さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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ラプンツェル・ダイナマイト  PTh2

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  ラプンツェル・ダイナマイト    PTh 2

 七月近く、夕暮れの四時を過ぎると、庭の半分を埋めた夕顔の花がぽつりぽつりと開きはじめる。
 獅子ケ谷住宅街の細道に面した煉瓦の門扉から玄関に通じる東南は紫陽花の群落で、こんもりした葉蔭花影に、夜にはアマガエルも歌う。南に向かって小さいバルコニーのある居間を境にした西側は、二階まで蔓を這わせて夕顔を栽培している。夕顔は亜珠子の好きな花だった。
 なめらかな白い絹を軽く絞ったような莟のふくらみがふと緩み、静かな影りのなかで吐息を漏らすように花弁を緩める。その瞬間ふっくらとした花の奥から清冽な水の匂いが立って、薄藍に溶け入り染めたかはたれに、夕顔の香りはほのかな明るさを添えるのだった。
「亜珠子さん、夕顔が咲いたよ」
 西南の一角は亜珠子の寝室だった。ピンクの薔薇で彩られたお姫様の部屋。眠れる薔薇の森の亜珠子。ラファエル前派の絵画のように亜珠子は花々の中で、やや不規則な寝息をたてている。
 寝たきり〈高齢者〉亜珠子は背中や腰、足に褥瘡防止のクッションをいくつもあてがっているが、無用の長物だった。
 癖のないしっとりした黒髪は毎日莉珠子と介護ヘルパーが交代でブラッシングし、週に一度、シャンプーしている。白髪の一筋もない。意識不明の時間にも黒髪はつやつやと豊かに伸び、今では爪先まで届く。平安時代の貴婦人のように、寝ている亜珠子の長い髪は中程で一つに束ね、枕上に流していた。
 たまさか亜珠子が両脚で立つと、彼女の肩から背中、足首に達する長い髪は、ため息が出るほどの艶を見せた。亜珠子を介護するヘヘルパーたちはきれいな亜珠子の身体に触れるのを喜んでいるようだった。
 ほんのりと桜色をたたえた象牙色の皮膚は全身きめ細かく、寝たきりにもかかわらず、手足の隅々まで柔らかく血が通っている。七十歳で生体時間を停止しようとしている亜珠子の肉体はすんなりと乙女のまま。廃用症候群の気配はなかった。
 莉珠子は小雨の止んだあとの張り出し窓を開け、ちょうど目の前に開いたばかりの夕顔のうてなに指を添えた。淡い香がする。それは花の匂いに違いないが、とても軽くさわやかなので、莉珠子は勝手に水の香りと形容していた。自分たちが夕顔と呼んでいるこの花も、ほんとうのところはヨルガオというのが正確らしい。だが源氏物語を好んだ亜珠子は、夏の暮れ方から夜明け方までつぎつぎと白い花を咲かせるこちらの花を夕顔と決めていた。
 夕顔は切り花には不向きだった。眠っている亜珠子に花の香を嗅がせてあげたいが、花を支える蔓をベッドまでひっぱるにはまだ短かった。これから十月、十一月の初冬までも生命力の旺盛な夕顔は着々と成長しながら何百もの花を咲かせてゆく。
 間もなく七月も半ばになれば、野川家は成熟した夕顔の蔓と花群にすっぽりと覆われ、屋根や壁を覆う夜目にもあざやかな純白の花の乱舞は近隣住民の眼を瞠らせた。
「ラプンツェルさん、亜珠子さん、もうじき御飯よ」
 花模様に埋もれて亜珠子の顔は陶器の人形のようだ。
高い塔のラプンツェルは魔女に閉じ込められたのだけれど、亜珠子の魂、意識を封印したのは奇異な病であり、老いだった。亜珠子の長い髪を伝わって魔女退治にやってくる王子はいない。
 長年直射日光に当たらないので色素が薄くなり、こめかみや瞼の静脈が透けて見える繊細は、セラフィストパメラの顔を思わせた。顎の小さい亜珠子の顔を莉珠子は両手で包み、頬の熱さを測った。このきれいな顔に自分が似ているのは悪くない、といつも思う。眠り続けているのに下瞼に指で押したような蒼い翳りがある。
「亜珠子さん、お、き、て」
「うん」
 やや受け口気味の下唇がかすかに動き、かぼそい声が来た。
「りっちゃん、どこ」
「夕顔が咲いたわよ。好きでしょ」
 返事はなかった。半開きの唇のなかで粒のそろった前歯が光って見える。笑っているのか。莉珠子は両手に挟んだ母親の頭をかすかに左右に揺すった。皺も染みもない白磁のような顔の中では、あちこち委縮して小さくなってしまった亜珠子の脳がふらふらしているはずだった。ころん、ころん、と頭蓋骨に小さな脳味噌がぶつかって、土鈴のような音が聞こえるのではないか。
 だが、莉珠子に揺さぶられても亜珠子はすうすうと気持ちよさそうに眠り続けている。
「あっちゃん、あたしのお父さん誰?」
 お父さんどこにいるの? 
