さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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アリスベール・シフト  Pth 6

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  アリスベール・シフト

 ジンさんあたし今久我ビルの前にいるの、と携帯から声が飛び込んできた。
「あたしって誰よ? ぼくと良い仲の女性は数多いんでね、名前下さい」
 携帯の声は失笑したが、
「当ててみて」
「粘るねえ。聞き覚えがあるような、ないような」
 まだ若い姉ちゃんだな、とジンさんは急遽脳内にダウンロードしたガールフレンド一覧を忙しくチェックして首をひねった。確かにどこかで聞いた声だが、最近の検索履歴にひっかからない。
「降参するよ、俺忙しいんだ」
「なあんだ。美女は忘れないってジンさんのモットーじゃなかったの? まあいいや、野川亜珠子です」
「え、秘密のアッコちゃん、こないだ百年の眠りから復活したんだって? リスから聴いたよ。銀座まで出てきたのかい」
「相変わらずダサいオヤジギャグかましてるのね。そう、新鮮な血を吸いたくて夜な夜な獲物探し」
「リスが言いつけたんだろ。君ら母娘吸血鬼だという真実を俺暴露したからな」
「今夜ヒマ?」
「リスもいっしょか? ちょうど今ギャラリー閉めて繰り出そうとしてたんだ」
「残念でした、娘はうちでもうねんね。誰かと先約ありですか?」
「まあね。だけどアッコちゃんなら乱入大歓迎だよ。歩けるんならあがって来ないか。展示を見てくれると嬉しい」
 ギャラリーを入って真正面の壁いっぱい、最も濃くて暗い藍色から始まり、下に向かって次第に色調を明るませ、最後は淡い水色まで、何十枚もの大小さまざまな手染めストールが、波紋のように天井から床まで斜めに吊ってある。生地も手織りのようだ。青味がひきたつように照明は白く調光されていた。
微妙に色相と明度をずらしてゆく藍、瑠璃、藤、青紫、浅葱に縹、桔梗、菫…あてずっぽうでいくつかの青系統の和名が浮かんだが、それ以上の単語は亜珠子=レノンには出てこない。
亜珠子とジンさんが襞に近づいたり離れたりする微妙な空気の動きにつれて、重なりあった薄い紗はゆらゆら揺れた。
「布で織りなす波模様だわね」
「そう、イルカの海だ」
「妃翠房の?」
「いや、卯咲苑のワーカーたちだよ。軽度の知的・身体障がい者さんたちの商品。良かったら買ってくんない」
「いいわ」
 レノンはしばらくぶりに再会するジンさんへの挨拶がわりに二つ返事の買い物をした。ジンさんは亜珠子がレノンだとは気づいていないので、思いがけない相手の気前の良さに目を剥いた。
「やりぃ…ま、あなたがたは金持ちだから」
「骨身を削って稼いでるの」
 亜珠子=レノンは笑いながら、ジンさんをじろりと横目で睨んだ。
 だよなあ、とジンさんは垂れ目を糸のように細くして亜珠子を上から下まで眺め
「にしても変わらないねえ。リスもだけどあなたほんとに俺よかひとまわりも上の方とは見えない。顔も身体もせいぜい十九、十八。羨ましいかぎり」
亜珠子はぽんぽん言い返した。
「外見はね。だけどいつ成仏しちゃうかわかりませんよ。生きているうちにやりたいことを全部やっておきたくて眼を覚ましたの」
「そりゃあ賢い」
 ジンさんは揉み手をして亜珠子の機嫌をとった。で、どのストール買ってくれるの?
