さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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パメラ・セラフィスト

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   パメラ・セラフィスト

 かるい足音のように雨が始まった。鼓膜の上に無数のビーズがきらきらところがり、瞬きするたび瞼の裏側にさわさわと虹色が散る。
 視界の中に虹が見えたので莉珠子は自分が居眠りしているとわかった。自分はパソコンでパメラのホームページを見ていたはずだ。ネット画像のパメラは金髪でエメラルドグリーンの眸をしている。慶長小判のように鮮やかな金髪、常夏の海さながらの碧の眼。画面に映る彼女はどんなポーズ、どんな角度から撮った姿でも隙がないが、化粧も衣裳も極彩色で、莉珠子好みの淡彩ではない。
 鼓膜に響く雨音は莉珠子の視覚に溶け込むと虹色になる。
 顔と瞼を一緒にあげると窓ガラスの向こうに雨に濡れた紫陽花の藍色が堂々と盛り上がって見えた。十坪ほどある庭のほとんどを占める紫陽花の群落は、梅雨入りの二日ほど前から瑠璃を深め、庭土の質の加減でところどころ花は紅、赤紫に染まっていた。
 聴覚のくれる雨音の淡彩と目に映る鬱蒼とした紫陽花との隔たりは、いつもながら莉珠子にかるい混乱をくれる。眩暈のような混乱だ。小さいころはメニエルではないかと言われたが、絵を描き始めてから病ではないとわかった。混乱はすぐにおさまる。聴覚よりも視覚のほうが優位だからだ。雨音の淡い虹いろは明暗順応に似た速さで視覚の濃い青紫と紅色の後ろに消えてゆく。
 ノートパソコンに目をやると画面はとっくにフェイドアウトしている。マウスをクリックしてもういちどパメラを探す。今夜彼女と会う。
彼女はセラフィスト。セラピストではなくセラフィストとパメラは自分をキャッチコピーしている。バルザック晩年の幻想天使小説『セラフィタ』のもじりだろうか。セラフィタとセラフィトゥス。両性具有の天使。
 彼女とのカウンセリングは一時間十万円。いや、初回面接は十五万。そのあとは毎回十万円。
安くはないが、天使の時間を買うのだから高すぎる値段ではない。世俗的にはミス・ユニバース級の美女パメラをきっちり一時間独占して対話できる、カウンセリングしてもらえるなら、十万、十五万だろうとむしろ適正価格ではないか。
 パメラのネット上のプロフィールは簡単で過剰な自己宣伝はない。名前はPamela。姓は伏せられている。年齢も。学歴は理想的に鮮やかだ。日本で最も難しい大学の心理学部。その後海外で修士号を取得。
臨床心理士の記載はないが、心理カウンセラーを名乗る。近々臨床心理の国家資格化が図られつつあるというけれど、パメラのようなタレントなら、国家資格だろうと民間カウンセラーだろうと、非の打ちどころのない学歴も加えて、人気は左右されない。
「あなた、何歳?」
 ウインドゥに呼び出したパメラに向かって莉珠子は尋ねる。雨音はさきほどより激しくなってきた。淡い虹いろの眩暈は網膜から消え、今は小刻みなモノトーンのリズムが鼓膜の上で踊っている。トップページ画像、金髪碧眼のパメラはステージ衣装のようにラメの散った純白のスーツを着ている。襟の小さいかっちりしたパンツスーツで、その下のブラウスはシンプルなスーツとは対照的に頸周りに大きなフリルがついている。色彩は莉珠子の庭の紫陽花と同じ濃い青紫。
 パンプスとブラウスはお揃いの色彩。画像はよく色彩調整されて靴とブラウスのパールがかった光沢がはっきり見える。濃いブルーはパメラの蜂蜜いろのヴェネツィア・ブロンドをひきたてる。細面の貌のまわりで大きく波打つふさふさしたロングヘア。
 それをベルばらオスカルと例えると即物的な形象説明としてはわかりやすいが、パメラの雰囲気はボッチチェルリの描く女性に似て、理知的だがどこか物憂いけだるさを漂わせていた。
 彼女がカウンセラーを名乗らず、こんなにストイックな白いスーツでなかったら…たとえばボディコンシャスで露出度の高い胸開きドレスでアップされていたら、高級娼婦としか思えないだろう。
 すらりと伸びた両脚は組み合わされず、快い角度で斜めに揃えられている。スラックスの生地に包まれたふくらはぎの柔らかい肉付きがさりげなく窺える膝下の陰翳。パメラのプロポーションはヒールの上乗せを差しひいてもパリコレのマヌカンみたいに九頭身半はありそうだ。
 ほっそりしたノーブルな美貌。なるほどセラフィタ=セラフィストは衣装を変えれば青年にも「なれる」。
 女優化粧にしても長い睫毛。高く細い鼻筋は東洋人のものではないけれど、純粋なアングロサクソンとも見えず、すんなりと柔らかな尾翼におさまって親しみやすく、彫りの深すぎる顔立ちにつきものの冷たさを免れていた。睫毛は本物かな? 