 物心ついたころから何度亜珠子に尋ねただろう。そのたびに母親は空を指さし、
「莉珠子は天から授かったの」
 三歳の幼児でも納得できるはずもない答えだったが、お父さん誰、お父さんどこ、と莉珠子が問いただすたびに、亜珠子はみずみずと潤いを増し、少女の容姿に還っていったような気がしていた。
 莉珠子が十歳になるころには、ふたりは年の離れた姉妹にしか見えなかった。それから莉珠子の時間も遅く流れ始めた。それから亜珠子の失見当、記憶障害もひどくなっていった。
 そのころシーザーが母娘に手を伸ばしてきた。

「莉珠子さんは自分がお母さまと別々な人格だと思えない?」
「はい、でもそれは〈思えなかった〉と過去形です。十年くらい前までは。わたしは亜珠子さんと心のどこかでつながっていて、彼女とわたしはシャム双生児のように精神のどこかが癒着しているみたいだ、と思っていたんです」
 五時半にやってきた介護ヘルパーに亜珠子の世話を任せ、リアルキーパーを二錠口に放り込んで莉珠子は獅子ケ谷からタクシーに乗った。今日は午後三時に目を覚ましたから、
 九時までならどうにか覚醒していられる。だけど九時では丁度カウンセリングが終わる時間だ。そこから自宅へタクシーを飛ばして戻ってくるまでなんとか起きていたい。六時間プラス二時間だから、RK二錠。
(いっぺんに多量服用は好ましくない。頻脈または、躁状態もありうる。莉珠子の場合は鼻血かな)
 ひっひっひ、と喉だけで笑うポーンの底意地の悪い含み声が、紫の丸薬二粒を呑みこんだ瞬間莉珠子の鼓膜をかすめた。その笑い声に色彩の幻覚がつきまとわないのはラッキーだった。
「母子癒着ですね。莉珠子さんのように御自分の精神状態をはっきり自覚しておられたクライエントは珍しいかもしれません」
 エメラルドグリーンの孔雀レリーフの前に座ったパメラは、左手の人差し指で顔に降りかかる片側の巻き毛を一房はらりとかきやった。今日は首の後ろで金髪をまとめている。髪飾りは七宝に似た中近東のエナメルバレッタだった。
 スーツではなくクリーム色のさっぱりとした麻の袖なしワンピースを着ている。ワンピースの下には黒い薄物のブラウスを着て腕や腋の素肌は見せない。光沢のあるサッシュベルトは黒で、サンダルも黒。丸襟に胸元の開いた首回りにはサッシュとお揃いらしいオニキスの二重ネックレスを巻いている。今日のパメラの自己主張は黒と淡黄色。光と影。フレアースカートの襞はゆったりとして、光の領域のほうが闇より大きい。
 莉珠子は白地にこまかな青のドットのコットンワンピースを選んだ。クラシックな開襟デザインだから、子供っぽい水玉模様のわりにはフェミニンに見える。だがノースリーブからすらりと伸びた莉珠子の両腕は柔らかく細く、中年女性のものではなかった。
「母はずっと奇病にかかって、年とともにそれがひどくなる一方でした。若年性認知症。時間や空間がわからなくなり、物忘れがひどくなり、不安や不眠、妄言を言い募ったりしながら、落ちていきました。わたしはまだ子供だったけれど、母がおかしくなるのがはっきりわかったんです。ママ、おかしい、ほんとはこんなママじゃないはずって」
「そうですね、病気と本来の人格とは違いますね」
「ええ。だから悲しむだけじゃなく、わたしは亜珠子さんを割とクールに観察できたんじゃないかな。ママは憧れの対象、だいすきだけど、病んでるんだと。そして内面的には崩壊……言葉は悪いですが……していくのに、奇妙なエイジレス病も進行して、母の外見はどんどん若くきれいになっていったんです」
