さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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ベスト・サンクチュアリ  Pth 5

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  ベスト・サンクチュアリ

 亜珠子の鹿香失踪事件は結局うやむやになった。亜珠子は獅子ケ谷を脱け出した経緯を何も覚えていないと言い張り、着衣にも身体にも外傷がないのだから、莉珠子には強いて真相を究明しなければならない理由がない。
 誰かにこっそり連れだされたにしても、とにかく本人が無事なのだから、警察沙汰にことを荒立てるのは面倒だった。
 亜珠子がいっとき行方不明になったことよりも、そのあと彼女が意識を取り戻し、嗜眠症の莉珠子などよりずっと健康に日常生活を再開したことのほうが驚異だった。
「りっちゃん……」
 呼びかけられて瞼を開くと、カナリア色の薄い部屋着を羽織った亜珠子が、ベッドに寝ている莉珠子の顔のほぼ真上から覗き込んでいる。亜珠子の背後から窓明かりがカーテン越しのソフトフォーカスで差し込み、衣装のカナリア色に反射して、亜珠子は柔らかい淡黄のオーラに包まれているように見えた。
「おはよう」
 おはよう、と莉珠子は口の中だけで応え、枕元の時計を見た。午後二時。東南ウィングの莉珠子の部屋の光は午後のものだ。この時間、太陽の直射は亜珠子の部屋の方に移っている。夕顔の緑蔭に覆われ、亜珠子の部屋は西陽があたっても涼しい。一方、莉珠子の室内に回りこむ夏の光は静かだった。
 亜珠子はみずみずしい笑顔を浮かべている。目の周りから頬にかけてのゆったりした血色は、新鮮な桃のようだった。目覚めて以来、三度の食事をきちんと摂り、熱心にリハビリを続けているおかげで、ガラス細工のようだった亜珠子は日増しに精気を増している。亜珠子は長い髪を背中に垂らしたままだ。春夏秋冬常に室温二十五度に保たれた完全空調の屋内だから汗もかかない。
「あっちゃんいつ起きたの?」
「今朝五時に。最初に大宮公園まで散歩に行って、帰ってきてから軽く朝ごはん食べて、ソファでうとうとしてたらヘルパーさん来て、昼ごはん作ってくれたわ」
「大宮公園に早朝散歩?」
 莉珠子は驚いてむくっと起き上がった。初耳だった。自宅から一キロ半ほど離れた武蔵野疎水沿いにある八幡宮公園だが、足弱のはずの亜珠子はいつのまにか普通人と同じ程度の健脚を取り戻しつつある。
「往復どれくらいかかるの?」
 亜珠子はにっこりと小首を傾げた。人差し指をかるくまげて立て、ピンクの頬のえくぼあたりに添える。まるでネット画面に頻出するアイドルスマイルだ。器量よし、明るく可愛いという共通項でくくる、誰でも無数に交換更新可能な微笑。莉珠子は襟足にひゅっと冷たい風が触った気がして首をすくめた。
(亜珠子さん、こんな顔したっけ?)
 莉珠子の鳥肌を知らぬげに亜珠子は、
「片道二十分くらい。お宮さんの境内をちょっと歩いて往復約一時間強。朝早く行くとね、動物がいっぱいいて楽しいのよ」
「ああ、ワンコのお散歩タイム」
 うふふ、と亜珠子は両手を背中に回してスキップするようなはずみをつけて後ずさった。亜珠子が部屋の真ん中で爪先立ちし、背中で腕を組んだまま、バランスよくくるりと一回転すると、カナリア色のリネンカーディガンの下に着た白いキャミソールワンピースの裾がひらりと夕顔の花弁のように開いた。
「あっちゃん?」
 莉珠子の喉がひりひりする。莉珠子の記憶フォルダーのどのページをクリックしても、ダンスステップを真似る亜珠子の動画は出てこない。唖然とする莉珠子を観客にして、亜珠子ははしゃぎ続ける。
「手足があるっていいわ。何ていい気持なんでしょう。動けるって、思い通りに歩けるってすごい」
「そうね、そうよね」
