さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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シミュレーション・グラデーション  Pth 4

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  シミュレーション・グラデーション

  イルカはね
  仲間がつかまると
  にんげんにつかまると
  わざわざ戻って 
  仲間といっしょに
  にんげんにつかまって
  ころされちゃうの
  知ってたダーリン?
  あんたがあたいを好きだって
  どのくらい 
  正味なんぼの愛?  

  イルカはね
  にんげんの言葉がわかるし
  水の言葉もわかるし
  風の声も聴く
  仲間が襲われると
  自分だけ助かろうなんて
  しないでいっしょに
  ああ、かなしいね
  いっしょに死ぬために
  仲間のところへ
  戻ってくるの

  ねええダーリン   
  あんたの愛ってどんなもん?
  あたいがイルカだったら
  ダーリンいっしょに
  死ぬほどキスしてくれよ
  正味なんぼの愛
  イルカだったらダーリン
  いっしょに海に血を流し
  にんげんに殺されても
  愛してるって
  イルカはねダーリン

 だあありいん、というリンスの投げやりなフレーズが客席に投げ出されて暗転した。シャンプーのオカリナが暗闇のなかで物悲しい主旋律をひっそりとリフレインしている。それから旋律はすこしずつ転調し、速度を変え、波紋の綾のようにゆっくりと消えた。旋律の途中でふっと、呼吸が途絶えるように歌は「息絶えた」
 数秒の静寂。ギャラリーに立ち見寿司詰め聴衆は約100人。ぱん、と最初はジンさんがしおを心得て両手を打ち合わせた。遠くでぱちぱち、と控え目な拍手は受付嬢たちに違いない。それからわっ、という勢いでギャラリー内に喝采がふくれあがる。
「いつもながらシャワーの歌いいね」
 エキセントリックなバラッドのメロディとリンスの説得力のある声に、莉珠子が息を呑んで固まってしまったところに、後ろから声が来た。
「お、シーラ、来てたの」
「来てたよ。最初立ち見だったけど、席譲ってもらった」
 ジンさんは拍手しながら顎でうしろを振り返った。
(え、この声)
 パメラにそっくり、と固唾を呑んで莉珠子はジンさんのアクションをなぞって振り返る。
「美人は得だぜ。シーラさん来ると知ってたら特等席とっといたけど、ちゃあんと」
 ジンさんは上半身ひねってシーラに話しかけ、拍手していた両手を嬉しそうに揉みあわせた。隣の莉珠子へ顔をめぐらし、
「オーナー密着席はこの子がとっちゃった」
「かえってよかった」
 シーラはジンさんにずけずけと答え、莉珠子には愛想よく笑顔をくれた。
「こんばんは。ニューフェイス」
「はじめまして」
 聴けば聞くほどシーラと呼ばれた少年、いや青年の声はパメラに似ている。声だけでなく、世間普通には、ちょっとお目にかかれない端麗な容貌という点も同じだった。二人の顔だちがそっくりというわけではない。
(美人度、美度同一だわ)
 シーラという女名前だが、こちらはまだ二十歳前後の青年で、黒いシルクの長袖シャツに、やはり光沢のあるスリムパンツをはいていた。シャツはいたるところめったやたらにかぎ裂きがあり、自分でわざと鋏をいれたのか、そもそものデザインなのか薄暗がりではよくわからないが、生地の裂けめから覗く皮膚はなまめかしく白い。秀でた額からまっすぐに伸びる鼻筋と、横一文字にやや大きめの唇のバランスが目に快く、シーラは混血に違いない。広い額に弓なりの高い眉、濃い睫毛に繊細な顎、黒髪はうなじでひとつに束ねている。時折はらりと顔に垂れかかる前髪の感じもパメラを連想させるのだった。
