さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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フォルダー・ドルフィン  pth3

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  フォルダー・ドルフィン

 湘南鹿香といえば隣接の香枕市と並んで関東の古都観光地として名高い。
(鹿香八幡宮や香枕天神は亜珠子さんも好きだった。あたしがまだ小さくて亜珠子さんの失認がそんなにひどくない頃、海沿いのお寺や神社をいっしょに歩いた)
 梅雨明け近い今頃なら紫陽花が盛り、八幡宮の広池には蓮、海棠に梔子…早ければ夏萩。鹿香香枕の寺社はいずれも花の名所を謳っている。
 亜珠子を発見し、保護してくれた風間めぐみの住む藤塚は、高級マンションや瀟洒な別荘の並ぶ海沿いの一等地からはやや離れた住宅街だった。それでもタクシーのドアを開けたとたん、内陸には決して届かない潮の気配が夜風に混じっている。獅子ケ谷を六時過ぎに出て鹿香に到着したのは九時近くで、風光明媚を誇る湘南の姿は夜の闇に沈んでいた。
 感じのいい低層マンションのエントランスにはめぐみが待っていた。タクシーが予定時刻ほぼぴったりに着いたせいもあって、莉珠子もめぐみもお互いにすぐにそれと察した。
「はじめまして」
 夏服のスカートに両手を揃えて軽く会釈をするめぐみは予想どおり可愛らしい少女だった。セーラーカラーの袖なしコットンシャツに、バレエチュチュのようなひらひらした素材のミニスカートは濃いピンク。すらりと伸びた両手足。さらさらしたセミロングの髪は前髪を少し残してワンレングス。大人びた印象だが、形の良い清楚な目鼻立ちは光量を節約したエントランスの間接照明にも際立って見えた。
(びっくり。きれいな子。パメラに羽戸さんに風間さん。このところパリコレレベル女優タレントレベルアイドルレベルオンパレード舌噛みそう。ここまで整った子なら日本美少女コンテストグランプリいけそう)
「遅くなって申し訳ありません」
 年下の自分に丁寧なあいさつを返す莉珠子にめぐみはほっと口許を緩め、
「亜珠子さんにそっくりなんですね。髪が長ければ見分けがつかないかも」
「一卵性母娘だってよく言われます」
 めぐみは両眼をまるくした。
「ほんとのお母さんなんですね? お姉さんじゃなくて」
「はい。説明すると長くなります」
 めぐみは頷いてエレベーターのボタンを押した。
「もうじき父が帰ってきます。うざいかもしれませんが、気にしないでください」
 おっとりしっかりした話し方だった。
「はい」
「亜珠子さん、一時間位前にあたしといっしょに夕ご飯食べました。スパゲティミートソースとサラダと、オレンジジュースです」
「ええっ 彼女ちゃんと食べられましたか」
「はい」
 なぜ、とめぐみは怪訝そうに隣の莉珠子を見上げた。莉珠子はめぐみより頭ひとつ背が高い。
「それは、話すと長くなりそうなことで」
 ここ数年、ヘルパーの介助を受けながらレトルト介護食をほぼ丸飲みにしていた亜珠子だった。もちろん全歯揃っているから認知症でさえなければ咀嚼は可能だ。
(でも、そんなことこの子に言っても信じてもらえそうにない雰囲気。第一、どうやって亜珠子は鹿香まで来たんだろう)
 ここです、とめぐみがフロア角部屋のドアを開けると香ばしいニンニクとオリーブオイルの香りが漂ってきた。
「わあ、いい匂い。めぐみさんの手料理ですか?」
「えへへ、だといいんですけど、パパの作り置きを解凍したの。うちのオヤジはお料理好きなんです」
 カラフルな雨傘が傘立てに何本もある玄関から、短い廊下を抜けて明るいインテリアのリビングダイニング。ほどよく片付けられ、少し散らかった印象も気楽な住人の姿が想像され、眼に快かった。
「莉珠子、来てくれたのね」
