さゆらもゆらに水晶虹彩

時間と空間のむこうがわ……夢うつつのはざまに揺れて透かし見える水晶虹彩のものがたりをつむぎます。

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ブルドッグ・クッション  Pth 9

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   ブルドッグ・クッション

 亜珠子と並んで眠るのは久しぶりだった。久しい、という形容詞がふさわしくないほど遠い昔のように莉珠子には感じられた。
「驚いた、意外に気持ちいいわね」
 莉珠子の隣に上がり込んだ亜珠子は浮き浮きした声で言い、細い脚を宙に投げる感じで勢いよくころんと仰向けになった。キャンピングカー本体がキングなら簡易ベッドはクイーンだ。もちろんコンパクトサイズだが、マットは硬からず柔らかずぎず、人体の凹凸を適度に吸収して上等な寝心地をくれる。清潔なのは言うまでもなく、軽い夏掛けからほのかなジャスミンの香りがした。
 二段ベッドの各階は安眠を保証するためにオプション・コックピットに設計されている。亜珠子が枕元の液晶ボタンに触れると、すうっと薄いシャッターが天井から降りて、ちょうどシングルベッドの大きさの箱型密室になった。それで窮屈になるかというと、ベッドの真ん中に仕切りがあるそれぞれのマットは人体が横になるかたちに添って中央が緩い曲線で窪んでいる。寝がえりしても気にならない快適なサスペンションで、二人が別々に寝ようとするなら、繭のように柔らかく体を受容してくれる。コックピット内の二人が寄り添ったとしても、繭はやんわりと彼らの欲求を容れてくれるだろう。
「うわ、密室ね、なまめかしい」
 くくく、と亜珠子は鳩のように喉で笑った。「防音になってるのかな、このすべすべしたカバーは」
 莉珠子は肌色の厚い帆布のようなシャッターの繊維を撫でながら言った。
「そこまでは」
 亜珠子がつぶやき、莉珠子が応じなかったので会話に小さな沈黙が入り込んだ。そのまま莉珠子は眼をつぶった。眠気は膝上まで昇っている。無理して夜明けに起きたのだが、RKの効果はもう切れる。そのほうがいい。母親の亜珠子とコックピットに二人きりになるのは自然だし怯えているわけでもないが、もうこのごろは、いつなんどき亜珠子に向かって彼女の正体を詰問してしまいかねないほど、亜珠子が亜珠子でない誰かの器になっていることを確信しているからだった。
 莉珠子が黙ったまま狸寝入りをきめたので向こう向きの亜珠子も寝息を立て始めた。耳の中で亜珠子の規則正しい呼吸と蝉の声、道路の騒音が混じり合う。他のクルーはどうしただろう。ジンさんと泰地が運転席で、風間親子とそれから藤さん。
(ポーンはどうしたんだろう。あれっきり音沙汰がない)
 ふいに心配になった。胸元まで這い上がっていた眠気が十センチほど後退する。
「あっちゃんまだ起きてる?」
「もちろん」
 寝息の亜珠子から思いがけずしっかりした声が返って来たので莉珠子は驚いた。
「シーザーの監視カメラはこのクルマにも入ってるよね?」
「もちろん」
 明快な声だった。
「あっちゃん、いつからシーザーと知り合いになったんだっけ。あたしそのことを聞いていなかった」
 亜珠子は寝返りを打って莉珠子のほうを向いた。長い睫毛をぱちりと拍手のように一回閉じて開き、にこっと笑った。
「おぼえてないの」
 ぬけぬけとした亜珠子の返事に莉珠子は思わずがばっと跳ね起き、クルマの天井に頭をぶつけた。
「いたっ。ちょっとそれどういうこと?」
「そんなに驚くことないじゃない。あたしはついこの間まで若年性認知症だったんだから記憶障害があって当然でしょ?」
 それもそうだ、と莉珠子は言い負かされて力が抜けた感じでベッドにうつ伏せた。
「心配することないわ。銀行口座をチェックすれば、いつからシーザーがあたしたちを食い物にし始めたか一目瞭然。あたしとシーザーの情緒的ななれそめなんかうやむやになっても、金の流れは隠しようがない」
 それもそうだ、と莉珠子は自分の両腕の上で頷いた。それからまた、
「シーザーに会ったことある?」
「たぶんね、あるんでしょ、いえ、ないかもしれない。あたしの脳味噌の海馬にはそれらしい画像は一枚もないわ」
 亜珠子も莉珠子と同じようにうつ伏せになり、組み合わせた両手の上に顎を乗せた。二人は二匹の小動物のように同じ姿勢で並んだ。
「もしあたしに鮮明なシーザーの記憶があっても、それが本物かどうかわかりゃしない時代よ、りっちゃん」
「マインドコントロールされてるって?」
「そう。あたしは二十年以上コーマだった。その間にシーザーが自社のテクノロジーを駆使して、エイジレス眠り姫亜珠子の脳味噌をいじり、自社に有利な記憶画像や動画を巧妙にインプットしていたらどうなる? 目覚めたあたしの人格までシーザーのロボット、言いなりになっているとしたら」
「やだ、ぞっとすること言わないでよ。それSFアニメかゲームの世界」
「現代と近未来にはありうる話よ。あたしはそれでおかしいのかもしれないわ。あたし自身にもわからないけど」
 亜珠子は睫毛を伏せてしんみりした口調で言った。白い横顔を寝乱れた長い黒髪がひとふさすっとすべり落ち、そのまま肩先にはらはらと散りかかる。
「あっちゃんはシーザーやポーンのお人形にはなってないよ」
 はかなげな亜珠子の風情に、気のいい莉珠子はつい庇う気持ちになる。
(そうか、そういうことかも。あっちゃんの変さは、もしかしてシーザーの? でも)
「でもだったら亜珠子さんはキャンピングカーで信州へ行こうなんて言わないでしょ」
 亜珠子は自分の額髪を指でかきあげ、眼を細めて両方の口角をきれいに吊り上げた。亜珠子が本当に笑っているのか莉珠子にはわからなかった。それまでの微笑に氷を乗せて無理やり引っ張り上げた感じの笑顔に見えた。
「あたしが誰の人格を持っているかなんてどうだっていいのよ。シーザーに利用されていようと、認知症のままだろうと、肝心なのは、今を生きて歩いているあたし自身が、あたしの人生を楽しんでいるかどうかってこと」