 顔といい姿といい、シーラの容姿にはどこにも荒削りな男性性がないのだけれど、莉珠子には少女が男装しているとは思えなかった。
 何かの拍子にシーラがジンさん寄りの姿勢を変えて莉珠子のほうに向きなおったとき、シーラの左胸ざっくり切り裂かれたシャツの隙間から平らな胸とそこに刻まれた緋色のタトゥが見えた。
(羽根と蛇? 黒い羽根に蛇がからみついている。なんだろう。中世ヨーロッパのエンブレムみたい)
タトゥを見せびらかすためなのか、胸の切り裂きは他の部分より大きめだった。
「どこで拾ったの、この美少女」
 シーラは長い睫毛を思わせぶりに打ち合わせ、ジンさんを睨んだ。
「古株よ、シーラさん。君よか十年もっと前からのつきあいだもん」
 ジンさんはプラスティックコップのビールをぐいっとうまそうに飲んだ。シャワーへの拍手は止んだが客席はまだほの明りのままだ。
「十年以上って、この子がまだ」
 シーラが優しい仕草で首を傾げるのに、
「と思うでしょ。リス、言っていい?」
「いいけど、信じてもらえるかな」
 ジンさんはへらりと笑い、ちょうど目の前に回ってきたポテトチップの皿から二、三枚摘まむと、煙草の脂のついた前歯をわざと見せてパリリと噛んだ。
「シーラ、リスはね、永遠の少女なんだよ。リスと彼女のママさんは、十代のまんま、もう一世紀も生きてんの」
 ちょっと待った、と莉珠子はジンさんの大風呂敷に食ってかかろうとした。あたしたち百年も生きてないジンさんそれじゃお化けだ吸血鬼シーラの青白い美貌はまさにヴァンパイアだけど亜珠子さんは復活したけどどのみちきっともうすぐ死んじゃうのよ。
「へええ」
 シーラは唇を大きく開いて笑った。
「時間旅行してるのね」
「やっぱうまいこと言うなあシーラさん。その通りなんだよ。リスは時間を超えて生きてるんだ」
 本人の同意の一切ないところでシーラとジンさんは意気投合して頷きあい、スポーツドリンクのコマーシャルさながら、さわやかな笑顔で莉珠子を見る。
(この笑顔に疑念はない。いったいこのひとたち何なの?)
 これまで自分たち親子のエイジレス病をディスクロージャーするたびに、数限りなく経験した世間常識の壁がジンさんとシーラにない、ということに莉珠子は逆に不安になる。
(二人とも頭が変なんじゃないかしら)
「あの、勝手なこと言わないでください。あたし病気なんですってば」
「年をとらない病気ね。いいよなあ、リスの肌、十五のまんま、だろ? シーラ」
「ええ、みんながうらやましがる」
「そんな、あたしはすぐに眠くな」
 る、と言いかけたとたん、鼻の奥から脳天にかけて突き上げるような睡魔がやってきた。何かをしゃべりかけていた舌が喉の奥でからまって動かなくなる。
(RK切れ? もう?)
 あらゆる薬物同様、RKも常用は禁物だ、と瞼の中でポーンが雀斑だらけの小鼻に皺を寄せるのが見えた。
「どうしたの、あなた」
 シーラが腕をさしのべてふらつく莉珠子を支えた。
「やあ、眠り姫が始まったぞ。睡眠薬持ってるだろ」
(不眠薬だってば。バッグの中にあるはず)
 が、声は出なかった。そのとき、
 鳩が来たわよ。
 涼しげな声が聞こえた。
(藍色の、雪柳の、ジンさんの娘だわ)
 溶暗のギャラリーにこもるざわめきをつらぬいて、透きとおった声は奥まで届いた。
「シーラ、ジンさん、ハトさんが…」

 アリス…。
 どこからともなく呼びかける声に、ベッドに寝たまま亜珠子は応えた。
「僕はアリスじゃない」
 七夕の夜空は星曇りだった。雨粒は落ちて来ないが、全天に低く重い雲が垂れ込め、いくらか涼しい夜風に乗って、眼に見える速さで上空を動いてゆく。