 リビングのドアを開けるなり呼びかけられた。亜珠子にはっきりと名前を呼ばれるのも何年ぶりだった。りっちゃん、りすちゃん、りしゅー、などなど顎を開かないぼんやりとした声音に慣れっこになってしまった莉珠子だった。亜珠子は若い女性のいきいきした声を取り戻している。
「あっちゃん、どうして鹿香まで飛べたの。背中に羽根でも生えたの?」
「うふふ」
 亜珠子はリビングの長椅子にゆったりと寄りかかっていた。背中にクッションをあてがい、片腕に幼児ほどの大きさのテディ・ベアを座位を支える枕替わりに抱いている。ネグリジェ寝間着は小花模様のピンクのガーゼ素材で、スリッパ裸足だった。ハローキティの夏スリッパはこの家のものに違いない。髪はサイドで三つ編みにして膝に流していた。それがまるで長い綱のように見える。編んだのはめぐみに違いない。亜珠子の膝にとぐろを巻く三つ編を眼で追った莉珠子は、はっとして傍のめぐみに囁いた。
「あの、彼女、リハビリパンツなんです。どうなったかな」
 めぐみはにこっと笑った。
「汚れてなかったですけど、お風呂に入ったときに変えました」
「変えた? リハパンあるの」
「それはないんだけど、ママの下着があるから」
「お母さんの? わ、すみません」
 そういえばめぐみの母親はどこにいるのだろう。さっき父親はじきに帰宅するだろうと言っていたけれど。
「お母さん、どちらに」
 めぐみはリビングの壁面備え付けの飾り棚の写真を手のひらで示し、
「ママは十年前に亡くなったの。だけど魂はこの世にとどまって柳の妖精になったのよ」
「はあ、それは」
 めぐみの表情に莉珠子をからかっている空気はない。
(とりあえず聞き流そう)
 母を早くに亡くしたらしい幼女の作話よりも、寝たきりの亜珠子がどうやってここまで来たのかという謎のほうが深刻だった。
「亜珠子さん、昨夜のこと覚えてる?」
「さあ」
 亜珠子はテディの耳をいじりながらのほほんと首を振った。
「誰かに自動車で連れられてきたのかな。発見した時、誰かと一緒でしたか?」
 めぐみに尋ねると、
「いいえ、亜珠子さんひとり。今日は日曜日だから、おばあちゃんの家の草むしりと花壇の手入れに朝早く行ったんです。このマンションから自転車で30分くらいのところ。そしたら庭の立葵の中に亜珠子さんがいたの」
 そこでふっとめぐみは黙った。
「タチアオイの花壇の中に、ひとりで」
「はい…」
 めぐみは亜珠子と莉珠子をかわるがわる眺め、思い切ったような口調で尋ねた。
「本当に亜珠子さんは莉珠子さんのお母さんなの? 亜珠子さんは高校生くらいにしか見えません」
「あたし、永遠の少女よ」
 コロコロと亜珠子が笑いながら口をはさんだ。莉珠子は、
「信じられないかもしれないけれど、母は今年七十一歳になるし、わたしはもう三十二年間この浮世を生きてるの」
 うそ、ほんと、という中身のない絶叫はめぐみの口からは洩れなかった。めぐみの眸が莉珠子にぴたりと据えられ、
「長いお話ですね」
 その瞬間、莉珠子は可憐な少女に威を感じた。電話で初めてめぐみの声を聴いたときと同じように、天空のセルリアンと初夏の陽射しの金色が目の中をよぎっていった。
 さらに、自分をまっすぐに見つめるめぐみの両目が鮮やかなコバルトブルーに見えたのだった。

「お母さまは無事に戻られたんですね」
 淡いグリーンのブラウスはパメラの白い肌をひきたてる。首には粒の大きいバロック真珠の一連ネックレス。イヤリングとお揃い。チューリップ型に裾の開いたタイトスカートは白、黄色、グリーンのアイビー模様。白蝶貝とマラカイトをゴールドチェーンで絡めたブレスレットを左手に嵌めている。サンダルはスペインの革細工風。
 カウンセリングルームでパメラが赤系統を着ないのはクライエントを過度に刺激しないためだろう。
「はい。無事かどうかまだよくわからないんですが、ともかく連れて帰ってきました。発見してくれた風間さん親子がよくしてくださって」
「風間さん親子ですか」
 パメラの語調が微妙に変わったことに莉珠子は気が付いた。