 そうに違いない、亜珠子は突然元気になったために躁状態に違いない。ずっと動けなかった、寝たきり、傾眠状態で、若年性認知症で……。
(脳味噌は委縮していたはずなのに)
 十年以上前、CTスキャンで撮影した亜珠子の脳断面図の記憶が莉珠子の瞼の裏を数コマのテロップとなって疾走する。胡桃の実にかたちのよく似た脳は、素人の莉珠子にもわかるほど、はっきりと、ところどころ灰色に硬化していた……いったん壊れた脳細胞は再生しない。ところが、目の前の亜珠子は新鮮な活力に満ちて仕草にも言葉にも全く欠損がない。
 亜珠子は両手を左右に大きくひろげた。
「ワンコだけじゃないわ」
 何? と莉珠子は目をまるくした。
「出会うのは犬や猫だけじゃなく、いろんな動物。みんなあたしに付いてくるの」
 ほら、と亜珠子は両手を翼のようにひろげたままくるりと莉珠子に背中を向けた。
「ごらんなさい」
 つやつやした亜珠子の黒髪は水分を含んだ海藻のように足首までたっぷり届く。亜珠子はうなじに両手を差し入れ、自分の髪を反物のように持ち上げた。宙に浮いたぬばたまがさらりと末広がりに拡がると、ほら。
 最初に金茶色の両目が莉珠子を見た。アーモンド型で、クレオパトラの化粧のように濃い縁取りのある吊目は猫だ。にゃ、とかぼそい声が聞えると、痩せた三毛猫が亜珠子の髪の中から現われた。ふぞろいでばさばさの毛並。おどおどした顔つきで、牝猫は部屋のカーペットの上に降り立った。そのあとに三匹の仔猫が次々と亜珠子の髪の毛の中から転がり落ちてきた。三毛猫の子供たちだろう。どの仔も痩せてよろよろしている。中の一匹は耳がちぎれ、片目が潰れていた。
「あっちゃん、何の手品? マジック?」
「その子の目はねえ、鴉に突つかれちゃったんだって」
「だから? どうして髪の毛の中にしまってきたのよ」
「まだまだ」
 ふう、と溜息を吐いてうちひしがれた様子のコーギーが出てきた。見るからにシニア犬でハアハアと呼吸が荒い。前足に怪我をして血が滲んでいる。ぼろぼろの毛皮は何かに縛り付けられて無理やり引きずり回されたようだった。暗くすさんだ目をしてコーギーは莉珠子を上目に眺めると横を向いた。
 にゃあにゃあと仔猫たちは母猫にまつわりついているが、母猫はぐったりと床に横たわり、呼吸のたびに毛皮の下で痩せた肋がぎょろぎょろと動くのだった。たるんだ腹に仔猫はしがみつくが乳は出そうにない。
 どすん、とレトリバーが身体を揺すって出てきた。ラブラドルなのかゴールデンなのかはっきりしない。全身の毛皮が擦り切れるほどあちこち殴られて傷だらけだ。尻尾は途中でちぎれ、後ろ足の第二関節から骨が露出していた。
 莉珠子はこらえきれず悲鳴をあげた。
「やめてよ、亜珠子さん、なんでこんなかわいそうなものを」
「付いて来ちゃうんだよ」
「どこから」
 みゅう、と猫のような呻き声といっしょに汚れたテリヤが出てきた。使い古しのモップのようにぼろぼろの毛をして、前髪の隙間からわずかに覗く両目は絶望に濁っていた。それからまた野良猫、仔猫、捨て猫、捨て犬……。亜珠子のみどりゆたかな黒髪からぞろぞろと悲しい動物が転がり出てくる。
「みんな捨てられたの。殺されるんだよ」
 それはわかる。これはあちこちに見かける殺処分反対ポスターの動物たちだ。いや、ポスターの動物たちはこんなに汚く傷ついてないけれど、死の予感と絶望と嘆きに満ちたまなざしは同じだ。この子たちはもはや人間の暴力にあらがう気力はなく、牙を剥き出すでもない、ただうずくまり、苦痛にふるえ、死に怯え、同時に早く楽になりたがっている。
 莉珠子は半泣きになった。
「髪の毛の中に、亜珠子さんこの子たちを隠してるの?」
 亜珠子は後ろ向きのまま答えた。
「いっときね。そら、よく言うじゃないか。髪は魂だって。亜珠子はイノセンスだからイノセンスな魂が寄ってくるんだ」
 亜珠子の澄んだ声は変わらないが、いつのまにか話し方が変わっている。
(このシニカルで突き放した口調はどこから来たの?)
