さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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ホロスコープ・ジャスティファイ  Pth 8

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  ホロスコープ・ジャスティファイ

 ポーンはついにやって来ず、身元不明の認知症老女藤さんが野川家の住人となった。莉珠子は亜珠子のケアサービスを依頼している介護事業所のアドバイスで、警察と市役所、それから地域包括支援センターにこの椿事を届けたが、数日を経ても手がかりはなく、インターネットや市のホームページで捜索願いの情報をアップしても、やはりはかばかしいアプローチはない。藤さん本人は自分の名前さえ覚えていないのだった。
「最初藤さんはこの近所の住人で、あっちゃんの幼馴染だと言ったのよ」
 と莉珠子は躍起になって亜珠子に説明したのだが、
「そぉ、あたしも昔のことはあんまり覚えてないしね。写真を見ても、クラスメートの名前なんか頭の中から出て来やしない。それに町内を訊いて回ったけど、藤さんの家なんかなかった」
「じゃあ、いったいどうして藤さんはあっちゃんのこと知ってたの?」
「たぶん、茫々六十五年往時のどこかでいっしょに遊んだことがあったんじゃないの。それだけのことを彼女は思い出したんだわ」
「それだけのためにどこからともなく獅子ケ谷へ来たの? 不自然よ」
 必死で整合性を探そうとする莉珠子の抗弁に亜珠子は淡々と、
「不自然? 何がどう不自然なの? ケアマネさんの言うことには、日本中で行方不明になる認知症老人は毎年一万人を超えるそうよ。そのひとたちは帰って来ない。どこへ消えたのかしら。藤さんもその一人ってこと」
「家族は探さないの?」
 莉珠子が言い募ると、亜珠子は薄茶色の瞳で莉珠子の顔を二呼吸ほど見据え、
「あのおばあちゃんが嫌いなの?」
「いいえ」
 莉珠子はどきりとして即答した。
「嫌いとか好きとかじゃなくて、なんだか不安なのよ。何者なんだろう」
「あたしに言わせればポーンやシーザーのほうがよっぽど不安ですよ。まああたしたちの金づるですからね、ちゃんと報酬を振り込んでくれてるから文句は言わないけれど。」
「そうそう、ポーンが来るはずだったのに」
「どこかのセレブか王様に呼び出されたんじゃないの。あんな神経質男がやってきたら大迷惑です」
 亜珠子はつんとした顔で、大、にアクセントをつける。莉珠子はべろを出した。
「あっちゃん言うなあ。ポーン神経質?」
「さあね、おばあちゃんのほうがずっといいってことよ」
 さらにさらりとかわされ、藤さん闖入の困惑とは別な、新生亜珠子の正体への不安と疑念がまたぞろ首をもたげる。が、そうしたマイナス感情に増して、小気味よい亜珠子の当意即妙に魅了されてしまう。
(このひとはあっちゃんじゃない。だけどおもしろいなあ、あなたは誰? どこからきたの? 何のために?)