亜珠子は夏掛けの上の自分の長い三つ編みを片手でもてあそびながら、天使と薔薇模様の壁紙を貼った天井を見つめた。壁紙の幼天使たちはラファエルロ風に肉付きがよく、腕に抱えた花籠から山盛の薔薇を周囲に振りまいている。
 昏睡から覚めた亜珠子の目は天井をつきぬけ、はなびらと天使の向こう側に昏い夜空を見ていた。時に風脚が早まると、厚い雲間から星がわずかに光る。天の川は雨雲に遮られ、小さな星明りでは、ヴェガもスピカもアルタイルも見分けがつかない。だが網膜や水晶体を動かして物を見ているというひさびさの実感は、乾いた砂に水滴が絶えず滴るように亜珠子を歓ばせている。また声がする。窓ガラスの向こう、夜風といっしょに。
 アリス。
「よせよ。ポーンに媚びるのか?」
 亜珠子は両肘をついて上半身を起こした。細い顎を動かして天井をぐるりと百八十度眺める。さながらプラネタリウムの星図を読むように。
 亜珠子の眸は薄茶色で、ガラスのように透明だった。長い時を眠って過ごしたせいで、色素が希薄になってしまったのかもしれない。ベッドサイドのアンティークランプの灯りに、
亜珠子の両目はアルビノで生まれた猫の眼のように血の赤が内側から反射した。
「媚びてない。やっぱりここにいたんだ」
 安堵のこもった可憐な声と一緒に、亜珠子の寝室の天使と薔薇の天井は消えて紺碧の星空に変わった。金銀砂子…きらめきのひとかけらずつが地上に突き刺さるほどに、澄んだ満天の星だ。銀河は白くけぶりながら星合を渡り、両岸のあちらこちらに夏の一等星の輝きがくっきりと見える。星たちの明るさは月光がいくつも集まったかのようだった。
「ここにポーンは来ないわ」
「そうだ、奴らとはもう次元が違う。メグ、おひさ。出て来いよ」
「レノン、なぜ亜珠子に移ったの?」
 天の川の中程に、風間めぐみ、メグが滲むように現れた。まるで銀河の底から浮かび上がったようだった。
 ハローキティ模様の夏パジャマだ。髪は両サイドで分けて三つ編みにしている。
「亜珠子は僕と似たもの同士だからね。莉珠子でもいいんだが、あいつはまだエゴがはっきりしてる。亜珠子はすっからかん。記憶も意志もふやけちゃって、憑依した僕の意のままだもの」
 亜珠子=レノンは無邪気に笑った。
「どうするつもり?」
「遊びたいのさ。君の中に仮住まいも居心地は良かったけど、めぐみはレノンの言いなりにならないからね。僕はせいぜいシーラを寄せ付けない程度にメグを独占してた」
「ええ」
 メグは困った顔をした。
「レノンのおかげであたし、いろんなものを見たわ。いろんな魂、過去の情景」
「僕の力じゃない。メグがもともと持ってるものだ。ただ僕が君と一緒にいると、邪悪な連中が寄ってくる。僕がワルだから」
 あ、は、は、と亜珠子はベッドの上にむくっと起き上がり、無造作にあぐらをかいた。裾のゆったりしたネグリジェなので、あられもない姿にはならなかった。
 亜珠子の露悪にメグはまばたきしながら、
「レノンがワルでも原爆ほどじゃないわ。亡霊も悪霊もジェノサイドはできない」
「ほ、そんな皮肉を言うようになったの。中学生になると違うね。政治意識もお色気の変種だ。シーラはじりじりしてるだろ」
レノンの嫉妬をメグは無視した。
「レノン、遊びたいってどういうこと? 亜珠子さんは、もう長くないんでしょう」
「あと一年くらいかな。ぼくが憑依してこれを酷使するとエネルギーを消耗するから臨終が早まるだろう。機能じたいに老化がない。驚きだよ、ほんとに十八歳だ。関節のこわばりも筋肉の萎縮もないんだから。僕が動かしてれば、じきにすたすた歩けるだろう」
「すたすた歩いてどこへ行くの?」
 メグはつぶらな瞳でレノンを問い詰めた。彼女の背後をすうっと、二つ、三つ流れ星がよぎって消えた。