 いつのまにか莉珠子の部屋は傷だらけの殺された動物たちでいっぱいだ。
(この子たちは生きてない。亜珠子さん、動物霊をしょってきた!)

「こわいお話ですね」
 パメラは銀色のブラウスに白のスラックスを穿いていた。ブラウスはウエストがしまったテーラードタイプの長袖で、ヨーロッパの民族衣装のボディスに似て、胸前を編み上げ靴のような紐で交互に締め上げている。胸元が強調されるタイトなデザインだが、生地が無彩色なのでエロティックな印象はない。それにパメラはスレンダーだ。両袖の部分だけシースルーだった。髪は後ろで簡単に束ねていた。彩りのない衣装のために、髪の金色と瞳のエメラルドグリーンが余計に鮮やかに感じられる。
 通常の職業カウンセラーはパメラのようなゴージャスで印象的な衣装は着ないはずだ。魅せるのも仕事のうち、いや魅せるのが仕事というセラフィストパメラなのだった。パメラを見ていると莉珠子は同性であってもいい気持になる。この怜悧であでやかな美女が、まるまる一時間真剣に自分の悩みに耳を傾け、日本的な情緒用語を当てはめるなら「親身になって」くれる感触は、他には得難い快楽かもしれない。いや、カウンセラーの受容は親身とはやや異質なポジションなのだけれど。
「ええ、こわかった。目が覚めたときは夢で良かった、と心から思ったんですが、その夢は細部までものすごくはっきり記憶にこびりついて、とても夢とは思えないんです。それにあたしはナルコレプシーで眠っているとき、これまでほとんど夢を見たことがなかった」
 莉珠子は膝の上でハンカチをくしゃっと握った。手のひらに汗をかいている。莉珠子はカジュアルなアニエス・bを着てきた。往復タクシーだから街中でおしゃれをみせびらかす愉しみはないのだが、武蔵野郊外から都心の麻布まで出てくる気合いをこめてのブランドだ。張り合うつもりはないが、パメラのファッションセンスとバランスしようとしているのかもしれなかった。
「今まで夢を見たことがない、記憶がない、ということでしょうか?」
「そうですね。たぶん夢を見ていても覚めた瞬間に忘れてしまって思い出せない、というのが普通だったのに、この夢はほんとうにはっきりしていて、数日経っても、ぞろぞろと部屋に動物があふれた情景の恐怖が消えないの。いえ、それどころか」
 莉珠子は言いかけて口を噤んだ。喉が渇いたと思う。何か飲みたい。
 すっと目の前にハーブティーが出てきた。可愛らしい小花模様のミントンのマグカップだった。心を読まれた驚きよりも喉の渇きの生理的欲求のほうが強かった。パメラはいつお茶を淹れてくれたんだろう、どこにティー・ポットがあったか? などと疑念も湧いたが喉に適温のカモミール茶の芳香に癒されてしまう。
「おいしいわ」
 ほのかな甘みが嬉しい。
「落ち着きましたか? 顔色が真っ青です」
「ありがとうございます。あの、こんなことお話していいのかわからないんですが、あたし、それがただの夢だけじゃなかったんじゃないかって気がしてるの」
「夢だけじゃなかった、ですか。現実の部分もあったということですか?」
 パメラは髪をかきあげて目を細めた。すると目元に軽い小皺がより、アンドロイドのように欠点のない顔が、ふと人間味を帯びて温かく見えた。
「ええそう」
「野川さんのお気持ちに差し支えない範囲でお聞かせくださいますか?」
 美しい日本語だ。
(それにシーラの声に似ている)
 が、今はシーラは後回しにしよう。
「こんなこと信じられないんですが、目が覚め、ああ夢で良かったと思って起きあがり」
「はい」
「それから、あたしはたぶん今みたいに喉が渇いて、飲み物が欲しかったので、冷蔵庫のところへ行きました。うちは母とあたしの部屋と、台所とそれぞれ冷蔵庫があります。ベッドから降りて部屋を横切ろうとしたとき、壁際のキャビネットのガラス扉が割れていたんです。あたしの腰くらいの高さの家具ですが」
「ガラスが割れていた。どんな具合に?」
