さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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ホスト・オン・ザ・ロード  Pth 7

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  ホスト・オン・ザ・ロード

 紫陽花が色褪せてしまったから剪定の準備をしなくては、と眠りから覚めた瞬間に莉珠子は思った。もう七月も下旬、今年の雨量が多かったのか少なかったのか覚えがない。それは毎年のことだ。雨が降り、その雨音を聴き、瞼のなかに透明な虹色を視る。虹の記憶はあるが、一日のうちで彼女が眼覚めていられるほんの数時間の間に、ひそひそとした長雨の音だけに心を遊ばせるゆとりはほとんどなかった。
 莉珠子がやりたいことはたくさんある。行きたいところも。
やらなければならないことも多くはないがやはりある。家事炊事は代行業者に任せているし、介護保険も利用している。季節ごとの庭の手入れも市内の植木屋に頼んでいるが、蔓薔薇や紫陽花の手入れなどは莉珠子のこだわりがあって、すっかり他人任せにはできない仕事の一つだった。
 東面の紫陽花はどの程度衰えたろうか、と莉珠子はベッドから起き上がり窓に近寄ると遮光カーテンを引いた。
さわさわ…緑つややかな紫陽花の葉を揺らせて小雨が降っている。植物の葉をこまかく躍らせる雨がところどころ木漏れ日のようなほのかな光に包まれているから、お天気雨なのだろう。
「狐の嫁入りだわ」
紫陽花の青や紅は、ドライフラワーのように全体に薄茶がかっている。それも風情だが、莉珠子は萎れた紫陽花、冬の枯れ紫陽花を好まない。花は新鮮なほうがいい。植木屋に紫陽花を伐ってもらったあとは、プランターを入れ、サルビアとコスモスで自分の庭を飾ることにしている。西南の亜珠子の庭は冬まで白い夕顔に守られ、反対側の莉珠子の庭は梅雨明けと同時に青紫から薄紅色のコスモスに衣替えをする。
 莉珠子は窓を開け、むっとする湿度を肺いっぱいに吸い込みながら空を仰いだ。鼠色の雲の切れ目から濃い夏色の青がいくつか覗く。天空の青の数だけ、そこから光線が地上に差し込む白い帯も見える。
「天使の梯子。何人の天使が降臨?」
 つぶやいて莉珠子は壁の時計を見ると三時ちょうどだ。今日亜珠子は起こしに来なかった。そのほうがよかった。昨夜亜珠子に対して抱いた疑惑と怯えが蘇ったが、外気のじっとりした蒸し暑さのせいか鳥肌は立たない。起き抜けのだるさに軽い空腹が混じる。昨夜は何を食べたっけ……
(そうだ、ポーンが来るとか言ってた)
 明日の午後にはそちらに到着、と乾いた声でつぶやいた痩せた脚の変なタップダンス。顔がなくて黄色と赤の真新しいバスケットシューズだけだったポーン。もうもしかして亜珠子の部屋にいるのかな。
 ごめんください、とおっとりした声が薔薇の生垣のほうから近づいて莉珠子は飛び上がった。正面玄関に通じる蔓薔薇の門から声が先にやってきた。ポーンのではない。
「どなたもいらっしゃらないみたいだから入らせていただきましたよ」
 すぐに主屋の影から身なりのきちんとした白髪の老婦人が予想外に現われたので、パジャマのままだった莉珠子はどぎまぎしてしまった。少し前かがみに歩く老婦人は藤色のレースのカーディガンに紺のスカートを穿いている。七十歳くらいだろう。ふっくらした丸顔に、ピンクの縁取り眼鏡をかけた笑顔が優しい。片手にぬいぐるみを抱いている。