 ついたわよ、と肩を揺すられて莉珠子は眼を覚ました。
「湖についたの」
 頭の芯どころか、まだ全身がだるく瞼も開かない。東京を四時半に出発し、亜珠子とお喋りしているうちに、いつしかことんと眠りに落ちた。最初の目的地は信州ではなく、隣の山梨県のなんとか湖だったから、多分まだ三時間、四時間ほどしか眠れていない。これっぽっちではとても覚醒は無理。あたしは嗜眠症だから到着しても夕方までは眠らせてね、って伝言したのに。
「お姉ちゃん,起きてください」
 可憐な声が莉珠子の鼓膜をぴしりと打つとなぜか莉珠子の瞼は新しいがま口財布のように、ぱっちりと小気味よい音をたてて開いた。
「メグちゃん。ありがとう」
 起き抜けジェスチュアの定石どおり、莉珠子は手の甲で瞼をこすりながら半身を起こした。隣に亜珠子はいない。
「山梨県?」
「こっちへ、さあ」
 めぐみはぽちゃぽちゃとまだ子供っぽい腕を伸ばして莉珠子の手首をつかんだ。十三歳の少女の皮膚はどこもかしこもみずみずしく柔らかで、しっとりと湿ったような感触がする。
 うながされ、手を引かれた莉珠子は朦朧とした頭のまま、キャンピングカーのサイドドアから湖畔の駐車場に降り立った。
「風が涼しいわ」
 新鮮な外気を深く吸い込んで莉珠子は喜んだ。豪華キャンピングカーの完全空調とはいえ、密室の車内とは大違いだ。大都会東京、関東平野のうだるように汚れた熱気はここになく、鼻腔から喉、肺へと流れこむ清涼に、体の中から浄められる気がした。
 それほど広くない駐車場は舗装されておらず、足元は自然の黒土のままだった。ところどころに朝顔やヒルガオ、紫苑などの野花が咲き、轍の凹凸を埋めるために砂利が敷かれている。整備された駐車場ではなく、ただの空き地という感じで、周囲は西洋古典絵画のようなこんもりと暗緑色の深い森だ。呼吸する空気に朝霧に濡れた樹木の薫りが混じっている。
 さえざえと高鳴きの始まった夏鶯に耳が驚き、目の前にひろびろと風凪わたるさざなみに眼を奪われた。鶯は二声,三声とコロラトゥラを誇らかに歌い続け、ソリストの背後を飾るように蜩の鈴振り声が湧き上がる。
 山と形容するにはおだやかな曲線の丘陵が湖の周囲に重なり合い、その斜面をゆるやかに朝霧が上空へ動いてゆく。山襞を這う白い霧は深山の森が呼吸しているように見えた。
今何時だろう。お日さまはどこだろうと空を見上げたが、夏の朝曇りのためか高原の気候のせいか、朝陽のまばゆさは見当たらない。
 それに他のクルーはどこに行ったのだろう。
「メグちゃん、お父さんとか亜珠子さんはどこ?」
 メグは莉珠子の手を握ったままだ。横顔の顎を軽く上向けて、片手をまっすぐに上げ
「あそこに藤さんがいる」
 湖の低い波打ち際に薄紫のカーディガンとピンクのジャージを穿いた藤さんの後姿が立っていた。綺麗にまとまった白髪がふんわりと優しく、まるい撫で肩の両肩から手先まで、朝礼の小学生の「気を付け」の姿のように体の両脇にぴたっとつけている。
「藤さあん、どこに行くの?」
 莉珠子とメグは手をつないだまま小走りに藤さんに近寄ろうとした。
 藤さんは後ろを振り向かず、そのまま湖の中に入ってゆく。ズックを穿いた足首からふくらはぎ、膝……どんどん湖水にひたってゆく。