「二枚の引き戸になってるんですが、そこに嵌まっている曇りガラスが両方とも粉々。まるで叩き割ったように」
「叩き割った。音は聞こえなかったのですね」
「ええ、何も。キャビネットの中にはティーカップとかソーサーとか、ちょっとした食器がしまってあります。それも殆ど割れてしまって。テーブルのクロスもずたずた」
「テーブルクロス、ですね」
「はい、まるで、猫がいたずらして引き裂いたみたいな感じ。何匹もの猫がよってたかって爪を立てて」
「夢には猫がたくさん出てきたんですね」
「そう。痩せこけて怖い顔をした猫、しょんぼりとうなだれた犬、傷だらけの子、みんな絶望を目にいっぱい溜めて。ああ、先生、すごいことですね、人間が泣けるというのは。動物たちは涙なんか流さないけれど、ものすごく視線は雄弁なの。こわかった」
 莉珠子は自分の肩を抱きしめて震えた。
「あの子たちはひょっとして本当にあたしの部屋に来たんじゃないか。あたしはぞっとしました。テーブルクロスを持ち上げると、亜珠子さんの髪の毛が二三本くっついていました。ふだんなら別に驚かないことです。亜珠子さんはしょっちゅうあたしの部屋に来るし、お茶を飲んだりお菓子を食べたりするから」
「髪の毛は本当に亜珠子さんの?」
「長い長い髪の毛。一メートル三十センチはあるわ。とても豊かで真っ黒で、お姫様の髪のようなの。その中から動物たちが」
「はい。でもそれは夢ですね」
「ではクロスの破れは? キャビネットの粉々のガラスは? ポーンじゃないし。ポーンはシーザーの使者なんですけど、物理的な破壊はしません。おしゃべりで嫌味な奴だけど、暴力はふるわない。誰もそんなことをするはずがないんです」
 ハーブティーの効果が薄れ、莉珠子が震え出して感情失禁しそうになったので、パメラはおもむろに口をはさんだ。
「ポーンはあなたがたを監視というか、エイジレスサプリメントの素材として保護してくれるのですよね。あなたのお話をうかがうと、社会常識では信じられないことが多いです。けれどありえないことではない。ある社会のある階級ではプライバシーというものは存在しないのです。人生劇場の仕掛けと心得てそれぞれの役割を演じる」
 パメラの声は晴朗だった。莉珠子の目の中に、この瞬間のパメラの声音の響きにふさわしい曇りのないヴァイオレットが大きな旗のように翻った。
「それは」 
 莉珠子はちょっと間を置いてから、
「ロイヤルファミリー。世界の大富豪、ビリオネアとか、特別な階級のことですね?」
 パメラは気持ちの良い微笑を浮かべた。高貴でありながら親しみやすい表情だ。
「個人であることが許されない人生を生きるひとは大勢います」
「例えばエリザベス一世? パメラ、彼女はあなたの先祖かしら、もしかして」
 パメラはただ微笑している。その笑顔に彼女の感情は読めなかった。カウンセラーは原則自分のプライバシーを明かさない。ルール違反は莉珠子のほうだった。莉珠子はすぐにそれに気づき、自分の方へ話を戻した。
「わたしは庶民です。年をとらないように見えるというだけで平凡な民間人」
「エイジレスは平凡とは言えません」
 パメラは珍しくきっぱりと断定した。 莉珠子は頷いたが、今自分が直面している事態のほうが焦眉の急だった。
「先生、お気付きでしょうけれど、あたしは最初にこちらに伺ったときと今とでは、悩みの内容がまるで違います。一か月前にインテークを受けたのは、ターミナルにさしかかった母との決別、彼女の死の受容がテーマだったと思います」
「そのとおりです」
「でも一週間前に亜珠子さんが目覚めて、失踪して、発見されてからは、彼女はどんどん回復し、もうターミナルとは言えないの。あたしみたいにナルコレプシーじゃないから、早朝から夜遅くまで起きているみたい。きちんと三度のごはんを食べて運動しています。蜉蝣みたいにガリガリだったひとが、今ではつやつや。だから、彼女の死の心配は当分しないで済みます。それだけならカウンセリングは終了のはずですね?」