「どちらさまでしょうか?」
 窓から上半身乗り出して尋ねると、
 ほほ、と彼女は笑って顔の前で手を振った。「あたしはご近所ですよ、野川さん。ほおんとに年をとらないのねえ。あたしはあなたのお母さんと同級生ですってば」
「え、亜珠子さんと友人、ですか」
「そう、小さいころからね。あっちゃんも少女のまんまなんですって? 噂ではたしか寝たきり老人になっちゃったそうじゃない。あたしはひさびさにこっちへ来たからあっちゃんのお見舞いをしようと脚を伸ばしてね」
「はい、ありがとうございます。母は十日ほど前に元気になりまして」
「あらま、それじゃ起きてるの? 会えるかしらね」
 老婦人はぬいぐるみを左手から右手に持ち替えた。お見舞い品だろうか、と莉珠子は眼を凝らしたが、熊のぬいぐるみは古びてあちこち擦り切れている。なんだか奇妙だ。
「ええ、たぶんいると思います。あの、恐れ入りますがお名前を伺いたいのですが」
「ああ、あたしね、あたしはあっちゃんの友人なのよ。六十年来の大親友。彼女のことならなんでも知ってます」
「はい、だからおばあちゃんのお名前を」
「ええまあ、あなたはあっちゃんそっくり。真面目な性格まで同じね」
 あの…と莉珠子は眼の中がちかちかし始めた。噛みあわない攪乱は老婦人がわざと仕掛けているのではない。婦人はすたすたとまっすぐに莉珠子のいる窓まで歩みよってきた。
 莉珠子ははっとした。お天気雨とはいえ、戸外はまだしとしと濡れそぼっている。なのに婦人は傘をさしていない。カーディガンも白いブラウスも、スカートも雨水を吸っている。莉珠子はどきどきして彼女の足元を見た。どこをどう歩いたのか素足を入れた靴は泥まみれだ。衣服は上品な取り合わせなのに、靴はスーパーの軒先に山売りされている派手な原色の赤いサンダルだった。
「待ってください」
 莉珠子はうろたえて窓を離れ、手近な傘をつかんでバルコニーから庭に降りた。紫陽花を押しのけて老婦人の傍に立ち、斜めに傘をさしかけると、彼女は莉珠子を見てにっこりと笑った。真っ白な髪から雫がひっきりなしに頬や首に流れている。
そのときふわっと雲が割れ、きっと真上に天の夏空が覗き、莉珠子と老女の周囲が明るくなった。その光といっしょに老女の周囲に匂いが昇った。哺乳類なら誰しも嗅覚に馴れた薄茶色と金色の異臭だった。
 額の真ん中を軽く殴られるような衝撃だが、その匂いは確かに金色なのだった。老女は無邪気に笑いかけ、ぬいぐるみの熊を幼女のような仕草で、まっすぐ両手で莉珠子に突き出した。
「これあなたにあげる」
 天真爛漫な笑顔を拒めず、莉珠子は傘を持たないほうの手で、擦り切れたぬいぐるみを貰った。莉珠子の手に老婦人の指が触れると、莉珠子の瞼の裏に踊る金色の幻視はいっそう強烈になった。ぺとり、と粘着質の感触といっしょに老婦人の指が莉珠子の手の甲をなぞったとき、莉珠子の喉は自然に悲鳴を放った。
 が、莉珠子には自分の声が聞こえなかった。あまりにも想像外の出来事に聴覚と嗅覚、視覚が混沌としてしまったようだ。自分が大声をあげたのか、それともただ喘いだだけなのかわからない。
「ああらまあまあ」
 老婦人はおっとりと驚いて莉珠子の手を離した。莉珠子は傘を取り落としていたが、もう雨はあがっていた。震えながら老婦人の手を見ると、やはり黄土色の滓が両掌に付着していた。熊のぬいぐるみは、と莉珠子は冷や汗を流しながら考えたが、受け取ったプレゼントを放り出すこともできない。