「行きたいところに行く。実体として」
 亜珠子は立ち上がり、ベッドのスプリングではずみをつけてひょい、と宙に飛び上がると、そのままくるりと回転する。ネグリジェがめくれないよう器用に裾を膝の間に挟み、星空の真ん中に逆立ちした。嬉しそうに、
「この爽快感も久しぶり」
「莉珠子さんのママなのよ」
「莉珠子だって嬉しがってる。寝たきりで会話も出来ない母親よか僕のほうがいい。メグ、僕の正体を明かすな。野暮だぜ」
「レノンが亜珠子になれば、餓鬼や亡霊もここに来るでしょう」
「だから? 何もできないよ。ただ影絵のように莉珠子を驚かすだけだ。そうでなくたってプロジェクション・ワープでポーンやシーザーがしょっちゅう飛んで来ているんだから似たり寄ったりだよ。連中の監視カメラに霊魂は映るだろうか。僕は興味しんしんだが金の亡者どもは亜珠子のエイジレス細胞のほうが超常現象より重要なんだ」
「そうでもない」
 ぬ、とシーラの声が割り込んできた。
 夏の大三角形の頂点あたりから、ひらりと舞い降りる印象でシーラが現れた。額斜めに能面をかけている。ふっくらとした額や頬の風情は小面だが、メグにはわからない。
「莉珠子はユニークだ。彼女と亜珠子が普通に老化しないのは、細胞や遺伝子構造のせいじゃない。ポーンはそれを知りたがり、莉珠子を泳がせている」
「シーラ、男っぷりがあがったな。いや別にメグといっしょにいつも見てたけど」
 亜珠子はまた体をひねって星空の中に横座りになった。夜空の中のメグと亜珠子、シーラの位置は、ごく自然に夏の大三角形に重なった。
「サイコ・ヒーラーの世界だ」
 亜珠子は揶揄半ばにシーラとメグを見た。
 小面をかけたシーラは冷たい顔で、
「人間のしつぶかは修正不可能。驀進する強欲に癒しなど得られない。シーザーには関わらないけれど、亜珠子が動けば莉珠子もついてゆく。彼らも。そして僕らも」
 亜珠子は白い喉を逸らせ、声を出さずに華奢な肩を揺すって笑った。それからぴたっと顎をひき、眉を寄せた三白眼でシーラを見つめた。少女の高く澄んだ笑い声のように亜珠子は喋り出した。
「しつぶかに強欲だって! 王子さまがよく言うよ。能楽鳳凰流宗家千手なにがしのみそっかす、どころか、おまえの母親は欧州最古の王族の一員じゃないか。おまえの美貌、才気、一族固有の超能力、千手紫羅の存在自体、傲岸な欧州アリストクラートが、領民から搾取し、長い年月をかけて練り上げた物欲の結晶だ。おまえが今の日本でふわふわサイコ・ヒーラーを気取っていられるのも、民衆を食い物にしている実家の富あってだろうが」
そこで亜珠子はひとつ息を吸うと、乾いた唇を湿らすように舌なめずりした。
「シーラ、たった今、自分を僕って言ったな、ついにジェンティーレ、ゆかり君に戻るか? 成長期を過ぎて、君のアイデンティティークライシスは誰のおかげで癒された」
 
 癒やされたのか?
 浅い吐息といっしょに瞼を開くと能舞台の柱が見えた。自分は今、世田谷の自宅に戻り暗闇の村雨能楽堂にいる。人けはなく、静まり返っている。自分の呼吸の音だけが耳障りなほどはっきり聞こえる。
 シーラは橋掛かりに横たわっていた。銀座のギャラリーで仲間たちと馬鹿話を交わしていたのではなかったのか、それから次元の環が歪んで獅子ケ谷のメグと亜珠子=レノンにひきよせられた。レノンに見透かされ、彼に少女の声で罵られ、自分は何と言い返しただろう。
「メグはどこに行った」
 最初に口をついて出た言葉にシーラ自身驚かされる。銀河の中でメグは夏のパジャマを着て顔の両側に三つ編みを垂らしていた。あの子に癒された? どうだろう? 癒される、というのは男に戻ってもいい、男性性を受け入れるということかレノン?