「この経歴どおりならあなたは三十歳くらいかしら」
 それならあたしと同世代。それならあたしはあなたに対面したらあがってしまうかしら。それとも嫉妬で真っ黒になってしまうかな。なんて華やかな才色兼備。申し分ないという世間標準の履歴感覚のはるか上を飛んでいる白鳥(セレブ)さん。
「わたし、高校卒業できなかったのよ」
 莉珠子は微笑んでパメラの画像に話しかけた。そのあと口の中でつぶやいた。
 だって眠かったんだもん。

「はじめまして、よくおいで下さいました」
 麻布十番の表通りからひとつ奥まった路地の一角、ベージュ色のこじんまりとした細長いビルの五階、エレベーターを降りるとすぐ目の前に薄緑の半透明なガラス扉があった。アール・デコのパート・デュ・ベールに似た質感のガラスは厚く、透きとおってはいるのだが、まるで深い淵のような濃い緑いろで、ルームの内側の様子は見えない。だが莉珠子が何も言わないうちに緑の水面は静かに左右に分かれ、金髪を顔の周りに揺らせたパメラが、ほっそりした上半身をかがめるように戸口に現われた。
 あ、と莉珠子は眼を瞠った。はじめまして。
パメラの声はその年齢の女性にしては低く深い。そして硬い。落ち着いた抑揚の日本語。外国人とは思えない。ゆっくりと瞬きする莉珠子の瞼の裏側に晴れやかな紫色がよぎる。それは王冠の黄金と対となる紫だ。聴覚が呼び出す色彩と一緒に禁色という言葉が浮かんだ。
 数回瞬きすると紫の幻影は消え、目の前のパメラは光沢のある銀色のスーツを着ていた。ブラウスは紺。無彩色に近いメタリックな衣裳。パンツではなくタイトスカート。磨いたステンレススチールみたいな細い脚。パンプスは紺。いやロイヤルブルーだ。ロイヤル。
 パメラにはロイヤルという単語が直観的に結びつくのだった。
「はじめまして、先生、あなたは」
 誰、と思わず口にしそうになり、莉珠子は言葉の代わりに口許だけで笑った。それから、
「先生はネットで拝見したお写真よりずっとお若いのでびっくりです」
「そうですか? ネット画像は派手めに加工してありますから」
 莉珠子の称賛を日本式に下方修正するパメラはそつのない微笑を浮かべた。屈託のない表情だ。莉珠子の感情の裏読みを計る企みのない笑顔。
「いえ、実物のほうがずっときれいです」
「ありがとうございます。それで、失礼ですが、クライエントご本人ですか?」
「はい、野川莉珠子です」
 数秒沈黙。碧の眸が莉珠子の貌を見つめ、
「ご年齢は三十二歳?」
「はい」
 一瞬パメラの眉がふわりと高くなった。が、すぐに驚愕のためにひらいたエメラルドの瞳孔を静め、かるく体をひねって室内へ入るように促し、しなやかな手つきで椅子を勧めた。
 六畳間ほどのルームに窓はない。アイボリーの壁に子供の背丈ほどのドラセナ・フレグランサ。念入りに手入れされた葉が天井灯を反射してつやつや光っている。ドラセナの前に面接用のテーブルと椅子。部屋は長方形で入口と同じ緑のガラス扉が奥まった室内の向こう正面にも見えた。
 天井から床まで分厚いパート・デュ・ベールの一枚板。いや、左右二枚併せの自動ドア。そして内側から眺めると、この緑のガラス扉の表面には巨大な孔雀が浮き彫りされていた。それは普通のカウンセリングルームのインテリアとしては好ましくない、威圧的なエンブレムに違いなかった。
 パメラがカウンセリングテーブルに座ると、尾羽と首を紋章のような弓形にたわめた華麗なエメラルドの孔雀が彼女の金髪の周囲で後光よろしく翼を広げて見える。ピーコックグリーンの補色のおかげで、ロイヤルブルーのブラウスはほのかに赤みがかり、紫を帯びて銀色のスーツの胸元にアメジスト光を放つ。スーツもルームにもほとんど装飾はなくてシンプルだが、どれもこれもみごとに計算されたうっとりする眺めだ。パヴォの王冠をいただいた彼女は女王様だ。