 りっちゃんお茶にしない、と主屋のほうから声が聞こえた。さきほど老婦人が現れたのと同じ道筋を歩いて、青いワンピースを着た亜珠子が現れた。莉珠子の視界はなお濃厚な金色の幻影で塗りつぶされていたので、青をまとった亜珠子の姿は光背のマドンナのように神々しく見えた。
「あっちゃん、よかった、この方」
 老婦人を前にした莉珠子のうろたえぶりに亜珠子は眉をひそめ、
「こちらはどなた?」
 すい、と亜珠子が細い腕を伸ばして老婦人の肩に触れたとき莉珠子は思わず、
「あっだめっ」
「何よ」
「あっちゃん、このひと」
 それ以上は口にせず、莉珠子は片手で老婦人の足元を示し、自分の汚れた手を見せた。午後の真夏の光が照りつけ、力強い蝉の声が欅の梢から響き始めた。地上のぬかるみが熱気に変わり、老婦人の体臭も濃くなった。
「あっちゃんの幼馴染っておっしゃるの」
「このひと?」
 老婦人は困惑した表情で亜珠子と莉珠子をかわるがわる見ている。ぬいぐるみを莉珠子に渡してしまったあとの両手を所在なくだらりと下げ、両脚を少し開いて直立している。
(まるで叱られた子供みたい)
 莉珠子は思った。ついさっきまでころころと愛想よく喋っていたのに、今は口の周りに皺を集めて黙り込み、眼を伏せ、哀しげにうつむいている。
「それ貰ったの?」
 亜珠子は熊のぬいぐるみに顎をしゃくった。莉珠子の記憶の亜珠子像との間に、ひやりとした違和感の隙間風がまた吹く。昔の亜珠子はこんなぞんざいなジェスチュアをしたろうか?
「ええ、そう」
「とにかく中へお連れして…こちらにどうぞ、足元がひどいから洗いませんか?」
 亜珠子は老婦人の背中に手を添えた。莉珠子は口の中で、あだめ、と力なく呟いたが亜珠子は平気な顔をしていた。亜珠子のつややかな長い黒髪が真夏の陽射しを浴びて輝いている。闖入者と亜珠子が連れだって莉珠子の先に立ち、紫陽花の繁みの中を歩きはじめると、後姿の亜珠子のぬばたまの黒髪に油膜のような虹の環が浮いた。
(天使の輪だわ)
 ず、ぺた、ず、ぺた、と老婦人の赤いサンダルがぬかるみをひきずる足音が聞こえる。脚のどちらかが不自由な様子だった。
 
「亜珠子さんは藤さんととてもうまが合ったんです。藤さんというのは亜珠子さんが付けた名前です。藤色のレース編みのカーディガンを着ていたから」
「はい。藤さんはご近所の住人ではなかったのですね」
 今日のパメラは顔の両側に一房ずつ巻き毛を残し、金髪をうなじでゆるいシニョンにまとめている。飾りのない丸襟の白いブラウスに、光沢のある黒いタイトスカート。一粒ダイヤの清楚なプラチナチェーンが首を飾っている。ピアスとお揃いだろう。
パフォーマンスのない衣装は、パメラをエリートビジネスウーマンか弁護士のように見せる。ストイックな衣装を着ると、パメラの場合受容的な雰囲気が消されるということなのだった。
 今夜のパメラの唯一の自己主張らしきアクセサリーを莉珠子は探しあてた。左腕に銀色の太いバングルを嵌めている。それはネックレスやピアスのスタイルとは異なり、クラシックな工芸品らしく、蔓草かカリグラフのような細かい模様が表にびっしり刻まれていた。銀色だがシルバーではなく、白金かプラチナだろう。 由緒ありげな古びの見える彫金だった。
「ええ、亜珠子さんは藤さんをバスルームに連れて行って、服を脱がせ、自分もキャミソール一枚になって、とても丁寧に洗ってあげました。驚きました。藤さんは、ええと、お漏らしをされていて、お尻とか…」
「はい」