「危ない藤さん、海よりも湖は突然深くなったりするんだから」
 莉珠子は叫んだ。
「大丈夫だよ、他にもいっぱい子供たちが泳いでいるじゃないの」
 頭の中で藤さんらしき声が聞こえた。その声は鼓膜から聴覚に入ってきたのではなかった。なぜなら声と同時に藤さんの姿は崖から足を踏み外したように湖に没してしまったからだ。莉珠子は悲鳴をあげた。
「メグちゃん、みんなを呼んできて」
「心配しなくても大丈夫、他にも大勢泳いでいる子がいるから」
 ひっそりした声似たような言葉でメグは答え、莉珠子を見上げた。メグの両目が鮮やかなコバルトブルーに変化している。青い宝石のようだ。
「大勢って、どこに?」
 ほら、と再びメグは片腕をまっすぐ持ち上げ湖面を一本指で示した。
 さきほどまで朝曇りの平らなさざなみがゆったりと動いていた水面に藤さんが沈んだあと、どこから現われたのか、沢山の子供たちが水遊びしていた。赤や黄色、緑に紫……色とりどりの原色の水泳帽をかぶり、数十人、数百人の子供たちは、まるで屋内プールで泳ぐように湖面を右往左往しながら遊んでいる。
 いや、遊んでいるようには見えなかった。
 なぜなら子供たちには首から下の体がなく、スイミングキャップを被った頭だけが水面をボールのように動き回っているからだった。首も腕も見えない。そして子供たちには表情がなかった。苦しんではいないが笑顔でもない。七色のゴム帽子を被った無数の人形の首だけが銀色の湖面に漂っているかのようだ。
「メグ、あの子たち体がないわ」
 莉珠子が震え声で言うと、
「そう、頭でっかちだから仕方ないの」
 メグには動揺がなかった。あたりまえの景色のように湖を見渡し、内部から光を放つ青い眼で莉珠子を見つめ、
「それでもこっちの方よりましなの」
「こっちって?」
 莉珠子の手を握ったまま、メグは二人の手で後ろを指した。キャンピングカーを停車した駐車場のほうだ。
 うわ、と莉珠子はすくみあがった。野花が咲き、砂利が敷かれていた森の中の空き地は
黄土と褐色の混じった泥土と化し、莉珠子たちの乗ってきた白とオレンジの素敵なキャンピングカーは後ろからその泥沼の中へはまり込んでいた。ず、ず、と重荷をひきずるような音が鈍く不吉に聞こえ、巨大な車体は見る見る地中に沈んでゆく。中にはまだクルーが眠っているはずなのに。
「亜珠子さん、ジンさん、逃げて!」
 絶叫する莉珠子はメグの手をふりほどこうとした。が、メグは莉珠子を離さない。
「水が多すぎて藤さんは人身御供になったのよ、あの子たちも」
 何わけわかんないこと言ってるの、とメグを突き飛ばそうとした莉珠子の両肩は、もう一度新しい力で揺さぶられた。
「野外リハ始まるわよ、まあ凄い汗」
 視線を返す……眼を開けると真正面に上機嫌の亜珠子の顔があった。カナリア色の何かを身につけているようだ。
「何ですって?」
 莉珠子の聴覚には自分の絶叫の響きが焼き付いている。黄色い声だ。それでは今自分の網膜に映っているイエローは亜珠子の衣服の色ではなく自分の声の残像なのかしら?
「もう五時過ぎ。ジンさんの友達がここでジャズロックやるんだって。そのリハ―サルが今から」