「デュランテ・スクリーヴァの血統はそんな単純じゃない。いや、単純かな」
 癒されるというのはメグとセックスすることか、したいと思うことか。去年初潮が始まった彼女は十三歳。十九世紀末なら結婚可能だ。
「レノン、女と寝たいと思うのが癒しなら、僕は十四で癒されている」
 素晴らしい肉体美の従姉ルクレツィア。向日葵のようなブロンドを僕の胸に垂らした。僕は彼女の愛車フェラーリよろしく、彼女を乗せて突っ走った。最初のセックスはアウストラーダ・デル・ソーレを爆走する程度にわかりやすかった。そのまま僕は日本に来た。
「七夕だったのか」
 寝返りを打つと鏡板の松が目に入った。暗がりに緑は深沈と色味を抑えられていたが、拭き磨かれた能舞台自体から自然に発する光を受けて緑の松はうっすらと流麗な雲型を闇に浮かべている。
 すっと切戸口が開いて養父が現れた。正確にはシーラの父親の父親、千手宗雅だ。紺の作務衣を着ている。祖父に見つけられる前にシーラは飛び起きて床に正座し、声をかけた。
「お父さん」
電灯を点さないまま、八十歳近い宗雅は目を細めて薄闇を窺い孫を発見すると、
「ここにいたのか。昨日から姿が見えないと思っていたが」
「母親に呼ばれて銀座に。何か御用ですか」
(昨日? では丸一日経ったのか?)
「弟子から酒が届いたんで、お前と飲もうと思ったんだ」
「いただきます」
 世田谷の住宅街にさりげなく紛れた村雨能楽堂の歴史は古く、明治以来百年に及ぶ伝統を守っている。能舞台に隣接する屋根の大きい切妻造りの昭和家屋は、妻を亡くした宗雅とシーラの二人住いだった。謡仕舞を習う一般弟子の他、時折本家から従兄弟たちが訪れ、鳳凰流シテ方長老に稽古を仰ぐのだった。
 宗雅は八十歳の老人としては上背があるほうだが、三歩下がって後ろからシーラがついてゆくと、自然に見下ろすかたちになる。宗雅の背筋は正しく、足音を立てずに床を歩く腰が低い。行住坐臥、すり足の心得だった。祖父と歩くと、シーラは自分の長身、腰高を恥じる気持ちになる。
「気の早い若い弟子が暑中見舞いにくれたんだが、まあ、子供だましみたいな酒で。おまえに飲ませるにはちょうどいい」
「そうですか」
 宗雅はおもしろそうだった。薄い白髪をきれいに撫でつけた背中が笑っている。
「ヴィオレッタはいつまで日本にいるの?」
「さあ。麻布でカウンセリングルームを開きました」
「儲かるのか?」
「儲かりますね。相談料が破格です」
「ほう」
 いくら、とは宗雅は尋ねなかった。
 渡り廊下から東面に入る。サッシは入れたが庭に突き出た縁側を残した茶室風の八畳間では蚊取り線香が焚かれ、床の間と縁側に和紙の雪洞が灯されていた。窓は開け放たれ、扇風機が回っている。風の音の代りに南部鉄の風鈴が澄んだ音を響かせいる。柱時計に目をやると八時を回っていた。雨の気配はないが、庭の樹木の匂いがふかぶかと座敷のほうまで入ってきている。
 紫檀のテーブルの上に深紅の五合瓶がある。
 色味を抑えた和室でその紅は際立ち、傍らに用意された江戸切子の瑠璃色の杯との対比で、いっそうなまめかしく鮮やかだった。
 肴は紀州の梅干し。九谷の皿に無造作に放り出された感じで木綿豆腐がまるごと一丁乗っていた。座布団に座った宗雅はまず長い箸で肉厚の梅を崩し、それからきれいに木綿豆腐の一角を抉ると、梅といっしょに口に運んだ。その瞬間、上下の総入れ歯が雪洞灯りに豆腐よりも白く光った。胃を労わって、酒よりも豆腐を先に食べる。
「サイダーみたいな酒だ」
 口を動かしながら宗雅は半透明なガラス瓶の鶴首をつまみ、ラベルを睨んで苦笑した。
「今時のきらきら名前とかだ。おまえすぐに読めるか?」
 くるりと指先で壜を回し、シーラに表側を見せた。
「派手な文字だが」
「ええ」
  麗呑
「れ、ど、ん。かな?」