 パメラは眼を細めた。睫毛も金茶色だ、と莉珠子は眺める。ではパメラの金髪はマリリン・モンローのようなフェイクではないのだろう、それとも睫毛も染めているのかな。
「驚いたのは藤さんが汚れていたことじゃなくて、亜珠子さんがとても的確にきびきびといろいろなことを済ませたので。藤さんを脱衣場で脱がせると、すぐに汚れものを仕分けて、簡単に洗えるものはぬいぐるみといっしょに洗濯機に入れ、手に負えないものはビニール袋に放り込んで捨てました。自分もぱっぱっと服を脱いで下着姿になって、おろおろしている藤さんを上手になだめながらシャワーを使わせた。なのにあたしはぼんやりただ見ていただけ。二人がバスルームにいる間、あたしは洗面所で自分の両手を一生懸命洗ってました」
「無理もありません」
 パメラがうなずいてくれたので莉珠子はやや慰められる。カウンセリング机の上に自分の両手を乗せ、ゆっくりと開いたり握ったりした。爪の隙間に汚物が残っていないか確かめるかのように、青い顔をした莉珠子は自分の細い指先をじっと見つめる。爪は伸ばしているがマニキュアは塗っていない。パメラほど完璧なレディフィンガーではないが、莉珠子の手も華奢な先細りの美形だ。桜色の爪はつやつやと健康だった。
「あたしは手を洗いながらまた考えました。寝たきりになる前の亜珠子さんは、こんな行動的なひとじゃなかった。のんびりふんわり、今のあたしよりずっとこどもっぽい感じで、もっとおとなしい性格だったと思うんです」
「おとなしい性格だった、ということは今の亜珠子さんはおとなしくないのですね」
 パメラは首を傾げて莉珠子に問いかけた。目の前の莉珠子は顔もからだつきも柔らかくかぼそくて、どうしても中学生にしか見えない。そして莉珠子の母親は十八歳のまま老化を止めたという。
 信じられない現象だが、ありえないことではない、とパメラは思った。信じられないことを実現するのが歴史の更新だ。深海を這うアンモナイトが翌日ひょっこり人間になることはありえないが、億年の時間をかけるなら進化は実現する。
 時間。時の流れ。この母娘の肉体は時間を止めている。母親は十九、二十歳のまま神の与えた寿命を生き、どこかでぽっくり死ぬのだろう。老いの醜さを免れた死はクレオパトラそれ以前からのあこがれだ。
 海を泳ぐ魚の中で、蒼穹への飛翔にあこがれたものは翼を持ったPterosauriaに進んだ。あこがれなかったものは海に残った。鳥と蛇の先祖は同じ。望んだものは鱗を羽毛に変え空にはばたいた。望むこと、ディザイア、熾烈な願望が遺伝子を変える突然変異、メタモルフォーゼの原動力だ。
 それならば莉珠子と亜珠子は不老を望む人類の進化の予兆なのではないか。何千万年かのちに、人類の肉体は彼女たちのような不老細胞に進化し、少年少女の外見のまま何十年か地上を生きて死ぬようになるのかもしれない。だが、肉体が老いない、という奇跡の代償はなんだろう。
亜珠子はつい最近まで若年性認知症のターミナル、意識を失って寝たきりだった。莉珠子は嗜眠症で健常の五分の一ほどの時間しか目覚めていられない…。
 眠りに浸って人生の流れのおおかたを過ごすなら、世界は戦争の余地もなく平和になる。数時間しか動けない一日の中で、ひとは何をするだろう。永遠の青春が持続するならば大多数の者は恋に耽って過ごすかもしれない。三島由紀夫の「花盛りの森」をパメラは思い出した。
「そう、おとなしくない、というのかしら。意地悪とは違います。あっちゃんは優しいし、前よりずっと察しが早いし、行動的で、機敏で、クリアだし」