この光景だけで、パメラの客筋がどの程度のレベルか知れる。一時間十万払ってパメラからメンタルな慰謝と受容を買うにしても、非日常感の醸し出す美的陶酔の上乗せソースは必須だろう。
 楕円のテーブルをはさんで相対するパメラは着席すると、調えられた声で
「お悩みをうかがいましょう」
 流暢というよりも完全なネイティブ。教養の深さをうかがわせる洗練された響きの日本語だった。
アイボリーのテーブルの隅にはクリーム色の藤籠に盛られた観葉植物。その横で彼女の両手は丁重に組み合わされている。きめこまかな手の皮膚。しかし長い十指は典型的な先細りのレディ・フィンガーでありながら、白い皮膚を持ち上げてしっかりと骨格が見え、それは手先を使う労働を長い期間経験した結果のようだ。はなびら型の爪は透明マニキュアできっちりと指先で切り詰められている。きっと何か楽器を演奏するのだろう。片手だけでなく両手指の爪が短いのだから、ピアノかチェンバロか。
 パメラにはチェンバロが似合いそうだ。彼女が英国人ならハープシコードというのだろうか。
莉珠子の脳裏にフェルメールのあれこれの作品が浮かんだ。彼のモデルよりはパメラのほうが美しい。
「いろいろ…いくつかあります。まとめられるかしら」
 莉珠子はパメラの驚きの表情とそれをすぐさま収めた彼女の節度に満足した。実年齢は三十二歳。だが莉珠子の外見はたぶん十五、六にしか見えないのだった。肌も髪も。声も。
「メールでいただいた御相談内容はお母様との関係修復とありました」
「はい。修復って言うのかわからないんですが。母と仲が悪いわけじゃないんです。母はもう三十年近く病んでいて、今はもうほとんど寝たきり。医者の診立てでは、もうあと一年、半年」
「それはおつらいですね」
「ええ、いえ、先生、ここでは正直にお話しさせていただいていいんですよね」
「もちろん。御自分の許せる範囲でお話しください」
 気品あるパメラは莉珠子に威圧感も劣等感も与えない。莉珠子はリラックスしていた。そもそも彼我の差がありすぎる対象は、優劣比較の対象にならず別世界の住人としか感じられないのかもしれない。
「わたし、母がもうじき亡くなるのが悲しくないんです。もしかしたらうれしいのかもしれない」
「嬉しい?」
「そう。ほっとする感じ」
「ほっとするのですか。お母様の看病や介護は大変でしょうね」
「いいえ。介護保険で毎日ヘルパーさんに面倒みてもらえますから、肉体的にはそんなに大変ではないんです。母はわたしにとってとても大きな存在です。ただ母親という血のつながりだけじゃなく、わたしは今まで自分の人生のほとんどすべてを彼女に依存してきたって思っています」
「ほとんどすべてをお母様に依存なさっていたんですか。野川さんのお仕事はイラストレーターでしたね」
「はい。自称イラストレーター。定期的に個展を開いたり、イベントに参加させていただいたりして、知名度は少しくらいならあります。でもそれは自分でお金を払って買い取った評判で、ほんとうの世間的な実力とは違います。原稿料なんてわずかなものです」
 それまでおだやかに莉珠子の言葉をリフレインしていたパメラはここで礼儀正しく黙り、寛容な微笑を浮かべた。莉珠子は自分の卑下を意識して肩をすくめてみせた。
「わたし、自分に世渡りの才能がないってことわかってるの。たまたま母のおかげで就職しなくても暮らせる経済力に恵まれたので、まともに働いたこともないんです」
「あくせく労働するだけが仕事ではないと思いますよ。野川さんは絵を描くことで社会とつながっている。それは立派な職業です」
「ありがとうございます」
「お母様はお金持ちなのですね」
「ええ。彼女の病のおかげで私たちは、言葉は悪いんですが、たぶん湯水のようにお金を使っても一生困らない暮らしができます」