 シーラはわざと間違えた。
「れどんも悪くないが、れのん、だ。発泡日本酒。スパークリングワイン、シャンパンと同じだと。これで大吟醸と言い張る」
「辛口ですね。悪くないですよ」
 シーラはこくんと杯を傾けた。真夏の暑さが粘りつく喉を転がる泡の刺激は快感だった。
 蔵元は信州上田の安宅酒造。
「七月七日新発売。七夕記念だそうです」
「ああ、弟子の…君がわざわざ注文して届けてくれた。おまえめがけてだろう」
 シーラは笑って答えなかった。…氏の顔は覚えていた。四十代後半の裕福な会計士。能の世界で四十代はまだ「若者」。独身だった。千手紫が性同一障害だと彼は知っている。月例会や定例能で顔を合わせるとき、…氏はそっとシーラの傍に来たがるのだった。
「いろいろ御託がありますよ。夏の夜の夢物語。華やかで芳醇なスパークリング大吟醸。数々の名曲を残したジョン・レノンの歌のようにお楽しみください、とか」
「なんだ、恋人向けじゃないか」
「そういうわけでもないでしょうが」
 シーラは宗雅さんの杯に麗呑を注ぎ、自分も次々と干した。五合瓶はすぐに空になりそうな勢いだ。木綿豆腐もあらかた無くなっている。シーラは席を立って台所へ行くと、冷蔵庫から青紫蘇の葉とゴーダ―チーズのブロック、山椒の実の佃煮を持ってきた。チーズをちぎって佃煮を乗せ、紫蘇の葉で包む。シーラは自分が食べる前に、まず祖父に勧めた。
 宗雅は箸を捨てて指で紫蘇の包みを受け取ると、
「その穴だらけのボロ着を代えろ」
 と言った。

  雨あめ降れふれ母さんが 
  蛇の目でお迎えうれしいな
  ほんとによろこんだことなんか
  すっかり忘れた
  嘘でうれしいふりをする
  嘘つきの笑顔を貼り付けて
  自分のありかも忘れてる            
  そうしないとやってらんないの
  あの子はそう言って
  だけどとても澄んだ目をしてる
  自分で自分に嘘ついて
  ほんとのことなんか忘れてる
  そう言ってたあの子
  あたしの彼氏をとっちゃった
  だけどとても澄んだ目をしてる
  雨あめ降れふれ母さんが
  彼氏とあの子の母さんが
  
  嘘ついていつも外は
  雨降りぴちぴちちゃぷちゃぷ
  らんらんらんて
  あたしの涙もらんらんらん
  嘘ついたら針千本の罰なんて
  それも嘘
  彼女はとてもきれいな目
  彼氏はやがて捨てられて
  あたしも別な男といっしょ
  ぴちぴちちゃぷちゃぷ
  あの子はどこに行った
  母さんどこに連れてった
  迎えの蛇の目はどこでしょう
  らんらんらん
  
  嘘のうわぬり恥知らず
  自分のありかを忘れたあたし
  あの子も
  あたしもとても澄んだ目をしてる
  雨あめ降れふれ母さんが 
  迎えに来たら彼氏とあたし
  やってらんない雨の日は
  あの子のように男を捨てる
  ぴちぴちちゃぷちゃぷ
  やってらんらん
  らんらんなあい
  嘘つきの顔を貼り付けて  
  ぜったい何も悲しまない
  ほんとにとってもよろこんで
  大好きよ
 
「おい、気が付いたかい」
 うん、と莉珠子は頭をひとつ振って椅子の背もたれから半身を起こし、猫のように背筋を逸らせた。目を開けると無精髭だらけのジンさんの顔が間近にあり、その煙草臭い息の不愉快で、いっきに目が覚めた。ジンさんの両腕に抱えられていなかったことにまずほっとする。
「あたし眠ってたんですか?」
「うん、シャワーの歌まるごと一曲の間ね。羽戸さんが来てくれてよかった」
 そうだ、ハトが飛んできたとかなんとか。
「ハト?」
 こんばんは、と斜め後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。シーラの記憶があったので振り返ると、ウズラの卵のような雀斑を浮かべたドクター羽戸の顔があった。