「この壁面全部よ。イルカの海をまるごと」
 オアリガトウゴザイ…とジンさんは最敬礼した。作家作品の絹織物はチャリティーとしてもそれほど安くはできない。一枚二万円として…。
 亜珠子はコバルトブルーのストールを手にとった。たっぷりと大きく、それでいて羽根のように軽い。
「これ今羽織りたいわ。袖なし着てるからクーラーの風よけ欲しかった。残りはドルフィン企画が終わったらまとめて送って」
「ワーカーたち喜ぶよ。だけど中の一枚は売却済みなの。それ勘弁して」
「どれ?」
「これから決めるの」
 ジンさんは澄ました顔で答えた。
「何それ」
「もうじき来るよ。買ってくれるという口約束だけしといたんで」
 ジンさんは腕時計を見た。ミッキーマウスの顔型をしたカラフルな児童向けグッズだった。

 サーモンピンクのカットソーに、くしゃっとした黒いリネンのジレを重ねた羽戸千香子がギャラリー入口に現われると、フロアがぱっと明るくなった。
「こちらは」
 羽戸千香子は亜珠子を見て足を止めた。クリーム色のハイヒールの足元は、さりげなく踵を揃えて下向きくの字を見せている。スリムジーンズのふくらはぎから足首にかけて適度に締まった健康的な脚だった。
「リスの母上よ。こちらも永遠少女病で」
 どかっと買い物をしてくれた亜珠子に、ジンさんは媚び見え見えの声音だった。
「あっちゃん、このひとは医者。ほら莉珠子お嬢さまがカウンセラーのところでひっくりかえったとき、羽戸さんのクリニックに担ぎ込まれたの」
 ジンさんの語呂の悪いお世辞を聴き、
(ち、三遍まわってワンと鳴け)
 ちぎれんばかりに尻尾振ってさ、とレノンは亜珠子の顔の裏側で舌打ちしたが、羽戸に向かっては丁寧に、
「娘がご面倒かけたそうね、ありがとうございます」
 羽戸は微苦笑を浮かべた。十八にしか見えない亜珠子には似合わない声づかいと言葉だった。
「亜珠子さんもエイジレスなんですね。ほんとに若い、を通り越して信じられない可愛さだわ」
 ふふ、と亜珠子は羽戸千香子の瞳を覗きこんだ。羽戸の眼のいろは日本人の標準よりやや明るい茶色をしている。
「ここであなたに会えるとは思ってませんでした」
(羽戸先生、あなたは星隷ミカエルでぼくを看取ってくれた。三十いくつになったんだ? 昔より色っぽくなったじゃないか。前より髪が短くなった。そばかすは同じ、ぼくがわかるか?)
 亜珠子=レノンの凝視に羽戸は二三度瞬きしたが、視線をかっちりと受けた。が、笑顔の表情が止まった。 
 か、たーん、と乾いた音がしてギャラリー正面の壁全体にはりめぐらされた青い紗の数々がいっきに落ちた。どん、と床からつきあげる揺れが来て、二人の女の間にぼんやり立っていたジンさんは尻もちをついた。
「うわ、地震だ」
「違う、地震じゃないわ」
 うろたえるジンさんを羽戸は平らな声で制した。
 イルカの泳ぐ平和な海を模した紗の幕が剥がれ落ちたギャラリーの白い壁。百年近い時間を経た古い壁をジンさんはリフォームし、左官を入れて塗りなおしている。クラックも歪みもないはずなのだが、三人の目の前で壁の中央から周囲に向かって蜘蛛の巣のように放射条の亀裂が走ってゆく。まるで壁の中心に目に見えない弾丸が撃ち込まれたようだった。続いて無数のひび割れがパラパラと剥がれ始めたので、床にへたりこんだジンさんは唸り声をあげた。それが恐怖の叫びかと思いきや、腰を抜かしたジンさんはガリガリと指をたてて頭を掻き、
「やあ、これって久しぶり。どっかでこんなことあったよなあ」
 のどかな感想に亜珠子は顔をほころばせた。
「やっぱジンさんはそうでなくちゃ」
 羽戸千香子は亜珠子の顔から眼を離さず、
「何を見せるの? あなた」
 亜珠子はもうレノンのしらばっくれた声で、
「知らない。羽戸先生、これはあなたが見たものだろ」
 なんですって、と羽戸がきっと細い眉を吊り上げた瞬間、もういちど足元からどんと激しく来て、亀裂の走った壁面は瞬時に崩れた。
 
 午後二時に目が覚めたら七時には睡魔が襲って来るはずだった。五時に莉珠子がシャワーを浴びているとき、亜珠子は家を出た。
夕顔は八月半ばには亜珠子の部屋のある西南ウイング全体を覆って満開になるが、今はまだ五部咲きくらいだ。それでも暮れ方になると、白い野花の清冽な香が締め切った屋内まで淡く漂って来る。
 髪を洗ってバスルームから出てくると亜珠子のメモがキッチンのワゴンに置いてあった。
 銀座のジンさんをからかってくるね。
 普段、介護ヘルパーたちとの連絡に使う黄色い大判の附箋に書き付けた一行を、莉珠子は穴の開くほど見つめた。
(これ、あっちゃんの字?)