「湯水のように使っても? 浪費ですか?」
「そうですね、たぶん。だけどわたしは母親の病と自分の病のおかげであんまり浪費もできないんです」
「お母様と御自分の病?」
「そう。わたし、ずっと前から一日二十四時間の六、七時間くらいしか目が覚めていられなくなりました。精神科医に罹ったらナルコレプシーだって」
 パメラは豊かな金髪を軽く左右に振って驚きを浮かべた。けれどそれはつくりものの表情に莉珠子には見えた。
「一日に十五時間以上眠らないと頭がはっきりしません。だから外出があんまりできないし、高校は中退。大学にも行けなかった。旅行も、夜遊びも。お酒を飲む必要も感じない。友達も少ないけれど寂しくもない。寂しがっている時間がないんです。気が付くといつのまにか眠ってしまっている。絶えずうつらうつらと夢を見ているみたいな毎日。でもそれはナルコレプシーだけじゃなくて、母のおかげでもあるのです」
 パメラは眉を軽く寄せ、小首を傾げた。
「おかげ、とはお母様に好意的な言い方ですね」
「ええ。これを見ていただけます?」
 莉珠子はスマートフォンを開き、パメラの前に押しやった。
 白い指を風にそよがせるようにパメラはスマホを拾いあげ、伏し目に画像を見つめる。彼女の貌の周りの蜂蜜いろの巻き毛はごくわずかな身のこなしにもふさふさと大きく動き、手を伸ばせば触れられる近さで見る金髪は、いっぽんずつ純金属を磨いたように硬質な艶をまとっていた。
(この髪はどんな手入れをしているの? かつらかしら? 人形の髪の毛みたい)
 莉珠子はそんなパメラを眺めながら、今自分はきっと無邪気に笑っているに違いないと思った。
(あたしの口許は緩んで、きっと前歯を見せて微笑んでいる。パメラが綺麗だから。このひとを見ていると楽しいから。ママが若いヘルパーさんを見るとにこにこするように、あたしも、たぶん)
「これは野川さんと、野川さんによく似た方と」
 パメラはうつむいていた顔をあげ、言いよどんでスマホをテーブルに置いた。
 莉珠子はそっと中指を伸ばし、暗転してしまった画像をまた呼び戻す。
 そこに映し出された花模様のインテリアでいっぱいの寝室は家具屋のモデルルームさながらだ。フリルのたくさんついたカーテンもレースの縁取りの布団カバーも、目につくいっさいがっさいの小物調度は全部ローラ・アシュレィで、ピンクと赤が多い。
 薔薇模様の真ん中、おとぎ話の小道具のような猫足寝台の上に、青いネグリジェの、ほっそりした長い髪の少女と、その右にショートカットの莉珠子。ネグリジェの少女の左側にはレモンイエローのTシャツを着て小麦色の肌をした丸顔の娘が片手でちょきを出して笑っている。長い髪の少女と莉珠子はパメラが指摘するようによく似ていて、卵型の輪郭のきれいな顎、控え目だが涼しげに整った目鼻立ちをしている。
「わたしと、ヘルパーさん、このレモンイエローのひとね。それから亜珠子さん」
「あすこ?」
「ここどこあすこ」
「なんですって?」
「だじゃれです。カウンセリングの最中にも笑いは必要でしょう。特にどシリアスな真っ最中には」
 は、は、とパメラは喉をそらせて笑った。スレンダーな印象とはうらはらに頸は太い。プラチナのベルトのようなチョーカーをパメラは首の真ん中に嵌めていた。きらきら光るのはダイヤモンドだろう。スーツのメタリックな光沢と同じきらめきだった。
「でね、先生、いっきにシリアスよ。亜珠子さんはあたしの母です」
 ものも言わずにパメラはテーブルの上からスマホを取り戻し、しげしげと画像をチェックした。指先で亜珠子の貌を拡大している。
拡大したって亜珠子の貌は二十歳だ。メイクなしのつるすべ素肌。
「お母さま、御病気の?」
 耳に心地よいアルトに動揺はない。さすがロイヤル。一時間十万取るならそのくらいクールでなくちゃ、と莉珠子。