「野川さんがそうなさりたいなら」
 莉珠子はかぶりをふった。汗は出ていないが額にハンカチを押し当てる。両手に握りしめていたハンカチはぐしゃぐしゃだ。
「ところが、違う悩みが始まりました。今日お話しした夢はやっぱり現実の部分があって……部分というのか、真実なんです」
「真実があるのですか?」
「ええ、亜珠子さんは昔の亜珠子さんと違うひとみたい。若年性認知症が完全に回復するなんてありえません。脳細胞は枯れていたはず。なのに彼女はクリアで快活」
「人が変わったような」
「ええ。あたしは嬉しいんですけど、馴染めない感じもある。怖いっていうのかしら。だからあんな夢をみたのかしら? 覚醒した亜珠子さんへの怯えから? でも割れたガラスや引き裂かれたテーブルクロスは?」
「疑問がいっぱいありすぎる」
「そう。あたしはちょっとおかしいんじゃないかしらなんて考えてしまいます」
 それから莉珠子は黙ってしまった。
 コチコチ、と掛け時計の秒針の音がはっきり聞えた。冷えてしまったカモミールの香りも嗅覚に強く触れてくる。
パメラは腕時計に目をやり、
「野川さん、約束の時間を過ぎてしまいます。カウンセリング時間の延長はできないのですが、もしよろしかったら、次回簡単な心理検査を受けてみませんか?」
「え? 検査。テストですか」
「はい、バウムテストといいます。描画テストの一種で、画用紙に一本の実のなる木を描いていただき、クライエントの内面を推定します。野川さんは画家ですし、取り組み易いのでは?」
「自宅で描くのですか?」
「いえ、このカウンセリングルームで。その場にわたしも同席します。描くのは野川さんですが、カウンセラーとクライエントの相互作用も絵に現われるのですよ。このカウンセリングの行方も推し測れるかも」
「おもしろそう。あたしが変か変じゃないかとか、わかるんですね」
「野川さんは変ではないと思います。混乱していらっしゃるのでしょう」
 パメラは軽く顔を左右に振って笑った。金色の巻き毛が秀でた額から頬にかけてふさふさと揺れる。ボッチチェルリの描いたシモネッタのように清潔な横顔だ。
(このひとこそ、本当は何歳なのかな?)
 美容整形しているかもしれない、と莉珠子はパメラの顔を眺めながら思った。だからといって莉珠子の目に映るパメラの魅力が減るわけではない。美しいということは視覚に無条件の快楽だ。
目の周りをマスカラやシャドーで濃く強調するのと、皮膚を剥がし骨を削って顔面工事するのと、多少歩幅は異なるが、五十歩百歩程度の相違に過ぎない、と莉珠子は思う。

 雑踏。体温と体臭を持った数知れぬ人間のざわめき、足音。扁平な騒音から時々飛び出す甲高い誰かの笑い声。梅雨空から湿度は退屈なプラスティックのようにのしかかる。目に見えない低気圧。拭いても滲む汗のような鬱陶しさでぺたりと皮膚に貼りつく気圧。色とりどりの洋服と傘、色とりどりの視線、たった今傍らを通り過ぎていったハンサムな男の印象がすぐにウィンドーのデコレーションに吸収される繁華街。アイスクリームか白ワインでもおごってよ、そしたら覚えていられるあなた。もしかしたら恋人、ボーイフレンドになれたかもしれない君の記憶。この街はどこだ。どこでもいい。
「レインボー・スプラッシュ・フラッペをください」
 亜珠子はパーラーのウエイトレスに微笑んで見せる。学生アルバイト風のウエイトレスは亜珠子の笑顔につられるように、営業用スマイルよりも感情のこもった笑顔を返した。人なつこい質なのだろう、そして午後五時の店内はお茶の時間のピークから逸れて隙なせいもあって、彼女の笑顔は従業員の顔から若い女の自然な驚きの表情に変わり、亜珠子の注文を受けたあと、
「すごい長い髪、きれい」
 友達に言うような口調だった。ウエイトレスの目には亜珠子は高校生か、大学生としたら学部の一年生くらいにしか見えないはずだ。きっと自分より年下だと思っている。ウエイトレスの視線に嫉妬が混じらないのは亜珠子の飛びぬけた可愛らしさといかにも裕福そうな身なりのせいだろう。