 書棚や文箱を探せば健康だった昔の亜珠子の直筆が見つかるはずだが、比べるまでもなく以前の亜珠子の温和な筆跡とはまるで違う。走り書きのペン字は別人のようにアクセントが強い。莉珠子は寒気がした。
(目覚めたのはあっちゃんとは違う人)
 曖昧模糊とした疑念が恐怖を帯びた確信に変化する。何かが亜珠子の中に入っている。今の亜珠子が絵を描いたとしたらどんな画面を作るだろう。
 息苦しさに、莉珠子は深呼吸した。
空調の送るゆるい風といっしょに夕顔の匂いがする。それはついさっき扉を開けて出ていった亜珠子と入れ違いにここへ忍び込んできた花の気配かもしれない。
 亜珠子が失踪したとき、自分は夕顔の夢を見ていたのではなかったかしら。あれは夢だったのかな。あっちゃんの髪の中から殺された動物たちがうじゃうじゃ出てきて悲鳴をあげたのも夢じゃなかったの?
(どうすればいいの? 病院に行って脳をスキャンしてもらう? だけど枯れた細胞が再生していようともとのままだろうと、今の亜珠子さんは一体誰?)
 濡れた髪のまま莉珠子は冷蔵庫を開けた。
怯えていてもお腹は空く。ヨーグルトに苺ジャム、生クリーム。冷凍のクロワッサンを二個電子レンジにかける。それからホットココア。両腕の鳥肌がはっきり見えた。
 ようようめずら鳥のりっちゃん。
 ジンさんのお気楽な声が耳元をかすめた。
(マジに鳥状態)
 苦笑して時計を見ると六時を過ぎている。今頃亜珠子はギャラリーに向かっているのだろう。ジンさんと亜珠子の再会は十五年以上の空白を挟んでいる。ジンさんは亜珠子の異変に気付くだろうか。何かを察知したとしても、あの極楽オヤジはへいちゃらだろう。いいじゃん、器量は昔と変わらないんだからさあ、とかなんとか。
 がらんとしたダイニングでぼそぼそ食べるのは嫌なので、トレンチを持って自分の部屋にいく。不安な心にミッフィーのマグカップに作ったミルクココアの湯気が頼もしく感じられた。
 部屋に入ると、調光センサーで自然に明るくなった。東側の莉珠子の部屋は早くたそがれる。室内よりも明るい窓の外の紫陽花はそろそろやつれが目立ってきた。
しーしー、と虫の鳴き声か耳鳴りに似た電子音がたって、莉珠子が座ろうとしていたセンターテーブルの向かいの椅子がぽっかりと白く浮き上がった。
「悩んでるね、莉珠子」
 よれよれジーンズ、ガリガリの膝がおぼろな楕円の光の中ににゅっと現われた。真新しいバスケットシューズを穿いているが、右足は赤、左足は黄色だった。
「顔と身体はどうしたの?」
「今現在空間移動中でね、足だけこっち」
「気味ワルイ。B級ホラーって感じ」
 だがポーンの登場は嬉しかった。プロジェクション・ワープの幽体にせよ、亜珠子を占領している何者かの魂への恐怖よりはリアリティがある。ポーンは足だけなのに、莉珠子の安堵を見逃さなかった。
「笑ったね、莉珠子。ぼくのサービスはなかなかだろ?」
「あたしへの心遣いなの? でも顔があったほうがいいわ。あたしこれから御飯食べるのよ。脚だけと向かい合うのはちょっとね」
「ぼくは移動中なんだ。立体投影が現実に追いつかないってこと」
「関係ないでしょ」
 莉珠子はクロワッサンに苺ジャムを塗って齧りついた。バターとジャムの香ばしさを口いっぱいに頬張ると恐怖はいっきに遠ざかった。
「いや、おおありなんだ」
 顔もないのにポーンの飄々とした声ははっきり聞える。黄色いバスケットシューズの左足に貧乏揺すりが始まった。
「おいしそうなクロワッサンだね。ぼくも食べたい」
 莉珠子は二個目のクロワッサンを縦に真ん中で割り、カスタードクリームをこれでもかと盛り上げた。脚に向かってこれ見よがしに、クリームのはみ出そうなクロワッサンの尻尾に噛みついてから、嫌味たっぷりに、
「画像転送してあげましょうか?」