「それでは良いことが多いですね?」
 はい、とうつむいていた莉珠子は首だけ動かしてパメラを下から見上げた。打ちひしがれ、途方にくれた顔だった。
「あっちゃんはこんなに頭のいいひとではなかったの。先生、彼女の脳味噌はすっかり委縮してるはずなんですよ。傾眠状態から目が覚めたとしても、藤さんよりもっとずっととろくなっているのが…」
 
 パラレルに通じる崩落した幻影のあと、ギャラリー〈個室〉中正面の壁には、もう新しい展示作品がかけられていた。
「あとかたもないね」
 亜珠子は作品パネルは見ずに、漆喰壁に顔を近づけ、傷跡のないすべすべした平面を撫でてつぶやいた。
「おうさ」
 ギャラリー入口の丸椅子に腰かけたジンさんは、小鼻をひくつかせながら中指で耳の裏をぼりぼりと掻いた。亜珠子は手染めインド更紗のチュニックに赤いスリムジーンズを穿いている。サンダルは横浜中華街で買ったフェイクゴールドのハイヒールだった。手首と足首には七色の貴石を嵌めこんだ細い銀のセルクルを何本も嵌めている。亜珠子の身動きにつれ、そのブレスレットやアンクレットはしゃらしゃらと鈴音をたてる。ふくらはぎまで伸びた長い髪は先細りなく、下り端までたっぷりと量を保っている。
「あれぁまぼろしだったんだろ。ファンタジーなんだから壊れっこないよ、だけど」
 ジンさんは煙草に火を点けた。ホープだ。
「後始末は面倒だったな。海のストールは全部外れてるし床はコスモスだらけだ」
 鼻の穴を上に向け、ぽかっと天井に紫煙を吐くと、
「まぼろしなのにコスモスは飛んで来てここに残った。そら、まだ元気だ」
 入口備え付けの小机には、青いガラス瓶にコスモスの束が活けてあった。亜珠子は微笑んだ。白が三本ピンクは五本。
「元気だね。長持ちしてる」
「捨てらんないよ。花の芯に赤ん坊の顔を見ちゃったんだもん。これは普通のコスモスだけどさ、それこそオーバーラップしてこわいよ」
「以外と小心じゃないの」
「繊細と言え。しかしおまえさん」
 ジンさんは脚を組み、さらに両腕を組んで亜珠子を眺めた。
「野川ママさんじゃないのかい。レノンなんだって? 確かにあっちゃんはおまえさんみたいに真っ赤なパンツは穿いたことなかったな、俺の前で」
「似合うでしょ。亜珠子は細いけどプロポーションいいから」
 亜珠子はギャラリーの真ん中で両手をひろげ、バレリーナのように片足でくるりと回ってみせた。黒髪とチュニックの裾が空間にきれいな円を描き、ジンさんは眼をまるくした。亜珠子が二回転をぴたっと決めるとジンさんは銜え煙草で拍手し、
「ここで踊らないか?」
「それもいいね。だけど他にやりたいことがあるんだ。ジンさんに助けてもらいたい」
「亜珠子は大金持ちで美人で若いんだから、札束で横っ面はたきゃあスーパーマンだろうとブレイドランナーだろうと好き放題に雇えるだろうに、なんでまた俺なの?」
 亜珠子は鼻で笑った。
「ロマンティックな比喩だけど、そんな世界的スケールは必要ない。ぼくはちょっと遠出したいんだ。なんだけど最近野川家に新しい住人が増えてね。彼女を残していくわけにはいかない」
「莉珠子の他に誰よ」
「藤さん。花の藤さん。しばらく前に家に迷い込んできた認知症のおばあちゃん。身元不明、警察に届け出たけれど手がかりなし。失認失語傾向ありで、自分の名前も覚えていないから、藤さんは僕が付けた名前だ。糖尿と緑内障、左足に軽い麻痺、やや高血圧だが目立った持病や既往症はない。あそれから帝王切開のあとがある経産婦で」
「もういいよ」