「時間を巻き戻すように」
「はい。もともとあんまり顔に老けが出ないひとだったと思います。画像の中で赤ちゃんのわたしを抱いている母は、四十一ですが、その姿も二十代後半くらいにしか見えません。
今は二十歳か十八か」
「はい、驚きました」
 パメラはにこっと笑った。船型に開いた唇の輪郭の中で白い歯列がきちっと揃っている。
「あたしと母は顔も体つきもよく似ています。性格はどうかしら。性格も似ているはずだったかもしれません。母の性格はわからないんです。だってわたしが物事の見きわめができるようになり始めたころ、母は認知症になってしまいましたから」
「大変でしたね」
「大変だったかしら。世間並みの苦労はしていないと思います。シーザーが現れて、あたしたちを経済的に保護してくれてました」
「シーザーとは?」
「最初彼は亜珠子さんの絵やオブジェを買ってくれたんです。亜珠子さんはアーティストだったから。絵の才能があったの。それから歌もうまかった。声がきれいで。小さいころ亜珠子さんはよく子守唄を歌ってくれました」
「すてきなお母さまですね」
「ええ。シーザーは…。シーザーはどうやって母に接近したのかな。すみませんわたし、今気づきました。シーザーがどうやってあたしたちを知ったのか、あたしはそのことを亜珠子さんから何も聞いてないわ」 
 うろたえて莉珠子は椅子から半立ちになった。そうだ、亜珠子の絵を買ってくれていたはずだ。だけどその芸術的パトロンが、いつからあたしたちの細胞を買い取ってサプリメント用クローンを増殖させる製薬会社になったのだろう。
「莉珠子さん、落ち着きましょう。わからないことはわからなくていいんです。話せることだけお話しくださいね。すてきなお母さまは幼いあなたに、フォーレの子守唄を唄ってくれたんですね」
「ええ、そう」
 座り込む。とたんにへなへなと両膝の力が抜け、ひどい睡魔に襲われる。母の子守唄が脳裏によみがえる。眠りをさそうガブリエル・フォーレの旋律。天使の音楽。睡魔と追憶のはざまで母親の声は薄紫。
「先生、わたし、フォーレって言った?」
 能無しポーン、RKの効き目なんて追憶よりも弱いじゃない。

 ペパーミントの香が鼻孔にあふれて莉珠子は咳きこんだ。いきなり強すぎる刺激だ。パメラのカウンセリングルームには、空気清浄装置からたちのぼるほのかなラヴェンダーミスト以外の匂いはなかったはず……。
 それに、パメラには体臭がなかった。初回面接のときに気付いたが、彼女は香水さえも使っていない。欧米人には稀な体質だ。東洋の遺伝子が入っているのかもしれない。
 むせかえった弾みに飛び起きた莉珠子は、今まで自分がベッドに寝かされていたことがわかった。白いシーツとタオルケット。白い壁。カーテン。
 ベッドは寝相が悪ければ転げ落ちてしまいそうに細長い。学校の保健室の寝台でも、もうすこしゆとりがある。だが清潔だった。ミントの香りといっしょに、胸元のタオルケットからフローラルな石鹸の匂いがする。洗いたての布の感触は安心をくれた。
「お水をどうぞ」
 きれいな声といっしょに白衣の腕がすっと伸びてきて、ガラスのコップを手渡した。ミントの葉がひとひら浮かんでいる。つん、と鋭く匂うが、さっきのミントグリーンの衝撃源にはちょっと不足だ。
「莉珠子さん、ほんとによく眠ってたわ」