「ええ、発見者は風間めぐみさん。中学一年生の子です」
「そうですか」
 パメラは眼を細めて余裕のある微笑を浮かべた。それ以上の詮索は無理、という鉄壁の微笑だった。莉珠子はモノローグを続けることにした。
「家に戻った母は寝たきりではなくなりました。ちゃんと起きて、食事を摂り、自力でお手洗いも済ませます。会話も少しできるみたい。回復したのかもしれないけれど、余命が伸びたわけではないと思います。記憶障害は治っていません。自分がどうやって神奈川県までさまよったのか全然わからないと」
「合理的な説明は難しい出来事ですね」
「非合理、非現実的です。警察に知らせても信じてもらえないからうやむやにしました。ヘルパーさんにも伝えてません。先生に今こうしてお話ししているあたし自身?マークでいっぱい。素足で飛び出したはずなのに亜珠子さんの手足は全然汚れてなかったし、ネグリジェもきれいでした。あちこちさすらったのなら、それ相応の汚れや痛みが服や髪にあるはずなのに」
「そうですね。誰かに連れ出されたのでは」「あたしもそう思います。誰かが亜珠子さんを車に乗せて湘南へ運び、夜明けに放り出した。それなら一応の辻褄は合うんですが、誰が何のために? わからないんです」
「わかりませんね」
 パメラは一呼吸置いて、
「乱暴された形跡はなかったのですね?」
「はい。母は元気でした」
 乱暴された。莉珠子は希薄な空気を無理やり呼吸するような気がした。性の凌辱。性の快楽。何と自分たちの世界に遠いものだろう。(そういえば、あたしセックスしたことなかったかも)
 自分が処女だという自己認識に莉珠子は少しばかり愕然とした。男友達はいるけれど、それらしい関係に至る前に眠気で上下の瞼がくっついてしまう。自分がもし処女でないとしたら昏睡している間に誰かが破ったのだろう。そうだとしても今現在の莉珠子に何の痕跡も残していない、と思う。
「大丈夫ですか? 莉珠子さん」
「そう思いたいです。大丈夫だと。だって何も覚えてないんだもの」
「何も覚えていないのですね」
「ええ」
 莉珠子はパメラのエメラルド色の瞳を見つめた。鉱物質の輝きを湛えた無感動な瞳だ。パメラは莉珠子と亜珠子の性にまつわる斉唱を聴き取っただろうか。どうでもいいことだ。莉珠子はふたたびモノローグを始める。
「微妙に変だな、と感じるんですが、うまく言えないの。記憶障害があるからとんちんかんな行動は当たり前だし、脳も委縮しているはずです。だけど、どう言ったらいいのかしら、亜珠子さん、変なの」
「変ですか? 具体的な出来事が何か」
「具体的には特に。ただ、今の亜珠子さんと失認する前の亜珠子さんと同じ人格ではないような気がするの。だけど彼女が若年性認知症に罹ったのはもう二十年近い昔だから、あたし自身の記憶も曖昧ですし」
「ショック状態かもしれませんね」
「誰が? 亜珠子さんが?」
 パメラはエメラルドの視線を思わせぶりに左右にきらめかせて言った。
「莉珠子さんの方が、です」

 莉珠子の部屋は亜珠子の寝室と対照的だ。すっきりと装飾のない北欧の家具。洗練と無骨が微妙にアンバランスな素朴。半月のかたちの背もたれがついたベッド。部屋の中央に二人掛けの四角いテーブルと椅子。
 クロスの刺繍は手の込んだ白い絹のスワトゥ。椅子のクッションとお揃い。テーブルには伊万里の青いカップとソーサー、ティー・ポット、シュガー・ポット。それからフォションのアップルティーの缶。ラズベリーとアプリコットのジャムがそれぞれ一壜ずつ。銀のスプーン。全部ペアだ。
 このティーセットは今まで何回使われたろうか? まるで今しもお客を待ち受けているようなテーブルだが、一日五時間ほどしか起きていられない莉珠子自身、この贅沢なテーブルにゆったりと時間を遊ばせてお茶を飲むなどということはなかったのではないか。
 さーさーさー、と張り出し窓を濡らす小糠雨が始まった。亜珠子は莉珠子のティーテーブルに腰を下ろし、窓の向こうに盛り上がる青紫と紅の紫陽花を見やった。