「その必要はない。明日の午後には莉珠子と亜珠子の家にお邪魔する」
「え、日本に来るの?」
 虚空からポーンの笑い声が降って来た。
「シーザーの命令。亜珠子と莉珠子を庇護せよ、と。君は亜珠子を怖がっている」
「そう、わかるでしょ?」
「ぼくは一部始終を見届けなくてはならないんだ」
 突然ポーンの両脚は莉珠子の目の前でタップダンスを踊り始めた。リズムに乗れないへたくそなタップだが、黄色と赤の靴は、いてもたってもいられない幽霊の地団駄めいて莉珠子の部屋中をそわそわと動き回った。
「監視カメラがあるじゃない。あなたがたはいつもあたしたちを見張っている」
 ポーンの脚は右に左にせわしない
「認めたくない死角。つまり亜珠子の縮んだ脳細胞と頭蓋骨の隙間は肉眼で確かめるしかない」
 言いたいことを喋ってしまうとポーンの幻影は突然ぷつりと消えた。
「待ってよポーン、明日家に直接来るの? 泊まるってこと? いつまで?」
 莉珠子はココアをすすり、消えた両脚に向かって無駄と知りながら尋ねた。ぶつぶつした自分の口調は不平のようだ、と莉珠子は思った。
 午後二時に目覚めたのだから夕方七時、ちょうど今頃睡魔に襲われる予定だった。
 だが思いがけない幻影の登場に加え、翌日の自宅への侵入宣告に睡魔は遠くに追いやられてしまったようだった。甘くておいしい夕飯を全部平らげたおかげで、エイリアン亜珠子への恐ろしさはどこかに消えてしまった。
スイーツの効果は莉珠子にはてきめんだ。昔の亜珠子も甘党だったが、今はどうだろう。(今のあっちゃんもお菓子は好きだ。しょっちゅうアイスクリームとかクッキーとかつまんでるし)
 再び莉珠子はしょんぼりした気持ちになった。復活した亜珠子と他愛のないおしゃべりをしながらお菓子や食事をいっしょに食べるのはとても楽しい。亜珠子が寝たきりだった十年以上の間、莉珠子はほとんどいつも独りで食事していたから。
(エイリアンだとしても亜珠子さんはあたしには優しい)
 それなら深く追及しないで、元気になった母親の肯定的な面だけ見ていればいいのではないか、と莉珠子は日和見に傾いた。周囲に何も害を与えないのなら、着ぐるみ亜珠子のなかみが?であっても問題はない。
(毎日が楽しければ、それ以上は)
 だが明日ポーンはやってくると言った。たぶん莉珠子の目が覚める午後二時か三時過ぎに獅子ケ谷へ到着するだろう。そしてその時その場に亜珠子もいる筈だ。亜珠子はリアルポーンにどんな表情、態度を見せるだろう。
(それに、リアルポーンの声はどんなカラーだろう)
 プロジェクションポーンの声から色彩ラッシュを浴びたことはない。デスクパソコンのキーボードを叩く音と同じ程度に、彼の声は無機質だった。
 眠気がやって来ないので、莉珠子は食器を片付けるとパソコンを開いた。セラフィストパメラのページを眺める。画像は夏向きに更新されていて、トップ画像のパメラは浴衣に団扇を持ち、古蒼な民家の庭先で涼んでいる。金髪は前髪を少し残してふっくらと結っていた。浴衣は藍地に杜若と八橋の柄。帯は朱色。輪郭のきれいな細面に和服もよく似合った。
ホームページにパメラの情報は多くない。ブログめいた日記もあるが、あたりさわりのない画像中心で短い文章が一行か二行。どこかの美術館に行ったとか、何かのセミナーに参加したとか。
 MEMORIESをクリックすると、欧州らしいさまざまな風景写真が出てくる。それがパメラの故郷なのか、それとも観光旅行で撮影した城や森や海なのかわからなかった。そこにパメラ本人は映っていない。パメラ以外の人間の姿もない。
「あなたは何者? この古いお城の女王さまなの?」
 莉珠子は鮮やかな紫色のパメラの声を思い出した。あの声はこじんまりとしたカウンセリングルームの中でさえ、天空にはためく王旗のヴァイオレットを視覚に呼び起こす。彼女の素性を知りたいと莉珠子は願ったがネットのページはカムフラージュでしかない。