「そう。彼女は今年七十歳になりました。あたしを産んだのが四十歳のとき。この写真を撮ったのは先月で、訪問看護師さんが来て下さったとき、めずらしくわたしも母も覚醒していたのです。昨年から母はもうずっと寝たきりというより傾眠状態。わたしもさっきお話ししたように、ナルコレプシーでほとんど眠ってます」
「亜珠子さんは高齢者には見えません」
「そう。母は病気なんです。これも説明しなくちゃなりませんね。でないと話がまとまらないから」
「どうぞ」
「早老症ってご存知ですか? ウェルナー症候群。通常の何倍もの速さで肉体の老化が進み、中高年半ばで死に至る。ただし意識や認知などはほぼ最後まで保たれる」
「はい、知っています。昔は近親婚の多い閉鎖地域などに多かった症例ですね。非常にまれな病気です」
「介護保険は日本では六十五歳以上でないと普通は利用できません。だけど、四十歳からでも、厚労省の指定する特定疾病に罹った場合は利用できるの。早老症はそのひとつ」
「はい」
 こっくりとパメラはうなずいた。珊瑚いろのかたちの良い唇。今までルージュの印象がなかったのは、それが控え目なコーラルのためだった。
「母は早老症の真逆の病。年を取るのが遅いの。遅い、というか肉体の老化が停止してしまった。わたしを産んだのが四十歳で、そこから加齢がぴたっと止まり、それどころか時間を逆行するようにすこしづつ若返ってゆきました」
「時間を逆行するように若返ったんですか」
 ありえない、というニュアンスはその声にない。現実に、古稀に至りながら、みどりの黒髪つややかな人形顔の亜珠子を見たのだから。

 獅子ヶ谷に戻ったのは午後十時を回っていた。
 七時にパメラとの初回カウンセリングを終えて外に出ると霧雨で、ビルのひしめく殺伐とした街中のイルミネーションが湿度の膜を被ってぼんやりと青や紫に煙っていた。傘を開くよりも早くタクシーを拾い、自宅へ直行した。もう眠気は膝上まで這い上がっている。
(二時に起きてからもう五時間。武蔵野にたどりつくまで一時間半?)
 タクシードライバーに住所を伝えると、莉珠子はくたくたと眠り込んだ。欠伸の出る隙もない。
(ポーンの覚醒剤を飲んだんだけど、緊張すると効き目が緩いな)
 一錠服用すれば一時間長く目を覚ましていられるよ、と送られてきた紫の錠剤。ポーンはアメリカの製薬会社シーザーの契約社員、歩兵、だ。亜珠子と莉珠子の担当だった。
 紫の粒は緑の遮光ガラス瓶にぎっしり詰まっていた。紫、グリーン。碧の眸のパメラも濃い紫のヴィジョンをくれる。それから彼女のエンブレム、エメラルドグリーンのパヴォ。
 瞼の中でその二色が交錯して踊る。それに霧雨からいつしか車窓を叩く大粒となった雨音がまじる。けれどアスファルトを疾走する自動車の騒音に消されて透明な虹は今見えてこない。眠気はベルベットのような肌触りで莉珠子を包む。そこにちらつくパープルとグリーンの残像は眠りの中で窯変天目の星のようだ。
 おかえりなさい。
 部屋の扉を開けると、パソコン机の前の椅子にポーンが膝を組み、腕組みして座っていた。赤茶けたぼさぼさ頭にそばかすだらけの顔。タータンチェックかギンガムチェックか、ときどきはバーバリーらしい、いつもいろんな格子模様のシャツを膝の抜けたブルージーンズに着て、大抵胸のボタンは上二つ外れている。デビッド・ボウイも顔負けの痩せっぽち。年齢不詳。二十代前半から四十代半ばのどこかをポーンはさまよっていた。
 電気も点けていないのに、シーザーからポーンが「送られてきた」おかげで部屋はうっすらと明るかった。
 多次元立体投影画像、プロジェクション・ワープのポーンの姿はところどころ透きとおっていた。パソコン専用の椅子の背もたれが、赤と緑のポーンのチェック模様のシャツの向こう側に見えている。莉珠子のパソコンのデスクトップに内蔵された多次元受像機の音が雨音の響く闇の中で、しーしーしー、と虫の鳴くような音を立てている。