 莉珠子の部屋の前には紫陽花が繁茂し、亜珠子の窓は夕顔で覆われている。暮れ方だが、雨が始まっても夏の宵は明るかった。六時半。莉珠子は麻布へカウンセリングを受けに行っている。留守宅に亜珠子は一人だった。鹿香の一件以来自立できるようになった亜珠子は、それまでの朝夕の身体介助は断り、昼間の掃除洗濯などだけ介護保険を利用することにしていた。
 亜珠子は細い手でポットをとりあげ、カップに紅茶を注いだ。十年以上空気より重いものは持たなかった彼女の腕はひきのばしたガラス細工のように繊細になっている。
「いっしょにいかが?」
 くくっ、と亜珠子はアップルティーの芳醇を嗅ぎながら喉で笑った。
 しーしー、と雨音に似た電磁波の音が来ると同時に、自動調節になっている天井灯の光量がすっと落ちた。それから音声だけが来た。
「ハロー、アリス」
「亜珠子よ」
 おもねるようなポーンの猫なで声を亜珠子はひらっとかわす。
「アリスのほうがいい。長い眠りだったね」
「おかげさまで快適」
 室内はどんどん暗くなり、紫陽花の浮かぶ雨の窓のほうが明るくなった。そして亜珠子の座っているティーテーブルの向こうのパソコンデスクの周囲が、そこだけに間接照明を灯したかのように暗がりの中に浮き上がった。
 リクライニングの椅子がひとりでにくるりと回ると、ふいに赤毛のポーンがにやにや笑いながら上半身だけまず現われ、それから数秒置いて痩せたジーンズの両脚も現われた。
「プロジェクションでもお茶は飲める?」
「転送してくれればね。気分は味わえる」
「今はどこにいるの?」
「ニューヨーク。シーザーの御膝元。君の失踪の核心がつかめないので彼は御立腹だ」
 くくっとまた亜珠子は笑った。
「そうかしら。あなたがたはあたしにカマをかけているんじゃないの?」
「君は実体だ。いっぽう僕は幽体プロジェクターにすぎない。超常現象ならペンタゴンでも大喜びで手を貸すだろう。君は誰だ」
「野川亜珠子」
「いや、アリス。君の脳は委縮し、物理的に記憶、感情、言語、もろもろ整合性を保つことはもはやできなくなっている。ところが今や目覚めた新生アリスはりっぱに人格を統合してシーザーと渡り合おうという鼻息だ」
「そんな、恐れ多いこと」
「監視カメラのシステムエラーの原因も不明。クイーンはミスを認識できなかった。空白のグレーゾーンと言うが、厳密には録画は一秒の間隙もなく映され続けている。君は瞬間に寝室から消えた。フワイ」
「ペンタゴンではテレポーテーションの究明も進んでいるはずでしょ」
「君の若年性認知症で劣化した脳味噌からどうやってESPを絞り出すんだ。シーザーは君が死ぬのを待ちきれず、すぐさま宮廷に連れてこい、と」
「いやよ。御心配なく、あたしのこの体は定められた余命にしたがってそこそこで心拍を止めるわ。そしたら好きになさいよ。解剖し、研究し、遺伝子の一本までしゃぶりつくし、不老不死の夢を現実にすればいい」
 あからさまな亜珠子の挑発にポーンは乗って来た。彼はパソコン机の回転椅子の肘置きを両手でつかみ、紅茶をすすっている亜珠子に向かって上半身を乗り出すと、片膝で貧乏ゆすりを始めながらしゃべりだした。
「アリス、君と莉珠子の遺伝子構造は既に調べ尽くした。君たちは全くの突然変異。変異といっても、君らの染色体に異常はない。早老症は百万人に数人という奇病だが、常染色体異常という一般化可能な遺伝子情報を持っている。ゆえにそれは病と言える。ところが君たちは異常や奇形ではなく、現時点では究明不可能な即物的には全くノーマルな超常現象なのさ。一般化できる情報がない以上、今後自然発生的に地球上で君たちの同族が出生するという可能性は限りなくゼロだ」
亜珠子はアプリコットジャムを匙に山盛に掬い、ぬるくなった紅茶に落とした。ひややかに、
「クローンで増やしてるんでしょ」
 ポーンはちょっと黙り、男にしては赤い唇をきゅっとすぼめた。口を噤んでも痙攣のような貧乏ゆすりは停まらない。声をひそめて
「レプリカは生命力が弱いんだよ」
「あたしと娘の死体が山積み」