 ページの隅にはびっしりとリンクが貼ってあった。パメラの友人なのかフェイクなのかわかりはしない。お気に入りらしいレストラン、バール、ギャラリー、クリニック、ブティック、アーティスト、フォトグラファー、医者、弁護士、作家、著名人らしいもろもろ。いろいろなNPO……。
 クリックするつもりはなかったが、でたらめにスクロールしていた莉珠子の手が偶然ひとつのリンクにひっかかった。画面が変わり、無彩色のファッションページが現れた。ヴォーグ、エル、ハイセンスな海外雑誌の構成によく似ている。
エッフェル塔が見えるからパリだろう。ややソフトフォーカスにぼかされた風景の中で、長身のモデルがポーズを取っている。モノトーンの画像の中でモデルの唇だけが紅い。惹きつけられるように莉珠子のマウスはその唇に触れた。すると白黒画面は鮮やかな天然色に変わり、莉珠子は眼を丸くした。画面の下方を装飾的な銀色のカリグラフィが蛇のようにうねりながら走ってゆく。
YUCARI・DURANTE
「ユカリデュランテ」
 つぶやいて、もういちど莉珠子は眼を見開いた。すんなりしたエッフェル塔を背にして自分と等身大の岡本太郎の太陽の塔を片腕に抱いているモデルは目深にボルサリーノを被っているが、彼女の黒いシャツはあちこちに激しいかぎ裂きがあり、隙間から無造作に白い素肌が覗く。乳房のありかが見えるのではないかと危惧されるが、ざっくりと破れた左胸の裂け目からは、今しも白い鳩が翼を広げて飛び立っていた。下半身のスパッツはいやらしいばかりのこてこてゴールドだ。片足に重心をかけて腰をひねったへレ二スムの古典的なポーズを、太陽の塔が茶化している。アナーキーばんざい。
(あだから穴あきシャツなの?)
 まさかね。
でも優雅なボルサリーノと引き裂かれたシャツ、本物のエッフェル塔とイミテーションの太陽の塔。天使の鳩とヘドニスティックゴールド。モデルの美貌をキャンバスにすればアムヴィヴァレントを寄せ集めても違和は消え、感動を呼ぶ。口紅と同じくらい真っ赤なサンダルのピンヒールは、トゥシューズのように高い。
モデルのシャツにも顔にも見覚えがある。あの晩、彼はこんなクレオパトラ風の眼化粧をしてはいなかったけれど、今のほうがパメラに似ていた。

壁の蜘蛛の巣状の亀裂が中央から盛り上がるように爆発し、破片が四方八方に弾け飛んで、三人はそれぞれ似たようなジェスチュアで顔や頭を腕で覆った。
 床にしゃがんだジンさんは膝を抱えてまるくなり、羽戸は片腕だけで顔を隠した。亜珠子はついさっき買い上げた青いストールで半身をすっぽりと庇う。漆喰のこまかな破片は、突風とともに三人の周囲に吹雪のように飛んできた。
塗装と壁がざっくり剥落したあとは、ビルの内部構造が醜く剝き出しになるはずだったが、羽戸もジンさんも亜珠子もそのような常識的な光景は期待していなかった。
髪や衣装を吹き上げた大風が止むと、三人はほぼ同時に顔をあげ、それぞれ違うことをいっしょに口走った。
「わたしが見た景色じゃないわ」
「三途の河原かね」
「顔がある」
 最初から羽戸、ジンさん、亜珠子の台詞。
亜珠子はすぐにジンさんに向かい、
「三途の河原にコスモスはないよ」
 ギャラリー〈個室〉の向こう側は夜の原野だった。見渡すかぎり白やピンク、紅色のコスモスが揺れている。夜空には明るい金星を従えた半月がかかり、たった今ギャラリーの壁を崩した突風とは違うおだやかな高原の風が野の香りをこちらへ運んでくる。コスモスの匂いは野菊やマーガレットに似ている。甘い香りではないが清涼だった。
「あなたはレノンね」
 羽戸は問いただした。亜珠子は頷き、
「先生、まだ独身なの?」