「ハロー」
「日本語でいいよ。パメラはどうだった」
「お見通しでしょ。あたしの行くところどこにだってあんたたちは着いて来るわ」
 ポーンは膝に組んだ片足を大きく振り、にやにやわらった。
「君らは弊社の大切な商品だからね。ボディ・ガードさ」
「ありがとう。ポーンこそ今どこにいるの?」
「中東のどこか。ある王さまがユメテルナをご所望」
「副作用は改良されたの?」
 ポーンは薄茶色の雀斑の浮いた小鼻に皺を寄せた。
「半年前よりはね。心筋梗塞とパーキンソン症状、脳血管障害の危険性は5パーセント、いや6パーセント改善された」
「呆れた。それでも服用したいの? その王さまは」
「秦の始皇帝、紀元前数千年エジプト古代王朝以来、不老不死は人類永遠のユメだ」
「亜珠子さんもあたしも不死じゃない。亜珠子さんはもうじき」
「彼女は死なない。我がシーザーの膝元で文字通り永遠の眠りについてもらう」
「クローンはもう何百体、何千体と作ったはずよ。亜珠子さんもあたしも」
「オリジナルはレプリカに勝る。人間の知は神の手には絶対に勝てない。君ら母子は奇跡的なミュータントであり、謎だ」
「褒められてるのか脅迫されてるのか、いつも不明よ、ポーン」
「賛美してる。七十歳にして少女の肉体の亜珠子。世界中のセレブが君たちを羨んでいる」
「ママはもう二十年も認知機能がすっかりいかれてるわ」
「永遠の肉体美の代償に神は彼女の思考を奪った。しかし知的障がい者がエイジレスという法則はない。君たちは特別なんだ」
 ポーンは腕組みをほどき、右手の人差し指をまっすぐ一本顔の前にたてて、チ、チ、チ、と莉珠子の感情の振幅を測るように振った。
「さらに君、莉珠子。君は若年性認知症の母親と異なり、心身共に健康だ」
「ナルコレプシーで適応障害よ」
「その程度のトラブルは問題じゃない。君は通常の加齢速度の半分以下のスピードでしか生きていない。どう見たって君は十五歳の初々しい少女だ。これから君はどうなるのか。どこかで亜珠子と同じように肉体の時間がとまり、脳機能も」
 ポーンはそこで口を噤んだ。青白い顔にふわふわと血の気が昇る。かるく唇をとがらせ頬がぷっくりとふくらんだ。美味しいものを頬っぺたに含んだせいでしゃべれなくなった幼児のような表情に、莉珠子は吹き出した。「ポーン。あなたのおしゃべりには馴れてるわ」
「さんきゅ。君が物わかり良いのでシーザーは御満悦だ」
 莉珠子の親切なフォローをひょいとかわす薄情な軽業は、やはり世界を股にかけて飛びまわる妖精ポーンだけのことはある。
「ユメテルナはどのくらいの効き目があるの、今」
「服用する量と人の体質によりけりだが、万能美容サプリだ。代謝を賦活させ、肌、髪、歯、眼、すべてに著効がある。美容整形よりはるかにダメージがない上に、全身が活性化するからね」
ここでポーンはずるそうな顔をした。薄い唇の端にちらっと赤い舌をひらめかせ、日本流のあかんべでもしかねない顔だ。莉珠子はポーンには特定不特定問わずガールフレンドがいないに違いないと思っていた。今、こうしたポーンの露悪的な表情を見る瞬間、莉珠子の憶測は確信に裏付けされる。
 が莉珠子はそんな皮肉な感情はおくびにも出さず、きまじめに応える。
「でも心臓麻痺」
「そう、この十年、ユメに殉じた美男美女は数知れず」
 ポーンの顔の周囲に十数人の顔写真が次々とかわりばんこに浮かんでは消えた。その何人かは莉珠子も見覚えがある欧米、アジアの俳優女優だった。