 湖畔の日没は、山肌がまず樹相の細部を消すと全体になめらかな紺青となってかき暗がり、山並みの上の空と湖面は等しい明るさをいつまでも保っていた。大気が澄んでいるので、くっきりとした稜線や木立ちのシルエットが天空との境目で精巧な切り絵のよう潔く見える。透明な夕べの空のところどころで、夜には一等星の輝きを放つ夕星たちが、今はまだ夕焼けの茜を帯びてきらめいていた。
 キャンピングカーが今夜停泊するのは水のほとりからやや離れた道の駅で、莉珠子が車外に降り立つと、莉珠子たちの車ほどデラックスではないが、何台かのキャンピングカーとミニバン、ワゴンなどが今夜のキャンプの準備を始めている。
ちょうど夕景の富士山が鮮やかに見える。濃い群青の裾山を従えた真夏の大富士は、地上とは隔たる高嶺の空気を偲ばせて、見る目に冷たい銀青色と滅紫色で堂々と聳えていた。刻々と日没が深まる中で、空にはそれほどはっきりと夕陽の朱が見えないのに、富士山のひややかな青味の周囲は、あたかも霊山の後光のような茜いろの深みを空間に加えている。美しかった。
「富士日和だ、俺ら運がいいねえ」
 まずジンさんの声が聞こえ、すぐにキャンピングカーの裏手から本人と駿男が連れだって現われた。駿男はオレンジ色のエプロンをかけている。
「や、おはようございます。眠れましたか」
 莉珠子を見ると駿男はエプロンの裾で手を吹きながらにこにこした。ぱっと見はとぼけた印象で、よく見ると適度に角と起伏のあるなかなか立派な顔立ちだが、駿男の雰囲気には泰地同様にまったく険がなかった。
めぐみは父親似だろうか母親似だろうかと莉珠子は駿男を眺めて二人の顔をだぶらせた。少しずつは似通うが、ぴったりとは重ならない。めぐみは母親の血が濃いようだ。早くに死んでしまったという母親の写真を見たいな、と莉珠子は思った。
「パパが御飯の支度ですか?」
 莉珠子が驚くと駿男はうんうんと二度頷き、
「バーベキューとお好み焼きですよ。誰がやっても失敗ないのね。ぼくクッキングパパなんで」
 へえ、と莉珠子は眼を瞠った。オヤジ二人が現れたほうを透かし見ると、キャンピングカーの腹を開けてバーベキューテーブルと椅子、素材や調味料などの缶壜類がごたごたしていた。そのときほつほつと駐車場のあちこちの電灯に明かりが点き始め、あたりはふわりとした暖色の快さに包まれる。湖畔の清涼は橙色の光を帯びても変わらなかった。素肌の二の腕が薄冷たいほどの夜気だ。
「みんなはどこ?」
「先にコロンのライブに入ってます。ぼくらも行きましょう。夕飯はリハのあと東スタの連中といっしょにって」
「風ちゃん、そんなに食材あるの?」
 ジンさんの質問に駿男は澄ました顔で、
「買ってくればいいですよ。地野菜とか地酒とかスーパーで。何もここ絶海の孤島じゃないんだからね」
「だな」
 とジンさんはジーパンの後ろポケットからウイスキーの平たい小瓶を取り出し、くいっと飲んだ。莉珠子は亜珠子に尋ねた。
「コロンて?」
「近くのペンションのオープンカフェバー。湖の籠って書いてコロンと読むのよ。おしゃれよね。明日湖畔のオーヴァルプラザで東京スタコラーズってバンドがライブやるんだけど、そのリハを兼ねて今夜はそこで」
 亜珠子のすらすらとした口上を聞かされて莉珠子は眼を白黒させた。目が覚めたとき亜珠子に黄色のイメージが映ったが、目の前の彼女は湖よりも深いマリンブルーのカットソーを着ている。
 長い髪が背中に垂れて、傍をすれ違うひとびとは亜珠子の顔の前で呼吸を変えて可愛らしい顔を見つめ、その後もう一度、ひかがみまで届く長い髪の光沢に讃嘆の眼を瞠る。莉珠子と亜珠子は顔立ちはそっくりなのだが、滝のようなぬばたまの髪の妖艶が亜珠子を常ならぬミステリアスに見せる。
莉珠子は亜珠子に尋ね返す。
「東スタ何?」
「東京スタコラーズ。ジンさんと風間さんのお友達」