 ジンさんはうんざりした顔でレノン=亜珠子の長広舌を遮った。
「あなた行方不明老人をひきとったの」
「そうだよ。獅子ケ谷近辺のまともな老人施設はみな満杯。家族が見つかるまでどこかで保護するとしたら、とんでもない僻地へ行くしかない。そこへ無理に押し込まれた藤さんがどんな扱いを受けるか」
「だな」
 ジンさんは大きくうなずいた。がっちりした腕組みをほどき、頭の後ろ側に両手をまわし、胸をひろげて天井を仰いだ。
「うちは部屋と人手と金には不自由しない。今は家政婦に世話してもらってる。排泄がときどきわからなくなるんだ」
「おまえさん、ほんとにレノンなんだな。そのこざかしい喋り方、ったく事実は小説よりおもしろいねえ」
「ジンさんのそういう感性が好きさ。というわけでタクシーとホテルの予定だったけど、ナルコレプシーの莉珠子もついて来るだろうからキャンピングカーで車中泊の旅に変更したんだ。それなら莉珠子は好きなだけ眠れるし、こっちとしても気ままに行きたいところに行ける。ただ藤さんの世話役がね」
「家政婦はだめなのか」
「彼女たちにはパラレルなファンタジーを見せられない。女は口が軽いから」
「だな」
 ジンさんはジャケットのポケットを探り、もう一本煙草に火を点けた。今度はラッキーストライクだった。
「ジンさん運転してよ。金は払う。亜珠子のなかみに共感できるキャラクターが必要なのさ。それからあいつを呼んでほしい。まだこのビルでギャラリーやってるの?」
「ミネちゃん? 〈花絵〉はあるけれどこのごろ絵描きの妹が来て、自分専用のギャラリーみたいに使ってるよ。ミネちゃんも時々は顔を出すけれど、どこかの美術館の学芸員にもぐりこんだとかなんとか」
「彼は介護士だろう?」
「一応ね。峰元に藤さんの世話をさせようって魂胆?」
「そう。僕が僕だってことを彼ならOKする。車の運転もできるんだろう?」
「もちろん。あいつはうまいよ。峰元呼ぶんならシーラやメグも?」
「連中は呼ばなくたって飛んで来るさ。キャンピングカーは一台五人乗り。クルーは峰元まででいい」
 ジンさんは吸い口のないラッキーストライクを親指と人差し指でつまみ、鼻から太い白煙を二本吹き出した。
「で、どこへ行くの?」
「信州上田。レノンが生まれたところよ」
「おまえさんはレノンなのか」
「亜珠子の身体を借りてる」
「どう呼べばいい」
「混乱するから亜珠子でいいよ。上田に行ってレノンの母親に会うんだ。まだ生きていたらね」
 母を訪ねて三千里…ジンさんは義太夫のような節をつけて唸る。
「三千里まではいかない。獅子ケ谷から片道三百キロくらいだろう」
 レノン=亜珠子は眉も動かさず横を向いた。ジンさんは呆れて
「親に会ってどうするの」
「別に。どうってこともないけれど、そうだね、彼女に触ってみたいんだ。じかに自分の手で」
「へえ…名乗らないのか」
 レノンは顔を背けたまま無視した。ジンさんはそそくさと吸いかけのラッキーストライクを缶コーヒーに突っ込んだ。沈黙が気づまりになる前に、レノンは肩先で自分の長い髪を指で梳かしながらおもむろに尋ねた。
「ジンさんいくら欲しい? 峰元への仲介料込みで七日間百万でいいか? 峰元には五十万。彼が非常勤で仕事をしているなら、その賃金ロスの分をプラス」
「こないだのストールの買い上げ代は別でしょ?」
 ジンさんは言わずもがなのことをわざと言った。自分がばかな台詞を口走ったことが恥ずかしかったからだった。
「合わせて二百払う」
「オッケー」