「あなたはどなたですか。わたしはカウンセリングルームにいたはずよ」
 コップをくれた腕から視線を移すと、魅力的な顔があった。小麦色の肌をした晴れやかな表情で、斜めに体を退いて莉珠子を見下ろす視線がさわやかだった。
「パメラが昨夜あなたをここへ連れてきたのよ。面接中に眠り込んでしまったと」
「はい」
 そうだったのか。亜珠子の子守唄の旋律が記憶から立ち上ってきて、睡魔もやってきて、それで……。
「今、何日の何時でしょうか」
「昨日の今日で、午後一時。だいたい十六時間眠ってましたね。眠り姫さん」
「ここはどこですか」
「星と小鳥のクリニック。わたしはここの管理者兼勤務医の羽戸です」
 医師を名乗った女性はベッドに身をかがめて自分のネームプレートを見せた。
「ハト? 鳥の鳩。だから星と小鳥なの?」
「そうだと面白いわね。でも経営者は別」
 耳の見える栗色のショートカット。羽戸医師は三十代だろうか、小造りな顔にほどよく鼻筋がとおり、きりりと切れ長な目元が心地よい。女性自衛官か警察官募集のモデルにぴったりな顔立ちと雰囲気。頬骨のあたりに淡く雀斑が見えるのも健康的だった。莉珠子は反射的にポーンを思い出したが、顔にお茶漬け海苔を吹きかけたようなポーンと、羽戸医師とでは月とスッポンだった。
「ここは麻布なんですか」
「いえ、六本木」
「パメラが眠り込んだわたしをここに救急搬送したの?」
「彼女が自分の車で運んできたの。そしてカウンセリングの守秘義務には反するけれど、緊急事態だからと、あなたの持病も聞かせてもらいました。エイジレスとナルコレプシー。ほんとね、あなたは中学生、高校生にしか見えなかったし、見えませんね」
「パメラは」
「帰りました。あなたの住所を知っているけれど、送っていくわけにはいかない。だってお母さまも寝たきり、ターミナルに近いからと」
 莉珠子の問いに応える羽戸医師の声には情緒の無駄がない。かといって横柄でもなく、うろたえている患者への善意にあふれているのがわかる。
 受け取ったコップから水を飲むと、喉をすべり落ちるミントの風味といっしょに羽戸医師の声が初夏の木漏れ日のように莉珠子の鼓膜に入ってくる。ドクター・ハトの声はペパーミント・ウォーター。
「先生、おひとりでここを? 診察時間は」
「このクリニックの診察時間は原則夕方から深夜なの。特別な予約があったときは午前中診療します。医師はわたしのほかに二人。昨夜はたまたまわたしが夜勤だったの」
「夜勤が普通みたいなクリニックなんですね」
 莉珠子の何気ない言葉に、羽戸は笑顔のままかるく唇を結んだ。微笑にかすかな緊張が走った。が、声音は明るいまま、
「そう。ちょうど野川さんの眼が覚めてくれてよかった。わたしはそろそろ帰ろうとしていたところだったの。お住まいは獅子ケ谷でしたね?」
「はい。タクシー呼んでいただけます?」
 先生、ちょっと、とカーテンの後ろから看護師が顔を見せた。ひそひそした声で
「また、やっちゃいましたよ、あの子」
「ああ」
 羽戸医師は体ごと看護師のほうを振り返ると、さりげない声のまま、
「個室にグッズは置かないはずでしょ。何でやったの」
「それが、ミリペンなんです。尖端の細い、極細の青いペンを、こう、ぐさっ」

 タクシーは首都環状線の事故渋滞に会い、獅子ケ谷に戻った時は四時を過ぎていた。