「が何人か入ってるってことだよ」
 すかさずジンさんが享け狙いのフォローをぺらぺらとまくしたてる。
「全員友達じゃなくて、友達の友達は皆友達全世界ファミリーってこと。リーダーのフルートが一番古い友達でピアノマンは甥っ子」
「ジンさん結構な人脈ね」
 莉珠子がおだて加減に驚いてみせると、ジンさんはまなじりにハンカチのような皺を寄せてウインクした。
 湖籠は駐車場から山の方に歩いて五分ほどの距離で、赤レンガと樫の太い木材を山小屋風に組み合わせた三階建ての宿泊施設が三分の二を占め、道のほうの手前が隙間に何種類ものハーブを植えこんだ荒削りな組み石のエントランスだ。レストランの正面は地面より一段高い敷石になっていた。
 もう必要ないはずだが屋外のカフェには日よけの大きなパラソルが開かれ、十脚ほどのテーブルが気ままな感じで置いてあり、ペンションの宿泊客らしいラフな身なりの家族連れ、客たちで埋まっている。テーブルの上には電気キャンドルが光っていたが、まだ夏の宵のほうが明るかった。
 リハのバンドはどこかしらと莉珠子が首を伸ばして店の奥を覗くと、外光の届かないカウンター周りの暗がりの中で、音響機材のがちゃがちゃする音といっしょに赤や黄色の光がちかちかしている。まだどこにも照明は点いていない。戸外より店内のほうが客が詰まっている感じだ。湖の匂いを運ぶ夕風とは異なるクーラーの乾いた送風が内から外へ来る。
 闇に目が慣れると、丸いステージいっぱいにグランドピアノが一台。その前に誰かが座っているのが見える。ピアノもプレイヤーも今はただの黒いシルエットだ。弦楽器を調律する気配。管楽器…多分アルトサックスの試し吹きは、喉の細い少年の抑えた笑い声のようだ。酒を注ぐ薄いグラスの触れ合うかちゃかちゃという軽い音、ビールジョッキの音はがちゃがちゃと鈍い。ざわめき、リゾートを満喫する大人と子供の声が雑多に入り混じるテラスで洒落たアミューズメントが始まる。
 ぱっとカクテル光線が点いた。素朴でちょっと野暮ったい、古いタイプのミラーボールがピアノの横に立った歌手の頭上でくるくると間延びした速度で回る。そこへいきなり、
 ゆうぅやあぁァけこやぁァけえぇのぉォあぁかぁとぉんぼおおおォォ
 民謡歌手顔負けの節回しにこぶしをきかせ、母音を思い切り引っ張り、マイクなしのアカペラで歌い出した歌手は黒人の少女だった。チリチリアフロヘアにミニーマウス顔負けの巨大ドットピンクリボン。真っ赤なミニスカートワンピースの裾と袖口には金魚の背びれのようなフリルがついている。フェティッシュな超ハイヒールはルージュとお揃いシグナルレッドだ。ヴォリュームのある胸を揺すって歌われる赤とんぼは拡声装置なしでも真夏のテラスに十分に行き渡り、小さい子供たちは喜んで手を叩いた。赤とんぼだってママ!
 しっ、と優しい叱責がどの席から聞こえたのかわからない。
 1フレーズを歌い納めた歌手がにっこり笑って客席に手を振る数瞬の間に、カクテル光線は転がし照明を加えて華やぎを増し、溶暗の中から浮かび出たバンドマンたちが賑やかに赤とんぼのジャズアレンジを始めた。歌手以外の衣装はみんな上下黒ずくめだ。ピアノ、フルート、サックス、パーカッション、それにチェロとベース。弦楽器以外のメンバーは十代から二十代そこそこに見える。チェリストは中年の女性で、シルクハットをかぶった白髪のベースはジンさんより年配に違いない。この編成ではやはり真っ赤なミニワンピのブラックガールが目立つ。
「あの子すごいナイスバディ」
 莉珠子がジンさんに耳打ちすると、
「へへ、アフリカつうんだよ。ンとにいい声だよな。CMソングとかも歌ってるらしいけど、ルックスもパンチある」
「うん、スゴイ可愛い。ちびくろサンボが女の子でグラマラスに大きくなった感じ」
「おーぴったし」