 直球をひょいと交わしながら無遠慮な口調はレノンだが、澄んだ少女の声は亜珠子のものだ。羽戸は眼を白黒させ、
「天使ちゃん、あなたは天国に行ったとばかり思ってた」
「天使ちゃんか、なつかしいね。身体が死んじゃってから三年経ってもぼくは地上に未練があって往生できないんだ。ミカエルの看板美人女医に再会できて嬉しいです」
「あなたはミカエルでもいろんなポルタ―ガイストを見せてくれた。油絵の位置が変わっていたり、首がちぎれて病室中に血が」
「そう、だけどスプラッタはぼくが見せたイメージじゃなく、先生の感受性がぼくのヴィジョンを視覚のフィルターに乗せたんだ。これもそうだよ」
「コスモス畑はミカエルの周囲?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。僕らが移動した異次元はこちら側の人間の霊的メタファだから。みんな自分たちの内部にあるものだ。三次元であっても四次元だろうと、人は自分のキャパシティに相応の世界を見るだけさ」
「メタファ、それは記憶?」
 羽戸はつぶやき、緊張をほぐすための背伸びといっしょに月下の草原を眺め渡した。頬の後れ毛をなぶる温和な夜風に誘われ、羽戸は花の群におずおずと踏み込むと、幸福そうな表情でかがみこみ、花のうてなに手を添えたが、ふいにしゃっくりのようにひきつった声を漏らした。
「か」
 そのあとが喉に絡みついて出てこない。「お、があるだろ」
 亜珠子=レノンが言葉を補う。羽戸の傍に寄り、ためらわずにぷつんと一茎折った。
 ひゃあん、
 生まれて間もない仔猫のようにコスモスは鳴いた。レノンは冷やかな眼で円形の花を月光にかざした。ピンクの花びらの囲む中心にくちゃくちゃした嬰児の顔がある。赤ん坊よりも胎児に近い。固く閉じた瞼も鼻も口もふよふよした柔らかな皺だらけだ。レノンが冷淡な手つきで花の枝をくるんと虚空で大きく一回転させると、コスモスはまたかぼそい鳴き声をあげた。
 羽戸はぞっとしてレノンの手からコスモスを奪った。
「よしなさいよ。泣いてるじゃない」
「大風がここに吹く度に、こいつらはちぎれて泣き叫ぶんだ。同情してたらきりがない」
 え、と羽戸はギャラリーを振り返った。ジンさんが呆けたような表情で口をあんぐりと開け、自分の周りに飛び散った漆喰の破片を見つめている。いや吹雪に見紛うこまかな薄片は、ちぎれたコスモスの花びらだ。繚乱の中に混じって、まるごと花のかたちのまま吹き飛ばされたものは、ジンさんの周りで今しもじわじわと死んでゆく花の嬰児たちだった。
「やっぱここは三途じゃないか。これ早死にしたこどもでしょう?」
 ジンさんは気弱に怖気をふるっている。しゃがみこんだ周囲に嬰児の顔をした花が飛び散っているのだからグロテスクだ。
 レノンは言った。
「ジンさん、へたばってないでこっちに来たら? そこよか草原のほうが空気がいいよ。死んだ花より生きている花のほうがいい。この子たちは早死じゃないね。羽戸さん。これらの数知れぬコスモスたちは生まれなかった子供じゃない?」
 羽戸は瞬きした。
「なぜそう思うの?」
「だってこれはどう見たって胎児じゃないか。かろうじて人間の顔にはなっているけれど、まだ湿っぽくて魚みたいだ」
 静かな夜風が吹いている。羽戸はレノンから奪ったコスモスの枝を、赤ちゃんを抱くように両手で持った。それから自分の動揺をなだめるために、
「これはヴィジョンなんでしょう? 幻影。あたしたちが呼び出したの?」
「ぼくは先生が見たものだと思う。ジンさんのファンタジーにしちゃえぐすぎる」
「そうだよお」
 ジンさんはよたよたとギャラリーの床を這ってきた。腰がまだ立たないらしい。床に散らばった嬰児の顔に触らないように慎重に紆余曲折し、どうにか羽戸と亜珠子の傍にたどりつくと、やっこらせ、と羽戸の肩にすがって片膝ずつ立ち上がった。
