、病気か、不意の事故か、でこの世を去るとしても、その次の瞬間には丘の中腹へ行くのです。足の裏には草の感触もないのに、翼も冠もないのに、わたくしは限りなく晴れやかな気持ちで月明かりを浴びていました。そのときわたくしはただのイザベル、だけど自由なイザベルでした。
 マクネアン親子はミュアキャリーで三週間を過ごしました。それは楽園の日々にも似た素晴らしい美しい時間でした。太陽と露のもたらすあらゆる悦び、愛とやさしさと理解を、わたくしたちは分かち合いました。
 その日、わたくしたち三人は昼の間ずっと荒野で過ごしました。城に戻ると、夏の夕陽のこの世ならぬ耀きや、深い陰影の刻々と移ろいゆく景色のすばらしさに心打たれ、きよらかな夏の宵闇が大地をすっかり覆うまで、そのままテラスに座っていました。
 マクネアン夫人とわたくしは晩餐にそなえて着替えるために中に入ったとき、ヘクターは目の前の静寂の美に心打たれ、その場を去りがたい風情でテラスに腰をおろしていました。
 マクネアン夫人よりも先に衣裳を整えたわたくしは、屋外の椅子に座っているヘクターの寛いだ姿を見たくて、もう一度テラスに戻りました。ナイチンゲールのさえずりがもう始まっていました。わたくしは小鳥たちの歌声に自分の気配を隠し、足音を忍ばせて後ろから近寄りました。そうっと手摺にもたれかかり、声をかけようと彼の方に身をかかめました。
 次の瞬間、わたくしは声を忘れました。
 まじまじと彼を見つめて……。
 彼はそこに居ました。
 でも、何かが違っていました。
 わたくしには、彼が逝ってしまった、という感情すら湧きませんでした。
 でも、何かが違っていました。
 あくる日の夕方まで、わたくしもマクネアン夫人もテラスには出ませんでした。わたくしたちは窓から荒野が一望される寝室でヘクターの傍に座り、わたくしは夫人にぴったりとよりそっていました。一昼夜のうちに何が起こったのか、わたくしは語る言葉を持ちません。
 翌日は前日よりもさらに美しい日没が見られ、宵になるとわたくしは無意識のうちにテラスへ出てゆきました。夫人の傍を片時も離れないつもりでしたのに、いつのまにか、ふらふらと足がそちらへ向かってしまったのです。
 テラスから荒野のはるか彼方を眺めやり、眼は自然に丘の中腹を視界のなかに探し求めていました。きっと、そこにヘクターは佇んでいるのです。あるかなきかのそよ風に吹かれて、静寂そのもののような夕闇に包まれて、あるいはほのぼのとした霧に守られ、もしかしたら月光にひたされているかもしれない。彼は自由になって、うっとりと、世界そのものと一体となっているに違いない、と。
 ふとわたくしはゆっくりとふりかえりました。少しも動揺しませんでした。
 以前にと同じような姿勢で、身をかがめ、こちらを覗きこむ優しいまなざしを向けて、ヘクターが微笑んでいました。
 そのときから、わたくしは何度となく彼の姿を見ています。
わたくしが彼を見るとき、彼はいつもそこに立ち、微笑んでいます。

              ( 了 )

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