「お腹すいたわね。今五時か。りっちゃんカウンセリングは今日ないの?」
「ない。週一だからあさって、くらいかな」
 莉珠子はちらりとカレンダーを探した。世間とのコンスタントな交渉が少ないので、野川家には日付の感覚が無くなっており、七夕や十五夜、クリスマスといった節句以外は、曜日でスケジュールが回っている。莉珠子の視線より早く亜珠子が言った。
「もう海の日も過ぎたのね。学校は夏休み突入」
「そういえばそうね」
 亜珠子はソファの背にもたれて舌打ちし、
「ったく、夏休みのレジャーの記憶もこの脳味噌からは出てこないわ。りっちゃん、あたしせっかく眼を覚ましたんだから、この夏は
ちょっと旅行しようと思う」
「どこへ?」
「涼しいところがいいと思って、軽井沢とか諏訪、小諸などなど」
 嬉しくて莉珠子は顔を輝かせた。
「わあ、地名聞いただけで涼感ばっちり。だけどあたし無理よ。タクシーで行ったって寝てるだけになるから」
「うふふ、だからキャンピングカーレンタルで、りっちゃんは車中で眠りたいだけゆったりどうぞ。要所要所で起こしたげる」
 亜珠子はすいと立ち上がってキッチンへ行き、冷凍庫からピザを取り出すとレンジにかけた。瞬間湯沸かし器のスイッチを入れ、ミルでコーヒー豆を挽く。
「え、レンタルって手配済みなの? 誰が運転するの」
 ガリガリ、と香ばしい音を立てながら亜珠子は澄ました顔で答えた。
「ジンさんと峰元さん。ミネちゃんのことはまだ知らない? 好青年よ。りっちゃん気に入るわ」
「その言い方は事後承諾。断れない感じ」
「モチよぉ。藤さんも連れていきます。おとなしいひとだから大丈夫でしょ。それにミネちゃんはヘルパー経験あるんだって」
「あっちゃんすごい、用意周到」
「でしょ」
 莉珠子は呼吸を三回分ほど抑えてから思い切って言った。
「その手際良さとリーダーシップは昔のあっちゃんにひとかけらもなかった」
 ふふ、と亜珠子は莉珠子の突っ込みに微動だにせず、可愛らしいえくぼをつくって我が娘を見やった。
「そりゃそうよ。だって眠っている間にも年齢は重なるわ、否応なしに。亀の甲より年の功です。あたしはどのみちもうすぐこの世からおさらばするんだから、周到に準備して再生してきたのよ?」
「え、どんな?」
「好きなだけ遊ぶの。りっちゃんとも母娘水入らずの思い出を作りましょうと。あなた、わたしが死んじゃったらわたしの何を思い出す? 寝たきり少女のわたし? わたしはあなたに何が残せるかしら」
「そんな早く死んじゃいや」
 莉珠子は立ち上がった。それは本当の気持ちだった。今楽しい、亜珠子はエイリアンみたいだが面白い、魅力的だ。昔のあっちゃんよりずっときらきらしていて飽きない。
「死なないで」
「今すぐじゃないでしょうけれどね。人間いつ何が起こるかわからないから、亜珠子は危機感と母性愛に迫られてジーニアスになったのです」
「ジーニアス…ジーニ亜珠子、え、ジンさんと亜珠子ぉ、まさか」
 莉珠子の飛躍に亜珠子は吹き出した。手にしたコーヒーポットがカタカタ揺れる。莉珠子には聞えないように口の中で、
「その外しのボケぶりは天然だ」
 チーンとレンジが鳴った。亜珠子はピッツァ・マルゲリータを大皿に乗せ、とろけたチーズの上に蜂蜜をたっぷりとかけた。

 藤さんは名前も年齢も覚えていない。迷子になった幼児に出会ったら、たいてい最初に「名前は?」、それから「いくつ?」と尋ねるだろう。藤さんはどちらもわからなくなっている。記憶障害と失認が認知症の中核症状としたら、彼女のそれはかなり重度だ。
 推定年齢はやはり七十歳前後ということだった。やや小柄な中肉中背、染めていない髪は真っ白で、ウィッグのように上品なパーマがかかっている。肌のきれいな色白に、顔には大きな皺や目立つ老斑もなく、手足もすんなりしていた。
口数は少なく、自分からはほとんど喋らない。野川家に迷い込んできたとき莉珠子に話しかけた愛想のよい饒舌が嘘のようだった。