車のなかでも莉珠子はうとうとしていたが、星と小鳥のクリニックで熟睡させてもらったおかげで、それほど眠くはなかった。長年の習慣で退屈になると目を瞑る。じきにするすると眠りに包まれる。眠りは触り心地のよい布のようだった。淡い眠りは透明な雨の膜のようであり、睡魔に襲われる時は、重厚なヴェルヴェットの質感だ。
 タクシーに揺られながら排気ガスとかすかな煙草の臭気を嗅ぎながらのうたたねは快適ではなかったのに、莉珠子はきれいな夢を見ていた。夢を見るのは珍しいことだった。ナルコレプシーという病のせいなのか、それとも莉珠子の体質なのか、彼女はほとんど夢を見ない。
 ドライバーに促されて自宅手前の四辻で降りると、驚いたことに家から十メートルほど離れた一角まで、夕顔の蔓が一本だけ伸びてきていた。朝顔よりも肉厚で濃い緑の葉が何十枚も螺旋状に繁り、ところどころで、白い中太りの筒のような莟がぽったりと咲きかかっていた。
「わあ、きれい、でもたいへん」
 隣近所の迷惑になるから、この蔓は切り取らなくちゃ。だけど今夜一晩なら、この細道に放置したっていいかもしれない。車は入ってこないし、夜目にも白く、大きい夕顔の花は人気の少ない路地に明るさをくれるに違いない。それに清冽な香りと。
 莉珠子の思案を読み取ったかのように、ふっと一つ花開いた。家から乗り出した蔓の一番壁際の花だ。じっと見ていると、いくつか呼吸を置いてまた咲いた。一ツ、二ツ、三ツ、何かを指折り数えて、ほっ、という安堵の息を吐くように、白い花が順々に、莉珠子の立っている四つ角まで咲きつらなってくる。
 一本の夕顔の蔓に、規則正しい時間と空間を置いて咲く白い花の絆(つな)は、眼に見えない誰かの足跡のようだ。
顔を上げると路地に面した莉珠子の家の西側ほとんど、夏の朱い西陽を浴びながら緑の蔓りに埋め尽くされ、夕映えを照り返す純白の花が壁面を飾っている。
 夕顔の蔓を渡って開花といっしょにこちらにやってきた誰かは莉珠子の家に棲んでいる亜珠子かもしれない。臨終近く昏睡している亜珠子が、生命力旺盛な夕顔に憑依して、莉珠子を迎えに来たのかもしれない。
 ゆらゆらと蔓の先端が莉珠子の爪先まで伸び、小蛇のように緑の鎌首を持ち上げた。
「よかったっ! 野川さん、いらっしゃったんですねっ」
 必死あらわな大声が飛んできて、莉珠子は我に返った。
「探したんですけどっ、お母さんが、ベッドにいないんですよお」
 叫び声は最後に「よおお」と半泣きにしぼんだ。夢うつつでふらふらしている莉珠子の右腕をむんずとつかんでヘルパーが、
「さっき、いつもどおりお宅にうかがったら、鍵が開いていて、それもいつもどおりだったんですけれど、あがって、お母さんの寝室に行ったら、どこにもいないの」
「え、え」
 莉珠子は数回大きく瞬きした
(タクシーに乗って六本木から武蔵野まで戻ってきて、車を降りたら辻まで夕顔が花を開きながら伸びてきていた。足もとで蔓のさきっぽがひょろりと首を持ち上げて)
 柊と山茶花の生け垣の真ん中の門扉の前に莉珠子は立っている。門扉は野川邸の南表に面しており、亜珠子の好みでアンティーク調の薔薇の楕円天井アーチが設けられていた。五月に見ごろだったピンクの蔓薔薇は梅雨も終わりの今は花弁を落とす休憩の季節で、庭の奥を占める紫陽花や、壁を這いのぼる夕顔に負けて印象が薄い。
 莉珠子はそのアイアンアーチの真下で立ちすくんでいる。
(いつここまで歩いたの?)
 タクシーを降りたのは夢だったの、それとも現実?