「それでは文芸的かつウエットな凡百表現だ。最初の質問。アリス、君はどこからやってきた。シーザーの御下問だぞ」
「遊びたいだけだよ。この体はきれいじゃないか、え? ポーン」
 亜珠子はぞんざいに言い捨てると、上目遣いでにたりと笑った。未知の別人格の凄みにポーンが怯んだ次の瞬間、亜珠子は小首をかしげて天真爛漫な笑顔に変わった。自分の長い髪に指をからめながら、
「なあんちゃって」

 カウンセリングは七時に終わった。七夕の宵は低い雲に覆われていたが、雨粒は降りて来ない。派手なイルミネーションを散りばめた高層ビルのシルエットが狭める空のところどころ、薄い夕べの光が残っている。雑木林があちこちに残る武蔵野の抒情とはかけ離れた都心は、無機質で汚れた黄昏だった。
 夜の時間を彩る歓楽街に人間が流れ込んでくる。麻布青山六本木……化粧とコスチュームを凝らした彼らは日常以上の何かに変身して、濃い快楽を求める。口紅、付け睫毛、かつら、美容整形、エナメルのヒール、露出した胸や太腿。剥き出しの皮膚のあちこちで欲望を刺激する針のようにぎらぎらするアクセサリー、ドラッグと酒、札束で贖う淫売と一夜限りの恋愛はしばしば紙一重だ。
(どうしようかな、御飯食べて帰ろうかな)
 パメラのルームから出た後、莉珠子はタクシーを拾うのを躊躇した。これまでなら、生あくびを噛み殺しながらまっすぐ帰宅するのだが、覚醒した亜珠子に異質な気配を感じる莉珠子は、家に戻るのが億劫だった。寄り道しようと外泊しようと亜珠子は詮索も束縛もしないだろう。第一、莉珠子がどこへ行こうと、シーザーには筒抜けなのだった。
(パメラの正体が何なのかポーンに聞いてみよう。テレビに出演しないネットだけのアイコン。ネット上の女神)
 気持ちを亜珠子から逸らすために、パメラの素性を想像しようとした。最初の目的はターミナルにさしかかった母親との決別を納得するためにカウンセリングを受けようとしたのだった。謎の美女パメラを一時間十万円で買うという暇つぶし半分だったにせよ。
(亜珠子さんは当分死にそうにない。だからカウンセリングを続ける意味もなくなっちゃったはずなのに、復活した亜珠子さんに馴染めないあたしが見えてきた。新しいカウンセリングテーマになった。馴染めない? 違う。彼女は優しいわ。でも)
 結局パメラから亜珠子のほうに気持ちは戻り、とつおいつ考えながら、いつの間にか莉珠子はメトロに乗っていた。行き先は銀座。
(ギャラリーにいるかな、ジンさん。突然呼び出して勝手な馬鹿話ができるのって、あのオヤジくらいだもんね)
 銀座の一角に立つ久我ビルは関東大震災にも崩れず、東京大空襲も免れた伝説のアンティークビルだ。もとは銀座の夜の蝶たちのアパートメント、巣だった。今も昔日の面影そのまま、古色蒼然としているが、リフォームと改装を重ね、蝶々たちの住んでいた何十という部屋は、小さなギャラリーやブティックが入っている。風変わりで珍しい小物やアウトサイダーアートが集まる東京の名所になりつつあった。
 ピカソやローランサン、ブラックなどが青春を過ごした洗濯船になぞらえるひともいるが、久我ビルのギャラリー利用者から世界に羽ばたいていったアーティストはなるほど少なくない。
 莉珠子の数少ない男友達のジンさんは、その久我ビルの一部屋を借りてギャラリー経営していた。亜珠子も時折彼のギャラリーで個展を開いたりしていたのだった。
(ギャラリーにいるかなあ、ジンさん。風来坊の遊び人だから。この時間だともう歌舞伎町あたりでクダ巻いてるかも)
 今更メールではらちが明かないので、電話をかける。
「やあ、めずら鳥のりっちゃん。電話をくれるとは嬉しいねえ」
 以外にもジンさんはすぐにつかまり、しかも上機嫌だった。
「やっぱりもう飲んでるのね。どこにいるの?」
「おいらの個室よ。決まってんじゃん。今日ギャラリーのヴェルニサージュでさ。パーチ―やってんの。シンガーとか来て歌ってるし、リスも来いよ。睡眠薬飲めば起きられんでしょ」