 アメリカの製薬会社シーザーは人類史上例を見ないエイジレスという奇病に罹った亜珠子と莉珠子の細胞から、人間の肉体の老化を妨げるサプリメント〈ユメテルナ〉を製造している。初期の試作から段階を経て、現在は心臓発作、肝機能障害ほか、重篤な副作用が予想されるものの、エヴァー・グリーンを求めるセレブリティの希求をある程度満たす品質を提供している、と自称していた。
 シーザーから亜珠子莉珠子に支払われるギャランテは莫大だった。ユメテルナは高額にもかかわらず飛ぶように売れている。そしてもうじき亜珠子の心臓が停まったら、亜珠子の体はアメリカに運ばれ、それこそミトコンドリアの一滴までもシーザー社によって研究され尽くすはずだった。
「夢は更新され続けるから甘美なんだ」
 ポーンは得意げに小鼻をひくつかせた。小気味よく尖った二等辺三角形の鼻孔が、また腕組みしてふんぞりかえったそばかす顔の真ん中で二つ並んで黒く目出つ。児童向け映画の定型的キャラクターのようなポーン。ノーティボーイ。いじめっ子役なら今のまんま最適な彼だが、莉珠子は平気だった。
「眠いわ、あたし」
「リアルキーパーの効き目はとっくに切れてるね。君一錠しか飲まなかったろ」
「しつこく監視してるのね、ポーン。もうじきママの遺体と、無限に近い数のあたしたちのクローンと、それだけじゃない、卵子凍結で作り出した何十人かのあたしたちの〈実子〉がシーザーの宮廷にストックされてるはずよ。それでもあたしに貼りつく価値って、ただあたしがオリジナルだからなの?」
「イエスイエスイエス。その上さらに運命をシーザーは待っている。君を待つ運命、偶然はシーザーに創造不可能。無理やりな操作はできるさ。例えば君に妙齢の性欲旺盛な美青年をあてがって孕ませる。自然出産で生まれた子供がどう育つか、とね」
「呆れたものだわ。あたしの赤ちゃんたちは無事に養育されてるの?」
「もちろん。みな父親が違う。ガラスの部屋でたっぷりと養分を与えられ、次世代次々世代のユメテルナの貴重な遺伝子資源、いや候補だ。だが彼らがエイジレスの奇跡をくれるかはまだ分からない」
「ということはまっとうに育っているのね」
「ふん。僕はおしゃべりだ。いいさ、君たち自体が二代続いたミュータントなんだから。人工的な人間牧場でオリジナルと同等のエントロピーを持つ個体が生まれる可能性は、そもそも低い」
「ポーンの冷酷なところ、あたしは嫌いじゃないわ」
「そう、僕は正直だからシーザーの宮廷では出世しない。気楽に我儘に世界中のバイヤーを駆け回るだけの、しがない歩兵さ」
「あたしだって卵子提供して生まれた自分の子供たちに同情心がないもの」
「その文脈では僕ごときでも母性愛という単語を使う。莉珠子も僕レベルにクールだ。どうやら僕らはうまがあう?」
 ポーンは椅子から立ち上がり、莉珠子にむかって両手をひろげ、抱きしめるために近寄ってきそうなジェスチュアをした。莉珠子はにっこりと小首を傾け、一歩下がった。
「ポーン、亜珠子さんがアメリカに運ばれちゃったら、この紫陽花と夕顔だらけの家にあたしはひとりぼっちよ。そして時々あなたは幽霊みたいにやってきて、でたらめな言いたい放題をぬかすのね。あたしの孤独をどうやって埋めるの? あたしはとっくの昔に世間普通の喜怒哀楽がわからなくなってるみたいよ。ごく普通の三十二歳の女だったら、いいえ、十五歳の少女だって、人間牧場で飼育されてる自分の子孫の夢を見ることなど望まないでしょうよ」
 ポーンはちっとも怯まなかった。彼の姿は莉珠子の長広舌の間に足元から徐々に消えてゆき、風にひらひらと揺れる風鈴の短冊のように薄くなった。
 それから雨音が激しくなった。
赤と緑のチェックの短冊が闇の中でゆらゆらとつぶやいた
「君ら母娘が夢なんだ。シーザーも、僕も、世界中の、永遠に死にたくない、永遠に年を取りたくない執念深い連中が、君たちを夢に見ている」
 

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