 食好みはなく、上下の歯が揃っているので咀嚼も健康だ。排泄の失敗は一日に一回ほどあり、幸い亜珠子が傾眠状態のときに使っていたリハビリパンツがある。尿意をちゃんと弁えていても、手洗いの場所がわからなくなるのだった。
藤さんの失禁や徘徊は真夜中のことが多かった。亜珠子も莉珠子も眠っている時間だ。日中身のまわりに誰かがいると安心するせいか失敗しない。
「お母さん、ミルクコーヒーでしょ?」
 亜珠子が優しく尋ねると藤さんはにっこり笑って答える。
「はい、ありがとうね」
「お砂糖はたくさん?」
「はい、ありがと」
 亜珠子はカフェオレにパルスイートを二袋入れる。藤さんには糖尿の気があるから。亜珠子と莉珠子はいつのまにか藤さんを「お母さん」と呼ぶようになっている。
「お母さん、ピザ、こぼさないように気をつけて、チーズと蜂蜜が糸をひくから」
 亜珠子はかいがいしく藤さんの前にランチプレートを寄せる。ピザの隅には食べやすく切った果物が添えてある。
「ありがとうね」
 藤さんは亜珠子からカフェオレやピッツァを受け取るたび、いちいち丁寧にありがとうとお礼を言って笑う。
「ほんといい笑顔、お母さん」
 これは莉珠子。実母の亜珠子が復活した莉珠子としては、藤さんはおばあちゃんと呼びたいが、何事も亜珠子の采配に従っていた。
 莉珠子のランチプレートにもメロンとパイナップルが付いている。ぶつ切りのパイナップルは缶詰だが、メロンは生果だ。ナイフの痕がいかにも不器用で、亜珠子の指先がうっかり果肉にめりこんだ窪みもついている。
(亜珠子さん、お料理結構うまかったのに)
 莉珠子はそ知らぬ顔でピッツァを手でつまんで口に入れた。蜂蜜とモツァレラチーズの相性がいい。
(甘党なのは同じだ)
 亜珠子について気持ちの安定しない莉珠子は視線を浮かせ、自分と向かい合った藤さんと亜珠子の背景の庭を眺めた。
ダイニングルームとリビングは東西にウイングを広げた家の中央にある。南面は全部ハーフミラーの強化ガラス張りで、庭がひろびろと見渡せる。街路に通じる薔薇のアイアンアーチをくぐって藤さんがやってきた。紫陽花の繁みは数日前に植木屋を入れてばっさりと思い切りよく片付けてしまい、莉珠子の部屋のほうには今プランターのコスモスが桃色の小山のように群生している。
 真夏の黄昏のゆるい陽脚がコスモスの花弁にあざやかな朱を加えると、白い花はオレンジに、ピンクのはなびらは赤葡萄酒のような濃い彩に変化する。この時刻なら亜珠子の部屋のほうでは夕顔がつぎつぎと花弁を開いているだろう。梅雨が明け、湿度が低くなったせいか、これまでしばしば暮れ方の気配に重なっていた夕顔の匂いがしない。いやピッツァのチーズに負けているのかも。
 遠くで亜珠子のはしゃぎ声が聞こえる。なぜだろう、その声がとても遠い感じがする。(目の前にあっちゃんと藤さんはいるのに。まるで二人は自分と隔たった水槽の中で喋っているみたい)
 そして莉珠子自身も水槽の中だ。緋色と朱色のコスモスの花弁が足元から水泡といっしょにごぼごぼと音をたてて上昇し、莉珠子の髪や首をくすぐる。この水槽も夕陽を浴びて金色だ。
 いつのまにか両脚が床から浮き上がっている。両手で大きく水をかきわけると、弾みのついた莉珠子の身体はゆらりと反転し、強化ガラスで外界と隔てられたリビングルームへ流れていった。
(わあ、この家はいつのまにか水族館になっちゃった。あたしは魚になったのかな)
 窓ガラスに額をくっつけて外をうかがうと、相変わらず木漏れ日に金色の夕陽が踊り、コスモスは風の吹くまま揺れている。
莉珠子は床を離れて水中に浮かび上がったので、高くなった視線からコスモスの周囲に植えた真っ赤なサルビアの群れも見えた。
丈の低いサルビアはコスモスの植え込みを縁取るように二重三重に移植されている。サルビアは夕暮れの気配を早く吸って黒みがかった赤に燃えていた。