 呂律がまわらないほどではないが、送話器の向こう側の人だかりや音楽、喧噪が伝わり、ジンさんは上機嫌だった。
「睡眠薬じゃなくて不眠薬! でもよく覚えてるわねそんなこと」
「美人は忘れないのぼく。ママはどう?眠れる薔薇の美女あっちゃん」
「それが先週復活しちゃったのよ」
「めでたい! じゃママも一緒?」
「リスひとりよ。たまたま麻布まで来たからジンさんと晩御飯できるかな、と」
「おお、食い物ならどさっとあるぜ。来いよ、ここで飲み食いすればいいじゃん」
 そこでいきなり携帯がブツッと切れた。
 莉珠子の顔は自然にほころんでいる。久我ビル内のギャラリー〈個室〉オーナー、ジンさんは、正体不明の面白いキャラクターだった。年齢は六十七、八か。永遠の不良中年を自称し、住所不定、本業画家、副業は詩人と言いふらしていた。ギャラリー経営は若手有望アーティスト育成のためと表向き、本音は人寄せナンパ目的丸出しだった。
 では女癖が悪いのかというと、抜き差しならぬ切ったはった修羅泥沼の痴情沙汰はしょいこまない、ほどよく遊ぶかけひきを心得ているらしい。噂では生みの親には似もつかぬ器量よしの娘がどこかにいるそうだ。
 ジンさんは女をいい気持にさせる悪ふざけの会話術を心得ていて、今も莉珠子はジンさんのお気楽な声を聴くと強張っていた心がほぐれた。相手を受容、傾聴、共感するカウンセリング手法とは真逆に、悪がりを交えてむやみにしゃべりまくるジンさんだが、こんな電話でも莉珠子の機嫌を測る勘は鋭い。通話が途中で切れたのも、ジンさんの手かもしれなかった。
 銀座一丁目の中央通りから二筋ばかり裏に入ったとはいえ一等地には違いない。かつては銀座屈指の高級アパートメントだった久我ビルは、薄緑と茶色のモザイクタイルを貼った外観を百年近くとどめ、アーチ型のエントランス、アールデコ風の手摺のついた広い階段、最古の手動式エレベーターが今も危なげなく可動していた。
 メトロ出口でRKを二錠口に入れ、久我ビルに着いた莉珠子はエレベーターではなくジグザグの階段を上がった。
(起きている時間にできるだけ下肢筋力を使わないと、歩けなくなっちゃう)
 それは亜珠子を介護するヘルパーたちから聴いたアドバイスだった。じっさい、二十年近い眠りから覚めた亜珠子の手足はバレリーナよりもかぼそく、皮膚は薄く、人間の肉体とは思えないほど綺麗だが、家の中をどうにかふらふら歩くのが精いっぱいな現状だった。
(それが当たり前。じゃあ、いったい亜珠子さんはどうやって鹿香まで飛んだの?)
 またしても解けない疑問が莉珠子の気持ちを翳らせる。自分たちを四六時中監視する細胞スポンサーシーザーさえ究明できない謎といっしょに亜珠子は目覚めてきた。
(ジンさんにこの顛末を聴かせたら何て言うかな。めでたいって言うだけかな)
 きっとそうだった。
 ギャラリー〈個室〉の保有スペースはこのビルのギャラリー群の中でも大きい。かつての蝶々さんの部屋を二間ぶちぬき、改装したからだ。この不景気格差社会で、年金暮らしとも思えないジンさんの放埓な資金源も謎と言えば謎だ。銀座とは、まあそんな人種がうようよしている地域ではあるのだが。
〈個室〉の入口には小机が出され、華やかなフラワーアレンジメントの籠がいくつも飾られている。受付に立っている和服姿のすらりとした若い女性に莉珠子は眼をみはった。
 藍色の地に白抜きで柳の枝がおおぶりに描かれた小袖に、丁子色の博多半幅帯を腰の上やや低く結んでいる。半襟は白地に水色の雪の輪、それに今時ふうに金銀のラメが散っている。すっきりとあげた襟足が長く白く、くるりと巻いた髪に平打ちの銀簪も涼しげだった。化粧は薄く、水商売には見えないが、素人にしては着こなしと姿がいかにも水際立っている。二十七、八というところか。
「いらっしゃいませ」
 莉珠子を迎える丁寧な声も顔も、和服と同じように目に快く涼しいのだった。
 彼女の後ろには、桐の長い一枚板に堂々と筆書き看板。
 フォルダー・ドルフィン 