「俺はただの気のいいスケベオヤジだぞ」
 羽戸はげんなりしたジンさんに眼で笑いかけ、レノンに向かってはひっそりと、
「そうね。あたしは今ミカエルの頃とはずいぶん違う世界にいる。産婦人科じゃないけれど、生まれるために準備され、自然淘汰で世界から削除されてゆく無数の命の真っ只中にいるのかもしれない」
 羽戸は折り取られたコスモスの花の真ん中をもう一度覗き込んだ。冷静な表情だった。
ピンクの花弁はまだぴんとしていたが、中心の小さな顔はもう青白く蝋のように固まって動かない。羽戸はささやいた。 
「これは魂なの?」
「かわいそうな運の悪い連中ってこと」
 レノンは苦々しげに言い捨てた。
「健康に育たなかった生命なんて宇宙の星の数よりも多い」
 レノン自身もそうなのだった。六歳で植物人間になり、人工栄養で養われながらこの世の時間を過ごした。それは生きている時間とは別なものだ。死ではないが生でもない。
(ぼくが自意識を持って人格を形成できたのは、ただの偶然なんだ。肉体が死んでもこの世に浮遊しているなんて餓鬼か妖怪か幽霊だ。だけどぼくはそのどれでもない)
「妖精なのね」
 羽戸がふわりとした声で言ったので、内心を掬い取られたレノンはぎょっとした。
「え?」
「ケルトやロシアのフェアリー・テールでは、不幸せに死んだ無垢な子どもたちは妖精になるの。キリスト教以前の世界観よ」
 さわさわ、と三人の視野いっぱいに草なぎの夜風が吹いてきた。月明かりが目に見える速さで増してきて、コスモスの群れの彼方まで見はるかすことができた。遠くには低くてなだらかな群青の山並みが幾重にも連なっている。裾野に谷があり、ひらかれた水田、道路のこまごまと整備された街並みも見える。
「月が太ったぞ」
 ジンさんが叫んだ。
 最初は半月だったのが、今は十三夜ほどに満ちている。そのおかげで三人の周囲に群がり咲いている花々の一つ一つと、彼方の遠景の街とがくきやかに見えた。
「あの町はどこ?」
 羽戸がささやいた。
「諏訪かな、どこだろう?」
 レノンは何度もまばたきした。その街にはここからの遠目に眼立つモニュメントは見えない。平凡な地方都市のようだった。
「諏訪じゃないわ、湖がないもの」
「ぼくは」
 レノンは声を詰まらせた。喉まで出かかっているのにふさわしい言葉が見つからない。いらいらと頭を振って周囲を見回すと、背後の銀座久我ビルのギャラリーは消えて、周り全部が白とピンクのコスモスの海だ。風のまにまに花々は揺れ、爽やかな草の匂いが気流といっしょに高く低く動く。
 上天の月はさっきの十三夜からさらにまろやかに満ちていた。皓々と輝く淡い金色の月面の影は兎、いや、レノンにはさっき自分が折り取って殺めたコスモスの嬰児の顔に見えた。くしゃくしゃした眼と鼻と口。無力で無垢な生まれる前の命のメタファ。
 風が強くなり、あおられた自分の長い髪が回りのコスモスに絡みつくので、亜珠子はうなじで髪を握った。右左を見ると、羽戸もジンもいない。花野の中でいつのまにかひとりだった。星の雫と月の露が天から雪のように降りて、傷ついた花々を潤し、癒された大地は静かにきらめいている。亜珠子自身も淡雪のような露に濡れて立ち尽くしていた。
「どこかに海があるの?」
(ぼくは何の慰謝を求めてこの浄められた光景をパラレルに見ているのか?)
 亜珠子がつぶやくと、花々はいっせいに高く透きとおった笑い声をあげた。風のざわめきと聞こえたのはコスモスの声だった。言葉のない無垢な感情だけの笑い声は小鳥のさえずりのようだ。嬰児たちは小さな口を開けて笑っていた。天地にあふれる花々のユニゾンは潮騒に似ていた。
 

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