 莉珠子がサルビアの深紅に見惚れていると、その一本からシャボン玉が吹き出したように、花と同じ色の真っ赤なワンピースを着た少女が現れた。つやつやした背中までの長い黒髪が衣裳の深緋に映える。伸びてゆく身長に肉付きが追いつかないローティーンの手足がかぼそく、あたまでっかちに見える少女はこちらをふり仰ぎ、
「お姉さん」
 話しかけてきた。ガラスの向こうなのに少女の声は鮮明に莉珠子の耳に届く。
「風間さん。どうしてどこから?」
 風間めぐみは長い睫毛をぱたぱたと瞬きさせ、ガラスの家の中で藻のようにたゆたっている莉珠子に訴えた。
「心配でここに来たんです」
「何が?」
 めぐみは胸の前で両手を握り、喋る前に口許をきゅっと引き締めてから、
「おばあちゃんをレノンが殺してしまうんじゃないかって」

 もう一枚いける?って亜珠子さんに言われて…亜珠子さんの声が聞こえて宙に浮いていたわたしは床をふりかえったら、いつのまにかダイニングテーブルに腰かけて、ちゃんとマルゲリータを食べていたんです。
「ちょうどお皿のピッツァを食べ終えたところでした。たぶん三分、五分くらいだったんじゃないかしら。自分が空想、もしかしたら妄想に耽っていたのねと思いましたが、頭の中だけにせよ、あんまりはっきりと鮮やかな動画を見たので、目の前の亜珠子さんと藤さんのほうが虚像なんじゃないか、と混乱してしまった」
「はい、空想、幻影を見たのですね。亜珠子さんは何もおっしゃらなかったのですか?」
 パメラは椅子の背に上半身をもたせかけ、ゆったりとお腹の上で指を組んだ。その手つきが、幻影の終わりにあらわれた風間めぐみの思い詰めた仕草に似ていて、莉珠子はぎょっとする。パメラは莉珠子の幻視を見ていない…見られないはずだが、まるで脳内を窃視されているような気がする。
「あっちゃんは別に何も。ピザとアイスクリームを分けてくれて、コーヒーのおかわりをくれて。それだけです」
「それでは特に莉珠子さんは取り乱してはいなかったということでしょう」
「そうですね。わたしもそのあと普通に食べたり飲んだりしました。動揺を隠してわざと平静に振る舞ったわけじゃなく自分でもわけがわからなかったんです。リアルの時間ではきっと数分なのに、幻影はたっぷりとしていました」
「はい、夢はたいていそうです」
 パメラはエメラルドグリーンの瞳の焦点をクライエントの莉珠子よりも、どこか遠くへ投げて答えた。彼女の背景に翡翠のパヴォが見える。既に二か月に渡るこれまでのカウンセリングのどこかで、莉珠子がそのレリーフの由緒をパメラに尋ねたら、十九世紀に夭折したフランスの女流彫刻家の作品ということだった。
 その彫刻家を莉珠子は名前だけは知っていたが、天才を謳われた彼女の真作は世界に数少ないはずだった。そのような貴重な美術品が麻布のパメラのカウンセリングルームのインテリアにさりげなく飾られているのは、私設美術館の厳重な展示よりも自然で高貴な印象を作品に与えた。それにこんな巨大な翡翠は歴史的にも珍しいに違いない。
 パメラの相談料一時間十万円は、稀有な美術品鑑賞料込みということだ。
莉珠子は続けた。
「あたしは気が変になったんじゃないでしょうか? 夜の夢なら納得できますが、あたしの妄想はまっぴるま。ピッツァをひとかけ齧っている間にふわふわゆらゆらと、幽体離脱していったなんて」
「妄想とは言いません、莉珠子さん。あなたの場合、妄想という形容は過激で病的過ぎです。このごろメディアではわりと気軽に妄想という単語を日常レベルのファンタジーの表現として使うようですが、ふさわしくない。おそらくは視聴者の歓心をひくための露悪と媚態なのでしょうけれど、発した言葉は自動的にその言葉の器に等しいエネルギーを当人にひきよせる。社会現象の一端としてはかすかな兆しですが、日本語を愛するわたしは、危うい未来の予兆を感じるのです」