  いつもあたしは誰かといっしょ
  ひとりになることがない
  抱きしめられてキスされて
  可愛いだいすき離さない 
  そして突然
  くしゃくしゃに踏んずけられる
  とどめの一言で愛してるなんて
  あたしの顔をちゃんと見て
  わかってるんだから
  あたしはクッション
  あなたのでたらめな言い訳で
  いつもへこんでクッション
  愛してるなんて
  嘘のかたちにあたしは凹む
  愛の深さで女が窪む
  抱きしめられてキスされて
  くしゃくしゃクッション
  LOVING

  いつもあなたはあたしといっしょ
  あたしはあなたの用心棒  
  別な子があなたに色目を使ったら
  おそろしい顔で唸り声
  そのとき思いきりブスになるの
  あなたはあたしにお尻を乗せて
  もてる男はどんな気分?
  あたしをへこませて
  あなたはいい気分 
  ふざけてるクッション
  あたしはクッションブルドッグ
  女同士はブルドッグ
  イケメン気取りのあなたなんか
  あたしってブス
  最高の美女顔はただ
  あなたのために
  LOVING

  犬を騙すように女を使う
  それしかできないブルドッグ
  あなたは迷子のブルドッグ
  クッション抱えて男はさびしい
  ただいい気分でセッション
  現実は寂しいクッション
  くしゃみをすればハックション
  ブルドッグクッション
  言いなりに踏める女が可愛い
  可愛いだいすき離さない
  あなたの愛もブルドッグ
  ぼこぼこに愛されて
  でこぼこなかたち
  最高の美女顔はブルドッグ
  あなたは迷子のブルドッグ
  ブルドッグクッション
  LOVING