 ジンさんは言葉といっしょに手でもOKを示した。亜珠子=レノンは体操のように背伸びしてにっこり笑った。
「ああ、お腹すいちゃった。ジンさんちょっとお茶しない。大江戸羊羹本店の栗蒸羊羹久しぶりに食べたい」
「あれ、有楽町に本店移ったよ。もうだいぶ前に」
「そう、それじゃ遠いな。めんどくさいからこの近くだと、花鳥庵がいいかな」
「甘味ばっか。そこらへんはリスと同じだ。レノンが中に入っていても味覚の好みはあっちゃんなの?」
「そう、…だよ」
 亜珠子=レノンは笑顔を崩さず答えた。頭の中で忙しく考える。
(大江戸羊羹? レノンは知らない。花鳥庵ってどこだ。なぜ僕はそんなことを思いついたんだ)
 それにイルカの海を模した卯咲苑製ストールを、僕は僕の知らない和名で数えた……。
(亜珠子はまだ生きてるってことだ。レノンの中にほそぼそと流れこんでくる)
 誘っておきながらふいに立ち止まった亜珠子=レノンをジンさんは促した。
「あっちゃん行こうよ。江戸も花鳥も上品な客筋だけど、俺の死んだ女房はくうやの最中が好きだったんだ」

 亜珠子の目の前には見渡す限り、夜空と地面の境目が見えない暗い丘陵が拡がっている。景色はゆるい盆地のようで、手前でいったんゆったりと窪み、広い底辺を作った向こう側で、またなだらかな上り坂となっていた。
(これはどこだ? 上田なのか?) 
 亜珠子=レノンは自分が夢を見ているとわかっていた。自分は丘の縁に立ち、静かな夜風に吹かれている。白いネグリジェの裾が膝まで舞い上がり、すぐそばの大きな満月の面をひらひらとくすぐるように見える。
月面の影は兎、あるいはすっきりと鼻梁の通った…もうこの世から消えてしまった安宅礼音によく似た若い女のプロフィール、いや、まだ羊水に漬かった胎児のしわくちゃな泣き顔。その涙を亜珠子の夜着がガーゼのように撫でている…。
 レノンはぞっとした。
今まで自分は恐怖など感じたことはないが、星を散りばめた夜空より暗い闇の底辺にこれから向かわなければならない。月光が照らしているから進む道はなんとか見えるだろう。だがここから目を凝らしても、下り坂に樹木のそよぎは見えず聞こえず、生きものの気配も感じ取れない。水音も。風のそよぎさえ吸い取る密度の濃い沈黙がひたひたと行く手に溜まっている。
(どうってことない。降って、また登ればいい。この盆地の横断距離は何キロあるかな、十キロ、二十キロ)
 疲れたら目覚めればいいさ、だってこれは夢だもん。僕は夢とうつつの区別と使い分けができるから。
亜珠子は歩きだそうとして空を仰いだ。薄い薔薇色の月。ストロベリームーンというのか、それならば幸運の月のはずだ。
ぴしり、と軽い鞭の音が夜風を打った。風を砕くかと聞こえたが、罅入ったのは満月で、鏡のような桃色の月面に見る見る亀裂が走り、ひとつふたつと数えられる大きな裂け目からすぐに縦横無尽のこまかな罅割れが派生し、月は砕け始めた。
 縁からバラバラと欠け落ちて、破片のひとつひとつは月光の美しさを保ちながら地上に降りてゆく。亜珠子の周囲にも散って来た。
 硬いガラスの破片なら自分は傷つき痛いのではないかと亜珠子は肩をすくめたが、大小の月明かりの粒子は亜珠子を素通りし、真っ暗な盆地の内部にまんべんなく拡散していく。月が砕けて地上へ分解する様は、明るい砂が天から零れ落ちるようだった。
 今や盆地の凹面はビーズのような月のかけらを散りばめ、それらは夜空にあったときの月光の静けさとは違って、赤や青、黄色、紫、オレンジ、グリーン……色とりどりの七色が賑やかに明滅していた。大都市の繁華街の夜景に似ている。