 うつむき加減に肩をすぼめていた莉珠子は顔をあげた。翡翠の孔雀を背にした金髪碧眼のパメラはパンテオンの女神のように厳かに見える。いや、男性にも女性にも見えるパメラの端麗は、このときデルフォイの神殿で巫女に託宣を告げる太陽神アポロの顔をしていた。
 莉珠子は弱々しい声で訪ねた。
「あたし、病気じゃないですか? このごろ…あっちゃんが元気になってから、あたしはおかしくなったみたいな気がするの。あっちゃんの中身がエイリアンかもしれないなんて妄、いえ想像したり、白昼夢を見たり。先生に精神科病院を紹介していただこうかなんて考えています。あの羽戸先生は精神科医ではないですよね」
「彼女は内科医です。六本木で医療関係の相談を受けていますが、莉珠子さんはその必要はまだないと思いますよ」
「まだ、ということはそのうち必要になるのですか?」
 莉珠子が蒼ざめて食い下がったので、パメラは笑顔を晴れやかにした。
「そう、誰だってそうです。深刻な悩みを抱いているひとなら誰しも、何かのきっかけで通院が必要にならないとは限りません。人間は誰しも少しずつ狂っている、と十九世紀の哲学者の喝破です」
「はあ」
「今日わたしは職域を超えて喋りすぎています。それはきっとあなたとあなたのお母様が他に類を見ないuniqueな運命の方だからでしょう。でもカウンセラーはクライエントに寛容を求めてはいけません」
「……先生と親しくなれるなら、悩みが解決しなくてもクライエントの領分を超えたいと願う人だらけじゃないかしら」
「それではわたしは命がいくつあっても足りません。話を戻しましょう。莉珠子、ピッツァをひとくち食べている間に長いまぼろしを見たからといってこわがる必要は全然ない。マルセル・プルーストはマドレーヌを紅茶にひたして口に含む、その数瞬間のうちに数百ページもの人生の物語を紡いだのですから」
「プルースト? 名前だけは」
 莉珠子はへどもどした。そんなグランドファンタジーをひきあいに出されても困る。

 夜明け前というのに早くも盛大な蝉時雨が森から湧き上がり、夏空を埋め尽くすかのようだ。太古の武蔵野を残した自然林をとりこむ大宮公園の駐車場午前四時前、蒼穹の中央にはなお淡く星影がちらつくが、広大な関東平野の東の空は薄茜に染まり、矢羽のかたちの太陽光線が地の底から放射状に空を飾り始めた。
「おはようございます」
 白とオレンジのキャンピングカーから降り立った峰元泰地は全身万遍なく日焼けした髭づらで、頭に手ぬぐいを巻き、紺色の無地Tシャツに白いジーンズを穿いている。ボトムが白でなければ、しっかりした体つきの彼はガテン系だ。人なつこい青年の笑顔は初対面でも莉珠子を緊張させない。
「はじめまして。長丁場ですがよろしくお願いします」
「僕クルマ好きだから安心してください。それと、念のためもう一人ドライバーを連れてきました」
「え?」
「ジンさん酔っ払いますからね。セーフティネットが要るなと思って」
 と泰地が言い始めたところでサイドドアが開き、ジンさんと風間親子がぞろぞろと降りてきた。亜珠子は自分と莉珠子の前に自然と横並びに並んだ面々をずらっと見て、
「三年は長いな。結構みんな成長したね」
「あっちゃんそれ何のこと?」
 亜珠子がうっかり口を滑らせたレノンの感慨を聴き洩らさず、莉珠子が追及しかけるのに
「ばかいえ、俺は変わらないよ。永遠の青年だぜ」
 生あくびを噛み殺しながらジンさんは知らん顔でうそぶいて莉珠子の質問をもみ消した。それに重ねて風間駿男は、
「あ野川さんですか、このたびは娘ともどもお世話になります」
 亜珠子に向かって顧客に対する殊勝な店長ジェスチュアで頭を下げた。亜珠子は惚れ惚れするような美少女スマイルおばさん口調で、
「その節はごめんどうをおかけしました。風間さんには御親切にしていただいて感謝しております。急に信州まで出かけることに決めまして、あれも御縁かしらと思って、ご多忙の風間さんに旅の道連れ、運転をお願いしたのですから、こちらこそ恐れ入ります、よ」