 椅子に座った亜珠子は背中の髪を片側にまとめて膝に置いていた。生地のよい薄紫のコットンツーピース。亜珠子が十年以上も昔に買い込んでクロゼットの中で眠っていた衣裳。白い被布の籐籠バッグ。足元は紺と白のボーダー柄のエスパドリーユ。貝殻を模した銀のピアス。それとお揃いのブレスレット。マニキュアは塗っていない。
 まだ若いウエイトレスは、計算高く客の頭から爪先まで値踏みする。自分よりはるかに豊かなバックグラウンドを持つに違いない亜珠子に妬みの表情を見せたりしない。
 亜珠子は両眼をわざと大きく見開き、
「え、小さいころから長いの」
「そうですか」
 娘は従業員の顔に戻った。このパーラーは銀座に本店を持つ老舗で客筋は上々だった。ティーンエイジャーが集まる甘味屋ではなく、ある程度年齢を重ねた、経済的にゆとりのある女性客がほとんどだ。いかにも高級そうな店構えで、十代後半に見える亜珠子が連れもなしにふらりと入れば目立つ店内だった。
 虹の飛沫のかき氷、はパーラーの今夏目玉商品で、この情報を亜珠子はネットで見つけた。ガラス器の最下層に蜜煮の無花果を入れ、ふわふわのかき氷を積む。氷の中にはアプリコット、ラズベリー、ブルーベリー、白桃、マンゴー、苺、さくらんぼ、などなど、何種類ものフルーツピースが贅沢に詰め込まれている。かき氷というよりは、果物を積んで氷でコーティングしたようだ。氷山のトップは生の夕張メロンソースをかけたヴァニラアイスクリーム。薄緑のメロンソースはその日のうちに使い切る自家製ということだった。
 やがて運ばれて来たフラッペはトップのクリームまで高さが三十センチもあろうかというヴォリュームだった。アイスクリームの腹にはマゼンタのブーゲンビリアが一輪挿してある。色鮮やかなフルーツのてんこ盛りはまさに虹の器だった。
 氷の中でフルーツピースも程よく冷えている。苺などは歯ごたえに快い程度に凍っていた。亜珠子は柄の長いスプーンで氷を崩しながらゆっくり食べた。莉珠子がカウンセリングに出かけた隙に、こっそりと今日は遠出してきたのだった。
 氷とアイスクリームが口の中で溶け、噛み砕いたフルーツピースと一緒に食道を下ってゆく。ベリーの芳香とメロンソースのなめらかな舌触りは、鼻腔の奥から顔じゅうにひろがり、虹の味覚の幻想が眼がしらまで浸透するようだ。
(虹いろはやっぱりお菓子よね)
 雨音が虹色に見えると莉珠子は言うけれど、雨には味がないものね、と亜珠子はしきりに食べ続ける。五感にひろがる新陳代謝の感覚。食物を摂りこみ、味わい、自分の肉体が口に運んだ美味によって養われる快感を亜珠子は楽しむ。
(この前かき氷食べたのはいつだっけ) 
 亜珠子=レノンは考えて、匙を止めた。鼻の奥で木綿糸がぷつりと切れたような虚しさがある。
(そうだ)
 思いがけずつらいものをひきだしてしまったことにレノンは眉をしかめた。
(ぼくかき氷食べたことないや)
 だって六歳から眠っちゃったんだもんね。
 諏訪の星隷ミカエルで、ずっと経管栄養だったレノン。では亜珠子は?
 カランコロン、とレノンは亜珠子の乾いた脳細胞を爪先で蹴った。レノンのヴィジョンの中で亜珠子の崩壊した記憶はサッカーボールのように小さく縮んで読み取れない。
 レノンは気を取り直し、ざっくりとアイスクリームと苺を掬って口に運ぶと、鼓膜に響く音をたてて氷を噛み砕いた。ガリガリ、ばりばり…それからスプーンを氷の山に深く突き入れた。フラッペのバランスが崩れて、何種類かのベリーが氷といっしょにテーブルにざらっと零れ落ちた。
 匙の尖端が器の底の無花果に突き刺さる手ごたえがあった。同時に亜珠子は無意識に両膝をひきしめた。尿意によく似た下腹部の疼痛が来たのだった。痛い? 
 何これ、とレノンは足の上下を入れ替え、組みなおした。それから匙をそのままにして手洗いに立った。何これ?