 ヘルパーは動顛まるだしに顔を紅潮させ、
「娘さんも探したんですけど、お部屋にもいなくて、失礼だとは思ったんですけど、お家の中じゅう探して、いないから出てきたら、こんなところに。外出してたんですか?」
「ええ、そうです。母がいない?」
「そうです。何年か前には徘徊がおありでしたけど、もうずっと寝たきりだったから」
「まさか。起きるのがやっとなんだから」
「ですよね。でもいないんです」
 いつもは適切な敬語を使うベテランヘルパーは、声もうわずってしどろもどろだった。
 自分の夢うつつは後回しにして莉珠子はあたふたと亜珠子の部屋へ行った。
 薔薇とフリルの寝室はきれいに片付いていた。荒らされた気配はない。セコムよりも完璧なシーザーの監視が守るこの家に犯罪の忍び込む余地はない、はずなのだが。
 数日前にヘルパーが夏物に取り換えたばかりの薄手の布団が半分めくれ、亜珠子は本当に姿を消している。数時間か、数十分前か、確かに彼女の寝ていた痕が窪んでいる。
 莉珠子はその凹みに手のひらをあててみた。ひやりとして体温は残っていない。亜珠子がいなくなったのは昨夜ではないかという気がした。セラフィストパメラのカウンセリングルームで莉珠子が眠り込み、星と小鳥のクリニックに担ぎ込まれた都心の騒動の間に、獅子ケ谷の自宅でも変事が起きた。莉珠子に事件があった時間に、亜珠子にも。
(だめ、こういう直観って亜珠子さんとの癒着強迫観念に違いないんだから)
 が、現実に亜珠子はいない。
「探さなくちゃ。ああ、もうそんなことは無くなったのに違いないと思ってGPSも切ってしまっているわ」
 亜珠子がまだ一人歩きできた数年前まで、認知症徘徊探知機は、起床センサーと一緒に寝室に備え付けてあったが、今はない。
「とりあえず事業所に連絡させてもらっていいですか。それから指示を待ちます」
「そうしてください」
 スマホを片手に廊下へ飛び出したヘルパーを見送り、莉珠子は亜珠子のベッドサイドの小机にちょこんと立っている水色の上着を着たピーター・ラビットを取り上げた。片耳をぴんと立て、もう一方の耳は斜めに折れている。短い両手にオレンジ色のニンジンをマイクのように握っていた。
「ハロー、ポーン。緊急事態よ。聞こえてるんでしょ?」
 莉珠子はニンジンマイクを握ったインタビュアー、ピーターにささやいた。
「寝たきりだった亜珠子失踪。でもあなたがたの監視カメラには映っているはず。彼女の居場所を教えて」
 ピーターはもちろん無言だ。このぬいぐるみの中にシーザーの盗聴器がひそんでいるのか莉珠子にはわからない。だが、どこであれ何であれ、莉珠子たちの一挙一動、ちょっとしたつぶやきの断片であれ、決して聞き洩らさないシーザーの監視に囲まれているのだから、ピーターでなくても、例えば亜珠子の口腔ケアをするライオンの歯ブラシをマイクにしたっていいのだけれど、うさぎのぬいぐるみの方が可愛げがあるのに違いなかった。
  ルルル、とピーターの後ろに置いてある子機が歌い始めた。オルゴール版〈渚のアデリーヌ〉
 いつもスマホかパソコンで世間とコミュニケーションしている莉珠子は、緊急事態のBGMには全くふさわしくないのどかなメロディが家電話の呼び出し音だということがとっさにわからず、自分が抱えていたうさぎのぬいぐるみが歌い出したのかとぎょっとしてしまった。人を喰ったポーンなら、アッカンべーの代わりにポール・モーリアを寄越すくらいの〈無視〉はありうることだった。
「もしもし」
「野川さんですか?」
 受話器の向こうから聞こえた声は、可憐な少女の声だった。今まで聞いたことのない声。
「どちらさまですか?」
 少女の声は困惑あらわに、
「あの、お母さんをうちにお預かりしてるんです」
「ほんとですか!」
この状況で嘘のはずはない。
「はい、本当です。でもお母さんですか?」
「ええ、あたしの母です」
 受話器の向こうの沈黙数秒。十九二十歳にしか見えない亜珠子。電話機を通して少女にに聞える莉珠子の声は十五歳だろうから、「ほんとですか?」と言いたいのはあちらのほうだろう。
「それで、あの、亜珠子さんは自宅がどこだかわからないっておっしゃるんです」
 少女はゆっくり言葉を探しながら話している。何歳なのだろう。娘の声ではないが幼女でもない。十二歳、十三歳くらいかな。