 最後の「よ」をちょっとアクセントして亜珠子は黄色い麦わら帽子の鍔の影から駿男にウインクした。駿男は他愛なく目と口を緩ませ、でれでれと、
「いや、ちょうど有給残ってましたしね。アゴアシつきにボーナス超えるpayいただけるなんてジンさんから聴いたら、もうこれはどうしたって行くしかないでしょ」
「ちょっと、パパ」
 めぐみは眉を寄せて父親の肘をつついた。すらりと背丈が伸びて駿男の肩より頭が高くなっている。小麦色に日焼けし、サンバイザーを被り、髪はポニーテールにまとめている。ピンクのタンクトップと白地にブルーの太いストライプの入ったサブリナパンツ。ハロー・キティの顔が乗ったサンダルはフラットだが、両足首には赤いビーズのアンクレットを嵌めていた。
腕時計もハローキティだ。
 好みのグッズはまだ幼いが、清楚に整った顔からうなじにかけて、夜明けの薔薇いろのような若い女らしさがもう滲んでいた。めぐみは子供の声だが大人の口調で挨拶した。
「亜珠子さん、莉珠子さんよろしく」
「こちらこそよろしくね」
 莉珠子は年長らしく返事をしたが、亜珠子は黙って微笑で応じた。めぐみと亜珠子の視線が合った瞬間、傍にいる莉珠子の眼にはサルビアの花壇からふわりとふくらんできた緋色のシャボン玉が見えた。数日前、藤さんと亜珠子と三人でピッツァを食べている間に垣間見た一瞬の幻影で、シャボン玉の中からめぐみが現れてこう言ったのだった。
「レノンがおばあちゃんを殺してしまうんじゃないかって心配なの……」
(そうだ、レノン、レノンて誰!)
 莉珠子は亜珠子を振り返った。黄色い麦わら帽子を被り、白いリネンのミニスカートワンピースを着た亜珠子のなかみは誰?
 これで全員揃ったわね、と亜珠子が甲高い声で宣言した。高く澄んだ亜珠子のソプラノは、単調でぶあつい蝉時雨に埋められた空間を、光る鋭い矢のように飛んだ。
 ジンさんが借りてきたキャンピングカーは八人まで車内に泊まれるキングサイズだ。二人並んで眠れる二段ベッドが両サイドに二つ付いている。外観より内部は広く天井が高くて、大人が立っても頭上窮屈な感じがない。ままごとのようだがミニキッチン、小型冷蔵庫もある。
「すごいわね、まるでペンションの一部屋まるごと車に乗せたみたいな感じ」
 亜珠子は面白そうに内部を見回した。奥のほうは収納スペースになっている。クルーの荷物が専用カラーボックスに仕分けられ、そこにきっちり積み重なった上に、立派な天体望遠鏡が剝き出しのまま置いてあるのに眼をとめ、
「これ誰の望遠鏡? ジンさんの?」
「そ」
 ジンさんはミニキッチンでコーヒーを沸かしながら答えた。車内禁煙なのでくちゃくちゃとガムを噛んでいる。
「そんな趣味あったの?」
 莉珠子が尋ねた。
 キャンピングカーのカラーと同じオレンジのラコステポロを着たジンさんはひゅっと
口笛を吹いて笑った。
「星を仰ぐのはロマンスだかんね。山紫水明の高原をキャラバン作って走るんだから、釣り竿とか天体望遠鏡とかのフィーリングアクセサリーは必須だろ」
「要するに見栄っ張り」
 ツアー金主の亜珠子にジンさんへの遠慮はなかった。ジンさんも平気で言い返す。
「あらゆる文化文明ってのはそもそも見栄と体裁が昇華されたもんだぜ」
 ジンさんが丁重な手つきで淹れたてのコーヒーを莉珠子亜珠子に配ったところに泰地が藤さんを介助しながら入ってきた。
「ありがとうありがとうまあ広いわね」
 藤さんは若い男性にかしずかれて嬉しそうだった。泰地は藤さんの手を握り、片手を背中に回していた。階段を登る際に麻痺の足がつらいが、段差のない平面歩行は介助があれば大丈夫そうだった。泰地は簡易テーブル前のソファに藤さんを座らせると、腰をかがめて藤さんの顔を覗きこみ、こめかみに汗の雫を滲ませた笑顔で訪ねた。
「藤さん、お腹空きましたか? サンドイッチあるけど食べる?」
 泰地の手を離そうとせず、藤さんは口を開けて若者より大きく笑った。