 亜珠子は濃い虹色の中へ歩き出した。暗闇より安心できる。降って登る。つらくなったら目覚めればいい、恐怖なんか感じない、だけど自分の他に人間は誰もいないのかな、例えば莉珠子、例えばメグ、でも誰もいない。
 月光の虹はそろそろと歩く亜珠子の肩や腰の高さで光っていた。虹の渦の中を歩いていく。周囲はもう暗くない。だけど明るくもない。色とりどりが混じり合い、ひとつひとつはきらびやかな色と色との隙間はかえって不透明に濁って見える。いやな感じだ。
月が砕けたために天上では星明りが増し、くっきりと真夏の銀河が流れている。
「誰かいないの?」
 亜珠子=レノンはささやいた。寂しいからメグかシーラか呼び出そうか、連れにするなら可愛い女の子がいいや。
 ここに…と応じる気配が聞こえて亜珠子はあたりを見まわした。
「誰?」
 ひゃあん、と仔猫の鳴き声がして周囲の虹渦はさざなみのようにざわめきたった。それがわっというどよめきに変わり、あっという間に虹色の粒子は見覚えある胎児のくちゃくちゃの顔に変わった。数知れぬ顔がもぞもぞと口を動かし、鼻をひくつかせて、右に左にてんでに揺れ動いている。コスモスの花の中心にあった嬰児の顔が今は虹のかけらの中で燐のように光っていた。びっしりと盆地の凹面を隙間なく埋めた燐光は、長い航海の間に船底にこびりつくウツボの有様に似てグロテスクだ。
 それらはうようよ、ぞろぞろ、という擬音語がぴったりの印象でうごめき、言葉にも声にもならない音が五月蠅のように群がり、わんわんと亜珠子の耳に湧き昇ってくる。
 亜珠子は前進する気持ちを失った。両手で耳をふさぐ。
(うるさい、聴きたくない、生まれ損なったDNAの嘆きなんかうんざりだ、何のために進むんだ)
「人間は同族殺しをするんだよ」
 突然澄んだ声が、濁った虹の混沌をまっすぐに貫いて響いた。
「誰?」
 亜珠子は耳をふさいだまま周囲を探す。ふいにぎゅっとその両腕を上にひっぱられる感じで亜珠子は燐光の中を仰向けに倒れ、そのままずるずるとひきずられてゆく。同時に周囲の胎児の顔たちも亜珠子と同じ方角にぞろぞろと動き始めた。まるで砂鉄が磁石に吸い寄せられるようだった。
 亜珠子は自分の両腕を引き据えている相手を確かめようとした。この膂力は女ではない。(男、シーラか? だけど声が違う)
 手が使えないので眼だけで追ったが、相手のいるべき空間にはねっとりした闇しかない。
 感情のない明晰な声がまた聞える。
「みんな無意味に殺されるんだ。こうやって無理やり穴の中へ連れていかれる、君も」
「やだよ。離せ」
 亜珠子は怒ってレノンの叫び声をあげた。死ぬなんて冗談じゃない。ネグリジェの裾もしどけなく両脚をばたつかせる。地面をこする踵や腰が痛い。
「どの穴だって? どこまで行くんだ」
 ほうら、と膂力の主は少年とも少女ともつかない声で応えた。清らかな声だ。
「あそこだよ。このまま君たちは消える」
 夢の始まりでは登坂になっていた向こう側の丘のかたちが消え、巨大なダストシュートの入口のような漆黒がそこに再現されていた。粉々になった月の破片の虹は、粘液質の流れとなって吸い上げられてゆく。吸い込まれ、無限の宇宙空間のどこへ移動してゆくのか、と亜珠子はもがいた。いざとなったら亜珠子の身体を捨てればいい。僕は死なない、僕だけは生き延びてやる。

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