               by妃翠房×卯咲苑
「ひすいぼう? きれい」
「初めてお越しくださいましたか。ありがとうございます。お名前をいただけましたら」
 芳名帳も和綴じだ。受付嬢があまりに上品かつ粋なので、多少莉珠子は凹む。ひすいぼうは読めたが次の卯咲が読めない。
「ちょうど歌い手さんが出るところ。お席はちょっと窮屈ですが、まだ」
 あるわよね、と藍地雪柳嬢は長い首をひねって上半身後ろを向くと、彼女の半幅帯の右前に挿した根付の鈴がちりりと鳴った。
「だいじょうぶよ。どうぞ」
 ごったがえす内側からひらっと袖を返す印象で目鼻だちの濃い女性が出てきた。彼女も和服だが、なんと豹柄の小紋だ。帯は黒麻。朱の帯締めにゴールドチェーンをからめているのもすごい感じだ。髪は前髪にたっぷりとウェーブをとった夜会巻で、モダンな飾り櫛を斜めに挿している。口紅が赤い。
こっち、こっち、と人なつこい強引さで莉珠子を差し招く。アラフォー手前の熟女の迫力に莉珠子は従順にひきよせられる。
「よう、りすが来たぞ」
 どこかからジンさんの声が聞こえた。
 平土間と思いきや椅子席だった。もうほぼ全部埋まっていたが、豹柄小紋は莉珠子の手をとってすいすいと掻き分け、一番前のかぶりつきに座っているジンの隣の席に連れていった。
「この子でしょ? ジンさんのお友達って」
「みんな友達だよ。あなただって僕のガールフレンド」
 斜め上目遣いのジンさんの視線は秋波みえみえだが、豹柄小紋はつれなく
「ガールは余分です。あたし友達の彼氏には興味ないの」
「硬いねえ、香寸(かず)さん」
「相手は選ぶのよ、残念でした」
 ひらりと彼女は袖を返して受付に戻っていった。
(いい感じ。ジンさんと仲いいみたい。誰だろう、美人ばっかり、よくこのひとは集めるなあ)
 ジンジャーエールをちびちび舐めながら莉珠子はジンさんをじろじろ眺める。パフォーマンス前の半溶暗で展示物はよく見えなかったが、隣に座ったジンさんの様子は昔とほとんど変わっていない。
 ヘアダイし過ぎの中途半端な毛染めのようなぱさぱさした茶髪。いつも笑っているような垂れ目、いつも上機嫌に口角の吊り上がった口許。存外中高で部品の悪くない顔はこまかい皺と無精ひげでいっぱいだ。心なし小皺が増えたかもしれない。
身なりはというと、結構おしゃれだったという以前の記憶どおり、ジンさんは夏向きに爪先の空いた白と茶色のメッシュコンビの革靴を履いている。サンダルと靴の中間みたいな遊び靴だった。黄色っぽいコットンのズボンも原色ベタなアロハシャツもいっぱしのブランド品に違いない。顔のパーツも衣裳も、ひとつひとつは結構イケてるのに、全体ぱっと見の印象はなんとなくふやけた…こぎたない。いや、これは言い過ぎだ。
 ピザ食べる?とジンさんは莉珠子に紙皿を突き出した。空腹だった莉珠子はこれも素直に受け取り、お愛想まじりに、
「きれいな受付さんですね」
「ああ、あれね、俺の娘よ。似てるでしょ」
 似てない、藍色も豹柄もどっちも似てない。雰囲気がジンさんと全然違う。
「え、え、どっちのひと?」
「若い方。地味な絽小紋着てたのが娘」
「そうだったの。ジンさん天涯孤独じゃなかったんだね」
 とんび鷹のことわざが莉珠子の喉まで昇ってきた。ピザとジンジャー・エールといっしょにぐいっとお腹へ押し戻す。
「いやあ、俺は一匹狼ですよ」
 ジンさんは得意げにキャビアを乗せたカナッペをバリバリと噛んだ。
「今夜はどんなパフォーマンス?」
「シャンプーリンス。これも可愛いんだ。あ、リンスのほうはリスとご近所だぜ。あいつたしか吉祥寺だから。リスは獅子ケ谷だろ。リンスとリスと名前も近い」
「それって全然関係ないよね」
「奇縁偶然赤い糸ってさ」
「あたしマザコンだけどレズじゃないの」
「お、始まるぜ、しいー」
 自分勝手にジンさんは唇をとがらせ、ご丁寧に唇の前に人差し指を一本たてた

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