 五分後にテーブルに戻った亜珠子は、かき氷に斜めに突き刺さしたスプーンをひきぬくと、匙の凹みにこびりついた蜜煮の果肉を、尖らせた舌先で舐めた。

 A4の画用紙の縁に、パメラはまず緑の色鉛筆で枠を描いた。彼女の瞳と同じ色彩だが、エメラルドのように青味がかってはいないビリジアングリーン。
「この枠の内側に一本の実のなる木を描いてください」
「縦書き? 横書き?」
「ご自由にどうぞ。カウンセリング時間内であれば、時間制限もありません」
「着色しなければいけませんか?」
「いいえ。黒だけで十分ですが、色付けしたいなら色鉛筆を使ってもいいですよ」
 パメラはベージュのブラウスを着ていた。白に近いアイボリー。カッティングをわざと曖昧にして、上半身全体に薄い生地がふわっとまつわりつく感じは、ルネサンス絵画に描かれる天使の衣か、ギリシアの神々のまとう巻衣のようだった。それに黒のスリムパンツ。
 今日も彼女は無彩色だ。碧の眼と金髪、そして定位置に座った彼女の背景となるレリーフの孔雀も碧。この部屋の白と黄金と碧の組み合わせは天上的なまばゆさを湛えている。
莉珠子の目の前には、ありふれた十二色の色鉛筆、消しゴム、画用紙。白い画用紙にパメラの枠づけした緑のラインは安心感をくれた。緑の窓、そこから覗き見るわたしのインナー・ツリー。
 莉珠子は画用紙の上から三分の一あたりに
黒い鉛筆で地面の線を横に描いた。まっすぐではなく、地平線のようにやや湾曲させた。 
大地のちょうど真ん中に、莉珠子はさらさらとを幹と枝を描いた。クロッキーよりも雑なタッチで、あまり太くない幹と、その上方に数本の枝を分け、廻りに樹幹の雲形をもくもくとかぶせ、樹冠の中には林檎を三つ四つ描きこんだ。用紙の上三分の一しか地上の空間に使わないので、それでほぼ埋まってしまう。莉珠子は最後に大地と樹木の接点に樹の根を三本描き加えた。
 画用紙の下三分の二は白紙のままだ。
 莉珠子は頬杖をついて緑の枠の中のインナー・ツリーを眺め、顔をあげてパメラを見た。莉珠子と視線が合うと、パメラは肯定するように笑った。透きとおるようなグリーンだ。黒い眼の日本人莉珠子には、この透明な眼が脳につながり、明暗清濁いろいろな感情を伝達するということが神秘的に思える。
「あたしの実のなる木は、まだ続きがあるんですけれど、これ以上描いてはいけないのかしら?」
「続きがあるのですね。納得なさるまで描いていいですよ」
 莉珠子はうつむいて鉛筆を握りなおした。
 三つの根から地中に向かってそれぞれ一本づつ川が流れている。根の続きではなく水の流れる川なのだった。川は地の底で湖となり地下空間は湖の周囲で夜空に変わる。地上の樹冠よりも大きな湖を莉珠子は描いた。湖の中には島があり、中世ヨーロッパのような城がそびえている。高い塔と壁、物見櫓。水中には魚がたくさん泳いでいる。
 湖の周囲は大地なのだが、宇宙空間でもある。莉珠子は黒鉛筆を捨て色鉛筆を取った。
 金色の星、流れ星。林檎の数よりはるかに多い数え切れないほどの星々。星の隙間には赤やピンクの花を描いた。薔薇か、芥子か、宇宙空間には星のきらめき、大地には風にそよぐ花々を。
 次第に絵に集中し、自分のヴィジョンに没入してゆく莉珠子にパメラは眼を瞠った。
莉珠子は頬の輪郭も手のかたちも、下を向いた拍子に襟ぐりの大きく開いた肩先からのぞく背中のかぼそさまで、成長期の真っ只中にある未成熟な少女そのものだった。目に映る全身の皮膚は、内側からあかりが灯っているようにすみずみまで潤っている。
(この子の首筋に噛みついたら…吸血鬼のように)
 青林檎の歯ごたえをパメラは連想し、軽く唾を飲んだ。
 それからパメラは、自分の性的な食欲へのアリバイとして、愛咬癖のある従弟を連想した。吸血鬼はみな美貌だ。病的な従弟も例に違わず人を惑わす容姿に恵まれている。エイジレスサプリメント・ユメテルナを彼も服用しているかもしれない。その原料を従姉がクライエントに迎えていると知ったら、従弟は日本まで飛んで来るかもしれない。だが来ないだろう。
 日本にはジェンティーレがいるから。
 いや、切望するだろう。 
 ジェンティーレと莉珠子を食べてしまいたい、と。

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