「あら、先生、白衣じゃないわね」
「オフよ。クリニックから直行だけど」
 粒の揃ったきれいな歯並びを見せて羽戸医師は笑った。黒い袖なしワンピースに淡水パールのネックレス。
「どうしてここへ?」
「あたしこそびっくりしたわ。こないだの患者さんとここで再会するなんてね。あたしとジンさんは数年来の友人なの。今日のコンサートは前から知らされていたから」
 世間は狭くて広い…いや逆、と莉珠子はまだぼんやりしている頭をもうひとつ振った。
「ジンさん顔がひろいからなあ」
 莉珠子はジンさんからコークを貰い、喉を鳴らして飲んだ。
「でしょお? 俺ッチ美人集め得意なんだ。なんだかわかんないけど、要するに銀座は美女と美男が多いんだなあ」
「それはわかりにくい説明だわ」
「もちろん、こじつけさ」
 しゃあしゃあとジンさんは答えた。こういう駄弁の応酬はきりがないので、莉珠子は羽戸に向かって、
「先生がRKを服ませてくださったの」
「ええ、こないだ聞いてたからね。もうあなたは昏倒してたから無理かなと思ったけど、7分で復活したね。凄いわこの紫の錠剤。分析意欲がそそられる」
「ドラッグじゃないですよ」
 莉珠子は抗弁したが、羽戸の目がきらりと光ったのでどきりとした。リアル・キーパーの成分は本当のところ亜珠子も莉珠子も知らないのだった。覚醒剤、アヘン、そんな成分も混じっているのかもしれない。ポーンの説明では莉珠子の体質にのみ適応する〈専用覚醒剤〉だった。それはやはりドラッグなのかもしれない。
「あたしがずるかったら、一つ二つくすねちゃうんだけどね」
 羽戸は両目を見開いて冗談交じり本気大部分という医者の顔を見せた。
「シーザーが飛んで来るから」
 莉珠子はわざとらしくバッグを大事そうに抑えてみせた。話を逸らせようと、
「そういえばシーラは?」
 羽戸医師の席にはシーラが座っていたのだった。
「あたしに席を譲って、後ろのほうにいるはずでしょ」
 あれ、とジンさんは立ち上がってフロアの混雑を眺め、
「ち、シーラちゃん神隠しだぜ。いつものことだけど我が恋人は風と共に去りぬ」
 その一言で、フロアの喧噪と熱気がジンさんの周囲半径一メートルで冷え込んだ。
「クーラー効きすぎねえ」
 羽戸は強かった。莉珠子はまともにジンさんを批難する。
「奥さんいたんじゃないですか」
 ちょうど受付から鈴音をたてて藍色雪柳の絽小紋が、シャワーの退いた後の舞台に上がってきた。
「奥さんて」
 とぼけるジンさんに莉珠子は小声で、
「あのひと、娘だって言ったじゃない」
 ああ、とジンさんは頷き、
「死んだよ。一昨年ね。もっとも離婚したのはずっとずっと昔だ」
 舞台にあがった雪柳の娘は繊細な顔をきれいな仕草で伏せてお辞儀をした。
「蒸し暑い中、また七夕という伝統的天然ビッグイベントナイトにも関わらず、わたくしども妃翠房と卯咲苑のささやかな催しにお越しくださいましてありがとうございます。
このフォルダー・ドルフィン企画は今夏、鹿香・香枕市共同の海岸美化・地域浄化キャンペーン参加イベントでございます。美しい海を守り、すこやかな自然を育て、戦争や核保有という殺し合いをやめ、平和の象徴イルカのように同胞を助け合える人類でありたい、というメッセージを込めております。
まことに小さな世界でございますが、お運びくださいました方々の記憶のフォルダーにしばらく、いいえできるなら永遠にお残しいただけましたら幸いでございます」
 声の調子は控え目だが、滑舌のよい挨拶だった。筋書きだろう、シャワーのアンコールを、とジンさんがひゅっ、と指笛を吹いて。
 

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