 河口湖オーヴァルプラザは湖畔に近い多目的ホールだった。白い半円ドームを中心に、両翼にピラミッド型の張り出しスペースを設けている。中央ドーム真下がキャパ百五十人のシアター兼コンサート会場、天井までの吹き抜けを持つ両ウィングはギャラリーと喫茶、書店などを兼ねている。中に入ると構造部分に角や直線はほとんど見えず、全体にまったりした楕円形になっていた。ギャラリーの底面積はそれほど広くないが、天井が高いので、彫刻や、多様な素材を組み合わせる立体アートの展示などに適していた。
 東京スタコラーズの公演の日、オーヴァルギャラリーに県内外の視覚聴覚障がい者のアートが展示されていた。この数日後の河口湖湖上祭と連動して地元商店街が主宰するコンサートも、チャリティーとメセナが半々だそうだ。
 午後六時の開演一時間前にプラザに入った泰地は、ギャラリー脇の喫煙コーナーでくつろいでいるジンさんにばったり出くわした。
「あれ、早いね」
 ジンさんは垂れ目を細くして、パイプ椅子に座った銜え煙草のまま泰地を見上げた。
「そっちこそ。ジンさんは楽屋でアフリカべったりかと思ったよ」
「そら、そうしたいとこだけど本番前に子分にちょっかい出すと大将の機嫌が悪くなるから遠慮すんだ」
「へえ、ジンさんでも遠慮すか?」
「あいつには麻雀の借金があるんだよ」
 泰地はもうジンさんを相手にするのはやめて、ギャラリーの方へ行った。
 ホールには今夜の観客が集まり始めていて、思い思いに展示を眺め、気に入った作品の前で立ち止まり、自由に触ったりしていた。
 視覚障がい者の作品エリアの一部は触れてもよいことになっていた。そこにはこんなキャッチコピーが添えられている。
  
わたしたちの手触り
  わたしたちの呼吸
  わたしたちが聴き取ったもの
  わたしたちの嗅いだ匂い
  あなたに伝わったなら
  それがわたしたちの作品
  大事に受け取ってくださいね

 はこ、という作品があった。一辺が十五センチほどの白い厚紙の正六面体で蓋がない。
手に取ると、かさかさ、さらさら、すすす、コロコロ……乾いて軽い雑多な物音が内側で動くのが聞こえる。両手で強く揺さぶったが軽い雑音の騒動が早まるだけで、何が入っているのかわからない。
(なんだろう、ゴミの少ない屑籠を振ったらこんな感じだ)
 もうひとつ手にとった。こちらも大きさは似たような正六面体だが、それぞれの面には新聞紙、つるつるした挟みこみの広告、デパートの包装紙などがきちっと貼り付けてある。
持ち上げて同じように振ってみると、今度は軟らかく薄い紙屑のかたまりが揺れる気配がする。これも蓋がない。
(外箱が白紙じゃなくて新聞、ラッピングペーパーなのにも理由があるんだろうな)
「なかみ、おわかりですか?」
 ギャラリーの学芸員らしい若い女性が泰地の後ろから声をかけてくれた。泰地は箱を両手に持ったままふりかえり、
「わかんないです。紙か、小石か葉っぱ?
紙屑みたいだけど」
 学芸員は頷き、
「この作家さんはだいたい一か月に一個作られるそうです」
 泰地は頷いて展示台を見た。十二個ある。
「一年分ですか。どういう方?」
「眼の不自由な女性なんですけど、箱にはすべて副題がついています」
 彼女の指さす先に泰地が目をやると、箱が置いてあった場所には、眼立たない大きさの紙に目立たない鉛筆書きで「風の音」と書いてあった。
「風の音?」
「はい。この女性に風の音を伝えてくれたいろいろなものを集めて箱にいれたのだそうです。葉っぱ、小枝、雑誌のページ」
「なるほどそれは風ですね。じゃこっちの包装紙の箱のなかみは何ですか」
 言いながら泰地が下を見ると、同じような鉛筆書きで「視線」とある。
「視線。箱の中に視線が入ってる?」
「はい、ちょっと悲しいエピソードなんですが、この方が就労支援を受けて面接に行った先で手にしたいろいろなものが入っています。
この方は全盲ではなく弱視なので、民間企業で働きたくていろいろ努力されたそうです」
 そこで学芸員は言葉を控えた。
「そうですか。今はどうなさってますか」
「在宅で。ここに陶芸作品なども出されてますよ」
 学芸員は少し離れた場所を手で示した。備前か益子に似た壺や皿がある。
「そうですか。箱にはどんな視線が入ってるんでしょうね」
「はい。痛かったそうです」
「あ、それで」
 泰地は耳元で「視線」の箱を揺さぶった。ひそひそと紙の繊維がこすれる感触といっしょに、硬いひややかな音も聞こえる。ホチキスの針か縫い針か、あるいは挫いたカッターナイフの刃かもしれない。

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