「彼女、喋れたんですか」
 莉珠子は自分の驚きのほうを優先してしまった。少女は怖気づいたように声を低めた。
「ええ、はい」
「電話番号も覚えていたのね」
「いいえ、ネグリジェの裏に書いてあったんです。名前と、住所。電話番号。だけど住所は薄くなっていて読めませんでした」
「ああ、そう」
 亜珠子の着ていた寝間着が昔のもので幸いだった。十年ほど前、まだ亜珠子が徘徊できる頃、全部の靴や衣類に油性マジックでネームを書いていたのだった。
「武蔵野市獅子ケ谷です。そちらは?」
「神奈川の鹿香市です」
 今度絶句するのは莉珠子のほうだった。武蔵野から都心を横断して湘南鹿香まで、亜珠子はどうやってたどりついたのだろう。徘徊する高齢者は信じられない脚力を示すこともあるが、数年来寝たきりの亜珠子の筋力では夜通し歩いたとしても……
「亜珠子さん、鹿香のどこにいたんですか、あなたが見つけてくださったの? ごめんなさい、そちらのお名前をうかがってなかったわ」
「風間めぐみと言います」
 すうっと気持ちの良い香りが聞こえた。色彩ではなく、莉珠子の語感の先端を掠めたのは、さながら六月の梅雨入り前の夏空に似た匂いだった。若葉のさみどりが空のセルリアンに溶け入り、夏をめがけて伸びゆく動植物の気配で光と風とが潤う匂い。
「今朝、おばあちゃんの家にいたんです」
 おばあちゃん、亜珠子も本当ならおばあちゃんだ。おばあちゃんの家におばあちゃんがいた。いや語呂遊びをしている場合じゃないぞ、と莉珠子は突拍子もない亜珠子の〈跳躍〉に何とか理性で対決しようとする
 少女のおばあちゃんの家も鹿香だろう。仮想現実のプロジェクション・ワープなら、獅子ケ谷からエベレストにだって飛躍可能だが、亜珠子は多次元立体投影じゃない。現実に西東京から海辺の街まで飛んだのだった。
(やっぱりポーンにすがるしかないか)
 シーザーの監視カメラに亜珠子の失踪顛末は記録されているはずだ。この電話もシーザー≒ポーンは聴いている。その前にまずは亜珠子を迎えに行かなくちゃ。
「これから母を迎えに参ります。ご住所を教えてくださいますか?」
またタクシーだ。RKを三錠飲んで鹿香までと帰路の覚醒を補強して、と。
「野川さあん、警察と消防に連絡してって」
 ノックなしにヘルパーが飛び込んできた。
「見つかったの」
 送話口を抑えて莉珠子はヘルパーに笑顔を向けた。が、彼女の笑顔はひきつっていたかも知れなかった。
「え、本当ですか。よかったあ」
「そう、本当ならすごいことよ」
「そうですねえ」
 本当のことは何も知らないヘルパーは額と首筋の汗を拭き拭き、気のいい笑顔を返した。
「どこらへんまで歩けたんでしょうね」
「ははは」
 まさか、神奈川の湘南よ、とは言えないので、笑い声でお茶をにごす。
「これから亜珠子さんを迎えに行きます。今日はすみませんでした。御心配かけちゃって。責任は全部こちらにあるんですから、事業所にもそう伝えてください。詳細は後日お知らせしますね。ありがとうございました」
 いかにも取り込み中というせわしなさをつくろい、目くばせでヘルパーを返した亜珠子は、もう一度受話器を持ち直した。
「ごめんなさい。今介護士さんが来てくれてたの。それで、そちらの詳しい住所をくださいますか。今から伺います。ごめんなさい」
「何も映ってなかったよ」
 電話にいきなりポーンが割り込んできた。
「えっ」
「亜珠子は眠っていた。昨夜の七時に彼女の寝姿が確認される。そこから深夜0時までシーザーの監視システムに何等かの障害が生じ、画像はグレーゾーンになっている。ハッキングなのかウイルスか不明だが、この異変にクイーンコンピュータが代替作動しなかったのも奇妙だ。莉珠子がインタビューするまでぼくにもわからなかった。ぼくは今スイスのユングフラウの前にいるんだが」
「シーザーもパーフェクトじゃないってことね」
莉珠子の嫌味にポーンはびくともせず、
「亜珠子が発見されたのは鹿香だって? 実に興味深い現象だ。この一件はエイジレス亜珠子の肉体に付加価値を与える。莉珠子、君の健闘を我が社は全力で応援するよ。あらゆる状況においてシーザーは無敵であり、彼に失敗などは存在しないのさ」

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