「はい、ありがとう」

「ルートは信州まっしぐらじゃないんだ」
 最初にハンドルを握ったのは泰地だった。助手席にはジンさんが座る。
「調布インターから中央高速乗って大月ジャンクションで富士吉田」
「いいけど、どこ行くの? って俺も暢気だよね、ジンさんのいい加減な口利きに釣られてホイホイ仕事休んじゃったんだから」
 泰地はサングラスをかけて苦笑した。長時間ドライブに夏の光はもうまぶしい。ジンさんは、煙草吸っていい?と尋ね、泰地が何も答えないうちに窓を開けてショッポに燐寸で火をつけた。
「燐寸の火のほうが煙草がうまいなんてジジイの感傷になっちまう世の中だ」
「なんでよ」
「猫も杓子も健康増進、国をあげての禁煙政策でさ。今や煙草は贅沢品だ」
「愚痴るなんて感傷以前だ。ジンさんしょぼいです」
「だな」
 ぷ、とジンさんは夜明けの街に紫煙のかたまりを吐き出して頷いた。図体のでかいキャンピングカーは窓から聞こえる排気音も重い。早朝の一般道は空いている。通勤ラッシュが始まる前に高速に乗りたいところだった。
「ところで今日の行き先は河口湖のどこ」
「河口湖オーヴァルプラザ。キャパ150人のホールだよ」
「てことは、豹たちと合流?」
「半分当たり。東京スタコラーズのライブ明日やるんだと。チケット完売だけど手を回した。だけど合流はしない。一夜限りのお楽しみさ」
「それ誰のさしがね?」
 泰地はゆったりと大きくハンドルをまわしながら車体を運ぶ。大型車両ほどではないにせよ、キングサイズのキャンピングカーは運転しにくいだろうに、泰地のドライビングはスムーズだ。ジンさんは感心して眺めた。
「君がそんなに車の運転うまかったとは驚きだよ。タクシー運ちゃんできるんじゃない」
「さんきゅ、今も週二回デイサービス行ってるからね、送迎はマイクロだもん」
「なるほど。だけど介護って堅気だろ。君の髭づらどうしたんだ。俺見違えたよ」
「へへ、おふくろのコネというか、福祉コミュの人手不足のおかげですよ。送迎ドライバーも若い男がいないコミュだから」
「福祉コミュか。あそこはほんと母ちゃんたちの善意で回ってる」
「知ってるの?」
「俺の娘神奈川県民だもん。福祉コミュのメインは神奈川でしょ」
「はあ、世間は広くて狭いね」
「だな」
 とジンさんはちらっと横目で泰地を眺め
「髭生やしたら男っぽくなったじゃない。どころか君結構イケメンだったのね」
「そうすか?」
「お、ばっくれやがった。最近銀座に来ないのは介護で忙しいからじゃないだろ」
「ええ、別な仕事もしてます」
「どっかの美術館の職員とか、風の噂」
「知りたい?」
 泰地はジンさんを見ずに笑った。
「こないだうちでシャワーが歌ったぜ」
 ジンさんは泰地のストレートジャブをひょいとかわしながらサイドを狙う。泰地は、ふん、と鼻で呼吸しただけで答えない。
 シカトされたジンさんは多少いやみな声音になった。
「彼女の歌変わったな。いやリンスじゃなくシャンプー。凄みが出てきた。前はきれいかわいい純情路線だったのによ」
「そうすか」
「年増の色気かなあ、なんて」
 節を付けるように畳みかけてジンさんはショッポを吸って吐いた。聞いている泰地の運転はなめらかで変化がない。
「彼女も三十ですからね。歌詞に凄みが出たんなら成長したってこと」
「君はいくつだっけミネちゃん」
「二十七歳」
 ほう、とジンさんは黙った。下りの道路には少しずつ車が増えてくる。やがてインターチェンジだ。信号待ちで泰地はすばやくカーポケットからCDを出した。
「かけてもらっていいですか?」
「シャワーの? やっぱりな」
 ちぇ、とジンさんはぶつぶつ言いながらインストールした。信号が変わり、アクセルをやや強く踏み込んで泰地は言った。
「働きながら通信で勉強してます。社会福祉士とろうと思って」

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